千葉周作
テンプレート:基礎情報 武士 千葉 周作(ちば しゅうさく、寛政5年(1793年) - 安政2年12月10日(1856年1月17日))は、江戸時代後期の武士、剣術家。北辰一刀流の創始者。姓は平氏、名字は千葉、通称は周作、字は成政。生年月日は寛政6年(1794年)1月1日とする説もある。
生涯
出自
先祖を辿れば桓武平氏良文流、板東八平氏の一つの名門千葉氏で、北辰流千葉常胤にたどりつく。
出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山(生まれも育ちも主張)の2説がある。この他に宮城県気仙沼市本郷説が有力視されている。花山説にあっては、観光目的として自作自演(千葉家の墓を作る等)を行ったと村の観光促進事業内部にいた研究者から暴露本を出版されるなど問題が多い。佐藤訓雄による近年の研究では、陸前高田市気仙町字中井の天満宮下で出生したとする説が有力とされている。が、陸前高田市に気仙町ができたのは明治8年である、、。陸前高田市には、「千葉周作生誕之地碑」が建てられた。震災後も流失せず、残っている。
父は千葉忠左衛門成胤(馬医者として浦山寿貞とも)。曽祖父の道胤は相馬中村藩の剣術指南役であったが、御前試合で敗れたために役を辞して栗原郡長岡村荒谷(現宮城県大崎市古川荒谷)へ移り、その子の吉之丞常成は北辰夢想流剣術を創始したと称する。父・成胤もいったんは指南役に推挙されたが、辞して馬医者になったという。その後、松戸(現千葉県松戸市)に移り、馬医者を開業する。
北辰一刀流兵法
周作5歳の頃、父は妻を捨て周作だけ連れて家出をし宮城県栗原郡長岡村荒谷へ移る。まもなく周作は親元を離れ(しばらく松戸の父の許に滞在したという説もある)、中西派一刀流の浅利義信に入門した。他にも一刀流中西道場の中西子正(浅利義信の師匠)、寺田宗有などの指南を受けて腕を磨き、一時は浅利義信の婿となって後を継ぐことを期待された。しかし、後に組太刀の改変について浅利義信と意見が対立したため、妻(浅利の養女)を連れて独立し新たに北辰一刀流を創始した。この際に中西から受けた伝書を焼き捨てたとする伝承もあるが伝書の実物が現存しているため、これは誤りである。
その後、武蔵・上野などを周って他流試合を行い門弟数も増え、伊香保神社に奉納額を掲げることを企画したが、地元の馬庭念流がこれを阻止しようとする騒動(伊香保神社掲額事件)が発生し、掲額は断念した。この騒動で周作自身は名を挙げたが、北辰一刀流は事実上、上野から撤退し、上野(群馬県)では明治中期まで北辰一刀流を教える者はいない状態となった。
江戸に帰り、文政5年(1822年)秋、日本橋品川町に玄武館という道場を建て、後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、江戸に剣術の一流を興した。周作の門下から幕末の重要人物を多数輩出した。主な人物として浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新選組幹部の山南敬助などが挙げられ、門弟の井上八郎、四天王筆頭者塚田孔平、海保帆平、森要蔵らは優れた剣客として名を上げた。
天保10年(1839年)に周作の盛名を聞きつけた水戸藩藩主の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、12年には馬廻役として100石の扶持を受けた[1]。次男の栄次郎と三男の道三郎もそれぞれ水戸藩の馬廻役となっている。 千葉周作のお供で水戸藩に剣術指導に行く傍ら四天王塚田孔平は水戸弘道館にて勉学、水戸藩 相澤正志斎 戸田銀次郎 藤田東湖らと親交、のちに水戸天狗党の乱に千葉の四天王と門弟が大きくかかわることとなった。
評価
その剣技の特徴として「技の千葉(玄武館)、力の斎藤(練兵館)、位の桃井(士学館)」と評され、この三道場は後に幕末江戸三大道場と称された。周作の言葉としては「それ剣は瞬速、心、気、力の一致」と言ったとされる。
それまでの剣術は形稽古が中心で、習得までの段階が8段階で時間も費用も多くにかかるのに対し、北辰一刀流の教え方は、主に竹刀を使用し段階を3段階と簡素化したことが特徴。神秘性に偏らない合理的な指導が好評を博し、他の流派においては10年かかる修行が5年で完成してしまうと言われた。周作の剣術指導法は現代剣道に大きな影響を与え、剣道家からの評価が高い。平成15年(2003年)、全日本剣道連盟剣道殿堂に顕彰された。
千葉周作が独自に考案したとされる蓮折 長短のかね 捨目付 大目録傳の露の位 鐘の位 石火の位 が特に有名である。
親族
千葉周作が登場する作品
- 小説
- 漫画
- 赤胴鈴之助 - 千葉周作門下の少年剣士が主人公。
- テレビドラマ
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク