深作欣二

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テンプレート:参照方法 テンプレート:ActorActress 深作 欣二 (ふかさく きんじ、1930年〈昭和5年〉7月3日 - 2003年〈平成15年〉1月12日) は、日本映画監督脚本家。愛称はサクさん茨城県水戸市出身。茨城大学教育学部附属中学校水戸第一高等学校日本大学藝術学部卒業

妻は中原早苗。長男は深作健太

来歴

1953年(昭和28年)に東映へ入社。

1961年(昭和36年)、千葉真一の初主演作品となる『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。千葉とはこののち17作品でコンビを組み、ヒットを連発していく[1]。千葉を主演に据え置き演出した『風来坊探偵シリーズ』、映画『ファンキーハットの快男児シリーズ』、1966年(昭和41年)の映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は、テレビドラマキイハンター』 (1968年 - 1973年) の土台となった作品で、『キイハンター』の企画にも関わり、第1,2,157,158話を演出した[2][3][4]。『ジャコ萬と鉄』や、日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』の日本側監督を黒澤明が降板したため、後任となった舛田利雄から懇願され共同監督を引き受けたりしていたが、当時の深作は創りたい映画を東映になかなか認めてもらえず、東映に籍を置きながらにんじんプロダクション・國光影業で『カミカゼ野郎 真昼の決斗』を製作していた[5]

1973年(昭和48年)から公開された『仁義なき戦いシリーズ』は邦画史に残るヒットを記録し、実録映画の先駆けとなった。映画『柳生一族の陰謀』、『復活の日』、『魔界転生』、『蒲田行進曲』、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』、『バトル・ロワイアル』など、発表する作品の多くが大ヒット・話題作となった。テレビドラマでは前述の『キイハンター』ほか、『傷だらけの天使』 (2本演出)、『必殺シリーズ[注釈 1]、『影の軍団II』第1話などを演出している。

1997年(平成9年)、紫綬褒章受章。2002年(平成14年)にはカプコンのプレイステーション2用ゲームソフト『クロックタワー3』のイベントCGムービーの監督を務め(モーションキャプチャ収録)、これが撮影終了まで関わった最後の作品となった。

2003年(平成15年)1月12日前立腺癌の脊椎転移のため死去。テンプレート:没年齢。後に勲四等旭日小綬章を贈られた。深作は抗癌剤の投与を拒んだ。副作用による男性機能の低下を懸念したためである。未完だった遺作『バトル・ロワイアルII 【鎮魂歌】』の監督は、プロデューサーを務めていた息子の深作健太に引き継がれた。

作風

アクション映画ヤクザ映画以外でも、『柳生一族の陰謀』・『魔界転生』などの時代劇、『火宅の人』・『おもちゃ』のような文芸、『ガンマー第3号 宇宙大作戦』・『宇宙からのメッセージ』・『復活の日』などのSF、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』のようなホラー映画、と幅広い作品を残している。文芸作品に取り組んでも「文芸アクション」と呼ぶ深作にとって、荒唐無稽やウソの物語をいかにリアルに仕上げるかを真骨頂にし、そのような作品では実に楽しそうに撮っていた[6]。日本のみならず世界でも封切り公開されており、クエンティン・タランティーノジョン・ウーらは崇拝していることを明言している。全作品のうち『ファンキーハットの快男児』・『おもちゃ』以外のすべての作品で人が死ぬシーンが描かれており、死について生涯こだわり続けたことがうかがえる。暴力的な作品を撮る映画監督というイメージが強いが、本人が戦争という巨大な暴力を体験したことをきっかけに、「暴力を描くことで暴力を否定しよう」という考えが根底にあり、決して暴力を肯定していたわけではない。だからこそ様々な批判を受けても、最後まで作風を変えなかった。

