三船敏郎
テンプレート:ActorActress 三船 敏郎(みふね としろう、1920年4月1日 - 1997年12月24日)は、日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。本名は同じ[† 1]。
黒澤明とともに、敗戦で打ちひしがれていた日本が世界から尊敬されるきっかけを作った人物の一人とも言われる[1]。 ヴェネツィア国際映画祭 男優賞を2度受賞し、日本では世界のミフネと呼ばれた。 英語圏では、TheWolfやTheShogunなどと呼ばれた[2]。墨映画『価値ある男』、米映画『グラン・プリ』、『太平洋の地獄』、米ドラマ『将軍 SHOGUN』、仏映画『レッド・サン』などの出演もあり、日本が誇る国際スターのみならず、「国際的映画人」として世界中の映画関係者に影響を与え、尊敬された(⇒#世界のミフネ・#映画人の評価参照)。
出演料収入も歴代の日本のスターの中で別格であり、2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・日本編」で男優部門の1位に選ばれた[3]。
経営する三船プロダクションは東京世田谷区に大手の映画会社に次ぐ規模のスタジオを所有し、「都内で唯一時代劇が撮影できるオープンセットを持つスタジオ」として各社に重宝がられた。多数の専属スタッフを抱える製作会社だったが、1979年に内紛騒動が起きたため1984年に撮影所を閉鎖、経営縮小を余儀なくされた。
元俳優で映画プロデューサーの三船史郎は本妻(元女優の吉峰幸子)との、タレントの三船美佳は内縁の妻(女優の喜多川美佳)との間にもうけた子供。
栄典及び称号は、芸術選奨・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・川喜多賞・芸術文化勲章・ロサンゼルス市名誉市民・カリフォルニア大学ロサンゼルス校名誉学位。
ブルーリボン賞歴代最多(6度)入賞者でもある[4][† 2]。
以下、氏名の表記は特記を除き「三船」で統一する。
目次
来歴
誕生から徴兵、終戦まで
1920年(大正9年)、三船徳造と三船センの長男として、当時日本の占領下にあった中華民国・青島市に生まれた。父・徳造は、秋田県鳥海町の16代続く名家・三船家の次男であり、貿易商であり、写真業も営んでいた。徳造は、元は日本で医者を目指していたが、写真に夢中になり、あちらこちら旅行し、最後に中国にたどりついて、そこでカメラ店を開いたという[5]。
1925年(大正14年)、一家は大連に移り住み、父・徳造は「スター写真館」を開業。1934年(昭和9年)、大連中学校に入学。三船は若い頃からワルだったと言うが、1938年(昭和13年)、大連中学を卒業。1940年(昭和15年)、徴兵・甲種合格で兵役に就いた。これが父母との永遠の別れになった。 中国大陸で育ったことから、徴兵に際し死を覚悟し、父親の勧めで初めて日本(神戸)の土を踏んだ。写真の経験・知識があるということから満洲国・公主嶺の陸軍第七航空隊に配属されるが、そこでのしごきが凄まじく、一発二発のビンタでは倒れないのでよけいに殴られ、声が大きいだけでも殴られ、顔が変形するほどだったと、テレビのインタビューで語った。 そこで写真業の手伝いをしていた腕を見込まれて、航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となった。息子の史郎の話では、上官から家族の写真を撮ってほしいと呼びだされ、その出来が良かったので教育隊に残るように言われ、仲間はみな南方の戦地に赴いたが、そのおかげで生き残ることが出来たと、忸怩たる思いで語ったという。[6]また、三船は後年まで、カメラに対するこだわりが深かったという。 その後、1941年(昭和16年)、内地で、滋賀県八日市の八日市飛行場「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され(後に第七中隊の特別業務上等兵として炊事の責任者をしていた。)[7][8]1943年(昭和18年)に同部隊に現役入隊した鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係となった。鷺巣は三船の写真技術の高さを認め、円谷英二、大石郁雄と並んでの映画界の師と仰いでいる[9][10]。
1940年(昭和15年)、三船は先輩兵である大山年治(東宝撮影所撮影部所属)から、「俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、満期になったら砧の撮影所へ来い。撮影助手に使ってやる」と誘われた。が、戦況が逼迫し、満期除隊は無くなってしまったため、以後敗戦まで6年間を兵役に就いた。上官に対して反抗的な態度を取っていたので、「古参上等兵」のまま6年間を過ごした。1945年(昭和20年)の戦争末期には熊本の隈之庄の特攻隊基地に配属され、出撃前の隊員の遺影を撮る仕事に従事した。
写真班で、航空写真をもとに要地の地図をつくるとともに、少年兵の教育係も任された。自分が育てた後輩たちが、次々と南の海で死んでいくのを見送ることとなる。敗戦後にこの戦争体験を「悪夢のような6年間」と述懐したという[11]。息子である史郎の話によると、明日出陣する少年兵には、スキヤキを作って食べさせたと涙を流して語ったという。また少年兵に向かって、最後のときは恥ずかしくないから「お母ちゃん」と叫べと言っていたという。後に、「あの戦争は無益な殺戮だった」と、海外のマスコミの取材に対して語った。[12]
映画界入り
1945年(昭和20年)、特攻隊基地で終戦を迎える。その後、父の生家である秋田県由利郡鳥海町小川の三船家に世話になり、毛布1枚と米をもらって上京する[13]。三船は大山との約束を頼りに復員服のまま大山を訪ね、撮影助手採用を願い出た。ところが、何かの手違いで三船の志願書が俳優志願の申込書の中に混じり、三船は面接を受けることになった[14][15](本土復員に伴って復帰社員が増加したことから縁故採用が難しくなっており、大山が三船に「とりあえず第1回ニューフェイス募集をしてるから受けてみろ、貴様の面なら合格するはずだ、入ってしまいさえすれば撮影助手に呼べるからな」と助言したために、不本意ながら俳優志望として面接を受けることになったという説もある[16])。三船は志願変更のことなど知る由もなく、面接では審査員に「笑ってみてください」と言われた際に驚き、困っている自分をからかって馬鹿にしているのだと思ったという。三船は指示に対して、「面白くもないのに笑えません」と答え、人を食ったふてぶてしい態度を取った。ただその場にいた1人の映画監督だけが喜んで、「こんなに率直に感情を表す人間ならば、映画の役も一生懸命演ずるだろう」と言い、「まったく野蛮な奴だ」と他の人から抗議もされたが、「いつか野蛮な役をやらせればいいさ…」と反論した[17]。結局、性格に穏便さを欠くという理由で不合格、という結論が出た。
ところが、当時、会場に居合わせた女優の高峰秀子は、三船の存在感に胸騒ぎを感じており、彼女は撮影中で審査に参加できなかった黒澤明に、三船のことを知らせた。駆けつけた黒澤もまた三船を見て、ただならぬ気配を感じた。審査委員長だった山本嘉次郎監督も同じだった。 当時の審査委員会は監督など映画製作の専門家と労働組合代表の半数ずつで構成されており、黒澤は「俳優の素質を見極めるのに専門家と門外漢が同じ一票ではおかしい」と抗議。結局山本が「彼を採用して駄目だったら俺が責任をとる」と発言し、なんとか及第となる。太々しさの中に見える大器の可能性も買われて形式的には補欠採用となり、思わぬ形で役者の世界に入った。東宝第1期ニューフェイスの同期に久我美子、堀雄二、伊豆肇、若山セツ子、堺左千夫らがいる。
なお、阿部嘉典著「映画を愛した二人/黒澤明・三船敏郎」(報知新聞社)によると、元東宝・山田一夫カメラマンの証言で、撮影部に履歴書がきたが東宝争議の影響もあり欠員が出ないと採用できなくて、山本嘉次郎監督に頼んでニューフェイスの試験を受けさせて、撮影部に欠員ができたら引き取るという話があったというのである。これが事実なら三船をニューフェイスで合格させたのは、山本監督にとって予め予定されていたことになる。一方、松田美智子著『サムライ 評伝三船敏郎』(文藝春秋、2014年1月)によれば、当時撮影部の係長をしていた山田とニューフェイスの審査員の一人だったキャメラマンの三浦光雄と二人で山本審査委員長に頭を下げて、撮影部に欠員が出たときに引取るからどうか採用してほしいと頼んだと書いている。ちなみに後年、三船は、山田を三船プロに迎えいれて、作品の撮影を依頼している。
黒澤明との関係
1947年(昭和22年)、「撮影部の空きを待っている」という三船を映画監督の谷口千吉が説得し、映画『銀嶺の果て』(監督:谷口千吉、脚本編集:黒澤明)で役者としてデビュー。雪山で遭難する3人のうちの1人を演じて話題となる。このとき谷口は、野生的な男を探していて、同じ電車の乗り合わせた三船をみて、誘うことを決める。しかし、三船は、「俳優にはならない、男のくせに面で飯を食うのは好きではない」と断った。あくまで撮影部を希望していたが、谷口は、三船の着ていたものが航空隊の制服だったこともあり、出演の交換条件に背広を作ってプレゼントすることなど提示したという。[18] ちなみに3人のうちの2人目は志村喬だった。この映画で黒澤は自分が感じていた三船のたぐいまれな才能を確信する。
1948年(昭和23年)、デビュー3作目・黒澤明監督『醉いどれ天使』に、主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザ役で登場した。この作品により三船はスターとなる。この映画で三船敏郎を初めて起用した黒澤明は「彼は表現がスピーディなんですよ。一を言うと十わかる。珍しいほど監督の意図に反応する。日本の俳優はおおむねスローだね。こいつを生かしていこうと思ったね、あの時は」と当時を振り返り語っている。
1949年(昭和24年)、『静かなる決闘』、『野良犬』を主演。
1950年(昭和25年)、『醜聞(スキャンダル)』、『羅生門』を主演。羅生門は1951年にヴェネチア映画祭で金獅子賞を取り、「世界のミフネ」の起点となった。
1951年(昭和26年)、『白痴』を主演。この映画の撮影の際に、黒澤が精神的重圧のあまり近くにあったナイフで手首を切ろうとしたところ、三船がナイフを取り上げて止めた。
1954年の『七人の侍』は、志村と共同主演の形だが、ドラマ上では沈着冷静なリーダーの志村以上に一行のもてあまし者の三船の方にスポットが当てられており、クレジット上でも上位の扱いである。随所に見られる菊千代のおどけた場面は三船の演技プランであった[19]。
1955年(昭和30年)、『生きものの記録』で老人役を主演。
1957年(昭和32年)、『蜘蛛巣城』を主演。この撮影時、黒澤が三船に向かって本物の矢を射させた。後に三船は酒に酔った時にこのことで激怒して散弾銃を持って黒澤の自宅に押し掛けたというエピソードがある。 同年に『どん底』を主演。
1961年(昭和36年)、『用心棒』を主演。この映画でヴェネチア映画祭主演男優賞を受賞。
1962年(昭和37年)、『用心棒』の続編的作品である『椿三十郎』を主演。最後の決闘シーンにおいての三船の居合はわずか0.3秒であり、三船自身が思いついた殺陣だった[20]。
1965年(昭和40年)、『赤ひげ』を主演。この映画で2度目のヴェネチア映画祭主演男優賞受賞。この作品を最後に黒澤明が監督した映画には出ていない。
黒澤明は撮影現場において「クロサワ天皇」と揶揄されるほど妥協を許さない監督として君臨していたが、三船に関しては三船の演じたいように演じさせており[21]、黒澤の三船に対する信頼の高さが窺える。野上照代によると、撮影中でも黒澤は三船の演技に注文をつけたことは無く、およそ、批判的な眼で三船を見ることは無かったという[22]。また、三船が製作に関わることもあり、三船のノートには細かく丁寧な字で演技プランがびっしり書き込まれていて、黒澤作品には三船のアイデアがたくさん詰まっている[23]。
「三船無くして黒澤無し」と言われるほど黒澤作品には欠かせない存在であり、『醉いどれ天使』から『赤ひげ』までの16年間で出演しなかった黒澤映画は『生きる』1作のみで、現代劇・時代劇問わぬ黒澤映画の顔であった。黒澤明は、三船敏郎のベネチア映画祭の男優賞の授賞式で 「僕がもらった賞の半分くらいは三船にやるべきだと思ってたが、今日三船が受賞したからその必要もなくなった」と言って三船を評価している。 『赤ひげ』を最後に黒澤映画に出演しなくなってからも、三船は『デルス・ウザーラ』を撮影している黒澤をロシアまで訪問したり、『荒野の素浪人』に『用心棒』を元にした役を出すにあたって黒澤に手紙で許可を貰うなど二人の交流は続いた。『トラ・トラ・トラ!』で黒澤が20世紀フォックスに解任されたときも黒澤を励ましたという。後年、三船は思い出深い黒澤映画として『用心棒』、『七人の侍』、『羅生門』、『赤ひげ』、『白痴』を挙げている[24]。三船の死後、黒澤は「会って、三船君、本当によくやったなあ、と褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません」とコメントした(ちなみに、三船の死から8か月後に黒澤も死去)。
