丹下健三
丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日 - 2005年(平成17年)3月22日)は日本の建築家、都市計画家。一級建築士(登録番号第15182号)。
「世界のタンゲ」と言われ、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。また磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成した。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。カトリック信徒(洗礼名:ヨセフ)。
目次
年譜
- 1913年(大正2年) 丹下辰世(ときよ)とテイ(禎・禎子)の三男[注 1]として大阪府堺市に生まれる。住友銀行社員であった父の転勤によって生後まもなく中国の漢口へ。数年後さらに上海のイギリス租界に移り住む。
- 1918年(大正7年) 上海・日本尋常小学校入学。
- 1920年(大正9年) 父の出身地である愛媛県今治市に家族で移住。今治の第二尋常小学校(現・今治市立美須賀小学校)に編入。
- 1926年(大正15年) 旧制今治中学(現・今治西高校)入学。
- 1930年(昭和5年) 今治中学四年修了(飛び級)で旧制広島高校(現・広島大学)理科甲類に進学。同校図書室で見た外国雑誌のル・コルビュジエの記事に感銘を受け建築家を志す。ル・コルビュジエを通して一時傾倒していたマルクス主義から実存主義に転向する。
- 1933年(昭和8年)~1934年(昭和9年) 東京帝国大学建築科の受験に2度失敗。東北帝国大学金属学科に毎年1~2名の欠員が出ると聞き受験するも、丹下が受けた年に限りたまたま1人だけ定員を超えており、丹下のみが落第する。徴兵逃れのため日本大学芸術学部映画学科に在籍したがほとんど登校せず、ヴァレリー、ジード、プルースト、ドストエフスキー、ヘーゲル、ハイデガーなどを読み耽り、名曲喫茶で友人と語り合い、バーに出没した。「なぜ二年間にもなったかといえば、多感な青春時代、情熱をもって取り組む対象がどうしても文学だとか芸術だとかに偏してしまったから、ということにしておきたい」(丹下健三『一本の鉛筆から』p.25)。丹下はまた「日大の映画科には籍を置いたままで終わった。しかし、私は映画には大変興味を持っていて、そのころからしきりに言われた「総合芸術」に取り組んでみようと思ったことがあったのも事実である」(丹下健三『一本の鉛筆から』p.27)とも述べている。同時期の日大芸術学部には黒澤明がいたとする資料もある[1]。
- 1935年(昭和10年) 東京帝国大学(現・東京大学)工学部建築科に入学。内田祥三、岸田日出刀、武藤清に師事。1学年上に立原道造が在籍していた。
- 1938年(昭和13年) 東京帝国大学工学部建築科より辰野賞を受賞。東京帝国大学工学部建築科卒業後、前川國男建築事務所に入所。当時の担当作品に岸記念体育会館(初代)があるが現存しない。
- 1941年(昭和16年) 東京帝国大学大学院に入学。
- 1942年(昭和17年) 大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選。
- 1946年(昭和21年) 東京帝国大学大学院修了後、同大学建築科助教授に就任。いわゆる「丹下研究室」を作る。
- 1951年(昭和26年) CIAM(国際近代建築会議)に招かれ、ロンドンで広島計画を発表。初めての日本国外旅行となる。
- 1954年(昭和29年) 日本建築学会作品賞(愛媛県民館)。以後同賞受賞がつづく(1955年図書印刷原町工場、1958年倉吉市庁舎)。
- 1958年(昭和33年) テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国建築家協会(AIA)第1回汎太平洋賞受賞。
- 1959年(昭和34年) 東京大学より工学博士の学位を受ける。博士論文は「大都市の地域構造と建築形態」。
- 1963年(昭和38年) 新設された東京大学工学部都市工学科教授に就任。
- 1965年(昭和40年) 日本建築学会特別賞(国立屋内総合競技場)。テンプレート:Flagicon イギリスRIBAゴールドメダル受賞。
