日本万国博覧会
テンプレート:イベントインフォメーション 日本万国博覧会(にっぽんばんこくはくらんかい、英:Japan World Exposition)は、1970年3月14日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市の千里丘陵で開催された国際博覧会。
アジア初かつ日本で最初の国際博覧会(General category:一般博、現・登録博)であり、当時史上最大の規模を誇った。略称は開催地の名から大阪万博、一般的な英語表記としてはEXPO'70が用いられた。また、日本国内において単に万博あるいは万国博とも略される(本項の記述にも用いる)。主催は、財団法人日本万国博覧会協会。博覧会の名誉総裁は当時の皇太子明仁親王、名誉会長は当時の内閣総理大臣、佐藤栄作。
目次
概要
「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77ヵ国が参加し、戦後、高度経済成長を成し遂げアメリカに次ぐ経済大国となった日本の象徴的な意義を持つイベントとして開催された。日本においては1964年の東京オリンピック以来の国家プロジェクトであり、多くの企業・研究者・建築家・芸術家らがパビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物制作に起用された。大阪市など会場周辺市街地では万博開催への整備がなされ、道路や地下鉄建設など大規模開発が進められた。一方、第二次世界大戦以来の規模となる芸術家らの国家イベントへの動員は文化・芸術界内部で批判があったほか、同じく1970年に予定されていた日米安保条約改定に関する議論や反対運動(70年安保闘争)を大イベントで国民の目からそらすものだとして、大学生らによる反対運動も行われた。
テーマ館の太陽の塔やアメリカ館・ソ連館などの、人気パビリオンでは数時間待ちの行列ができるなどして大変混雑した。特にアポロ12号[1]が持ち帰った「月の石」を展示したアメリカ館の行列は延々と続き、途中であきらめて他の館へ行く人も多かった。その異常な混雑ぶりから、テーマをもじって『人類の辛抱と長蛇』や『残酷博』と揶揄されたことがある。また、国際博覧会史上初めて黒字となった。
- 名称:日本万国博覧会(Japan World Exposition)
- テーマ:「人類の進歩と調和」(Progress and Harmony for Mankind)
- 開催期間:1970年3月14日~1970年9月13日(183日間)(一般公開は3月15日から)
- 性格:国際博覧会条約に基づく第1種一般博(General/first category)
- 会場運営:財団法人日本万国博覧会協会
- 面積:330ha
- 総入場者数:6,421万8,770人[2](うち外国人 約170万人)
- 目標入場者数:3,000万人(その後5,000万人に上方修正)
- 参加国数:77カ国4国際機関
- 迷子になった親と子供の数:22万643人
- モノレールへの乗車人員:約3,350万人
- 売上金額:入場券 約350億円 食堂・売店関係 約405億円
- 1日の入場者:最高 83万5,832人(9月5日[3]) 最低 16万3,857人(3月16日) 平均 約35万人
- 迷い人:大人 12万7453人 子供 4万8190人 [4]
- 落し物:5万227件(その内、金銭は4,780万円)[4]
- 食中毒:43件 計404人[4]
大阪万博の最終的な総入場者数は約6,421万人で、2010年中国・上海で開かれた上海万博に抜かれるまでは万博史上最多であった(上海万博は約7,308万人。[5])。また、愛称の「万博(バンパク)」は、この博覧会の正式名称の「万国博覧会」を略したものだが、その後の博覧会の愛称にも引き継がれている(科学万博(つくば博)、花の万博(大阪花博)、愛知万博(愛・地球博))。
なお、1940年3月15日から8月31日にかけて東京で開催される予定で、日中戦争の激化などを受けて開催延期された「紀元2600年記念日本万国博覧会」の前売り券が本博覧会で代替として使用できたため、約3000枚が実際に使用された[6]。
演出者
財団法人日本万国博覧会協会の会長理事は石坂泰三、事務総長理事は初代が新井真一(元通産省官僚、現実業家)。新井はテーマの画策、テーマ館の総合プロデューサーを岡本太郎に依頼、説得するなど奔走したが志半ばで更迭された。理由は定かではないが、何らかの政治的な力学が働いたのではとメディアは伝えているテンプレート:要出典。2代目が鈴木俊一(後の東京都知事)。 万博会場の総合設計を行ったのは建築家の丹下健三であった[7]。会場やパビリオンには随所にメタボリズムの意匠が見て取れる。黒川紀章や菊竹清訓等メタボリスト達は、広大な敷地に会期の間だけ「都市」を出現させ、終わったら全てを無に帰すという博覧会の特徴が上手くメタボリズムと適応したためか、大阪万博以降の博覧会(沖縄海洋博など)にも関与した。
シンボルマーク
大阪万博の公式なシンボルマークは、日本の国花である桜をかたどったもので、デザインは大高猛[8]。当初は西島伊三雄デザインの、鉄アレイ状の上に丸を描いた形[1]で、東西世界の融合などを表しているとの説明だったが、シンボルマーク発表の記者会見の直前に万博協会会長の石坂泰三が「これでは日本が世界の上にあぐらをかいている」と激怒し、一蹴した(その日の会見は中止)。その後改めてデザインが行われ、桜をイメージしたマークとなった。「五つの花びらは五大州すなわち世界を、中央の丸は日本のシンボル日の丸を、周囲の白い部分は発展への余裕と伸びようとする意図を表している」と説明された。なお、日本館はこのシンボルマークを模って建設された。
日本万国博に参加した国・地域・国際機関
国際博覧会史上アジアで初めて開催される大阪万博に、できるだけ多数の国の参加を得て充実した意義あるものとするため、在外公館を通じて未参加国に対して参加勧奨に努めるとともに、総理大臣または万博担当大臣の特使および万博日本政府代表のほか博覧会協会幹部職員等を派遣して折衝を行なった。その結果同年中に新たに中央アフリカ共和国ほか25ヵ国が参加を決定し、参加決定国は合計81ヵ国に上ったが、他面、財政事情その他の理由により5ヵ国(ポーランド、イスラエル、ガイアナ、ハイチ、コンゴ(当時の旧国名ザイール))が参加を取り消した。最終的には、77ヵ国(日本を含む)、4国際機関、1政庁、9州市が参加した。
- ↑ 台湾が「中華民国」の正式国名で参加した、最後の国際博覧会である。
- ↑ 後のミャンマー
- ↑ 後のスリランカ共和国
- ↑ サイプラスとも言われており、万博ではこの名義で参加した。
- ↑ 当時、南北に分かれていたうちの南ベトナムである(1976年に北ベトナムへの統合により消滅)。
- ↑ 現在はアラブ首長国連邦(UAE、1971年結成)を構成する首長国のひとつ。
- ↑ イラン、トルコ、パキスタンの三ヵ国
- ↑ 後のロシア連邦、独立国家共同体構成国
- ↑ 当時は西ドイツと東ドイツによる分断国家だったが、当万博では合同で参加。
- ↑ 後に王制を廃止、ギリシャとなる
- ↑ 後にチェコとスロバキアに分裂
- ↑ 後のコートジボワール
- ↑ 後のEU(ヨーロッパ連合)
パビリオン一覧(50音順)
- 国際館
- アメリカ館
- アメリカンパーク
- アブダビ館(現アラブ首長国連邦アブダビ首長国)
- RCD館(イラン、トルコ、パキスタン)
- アラブ連合館(現エジプトとシリア)
- アルゼンチン館
- アルジェリア館
- 英国館
- EC館(現EU)
- イタリア館
- インターナショナルプレース(複数)
- インド館
- インドネシア館
- エチオピア館
- OECD館
- オーストラリア館
- オランダ館
- オンタリオ州館
- カナダ館
- キリスト教館(バチカン市国)
- クウェート館
- ギリシャ館
- キューバ館
- ケベック州館(カナダ)
- 国連館
- コロンビア館
- サウジアラビア館
- サンフランシスコ市館(エキスポランド内)
- シンガポール館
- スイス館
- スカンジナビア館(デンマーク、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、アイスランド)
- セイロン館(現スリランカ)
- 象牙海岸館
- ソ連館(現CIS諸国及びバルト三国)
- タイ館
- 大韓民国館
- 中華民国館
- チェコスロバキア館
- チリ館
- ドイツ館
- ニュージーランド館
- 日本館
- ハワイ州館
- ビルマ館
- フィリピン館
- ブラジル館
- フランス館
- ブルガリア館
- ブリティッシュコロンビア州館(カナダ)
- ベルギー館
- ポルトガル館
- 香港館
- フィリピン館
- ミュンヘン市館(エキスポランド内)
- モルモン・パビリオン
- メキシコ館
- ワシントン州館(アメリカ合衆国)
