本田技研工業フットボールクラブ
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本田技研工業フットボールクラブ(ほんだぎけんこうぎょうフットボールクラブ)は、日本の静岡県浜松市を本拠地とする日本フットボールリーグ(JFL)に所属する社会人サッカークラブ(実業団)。呼称は「Honda FC(ほんだエフシー)」であり、以下の文章からは基本的に呼称で表記していく。
目次
概要
1971年、本田技研工業浜松製作所浜友会サッカー部(後述)を母体として本田技研工業サッカー部(以下「ホンダサッカー部」)として創部。
ホームスタジアムは同市北区都田町にあるホンダ都田サッカー場で、JFL以外のクラブも含め日本国内で数少ない「クラブ自身が所有する自前の」スタジアムである。下部組織も有している。
過去に2度Jリーグクラブ化の構想があったが、いずれも実現していない。1999年のJFL参入以来、優勝4回・2位4回の成績を残し、しばしば「Jへの門番」と目されることがある。
マスコットキャラクターはチームのシンボルマークでもあるツバメをモチーフとした「パッサーロ(Passaro)」。
Honda FCのトップチーム所属の選手・指導者はプロ契約の者を除き、試合の無い日は、午前中は本田技研工業株式会社(以下「ホンダ」)の正社員として浜松製作所内に勤務、午後からはフットボーラーという生活を送っている。また、直接的な運営にはホンダ浜松製作所内に設立された「Honda FC 事務局」のスタッフが関わっている。[1]
このクラブのJリーグクラブでいう親会社にあたるのは、クラブ所在地でもある浜松製作所ではなく本社である。なお、本社はクラブの方針に関わる権限を持ち合わせている。
歴史
本田技研工業サッカー部 (1971年-2001年)
- 創設~Jリーグ開幕前まで
1971年に創部。1972年に静岡県リーグに加盟。1973年には東海社会人リーグ、1975年には日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格。1981年には同1部に昇格し、以降1992年に終了するまで、トップカテゴリに居続けた。なお1989年に開催された第1回フットサル世界選手権(現:FIFAフットサルワールドカップ)に出場した日本代表は、ホンダサッカー部の選手で構成されていた。
90年代初頭、国内のトップカテゴリがJSLからJリーグへ移行する際、本拠地である浜松市内に第一種の競技場がなく、行政の協力も期待できなかったことから、誘致要請のあった埼玉県浦和市(現・さいたま市)に本拠地を移転し、浦和ホンダウィンズとしてJリーグへ参加することが検討された。しかし、チーム関係者の間には「浜松を本拠にJリーグへ参戦したい」とする意向が根強く、結論が出ないまま91年にJリーグへの初年度参加見送りを発表した。当時は国内経済の悪化からホンダ本社はカーレースF1からの撤退を表明していたため、サッカー部のプロ化見送りに関しても、F1同様に「本業主義のため」という論理付けがされた。
このため当時のレギュラー選手の大半は、92年までにJリーグ参加チームへ移籍した。中でも鹿島アントラーズへは監督の宮本征勝(1990年にホンダサッカー部監督退任)・ヘッドコーチの関塚隆(1991年に現役引退→早稲田大学ア式蹴球部監督)を筆頭に、黒崎久志・長谷川祥之・本田泰人・内藤就行・入井和久・千葉修らが移籍し、日本リーグ最終シーズン直前に読売サッカークラブへ同ジュニアユース出身北澤豪や同クラブを前身としたヴェルディ川崎へは石川康などが移籍した。奇しくも鹿島・川崎の両チームは、Jリーグ元年である93年にチャンピオンシップを争った。
- リーグカテゴリー再編~ジャパンフットボールリーグ時代
その後、ホンダサッカー部はJリーグ創設によるカテゴリ再編により92年からジャパンフットボールリーグ(以下、旧JFL)1部に参加した。しかし、先述の通り、レギュラーの大半を失ったチームは10チーム中9位に低迷し、翌1993年は同2部に降格したが、同年では2部優勝を果たす。翌1994年には、旧JFLが16チームによる1部制に再編され、それを機に現場サイドでJリーグ参戦へ向けた3年構想が始動した。これにより、前年にJリーグへ参戦したジュビロ磐田から戦力外通告を受けたバウテルや東川昌典らを補強し、翌1995年には柏レイソルから戦力外通告された呂比須ワグナーらを補強した。
1996年には日本サッカー界に精通したエスピノーザをヘッドコーチとして招聘し、ヴィッセル神戸・鳥栖フューチャーズ・コンサドーレ札幌などのJリーグ参加構想チームと、東京ガスサッカー部を加えた熾烈な上位争いを制し、見事優勝を飾った。
これを受け、翌97年にはホンダ本社所有のスタジアム(Honda都田サッカー場)に50億円を投じ、改築することで懸案だったスタジアム問題を解決する見込みを立て、浜松F.CとしてJリーグ準会員チームとなった。この時、ホンダ本社は浜松F.Cの株式約6割を引き受けて筆頭株主となった他、ダイドードリンコなど著名な企業が大口スポンサーとして名を連ねた。
しかし当時は史上最悪の製造不況および通貨危機前夜の時期であったため、産業都市である地元・浜松市内では地元紙などの影響からホンダサッカー部のJリーグ参戦に対し否定的な見方が支配的であった。故に浜松F.Cの経営陣は大きく動揺し、最終的に「時期が悪い」との判断に達したことから一連の構想を白紙撤回した。その後、ホンダ本社の方針もあり、プロ契約選手を減らし、選手全員がホンダの社員として社業にも従事する、いわゆる「完全なアマチュアチーム」へと、徐々に移行し始めた。
- リーグカテゴリー再編~日本フットボールリーグ時代
1999年、旧JFLに所属するチームの多くは新たに創設されたJ2に参戦したが、プロ化を断念して「完全なアマチュアチーム」へ移行し始めてから間もないホンダサッカー部はJ2には参加せず、創設された新たなJFL、日本フットボールリーグに所属した。最初の2年間はチームの動揺が尾を引いて横浜FCの連覇に屈したが、横浜FCがJリーグ加盟で抜けた2001年度のリーグでは優勝した。同年、ホンダ本社は、2002年から選手とのプロ契約を行なわず、社員選手のみでチームを存続させることを決定する。これはJ3リーグ誕生前年である2013年まで続くことになる。
本田技研工業フットボールクラブ (2002年-)
2002年、「本田技研工業サッカー部」から「本田技研工業フットボールクラブ」に改称(呼称は「Honda FC(Honda FOOTBALL CLUB)」)。この年から12年間、選手は社員のみであること、毎年の補強が高校卒業(ユースからの昇格も含む)か大学卒業の新卒選手のみとなるが、現役でない新卒選手の加入するという例もある。ただ、大学校や専門学校、専修学校や各種学校からの新卒選手加入実績は未だ無い。
並行して、所属選手がプロ選手としてJリーグに挑戦する際には快く送り出すこれまでの方針は変わりなく維持されることとなる。その主な例として、2004年には前年のJFL得点王だったFWの古橋達弥がシーズン途中でセレッソ大阪に移籍したことが挙げられる。また、ヴァンフォーレ甲府へは2005年に監督だった安間貴義がコーチとして移籍し、2006年にはMFの宇留野純も同チームへ移籍した。2008年のシーズンオフにはU-19日本代表に選ばれた村松大輔も湘南ベルマーレに移籍し、2009年シーズンオフにはFW早坂良太がサガン鳥栖に移籍している。
- 2002年~2008年
チーム名改称年となった2002年も優勝し、前身時代も含めて現在のJFLになってから横浜FCに続いてリーグ2連覇を達成した。
以後、12年間社員選手だけで構成されてきたものの、毎年上位につける実力を有する他、年末の天皇杯では、たびたびJリーグチームを脅かし、時には勝利することもある。また、Jリーグの関係者からも“Jリーグチームにも匹敵する”などと言わしめられたこともあり、いつしか「Jへの門番」という新たな異名で呼ばれることとなる。この異名を呼ばれ始めて以降、Jリーグ加盟を目指す他のJFLチームやそのファンから恐れられる存在になった。
JFL5回(初代1回、2代目4回 2010年現在)は1992年のリーグ再編後のJFLでは最多で、2001・2002年には横浜FC(1999・2000)に次ぐJFL史上2チーム目の連覇も決めている。
2006年、向島満が引退し、これ以降、7年間は元Jリーガーの在籍選手は居なくなることになった。
- 2009年~
2008年にJFLで優勝すると、チームは過渡期を迎える。前年王者として迎えた2009年は1999年以降過去最悪の7位でシーズンを終えると石橋眞和が監督を退任。代わって大久保貴広が監督に就任するも2010年、2011年と2年連続で優勝を逃し、リーグ戦ではJリーグ準加盟チームにもたびたび敗れ、門番としては不本意なシーズンが続いていた。
一方、天皇杯は、2011年は予選決勝で静岡産業大学サッカー部に敗れて18年ぶりに天皇杯本選への出場を逃し、更に2012年では予選準決勝で浜松大学サッカー部に敗れ、予選決勝への進出すら出来なかった。[2][3]
この頃からチームのJFL時代の全盛期を支えた新田純也、鈴木弘大、石井雅之らベテランらがチームを離れ、チームの若返りが進む傾向となる。
- 2013年~
JFLが事実上の3部として最終年となった2013年は18チーム中5位であった。内、2014年度からのJ3に参戦する10チーム中6チームよりも順位が上であった。この年の天皇杯では予選決勝で藤枝MYFCに0-1で負け、3年連続予選敗退となった。シーズン最終節終了後、計7名の選手が退団することが発表され、DF浅田はFC琉球へ移籍、FW河野・MF西・DF小栗・DF牧野・GK石川の5名が社業専念となった。また、FW齋藤はシーズン途中で諸事情により退団しているが、2014年からMIOびわこ滋賀へ移籍したことが同クラブから公表される。
また、この年を以ってU-18チームの活動が終了した。
- リーグカテゴリー再編:2014年~
2014年からJFLは事実上の4部となり、Honda FCはJ2誕生の時と同様にJ3への参入を表明せずJFL残留となった。そして、2002年から12年間「選手は全員アマチュア(正社員)」という体制を貫いたが、この年から再びプロ・アマ混成の体制へと一新した。
吉澤英生以来8年ぶりのプロ契約監督として、2013年までツエーゲン金沢U-18を監督して率いていた井幡博康が新監督に就任。井幡は選手として在籍していた1999年以来15年ぶりの古巣復帰ともなった。新入団選手は10年ぶりに復帰する形でベテラン古橋達弥をプロ契約として獲得し、また既に在籍しているその他の選手と同じく正社員として順天堂大学蹴球部からMF原田開・日本体育大学サッカー部からDF宮内啓汰・ジュビロ磐田U-18からGK高村弘尚の3名を獲得した。原田は現役卒業ではない新卒選手としては河野大星以来となるが、「元Jリーガーの新卒選手」としてはクラブ初の選手となる[4]。併せて、クラブとして元Jリーガー選手の在籍は向島満以来8年ぶりとなった。
下部組織
小学生を対象にしたスクールと、U-10、U-12、U-15各カテゴリのチームを持っている。
下部組織出身の選手を以下に挙げる。
- 太田圭輔 - Honda FC U-12 → Honda FC U-15 → 清水エスパルスユース → 清水エスパルス 他
- 松浦拓弥 - Honda FC U-12 → Honda FC U-15 → 浜名高等学校 → ジュビロ磐田
- 小栗巧 - Honda FC U-15 → Honda FC U-18 → Honda FC
- 深谷泰介 - Honda FC U-18 → Honda FC
- 高村弘尚 - Honda FC U-12 → Honda FC U-15 → ジュビロ磐田U-18 → Honda FC
かつては女子チームとU-18チームも保有していた。
女子チームは1991年に設立して以降、静岡県西部支部女子リーグ、静岡県女子リーグ、東海女子リーグ(トップチーム、セカンドチームは引き続き県リーグ所属)と昇格し、2004年に廃止されるまでの間に、数多くのタイトルを獲得した。またU-19日本代表としてAFC U-19女子選手権に出場した佐藤シェンネン、所属当時は中学生で後にアルビレックス新潟レディースに所属した口木未来などを始め、数多くの選手を輩出した。廃止後、所属選手の多くはジュビロ磐田のホームタウン推進部が受け入れ、同クラブ下部組織チーム「ヤマハジュビロレディース」が設立されている。
U-18チームはプリンスリーグ東海の下位リーグの一つであるU-18サッカーリーグ静岡に所属しており、2004年度・2007年度の日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会に清水エスパルスユースを抑えて出場した実績を持つが、2013年度を以って廃止となった。
