志村喬

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テンプレート:ActorActress 志村 喬(しむら たかし、1905年明治38年)3月12日 - 1982年昭和57年)2月11日)は、兵庫県朝来市出身の俳優である。本名は島崎 捷爾(しまざき しょうじ)。

生涯で443本の映画に出演した[1]黒澤明が監督したほとんどの作品に出演、また『ゴジラ』を始めとして多くの特撮映画に出演している。

実兄の島崎敬夫は横浜ゴム社長を務めた人物。

来歴・人物

誕生〜舞台俳優

兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市生野町)口銀谷生野鉱山社宅(甲社宅)に生まれる。父は三菱生野鉱業所の冶金技師で、祖父は土佐藩主・山内容堂小姓から250石取りの祐筆に上がり、鳥羽・伏見の戦いには隊長として出陣した経歴を持つ武士であった。

1911年(明治44年)に生野尋常小学校に入学、きかん気のガキ大将だったが、その反面6年間通して優等生で過ごし、1917年大正6年)、旧制神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)に入学、その後父親が宮崎に単身転勤となり、丁度その頃の志村は軽い肺病のため2年間進級が遅れたことから、母や兄弟と共に父のもとに合流し、それに伴い宮崎県立延岡中学校(現宮崎県立延岡高等学校)へ転校する。在学中は英語が得意で、文学に憧れて同人雑誌に加わって詩を寄稿する一方、ボート部に入り校内有数のボート漕ぎの名手として活躍する。

同中学校卒業後の1923年(大正12年)に関西大学予科に入学するが、まもなく父が退職したことから学資の援助が得られなくなり、仕方なく夜間の専門部英文科に転ずるとともに大阪市水道局の臨時職員として生計を立てる。

この頃、英文科の講師に劇作家の豊岡佐一郎シェイクスピア研究家の坪内士行がいたことから演劇熱が芽生えはじめ、大学の演劇研究会に参加し、さらに1928年(昭和3年)には豊岡を演出家に頼み、自ら幹部としてアマチュア劇団・七月座を結成する。しかし、芝居に熱中するあまり市役所は欠勤続きでついにはクビとなった。そこで大学も中退して、本格的に役者の道を目指し、七月座のプロ化を図り巡業などをするが、大赤字となり失敗した。

大阪に戻ってJOBK(NHK大阪放送局)のラジオ劇に声優として出演したり、厚紙切りなどで食いつないでいたが、それだけではどうしても生活が出来ず、1930年(昭和5年)に豊岡の友人で、のちに東宝撮影所長になった森田信義の世話で五月信子の近代座に入り、職業俳優として舞台に出演する。以降は日本各地をはじめ、遠く上海青島天津大連釜山にまで巡業した。

しかし、この頃から同じような芝居が続いて、気持ちや生活態度はすさみ、演技も惰性になっている自分に気付き、巡業先で一座を離れ、再び大阪に戻って、1932年(昭和7年)に剣戟の新声劇や翌年に旗揚げした新選座の舞台に立つが、芝居の世界は景気が悪くなる一方で、この頃主流になり始めたトーキー映画に舞台で鍛え上げた実績を生かせるかもと思い、映画俳優の転向を決意する。

映画俳優へ

1934年(昭和9年)に新興キネマ京都太秦)撮影所に入社する。サイレント映画の『恋愛街一丁目』で映画デビューした。当初は台詞の無い役がほとんどだったが、1935年(昭和10年)に伊丹万作の第1回トーキー作品『忠治売出す』ではじめて台詞のある役を貰う。それ以降は段々といい役がつき始め、1936年(昭和11年)には第一映画で溝口健二の『浪華悲歌』にしたたかな刑事役で出演した。

また千恵蔵プロに移籍した伊丹万作に呼ばれた『赤西蠣太』で、現代のサラリーマンのような朴訥とした侍・角又鱈之進を演じてからは、芸達者な脇役として認知され、志村自身も映画開眼した作品と述べている。

同年、松田定次に請われてマキノトーキーに移籍。数本に出演したのちにマキノトーキーは解散し、1937年(昭和12年)、辻吉朗の口添えで日活京都に移り、1942年(昭和17年)までに100本近い作品に出演した。特に嵐寛寿郎主演の『右門捕物帳 拾万両秘聞』でのアバタの敬四郎役は、戦前の出演作品の中でも志村の当り役となった。またマキノ雅弘監督のシネオペレッタ『鴛鴦歌合戦』では事実上の主役を演じて得意の歌を披露、その歌の上手さに驚いた共演者のディック・ミネに歌手デビューを勧められたという。

しかしこの頃、かつて新劇の舞台に立っていたことから特別高等警察に京都の太秦警察署(現・右京警察署)へ連行されて20日間ほど拘留、妻・政子と俳優仲間の月形龍之介が身元引受人となり釈放される。戦後、『わが青春に悔なし』に出演した際、毒いちごと呼ばれる特高を演じるが、これはその時の経験を生かしたという。