志村喬との関係
三船は志村喬と51本の映画と2本のドラマ(2本とも三船プロダクションのドラマ)で共演した。黒澤作品では、三船と志村は対照的な役柄を演じることが多い。『静かなる決闘』では、二人は親子役を演じた。
三船は戦争の際に徴兵されてそのまま両親と生き別れになったことから、志村夫妻を実の両親のように慕っていたという。『七人の侍』の頃、志村は三船の親代わりで、ロケの時、他のスタッフが個室の場合でも、志村と三船はいつも同室だった。大酒飲みの三船に対して、志村は酒を嗜まなかったので、三船はいつも土屋嘉男などの部屋を訪れ、酒をあおっていたという。この親子のような関係は、黒澤が『醉いどれ天使』の頃になんとなく、志村に三船の親代わりを頼んだことに起因しているとのこと[25]。
三船が世帯を持ってからも、家族ぐるみの親交は続いた。 三船は1997年に全機能不全で死去したが、最期の1週間は、目も口も閉ざしたままで、反応はほぼなくなっていた。その頃に志村喬夫人、島崎政子が三船を見舞った。島崎が、「三船ちゃん、しっかりしなさいよ!」と耳元で励まして、頬を叩くと、三船の目から一筋の涙が流れたという[26]。
海外からのオファー
羅生門、七人の侍、用心棒、赤ひげなどで黒澤明とともにその名が世界中に知れ渡った三船敏郎は世界中からオファーが舞い込むようになる。 海外からの出演依頼はものすごい数になったと言われており、共演を熱望するスターも多かったが、三船は日本映画の出演を優先し、ほとんどの依頼を断っている[27]。
1961年(昭和36年)、初の海外主演作品となるメキシコ人監督イスマエル・ロドリゲスによる『価値ある男』にメキシコ人役で主演。この映画は、主人公のメキシコ人を日本人が演じるという奇抜なアイデアであるにもかかわらず、1962年のアカデミー賞に外国語映画部門でオスカー賞にノミネート、1961年に『用心棒』と併せてブルーリボン賞で主演男優賞を受賞、日本映画記者会賞最優秀男優賞受賞、1962年のゴールデングローブ賞に外国語映画部門でシルバーグローブを受賞、同じく1962年のサンフランシスコ国際映画祭でベスト・フィルム部門でゴールデン・ゲート・アワードを受賞するなどの結果を出す。また、このときの国際的活躍により、1961年ブルーリボン賞特別賞を受賞。この際に「昨年は日本映画に出たのは『用心棒』だけでしたが、それで賞をいただいて申し訳ないような気がします。わざわざメキシコまで行った苦労が皆さんに認められたわけで、まあ、努力賞のようなものでしょう」とコメントしている[28]。
1966年(昭和41年)、3部門でアカデミー賞を受賞したカーレース映画『グラン・プリ』で初めてハリウッド映画に出演し、この際のステージ建設で示した日本映画人としての情熱を評価されてブルーリボン賞特別賞受賞。その後も、『太平洋の地獄』や『レッド・サン』、『太陽にかける橋 ペイパー・タイガー』などで海外のスターと共演する。
『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』や『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』、『ベストキッド』は、三船プロの経営などの支障でオファーを断っている。なお、三船の代わりにオビ=ワン=ケノビ役で『スター・ウォーズ』に出演したアレック・ギネスは出演したことを大変後悔し、スター・ウォーズファンからの手紙は読まずに一切捨てたという[29]。
三船プロダクション設立とその隆盛
1962年(昭和37年)、日本映画産業の再興のために、三船プロダクションを設立して、翌年には兵庫県宝塚市にある宝塚映画(現・宝塚映像)にて、映画『五十万人の遺産』を自らの主演で初監督した。『五十万人の遺産』は1963年(昭和38年)の日本映画の興行成績で7位となるが、この作品を最後に三船は映画監督をすることはなかった。
1966年(昭和41年)、東京都世田谷区成城と調布市入間町にまたがる敷地に、時代劇も撮影できるオープンセットのある撮影所を建設。五大映画会社並みの規模のプロダクションとなる。
1968年には、三船プロダクションと石原プロモーションの合同制作の映画『黒部の太陽』を主演。1969年、監督に稲垣浩を迎えて、中村錦之助、石原裕次郎らとともに『風林火山』を作った。この2作品はそれぞれ、その年の日本映画の興行成績1位となる。
『桃太郎侍(1967年、日本テレビ系、主演:四代目尾上菊之助)』を皮切りに、西部劇を時代劇風に翻案し、黒澤作品での浪人「三十郎」を想起させる主役を演じた『荒野の素浪人(1972年、NET系)』、NHK大河ドラマに比肩する規模の大作『大忠臣蔵(1971年、NET系)』、萬屋錦之介主演『破れ傘刀舟悪人狩り(1974年、NET系)』などテレビドラマも制作し、時代劇の歴史に一石を投じた。
三船プロダクション内紛・分裂
1979年(昭和54年)、東宝助監督から三船プロへ移籍し、役員となっていた田中寿一が竜雷太、阿知波信介らとともに大量離脱して三船プロから独立、田中プロモーションを設立した[30]。この内紛が原因で三船プロは大打撃を受け、テンプレート:要出典範囲三船の権威は傷をつけられ、以後、三船は、『日本海大海戦 海ゆかば』を除き、邦画において主役を演じることはなかった。現在も三船プロダクションは小規模ながら活動している(⇒三船プロダクション参照)。
結婚と離婚裁判
三船は1950年(昭和25年)、東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優・吉峰幸子と結婚、同年に息子の三船史郎をもうける。幸子は四十五年にわたる結婚生活を、「次男坊(武志)が十歳になるくらいまではよかった」と、友人に語っており、1970年(昭和45年)あたりまで夫婦関係は順調だったことがうかがえる[31]。1970年代に入ると夫婦関係は冷め切ったものとなり、三船の酒乱に悩まされた幸子により、三船は家から追い出される。しかし本心は三船との関係修復を望んでいたという。そのため、幸子は自分から三船を追い出したが、三船が離婚しようとするとこれを拒否。幸子は三船側より離婚訴訟が起こされるに及んだが、離婚届に判を死ぬまで押さなかった。この離婚裁判の間に三船は女優・喜多川美佳と交際し、1974年に来日した米フォード大統領を迎賓館に招いた歓迎晩餐会では喜多川美佳を妻として同伴して出席している[32]。1982年、喜多川との間に娘(三船美佳)をもうけ、喜多川の芸名である「美佳」を娘にそのまま付けた(喜多川の本名は大野照代)。娘・美佳が生まれて間もないころ、三船は喜多川と娘・美佳を連れてマスコミの前に現れて親子三人の写真を撮らせている。娘の美佳とはかなり年が離れているため、親子というよりはむしろ孫と祖父に見られる事も多かったという。けれども、1992年(平成4年)に心筋梗塞で倒れたのをきっかけに、三船は喜多川美佳との関係を解消して、三船の看病を希望した幸子のもとに戻った。それ以後、幸子は時節体調のすぐれない三船を支え、円満な夫婦関係であったという[33]。1995年、幸子が死去し、45年間の結婚に幕が下りた。
晩年
晩年は山田洋次監督『男はつらいよ 知床慕情』(1987年)の頑固者の老獣医師や、市川崑監督の『竹取物語』(1987年)の竹の造翁、熊井啓監督の『千利休 本覺坊遺文』(1989年)の千利休、『深い河』(1995年)の塚田など、渋い演技を見せた。
1988年(昭和63年)、『男はつらいよ 知床慕情』と『竹取物語』でブルーリボン賞助演男優賞を受賞。
1993年(平成5年)、勲三等瑞宝章を受章。このころより体調がすぐれないことが多くなる[34]。
1997年(平成9年)、12月24日に全機能不全のため77歳にて死去。晩年は軽度の認知症を発症していたといわれ、週刊誌やワイドショー等の話題となっていた。遺作は1995年の『深い河』(熊井啓監督)だった。葬儀は黒澤プロ=三船プロ=東宝の合同葬だった。
死後
三船の部屋は2012年現在でも生前のままの状態である。戦争時の飛行機用のゴーグル、毛布から自分の手で縫った兵隊用のコートが最後のままの状態にあり、その他、古いいろんな物が残っている。長男の史郎はあとでこれら遺品の数々を見て三船のことを偲ぶことができる資料館のようなものを作る計画を明らかにしている[35]。
三船は死後、神奈川県川崎市の春秋苑に建立された先祖代々の墓所にて眠っている[36]。
その他
黒澤作品以外にも稲垣浩監督の『戦国無頼』(1952年)、『宮本武蔵』(1954年)(アカデミー賞外国語映画賞受賞)、『無法松の一生』(1958年)(ヴェネチア映画祭金獅子賞受賞)など13作品、岡本喜八監督の『侍』(1965年)、『赤毛』(1969年)など8作品、熊井啓監督の『黒部の太陽』(1968年)、『お吟さま』(1978年)、『千利休 本覺坊遺文』(1989年)(ヴェネチア映画祭銀獅子賞・監督賞受賞)、『深い河』(1995年)など4作品と数多くの作品に出演。初期のころは『七人の侍』の影響か豪放な役が多かったが、その後戦国武将や東郷平八郎・山本五十六といった軍人・偉人の役を演じるようになった。
『日本の首領シリーズ』(1977 - 1978年)で初めて東映作品に出演したが、当時、社長だった岡田茂は「三船さんの当社作品への出演は悲願だった」と語った。
『黒部の太陽』、『風林火山』、『待ち伏せ』、『1941』など映画の製作にかかわることもある。
三船敏郎の声は、英語吹き替え版ではポール・フリーズによって吹き替えられた。また、レッド・サン日本語吹き替え版では大塚明夫、川合伸旺、森山周一郎が声の担当をした。
人物
役柄・演技
黒澤映画では、『醉いどれ天使』の哀愁を帯びて落ちぶれていくヤクザ役、『七人の侍』の菊千代のような破天荒な三枚目役、『用心棒』・『椿三十郎』の三十郎のような善人でも悪人でもない超人役、『野良犬』での刑事・村山のような純粋な二枚目青年役、『静かなる決闘』での繊細な役、『悪い奴ほどよく眠る』の知的な秘書役など幅広い役を演じた。『羅生門』の山賊、多襄丸(たじょうまる)や『七人の侍』の菊千代などの役で、男の可愛さを表現することもある。『生きものの記録』(当時、三船は35歳)の70歳の老人役、メキシコ映画『価値ある男』のオアハカのインディオ(メキシコ人)役など現実の三船とは乖離した役も演じた。1970年のサッポロビールのCMでは寡黙で重厚感あふれる男を表現した。成瀬巳喜男監督の『石中先生行状記』・『妻の心』、溝口健二監督の『西鶴一代女』では、黒澤映画で見せる男性的魅力とは異なる側面を見せた。千葉泰樹監督の『下町(ダウンタウン)』では無口で内気で善良な男を演じている。深作欣二監督の『柳生一族の陰謀』・『赤穂城断絶』ではオールスターキャストの時代劇映画の格調を高める脇役として出演し、重厚な演技を見せている。香川京子と夫婦役あるいは恋人役を演じることが多い。
三船のノートには、細かく丁寧な字で演技プランがびっしり書き込まれており、『七人の侍』の菊千代や『用心棒』の桑畑三十郎などの地でやっているような演技は、実は周到に計算されたものだった[37]。
アクション俳優としての一面もあり、その軽快な体さばきや体格の良さで迫力のあるアクションをすることも多い。特に、殺陣の腕前に関しては、黒澤をして「殺陣のオリンピックがあれば金メダルがある」と言わしめるほどである[38]。 殺人師の宇仁貫三は、三船の殺陣の特徴として、迫力と眼光の鋭さをあげる。撮影で切りに行こうとしても、なかなか行けなかったという。さらに立ち回りでは、生身に当てて、その反動で次の相手を切っていたという。終わった後、ミミズ腫れが今日は何本入ってるか、数えていたと語っている[39]。
また、『用心棒』における三船の殺陣は凄まじく早かったことを黒澤明は後に述べている。撮影時に三船が本気で刀を振ったら速すぎて太刀筋がカメラに映らなかった。フィルムのコマひとつひとつには光が流れているだけのように見え、映してみてはじめて刀の動きがわかる程度だった。『価値ある男』ではメキシコの軽快なダンスをそつなくこなしている。2007年、米誌「Entertainment Weekly」の「25 Awesome Action Heroes(尊敬すべきアクションスター25人)」に選ばれた[40]。 また、『無法松の一生』では太鼓の腕前を披露した。
思想
元来は俳優業を「男は顔で売るべきではない」と嫌っていたが、後に「俳優は人間の屑(くず)ではない。人間の宝石が俳優になるのだ。何故(なぜ)なら神なくして人間を創造するには、人間の屑では出来ないはずだ」と俳優業を誇るようになる[41]。三船は、撮影現場に遅刻したことが一度もなく、撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識でも知られた。三船のノートに細かく丁寧な字で演技プランがびっしり書き込まれていたという逸話からも、仕事への真摯な態度が伺える[42]。『用心棒』の三船は本当に人を斬る気迫で殺陣をしており、殺陣の最中、三船は呼吸を止めていて、カットの声がかかると肩で息をするので、共演した司葉子が当時を振り返り、撮影中の三船は命がけで演技をしていたと語ったエピソードもあるほどである[43]。
また、三船は日本人であることに誇りを抱いており、「私は日本と日本人のためにこれからも正しい日本人が描かれるよう断固戦っていく」と語っている[44][45]。「残酷な軍人やエコノミックアニマル。日本人は、そんなやつらだけじゃあないと、世界中に知らしめたいんだ」と海外作品のロケ中に、親しい人に吐露したこともあったという。 『007は二度死ぬ』のロンドンでの撮影の際に浜美枝がダンスホールに誘われて踊っていたところ、ちょうどロンドンに滞在中だった三船敏郎が間に入って来て、刀を抜く真似をし、「日本人の誇りを忘れるな」と一喝したこともあった。
三船は時代劇に出演するにあたって三船家の家紋の入った着物を着用するなど、両親と先祖に対する思い入れは相当なものだった[46]。なお、三船プロダクションのロゴマークも三船家の家紋である。
性格
映画では『七人の侍』の菊千代のような豪放磊落な役を演じることが多く、実際そのような一面があり[47]、豪快な逸話が多数ある(⇒#逸話参照)。また、一方で、東欧のベテラン女性学芸記者との対談で彼女に「私はミフネが世界で一番好き。だってセクシーでキュートだもの」と言われて顔を赤らめる[48]、淀川長治にパーティで「あんたは綺麗だねぇ」と言われ「俺、きれいだなんて言われたのは初めてだ。」と照れ笑いするなどの可愛らしい一面もある。三船が助演で6度目のブルーリボンに輝いた際には、「まさか賞をいただけるとは思わなかった。寅さん(『男はつらいよ 知床慕情』)ですよね? 手応えあったかと言われても『竹取物語』と掛け持ちでちょっとしか出てなかったし、俺はああいう無骨な役しかできないし」と三船にとっても驚きと戸惑いの方が大きかったようで、受賞インタビューでは「まあ、いただけるものならありがたくちょうだいしますよ」と最後まで照れていた[49]。
三船はトップスターながら偉ぶらず、付き人もなしで、自分で車を運転して撮影所に現れて、誰に対しても気取らずに親しんで挨拶をした。エキストラにも挨拶をするので、スタッフがあわてたという[50]。三船は映画に対する姿勢は、非常に真面目かつ真剣であり、撮影現場に遅刻したことが一度もなかったという[51]。また、あらかじめ台本を全部覚えてくるので現場に台本を持って来ず、その影響で東宝ではそれが当たり前の慣習となった。三船はロケが終わると、ライトの片づけ等を手伝うなど気さくな性格だった[52]。ある海外の記者も、「彼(三船)の個性からにじみ出る簡素な自然の心で、暖かくありのままに人と同じ目線で駆け引きなしで接した。将軍(三船)から発せられるオーラにより、会って数分で人はだれでも彼のことを好きになってしまう。私とも昔からの友人かの如く話をしてくれた。」と三船の気さくさを書いた[53]。
ゲスト主演をした『男はつらいよ 知床慕情』では、大きなキャンピングカーを運転して撮影に現れた。その撮影現場では、三船は周囲に気を遣い、キャンピングカーに撮影スタッフや役者を呼んで、お茶会を開いたという気さくなエピソードがある[54]。
黒澤映画の撮影では、長時間たくさんのライトにさらされることがある。ライトの熱で着物が焦げ、煙が出ることもあったが、三船はそれでも微動だにせず待機していたという。このように、どの現場でも待つことを嫌がらず、苦情もまったく言わなかった。スタッフにもプレッシャーがかからないようにしていた。[55]
このように、周囲への心遣いを忘れない繊細さも多分に持ち合わせていた。
“世界のミフネ”となり世界中を行き来するようになっても、特別扱いを嫌って、付き人もつけずに飛行機に乗った。
趣味
車を趣味としており、1952年型MG-TDを45年間愛用。その他、米映画『グラン・プリ』出演の際買い求めた1962年型ロールスロイス・シルバークラウドなど多数を所有した。 また、船好きでもあり、モーターボートを所有していた[56]。ジャパン・モーターボートクラブの会長に就任していたこともある[57]。ちなみに、このモーターボートで災害時に18人の人を救出したことがある(⇒#逸話参照)。フランスやアメリカでボート遊びをしていた際に近くを客船が通り、その乗客からの“ミフネ”コールが起きたというエピソードがある(⇒#逸話参照)。軍隊で炊事をやっていたこともあり、料理を得意としている。また、毛布からズボンを作るなど裁縫もこなし、掃除好き、達筆であるなど器用な一面もある[58]。
俳優業以外の活動
映画監督、映画プロデューサーや三船プロダクションの社長としても活動。巨泉のワールドスタークイズ、悪友親友、ドリフ大爆笑のようなバラエティ番組にも出演した。 1975年にドイツのミュンヘンで日本料理店「ジャパン・レストラン三船」[59]をオープンし、経営した[60]。
三船プロダクション
逸話
戦時の逸話
- 戦争で徴兵されていたころ、三船は喧嘩になると、階級章を外して、「俺も外すから、お前も外せ。お互い階級章をはずして、人間対人間で行こう!」と言って、タンカを切り、そうすると、相手は意気消沈してしまったという[61]。
- 「中部九八部隊」で三船から写真技術の指導を受けた鷺巣富雄によると、内務班で古参上等兵だった三船は兵隊仲間の面倒見がよく、鷺巣ら初年兵をよくかばってくれたという。炊事班(こわもてが多い)に顔が利き、ビールや缶詰をよく調達してきてくれたといい、酔うと必ずバートン・クレーンの『酒が飲みたい』を唄うのが通例で、初年兵全員にこれを合唱させていた[62]。シュークリームを作ったこともあったという[63]。
- 他の兵隊がいじめられているのを見た三船は「同じ日本人なのに何でいじめるんだ。俺は俺の階級を忘れる。お前もお前の階級を忘れて俺と勝負しろ。」 と言ったという[64]。
- 満州時代に9コースの中国料理を身につけた。後年、三船はその腕前を身近な人々に披露している[65]。
東宝での逸話
- 東宝第一期ニューフェイス試験で審査委員長である山本嘉次郎に「何か得意な物は?」と聞かれ、三船は「シュークリームを作る事」と答えた。山本はシュークリームを靴のシューズのクリームだと勘違いし、「ああ、靴の、シューズのクリームですか」と返した[66]。
- 『銀嶺の果て』で黒澤明は、オーディションで照れ隠しでぶっきらぼうに振る舞った三船の才能を見抜いていたというが、一方で、谷口監督に「あんなヤクザみたいな奴を使って大丈夫か?」とも言っていたという [67]。実際には三船は真面目な人で、厳しい雪山での撮影にも音を上げず、毎日重い機材を率先して山へ運んでいたとのこと。
- 初期は似通った役(強盗やヤクザ)を立て続けに演じており、特に『酔いどれ天使』での松永が鮮烈で、街中で三船を見かけた暴力団員が、道を開けてお辞儀をしたというエピソードがある[68]。それほど三船はヤクザになりきっていた。
- 『黒澤明語る』によれば、黒澤映画の中で若い頃の三船の地の性格に一番近かったのは『七人の侍』の菊千代だったという。三船本人も撮影前から「これは私ですね」と感激していたという。なお、最初、剣の達人・久蔵には三船を予定していたが、シナリオが進むにつれ、百姓と侍を繋ぐジョーカーが必要なことに気が付き、菊千代という三船の性格を元にした役が作られた[69]。
- 1954年に『七人の侍』において菊千代を演じた際、実際の撮影現場は2月の真冬で、その上土砂降りの豪雨の中で地肌に鋼の鎧を着て殺陣を行ったが、風邪をひかなかった[70]。
- 1956年の東宝映画『ならず者』(青柳信雄監督)では主役を演じるとともに主題歌「山の男の唄」を歌った。
- 1962年『椿三十郎』の撮影で、2月の寒いときに切られ役たちが、バケツ一杯の血糊をかけられ凍えながら横たわっていた。そのことを知りながら、若侍役の役者がラーメンを夜食に食ベていたのを知り、その後の若侍を殴るシーンの撮影で、本気で殴ったという。そして、寒い中で屍になって横たわってる人間がいるのに、自分らばかりが暖かいラーメンを食うなんて冗談じゃないと、あとで叱ったという。[71]
- 『日本誕生』で女装を披露している。志村喬演じる熊曽建・兄に「美しい……」と言われている。
- 映画の撮影の合間に砧撮影所から自宅まで甲冑姿のまま車を運転して帰り、周囲の度肝を抜いた[72]。
- 初代ゴジラのスーツアクターとしても知られる中島春雄はインタビューで親しみ込めて「三船ちゃんはねえ……」と語っている[73]。専属(大部屋)役者が看板スターに「ちゃん付け」できるような東宝の和やかな雰囲気がうかがえ、三船も威張るのが嫌いだったという。
海外での逸話
- メキシコ映画『価値ある男』で主役を務めた三船は、栄誉ある「ボルビ伯爵杯」を与えられた。
- 三船敏郎は『価値ある男』でスペイン語のセリフを全部覚えて撮影に臨んだが、ネイティブによる吹き替えが使われた[74]。
- 『価値ある男』で三船がメキシコのダンスを踊るシーンがある。
- 三船はロケが終わると後片づけをよく手伝っていたが、それをアメリカでもやった際に組合に「俺たちの仕事を奪う気か!」と怒られたという[75]。
- フランスで三船がボート遊びをしていたときに近くを客船が通って、 ボートに乗っているのが三船だと分かると、客船の乗客が全員デッキに集まって来て "ミフネ!ミフネ!!"と叫んで手を振り、三船も手を力いっぱい振って答えたという。
- アメリカで三船敏郎がボートで海に出ていたところ隣に豪華客船が通り、その客船の乗客の1人が三船敏郎を見つけ、船中大騒ぎで 「ミフネー! ミフネー!」と乗客たちが手を振ってきた[76]。
- 三船がアメリカに行った際に、空港で空港税関係員に「Do you have any spirits?(あなたは蒸留酒を持っていますか?)」と質問され、「Yes! I have Yamato-Damashii!(そうだ、俺は大和魂を持っている)」と堂々と答えたことがある[77]。
私生活や裏方での逸話
- 1958年の狩野川台風においては、東京都内では仙川が氾濫し当時自宅のあった成城近隣も水没。近隣の水没した世帯の取り残された住人18名を、自宅に所持していたモーターボートで成城警察署の署員と共に救出した[78]。後日、消防庁が感謝状の授与式を大々的に行おうとしたが、三船は断りマスコミへの公表も差し止めた。
- 自社の事務所の掃除も自ら進んでする(訪問者が三船本人と気付かなかったという逸話がある)程の掃除好きだった。また、料理が好きで、中島春雄によると、一ヶ月にも及ぶ宿泊がざらだった御殿場でのロケでは、三船が肉や野菜を買ってきて自ら包丁を振るい、大鍋で豚汁を作ってロケ仲間に振舞うのが恒例で、弁当は握り飯しか出なかった現場で大好評だったそうである[79]。
- ある時、ロケ隊において皆に混じって荷物の整理を手伝う三船に、淀川長治が「あんたはそういう事しちゃ駄目よ、スターなんだから。」と言われるも三船は「だって俺、手空いてるもん?」と言ってせっせと作業を続けたというエピソードがある。
- 岡本喜八監督とはお互いの貧乏時代からの友人で、俳優と監督でのコンビだけでなく、喜八プロに三船プロのセットを融通したりの友情が長く続いたが、同じ下宿に住んでいたころ三船は繕い物が上手かったという[80]。岡本喜八のデビュー作『結婚のすべて』ではバレエ教師役でワンシーン出演し、野太いアンドウトロワの掛け声とタイツ姿で爆笑を誘った。大映=勝プロ作品『座頭市と用心棒』で、勝は三船を立てるためにもっとも信頼の深い盟友として岡本監督を指名したが、この作品名で「用心棒」という言葉が使われたことに立腹した三船は、これ以降岡本作品にも出演しなくなる。ただ、三船プロとしての協力などある程度の友情は続いていたようである。
- また達筆でも知られた。
- 児玉清が新人時代にロケバスに乗り遅れてしまった時、たまたま通りかかった三船が、オープンカーで児玉をロケ現場まで送った[81]。
- 一方で酒癖の悪さでも知られ、飲むと性格が一変した。酔ってタクシー内で安藤昇に殴りかかると逆に車外へ蹴飛ばされ更に殴り捲られ完全に伸びてしまう、翌日は派手に顔が腫れたままで撮影にならなかったこともある[82]。浜美枝は、三船について「お酒さえ入らなければ、本当にやさしくていい人なんですけどねえ」と語っている[83]。また、奇行に走る傾向もあり、監督の家でスタッフと飲んで酔っ払い、居間の太い梁によじ登って懸垂を始めたり、夜遅くに家の近所を奇声を上げながら走り回ったり、中には映画用の小道具である槍を持ち出して石原裕次郎の家に果し合いに行ったという冗談のようなエピソードもある。