本田浜松サッカー部
1954年に本田技研工業浜松製作所浜友会サッカー部として創部された浜松製作所のサッカー部である。このクラブが本社側のクラブであるHonda FCの母体となっている。同じ所内に本社チームが創設されて以降も長らく東海リーグに所属するほどの実力を有していたが、現在は静岡県リーグに所属している。なお、このチームには、Honda FCのOBも選手や指導者として活躍している。
戦績
本田技研工業サッカー部
年度 | 所属 | 順位 | 勝点 | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得点 | 失点 | 差 | 数 | 備考 |
1971 | 静岡県西部 | 優勝 | 昇格 | |||||||||
1972 | 静岡県1部 | 優勝 | 昇格 | |||||||||
1973 | 東海 | 優勝 | 25 | 14 | 12 | 1 | 1 | 48 | 13 | +35 | 8 | |
1974 | 優勝 | 21 | 13 | 9 | 3 | 1 | 10 | 昇格 | ||||
1975 | JSL2部 | 4位 | 22 | 18 | 10 | 2 | 6 | 33 | 29 | +4 | 10 | |
1976 | 4位 | 21 | 18 | 6 | 9 | 3 | 25 | 17 | +8 | 10 | ||
1977 | 7位 | 29 | 18 | 5 | 3PK勝/3PK敗 | 7 | 25 | 24 | +1 | 10 | ||
1978 | 優勝 | 57 | 18 | 13 | 1PK勝/3PK敗 | 1 | 39 | 9 | +30 | 10 | ||
1979 | 4位 | 44 | 18 | 10 | 1PK勝/2PK敗 | 5 | 31 | 25 | +6 | 10 | ||
1980 | 優勝 | 28 | 18 | 13 | 2 | 3 | 43 | 17 | +26 | 10 | 昇格 | |
1981 | JSL1部 | 6位 | 14 | 18 | 5 | 4 | 9 | 23 | 28 | -5 | 10 | |
1982 | 9位 | 14 | 18 | 4 | 6 | 8 | 17 | 29 | -12 | 10 | ||
1983 | 8位 | 14 | 18 | 4 | 6 | 8 | 17 | 23 | -6 | 10 | ||
1984 | 5位 | 19 | 18 | 7 | 5 | 6 | 26 | 23 | +3 | 10 | ||
1985 | 3位 | 28 | 22 | 8 | 12 | 2 | 30 | 20 | +10 | 12 | ||
1986/87 | 9位 | 20 | 22 | 6 | 8 | 8 | 20 | 24 | -4 | 12 | ||
1987/88 | 8位 | 20 | 22 | 6 | 8 | 8 | 19 | 22 | -3 | 12 | ||
1988/89 | 9位 | 27 | 22 | 7 | 6 | 9 | 20 | 23 | -3 | 12 | ||
1989/90 | 6位 | 32 | 22 | 10 | 2 | 10 | 32 | 29 | +3 | 12 | ||
1990/91 | 3位 | 38 | 22 | 10 | 8 | 4 | 29 | 21 | +8 | 12 | ||
1991/92 | 10位 | 23 | 22 | 5 | 8 | 9 | 18 | 25 | -7 | 12 | リーグ再編 | |
1992 | 旧JFL1部 | 9位 | 16 | 18 | 4 | 4 | 10 | 19 | 36 | -17 | 10 | 降格 |
1993 | 旧JFL2部 | 優勝 | - | 18 | 15(0延 0PK) | - | 3(0延 1PK) | 62 | 21 | +41 | 10 | リーグ再編 |
1994 | 旧JFL | 9位 | - | 30 | 12(1延 2PK) | - | 18(2延 1PK) | 49 | 36 | -13 | 16 | |