- 1966年(昭和41年) テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国AIAゴールドメダル受賞。
- 1970年(昭和45年) ローマ法王庁聖グレゴリオ大勲章受章。
- 1973年(昭和48年) テンプレート:Flagicon フランス建築アカデミー ゴールドメダル受賞。
- 1974年(昭和49年) 東京大学を定年退官、名誉教授となる。
- 1976年(昭和51年) テンプレート:GER政府プール・ル・メリット勲章。
- 1979年(昭和54年) テンプレート:Flagicon イタリア国家有功勲章コメンダトーレ章。
- 1980年(昭和55年) 文化勲章受章。
- 1986年(昭和61年) 日本建築学会大賞(日本における現代建築の確立と国際的発展への貢献)。
- 1987年(昭和62年) テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国プリツカー賞受賞。新日本建築家協会(現在の社団法人日本建築家協会)初代会長(1988年まで)
- 1993年(平成5年) 高松宮殿下記念世界文化賞建築部門受賞。
- 1994年(平成6年) 勲一等瑞宝章受章。
- 1996年(平成8年) レジオンドヌール勲章受章。
- 2005年(平成17年) 3月22日死去(91歳)。従三位。
業績
1939年(昭和14年)、丹下は雑誌『現代建築』に論文「ミケランジェロ頌-ル・コルビュジエ論への序説として-」[注 2]を発表し、つづく1941年(昭和16年)に前川国男建築設計事務所で岸記念体育会館(初代)[注 3]の設計を担当したが、その名が一躍世に知られるようになったのは、1942年(昭和17年)の大東亜建設記念営造計画[注 4]コンペと、それに立て続いて1等入選を果たした、1943年(昭和18年)の在盤谷日本文化会館計画コンペによってである。
特に大東亜建設記念営造物コンペの丹下案、「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画-主として大東亜建設忠霊神域計画-」は、ヒューマンスケールを遥かに超えた壮大なプランと、横山大観風の日本画を想わせるそのパースペクティブ(透視図)によって、本来建築学会の若手を対象にした懸賞行事であり、それゆえ到底実施案となり得なかった地味なこのコンペをして、後世まで人々の記憶に留めさせることになった[2]。
同時期の大学院時代から第二次世界大戦後しばらくにかけては、主に都市計画の研究・業務に従事。人口密度や交通現象、都市デザイン等の研究を続け、それらの成果を第二次世界大戦後に日本建築学会で発表し、後にそれをもとに1959年(昭和34年)に博士号学位論文「都市の地域構造と建築形態」としてまとめ上げる。また、1946年(昭和21年)8月に東京大学助教授に就任すると、福島市の依頼による福島地区都市計画(1947年)や立川基地跡地の文化都市計画、北海道稚内市の都市計画(1950年から1952年まで)などを手がけていった。その間の1948年(昭和23年)には「建築をめぐる諸問題」、また二年後の1950年(昭和25年)には経済安定本部資源調査会事務局地域計画班の依頼による「地域計画の理論」という2つの計画関連の研究小論文を執筆しているほか、戦災復興事業の一環で行われた東京都都市計画コンペや文教都市計画、1947年から戦災復興院(後の建設省。現・国土交通省)による各地の戦災復興都市計画に参加した。当初の担当は群馬県前橋市と伊勢崎市であった[3]。
広島に原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日には、父危篤の知らせを受け帰郷の途にあって尾道にいたが、焼け野原となって跡形も無くなっていた実家に到着した翌7日、父はすでに2日に他界しており[注 5]、また広島市への原爆投下と同じ日に実施された今治への空襲によって、最愛の母をも同時に失っていたことを知らされる。壊滅的被害を受けた広島は、外国の雑誌でル・コルビュジエのソビエト・パレス[注 6]計画案と出逢い、建築家を志した想い出の地でもあった。その広島の復興計画が戦災復興院で俎上にのぼっていることを知るに及んで、残留放射能の危険性が心配されたにもかかわらず、丹下は志願して担当を申し出た[4]。浅田孝・大谷幸夫ら東大の研究室のスタッフとともに1946年の夏に広島入りし、都市計画業務に従事した[5]。その成果は、広島市主催の広島平和記念公園のコンペに参加した際、見事1位で入選という形で結実する。
