村田英雄
テンプレート:Mboxテンプレート:Infobox Musician 村田 英雄(むらた ひでお、公称1929年1月17日 - 2002年6月13日)は、演歌歌手、俳優。 佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)出身。出生は福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)である。本名、梶山 勇。血液型はAB型。新栄プロダクションに所属していた。愛称は、ムッチー。
目次
生涯
浪曲師から歌手へ
福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)に、実父・広沢仙遊、実母・矢野ツタ子の子として生まれる。生後まもなくツタ子の姉弟子である出利葉スミ子の養子となる。その後、スミ子が梶山春雄と結婚し、一家は佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)へ引っ越す。
4歳の時、両親が雲井式部一座に加わり巡業先で雲井式部から京山茶目丸と名付けてもらい、宮崎県の孔雀劇場にて『中山安兵衛婿入り』初舞台を踏む。その後大人気の浪曲師に因んで少年 酒井雲と改名。無許可で名乗っていたが、本家の知るところとなり、これが機縁となり大阪道頓堀の劇場に出演中の酒井雲本人を訪ね、楽屋で声しらべをしてもらい、5歳のときに酒井雲門下に弟子入りし、当時師匠が住んでいた大阪市西九条に移住し修行を開始する。64番目の弟子であった。この時、師匠から酒井雲坊の名前をもらい、13歳で真打昇進、14歳で「酒井雲坊一座」の座長となり、その後も九州にて地方公演を続ける。
1947年に少女浪曲師の吉田伊万里(本名 野口ユイ子)と結婚。
1949年、浪曲界に顔の利いた西川芸能社(現 新栄プロダクション)社長・西川幸男(浪曲師出身で、初代木村友衛門下だった)に宛て、自ら手紙を書きマネージメントを依頼。師匠・酒井雲と西川が合意、「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京し、25歳で村田英雄に改名。数年後に妻子を呼び寄せる。新婚当時は浪曲人気といえども貧乏の中で生活していたが、ラジオでの口演や実演で少しずつ名前が売れ出し、若手浪曲師として注目を集めるようになる。
1958年、たまたまラジオで村田の口演を聴いた古賀政男に見出され、すでに映画や演劇で知られていた十八番の芸題(演目)であった浪曲『無法松の一生』を古賀が歌謡曲化(歌謡浪曲)、同曲で歌手デビューを果たした。
- 尚、従来、舞台と映画で知られていたこの作品を取り上げたのは、師匠である酒井雲自身が浪曲界でも屈指の読書家であり『文芸浪曲』(文字の読み書きの出来ない人々にも文学に親しんでもらおうと考えだした芸題群の事)という浪曲のジャンルを確立し、この事を見習って、自身も北九州を舞台とした代表的な文学作品であった同作を取り上げた事と、文学界きっての偏屈者と噂された原作者の岩下自身が浪曲ファンで浪曲化を承諾したといわれる。
しかし、同年に三船敏郎&高峰秀子主演によるリメイク版映画の公開があったものの、ヒットに恵まれず(わずかに「人生劇場」のリバイバルヒットがあったのみ)NHK紅白歌合戦への出場も果たせずにいた。
1961年11月に発売した西條八十作詞船村徹作曲の「王将」がミリオンセラーとなり、翌1962年に第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。「王将」のヒットで、以前出した「無法松の一生」「人生劇場」なども相乗効果でヒット、人気を確立する。
「王将」は1963年に三國連太郎&淡島千景主演(監督:村山新治、脚本:伊藤大輔、 東映東京)、1965年には勝新太郎&有馬稲子主演 (監督:三隅研次 、脚本:伊丹万作、 大映京都)でそれぞれ、映画化され、村田の代表作の一つとなった。