1942年、日活と大映との合併をきっかけに退社し、興亜映画松竹太秦撮影所)に入社する。4本の映画に出演するが、しかしその後は仕事がなく、この頃に新劇を追いやられた東野英治郎小沢栄太郎殿山泰司らと生活を助け合う。当時、興亜映画は他社に俳優を貸し出しており、志村の恩人で東宝のプロデューサーの森田信義から打診されて志村も東宝の作品に出演した。

1943年(昭和18年)に興亜とは契約が残っていたが、東宝に移籍。1945年(昭和20年)に今井正監督で朝鮮映画製作の『愛と誓ひ』ロケで朝鮮に渡る。このロケがきっかけでキムチが好物となる。この年の8月に終戦を迎えるが、実弟がこの数週間前に南方で戦病死する不幸に見舞われる。

戦後、黒澤映画での活躍

1943年黒澤明の第1回監督作品『姿三四郎』で老柔術家・村井半助を演じ、それ以来黒澤に重用され、黒澤映画へは三船敏郎の16作品を上回る21作品に出演した[注 1]

1948年、『醉いどれ天使』で主役級に抜擢され、酔いどれ医者役を好演する。続いて1949年(昭和24年)に『野良犬』で三船と組むベテラン刑事役を演じた。同年の『静かなる決闘』では三船の父親役で出演し、毎日映画コンクール男優演技賞を受賞する。1952年(昭和27年)、『生きる』ではワンマン扱いで主演(この時代の黒澤映画では、この作品のみ三船が出ていない)、癌に侵された市役所員を頬骨が見えるほど減量して演じ、大ヒットする。NYタイムズに「世界一の名優」と絶賛され、黒澤にとっても志村にとっても一世一代の作品となった。続いて1954年(昭和29年)の『七人の侍』では侍達のリーダー勘兵衛役で、お荷物的存在・菊千代を演じる三船と対照を成すダブル主演。それまでの性格俳優的なイメージを一新する沈着豪胆なヒーロー像を打ち立て、『生きる』と並び生涯の代表作とした。

生きものの記録』を最後に加齢のため主役級を降板。以後は脇役として黒澤作品への出演を続け、癖の強い悪役なども演じた。晩年の黒澤映画では『影武者』にも出演している。1961年(昭和36年)には黒澤の代理としてベルリン映画祭に出席、多くの欧米の映画人から祝辞を述べられる。

三船敏郎から非常に尊敬されており家族ぐるみで親交があったという。また、三船は志村夫妻を両親のように慕っていたという。

黒澤作品に出演する一方、本多猪四郎監督にも重用され、『ゴジラ』以来怪獣映画・特撮映画にも多く出演、主に重厚な科学者役を演じた。東宝の人気三大怪獣ゴジラモスラキングギドラのデビュー作にも出演。後年、本多が演出補佐として参加した『影武者』でも顔を合わせている。なお、怪獣・特撮映画ほぼ全てと、後期の東宝黒澤作品をプロデュースした田中友幸は、関西大学の後輩であり、演劇活動時代から旧知の仲でもあった。

また黒澤作品でもなく特撮映画でもないこの頃の志村の代表作に、藤本定義監督がモデルとされる初老のプロ野球監督を演じた『男ありて』(1955年)が挙げられる。本作は映画化が危ぶまれていると聞いた志村自身が、映画化実現まで原作を守ろうとするほどの熱の入れようであった。映画化したのちもテレビドラマ化され、志村は映画とテレビでこの主役を演じた。

趣味はさまざまで、学生時代に培ったビリヤードの腕前は中々のもので、また馬術に関しては自分で馬を持ち、遠乗りも障害競技にも参加した。

晩年

60代に入る頃から病気がちとなり、1974年(昭和49年)に肺気腫と診断されるが、それでも映画やテレビに出演を続け、入院中の同年には紫綬褒章を受章する。しかし1977年(昭和52年)ごろから病状は悪化、入退院を繰り返していた。1980年勲四等旭日小綬章を受章した。1982年(昭和57年)2月11日に慢性肺気腫による肺性心で死去、76歳だった。

政子夫人とは仲のいい夫婦で知られたが、子どもはいなかった。遺品は、2010年に東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈された。また同年には兵庫県朝来市に「志村喬記念館」が設立された。

主な出演

映画

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鴛鴦歌合戦』(左から3人目、1939年)

太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品
★印は黒澤監督作品。

テレビドラマ

ドラマ以外のテレビ番組

著書・参考文献

  • 「芝居ひとすじに」(神戸新聞社編『わが心の自叙伝 映画・演劇編』神戸新聞総合出版センター、2000年、所収)
  • 澤地久枝『男ありて-志村喬の世界』文藝春秋、1994年。
  • 『記録志村喬』黒澤明研究会(『黒澤明研究会誌』9号)、1989年。

脚注

注釈

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出典

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関連項目

  • 辰巳ヨシヒロ - 漫画家。志村喬をモデルとして作品中の常連オヤジキャラクターを作った(『劇画漂流』上巻P.266参照)。またそのキャラクターはつげ義春にも流用されている。

外部リンク

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  1. 『日本映画人名事典』 キネマ旬報社


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