アポロ11号

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アポロ11号アメリカ合衆国アポロ計画において、歴史上初めて人類月面に到達させた宇宙飛行である。

概要

アポロ計画ではこれが5度目の有人宇宙飛行で、アポロ8号アポロ10号に続く3度目の月飛行になる。また搭乗員すべてがいずれも過去に宇宙飛行の経験を持っているのは、宇宙開発史上これが2度目のことであった。

1969年7月16日ニール・アームストロング船長、マイケル・コリンズ司令船操縦士、エドウィン・オルドリン月着陸船操縦士を乗せたサターンV 型ロケットケネディ宇宙センター第39複合発射施設から発射され、7月20日、アームストロングとオルドリンは人類として初めて月面に降り立った。コリンズは、司令船の操縦、月面の写真撮影などを行なうため、月軌道上に留まった。

またこの飛行により、ジョン・F・ケネディ大統領が1961年5月25日の合同議会の演説で表明した「1960年代の終わりまでに人類を月面に到達させる」という公約(下記)が実現された(1963年11月22日に没したケネディは、この公約実現に立ち会えていない)。

私は我が国が、この10年間(60年代)が終わるまでに人間を月面に到達させ、なおかつ安全に地球に帰還させることを約束する。」(I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, of landing a man on the Moon and returning him safely to the Earth.)

搭乗員

※ ( )内は、この飛行も含めた宇宙飛行回数

主搭乗員

  • ニール・アルデン・アームストロング (Neil Alden Armstrong) :船長 (2)
  • マイケル・コリンズ (Michael Collins) :司令船操縦士 (2)
  • エドウィン・E・オルドリンJr. (Edwin E. Aldrin, Jr.) :月着陸船操縦士 (2)

コリンズはアポロ8号の司令船操縦士に指名されていたが、外科手術で搭乗中止になったため、ジェームズ・ラベルと交替で司令船操縦士になった。

予備搭乗員

  • ジェームズ・A・ラベルJr. (James A. Lovell, Jr.) :船長
  • ウィリアム・A・アンダース (William A. Anders) :司令船操縦士
  • フレッド・W・ヘイスJr. (Fred W. Haise, Jr.) :月着陸船操縦士

地上支援飛行士

  • チャールズ・モス・デュークJr. (Charles Moss Duke, Jr.) :通信担当官 (Capsule Communicator, CAPCOM)
  • ロナルド・エヴァンス (Ronald Evans) :CAPCOM
  • オーウェン・K・ギャリオット (Owen K. Garriott) :CAPCOM
  • ドン・L・リンド (Don L. Lind) :CAPCOM
  • ケン・マッティングリー (Ken Mattingly) :CAPCOM
  • ブルース・マッカンドレス2世 (Bruce McCandless II) :CAPCOM
  • ハリソン・シュミット (Harrison Schmitt) :CAPCOM
  • ビル・ポーグ (Bill Pogue)
  • ジャック・スワイガート (Jack Swigert)

飛行主任

  • クリフ・チャールズワース (Cliff Charlesworth) :発射および船外活動担当
  • グリン・ルーネイ (Glynn Lunney) :月面離陸担当
  • ジーン・クランツ (Gene Kranz) :月面着陸担当

宇宙船名

着陸船は、アメリカの国鳥であるハクトウワシを計画の徽章(右上参照)として使用することが決定された後、「イーグル (Eagle)」と命名された。また司令船の「コロンビア (Columbia)」はアメリカ自体を象徴する伝統的な女性名で、ジュール・ヴェルヌの小説「月世界旅行」に登場する、宇宙船発射用の大型大砲「コロンビアード」にもちなんでいる。NASAは計画段階では、司令船を「スノー・コーン(かき氷)」、着陸船を「ヘイスタック(干し草)」という暗号名で呼んでいたが、マスコミに公表する際に変更された。