- 企業館ほか
- IBM館(日本IBM)
- ガスパビリオン(テーマは「笑い」)
- 化学工業館
- コダック館
- クボタ館
- サントリー館
- サンヨー館
- 住友童話館
- 自動車館(日本自動車工業会)
- 生活産業館
- せんい館
- 専売公社館(虹の塔)
- タカラ・ビューティリオン
- 地方自治体館
- 鉄鋼館
- 電気通信館
- 電力館(電気事業連合会)
- 東芝IHI館
- 日本民芸館
- 日立グループ館(エスカレーターは会場最長)
- 古河パビリオン
- 富士グループパビリオン(360°スクリーンあり)
- フジパン・ロボット館(エキスポランド内)
- ペプシ館(エキスポランド内)
- 松下館
- 三井グループ館
- 三菱未来館(三菱グループ)
- みどり館(旧三和グループ32社の合同館、のちのみどり会発足の元となった)
- リコー館
- ワコール・リッカーミシン館
- その他
館・展示物
- テーマ館の一部として岡本太郎意匠による「太陽の塔」が作られた。現在も残され、万博記念公園のシンボルとなっている。
- 現在、唯一元会場内に残存している鉄鋼館が改修され、2010年3月13日に万国博の資料館「EXPO'70パビリオン」としてリニューアルオープンした。もともと鉄鋼館は現代音楽などの音楽公演を行うパビリオンで最新の音響設備を備えており、40年ぶりに公開されるメーン施設「スペースシアターホール」は、当時の光のショーをイメージして色とりどりの照明で演出している[9]。
- シンボルタワーの「エキスポタワー」は菊竹清訓の設計で、閉幕後も残され展望塔として観客を集めていたが老朽化により1990年に閉鎖され、2002年夏から2003年春にかけて撤去工事が行われ現在はなくなっている。
- 世界の美術品を集めた万国博美術館は開催後、国立国際美術館として再利用され、隣接する万国博ホールは多目的ホールとなった。しかし老朽化により2004年閉鎖され、ともに解体された。
- アメリカ館ではアポロ計画で持ち帰られた月の石が展示され、話題となる。(1969年、アポロ12号のお土産。なお日本館4号館にもアポロ11号[1]が持ち帰ったものが展示されていた。)
- インド館では「アショカ・ホテル」によるインド料理レストランが開設され人気を博した。なお同レストランの運営にはインド独立運動の闘士で、インド料理老舗の「ナイルレストラン」のオーナーであるA.M.ナイルが全面協力している。
- 民間企業のパビリオンとしては、三菱未来館、日立グループ館などが人気を集めた。
- 松下館で展示されたタイムカプセルは当時の各種物品を詰め、同じものが二つ大阪城公園に埋められている。一つは5000年後の6970年に開封予定。もう一つは内容物の状態確認のため、2000年以降100年ごとに開封される事になっており、2000年に当初予定通り掘り出して最初の開封が行われ、内容物は同公園内にあった大阪市立博物館で展示された。
- 古河パビリオンは未来的建築の並ぶ会場内であえて「外し」狙いで古典的に東大寺の過去に雷で燃失した七重塔を再現していた。会期終了後、東大寺より移設の要望もあったが、資金上の問題もあり最上部の相輪部のみ寄贈されるにとどまる。
- 万博会期後はほとんどのパビリオンが取り壊され跡地は公園化されたが、パビリオンの中には引き取られ移設されたものもある。オーストラリア館は閉幕後、三重県四日市市に移築され、オーストラリア記念館となっている。同様に、スカンジナビア館も北海道石狩市(当時は石狩町)に移築され、1972年2月に再開館した[10]が、所有者の倒産に伴い数年で閉鎖され、1981年11月までに撤去されている。また三菱未来館の一部は宝塚ファミリーランドへ移設されたがこれも後に老朽化のため解体された。
- フジパン・ロボット館はフジパンの本社がある愛知県にできた愛知青少年公園(後に愛・地球博の長久手会場となる)に移設。建物は老朽化により1993年に取り壊されたが、ロボットはその後も同公園内の愛知県児童総合センターで展示されていた。その後、2002年3月に、愛・地球博の会場工事のため同公園・同センターは休園になるものの、2005年の愛・地球博のわんパク宝島・ロボットステーション(児童総合センターの建物をパビリオンにそのまま転用)に展示・公開された。大阪・愛知の2つの万博で共に展示されたのはこのロボット以外にはない。現在も長久手会場の跡地に整備された愛・地球博記念公園の同センター内に展示・保存されており、ロボットのパフォーマンスを見ることができる。