1995 | 7位 | 49 | 30 | 16(2延 0PK) | - | 14(3延 1PK) | 58 | 42 | +16 | 16 | ||
1996 | 優勝 | 75 | 30 | 25(3延 0PK) | - | 5(0延 0PK) | 83 | 35 | +48 | 16 | ||
1997 | 4位 | 65 | 30 | 23(2延 1PK) | - | 7(1延 0PK) | 60 | 37 | +23 | 16 | ||
1998 | 5位 | 54 | 30 | 19(3延 0PK) | - | 11(2延 0PK) | 57 | 45 | +12 | 16 | リーグ再編 | |
1999 | JFL | 2位 | 50 | 24 | 18(5延長) | 1 | 5(0延長) | 69 | 34 | +35 | 9 | |
2000 | 2位 | 49 | 22 | 17(2延長) | 0 | 5(1延長) | 51 | 29 | +22 | 12 | ||
2001 | 優勝 | 71 | 30 | 22 | 5 | 3 | 74 | 19 | +55 | 16 |
本田技研工業フットボールクラブ (2002年-)
年度 | 所属 | 順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | 得点 | 失点 | 差 | 天皇杯 |
2002 | JFL | 優勝 | 41 | 17 | 13 | 2 | 2 | 39 | 14 | +25 | 3回戦敗退 |
2003 | 2位 | 67 | 30 | 21 | 4 | 5 | 73 | 30 | +43 | 3回戦敗退 | |
2004 | 2位 | 62 | 30 | 19 | 5 | 6 | 64 | 36 | +28 | 4回戦敗退 | |
2005 | 5位 | 56 | 30 | 17 | 5 | 8 | 59 | 37 | +22 | 4回戦敗退 | |
2006 | 優勝 | 83 | 34 | 26 | 5 | 3 | 77 | 36 | +41 | 4回戦敗退 | |
2007 | 5位 | 58 | 34 | 16 | 10 | 8 | 61 | 42 | +19 | ベスト8 | |
2008 | 優勝 | 74 | 34 | 22 | 8 | 4 | 80 | 33 | +47 | 3回戦敗退 | |
2009 | 7位 | 51 | 34 | 13 | 12 | 9 | 49 | 38 | +11 | 2回戦敗退 | |
2010 | 4位 | 59 | 34 | 18 | 5 | 11 | 52 | 43 | +9 | 2回戦敗退 | |
2011 | 6位 | 52 | 33 | 15 | 7 | 11 | 40 | 36 | +4 | 県予選敗退 | |
2012 | 5位 | 53 | 32 | 16 | 5 | 11 | 55 | 39 | +16 | 県予選敗退 | |
2013 | 5位 | 53 | 34 | 14 | 11 | 9 | 54 | 38 | +16 | 県予選敗退 | |
2014 | 26 | 県予選敗退 |
歴代キャッチフレーズ
年度 | キャッチフレーズ |
2006 | Aggressive action |
2007 | Fighting for team |
2008 | The Next Challenge. |
2009 | THE UNITED POWER |
2010 | 前へ |
2011 | 絆 |
2012 | 意志 |
2013 | 体現 |
出身者
テンプレート:See ※()内はHonda FCからの移籍先のチーム
- 倉田安治(→読売クラブ)
- 勝矢寿延(→日産自動車)
- ルイス・アントニオ・メシアス
- マラカジャ
- ジオリット
- バウテル(→コンサドーレ札幌)
- 北澤豪(→読売クラブ/ヴェルディ川崎)
- 本田泰人(→鹿島アントラーズ)
- 長谷川祥之(→鹿島アントラーズ)
- 内藤就行(→鹿島アントラーズ)
- 黒崎久志(→鹿島アントラーズ、アルビレックス新潟元監督)
- 今井雅隆(徳島ヴォルティス元監督)
- 関塚隆(鹿島アントラーズ元コーチ、川崎フロンターレ元監督、U-23サッカー日本代表元監督、ジュビロ磐田元監督)
