チャールズ・リンドバーグ
チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ(テンプレート:Lang-en, 1902年2月4日 - 1974年8月26日)は、アメリカ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章、議会名誉黄金勲章の受賞者。1927年に「スピリット・オブ・セントルイス」と名づけた単葉単発単座のプロペラ機でニューヨーク・パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功。1931年には北太平洋横断飛行にも成功した。
目次
生い立ち
スウェーデン移民の息子としてミシガン州デトロイト市で生まれ、ミネソタ州リトルフォールズで成長した。父チャールズ・オーガスト(en:Charles August Lindbergh)は弁護士、その後共和党の国会議員となり第一次世界大戦へのアメリカの参戦に反対した。母エヴァンジェリン(Evangeline Lodge Land Lindbergh)は化学教師だった。
リンドバーグは幼少時から機械への関心を示したが、1922年には機械工学から離れ、ネブラスカ航空機でパイロットと整備士の訓練に参加したあとカーティスJN-4「ジェニー」を買い、曲芸飛行士になった。1924年にはアメリカ陸軍航空隊で飛行士として訓練を始めた。訓練を一番の成績で終え1920年代にはライン・セントルイスの民間航空便パイロットとして働いた。
大西洋単独無着陸飛行
1927年5月20日5時52分(出発時の現地時刻)、リンドバーグはスピリットオブセントルイス号(ライアンNYP)でニューヨーク・ロングアイランドのルーズベルト飛行場[1]を飛び立ち、5月21日22時21分(到着時の現地時刻)、パリのル・ブルジェ空港に着陸、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。飛行距離は5,810kmで飛行時間は33時間29分30秒だった。これによりリンドバーグは、ニューヨーク-パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられるオルティーグ賞とその賞金25,000ドル、さらに世界的な名声を得た。テンプレート:要出典範囲
スピリットオブセントルイス号は、リンドバーグの指示の下に特別にカスタマイズされた機体であった。多量の燃料(ガソリン)を積むべく操縦席の前方に燃料タンクを設置したため、座席からは直接前方が見えず、潜望鏡のようなものを使うか、機体側面の窓から顔を出す必要があった。当時、無名の操縦士だったリンドバーグには出資者が少なかったため、他のオルティーグ賞挑戦者のように大型の機材を用意できず、また機材そのものもリンドバーグが望んだベランカ社製品より性能の低いものにせざるを得なかったことから、前方視界を犠牲にして燃料の搭載量を増やすことで対処したのである[2]。さらにバックアップの操縦士を乗せることもできなかったため、パリまでの全行程を一人で操縦し続けるという過酷な飛行となった。飛行中、リンドバーグは強い睡魔に襲われたが、これを克服してパリに到達した。現在、この機体はスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。
「リンドバーグが大西洋無着陸飛行に初めて成功した」と誤解されがちだが、単独でない大西洋無着陸飛行については、1919年にジョン・オールコックとアーサー・ブラウンが達成している。これは、6月14日から6月15日にかけての16時間でニューファンドランド島からアイルランドへ1,890kmを飛行したものであった(その他の大西洋横断飛行については「大西洋横断飛行」を参照)。
また、パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだとされるが、この台詞は後世の脚色であり、リンドバーグはその時自分がパリに着いたことも分らなかったという。実際に発した最初の言葉としては、「誰か英語を話せる人はいませんか?(この後英語を話せる人に「ここはパリですか?」と尋ねる)」であるという説と、「トイレはどこですか?」であるという説の2つがある。いずれにせよ、「翼よ、あれがパリの灯だ!」の出所は自伝 "The Spirit of St. Louis"の和訳題であり、日本語では広く知られているが、英語圏ではこれに対応するよく知られた台詞は存在しない。
結婚と子供の誘拐
1929年に駐メキシコ大使ドワイト・モロー(en:Dwight Morrow)の次女アン(en:Anne Morrow Lindbergh)と結婚した。アンは夫の勧めでパイロットや無線通信士の技術を身につけ、乗務員として調査飛行に同行することになる。後年、彼女は作家となった。夫妻はチャールズ・オーガスタス・ジュニア(1930年)、ジョン(1932年)、ランド(1937年)、アン(1940年)、スコット(1942年)およびリーヴェ(1945年)の6人の子供をもうけた。
1932年3月1日に1歳8ヶ月の長男ジュニアが自宅から誘拐され、10週間に及ぶ探索と誘拐犯人との身代金交渉の後に、ニュージャージー州ホープウェルで5月12日に死んでいるのが見つかった(リンドバーグ愛児誘拐事件)。
2003年11月、リンドバーグとミュンヘンの帽子屋ブリギッテ・ヘスハイマー(Brigitte Hesshaimer)の間に3人の非嫡出子が生まれていたことがDNAテストによって証明された。3人はそれぞれ1958年・1960年・1967年にドイツで生まれた。リンドバーグとヘスハイマーの関係は1957年に始まり、彼の死まで継続された。ヘスハイマーは2001年に74歳で死去した。