記録
順位 | パビリオン名 | 入場者数 |
---|---|---|
1位 | ソ連館 | 28,000,000人 |
2位 | カナダ館 | 25,035,000人 |
3位 | アメリカ館 | 16,500,000人 |
4位 | エルサルバドル館 | 13,725,000人 |
5位 | アメリカン・パーク | 12,810,000人 |
6位 | スイス館 | 12,600,000人 |
7位 | 日本館 | 11,632,627人 |
8位 | 三菱未来館 | 11,556,268人 |
9位 | オーストラリア館 | 11,554,420人 |
10位 | チェコスロバキア館 | 11,200,000人 |
- 出産 1人
- 結婚式 55組(記録有のみ)
- 患者 86,332人(件)
- 拾得物 54,154件
- 拾得金 48,924,577円
会場内・会場への交通
詳細は大阪万博の交通の項目を参照。
- 空路
- 日本航空(オフィシャル・エアライン)
記念発行物
テレビ・ラジオにおける大阪万博
会期中は多くのテレビ・ラジオが万博を取り上げ、NHK総合テレビでは毎日、会場から中継を行なう帯番組を編成した。
開会式はNHKは特別番組を放送。民放はこれに対抗するため、よみうりテレビを中心に日本民間放送連盟に加盟するテレビ全局が協力して「幕開く日本万国博」を製作した。全民放テレビ局が一致協力して1番組を放送したのはこれが初めてのことだった[13]。
開催中のテレビ番組
テーマソング
- 世界の国からこんにちは(万博テーマソング、作詞:島田陽子、作曲:中村八大)
- 万国博音頭(作詞:三宅立美、補作詞:西沢爽、作曲:古賀政男)
万博に出展し、その後実現普及したもの
- 技術
- 温水洗浄便座(ガス館)
- 動く歩道
- エアドーム(アメリカ館、富士グループパビリオン)
- ワイヤレスフォン(現在の携帯電話、電卓の機能まですでに内蔵されていた。電気通信館)
- アストロラマ(みどり館)(360度全天周スクリーン映像。以後の各博覧会で見られた全天周映像やオムニマックスシアター等、他、デジタル映像式プラネタリウム投影機の先駆け)
- テレビ電話(第三世代携帯電話でほぼ普及した)
- ローカル・エリア・ネットワーク(LAN)
- モノレール(アルウェーグ式を改良した日本跨座式が会場内にて初めて運用された)
- サインシステム(ピクトグラムと共同運用した最初のもの)
- 電波時計(UHFを用いて会場内の時計の時刻を原子時計の時刻に同期させた)
- 原子力発電 (敦賀発電所 1号炉が開会式の日に営業運転開始、開幕式会場へ送電(詳しくは敦賀発電所の大阪万博の項目参照)。このころから実験的な第1世代より十分な商用、安全に耐える第2世代原子炉が普及し始め、日本を含む各国でさかんに建設、運転された。)
- 食文化
- 缶コーヒー(UCC上島珈琲)
- ファーストフードやファーストフードチェーン(ピザ、ケンタッキーフライドチキン、ドムドムバーガー)
- ファミリーレストラン(アメリカゾーンに外国店扱いでロイヤルがステーキハウスを出店、この実績がのちにロイヤルホストへとつながる)
- コーヒー味のソフトクリーム(エチオピア館)
- 甘味料での味付け、及びコーンスターチ・ゼラチン・寒天などによるババロア状加工を一切行なっていないヨーグルト(ブルガリア館)(のちに各社から販売された。発売は明治ブルガリアヨーグルトが最初。)
万博で登場したがいまだ普及途上にあるもの
- 国鉄式浮上式リニアモーターカー(日本館、国鉄)
- 空中ビュッフェ(会場各所)[2] - ドン・キホーテ大阪道頓堀店に同様の観覧車がある。
- ファクシミリ配信型の新聞 - 類似のものとしてポーリング受信によるファックス情報サービス。なお、インターネットで紙面を配信するサービスはすでに始まっている。
- 人間洗濯機(サンヨー館) - ミストバス(身体障害者用自動洗浄浴槽)、介護用浴槽として浸透しつつある。なお、人間洗濯機は現在も三洋電機(後のパナソニック)に保管・公開されているが、既に使用不能になっている。
- 電気自動車 (ダイハツ工業)
万博が舞台、もしくは関係のある作品
小説
漫画・アニメ
- モンキー・パンチ『ルパン三世外伝』
- 万博開催期間中に『ハクション大魔王』の下記回に舞台として登場している(共に1970年8月9日に放映)。
- 第90話「世界の皆さん 今日わ の話」