計画の焦点

発射と月面着陸

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発射台から離れるアポロ11号を載せたサターンV 型ロケット。1969年7月16日
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発射から1分後、マッハ1に近づきヴェイパー・コーン(圧縮雲)を発生させるサターンV
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管制センターの担当官たち

1969年7月16日13:32UTC(現地時間午前9時32分)、アポロ11号を乗せたサターンV 型ロケットはケネディ宇宙センターから発射された。

「当日は、発射場近くの高速道路や海岸には無数の人が群れ、数百万の人々がテレビでこの光景を目撃しようとしていた」

と、NASAの主任広報官だったジャック・キングはコメントしている。ニクソン大統領も、ホワイトハウスの執務室で発射の瞬間を見ていた。サターンV は12分後には軌道に乗り、地球を一周半した後、第三段S-IVB ロケットを再点火して月へと向かった。30分後、司令・機械船がS-IVB から切り離され、月着陸船とドッキングした。

7月19日、11号は月の裏側で機械船ロケットエンジンに点火し、月周回軌道に乗った。軌道を13周した時、乗組員は静かの海サビーヌDクレーターの南西20キロの上空で、まさにこれから彼らが着陸しようとしている地点を目視することができた。ここが着陸地点に選ばれたのは、無人探査機レインジャー8号・サーベイヤー5号による調査や、月周回衛星からの写真撮影によって、比較的平坦で着陸や船外活動を行なうのに支障がないと判断されたからであった。

1969年7月20日、着陸船イーグルは司令船コロンビアから切り離された。イーグルは機体をゆっくりと回転させ、コロンビアにひとり残ったコリンズは、離れていくイーグルが損傷を負っていないかを目視にて確認した。

エンジンに点火し、降下を開始してしばらくたってから、アームストロングとオルドリンは月面上の目標地点を通り過ぎるのが4秒ほど早すぎることに気づいた。これはすなわち、予定着陸地点を数マイルほど行きすぎてしまうことを意味していた。その時、着陸船の航法コンピューターが警報を発した。地上のシミュレーターで数え切れないほど訓練を積んできた両飛行士にも、この警報が何を意味するのか理解できなかったが、テキサス州ヒューストンの管制センターにいたコンピューター技師は、航法主任にこのまま降下を続けても何ら問題はないことを報告し、それはただちに飛行士たちにも伝えられた。

だがその時アームストロングが窓の外を見ると、そこには直径100mほどもあるクレーターが待ちかまえていた。内部には乗用車ほどもある岩がいくつも転がっていて、その中に降りれば着陸船が転倒してしまうことは明らかであった。アームストロングは操縦を半手動に切り替え(一般的には全手動に切り替えたと思われているが、事実ではない)、傍らでオルドリンが高度速度を読み上げ続けた。7月20日20:17 (UTC)、イーグルは月面に着陸したが、そのとき燃料は残り25秒と表示されていた。この着陸にいたるまでのアームストロングの心拍数は150を超えており、彼らが着陸失敗の恐怖と緊張の中にいたことを窺わせている[1]

先ほどの警報は、コンピューターがオーバーフローを起こしたことを知らせるものであった。着陸の際、司令船とのランデブー用のレーダーは必要がなくなるが、万が一着陸を中止して緊急脱出する事態に備えて、スイッチがオンになっていた。そのためコンピューターには、高度測定用レーダーからのものとランデブー用レーダーからのものの2種類のデータが入ってきてしまい、演算処理が追いつかなくなったのである。地上のシミュレーションでは、このような事態は想定していなかった。これはコンピューターではなく人間の側のミスだったが、訓練された飛行士たちによって大きな問題に発展することはくい止められた。また燃料はあとわずかしか残っていないと表示されていたが、これは月の重力が地球の6分の1しかないため、タンク内で燃料が予想以上に攪拌され、実際よりも少なく表示されたものであった。このため次回以降のミッションでは、タンクの中に燃料の動揺を抑える抑流板が設置された。