- 三船美佳は自身の幼少時を振り返り、「父が映画を撮りたがっていた『孫悟空』のストーリーを、寝る時によく父から聞かせてもらいました。 でもいつも話してるうちに熱くなっちゃって、(孫悟空になりきって)棒を持って暴れはじめるんです(笑)」と父・敏郎とのエピソードを披露した [84]。
- 娘・美佳の婿である高橋ジョージは下積み時代にエキストラのアルバイトをやっていたが、その時に三船敏郎を見かけたことはあった。その立ち居振る舞いに「素晴らしい人だ」と感激したという。だが、彼が美佳との交際から結婚に至るまでには、三船敏郎に会って話をすることはなく、2月3日放送の『ライオンのごきげんよう』に出演した際に、「できることなら会ってみたい人」として三船敏郎の名前を出した。美佳と入籍する朝に、夢で三船敏郎と会ったという[85]。
- 三船がスピルバーグ監督の『1941』に出演した縁で、美佳が子どものころに監督の直筆サインが入った映画『E.T.』のポスターを誕生日プレゼントにもらった[86]。三船とスピルバーグの交流は『1941』以降もあった。
- 香川京子は、黒澤映画で三船との共演回数が9回と最も多い女優であるが、昭和34年の『悪い奴ほどよく眠る』の撮影中に顔にけがをする。そのときマスコミが病院にかけつけるが、三船が病室の前のドアに立ちふさがり、取材を断ってくれたという。あとでそのことを知り、人のために一生懸命になってくれる方だと思ったという。またロケのスタッフにも、荷物運びを手伝うなど人気があり、特に女性ファンが多かったと語っている。[87]
死後の逸話
- 三船が逝去した際、フランス共和国とイタリア共和国の国営放送のテレビニュース番組が『トシロー・ミフネの死去』をトップニュースで報じた。外国報道機関がトップニュースで日本の俳優の死去を報じたのは過去に例がない出来事だった[88]。また、アメリカのタイム誌でも三船の死は大きくとりあげられた。
- 三船が亡くなった際、国民栄誉賞を与えるという話があったが、2012年現在受賞には至っていない[89]。
- 港区六本木には「三船敏郎」の世界観を表現し、三船プロダクションが監修した「料理屋 三船」という居酒屋がある[90]。店内は三船の写真、三船家の家紋、三船の直筆の書を複製した額縁などが飾られており、メニューには「男は黙ってサッポロビール」など三船にまつわる名が付けられている。
- 三船が息を引き取った頃に、ちょうど宝田明も11時間に及ぶ心臓のバイパス手術を受けていたが、麻酔から醒めた宝田の第一声は『三船敏郎が亡くなった。東宝のみんなに連絡しろ』」であった。この予言のような言葉は今でも役者仲間で語り草になっている[91][92][93]。
その他
- 『山本五十六』を数多く演じたことでも知られる。邦画・ハリウッド映画を含め、山本を演じた回数では現在でも三船がトップである。
- 1981年のTBS正月特番の大型ドラマとして放映された『関ヶ原』の事前宣伝の一環として、当時の人気番組『8時だョ!全員集合』(1980年12月27日放送分)にゲスト出演した事がある。『関ヶ原』出演時と同じ鎧兜を付けて番組冒頭のコント劇に出演し、同じく戦国武将役のいかりや長介率いる部隊の窮地を救う役を演じる。その後、いかりやと二言三言の会話を交わし、三船が「カラスの歌を聞きたい」と言ったのでいかりやは志村けんを三船の前に呼び出して「♪カラスの勝手でしょ~」を歌わせた。満足した三船が悠然と舞台袖に退場する、という流れのはずだったが、三船は退場の途中で突如、同番組名物だったヒゲダンスを披露。客席からは笑いや悲鳴のような歓声、そして深いどよめきが起きた。このヒゲダンスは三船のアドリブであった模様で、いかりやをして舞台上で一瞬絶句させ、「ああいう人が、ああいうことをやるなんて…」と真顔で驚嘆させたほどの出来事であった。また三船は冒頭コント劇の後で「少年少女合唱隊」にも出演し、早口言葉コーナーでは真顔でドスの効いた声で「生麦生米生卵…」等と歌おうとしたが、完全にもたついてしまい、客席や共演者の爆笑を誘った。
- 1977年に公開されたアニメーション映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』に登場する宇宙戦艦ヤマト2代目艦長土方竜役で声優出演が検討されていたことがある(ちなみにその他にも仲代達矢も候補で上がっていたそうである)。
- 山田洋次が三船敏郎主演で晩年の宮本武蔵を描いた「それからの武蔵」を企画し、脚本まで書いていたが頓挫した[94][95]。
世界のミフネ
1951年に『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、クロサワとともにミフネの名も世界に知れ渡った。世界中のトップスターたちから「最も尊敬する俳優」と慕われ、共演を熱望された[96]。 1961年に初の海外作品『価値ある男』(メキシコ映画)ではメキシコ人役で主演。その後の海外の名優との競演は、以下の作品などが挙げられる。
- 1967年『グラン・プリ』 - Grand Prix (ジョン・フランケンハイマー監督)イヴ・モンタン、ジェームズ・ガーナー
- 1968年『太平洋の地獄』(ジョン・ブアマン監督)リー・マーヴィン
- 1971年 フランス映画『レッド・サン』 - Red Sun (テレンス・ヤング監督)アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン
- 1976年『ミッドウェイ』 - Midway (ジャック・スマイト監督)チャールトン・ヘストン、ヘンリー・フォンダ、ロバート・ミッチャム、グレン・フォード
- 1976年『太陽にかける橋 ペーパータイガー』- Paper Tiger デビッド・ニーブン、ハーディ・クリューガー
- 1979年『大統領の堕ちた日』ジェフ・ブリッジス、アンソニー・パーキンス、エリザベス・テイラー
- 1979年『1941』 - 1941 (スティーブン・スピルバーグ監督)ジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド、クリストファー・リー
- 1980年『将軍 SHOGUN』リチャード・チェンバレン
- 1980年『インチョン!』(テレンス・ヤング監督)ローレンス・オリビエ、ジャクリーン・ビセット
- 1980年『最後のサムライ ザ・チャレンジ』(ジョン・フランケンハイマー監督)スコット・グレン
- 1980年『兜KABUTO』(ゴードン・ヘスラー監督)ショー・コスギ
- 1981年『武士道ブレード』リチャード・ブーン
- 1994年『シャドウ・オブ・ウルフ』ドナルド・サザーランド、ルー・ダイヤモンド・フィリップス
- 1995年『ピクチャーブライド』(カヨ・マタノ・ハッタ監督)
また、世界三大映画祭でも三船は評価された。三船が主演または準主演を務めた、映画の三大映画祭での受賞歴・コンペティション部門出品(最高賞ノミネート)歴は、以下の通り。
- 1951年『羅生門』 (黒澤明監督)ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞
- 1952年『西鶴一代女』(溝口健二監督)ヴェネツィア国際映画祭国際賞受賞
- 1954年『七人の侍』(黒澤明監督)ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞
- 1955年『生きものの記録』(黒澤明監督)カンヌ国際映画祭コンペティション(パルム・ドールノミネート)
- 1957年『蜘蛛巣城』(黒澤明監督)ヴェネツィア国際映画祭コンペティション(金獅子賞ノミネート)
- 1958年『隠し砦の三悪人』(黒澤明監督)ベルリン国際映画祭監督賞受賞・国際批評家連盟賞受賞
- 1958年『無法松の一生』(稲垣浩監督)ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞
- 1960年『悪い奴ほどよく眠る』(黒澤明監督)ベルリン国際映画祭コンペティション(金熊賞ノミネート)
- 1961年『用心棒』(黒澤明監督)ヴェネツィア国際映画祭主演男優賞受賞
- 1963年『天国と地獄』(黒澤明監督)ヴェネツィア国際映画祭コンペティション(金獅子賞ノミネート)
- 1965年『赤ひげ』(黒澤明監督)ヴェネツィア国際映画祭主演男優賞受賞・サン・ジョルジオ賞受賞・イタリア産業賞受賞・国際カトリック事務局賞受賞
- 1989年『千利休・本覚坊遺文』(熊井啓監督)ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞
- 1994年『ピクチャーブライド』(カヨ・マタノ・ハッタ監督)カンヌ国際映画祭コンペティション(パルム・ドールノミネート)
ちなみに、三船が出演した映画の英国アカデミー賞、米国アカデミー賞受賞歴・ノミネート歴は、以下の通りである。
- 1951年『羅生門』(黒澤明監督)米国アカデミー賞名誉賞(外国語映画賞)受賞・美術賞ノミネート
- 1954年『七人の侍』(黒澤明監督)英国アカデミー賞主演男優賞ノミネート、米国アカデミー賞美術賞ノミネート・衣装デザイン賞ノミネート
- 1954年『宮本武蔵』(稲垣浩監督)米国アカデミー賞名誉賞(外国語映画賞)受賞
- 1961年『用心棒』(黒澤明監督)米国アカデミー賞作曲賞ノミネート・衣装デザイン賞ノミネート
- 1961年『価値ある男』(イスマエル・ロドリゲス監督)米国アカデミー賞外国語映画賞ノミネート
- 1967年『グラン・プリ』(ジョン・フランケンハイマー監督)米国アカデミー賞編集賞受賞・音響賞受賞・音響効果編集賞受賞
三船が出演したドラマのエミー賞受賞歴・ノミネート歴に関しては、以下のようになっている。
- 1980年『将軍 SHOGUN』作品賞受賞・タイトル賞受賞・衣装賞受賞受賞・主演男優賞ノミネート
三船敏郎が主演を演じた『用心棒』(1961年) は全世界で人気を博し、全世界の映画関係者の教科書的存在になった作品 。
この作品のコピー作品から、マカロニウェスタンという映画のジャンルが 生まれ、クリント・イーストウッドが一流スターの仲間入りを果し 欧州でサムライブームを引き起こした 。
チェ・ゲバラは『用心棒』に感銘を受け、桑畑三十郎の恰好までするほどのファンであった[97]。
『マトリックス』『ボディガード』『スター・ウォーズ・シリーズ』を始め、影響を受けた作品は 数知れず、ブルース・ウィリス主演で『ラストマン・スタンディング』という題名で、完全リメイクまでされている。
三船敏郎が重厚感溢れる千利休を演じた1989年の『千利休 本覚坊遺文』は、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞し、とりわけ三船の演技が絶賛された[98]。
アラン・ドロンは三船を『日本の兄』や『神のような存在』と形容するほど尊敬し、自らがプロデュースするブランドの香水「サムライ SAMOURAI」の香りのイメージを、「三船敏郎を基調とした日本のサムライ」とした。また、20世紀を代表する世界的な有名俳優であるマーロン・ブランドも飛行機に乗っていた際、三船が同乗している事を知るや自分から挨拶に行ったというエピソードがあり、三船が死去した時も弔電を(アラン・ドロンと同様に)送っている。
『ジョーズ』のヒットで監督としての名声を高めたスティーヴン・スピルバーグは、『1941』(1979年)の旧日本軍潜水艦艦長役のオファーを三船に出す。三船はこれを受けたが、作品の興行としては失敗に終わった。その後、『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』(1983年)ではダース・ベイダーの素顔となるアナキン・スカイウォーカー役をオファーされるが、これは断っている。ルーカスはダースベイダーの素顔をメイクでできるだけ三船に似せるように指示したという。なお、『ベスト・キッド』(1984年)のミヤギ役も断っている(代わりに出演した日系人俳優パット・モリタはアカデミー助演男優賞にノミネートされた)。
米国人に最も有名なのはテレビドラマ『将軍 SHOGUN』(1980)の将軍役で、ミフネ=サムライのイメージが固定した。1980年代のアメリカの人気テレビ『サタデー・ナイト・ライブ』ではジョン・ベルーシが『用心棒』の主役の物まねで人気を博した。ベルーシは『1941』で三船と共演しているが、直接の絡みは無い。
米国産コンピュータRPGの『ウィザードリィ』には、敵役サムライの首領的存在として「ミフネ」が登場してくる。また、『マトリックス・リローデッド』『マトリックス・レボリューションズ』には、「ミフネ船長」なる人物も登場し、アジア系ではないが容姿の良く似た俳優が起用されている。