1973年、持病の糖尿病の悪化で倒れ、一年間休業するも復帰。1970年代に入ってからはヒットもなく一時低迷するも、演歌ブーム最中の1979年に、有線放送から「夫婦春秋」(1967年発売)がヒットし、相乗効果で(当時の)新曲「人生峠」、続いて「夫婦酒」をヒットさせ健在ぶりをアピールした。 また1981年〜1982年には、ラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』でその豪快なキャラクターや逸話をネタとして取り上げられた事で若年層からの人気も獲得する。
1988年、ともに同年代で同時期に活躍し、歌謡界をリードしてきた三橋美智也、春日八郎と「三人の会」を結成、ジョイント・コンサートなどで活動した。作風はデビューから一貫して『男』、『人生』、『夫婦』を題材に歌った曲が多い。また『二階堂伸』、『北くすお』のペンネームで作詞、作曲もこなしている。
俳優としては1939年の新興キネマ京都作品の少年浪曲師としての初出演を皮切に、1974年まで任侠映画等に多数出演。身長160cmと小柄ながら、男らしい風貌と鍛え上げた声で1960年代後半は東映任侠映画に欠かせない主演スターとして活躍。鶴田浩二・高倉健・北島三郎・千葉真一らと多数共演した。
持病の糖尿病が再び悪化した1991年以降も闘病生活を送りながらも「演歌が再び注目されるまで歌う」という執念から精力的に活動し、話題を集めた。
- 1993年 芸能生活60周年を記念し、『俺は村田だ!!』を出版。
- 1997年 半生記『生命あってこそ』を出版。芸能生活65周年記念パーティーを開く。
- 1999年11月13日 福岡県浮羽郡吉井町(現うきは市)の生家に石柱を建立、翌2000年10月18日に若宮八幡宮に生誕地記念碑が建立される。
- 2000年 石田須眞子と再婚。
闘病
村田の人生は「糖尿病との闘い」でもあった。食生活では大の野菜嫌いで、「太い声を出すには何より肉を食べることだ」として肉を多食した上、無類の酒好きであった。こうした生活習慣が影響し、35歳で発症。
1972年から1973年にかけて病状悪化のため一時入院。その後1991年、長年連れ添った妻・ユイ子が死去。ほぼ同時期に「三人の会」の仲間で公私共に親しかった先輩歌手の春日八郎も死去したことで、心労が重なり再び病状が悪化、見かねた周囲の関係者からの勧めで妻の葬儀終了後に治療のため入院。退院後は後見人(『全国村田英雄後援会』幹部)と「大阪のお母さん」と呼んでいた長年の愛人(本妻も生前「この人ならば」と半ば公認していた)石田須眞子(2009年11月1日、78歳没)が住む大阪府門真市のもとに身を寄せ、ここを本拠地とし、仕事のある際だけ上京する生活を続ける。また同地で村田の闘病生活の支えとなっていた須眞子と「男としてけじめをつける」と再婚。結婚式も挙げ、合計140歳の高齢婚と大いに話題となった。
体調管理を行い小康を得ていたが1995年頃より糖尿病の合併症が深刻となり、同年8月には急性心筋梗塞、欝血性心不全で一時意識不明に陥る。翌1996年1月には「三人の会」の仲間・三橋美智也が亡くなり、「この前、私が倒れたとき真っ先に駆けつけて頂いたのが(三橋)先輩だった。まさか先に逝かれるとは」と思いを語っている。
そうした心労が祟り、翌2月の白内障手術のための入院中に倒れ、6時間におよぶ心臓バイパス手術を受けた(白内障の手術は回復した翌3月に受けた)。さらに5月には右下肢閉塞性動脈硬化症で壊疽状態に陥り、右膝下12センチを切断。このとき「一切無になりたかった」と剃髪(病の影響で90年代以降、鬘を着用していた)。以後は坊主頭に作務衣がトレードマークになった。
翌97年には大月みやこ公演への特別出演という形で全国公演を実施。回復ぶりを示したものの、同年10月に低血糖発作(今まで呑んだことの無かった白ワインを酒と思わずに大量摂取したためと本人が苦笑いしながら会見)を起こし、一時は生死すら危ぶまれた。12月には糖尿病性網膜症のため左目を手術。2000年1月には左足も同様に切断。それまでは義足で歩いていたが完全に車椅子生活となる。さすがの村田も憔悴していたが「足がなくても歌は歌える」と自ら鼓舞をするなど、ますますその存在感を示した。
2001年4月、同じ浪曲師出身で長年のライバルと言われた三波春夫も死去。村田は「これで生き残ってるのは俺一人だけだな…」と憔悴しきった表情でインタビューに答えている。同年6月に「私にはもう時間がない、生きているうちに何としてでも世に出さなければ」と、「三人の会」のコンサートで発表したオリジナル楽曲をレコード会社の垣根を越えてCD化にこぎつけた。
2002年5月に体調を崩し入院していたが、6月13日、合併症の肺炎のため、同日午前9時52分に大阪市都島区の大阪市立総合医療センターで死去[1][2]。テンプレート:没年齢。戒名は「玉泉院英馨日楽大居士」(ぎょくせんいんえいしょうにちぎょうだいこじ)。没後に勲四等瑞宝章を授与された(勲記は没日の2002年6月13日付)。
共演経験のある室田日出男が3日後に死去、ビートたけしは「村田さんの次は室田さんが…」と故人を悼んだ。
なお死去5日前の6月8日には、スポーツ報知が訃報の誤報を一面に掲載。その情報を受けてテレビ番組「やじうまワイド」、東京スポーツ、日刊ゲンダイが同様に報道し、その後訂正・謝罪するという騒動が発生している。
記念館
2004年5月23日に地元の有志により村田の業績を後世に伝えるため故郷の佐賀県相知町(現唐津市)に「村田英雄記念館」がオープンした。旧・佐賀銀行相知支店として使用されていた店舗を改装した館内では、遺品の展示や、楽屋の再現コーナー、出演映画や出演番組を放映する音響コーナーなどがあり、喫茶コーナーでは遺品のカップや食器をそのまま利用して提供しており、BGMのリクエストにも応えている。
年に1回「村田英雄音楽祭」、「生誕祭」(1月17日)が行われている。2009年には福岡県うきは市も合同に「生誕祭」を行い、村田英雄を通して両市の交流が深まることとなった。
NHK紅白歌合戦出場歴
NHK紅白歌合戦には1961年に初出場、73年の第24回紅白は糖尿病治療のため入院中だったため事前に出場辞退を表明。70年代はヒットが出ず紅白でも過去のヒットを歌う形が長く続いていたが79年に12年前に発売した「夫婦春秋」が有線リクエストで人気を得て、それに相乗し当時の新曲「人生峠」が20万枚を超えるヒット。続けて「夫婦酒」もヒットしレコード歌手の第一線に返り咲く。1980年代に入っても、発売する曲はほとんどオリコンランキングにチャートインするなど根強い人気を見せ、1989年までに通算27回の出場を果たした。しかし、他の常連歌手と異なり白組トリを一度も務めておらず、トリ未経験の歌手としては最多出場回数となっている(ただし、1962年・第13回、1979年・第30回、1982年・第33回では村田が白組トリの候補として挙がっていた)[3]。
年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 | 備考
<tr><td>1961年(昭和36年)/第12回<td>初<td>王将<td>06/25<td>松山恵子(1)<td> <tr><td>1962年(昭和37年)/第13回<td>2<td>王将(2回目)<td>23/25<td>松山恵子(2)<td> <tr><td>1963年(昭和38年)/第14回<td>3<td>柔道一代<td>14/25<td>畠山みどり<td> <tr><td>1964年(昭和39年)/第15回<td>4<td>皆の衆<td>13/25<td>島倉千代子(1)<td> <tr><td>1965年(昭和40年)/第16回<td>5<td>柔道水滸伝<td>20/25<td>水前寺清子(1)<td> <tr><td>1966年(昭和41年)/第17回<td>6<td>祝い節<td>20/25<td>水前寺清子(2)<td> <tr><td>1967年(昭和42年)/第18回<td>7<td>浪花の勝負師<td>08/23<td>越路吹雪<td> <tr><td>1968年(昭和43年)/第19回<td>8<td>竜馬がゆく<td>19/23<td>扇ひろ子<td> <tr><td>1969年(昭和44年)/第20回<td>9<td>王将(3回目)<td>15/23<td>西田佐知子<td> <tr><td>1970年(昭和45年)/第21回<td>10<td>闘魂<td>01/24<td>水前寺清子(3)<td>トップバッター <tr><td>1971年(昭和46年)/第22回<td>11<td>人生劇場<td>16/25<td>いしだあゆみ<td> <tr><td>1972年(昭和47年)/第23回<td>12<td>ここで一番<td>07/23<td>佐良直美<td> <tr><td>1974年(昭和49年)/第25回<td>13<td>皆の衆(2回目)<td>16/25<td>ペドロ&カプリシャス<td> <tr><td>1975年(昭和50年)/第26回<td>14<td>無法松の一生<td>10/24<td>水前寺清子(4)<td> <tr><td>1976年(昭和51年)/第27回<td>15<td>男の土俵<td>16/24<td>水前寺清子(5)<td> <tr><td>1977年(昭和52年)/第28回<td>16<td>男だけの唄<td>15/24<td>由紀さおり<td> <tr><td>1978年(昭和53年)/第29回<td>17<td>人生劇場(2回目)<td>22/24<td>島倉千代子(2)<td> <tr><td>1979年(昭和54年)/第30回<td>18<td>人生峠<td>21/23<td>青江三奈(1)<td> <tr><td>1980年(昭和55年)/第31回<td>19<td>夫婦酒<td>21/23<td>青江三奈(2)<td> <tr><td>1981年(昭和56年)/第32回<td>20<td>なみだ坂<td>15/22<td>青江三奈(3)<td> <tr><td>1982年(昭和57年)/第33回<td>21<td>夫婦春秋<td>19/22<td>石川さゆり(1)<td> <tr><td>1983年(昭和58年)/第34回<td>22<td>空手一代<td>14/21<td>都はるみ<td> <tr><td>1984年(昭和59年)/第35回<td>23<td>冬の海<td>11/20<td>牧村三枝子<td> <tr><td>1985年(昭和60年)/第36回<td>24<td>男の一生<td>18/20<td>石川さゆり(2)<td> <tr><td>1986年(昭和61年)/第37回<td>25<td>男吉良常<td>18/20<td>島倉千代子(3)<td> <tr><td>1987年(昭和62年)/第38回<td>26<td>男の花吹雪<td>14/20<td>神野美伽<td> <tr><td>1989年(平成元年)/第40回<td>27<td>王将(4回目)<td>第1部に出演<td>(対戦相手なし)<td> </table> (注意点)
人物・エピソードギャグとムッチーブーム1980年代に入るとテレビの露出は減り、いわゆる「大御所」的なポジションになっていたが、ビートたけしが自らの番組で取り上げた事から、若年層のファンが急増し三橋美智也のミッチーに対抗し「ムッチーブーム」と言われるようになる。 そもそもの発端は、1981年に始まった『ビートたけしのオールナイトニッポン』内の「デカ頭コーナー」だった。芸能界では有名な三波春夫とのエピソードから派生し、「村田先生の頭はデカい」という話になり、どの位デカいかのネタを投稿するコーナーが出来た。「セーターを試着しようとしたら、頭が出なかった」等の「頭がデカい」ネタから徐々にトンチンカンな村田の言動や行動をネタにする内容に転じて行き、リスナーの間でブームになる。その噂を聞きつけた村田本人からニッポン放送に電話があり、急遽番組に出演して行ったトークが好評で、任侠物のラジオドラマを作るなど、同番組に度々出演するようになる。当時いわゆる「業界聴取率」が高かった同番組がテレビ番組などへも影響を与え、従来は出演しなかったバラエティー番組やコント番組などへも出演の幅が広がり、「ムッチーブーム」と言われるまでになったものである。