- 第91話「ハクション 魔法パビリオン の話」
- 『サザエさん』(フジテレビ)
- アニメ映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』
- 劇中、野原一家(主人公は、しんちゃんの父の野原ひろし)が出演する特撮「ヒーローサン(ヒロシサン)」は大阪万博会場ミニチュア・ジオラマセットが舞台。
- 浦沢直樹『20世紀少年』
- ムロタニツネ象『パビリオン地獄』
テレビドラマ
- 『ウルトラマン』(1967年、TBS)
- 第26・27話「怪獣殿下」に登場する怪獣ゴモラは、大阪万博で展示するために日本に移送される途中目を覚まし、大阪を蹂躙する。
- 『仮面ライダー』(1971年、MBS/NET)
- 第7話「死神カメレオン 決斗!万博跡」(5月15日放映) 会期終了後のエキスポランドで撮影。
- 連続テレビ小説 『まんてん』(2002年、NHK)
バラエティ番組
映画
- 日本一の断絶男(東宝、1969年)
- 山田洋次監督作品『家族』
- 谷口千吉監督作品『日本万国博』
- 井上梅次監督作品『鑚石艶盗』(香港映画) 1971年2月香港公開。
- 怪獣映画『ガメラ対大魔獣ジャイガー』
- 『20世紀少年』
- 上記の漫画を映画化。
- 湯浅憲明監督作品『ボクは五才』
- このほか、ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーが当時製作中の映画『惑星ソラリス』の一シーンに大阪万博会場の光景を使おうとした。しかし万博開催中に出国許可が下りず、ようやく閉幕後に訪れたが、イメージに合わなかったため、急遽首都高速道路の車窓風景を用いている。
楽曲
- セルジオ・メンデス「ライブ・アット Expo'70」アルバム(会場でのライブアルバム)
- スクールメイツ「エキスポ・メイツ・ショー」アルバム(会場内の水上ステージで開催されたショーのサウンドトラック・アルバム。CD『ベスト・オブ・スクールメイツ』に全曲収録)
- ベンチャーズ「EXPO'70(Kyoto Doll)」シングル (日本語題は『京都の恋』。渚ゆう子がカバーして大ヒットした)
現代音楽(万博で初演・公開されたもの)
- 武満徹:『クロッシング』(鉄鋼館)
- 高橋悠治『慧眼(エゲン)』(鉄鋼館)
- ヤニス・クセナキス『ヒビキ・ハナ・マ』(鉄鋼館)
- カールハインツ・シュトックハウゼン『シュピラール』『シュティムンク』(西ドイツ館)[14]
- 湯浅譲二『スペース・プロジェクションのための音楽』(せんい館)
- 湯浅譲二『ヴォイセス・カミング』より『テレ・フォノ・パシー』(電電公社)
- 松平頼暁『アッセンブリッジズ』
- 三善晃『トランジット』
- 黛敏郎『生命の讃歌』(太陽の塔)
その他
博覧会閉幕後
会場跡地はビジネス副都心・研究都市など様々な開発案があったがどれも明確な計画ではなく、最終的には公園として再整備され1972年に万博記念公園として開園している。
多くの自然文化施設、文化施設、スポーツ施設、レジャー施設が所在し、今も多くの市民に親しまれている。また、開催中から営業していたアミューズメントエリアのエキスポランドは、2009年に閉園となった。
博覧会を主催した日本万国博覧会協会は、1971年9月に設立された日本万国博覧会記念協会(大蔵省主管)にその業務が移管され、その後2003年に特殊法人の整理合理化計画に伴い、独立行政法人日本万国博覧会記念機構となった[15]。しかし、2013年に記念機構を廃止する法律が成立し、2014年4月1日付で記念機構は解散、万博記念公園の運営は大阪府に、また基金事業は関西・大阪21世紀協会にそれぞれ引き継がれている[16]。
パビリオンの転用
- カンボジア館 - 広陵町自治会集会場(兵庫県神戸市北区広陵町、1971年移築)
- オーストラリア記念館 - 三重県四日市市大字羽津甲[3]。2013年に閉館、取り壊し予定。
- ラオス館 - 宗教法人「昭和寺」として長野県の霧ケ峰に移築されている[4][5]。
- ウルグアイ館 - ラーメン店「どさん娘」 兵庫県氷上郡(現・丹波市)氷上町市辺 市辺交差点付近にて 現在は取り壊し。
- ペルー館 - 喫茶「ペルー」 兵庫県氷上郡(現・丹波市)氷上町市辺 市辺交差点付近にて 現在は取り壊し。
位置情報
関連項目
脚注
外部リンク
- 独立行政法人日本万国博覧会記念機構
- 懐かしの大阪万博
- OSAKA BAN PACK!