人物

深作作品には欠かせない存在だった千葉真一にとって[7]、深作はかけがえのない師匠であり盟友だった[1][6]。千葉が1990年代からハリウッドに挑戦していた時に「(千葉が)まだ独りでロサンゼルスに住んでいたころにわざわざ来てくれてね。そのころまだ自炊をしていたので、自分で作った料理を食べてもらったんです。『おい、いつの間にこんなに料理がうまくなったんだ(笑い)』って言われましたよ。滞在中は映画の話をたくさんしました」と述懐している[1][6]。千葉はインタビューの際、最も尊敬する映画監督である深作を世界で活躍してほしかったこともあり、キンジ・フカサクと敬意をこめて呼んでいる[8]

干されていた室田日出男、大部屋でくすぶっていた川谷拓三志賀勝らを抜擢し、ピラニア軍団として知らしめた[4]福本清三は「監督は大部屋俳優の名前を覚えてくれず、『そこ』、『おい』程度でしか呼ばれないが、深作監督はわしら大部屋俳優でも名前で呼んでくれた」と証言している[9]。初めて東映京都撮影所で演出した際には殺陣師・擬斗師がいるにも関わらず、自ら殺陣擬斗を細かく指示し、福本ら大部屋俳優のシーンにも綿密にリハーサルをしたので大部屋俳優たちに驚かれた[9]。映画の打ち上げ時に福本は「スターさんにあまり言わないで、なぜわしら(大部屋俳優)に細かく指示するのか? 自分たちは撃たれる時も殺される時も、かっこよくできる」と思わず質問[9]。深作は「(大部屋俳優には)台本も渡されてないから、なぜ殺されるのか、殺された後、組がどうなるか、状況や背景を説明してるんだよ。映画はスターだけじゃなく、映っているみんなが主役なんだ。スターさんがどんなに一生懸命でも、スクリーンの片隅にいる奴が遊んでいたら、その絵は死んでしまう。だから同じ子分でも、それぞれが個性を出して殺されてほしいから、うるさいだろうけど、細かく指示を出すんだよ」と諭した[9]。福本は「この人、ただもんでないわ」と唸り、それまで大部屋俳優として幾度となく殺されてきたため、慣れ・自信・奢りがあったかもしれないと、反省したという[9]。福本はこれ以降、与えられた役をとにかく一生懸命にやろうと転機になったと述べている[9]

別名を「深夜作業組」と呼ばれるほどテストやリハーサルが長く[10]、映画『ファンキーハットの快男児』から始めた手持ちカメラはその後の数々の作品で導入され、ストップモーションやナレーションを効果的に使った作品を生み出してきた[11]。時に脚本を変えてしまうことから、映画『仁義なき戦い』では笠原和夫 (脚本家) から監督登用に拒まれたこともあったテンプレート:Refnest

作家性を高く評価される巨匠監督としては珍しく、自主製作的なことは一切行わなかった。門下の中田新一は著書「奔れ!助監督」で、監督は自分の金を映画に一銭も出してはいけないと教えられた(ただし中田はこれを守れず結局自らのプロダクションを設立した)と記している。どうしても撮りたい企画があった場合は、東映の外で出資してくれるプロダクションを探すという姿勢だった。その関係で、1970年前後に共産党系のプロダクションで何本か監督しているが、党員ではなく、特にシンパ活動的なことも行っていない。「仁義なき戦い」などはむしろ山田和夫ら共産党系の評論家に叩かれたぐらいである。

THE BLUE HEARTSのファンで、彼らの歌が自分の映画の作風に似ていると感じていた。特に「1001のバイオリン」が好きで、深作の葬儀にこの曲が流された。

死去前後の出来事

2002年
  • 9月25日 - 前立腺ガン脊椎転移を公表。『バトル・ロワイアルII(仮題)』の製作を発表。
  • 10月25日 - 前作公開時に舌戦を繰り広げた民主党衆議院議員石井紘基が右翼活動家に自宅前で刺され死亡。
  • 12月16日 - 『バトル・ロワイアルII(仮題)』撮影開始。
  • 12月21日 - がんの骨転移の痛みから、放射線治療のため予定より2日早く入院。
  • 12月23日 - 定期の放射線治療を受ける。
  • 12月29日 - 体力の低下による風邪から肺炎を併発する。
  • 12月31日 - 自力呼吸が困難になり、人工呼吸器を装着。一時危篤状態に。
2003年
  • 1月初頭-小康状態に回復。
  • 1月5日 - 息子・深作健太が監督代行として、撮影を再開。
  • 1月6日 - 健太が監督代行に正式決定。
  • 1月7日 - 東映社長・岡田茂と健太が会見。岡田は深作欣二について2月初頭に復帰させたいと発言。
  • 1月11日 - 夕方から容態が悪化。妻の中原早苗・健太や菅原文太らが病院へ。荻野目慶子も見舞を申し入れたが、中原が拒否。
  • 1月12日 - 午前1時、死去。
  • 1月16日 - 午後、築地本願寺で葬儀・告別式。千葉真一など[1]、出演者やファンら約1,100人参列。菅原文太弔辞、ジョン・ウーなど弔電約1,000通。
  • 1月18日 - 東大泉の東映撮影所で撮影再開。監督室に遺骨安置。
  • 2月7日 - 政府、勲四等旭日小綬章授与を閣議決定。
  • 3月10日 - 長崎県西彼杵郡での撮影現場をマスコミに公開。
  • 3月12日 - ビートたけし参加シーンの撮影現場をマスコミに公開。
  • 3月20日 - 横須賀市田浦町の水道施設「盛福寺管路ずい道」内でトンネルのシーンを撮影。
  • 4月10日 - 俳優の出演するシーンの撮影が終了。
  • 4月13日 - 東映本社でクランクアップ報告の記者会見。アフガニスタンヒンドゥークシュ地方での田園風景撮影計画を発表。
  • 4月21日 - アフガニスタンで8日間に渡る撮影を開始。撮影対象は町並みに変更された。スタッフは5名で、予定されていた健太は同行せず。
  • 5月18日 - 『バトル・ロワイアルII 【鎮魂歌】』のR-15指定が発表。
  • 5月23日 - カンヌ国際映画祭の見本市にて、欧州8カ国と上映権契約締結。既に締結済みの5カ国とあわせ、13カ国に。
  • 6月1日 - 鉄道駅や学校前などに「『殺しに行け』と先生が言った」というコピーの入った広告ポスターの掲示を開始。
  • 6月6日 - 「抗議が殺到」したという理由で広告差し替えを発表。撤去開始。
  • 6月22日 - 新宿の東京厚生年金会館で完成披露試写会。
  • 7月3日 - 渋谷東映で公開前々夜祭。欣二の誕生日。
  • 7月5日 - 全国261館で公開開始。健太、パート3製作の予定なしと発言。岡田は「興収40億円を狙える」と発言。
  • 7月13日 - 公開8日目。観客動員50万人突破。

作品

※は脚本も兼務

映画

テレビドラマ

演劇

ドキュメンタリー

ゲーム

監修

著書

  • 高野育郎共著『仁義なきバトル・ロワイアル』(アスペクト、2000年、ISBN 4757208103)
  • 『映画監督深作欣二』(山根貞男編、ワイズ出版、2003年、ISBN 489830155X)
  • 『深作欣二ラスト・メッセージ』(映像塾プロジェクト編、シネマハウス、2005年、ISBN 4434055011)

出演

受賞

参考文献

脚注

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注釈

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出典

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関連項目

外部リンク

テンプレート:深作欣二 テンプレート:日本映画監督協会理事長 テンプレート:ブルーリボン賞監督賞

テンプレート:毎日映画コンクール監督賞
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:Cite book
  3. テンプレート:Cite journal
  4. 4.0 4.1 テンプレート:Cite journal
  5. テンプレート:Cite journal1982年、8月上旬号。
  6. 6.0 6.1 6.2 テンプレート:Cite journal
  7. テンプレート:Cite web
  8. 千葉流 サムライへの道、132頁。
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 テンプレート:Cite book
  10. テンプレート:Cite journal
  11. テンプレート:Cite journal


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