1983年、ビートたけしのオールナイトニッポンのゲストとして満を持して番組に登場、トーク中心の構成となったが、途中、紹介されるネタを怒るどころか、豪快に笑い飛ばしながら事実を解説し、「いやあ、たけちゃんや聴いてくれている皆さんが、こうしていじってくれるということは芸人冥利に尽きるよ!!!」と終始嬉しそうに語っていた。 この事が機縁となり、後にビートたけしとテレビCM(サントリー「バイオミンX」)で共演を果たした。CMは、バス停にスーツ姿のたけしとなぜかステージ衣装とメイクで書類封筒を持つ村田が並んでおり、村田がたけしに「お勤めですか?」と尋ね、「役所関係に・・・ちょっと」答えるたけしにバイオミンXを勧める。今度はたけしが「お勤めですか?」と尋ねると、村田が「芸能関係に・・・ちょっと」と答える、というコント仕立てのもので、決め台詞は「新しく新発売!」というものだった[4]。ビートたけしが発した「村田だ!」のフレーズは人気となり、清水アキラが'86年頃から始めた村田のものまねでさらに広く浸透した。こうした人気を受け、1989年には村田自身がシングル『あゝ万次郎』のカップリングとして『俺が村田だ』という曲を収録している。たけしがコメンテーターを務める『情報7days ニュースキャスター』(TBS)でも一時、オールナイトニッポン当時のネタを紹介していた。 三波春夫との仲村田と同じ浪曲出身の演歌歌手、三波春夫とは互いにライバル同士という位置付けであり歌番組での競演も多かった。有名であった三波と村田の不仲説は実際のところ、周囲の関係者やマスコミ、世論が作り出した先入観と偏見に近いものがある。村田は三波を先輩歌手として慕い、ゴルフや食事を共にする仲だった。「上手・下手事件」[5]など、半ば面白おかしく伝えられているが、実際はほぼ同時期にデビューした良きライバルとして互いに意識していた程度であり、犬猿の仲というほどのものではなかった。 村田が1996年に右脚を切断した際、三波は励ましの電話をかけるなど、晩年まで親交は続いた。村田は基本的に「男の演歌」を保守的に一筋に歌い続けたが、三波は後年、自分の持ち歌にハウスサウンドやラップを融合させるなど革新的に新しいものにも挑戦しており、仕事に対する考え方や取り組む姿勢、そのスタイルは全く対照的だった。 その他また作詞家でフランス文学者だった西條八十は当初、王将の作詞を拒み続けたという(将棋を指したこともなかった)。だが、村田が西條の自宅に何度も断られても足を運ぶことでついに了承した。 NHK紅白歌合戦で『王将』を歌った際には、村田本人が3番の歌詞の『何が何でも勝たねばならぬ』の一節を好んでいたこともあり、また『絶対に白組が勝つ』という心意気を込めて必ず1番と3番を歌ったという[6]。 また、自ら作詞・作曲を手掛けた曲もあり、作品の中で『二階堂伸』(作詞者名義)、『北くすお』(作曲者名義)というペンネームを用いていた。 東映任侠映画を中心に映画出演が続いたため、「村田は歌をやめたのか」と皮肉られ、その後は一切出演しなかった。 女に手を出すのが早かったという。テレビ番組『たけし・所のドラキュラが狙ってる』で女千人斬りの伝説を認めた。番組内で「千人ぐらいは斬ってるだろうな」と述べている。若き日は『ハヤブサのヒデ』と呼ばれたという。 作品日本コロムビア在籍時代の歌
東芝EMI在籍時代の歌
三人の会のライブ作品 共に2001年6月に発売。
出演映画
ラジオ
テレビ
CM
関連人物
脚註外部リンク |
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- ↑ 村田が白組トリを取れなかった経緯については、『第28回NHK紅白歌合戦』の項を参照。
- ↑ この撮影中にも村田が付き人に「おい!喉乾いたから、オロナミンC買ってこい!」と叫び、撮影スタッフがひっくり返った・・・との、嘘とも本当ともつかないエピソードが紹介されている。ちなみに「バイオミンX」はサントリーが初めて手掛けた“炭酸入りドリンク飲料”で、大塚製薬のオロナミンCは競合商品の急先鋒だった。
- ↑ 村田と三波春夫が舞台で共演した際、台本に「三波上手(かみて)、村田下手(しもて)」と、立ち位置について書いてあり、村田が「何で三波が上手(じょうず)で俺が下手(へた)なんだ!」と激怒したという逸話。その真偽の程は不明。
- ↑ 『ドキュメンタリー紅白歌合戦 あの時あの歌』(日本放送協会出版刊 1984年)より