- 佐々木雅尚(→全日空)
- 山田松市(湘南ベルマーレ元監督)
- 長澤徹(FC東京コーチ→ジュビロ磐田ヘッドコーチ→ファジアーノ岡山コーチ)
- 古川昌明(川崎フロンターレGKコーチ)
- 安間貴義(→ヴァンフォーレ甲府コーチ・監督→カターレ富山現監督)
- 吉澤英生(松本山雅FC元監督、ガイナーレ鳥取元監督)
- 高木昭次(→ベガルタ仙台元フィジカルコーチ)
- 村主博正(→コンサドーレ札幌→サガン鳥栖)
- 宇留野純(→ヴァンフォーレ甲府→ロアッソ熊本→バンコク・ユナイテッドFC)
- 里見仁義(→アルテ高崎)
- 石川康(→ヴェルディ川崎)
- 水原大樹(→横浜FC)
- 江川重光(→トヨタ自動車/名古屋グランパスエイト)
- サンドロ・チャベス・デ・アシス・ロサ(→東京ガス)
- 呂比須ワグナー(→ベルマーレ平塚→名古屋グランパスエイト)
- マルクス・ビニシウス・デ・モライス(→アルビレックス新潟)
- 井幡博康(→ジェフユナイテッド市原)
- 東川昌典(V・ファーレン長崎元監督)
- ドウグラス
- 大橋昭好(→ジュビロ磐田元GKコーチ→JFA)
- 村松大輔(→湘南ベルマーレ→清水エスパルス)
- 早坂良太(→サガン鳥栖)
- 中村祐哉(→京都サンガF.C.→V・ファーレン長崎)
ユニフォーム
現在のサプライヤーはアンブロ。2011年より、ユニフォームの背番号の上に選手名がローマ字で書かれるようになった。かつては、アディダスやディアドラなどがサプライヤーであった。 テンプレート:ユニフォームの色
エピソード
- 浦和市への移転撤回に関するその他の理由
- 前述の通り、関係者での間では“浜松を本拠にJリーグへ参入したい”という意向があったが、会社の役員会議でも同様の意見があったようで、サッカー部発足時から現在に至るまで浜松を本拠地にしていたこともあり、“Jリーグ発足のために浦和に移転することは、今までチームを応援してくれた地元・浜松の「(企業的立場で言うと)お客様」を裏切ることになるため、企業イメージとしてのマイナスにもなる”との判断もあったらしいという[5]。
- 2度目のJリーグ参入を目指して表面化した行政との溝
- 浜松F.C発足を仕掛けたのはホンダ側であったが、同社はチームを浜松F.Cに移管する際はいちスポンサーとしてやっていけばいいという考えであったため、あくまで浜松F.Cを「地域のクラブ」であることをアピールしていた。しかし、Jリーグ参入には行政の協力や理解が必要不可欠であるものの、当時の浜松市側は「ホンダ」というブランドが担保になるなら協力してもいいというスタンスであったという。また浜松市側からJリーグ参入について積極的に動いた形跡はなく、やがて“ホンダがやるのであれば応援する”という市長の言葉を耳にした、当時のホンダ社長であった川本信彦は“おい、話が違うぞ”とJリーグ参入に対する浜松市の態度に相当なギャップを感じていたという[5][6]。
- 「静岡県代表」として出場した第87回の天皇杯での活躍
- 2007年に行われた第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会では、リーグの前期で1位になれずにシード権を獲得できなかったため、天皇杯が現在の形式になってから初めて県代表を決めるための予選に参加し、天皇杯への出場を獲得。その後、大会ではJリーグチームを3つ破って前身時代以来16年振りの準々決勝(ベスト8)進出を果たし、当大会よりHonda FCが各都道府県代表として初の準々決勝進出を果たしたチームとなった。また、監督も含めて全員がアマチュア登録ということもあって話題となった。それまでHonda FCは、1998年の第78回大会でプロ契約選手を抱えていた本田技研時代に3回戦でジェフユナイテッド市原を破って以降、Jリーグチームに勝利したことはなかった[7]。第87回大会以前における以前の回の試合では、第83回大会(2003年)の3回戦のFC東京戦で、第85回大会(2005年)の4回戦のセレッソ大阪戦で、それぞれ追い詰めるものの、いずれもPK戦で涙を呑んでいる[8]。しかし、この大会以降Honda FCは天皇杯での低迷が続き、天皇杯のJFLシード権を獲得できない状況が現在も続いている。2011年は天皇杯予選決勝で、静岡産業大学サッカー部に1-3で敗れ、本戦出場すら果たせなかった。これにより、16年続いた天皇杯の連続出場記録は途切れた。