月面から最初の言葉を発したのは(技術的な専門用語だったが)オルドリンだった。降下している間、彼はずっと操縦を担当するアームストロングの横で航法データを読み上げていた。接地した瞬間に彼が言った言葉は、「接触灯点灯。オーケー、エンジンストップ。ACA(Attitude Controller Assembly)解放。」で、アームストロングが「ACA解放了解。」と確認し、再びオルドリンが「モードコントロールオート。降下用エンジン指令すべて停止。エンジンアーム、オフ。413イン。」と発声した。その次にアームストロングが、有名な次の言葉を放ったのである。

「ヒューストン、こちら静かの海基地。イーグルは舞い降りた (Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed.)」

アームストロングが宇宙船の名称を不意に「イーグル」から「静かの基地」に変更したために、管制センターは一瞬混乱した。通信担当官が直ちに着陸を確認し、関係者は最も困難な作業である着陸操作が無事に行なわれたことで、ほっと一安心した。

船外活動の準備を開始する直前、突然オルドリンが、

「こちらは月着陸船パイロットです。この機会を借りて、私はこの放送を聞いている人々に対し、誰であろうと、またどこにいようと、しばらくの間手を止めて、この数時間に起こったできごとについて熟慮し、それぞれの方法で感謝をしてほしいと願います」

と言った。そのあと彼は、1人で聖餐式を行った。当時NASAは、アポロ8号の飛行士たちが月を周回している時に聖書の創世記の一節を朗読したことに関して、マダリン・マーレイ・オーヘイル[2](Madalyn Murray O'Hair)から「宇宙飛行士は、宇宙にいる間は宗教的活動を控えるべきだ」と訴えられていた。そのためオルドリンは、月で聖餐式を行うという自分のこの計画を妻に対しても事前に打ち明けず、また地球に帰還してから何年も公にすることはなかった。彼はテキサス州ウェブスターにある教会の古参の信者で、聖餐用具は同教会のディーン・ウッドラフ牧師が準備していた。この事実は、オルドリン自身の著書「月からの帰還」の中で初めて明らかにされた。後に同教会は、この時に用いられた杯を彼から受け取り、毎年7月20日に最も近い日曜日を「月の晩餐の日」として記念するようになった。

月面活動

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着陸船に搭載された低速度走査テレビがとらえた、はしごを下るアームストロングの姿

飛行士たちは、まず最初に60度の視界がある着陸船の三角窓から外の様子を観察し、星条旗と科学観測機器を設置するのに適当な場所を探した。船外活動の準備は、予定よりも2時間も余計にかかってしまった。ジョン・ヤング飛行士によると、着陸船のハッチは開発の途中でサイズを小さく変更されていたのだが、宇宙服の背面に備わる生命維持装置には何の変更もなかった。そのためアームストロングは船外に這い出るのに大変な苦労を要し、飛行士の心拍数はハッチを出入りする際に最高値にはね上がったという。

アームストロングが足下を確認しながら9段のはしごを下っている間、マイクロフォンは彼の息づかいをはっきりととらえていた。脚の横に設置されている撮影機器のDの形をしたリングを引くと、低速度走査テレビジョンカメラが始動し、はしごを下りるアームストロングの姿が映し出された。しかしこの映像はテレビ中継の規格には適合しなかったため、本放送では画質が劣る従来型のカメラで撮影された映像が表示されていた。信号はアメリカのゴールドストーン基地が受信していたが、オーストラリアの中継基地が受信していたもののほうがより鮮明だった。数分後、中継基地はより感度が良好な、オーストラリアのパークス天文台電波望遠鏡に移行された。