リンドバーグ夫妻の北太平洋航路調査と来日
リンドバーグ夫妻は1931年に、北太平洋航路調査のためニューヨークからカナダ、アラスカ州を経て中国までロッキードの水上機シリウス号で飛行した。途中8月23日には日本の国後島、8月24日には根室市、26日に霞ヶ浦、その後大阪、福岡を経て、中国の南京・漢口まで飛行した。妻のアン・モローはこの記録を『NORTH TO THE ORIENT 』(邦訳として『翼よ、北に』みすず書房,2001年がある)として上梓した。
人工心臓の開発
リンドバーグの大きな業績の一つとして人工心臓の開発がある[3]。リンドバーグには心臓弁膜症を患っている姉がおり、心臓病の治療法を開発したいという思いから生理学者アレクシス・カレルの研究室を訪れた[3]。2人は意気投合し共同研究をおこない、1935年に世界初の人工心臓である「カレル・リンドバーグポンプ」を開発[3]。これは今日の人工心臓の原型となっている[3][4]。組織が体外で生き続るための生理学的条件についてはカレルの知識が、血液を連続して環流させるポンプ装置の発明についてはリンドバーグの工学知識が生かされた[4]。
第二次世界大戦
第二次世界大戦前夜、リンドバーグはアメリカ軍の要請でドイツに何度か旅行し、ドイツ空軍についての報告を行った。1938年にはヘルマン・ゲーリングから勲章を授与されたが、この授与は、ユダヤ人を差別する政策やアンシュルスなどの強権的な対外政策を進めるナチス党政権と親密になりすぎているということでアメリカ国内で批判を受けた。批判に対して、リンドバーグは「ドイツに対する過剰な非難である」と反論した。
ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した後、共和党員であったリンドバーグはアメリカの孤立主義とドイツの政策に対する支持者となり、各地で講演を行った。1941年1月23日にはアメリカ連邦議会で演説し、ドイツと中立条約を結ぶべきと主張した。リンドバーグは孤立主義者の団体であるアメリカ・ファースト(America First)の主要なスポークスマンであり、1941年9月11日のアイオワ州デモインでの演説では、イギリス人とユダヤ人がアメリカに連合国側での参戦を働きかけていると述べた。この発言にユダヤ系アメリカ人が反発し、フランクリン・ルーズベルト大統領はリンドバーグのアメリカ陸軍航空隊での委任を解除した。
1941年12月7日に日本との戦争が開始されると、リンドバーグは陸軍航空隊への復帰を試みたが、上記のようないきさつがあったためにルーズベルト大統領とその補佐官らに拒否され復帰できなかった。そのため、政府と航空会社(トランスワールド航空)に対する民間のコンサルティング会社を通じて、アメリカ政府の戦争努力を援助した。1944年までに太平洋で、民間人として50回の実働任務をこなしている。ロッキードP-38での長距離航法やF4Uでの離陸法の発展に貢献した[5]。
また、連合国軍(アメリカとオーストラリア軍)による日本兵捕虜の虐殺・虐待をしばしば目撃し、その模様を日記に赤裸々に綴っていた[6]。その著書の中で、リンドバーグは「ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋でも日本人に行ってきたのである。」と記している。
余生
1953年に大西洋単独無着陸飛行について書いた "The Spirit of St. Louis"(邦題『翼よ、あれがパリの灯だ』)を出版し、これにより、1954年のピュリッツァー賞を受賞した。同書は1957年にビリー・ワイルダー監督の手で映画化されて有名になった(映画の邦題は『翼よ! あれが巴里の灯だ』。また原作にはないフィクションも一部含まれている)。
晩年は、妻のアン・モローと共にハワイ州のマウイ島に移り住んだ。また、自然環境の保全に力を注ぐようになり、世界各地を回り、環境保護活動に参加、多額の資金を寄付した。
1974年8月26日朝にマウイ島ハナのキパフルにある別荘にてリンパ腫瘍が原因で72歳で死去した。
孫
2002年5月2日、大西洋単独無着陸飛行75周年を記念して、孫のエリック・リンドバーグが「ニュー・スピリット・オブ・セントルイス号」で大西洋単独無着陸飛行を実行、無事成功した[1]。またエリックは民間宇宙開発競技会Ansari X Prizeに出資している。
その他
伝記など(日本語)
- ジヨーヂ・ブキヤナン・フアイフ『リンドバーグ物語 孤独の荒鷲』日本飛行学校出版部訳 日本飛行学校出版部 1929
- 広畑恒五郎『空の王者リンドバーグ』婦女界社 1931
- ケニス・S.デイヴィス『英雄 チャールズ・リンドバーグ伝』村上啓夫訳 早川書房 1966
- 柴野民三『リンドバーグ 大西洋無着陸横断飛行の英雄』チャイルド本社 1984
- 宝島編集部編『虹を追いかけて リンドバーグ』JICC出版局 1991
- 岡高志『リトル・ウィング リンドバーグ・ストーリー』ソニー・マガジンズ文庫 1993
- ジョイス・ミルトン『リンドバーグ チャールズとアンの物語』中村妙子訳 筑摩書房 1994
- 今西祐行『リンドバーグ』チャイルド本社 1998 こども伝記ものがたり
- A.スコット・バーグ『リンドバーグ 空から来た男』広瀬順弘訳 角川文庫 2002
脚注
関連項目
- スコット・フィッツジェラルド
- リンドベルイ
- ロバート・ゴダード - 現代のロケット技術の開拓者の一人。当時、先進的過ぎる発想で世間から嘲笑されていたゴダードに資金援助した。