- 16年ぶりの年代別代表選手の選出
- 1993年にJリーグが開幕して以降、本田技研時代も含めて各年代別共に長らくHonda FCから代表選手は選出されなかったが、2008年10月20日当時、AFCユース選手権の日本代表に(先述通り、後にJリーグ所属の湘南ベルマーレへ移籍した)村松大輔が選出された。Honda FCからの年代別代表選出は、本田技研時代の1992年、バルセロナオリンピック出場予選での日本代表に選出された石川康以来、実に16年ぶりとなった[9]。また、当時の日本フットボールリーグに所属する選手から選出されたのは彼のみであると同時に、同リーグからの年代別日本代表選手の輩出は、リーグが1999年に開催されて以降初ともなった。
- 「Honda FC」としての実力評価
- 各シーズンにおける周囲の評価をココで述べる。
- 2007年、第87回の天皇杯において東京ヴェルディの当時の監督であるラモス瑠偉は“J2クラブ並みの力があるチーム”と評しており[10]、同じく第87回の天皇杯において名古屋グランパスの当時の監督であるセフ・フェルホーセンは“JFLのレベルではない。”、“非常にレベルが高いチーム。多くのチャンスを作れるとは思えないが、組織や規律がしっかりしている。”と評している[11]。
- 2009年度におけるJFLの各チームの関係者は“実力はJリーグ2部の下位クラブより上”と評している[12]一方、V・ファーレン長崎の監督であった東川昌典は、自身が指揮したチームと比較してみた場合に限り“(Honda FCとの)レベルの差があるとは思わない。”と述べている[13]。
- 2013年では対戦相手のFC琉球に所属する元Jリーガーの永井秀樹が、自身のブログでHonda FCのサッカーについて語っている。ブログ内では「個の質が数年前より若干下がったが故に、勝ち点3を確実に奪う力は多少弱まった」と指摘しながらも“JFLというカテゴリーにおいて、この数年間で最も質の高いサッカーを展開してるのはHondaだ。”と述べている。また、自身が所属するFC琉球についてHonda FCと比較した上で“これからJを目指し、JFL優勝を真剣に考えるならば、最低限Honda以上のサッカーをしなければならない。”と言及している。[14]
脚注
関連項目
- ホンダルミノッソ狭山FC(埼玉製作所のサッカーチーム。2011年に活動休止。)
- ホンダロックSC(本田技研の関連会社「ホンダロック」のサッカーチーム。)
- ホンダFCレディース(本田技研浜松の女子サッカー部。現在は廃部。)
外部リンク
テンプレート:JFL優勝チーム- ↑ 事務局スタッフも本業は別途にある。
- ↑ 2011年のJFLは天皇杯本選に出場した13チーム中9チームよりも順位が上で、また、2012年のJFLでは天皇杯本選に出場した11チーム中7チームよりも順位が上であった。
- ↑ 天皇杯本選での成績は2008年から2010年まで3年連続でJリーグチーム相手に完封負けを喫している。
- ↑ Jリーグ経験のある新卒選手の先例として順天堂大学蹴球部から水戸ホーリーホックへ加入した岡本達也が挙げられる。
- ↑ 5.0 5.1 参考:サッカー批評第38号
- ↑ この浜松市の態度の裏には、同じく浜松市に本社を置くライバル企業のスズキの影響があったとも言われている。
- ↑ 第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会:1~3回戦プログラム より
- ↑ スポーツナビ/サッカー:天皇杯 バックナンバー より
- ↑ 日刊スポーツ 2008年10月21日付けの記事 より
- ↑ J's GOAL 第87回天皇杯3回戦 東京V vs Honda FC:プレビュー
- ↑ 中日スポーツ 2007年12月5日付けの記事 より
- ↑ 静岡新聞 2009年3月13日付けの記事 より
- ↑ 長崎新聞 2009年3月29日付けの記事 より
- ↑ 永井秀樹公式ブログ『Wander of This Life』- 「vs HONDA FC」より