- 蛞蝓万博 EXPO '70
- 万博記念館
- EXPO '70デザイン展
- 万博(Expo'70)を見た乗物たち
- 「公式長編記録映画 日本万国博覧会」DVD 公式HP
- パルナス思い出の館
- 大阪万博パピリオン3DCG(壁紙使用可)
- 失われた未来 LOST FUTURE 2000
- 吹田博物館で見た岡本太郎
- エキスポタワー写真館
- 『花ひらく日本万国博』 - NPO法人・科学映像館Webサイトより
- ↑ 1.0 1.1 [6]
- ↑ 2010年の上海万博に抜かれるまで、長らく万博史上最高だった
- ↑ これも上海万博に抜かれるまで1日最高入場数の万博記録だった
- ↑ 4.0 4.1 4.2 1970年9月14日付毎日新聞
- ↑ ただし、大阪万博の入場料は800円と当時のサラリーマンから見て高額であった点、上海万博では記録更新に躍起になってチケットのバラマキ行為が行われたといわれている点、日本と中国との人口差など加味するべき点もあるが、事実は上記の通りである
- ↑ 『幻の1940年計画』P.89 指南役著 アスペクト 2009年
- ↑ 鈴木と丹下のつながりは新東京都庁舎にも続いた。
- ↑ 大高は他に日清カップヌードルのロゴや初代「のりたま」のパッケージデザインを手がけた。
- ↑ ミニ「EXPO70」13日オープン…パビリオン模型など3000点 - YOMIURI ONLINE(読売新聞)
- ↑ 現在の藤女子大学花川キャンパスの辺りで、付近のバス停にも「スカンジナビア館」と表記されていた。
- ↑ 中国道、上り線用地を北大阪急行電鉄会場線用地として貸与していたため、万博開幕直前の1970年3月1日に吹田JCT-中国豊中IC間のみ暫定2車線で供用を開始し、万博期間中の7月23日に中国豊中IC-宝塚IC間までが延伸した。万博終了後に当初の計画どおり4車線化されて開通した。
- ↑ 北大阪急行は万博期間終了後、会場線と万国博中央口駅を廃止した。なお大阪モノレールは万国博終了後20年を経た1990年に路線開業し、万国博中央口駅跡のすぐ南に万博記念公園駅が作られた。
- ↑ 日本民間放送連盟に加盟するテレビ全局同時ネットの番組としては『ゆく年くる年』があったが、番組制作そのものは各キー局が持ち回りで行っていた。
- ↑ [先端芸術音楽創作学会(JSSA)第7階研究会会誌 柳田益造「1970年のシュトックハウゼン ―西ドイツ館スナップショット―」p13-p20, 同誌 水野みか子「1970年大阪万博のシュトックハウゼン ―音楽における空間性理念の側面から―」p21-26 http://www.jssa.info/paper/2010v02n03/PDF/JSSA2010v02n03.pdf]
- ↑ 「独立行政法人日本万国博覧会記念機構法を廃止する法律案」について - 財務省(2013年4月、PDF文書)
- ↑ 引用エラー: 無効な
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません