ユーリイ・ガガーリン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ユーリ・ガガーリンから転送)
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 軍人

ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンЮрий Алексеевич Гагаринラテン文字転写:Yuri Alekseyevich Gagarin、1934年3月9日 - 1968年3月27日)は、ソビエト連邦軍人パイロット宇宙飛行士。最終階級は大佐。

1961年、ボストーク1号で世界初の有人宇宙飛行を成功させた人物である。日本においてのみ、ガガーリンを象徴とする言葉として、帰還後に語ったとされる「地球は青かった」が有名であるが、正確な引用ではない(後述)。

生涯

生い立ち

ガガーリンは、モスクワ西方のグジャーツク市[1]に近い村クルシノで生まれた。両親はコルホーズの労働者であった。「労働者階級出身の英雄」というガガーリン像を強調するため「両親は農民であった」と語られるが、実際のガガーリンの父親は教養のある腕利きの大工であり、母親もインテリで読書家であった。彼は四人兄弟の三人目で、幼いガガーリンの世話は姉が行うこともあった。他のソ連国民同様、第二次世界大戦は一家に大きな苦しみをもたらした。二人の兄は1943年ドイツへ赴き、戦争が終わるまで戻らなかった。少年時代のガガーリンへの評価は、まじめで勉強家だが、茶目っ気もあるというものだった。少年時代の数学の教師がパイロットとして従軍したことが、後のガガーリンの生き方に影響を与えることになる。

金属工場の見習いとして働き出したガガーリンは優秀であったため、技術教育を受けるべくサラトフの学校へ送られた。そこで彼はエアロクラブに入り、軽飛行機での飛行を楽しんだが、徐々に飛ぶことの楽しさにとりつかれるようになった。工業学校を卒業したガガーリンはパイロットを志し、1955年オレンブルクにあった空軍士官学校に入った。1957年にはオレンブルクで出会ったヴァレンチナ・ゴリチェヴァと結婚している。卒業後、ノルウェー国境に近いムルマンスクの基地に配属された[2]。当時の記録によるとガガーリンの身長は158cmであった。

ソ連における宇宙開発

1960年代宇宙開発が本格的に始まったことに伴って宇宙飛行士の選抜が始められ、ガガーリンも20人の候補生の一人に選ばれた。ガガーリンは他の飛行士たちとともに、宇宙飛行に必要な身体的・精神的耐久性をテストされながら、厳しい訓練を受けた。

ついに世界初の有人宇宙飛行が行われることが決まったとき、パイロットの候補はガガーリンとゲルマン・チトフのどちらかにしぼられた。二人とも訓練結果が優れていただけでなく、身長が高くなかったことが決め手となった。なぜなら、最初期のヴォストーク宇宙船は非常に小さく、大柄な人間が乗ることは困難であったからである。最終選考の結果、選ばれたのはガガーリンだった。この決定は政府の上層部によって行われたが、決め手となったのはガガーリンが労働者階級出身にあることに加え温和で社交的な性格と、「ユーリイ」というロシア的な名前、そして労働者階級出身の英雄という点を強調しやすい生い立ちにあった[3]。なお選考に漏れたチトフは後にガガーリンに継ぐ二番目の宇宙飛行士になっており、自ら機体を操縦し大気圏外で食事をするなどの実験を行い、その様子は記録映像に残されている。

宇宙へ

1961年4月12日、ガガーリンはボストーク3KA-2で世界初の有人宇宙飛行に成功した。このときのコールサインは「ケードル(Кедрヒマラヤスギの意)」であった。飛行中「祖国は聞いている」という歌(エヴゲーニー・ドルマトフスキー作詞、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ作曲・作品86)を口ずさんで自分自身を元気づけていたといわれ、 [4] この歌は日本でも歌声喫茶などでよく歌われていた。後にメディアがガガーリンが飛行中に「見回してみても神はいない」といったと報じたが、その種の発言は記録には一切残されていない。ガガーリンを乗せた宇宙船は地球周回軌道に入り、大気圏外を1時間50分弱で1周しロシア領内の牧場に帰還した。当初は宇宙船と共に着陸したとされていたが、実際は高度7000mで飛行士を座席ごとカプセルから射出して一人パラシュートで降下させるという、大きな危険を伴うものだった。

飛行中にガガーリンは自分が中尉から少佐へ昇進したというタス通信のニュースを聞いた。ガガーリンも喜んだが、このような発表を飛行中のガガーリンに伝えた本当の理由は、当時の政府高官がガガーリンが生きて帰還する可能性が低いと考えていたからだといわれている。

地上に無事帰還するとガガーリンは一躍「時の人」となった。ニキータ・フルシチョフとの対面ではガガーリンはこのような計画を成功に導いた共産党の偉大さを賞賛した。フルシチョフにとってガガーリンの成功は、通常兵器を犠牲にしてまで自ら推し進めたミサイル力増強計画の成果を示すものであった。

地球帰還後・死

宇宙からの帰還後、ガガーリンはソビエトの宇宙計画の広告塔として世界を旅した。ガガーリンは激変した自分の環境にもうまく適応したかのようであったが、徐々に精神的に弱り、酒を飲むようになった。1961年には自傷行為を起こしている。

その後、ガガーリンは飛行指揮官となるため、訓練の一環として飛行訓練を再開する。1967年には親友でもあるウラジーミル・コマロフが搭乗するソユーズ1号のバックアップ要員を勤める。試験飛行が1度も成功しないままソユーズが出発の日を迎えた時、ガガーリンは宇宙服を来て「自分が乗る」とコマロフをかばったという。結果的にコマロフは宇宙船自動安定化システムの機能停止や大気圏突入時パラシュートが絡まるなどのトラブルで死亡してしまう。

1968年3月27日、教官とともに搭乗したMiG-15UTIキルジャチ付近を飛行中墜落死した。34歳没。

事故の正確な原因は長らく不明のままであり、政治的思惑が絡んだ人為的な事故説などの陰謀論も含めて噂されている。ガガーリンが搭乗時に飲酒していたという噂も流れたが、彼は飛行前のメディカルチェックに合格しており、死後行われた調査でも飲酒を示す一切の証拠は見つかっていない。

2011年4月に機密解除された当時のソ連政府調査委員会の報告書によると、気象観測用気球か鳥との衝突を避けようとして操縦不能に陥ったことが原因だったと結論付けられている[5]。しかし、ガガーリンの同僚であり事故調査委員会にも参加していたアレクセイ・レオーノフはこの結論を否定し、また彼の証言として調査結果に記載された内容が捏造だったことも明かしている[5]

これ以外の説としては、付近を飛行していた別の軍用機に巻き込まれたというものがある。1986年に発表された調査資料によれば、Su-11迎撃機が付近を高速飛行したため、その衝撃波に巻き込まれて操縦不能状態になった可能性が示唆されているテンプレート:要出典。1988年のプラウダ紙の報道では、ガガーリンの近くを官制ミスのためMiG-21が通過し、事故を招いたという調査結果が取り上げられた[5]。2013年にレオーノフが語ったところによれば、無許可で発進したSu-15が付近を通過したことが事故の原因だったという[5]。レオーノフはまた、事故を引き起こしたSu-15のパイロットはソ連邦英雄であり、名前を公にしないことを条件に真相を明かすことを許されたとも述べている[5]

2005年に発表された新説では、コックピットの通気口が故障か前の搭乗者のミスで開いたままになっており、そこから酸素が漏れ出して低酸素状態になり、意識を失って操縦不能状態に陥ったとしている[5]

ガガーリンの言葉

「地球は青かった」は不正確な引用

ガガーリンの言葉として日本においてのみ有名な「地球は青かった」は、1961年4月13日付けのイズベスチヤに掲載されたルポ(着陸地点にいたオストロウーモフ(Георгий ОСТРОУМОВ)記者によるもの)によれば、原文では、Небо очень и очень темное , а Земля голубоватая . となっており[1]、 日本語では、『空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた』(ГОЛУБОЙ(ガルボイ)は淡青色または薄青色である。英語では、bluishまたはlight blue)となる[2]。朝日新聞4月13日夕刊、毎日新聞4月13日夕刊、読売新聞4月13日朝刊は、この記事を基にしている[3]。 「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」が英語に翻訳される際、「地球は青かった」に変化して広まったという説もあるテンプレート:要出典が、根拠が見当たらない。ガガーリンの著書「宇宙への道」にも、地球の描写として 「地球はみずみずしい色調にあふれて美しく、薄青色の円光にかこまれていた」のような記述が見られるテンプレート:要出典

「神はいなかった」

ガガーリンの地球周回中の言葉として報道され、有名になったものとして「ここに神は見当たらない」というものがある。日本以外では、この言葉の方が「地球は青かった」よりも有名である。他に「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」という表現でもよく引き合いに出されている。