海外での受賞やノミネート歴は、1955年『七人の侍』で英国アカデミー賞主演男優賞(外国語)ノミネート。1961年『用心棒』でヴェネツィア国際映画祭主演男優賞、シネマヌーヴァ金額賞。1965年『赤ひげ』でヴェネツィア国際映画祭主演男優賞、1980年『将軍 SHOGUN』で米国エミー賞主演男優賞ノミネート。その他には、フランスの芸術文化勲章受章、モントリオール世界映画祭特別グランプリ受賞、マニラ映画祭では「最もセクシーな俳優」に選ばれた事もある。アメリカ雑誌『PLAYBOY』でも「世界で最もセクシーな男性10人」に選ばれたことがある。また、フランスの映画雑誌で「セクシーな俳優10人」にも選ばれた。
三船は海外からの出演オファーは、晩年においても1年で通常の段ボール箱が一杯になるほど依頼が殺到していた。三船の出演を決断させる要素は「日本人を茶化さない」、「三船プロの運営に支障をきたさない(『デルス・ウザーラ』や『スター・ウォーズ・シリーズ』の出演辞退はこれに該当)」、「制作サイドの誠意ある交渉」等があり、それらの条件をクリアした相手に対しては「出演させていただきます」というような誠意をもって応えた。ただし『デルス・ウザーラ』に関しては、本人が自費で海外に渡航し、スケジュールを調整していたと野上照代に話している(実際、1972年~75年まで、海外の作品に出演していない)。
晩年は、『シャドウ・オブ・ウルフ』(1993年)のエスキモー族長役や『ピクチャーブライド』(1994年)の日本人弁士役としても出演した。
『シャドウ・オブ・ウルフ』の出演オファーが来たドナルド・サザーランドは、三船の出演が決まっていると聞き、脚本を読まずに出演を決めたと語っている。
三船の海外映画出演のギャラに関しては、『グラン・プリ』に出演の話があったときに、東宝のロサンゼルス支局の渡辺毅が、『グラン・プリ』のプロデューサー、エドワードルイスと交渉したものが、それ以後もベースになったという。当時、東宝からの出演料は600万だったというが、これでは安いと判断した渡辺は、出演料は30万ドル(当時のレートで1億800万)であるとルイスにふっかけ、それを相手が承知したという。[99]
三船敏郎が1997年に他界したときは「三船敏郎がクリスマス・イヴに死去」と、アメリカの有名な週刊誌「TIME」に大きく出て、 葬式にはフランスからはシラク大統領、アラン・ドロンからも弔電が寄せられるなど、世界各国から弔電が舞い込み、皮肉にも改めて世界のミフネを知らしめる結果となった 。
また1999年には、ミフネの演じたサムライへのオマージュともいえるデンマーク映画『ミフネ』が作られ、ベルリン映画祭銀熊賞を受賞した。この『ミフネ』という映画では“ミフネごっこ”というチャンバラ遊びが子供の間で行われていたことが描写されており、かつてヨーロッパにおいて子供たちの間で“ミフネごっこ”が流行っていたことが窺える。
米国のエンターテインメント雑誌「Entertainment Weekly」で行われたアクションスターたちに序列を付け、世界から25人を選抜しようという企画で尊敬すべきアクションスター25人に選ばれている[100][101]。
三船が他界した翌年のアカデミー賞授賞式のメモリアル映像では、三船の映像が映し出された時、大きく拍手喝采が起こった。[102]ある年のアカデミー賞授賞式のレッドカーペットでのセレブインタビューで「好きな日本の俳優は誰ですか?」と聞いたところ、ほとんどのセレブが「トシロー・ミフネ」の名をあげた。「他に誰がいるっていうの?」というセレブもいたという[103]。
1983年、シカゴで「三船敏郎フェスティバル」が開催され、翌年の1984年にはニューヨークでも開催された[104]。
海外各地で開催される三船主演作特集上映その他の催しに努めて出席、国際親善に寄与すると共に、モントリオール世界映画祭の審査員、ロサンゼルス市の名誉市民に選ばれ、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)から学位を贈られたほか、ロサンゼルス郊外ブエナパークのムービーランド・ミュージアムにろう人形が置かれている[105]。
芸能界に関係する家族
映画人の評価
映画監督
- 黒澤明
- 『酔いどれ天使』の際に、「三船くんは、それまでの映画界では、類のない存在だった。特に表現力のスピードは抜群だった。分かりやすく云うと、普通の俳優が十フィートかかるものを、三フィートで表現した。動きの素早さは、普通の俳優が三挙動かかるところを、一挙動のように動いた。なんでも、ずげずげずばずば表現する、そのスピード感は、従来の日本の俳優には無いものであった。しかも、驚くほど、繊細な神経と感覚をもっていた。まるで、べたぼめだが、本当なのだから仕方がない。」と語った[108]。
- ヴェネツィア国際映画祭の男優賞の授賞式にて「僕がもらった賞の半分くらいは三船にやるべきだ思ってたが、今日三船が受賞したからその必要もなくなった」と語った。
- 『椿三十郎』の三船の殺陣について黒澤明は「殺陣のシーンのフィルムを編集していていたら、コマの中に三船の刀が写っていない。あまりにも速すぎて写らないんだ。もし刀を使った殺陣のオリンピックがあったら、間違いなく三船が金メダルをとるだろうね」と評価した。[109]
- テレビのインタビューで、「時代劇はもうとらないんですか?」と聞かれて 「もう三船みたいな俳優はいないから」と答えた。
- 「めったに俳優には惚れない私も、三船には参った。」と語った[110]。
- 三船の死に際して「こんなつらい思いをしたことはない」と述べ、過去の自分の作品は「どれも君がいなかったらできなかった」と、三船がいたからこその黒澤映画であったことを悲しみの気持ちと共に語った。 [111]
- 三船の葬式に次の弔電を贈った。「三船君の訃報を聞いて驚いています。具合が悪いと聞いていたので、三船君に会いたくてずっと気になっていた。会って、本当に素晴らしい役者だった、本当に君以上の俳優はいないと言いたかった。私が葬儀委員長を引き受けて、三船君らしく華やかに天国に送り出したい思いなのだが足腰を痛めて表に出られないので残念だ。急だったので、色々な思い出がいっぱいで気持ちがまだまとまらない。三船君、ありがとう、お疲れ様という気持ちです。黒澤明」[112]
- 熊井啓
- 「日本を代表する民間大使と言っても過言ではない。」と国際文化交流に励む三船を評価した[113]。
- 橋本忍(脚本家)
- 「一言で言えば存在感の人である。三船ほどの俳優に会ったことがない」と評している。橋本の関わる作品の中では、『日本のいちばん長い日』での三船は、彼が一人いるだけで画面が引き締まると語った。[114]
- アンドレイ・タルコフスキー
- オーソン・ウェルズ
- 「三船氏の演技はスケールが大きく深みがある」と三船の演技を評価した[116]。
- ジョージ・ルーカス
- 『スター・ウォーズ』(1977年)のオビ=ワン・ケノービ役でオファーを出し、『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの復讐』(1983年)にてダース・ベイダーの素顔、アナキン・スカイウォーカーの役で再びオファーを出した。オファーは二つとも断られたが、ルーカスはダース・ベイダーの顔をできるだけメイクで三船のようにするように指示したという。
- スティーブン・スピルバーグ
- カヨ・マタノ・ハッタ
- 三船が出演した最後のハリウッド映画である『ピクチャーブライド』の監督。三船を神のように尊敬していた。
- オタール・イオセリアーニ
- 俳優業というものは概して個性を潰していくものであるが、三船は例外であり三船という役を演じていたと語る。[119]
- ソーレン・クラーク=ヤコブセン
- 自身が監督した映画に三船へのオマージュを込めて『ミフネ』というタイトルを付けた。
- ジョージ・ミラー
- 宮崎駿
- 松林宗恵
- 「三船ちゃんは侍だから軍人の役をやる時は他の映画と掛け持ちしててもそれはそれこれはこれと、バッサリ髪を切ってくれた」 と三船の映画に対する真摯な態度を称賛した[122]。
- ウォシャウスキー兄弟
- 『マトリックス リローデッド』にて、モーフィアスが日本刀を手にして大立ち回りする場面があり、この場面は三船にオマージュを捧げているもの[123]。
俳優
監督経験者を含む。
- 勝新太郎と萬屋錦之介(中村錦之助)、石原裕次郎の3人は三船敏郎を尊敬していた。[124]
- 夏木陽介
- 夏木はテレビに出ると必ずと言っていい程、三船のエピソードを嬉しそうに話す。「東宝の気さくな雰囲気は、三船さんが作ったもの」と語る。[125]
- 森繁久彌、小林桂樹
- 森繁が「スターと呼ばれる人は数々いるけれど、僕たちの思うスターは、三船だね」と言い、小林はそれに大いに共感したという。[126]
- 美輪明宏
- 司葉子
- 菅原文太
- 三船を尊敬し「富士山のような存在」と賞賛している。
- 高倉健
- 尾崎英二郎
- 尊敬する俳優の一人に三船を挙げている。[132]
- タムリン・トミタ
- マーロン・ブランド
- ニック・アダムス
- 撮影所では「ミフネ(三船敏郎)に会うのが夢だ」として、撮影所内を歩き回る姿が当時の東宝新聞で報じられている。三船の大ファンであり、三船に憧れていたという。
- ジョディ・フォスター
- 弔電にて「大きな存在を失った。映画史に残っていく俳優がいなくなっていくのは非常に寂しい」とコメント。
- スティーブン・セガール
- 尊敬する俳優として志村喬とともに三船を挙げている。
- ロバート・デ・ニーロ
- 本人を前にして、子供のように緊張してひとことも話せなかったという。
- クリント・イーストウッド
- 三船の演技に大きな影響を受け、三船を尊敬している。
- ジョン・ベルーシ
- コントで三船の物まねをやって大人気を博す。
- 『1941』で「やっと三船に会えた!」と感激したという。
- アラン・ドロン
- チャールトン・ヘストン
- 三船の死に際して、弔電を送った[136]。
- イアン・マクシェーン
- 松崎悠希が『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』に出演した時に、イアンと彼の尊敬する三船敏郎について「三船さんすごいよね」「存在感がすごいよね。あの存在感を出せる俳優は今の時代いないよ」と盛り上がった。[137]
- ドナルド・サザーランド
- 『シャドウ・オブ・ウルフ』で出演オファーを受けた際、三船が出演することが決まっていると聞き、脚本を読まずに出演を決めたと語っている。
- シンディ・ローパー
- メル・ギブソン
- 中村敦夫
- 三船について、役を「演じる」俳優ではなく、役に「なってしまう」俳優だと自著に記した[140]。
- ジョナサン・リース=マイヤーズ
- 「僕にとって究極の“ナンバーワン監督”である黒澤明監督」と黒澤を評価するとともに「三船敏郎なんてものすごいリスクを冒してさまざまな役を演じている。まるで怪物のような役者だ」と語っている。[141]
- マット・ディロン
- non-no(1995年2月20日)木村拓哉との対談でディロンは三船に言及するが、木村が三船出演の映画を観た事が無い事を知って「君も絶対見たほうがいい。僕はフランシス・フォード・コッポラの映画に出演した際に三船のように演じてくれ。と試写会で三船を見せてもらって以来大ファンになった。」と発言している。
評論家
- 淀川長治
- 「あんた、顔綺麗ねえ」と三船の美貌を称えた。
- 白石かずこ
- 白石の著書である『ダイナミックな国際性』において「三船敏郎こそは、まさに時代の人、あの戦争という日本人のエネルギー、明日をも知れぬ不安を抱きながら魂の噴火の最も強烈だった時代そのものを全身で現すことのできる人だった。」、「戦後は、三船という幟をたてて日本の映画が縦横無尽に走った、繁栄していった時代だった」と評価している。
- 四方田犬彦
- 中野翠
- 『七人の侍』の菊千代(三船)が尻を丸出しにして死ぬシーンから、「黒澤明は菊千代という人物の、そして三船敏郎というスターの個性の核心を、あの悍馬のような尻と太ももに見ていたんだなと、改めて気がついた」と三船について分析をしている[143]。
- セルジュ・ロジック
三船敏郎をモデルとした作品
漫画・アニメ・小説
- 三船剛(マッハGoGoGo)
- 主人公の名前である「三船」は、『グラン・プリ』に出演した三船へのオマージュで付けられたもの。
- 椿丹十郎(忍たま乱太郎)、(落第忍者乱太郎)
- 『椿三十郎』をもとにしたキャラクター。
- ショーグン・ミフネ(勇者特急マイトガイン)
- 決め台詞は「男は黙ってぇ〜」。
- ミフネ(NARUTO)
- 名刀“黒澤”を使って戦う鉄の国の侍大将。なお、作品中では屈指の強さである。
- ミフネ(ソウルイーター)
- 多数の日本刀を駆使する流派「無限一刀流」の使い手である用心棒。
- ニルス・ショーン・ミフネ(BASTARD!!)
- 先の魔操兵戦争における五英雄の一人。「ミフネ」は侍総大将(サムライ・ハイマスター)の称号である。
- 三船入道コーチ(新テニスの王子様)
- テニスのコーチ。アニメの第7話にて隠し砦の三悪人で真壁六郎太が太平と又七に穴を掘らせる場面に酷似するシーンがある。
- 菊千代(花の菊千代)
- 菊千代(クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡)
- 『七人の侍』を元にしたキャラクターが登場。
- キクチヨ(SAMURAI 7)
- 農民出身者の機械のサムライ。機械であるが、人間よりも人間臭さを見せる。身の丈は普通の人間より一回り大きい。
- セッシュウ・ミフネ中将(無責任艦長タイラー)、(宇宙一の無責任男)
- 惑星連合宇宙軍銀河外周方面艦隊司令官
- 電ボ三十郎 、電ボ四十郎(おじゃる丸)
- 剣三十郎(青山剛昌短編集)
- 同作品中で仲代というキャラと対決している。
- 村上源之助(タートルズ)、(兎用心棒)
- 三船が演じた『用心棒』の三十郎のイメージキャラ。
- 飯沼誠次郎(東のエデン)
ゲーム
- MIFUNE(ウィザードリィ)
- 敵モンスターの侍大将として登場。
- 三船徳川(HARAKIRI)
- アーロン(ファイナルファンタジーX)
- ミフネ(サクラ大戦V 〜さらば愛しき人よ〜)
- 剣の達人として登場。
- ミフネス司令(ジェットインパルス)
- 砂嵐三十郎(.hack)
- トシロー・カゴ(Fallout 3)
- 「Mothership Zeta」の登場人物の1人。エンジンコアにて冷凍保存されているサムライ。
ドラマ
- 三船主任(特別機動捜査隊 )
映画
- サムライ(原題:Le Samouraï)
- 三船をイメージしてアラン・ドロンが作った映画。
- ミフネ(原題:Mifunes sidste sang)
- ドグマ95のルールに則って製作されたデンマーク映画。タイトルの「ミフネ」とは、三船敏郎のこと。強くて絶対にあきらめない、七人目のサムライを象徴している[145]。原題の日本語訳は「ミフネ最後の歌」。この映画の監督であるソーレン・クラーク=ヤコブセンは三船が他界したというニュースを聞いた時にこのタイトルを思いつき、タイトルには三船への追悼の意も込められている。
- ミフネ船長(マトリックス)
- 三船とよく似た俳優が演じている。
その他
主な出演
映画
1940年代
- 銀嶺の果て(1947年) - 江島
- 新馬鹿時代 前篇(1947年)- 大野源三郎
- 新馬鹿時代 後篇(1947年)- 大野源三郎
- 醉いどれ天使(1948年) - 松永
- 静かなる決闘(1949年) - 藤崎恭二
- ジャコ萬と鐵(1949年) - 鐵
- 野良犬(1949年) - 村上刑事
1950年代
- 石中先生行状記(1950年) - 長沢貞作
- 脱獄(1950年)- 新吉
- 醜聞(スキャンダル)(1950年) - 青江一郎
- 婚約指環(1950年) - 江間猛
- 羅生門(1950年) - 多襄丸 ※ヴェネツィア映画祭金獅子賞、米アカデミー賞外国語映画賞、米アカデミー賞美術賞ノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビュー監督賞・外国語映画賞
- 愛と憎しみの彼方へ(1951年) - 坂田五郎
- 悲歌(1951年) - 土岐大輔検事
- 白痴(1951年) - 赤間伝吉
- 海賊船(1951年)- 虎
- 戦後派お化け大会(1951年)- 川上謙二
- 完結 佐々木小次郎 巌流島決闘(1951年) - 宮本武蔵
- 馬喰一代(1951年) - 片山米太郎
- 女ごころ誰が知る(1951年)
- 荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻(1952年)- 荒木又右衛門
- 霧笛(1952年)
- 西鶴一代女(1952年) - 勝之介 ※ヴェネツィア映画祭国際賞
- 金の卵 Golden Girl(1952年)※賛助出演
- 戦国無頼(1952年)
- 東京の恋人(1952年)
- 激流(1952年)
- 港へ来た男(1952年)
- 吹けよ春風(1953年)
- 抱擁(1953年)
- ひまわり娘(1953年)
- 太平洋の鷲(1953年)
- 七人の侍(1954年) - 菊千代 ※ヴェネツィア映画祭銀獅子賞、米アカデミー賞美術賞・衣装デザイン賞ノミネート
- 宮本武蔵(1954年) ※米アカデミー賞外国語映画賞
- 潮騒(1954年)
- 密輸船(1954年)
- 男性No.1(1955年)
- 天下泰平(1955年)
- 続天下泰平(1955年)
- 男ありて(1955年)
- 続宮本武蔵 一乗寺の決闘(1955年)
- 生きものの記録(1955年) - 中島喜一 ※カンヌ映画祭コンペティション
- 宮本武蔵 完結編 決闘巌流島(1956年)
- 黒帯三国志(1956年)
- 暗黒街(1956年)
- 愛情の計算(1956年)
- 妻の心(1956年)
- ならず者(1956年)
- 囚人船(1956年)
- 蜘蛛巣城(1957年) - 鷲津武時 ※ヴェネツィア映画祭コンペティション、ロサンゼルス映画賞
- 嵐の中の男(1957年)
- この二人に幸あれ(1957年)
- 柳生武芸帳(1957年)
- 危険な英雄(1957年)
- どん底(1957年) - 捨吉
- 下町(1957年)
- 柳生武芸帳 双龍秘剣(1958年)
- 東京の休日(1958年)
- 無法松の一生(1958年) ※ヴェネツィア映画祭金獅子賞
- 弥次喜多道中記(1958年)
- 人生劇場 青春篇(1958年)
- 隠し砦の三悪人(1958年) - 真壁六郎太 ※ベルリン映画祭監督賞、国際批評家連盟賞
- 暗黒街の顔役(1959年)
- 或る剣豪の生涯(1959年)
- 戦国群盗伝(1959年)
- 独立愚連隊(1959年)
- 日本誕生(1959年) - ヤマトタケル
1960年代
- 暗黒街の対決(1960年)
- 国定忠治(1960年)
- ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐(1960年)
- 男対男(1960年)
- 悪い奴ほどよく眠る(1960年) - 西幸一 ※ベルリン映画祭コンペティション
- サラリーマン忠臣蔵(1960年)
- 大坂城物語(1961年)
- 続サラリーマン忠臣蔵(1961年)
- 用心棒(1961年) - 三十郎 ※ヴェネツィア映画祭主演男優賞、米アカデミー賞衣装デザイン賞・作曲賞ノミネート
- ゲンと不動明王(1961年)
- 価値ある男(1961年、メキシコ映画) ※米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、ゴールデングローブ賞外国語映画賞
- 椿三十郎(1962年) - 椿三十郎
- どぶろくの辰(1962年)
- 続・社長洋行記(1962年)
- 忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1962年)
- 太平洋の翼(1963年)
- 天国と地獄(1963年) - 権藤金吾 ※ヴェネツィア映画祭コンペティション
- 五十万人の遺産(1963年) - 製作・監督も担当
- 大盗賊(1963年)
- 士魂魔道 大龍巻(1964年)
- 侍(1965年)
- 赤ひげ(1965年) - 赤ひげ(新出去定) ※ヴェネツィア映画祭主演男優賞・サンジョルジュ賞
- 姿三四郎(1965年) - 矢野正五郎
- 太平洋奇跡の作戦 キスカ(1965年)
- 血と砂(1965年)
- 暴れ豪右衛門(1966年)
- 大菩薩峠(1966年)
- 奇巌城の冒険(1966年)
- 怒涛一万哩(1966年) - 村上平八郎
- 上意討ち 拝領妻始末(1967年)
- 日本のいちばん長い日(1967年) - 阿南惟幾陸軍大臣
- グラン・プリ(1967年、アメリカ映画) ※米アカデミー賞編集賞・音響賞・音響効果編集賞
- 黒部の太陽(1968年)
- 連合艦隊司令長官 山本五十六(1968年)
- 祇園祭(1968年)
- 太平洋の地獄(1968年、アメリカ映画)
- 風林火山(1969年)
- 栄光への5000キロ(1969年)
- 日本海大海戦(1969年)
- 赤毛(1969年)
- 新選組 (1969年)
1970年代
- 座頭市と用心棒(1970年)
- 幕末(1970年)
- 待ち伏せ(1970年)
- ある兵士の賭け(1970年)
- 激動の昭和史 軍閥(1970年)
- レッド・サン Red Sun(1971年、フランス映画)
- 太陽にかける橋 ペイパー・タイガーPaper Tiger (1975年、イギリス映画)
- ミッドウェイ (1976年、アメリカ映画) - 山本五十六
- 人間の証明(1977年)
- 日本の首領 野望篇(1977年)
- 柳生一族の陰謀(1978年) - 徳川義直
- 犬笛(1978年)
- お吟さま(1978年)
- 日本の首領 完結篇(1978年)
- 赤穂城断絶(1978年) - 土屋主税
- 水戸黄門(1978年)
- 大統領の堕ちた日(1979年、アメリカ映画)
- 金田一耕助の冒険(1979年)
- 隠密同心 大江戸捜査網(1979年)
- 1941(1979年、アメリカ映画)
1980年代
- インチョン!(1980年、アメリカ・韓国合作)
- 将軍 SHOGUN(1980年、アメリカ映画)
- 二百三高地(1981年) - 明治天皇
- 武士道ブレード(1981年、アメリカ・イギリス合作) - 林復斎
- 最後のサムライ/ザ・チャレンジ(1982年、アメリカ映画)
- 制覇(1982年)
- 日本海大海戦 海ゆかば(1983年)
- 海燕ジョーの奇跡(1984年)
- 聖女伝説(1985年)
- 玄海つれづれ節(1986年)
- シャタラー(1987年、日本・イタリア合作映画)
- 男はつらいよ 知床慕情(1987年)
- 竹取物語(1987年)
- 春来る鬼(1989年)
- cfガール(1989年)
- 千利休 本覺坊遺文(1989年) ※ヴェネツィア映画祭銀獅子賞
1990年代
- ストロベリーロード(1991年)
- 兜 KABUTO(1991年、アメリカ映画)
- シャドウ・オブ・ウルフ(1993年、フランス・カナダ合作映画)
- ピクチャーブライド(1994年、アメリカ映画) ※カンヌ映画祭コンペティション・サンダンス映画祭観客賞・インディペンデント・スピリット賞新人作品賞ノミネート
- 深い河(1995年) ※モントリオール世界映画祭エキュメニカル賞
テレビドラマ
- 五人の野武士(1968年 - 1969年、日本テレビ / 三船プロ) - 船山次郎義景
- 大忠臣蔵(1971年、NET) - 大石内蔵助
- 荒野の素浪人(1972年 - 1974年、NET / 三船プロ) - 峠九十郎
- 荒野の用心棒(1973年、NET / 三船プロ) - 旅の素浪人(峠九十郎)
- 剣と風と子守唄(1975年、日本テレビ / 三船プロ) - 砦十三郎
- 人魚亭異聞 無法街の素浪人(1976年、NET / 三船プロ) - ミスターの旦那
- 隠し目付参上(1976年、毎日放送) - 九十九内膳正/老中・松平伊豆守信明(二役)
- 江戸特捜指令(1976年、毎日放送) - 第1話ゲスト
- 大江戸捜査網 第301話「壮烈! 首領、暁に死す」(1977年、東京12チャンネル) - 大滝幽玄
- 江戸の鷹 御用部屋犯科帖(1978年、テレビ朝日) - 内山勘兵衛
- 江戸を斬るIV 第8話「辻斬りは北辰一刀流」(1979年、TBS / C.A.L) - 千葉周作
- 駆け込みビル7号室(1979年、フジテレビ / 三船プロ) - 三枝剛介
- 赤穂浪士(1979年、テレビ朝日、東映) - 立花左近
- 江戸の牙(1979年 - 1980年、テレビ朝日 / 三船プロ) - 朝比奈軍兵衛
- 将軍 SHOGUN(1980年、アメリカ・NBC)- 吉井虎長役※エミー賞作品賞受賞・タイトル賞受賞・衣装賞受賞・主演男優賞ノミネート、ゴールデン・グローブ賞作品賞・男優賞・女優賞受賞
- 球形の荒野(1981年、日本テレビ / 三船プロ) - 野上顕一郎 ※火曜サスペンス劇場第1作
- 関ヶ原(1981年、TBS) - 島左近
- 素浪人罷り通る(1981年 - 1983年、フジテレビ) - 素浪人 春夏秋冬
- 勇者は語らず いま、日米自動車戦争は(1983年、NHK) - 川奈龍三
- 山河燃ゆ(1984年、NHK) - 天羽乙七
- 傑作時代劇 第21話「天下の御意見番罷り通る!彦左衛門外記」(1987年9月10日、テレビ朝日 / 東映) - 彦左衛門
- 天と地と~黎明編(1990年、日本テレビ) - 長尾為景
映画番組
- 三船敏郎シリーズ(1968年、日本テレビ)
CM
- サッポロビール - 「男は黙ってサッポロビール」がキャッチフレーズ
- 「男は黙って○○」というフレーズの由来であり、就職面接に関する都市伝説も生まれたCMである。
- キン肉マンの「男は黙って残酷ラーメン」の由来でもある。
- また、『ぼくらはこの夏ネクタイをする!』という映画では冒頭にこのCMが流れた。
- 丸八真綿(ファートン) - 「う~ん、寝てみたい」がキャッチフレーズ
- エルビス・プレスリーの元夫人、プリシラ・プレスリーとの共演も話題になった。
- 原子力発電安全PR - 「電気はどこにも埋まってない!」がキャッチフレーズ
- 永禄建設 - 「乾坤一擲、的を射抜く」がキャッチフレーズ
- 武田薬品 - アリナミンA25
- シンビーノ「ジャワティー」 - 三船敏郎を大胆にコラージュした。
受賞
- 1951年主演男優賞 『馬喰一代』、『女ごころ誰か知る』
- 1961年主演男優賞 『価値ある男』、『用心棒』
- 1961年特別賞(国際的活躍による)
- 1965年主演男優賞 『赤ひげ』
- 1966年特別賞(米映画「グラン・プリ」出演とステージ建設で示した日本映画人としての情熱)
- 1987年助演男優賞 『男はつらいよ 知床慕情』
- 日本映画記者会賞
- 1968年第18回芸術選奨
- 1988年第6回川喜多賞
- 1986年受勲
- 1993年受勲
- 1987年最優秀助演男優賞ノミネート 『男はつらいよ 知床慕情』
- 1987年優秀助演男優賞 『男はつらいよ 知床慕情』、『竹取物語』
- 1994年会長特別賞(名実共に国際的大スターとして活躍を続けている。)
- 1997年会長特別賞(豪快な演技で世界を魅了した戦後最大の男優である。)
- 受勲
- 特別グランプリ受賞
- ボルビ伯爵杯
- 『価値ある男』
- シネマ・ヌーヴァ金額賞
- 『用心棒』
音楽活動
- シングル
関連商品
フィギュア
『TOY'S Hello Happy!』、『発掘堂』から菊千代(『七人の侍』)、桑畑三十郎(『用心棒』)、椿三十郎(『椿三十郎』)のフィギュアが発売されている[148][149][150]。 また、『三船プロダクション』・『3R』・『アートストーム』から三船敏郎連合艦隊司令長官ver(夏服・冬服)のフィギュアも発売されている[151]。
服
三船敏郎のオフィシャルグッズブランドである「Mifune Spirits」が三船敏郎Tシャツを制作している[152]。
参考文献
- 「三船敏郎インタビュー」、『特集-戦後が匂う映画俳優 月刊ノーサイド』 (文藝春秋、1995年2月号)
- 「三船敏郎インタビュー」ほか、『浪漫工房8号 国際スター三船敏郎その偉大なる愛』 (創作工房、1995年)
- 阿部嘉典 『黒沢明、三船敏郎 「映画を愛した二人」』 (報知新聞社、1995年)ISBN 4831901121
- 高瀬昌弘 『東宝砧撮影所物語 ― 三船敏郎の時代』 (東宝出版事業、2003年)ISBN 492460982X
- 『三船敏郎―さいごのサムライ 毎日ムック』(毎日新聞社、1998年1月) ISBN 4620790931
- 『追悼 三船敏郎 男 THE MAN アサヒグラフ増刊号』 (朝日新聞社、1998年1月)
- 熊井啓 『黒部の太陽 ミフネと裕次郎』 (新潮社、2005年2月) ISBN 4104746010
評伝文献
- 「三船敏郎の栄光とその破滅」(月刊文藝春秋 2013年11月号) を改訂した。
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
- テンプレート:Official
- テンプレート:Jmdb name
- テンプレート:Allcinema name
- テンプレート:Kinejun name
- テンプレート:Imdb name
- 三船敏郎 - Movie Walker
- 三船敏郎 - テレビドラマ人名録 - ◇テレビドラマデータベース◇
- 追悼:三船敏郎 - 黒澤明の世界
- 三船家の家系図(Internet Archiveのキャッシュ)
- 軽井沢名画サロン三の日会ー軽井沢三船カバレロ会ー
- 三船敏郎が八日市飛行場で軍隊生活 2枚の写真から「ミフネ」を探る - 滋賀報知新聞
- A Mifune legenda 日本映画史上において - Nemzeti Hírháló(ハンガリーのサイト)
テンプレート:キネマ旬報ベスト・テン主演男優賞 テンプレート:ブルーリボン賞主演男優賞 テンプレート:ブルーリボン賞助演男優賞 テンプレート:毎日映画コンクール男優主演賞 テンプレート:毎日映画コンクール男優助演賞 テンプレート:ヴェネツィア国際映画祭 男優賞
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タグがありません- ↑ 「世界のミフネ」いたからこそ - スポニチ12月29日 06:00
- ↑ Biography for Toshirô Mifune(英語)
- ↑ 20世紀の映画スター・日本編 - 「キネマ旬報」特別企画アンケート(2000年5月~11月)
- ↑ ブルーリボン賞の主な記録 - シネマ報知
- ↑ ハンガリー語雑誌「インタージャパンマガジン」の三船敏郎インタビュー記事 - Nemzeti Hírháló(ハンガリーのサイト)
- ↑ 松田美智子「三船敏郎の栄光とその破滅」(月刊文藝春秋 2013年11月号) より、のち改訂され『サムライ 評伝三船敏郎』(文藝春秋、2014年)。
- ↑ 八日市飛行場での「三船像」探る『世界のミフネ』の航空兵時代 滋賀報知新聞 2008年12月19日
- ↑ 三船敏郎が八日市飛行場で軍隊生活 2枚の写真から「ミフネ」を探る 滋賀報知新聞 2008年12月30日
- ↑ うしおそうじ『夢は大空を駆けめぐる』角川書店刊
- ↑ 『うしおそうじ物語』(キッズステーション) 2000年、2004年4月11日に放送
- ↑ 聖教新聞 2006.1.18
- ↑ 松田美智子「三船敏郎の栄光とその破滅」(月刊文藝春秋 2013年11月号) より、改訂され『サムライ 評伝三船敏郎』(文藝春秋、2014年)
- ↑ 三船敏郎ゆかりの地…鳥海町
- ↑ 三船敏郎公式ページ BIOGRAPHY
- ↑ ハンガリー語雑誌「インタージャパンマガジン」のインタビュー記事 - Nemzeti Hírháló 2012.2.29
- ↑ うしおそうじ『夢は大空を駆けめぐる』角川書店刊より。「酒が飲みたい」のエピソードもこの文献から。うしおは三船一周忌の「偲ぶ会」で大山年治と会って直接この話を本人から聞いており、この際にTV番組「知ってるつもり」の三船特集の取材を受けている。
- ↑ ハンガリー語雑誌「インタージャパンマガジン」のインタビュー記事 - Nemzeti Hírháló 2012.2.29
- ↑ 松田美智子「三船敏郎の栄光とその破滅」(月刊文藝春秋 2013年11月号) より、改訂され『サムライ 評伝三船敏郎』(文藝春秋、2014年)。
- ↑ 「世界のミフネ」いたからこそ - スポニチ12月29日 06:00
- ↑ 「私の履歴書」仲代達矢
- ↑ 文藝春秋平成元年12月臨時増刊号「スタア」の座談会
- ↑ 「『赤ひげ』後のクロサワとミフネ」 著:野上照代
- ↑ 「世界のミフネ」いたからこそ - スポニチ12月29日 06:00
- ↑ ハンガリー語雑誌「インタージャパンマガジン」のインタビュー記事 - Nemzeti Hírháló 2012.2.29
- ↑ 『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』 土屋嘉男
- ↑ 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか - 現代ビジネス
- ↑ 三船敏郎(今週のスター - 週間シネママガジン
- ↑ ブルーリボン賞ヒストリー
- ↑ "The shy introvert who shone on screen"-guardian.co.uk, Monday 7 August 2000 19.08 BST
- ↑ 後に田中プロモーションは竜雷太、阿知波信介が抜け再分裂し、破産。独立した竜雷太、阿知波信介は1983年にアクターズプロモーションを設立したが、阿知波が2007年5月に自殺、同月、アクターズプロは破産。一時期社長を務めた竜は大きな損失を被った。テンプレート:Cite web
- ↑ 週刊新潮 平成7年10/5号 [墓碑銘:「世界のミフネ」の妻 幸子さんの愛憎四十五年]
- ↑ 「衝撃!フォード大統領招待の晩さん会に『三船敏郎の妻』で出席した愛人」(ヤングレディ昭和49年12月9日号)
- ↑ 三船史郎が語る<最後の6年> - Nemzeti Hírháló
- ↑ 三船史郎が語る<最後の6年> - Nemzeti Hírháló
- ↑ <最後の6年> - Nemzeti Hírháló 2012.02.29
- ↑ 朝日新聞東京版 2013年9月20日付26面広告参照
- ↑ 「世界のミフネ」いたからこそ - スポニチ12月29日 06:00
- ↑ 黒澤監督がこう語る。「殺陣のシーンのフィルムを編集していていたら、コマの中に三船の刀が写っていない。あまりにも速すぎて写らないんだ。もし刀を使った殺陣のオリンピックがあったら、間違いなく三船が金メダルをとるだろうね」
- ↑ 文芸春秋/2013/11三船敏郎の栄光とその破滅
- ↑ 25 Awesome Action Heroes(English)
- ↑ 次代への名言
- ↑ 「世界のミフネ」いたからこそ - スポニチ12月29日 06:00
- ↑ 『黒澤明の世界』毎日新聞社
- ↑ キネマ旬報
- ↑ 次代への名言
- ↑ 三船敏郎ゆかりの地…鳥海町
- ↑ 『黒澤明語る』原田眞人 福武書店(現・ベネッセ・コーポレーション)
- ↑ 次代への名言
- ↑ 三船敏郎が初の助演で最多6度目ブルーリボン
- ↑ 中村敦夫著『俳優人生―振り返る日々』より
- ↑ 追悼:三船敏郎 - 黒澤明の世界
- ↑ SUNTORY SATURDAY WAITING BAR 2003年1月25日の放送 夏木陽介さんと江原達怡さん(俳優)の 『東宝』の話
- ↑ 「インタージャパンマガジン」のインタビュー記事 - Nemzeti Hírháló 2012.2.29
- ↑ 文化放送「みんなの寅さん」 竹下景子さんインタビュー 第4回より
- ↑ 文藝春秋2013/11/三船敏郎の栄光とその破滅
- ↑ 三船敏郎公式ページ BIOGRAPHY
- ↑ 。“船仲間”前田武彦さんとの思い出秘話 「本当にボートの好きな人で、当時、ジャパン・モーターボート・クラブの会長に就任していた。三船さんとは年に2、3回、船上でパーティーをしたことを思い出す。」 2012年2月3日
- ↑ 三船敏郎氏が、鳥海町在住の15代哲朗氏へ宛てた直筆の手紙
- ↑ ジャパン・レストラン三船の公式サイト(Deutsch)
- ↑ 75年に父の敏郎がドイツのミュンヘンにオープンした<ジャパン・レストラン三船>で
- ↑ 『うしおそうじ物語』(キッズステーション)2000年に初放送。2004年4月11日に緊急追悼特番として再放送された。
- ↑ うしおそうじ著『夢は大空を駆けめぐる』(角川書店刊)より
- ↑ 平成元年「文芸春秋増刊」
- ↑ 三船が亡くなった際の追悼特集番組での戦時中に三船と同じ隊だった人の証言より
- ↑ 三船敏郎を偲んで - JA Circle
- ↑ 平成元年「文芸春秋増刊」
- ↑ 三船敏郎―さいごのサムライ
- ↑ 酔いどれ天使 映画館主から
- ↑ 「七人の侍」 製作秘話
- ↑ 「七人の侍」 製作秘話
- ↑ 文芸春秋/2013/11三船敏郎の栄光とその破滅
- ↑ 高瀬昌弘 『東宝砧撮影所物語 ― 三船敏郎の時代』 (東宝出版事業、2003年)
- ↑ 怪獣人生 ~元祖ゴジラ俳優・中島春雄
- ↑ 『追悼 三船敏郎 男 THE MAN』(アサヒグラフ1998年1・25増刊号)
- ↑ SUNTORY SATURDAY WAITING BAR 2003年1月25日の放送 夏木陽介さんと江原達怡さん(俳優)の 『東宝』の話
- ↑ 2003年5月29日放送の『ダウンタウンDX』より
- ↑ 浪漫工房8号『国際スター三船敏郎その偉大なる愛』(創作工房)
- ↑ “船仲間”前田武彦さんとの思い出秘話 「三船敏郎さんは、かつて大型台風で東京・成城の自宅に近い仙川が大氾濫して住民が取り残されたとき、自宅に所持していたモーターボートを動かして18人を救出したという逸話の持ち主。」 2012年2月3日
- ↑ 『三大怪獣 地球最大の決戦』DVDでの中島春雄のコメンタリより
- ↑ 『Kihachi フォービートのアルチザン』PP.157-158記載の岡本の談話によると、三船は下宿で軍用毛布を材料にズボンを自作していたという
- ↑ 児玉清著『負けるのは美しく』
- ↑ 『映画俳優安藤昇』ワイズ出版
- ↑ 「ホラ吹き太閤記」DVDの浜美枝のコメンタリより
- ↑ 映画.comニュース2009年3月11日 12:00
- ↑ 【エンタがビタミン♪】「三船敏郎が夢に出た」。高橋ジョージが今だから明かす三船美佳との入籍エピソード。
- ↑ 高橋ジョージ、海外の空港では不審者扱い?防犯カメラに追われるのは毎度のこと!! - シネマトゥデイ映画ニュース
- ↑ 文藝春秋/2013/11三船敏郎の栄光とその挫折
- ↑ 三船敏郎 (今週のスター) - 週間シネママガジン
- ↑ 文化庁 映画振興に関する懇談会(第10回)議事要旨
- ↑ 料理屋「三船」
- ↑ 俳優・宝田明さんの「心臓手術で取り戻した命」
- ↑ 一生懸命は当たり前 「タイタニック」で新春の舞台幕開け 俳優/宝田明さん
- ↑ 2010年7月17日MSN産経ニュース 胸のペンダントにニトログリセリンをしのばせ舞台に立っていた俳優・宝田明さん、狭心症手術が人生観を変えた
- ↑ 山田 洋次監督インタビュー 秋公開の『隠し剣 鬼の爪』について聞く
- ↑ 山田洋次監督との対話 映画『たそがれ清兵衛』によせて
- ↑ 三船敏郎 (今週のスター) - 週間シネママガジン
- ↑ 三好徹『チェ・ゲバラ伝』原書房
- ↑ 熊井啓への旅
- ↑ 文芸春秋/2013/11三船敏郎の栄光とその破滅
- ↑ 米誌が「尊敬すべきアクションスター25人」発表、三船敏郎の名も。 - 2007/11/04
- ↑ 25 Awesome Action Heroes-EW.com(English)
- ↑ 三船敏郎 - 週間シネママガジン
- ↑ 三船敏郎 (今週のスター) - 週間シネママガジン
- ↑ 三船敏郎公式ページ BIOGRAPHY
- ↑ 第6回川喜多賞 三船敏郎氏 俳優
- ↑ 三船敏郎系図
- ↑ 三船力也紹介ページ
- ↑ 『蝦蟇の油―自伝のようなもの』黒澤明(岩波現代文庫―文芸)
- ↑ 世界のミフネ(オリジナルエッセイ)
- ↑ 『蝦蟇の油―自伝のようなもの』黒澤明(岩波現代文庫―文芸)
- ↑ 追悼 三船敏郎 男 THE MAN
- ↑ A Mifune legenda 日本映画史上において - Nemzeti Hírháló 2012.02.29
- ↑ 聖教新聞 2006.1.18
- ↑ 文芸春秋/2013/11三船敏郎の栄光とその破滅
- ↑ 『七人の侍』で菊千代が死に、その泥だらけの尻を雨がきれいに洗い流す場面。タルコフスキー(旧ソ・映画監督)はここに死の浄化作用を読み取りました。
- ↑ 『シネアスト.映画の手帖2 オーソン・ウェルズ特集』(青土社)
- ↑ 追悼:三船敏郎
- ↑ 高橋ジョージ、海外の空港では不審者扱い?防犯カメラに追われるのは毎度のこと!! - シネマトゥデイ映画ニュース
- ↑ 「俳優を職業としている人々は危険だ。彼らは役を演じるために個性を隠そうとし、メソッドを作り上げ、いつも同じ演技をするようになる。台所でさえも演じ続けるようになり、普通に話すことが出来なくなる。私はそういう俳優たちを何人も知っている。三船(敏郎)やジャン・ギャバンは例外で、(彼らは)三船やジャン・ギャバンという役を演じていた。」
- ↑ 「用心棒」のトリビア
- ↑ 『「もののけ姫」はこうして生まれた。』、27-28頁。
- ↑ 『潜水艦イ-57降伏せず』のオーディオコメンタリーより
- ↑ 『マトリックス リローデッド』7つの見どころ! - シネマトゥデイ 2003年5月26日掲載
- ↑ 2012年3月8日放送 11:25 - 13:05 テレビ朝日ワイド!スクランブル佐々木正洋の夕刊キャッチアップ 夕刊フジの9面「自伝・その他一般人」のコーナーで、勝新太郎と中村錦之助、石原裕次郎が仲が良かったことや、3人が三船敏郎を尊敬していたというエピソードが報じられた。
- ↑ ■ 夏木陽介さんと江原達怡さん(俳優)の 『東宝』の話
- ↑ 小林桂樹 「役者六十年」
- ↑ スポーツニッポン「明るい明日を」(2009年12月20日)
- ↑ 「世界のミフネ」いたからこそ - スポニチ12月29日 06:00
- ↑ 『黒澤明の世界』毎日新聞社
- ↑ 文芸春秋/2013/11P348
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 132.0 132.1 タムリン・トミタ×尾崎英二郎 スペシャル対談 - 海外ドラマNAVI 特集
- ↑ 追悼:三船敏郎
- ↑ 新・選・組 ~幕末の動乱~
- ↑ 追悼:三船敏郎
- ↑ 追悼:三船敏郎
- ↑ イアンとは彼の尊敬する三船敏郎について「三船さんすごいよね」「存在感がすごいよね。あの存在感を出せる俳優は今の時代いないよ」と話が盛り上がる - シネマトゥデイ
- ↑ シンディ:「息子が三船敏郎の大ファンで、4~5歳の頃からビデオショップに行くと、「クロサワ!ミフネ!」と興奮するような子だったの。主人が役者だったからホントに小さい頃から外国の映画を観ていたのね。「七人の侍」なんて、何度も何度繰り返して観ているわよ。」
- ↑ 「用心棒」のトリビア
- ↑ 中村敦夫著『俳優人生―振り返る日々』より
- ↑ ジョン・トラヴォルタ、スキンヘッドや『パルプ・フィクション』での長髪は僕の提案!
- ↑ 自分が黒澤映画のベスト・シーンに選んだのは、『七人の侍』で菊千代が死に、その泥だらけの尻を雨がきれいに洗い流す場面。
- ↑ ぺこぺこ映画日記 1993-2002(講談社、2002)
- ↑ [1] - シネマトゥデイ
- ↑ ミフネ - シネマトゥデイ
- ↑ アランドロン サムライ
- ↑ 決定盤 伝説を聴く(日本コロムビア)
- ↑ TOY'S Hello Happy!公式HP
- ↑ 映画 七人の侍(7体セット) - 発掘堂
- ↑ 黒沢明 よみがえる巨匠の現場 用心棒/椿三十郎編 フルコンプリート全7種 - 発掘堂
- ↑ 3R×FEWTURE ITEM NO:JP611 三船敏郎 連合艦隊司令長官ver.
- ↑ サムライ三船敏郎T、新シリーズ販売!