様々な技術的困難を乗り越え、月面からの史上初の船外活動をとらえた映像は、世界中に配信された。地球上ではこの瞬間、少なくとも6,000万人以上の人々がテレビでこの場面を見ていたと言われている。しかしながら低速度走査テレビで撮影した高画質の映像は長らく行方不明になっており、2009年にNASAが紛失したことを確認した。マザーテープは70年代から80年代の間に再利用されて上書きされてしまったものと見られている。アームストロングは着陸船の脚の上に降り立ち、月面の状態を「明るく、ほとんど粉のように見える (fine and almost like a powder)」と報告した後、着陸からおよそ6時間半後の1969年7月21日02:56 UTC(日本時間7月21日 午前11時56分、米東部夏時間7月20日午後10時56分)、月面に歴史的な第一歩を記し、有名な次の言葉を発した。

「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である (That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.) テンプレート:Side box

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月面に第一歩を記すニール・アームストロング

【右の動画中のアームストロングの発言内容】

I'm, ah... at the foot of the ladder. The LM footpads are only, ah... ah... depressed in the surface about, ah.... 1 or 2 inches, although the surface appears to be, ah... very, very fine grained, as you get close to it. It's almost like a powder. (The) ground mass, ah... is very fine.

いま着陸船の脚の上に立っている。脚は月面に1インチか2インチほど沈んでいるが、月の表面は近づいて見るとかなり…、かなりなめらかだ。ほとんど粉のように見える。月面ははっきりと見えている。

I'm going to step off the LM now.

これより着陸船から足を踏み降ろす。

That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.

これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。


アームストロングはまた、重力が地球の6分の1しかない月面は歩き回るには何の困難もなく、むしろ訓練よりもよほど楽であると報告した。

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アームストロングが撮影したオルドリン。ヘルメットにはアームストロング自身の姿が映っている。

11号の飛行は、ケネディ元大統領の「1960年代の終わりまでに人間を月面に到達させよ」という最高指令の実現であるのみならず、様々な技術への挑戦という側面も持っていた。アームストロングは後の飛行の参考になるよう、いろいろな角度から着陸船の写真を撮影し、そのあと細長い棒で砂サンプルをかき集めてバッグに詰め、右腿のポケットに押し込んだ。さらに着陸船の脚からテレビカメラを取り出して月面をパノラマ撮影した後、それを12m離れた場所で三脚の上にセットした。カメラのケーブルには巻きつけられていたときの丸みが残っていたため、引き伸ばすのにはやや苦労した。

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着陸船の傍らで作業するアームストロング

アームストロングから遅れること15分、オルドリンも月面に降り立ち、月の様子を「荘厳かつ荒涼とした風景」と表現した。両足で踏み切る「カンガルー・ジャンプ」など様々な歩行法を試みると、背中に負っている生命維持装置のために上体が後ろに反る傾向はあるものの、バランスを取るには何の問題もなく、慣れてくるとむしろ大股で歩いたほうがよいことが分かった。ただし移動する際は、常に六、七歩先のことを予想する必要があった。また月面の明るい部分はきわめて滑りやすく、太陽が照っている所から着陸船の影に入ったときには、宇宙服の中の温度には全く変化はなかったが、ヘルメットの内部には明白な温度差が感じられたと報告した。

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月面の状態を調査するためにつけられたオルドリンの足跡

飛行士たちが月面に星条旗を立てている最中、とつぜん緊急連絡が入ってきた。ニクソン大統領からのものだった。「かつてホワイトハウスからかけられた中で、最も歴史的なもの」と後にニクソン自身が語っているこの電話の中で、彼ははじめ、用意していた長いスピーチを読み上げようとしていた。だが、ホワイトハウスとの連絡担当官を務めていたNASAのフランク・ボーマンは、飛行士たちのスケジュールはぎっしりと詰まっていることを説明し、電話を早めに切り上げるよう説得した。

その後飛行士たちは、地震計レーザー反射鏡などが搭載された科学実験装置を展開した。さらにアームストロングが写真撮影のために着陸船から120m離れたイースト・クレーターのへりまでロープを伸ばしている間、オルドリンはスコップや伸張式の鋏を使って土壌サンプルや岩石を採集した。この間管制センターは、アームストロングの代謝率がやや高めだったので、少しペースを落とすように伝えていた。彼は時間内に任務をやり遂げようとして、あまりにも急ピッチに仕事をこなしていた。飛行士たちの呼吸や心拍数は予想されていた値よりは低かったが、管制センターは大事を取って予定を15分延長することを許可した。しかしながら月面活動の時間が予想外に長引いたため、サンプル採集活動は予定されていた34分間を途中で切り上げなければならなかった。

月面からの離陸と地球への帰還

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1969年7月21日のワシントン・ポスト。見出しは「イーグルは着陸した」「二人の男が月面を歩いた」

予定されていた月面活動をすべて消化すると、まずオルドリンが先に着陸船に入った。採集した岩石やフィルムなどを収めた箱は重量が22kgに達し、「月面コンベア」と呼ばれる装置で引っぱり上げたが、船内に入れるのには若干苦労した。それからアームストロングははしごの3段目まで一気にジャンプして飛び乗り、自分も船内に入った。宇宙服の生命維持装置、月面靴、カメラなどの必要がなくなった機材を放り捨てると、ハッチを閉め船内を与圧し、2人はようやく月面での初めての睡眠についた。

オルドリンは船内で作業しているとき、誤って上昇用エンジンを起動させるブレーカーのスイッチを壊してしまった。幸いにもボールペンの先でスイッチを入れることができたが、もしエンジンに点火できなければ、彼らは永久に月面に取り残されることになっていたところであった。

7時間の睡眠の後、2人はヒューストンからの目覚ましによって起こされ、離陸の準備を始めるよう指示された。2時間半後の17:54 (UTC)、月面から21.5kgのサンプルを持ち帰ったイーグルは上昇段のエンジンに点火し、離陸を開始した。司令船コロンビアとのドッキングにも成功して、軌道上で彼らを待っていたコリンズ飛行士と無事再会を果たした。

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着陸船イーグルの脚に貼られた、飛行を記念するプレート。宇宙風化は地球での風化に比べ極めて弱いため永らく月面に残ると考えられている

この時点で、アームストロングとオルドリンの2人が無事に月面を離陸しコリンズのいる司令船に戻ってこれたのだが、当時のNASAは司令船で月を周回することまでは成功していたが、月面からの離陸に関しては初の試みであり、2人を月から帰還させることについては完全に保証することができない状況であった。そのため、ニクソン大統領は2人が帰還できなくなった場合の「追悼の言葉」を事前に準備しており、これは後の1999年アメリカ国立公文書記録管理局で発見され公開発表された[3][4][5]

2時間半の月面活動で、飛行士たちは地震計や、地球と月との距離を測定するためのレーザー反射板など、様々な観測装置を月面に設置した。科学機器の他には、星条旗や、飛行を記念したプレートなども残してきた。記念プレートは着陸船の正面の脚に貼られていて、地球の東半球と西半球、3人の飛行士とニクソンの署名、そして「西暦1969年7月、惑星地球から来た人間が月面に初めて足を踏み降ろしたことをここに記念する。我々はすべての人類の平和のために来た」という声明が書かれていた。また彼らが月面に残してきた箱の中には、平和のシンボルである月桂冠と、飛行士3人が火災事故で犠牲になったアポロ1号の徽章、そしてアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンなどの歴代大統領や、世界73か国のリーダーたちの親善のメッセージを録音したシリコン製のレコードなどが収められていた。このレコードの中では、アメリカ合衆国議会の代表者や、NASAの設立に尽力した上下両院の4つの委員会のメンバー、歴代NASA長官の名前なども読み上げられていた。1989年に出版された「月から帰ってきた男」という本の中で、オルドリンはこの箱の中にはソビエト連邦宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンウラジミール・コマロフを記念したメダルも入っていたと明かした。またNASAの宇宙飛行士訓練担当官ディーク・スレイトンは「月を狙う」という本の中で、アームストロングにダイヤモンドの入った特製の飛行士の階級章を月面に置いてくるよう託していたと述べている。

離陸の際、上昇段の窓から月面を撮影した映像は、着陸船から8mほど離れたところに立てられた星条旗が、ロケット噴射で激しくはためく場面をとらえていた。オルドリンは、

「上昇を始めた時、私はコンピューターの操作に集中し、ニールは高度計を注視していたが、旗が吹き飛ばされるのははっきりと見ることができた」

と報告した。このため以後の飛行では、星条旗は着陸船から30m以上離れた場所に立てられることになった。

司令船とのランデブーとドッキングに成功した後、イーグルは1969年7月21日23:41 (UTC)、月周回軌道上に投棄された。アポロ12号の飛行の直前には、イーグルはいまだ軌道上にとどまっていることが確認されたが、NASAの報告ではその後次第に軌道が低下し、月面のどこかに落下したのだろうと述べられている。

7月23日、帰還前の最後の夜に、3人の飛行士はテレビのインタビューに答えた。始めにコリンズが、

「我々を打ち上げたサターンV 型ロケットはきわめて複雑な機械だが、すべての部品は完璧に機能してくれた。我々はこの機械が何の問題もなく働いてくれるという信頼を常に持っていた。この飛行は、数え切れない人々の血と汗と涙によって可能になった。今あなたが目にしている私たち3人は、何千、何万もの人間によって支えられているのだ。そして私は、そのすべての人々に言いたい。『ありがとう』と」

と述べ、オルドリンは、

「人間3人を月に送るという偉業は、政府や企業のみならず、国家や、あるいはそれ以上のものによって成し遂げられた。これは、人間の未知なる物への好奇心を象徴しているのだと思う。私は数日前のあの月面でのできごとを思い出すとき、賛美歌の一節が心に浮かんでくる。『天に思いを巡らすと、月や星の運行は、主によって導かれているものであるとしか思えない』。これは人が常に心にとどめておくべきことなのではないだろうか」

と続け、最後にアームストロングが、

「この飛行が実現したのは、まず第一に歴史において幾多の業績を残した科学史の偉大な先人たち、次にこれを成し遂げたいという意志を示したアメリカ国民、そしてそれを履行した政府と議会、さらに宇宙船や、サターンロケット、司令船コロンビア、着陸船イーグル、船外活動装置、月面における小さな宇宙船とも言うべき宇宙服などを作り上げた政府機関や企業など、多くの人々のおかげである。我々は、この宇宙船を設計し、試験し、完成させるために心血を注いだすべてのアメリカ人に心から感謝の意を捧げたい。そしてまたこの放送を聞いているすべての人々に、神の祝福があらんことを。以上、アポロ11号より」

と結んだ。

7月24日、コロンビアはウェーク島から2,660km東方、ジョンストン環礁から380km南方、航空母艦ホーネット (USS Hornet) から離れることわずか24kmの、西経169度9分、北緯13度19分の太平洋上に無事帰還した[6]。飛行士たちは着水からおよそ1時間後にヘリコプターによって回収され、ただちに月面から病原菌ウィルスを持ってきていないかを検査するために特別な病棟に隔離された。ニクソン大統領は、彼らを祝福するために全く個人的に空母を訪れた。

ファイル:President Nixon welcomes the Apollo 11 astronauts aboard the U.S.S. Hornet.jpg
隔離病棟に収容される飛行士たちと、彼らを祝福するニクソン大統領

8月13日、3週間にわたる検査により異常がないことが確認されると、3人はようやく隔離から解放され、ニューヨークシカゴロサンゼルスで(同じ日に)盛大なパレードで歓迎された。数週間後にはメキシコシティを訪れ、そこでも祝福を受けた。

ロサンゼルスでパレードがあった日の夜には、連邦議員、44州の知事合衆国最高裁判所長官、並びに83か国の大使らの主宰による歓迎の晩餐会が開かれ、ニクソン大統領およびスピロ・アグニュー副大統領からアメリカ最高勲章である大統領自由勲章 (Presidential Medal of Freedom) が授与された。そしてこの晩餐会は、この後45日間にわたって続く「偉大な飛躍 (Giant Leap) ツアー」の始まりに過ぎなかった。彼らにはこれから25か国を歴訪し、各国の君主元首首脳を表敬訪問することが予定されていたのである。

世界の多くの国は、史上初の月面着陸を記念して切手メダルを発行した。また北ベトナムのいくつかの捕虜収容所には、11号の飛行から数か月後にそれらの切手を貼った手紙が届けられ、アメリカが人間を月に着陸させたことがそれとなく知らされた。

ミズーリ州セントルイスで開催された第27回世界SF大会では、「かつて(SF小説の中で)行なわれた月面着陸の中で、最もすばらしかったもの」として、SF雑誌のパイオニア、ヒューゴー・ガーンズバック (Hugo Gernsback) にちなんだ特別ヒューゴー賞が贈られた。

9月16日には、3人は連邦合同議会の開催前にスピーチを行ない、月面に持って行った2枚の星条旗のうちの1枚を上院に、もう1枚を下院に渡した。

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国立航空宇宙博物館に展示されているアポロ11号司令船

11号の司令船は、2009年現在ワシントンD.C.国立航空宇宙博物館の中央展示ホールに、スピリット・オブ・セントルイスベルX-1ノース・アメリカンX-15マーキュリー宇宙船フレンドシップ7ジェミニ4号など、アメリカの航空史を開拓してきた機体とともに展示されている。隔離病棟、救命胴衣天球儀などはヴァージニア州の博物館に展示されている。

計画の表象

アポロ11号の徽章として最もよく知られているのは、コリンズがデザインしたものであろう(ページ先頭参照)。最初彼は「アメリカ合衆国による平和的な月面着陸」を象徴させるために、地球と月を背景に、オリーブの枝を嘴(くちばし)にくわえた鷲を表象にしたが、戦闘的に見えるのではないかという意見が出たため、結局オリーブの枝は嘴から足の爪に移された。また「アポロXI」のようなローマ数字による表記は一部の国の人々には分かりづらいだろうという意見も出たため、計画名は「アポロ11」とアラビア数字で表記することに決定された。また飛行士たちは、「計画の徽章は月面着陸のために働いたすべての人々のものである」として、自らの名前を記入することは控えた[7]。前述のように着陸船は徽章に合わせてイーグルと命名され、数年後にアイゼンハワーの1ドル硬貨が再発行されたときには、コインの裏側にこの図案が起用された。1979年、11号の飛行から10周年を記念して発行されたスーザン・B・アンソニー1ドル硬貨でも、この徽章が使用された。

LROから撮影されたアポロ11号の着陸地点

月周回衛星LROによってアポロ11号の着陸地点が撮影され、月着陸船や、月面に設置した機器等が撮影され、2012年3月に公開された[写真はこちら]。


脚注

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外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:アポロ計画テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA

  1. ナショナル ジオグラフィック プレミアムセレクションDVD 70. ナショナル ジオグラフィックのさらなる挑戦 より
  2. 無神論者の権利団体である「アメリカン・アテイスト(American Atheists)」の代表者で創設者である。マダリン・マレー・オヘアとも
  3. Los Angeles Times, July 7, 1999 より
  4. http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/390634.stm A silent death. Retrieved July 20, 2009.
  5. テンプレート:Cite news
  6. このとき日本航空の国際線旅客機の運行乗務員が、ミッドウェー諸島付近にて大気圏内を2000km/hで落下中のアポロ11号を目撃した。撮影に夢中で客室への放送は忘れたという。
  7. 徽章内には宇宙飛行士名を入れるのが以前からの通例となっており、これはその後のアポロやスカイラブスペースシャトル計画等でも行われているため異例の措置となった。