ガガーリンの親友であった宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフは著書「Two sides of the moon(『アポロとソユーズ』、p295)」の中でガガーリン自身が好んで語ったアネクドートとして次の話をあげている。おそらく、この中の言葉が彼自身の言葉として一人歩きしているのではないかと思われる。

宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教モスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。

総主教「宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか。」
ガガーリン「見えませんでした。」
総主教「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように。」

しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンはさきほどとは違うことを答えた。

ガガーリン「見えました。」
フルシチョフ「同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように。」(レーニン主義は宗教を否定している)

ガガーリンをめぐる噂

ガガーリンが宇宙へ赴いた最初の人類であることは今でも疑問の余地がないが、いまだにソ連ではガガーリン以前に二度有人宇宙飛行が試みられたが国境を越えて中国に着陸してしまう等で失敗し、隠蔽のために永遠の秘密とされたという噂もある。この話はしばしば著名な飛行機設計者セルゲイ・イリューシンの息子ウラジーミルの名前と結びつけて論じられる。ソビエト政府は宇宙計画のイメージダウンを恐れてすべてを秘密にしているというのである。

ロバート・ハインライン1960年に書いた記事「プラウダは真実を意味しているか?」の中で、1960年5月15日の出来事として次のような話を記している。それによればハインラインがソ連を旅行中、赤軍兵士たちが有人宇宙ロケットが打ち上げられたということを熱く語っていたという。しかし、後から政府高官に聞いても否定され、ビリニュスで見たプラウダにも何も記事がなかったというのである。ハインラインは実際に有人宇宙ロケットが打ち上げられたが失敗したため、封印されたのだと考えた。

ガガーリンの伝記『スターマン』によれば、このようなうわさが広まった背景には、有人宇宙飛行に先駆けて行われた無人試験飛行で、人形を乗せ、通信のチェックを行うために人の声を吹き込んだテープをのせていたことが原因ではないかと推測している。もっとも、ガガーリンの宇宙飛行時、打ち上げまではその事実は明らかにされなかったこと等を挙げ、ソ連の事実隠蔽を疑う意見もいまだに存在する。

しかし、打ち上げ成功直後にソ連政府は「ガガーリン少佐を乗せたヴォストークが軌道周回中」と発表している。この事は、ソ連政府がガガーリンの安全な帰還に相当な自信を持っていたことの表れとも受けとめられ、もしそれ以前に有人飛行に失敗しているなら、そのようなタイミングでの発表は考えにくい。この事も、噂を否定する間接的な証拠と言える。

何より、これまで様々な噂が流れていたにもかかわらず、それらを証明する物的証拠は出ていない。

当時は冷戦という特異な社会構造の中で、いわば敵国であったソ連への漠然とした不信感が存在していた。そのため、そのような感情に関連して「ソ連が事実を隠蔽している」との噂が産み出されたのであろう。さらにガガーリンは日本にも来たことがあるが、発言に不可解な面が目立った事から不審に見られ「秘匿している機密を守るための替え玉では」との報道もあった。 これは糸川英夫がガガーリン本人と対談した際の個人的な感想を基にしたものであり、糸川の意見に対しては反論もなされている。[4]

エピソード

  • 地球生還後にフルシチョフから勲章を授与されるときに、ガガーリンの軍服の生地が余りに硬いためにフルシチョフは勲章をガガーリンの軍服に付ける事が出来ず、直接手渡したと言われている。真偽は不明だが、ソ連の重工業と軽工業の技術差を揶揄するときに使われている。
  • ガガーリンのアイデアで、宇宙船の操縦室に熊の人形をぶら下げた。これは、無重量状態になったときに、人形が宙に浮くので宇宙に到達したのが一目瞭然だからである。この伝統は21世紀になった今でも続いている。

脚注

テンプレート:Reflist

参考図書

  • 的川 泰宣 『月をめざした二人の科学者―アポロとスプートニクの軌跡』中公新書 ISBN 4-12-101566-5
  • Y・ガガーリン/江川 卓訳 『宇宙への道』新潮社 ポケット・ライブラリ(1961年・絶版)

テンプレート:Sister

関連項目

外部リンク

テンプレート:Link GA

テンプレート:Link GA
  1. 1968年にガガーリン市に改称
  2. 北欧上空の大気状態は不安定でパイロット泣かせの土地であった。
  3. 地上において、靴を脱いでヴォストーク宇宙船へ試乗した事に、開発者であるセルゲイ・コロリョフが感銘を受けたのが決め手という説もある。
  4. 祖国は聞いている
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 テンプレート:Cite news