他の設計案が、公園内のみを視野に入れた計画案にとどまったのに対して、丹下は広島市を東西に貫く平和大通り(幅員100m、長さ4Kmにわたる通称100メートル道路)と直交する南北軸線上に、慰霊碑と原爆ドームを配し、その計画案の都市的スケールが、コンペで高く評価された理由である[6]。広島の復興計画において、この市街地を十字型に貫く都市軸を通したことで、第二次世界大戦後の広島市の骨格を作ったのは丹下であると言える[7]。またこれにより、当時は単なる一廃墟に過ぎなかった原爆ドームにスポットライトを当て、中心性を持った都市空間として広島を再建する上での、ランドマークとしての「原爆ドーム」を発見したのは、事実上、丹下であると言うことが出来る[8]。
実際、1966年(昭和41年)7月の広島市議会において、満場一致でその永久保存が決まるまで、「原爆による惨禍の証人として保存する」意見と、「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取壊す」との意見の対立があったのである[9][10]。 しかしながら今日に至ってみれば、日清戦争当時大本営がおかれて臨時首都となり、明治以来、広島城を戴く広大な西練兵場を都心部に抱えた軍都として発展して来た廣島市[11]が、平和都市広島に生まれ変わるためには、広島城に代わる新たなシンボリックな遺構をそこに設定する必然性が確かにあり[12][13](原爆で倒壊焼失した広島城が再建されるのは1958年のことである[14])、それを見抜いた丹下の方に、都市計画家としての先見性があったと評価出来る[15]。
同時期、第二次世界大戦後の日本建築界の幕開けを告げる、当時日本最大級のコンペであった世界平和記念聖堂の建築競技設計でも衆目を集めるが、施主であるカトリック教会が、丹下案と類似するオスカー・ニーマイヤー設計のブラジル・パンプーリャのサン・フランシスコ礼拝堂に見られる放物線状のシェル構造が持つ、その非宗教伝統的な形体と音響の悪さを嫌って、丹下案は不採用(1等なしの2等当選)となった。後にその実施は、コンペの審査委員の一人で、コルビュジエ派である丹下案を酷評した表現派の村野藤吾が担当することになり、日本建築界の一大スキャンダル[注 7]となる。
そのような経緯もあり、資材の払底した第二次世界大戦時中ならびに第二次世界大戦終決直後に若年期を過ごさざるを得なかった丹下健三にとっては、広島平和記念資料館は事実上のデビュー作である。コンクリート打放しの端正なプロポーションを、都市的スケールのピロティで大地から軽々と持ち上げることによって、広島の焦土からの復興を力強く印象づけ、第二次世界大戦後の日本建築はここから始まったと言われるほどの記念碑的な作品ともなった。コルビュジエのスイス学生会館やソビエト・パレス計画、またユニテ・ダビタシオンの影響だけでなく、法隆寺や厳島神社の伽藍配置、また正倉院・伊勢神宮・桂離宮などの日本建築の精華にデザインソースを求めた[注 8]これら一連の広島ピースセンターの建築によって、西洋起源のモダニズムと日本建築の伝統様式は初めて記念碑的レヴェルで結晶し、丹下はこの広島計画[注 9]をもって、CIAM(シアム・ 近代建築国際会議)に参加し、その名を日本国外に知らしめた。
また、丹下はこの事業にイサム・ノグチを強く推して参加させたが、当時建設省の広島平和記念都市建設専門委員会委員長であり、また丹下の恩師でもあった岸田日出刀の「原爆を落とした当のアメリカ人の手になるもので、爆死者の慰霊になるのか」という強い反対意見により、慰霊碑はノグチのデザインが却下され、丹下自身が担当することになった[16]。丹下は、岸田らの介入に対する不快感とノグチへの申し訳なさもあって[注 10]、ノグチのデザインをほぼそのまま流用しながら、自分自身の当初の構想に立ち返って埴輪の家の屋根形にデザインした[17]が、結果的にみれば、慰霊の際ノグチの手になるモニュメンタル性の強いオブジェ[注 11]を拝む形になるのではなく、人々が慰霊碑に相対したとき、視線の先に原爆ドームが自然に垣間見える様になって、平和公園は単なる慰霊施設ではなく平和を祈念し「平和を創り出すための工場」であるべきだという丹下の建設理念[注 12]は、そのデザイン変更によってより明確となった。そこから、後にこれらの施設がピースセンターと呼ばれることにもなる。
その後、スチール製グリッドのシャープなエッジを見せた旧東京都庁舎や、日本伝統木造建築の木割り(日本の伝統的な木造建築において、各部分の大きさや寸法を規定する規範または原理。西洋建築におけるオーダーにあたる)をコンクリートで稠密に再現した香川県庁舎などの、いわゆる広島ピースセンターと合わせて初期三部作と呼ばれる傑作を設計した。とりわけ香川県庁舎は第二次世界大戦後の日本全国の地方自治体庁舎のモデルともなり、数多い丹下建築の中でも唯一のビルディング・タイプとなった建築である[18]。1961年(昭和36年)に丹下健三・都市・建築設計研究所を設立。同年発表された海上都市計画「東京計画1960」は、日本発の都市計画の嚆矢として世界的にも評価が高い。丹下は生涯にわたって「建築家としてトータルに都市をデザインすること」に情熱を持ち続け、それにより都市的観点から構想された数々の総合的な建築計画が生み出され、その点が他の同世代の巨匠建築家と比較して違いが際立っているところである[19]。
壮年期の丹下は、日本国外からもたらされるシェル構造や折板構造などの様々な新技術や建築の新思潮を精力的に消化しながら、1964年(昭和39年)の東京カテドラル聖マリア大聖堂と 東京オリンピック国立屋内総合競技場(正式名称:国立代々木屋内総合競技場)において、自身の建築歴の頂点を極めることになる。両作品ともに、当時の最先端の構造技術を咀嚼しながらも独自の発展を見せ、東京カテドラル聖マリア大聖堂ではHPシェル構造を用い、国立屋内総合競技場では吊り構造を用いて、構造と形態を高度な次元で融合させながら、なおかつ至高性をも表現することに成功したモダンデザインの傑作である。前者は現代キリスト教会建築の中でも屈指のものであり、後者はコルビュジエのソビエト・パレス案からマシュー・ノヴィッキーのノースカロライナ・アリーナ(ローリー競技場)を経て、エーロ・サーリネンのイェール大学アイスホッケーリンクに至る流れの中で、吊り構造の決定打にして完成作とも評され、世界に衝撃を与えた[20]。
特に東京オリンピックプールの評判[注 13]は素晴らしく、アメリカ水泳選手団の団長は感激のあまり、「将来自分の骨を飛び込み台の根元に埋めてくれ」と申し出たと伝えられる程であった[21]。 大会後、国際オリンピック委員会は、東京都ならびに日本オリンピック組織委員会とともに、丹下健三を特別功労者として表彰した。ここにひとりの建築家[注 14]が、その建築表現の持つ力によって、国際社会に与える影響力の大きさにおいても、主催者である行政や組織と比肩しうるものであることを全世界に実証したのである[21]。それ以降、丹下健三の名は世界の人々に広く知られるところとなり、日本国外のビッグプロジェクトにも多く携わることになった。
1970年(昭和45年)の大阪万博では、京都大学教授の西山夘三と共に総合プロデューサーをつとめ、その中心施設であるお祭り広場の設計も手がけた。「大屋根」をジャッキによる先駆的なリフトアップ工法で持ち上げ、それを太陽の塔が突き破ってそそり立つという岡本太郎とのコラボレーションは、今日に至るまでの語り草になっている。
建築のスタイルは本来モダニズム系統であり、当初はポストモダン建築を単なる意匠だと批判していたが、晩年にはポストモダンの傾向も取り入れた東京都庁や日光東照宮客殿・新社務所などの作品もある。最後の大作である東京都新庁舎は、ゴシック建築であるノートルダム大聖堂(パリ)の双塔の形態を引用するとともに、外壁面を複雑に凹凸させて陰影を深くし、さらに外壁PC板に濃淡二種類の花崗岩を打ち込むことによって、フェイクではあるが一見窓のようにも見せ、実際の窓枠よりもさらに細かく割るデザイン処理によって重厚さ[注 15]を演出した。丹下自身の言によれば、格子戸を思わせるデザインで和風を感じさせると同時に、情報化時代をIC(集積回路)のグリッドパターンで象徴させた所にポストモダン性があるとしている[22]。
評価
日本の近代建築は、第二次世界大戦前においても西洋先進諸国と遜色ないレベルに達していたが、丹下の東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)によって初めて、明確に世界のトップレベルに引き上げられたと言ってよい[23]。 それ以後、日本建築界が非西洋諸国の枠を超えて、質・量ともに世界の建築界の中でも傑出した地位を築く道を、後進へと開いたと言える。第二次世界大戦後の日本建築界の重鎮であり、昭和という時代の国家的プロジェクトを背負い続けた建築家であるが、高度成長が終わり開発が一段落した大阪万博以降、その活躍の場は必然的に中東やアフリカ、また東南アジアの発展途上国に移っていった。唯一とも言える例外はイタリアである。
自らがアイデアを出して、それを単にスタッフに図面化させるのではなく、建築設計のオーケストレーションとも言えるプロダクション制を導入し、協同で設計する手法を確立した[24]。それにより後年、丹下の下からは大谷幸夫・浅田孝・沖種郎・槇文彦・神谷宏治・磯崎新・黒川紀章・谷口吉生らの多くの優れた人材が輩出することになったが、反面、特に1980年(昭和55年)以降の作品において、独創性が犠牲にされたとの批判もある[25]。
東京都庁舎(新都庁舎、1991年竣工)では指名コンペが行われたが、大方の予想通りに、当時の都知事・鈴木俊一との強いつながりを持つ丹下の設計案が当選し、「出来レース」とも評された[26][27]。 鈴木とのつながりは[注 16]、鈴木が1964年東京オリンピックの準備のために、地方自治庁(後の自治省。現・総務省)から東京都副知事に出向したことにさかのぼり、その後鈴木が大阪万博の事務局長に就任した経緯もあって、のちに鈴木が都知事選に初出馬した際には、丹下はその後援団体「マイタウンと呼べる東京をつくる会」の会長をつとめている。建築関係者からは、「自身のスタイル・信条であったはずのモダニズムを捨て、かつて出口なしとまで批判したポストモダニズムにすり寄り、大衆に媚を売ってまでコンペに勝ちたかったのか」とか、「すでにある新宿の超高層ビル群に最も高いビルを加えただけであり、目新しいアイデアがない」などの意の厳しい批判を受けた[28][29][30]。
一方、出来レースとの批判が予想されるなかで、重鎮となっても尚、そのような批判をはね除けるに足る圧倒的なパフォーマンスでコンペを勝ち抜く図太さや老獪さ、また成功した過去の自分のスタイルに拘泥しない柔軟さや、記念碑性を含めたデザイン意図の的確さといった点を評価する者もある[31][32]。 建築の専門家ほど酷評する傾向にあるが、一般には受けが良いようであり、完成以来観光名所となって、新宿副都心のランドマークとして認知されている[33][32]。
かつて、ソビエト・パレスとの出会いが、大学受験間際になって志望を建築学科に変えさせたように、丹下に対するル・コルビュジエの強い影響は、卒業設計においても鮮明に出ている。そのことは、後年自らの作品にコルビュジエ由来のデザインを数多く引用していることでも明きらかであるが、そのコルビュジエの計画案のひとつであるソビエト・パレスの圧倒的な影響のもとに、一対のマッス(量塊)と直交する軸線上の先にアイストップ(視線がとまる対象物)を配置するというプランは構想され、大東亜建設記念営造計画から広島平和記念公園、ナイジェリアの新首都新首都アブジャ都心計画に至るまで、たびたび用いられて丹下の十八番となった。
一方で、ランドスケープにおいて対称軸を通すということや、広場にモニュメンタルな象徴性を持たせるということを、ミケランジェロのカンピドリオ広場からの影響と見て取ることも出来る。丹下自身は晩年に至って、古今東西の建築家のなかで誰が一番かと問われると、コルビュジエよりもミケランジェロの方が上だと言い[34]、そのことは出世論文のタイトル「MICHELANGERO頌」(頌とは誉め讃えるの意)においても明確に示されている。丹下はその論文の中でハイデガーのヘルダーリン論を援用し、グロピウス流の四角四面な建築幾何学から離れて、建築が自由な創造行為に昇華される過程で聖性(至高性・精神性)をも獲得し、社会的要請が建築を作るのではなく、建築家が建築行為を通じて世界を再創造していくという論旨を展開し、コペルニクス的転回によって建築と歴史との関係性を逆転させている[35]。
つまり、丹下はコルビュジエの近代建築の語法を用いながら、ミケランジェロの芸術の持つ宗教的な記念碑的超越性を、近代建築においても獲得させることをめざしているのである。そのことが個人生活においては、(ある意味、サグラダ・ファミリアにおけるアントニ・ガウディのような)建築するという行為への献身的な専心となって表れ、建築設計においては都市計画への強い関心となって現れた。かつてミケランジェロがルネサンスにおいて、サンピエトロ大聖堂大改築の主任設計士として中世を超克しようとしたように、あるいはマニエリスムの自由な芸術表現によってルネサンス様式そのものを超克しようとしたように、精神史の上で、コルビュジエがいうところの「建築をめざして」、近代を建築の力によって超克することを、丹下はめざしたのである[36]。
そしてそのことを、目論見の成否は別にして、若き頃傾倒したマルクス主義に対する挫折からの脱却をめざした「大東亜記念営造計画」から、第二次世界大戦での敗戦の挫折においては、焦土からの脱却を「広島ピースセンター」で、同じく名誉的には、三等国から一等国への国際的復帰を「代々木オリンピックプール」で、さらには実質的な面においては、経済大国への脱皮を「大阪万国博覧会」の総合プロデュースによって、また大阪万博以降、力の振るいどころがなくなった日本国内への帰還をめざした「新都庁」に至るまで、生涯一貫して追求し続けていたと総括することが出来る[37]。
建築史家の藤森照信によれば、丹下健三ほど純粋な建築家はなく、建築以外の分野にも、また自身の過去にも興味がなかったという[38]。事実、これだけの巨匠でありながら、生前MoMA(ニューヨーク近代美術館)に請われながらでさえ、過去一度も回顧展の類いが催されることがなかった[39]。なお、丹下自身は、東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)と山梨文化会館を代表作だとしている[40]。
2005年(平成17年)3月22日、心不全のため91歳で死去した際には、自ら設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂(カトリック関口教会)で葬儀が行われた。葬儀では、磯崎新が時折涙で声を詰まらせながら弔辞を読んだ[39]。生前カトリックの受洗に与っており、洗礼名は聖母マリアの夫であり大工でもあったヨセフであったことが、その時人々に知られた[39]。
2006年(平成18年)4月、広島平和記念資料館が、村野藤吾の世界平和記念聖堂(1953年、広島市中区幟町)とともに、第二次世界大戦後の建築としては初めての重要文化財(建造物)指定となっている。
主要作品
建築作品
丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む
1940・50年代
年 | 施設 | 状態 | 備考 |
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1941年 | 岸記念体育会館 | 現存しない | |
1952年 | 広島平和会館原爆記念陳列館 (現・広島平和記念資料館本館〈旧・西館〉) |
国の重要文化財 | |
1953年 | 広島子供の家 (広島市児童図書館〈現・広島市こども図書館〉) |
現存しない | |
愛媛県民館 | 現存しない | ||
丹下健三自邸 | 現存しない | ||
1954年 | 清水市庁舎 | 現存しない | |
津田塾大学図書館 | |||
1955年 | 広島平和会館本館 | 現存しない | 1994年に同様のデザインで建て替えられ、現在は「広島平和記念資料館東館」が建っている |
広島市公会堂 | 現存しない | 広島平和記念公園及び記念館競技設計1等当選案に基づくが、 実施設計は丹下研究室のものではない 1989年に同様のデザインで建て替えられ、現在は「広島国際会議場」が建っている | |
広島平和記念公園 | 国の名勝 | ||
図書印刷原町工場 (現・図書印刷沼津工場) |
|||
1957年 | 旧東京都庁舎 | 現存しない | |
倉吉市庁舎 | |||
駿府会館 / 静岡市体育館 | 現存しない | ||
墨記念館(現・墨会館) | |||
1958年 | 香川県庁舎(現・東館) | ||
今治市役所庁舎・今治市公会堂 | |||
旧草月会館 | 現存しない |
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広島子供の家(1953年)
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愛媛県民館(1953年)
- Tange House.jpg
丹下健三自邸(1953年)
1960年代
年 | 施設 | 状態 | 備考 |
---|---|---|---|
1960年 | 倉敷市市庁舎 (現・倉敷市立美術館) | ||
立教大学図書館 | |||
今治信用金庫本店 (現・愛媛信用金庫今治支店) |
|||
電通大阪支社 | 現存しない | ||
1961年 | コクヨ東京支店 | 現存しない | |
戸塚カントリークラブ・クラブハウス | 現存しない | ||
1962年 | 日南市文化センター | ||
1964年 | 香川県立体育館 | ||
東京カテドラル聖マリア大聖堂 | |||
東京オリンピック国立屋内総合競技場 (代々木体育館) |
|||
1966年 | 戦没学徒記念館 | ||
山梨文化会館(山日YBSグループ14社) | |||
1967年 | 静岡新聞・静岡放送東京支社 | ||
電通旧本社ビル(現・電通テック本社ビル) | |||
ゆかり文化幼稚園 | |||
新北市八里・聖心女子大学 | 大学設置不認可・一部竣工・聖心女子中学に転用 | ||
ニューヨーク・フラッシング・メドウ・スポーツ・パーク | |||
1968年 | 東京聖心インターナショナル・スクール |
- Memorial Hall for Students who Perished in the War2.jpg
戦没学徒記念館(1966年)
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山梨文化会館(1966年)
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静岡新聞・静岡放送東京支社ビル(1967年)
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電通旧本社ビル(1967年)
1970年代
年 | 施設 | 状態 | 備考 |
---|---|---|---|
1970年 | 静岡新聞・静岡放送本社ビル (静岡新聞放送会館) |
||
日本万国博覧会会場基幹施設計画・お祭り広場 | 現存しない | ||
駐日クウェート大使館 | |||
1971年 | アルジェリア・オラン総合大学・病院および寮 | ||
1974年 | ミネアポリス・アート・コンプレックス | ||
在日ブルガリア大使館 | |||
1976年 | 在メキシコ日本大使館 | ||
東京大学理学部5号館(現・東京大学第二本部棟) | |||
1977年 | 在日トルコ大使館 | ||
草月会館 | |||
1978年 | ハナエ・モリビル | 現存しない | |
1979年 | 東京大学本部棟 | ||
クウェート国際空港 |
- Shizuoka Shimbun-SBS Building.jpg
静岡新聞放送会館(1970年)
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駐日クウェート大使館(1970年)
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草月会館(1977年)
- Tatsuoka Gate & Administration Bureau Bldg of Tokyo University 2009.jpg
東京大学本部棟(1979年)
1980年代
年 | 施設 | 状態 | 備考 |
---|---|---|---|
1981年 | ダマスカス国民宮殿(現・シリア大統領官邸) | ||
1982年 | サウジアラビア王国国家宮殿・同国王宮殿 | ||
キングファイサル財団本部 | |||
赤坂プリンスホテル新館 | 現存しない | ||
1983年 | 兵庫県立歴史博物館 | ||
1985年 | 愛媛県県民文化会館 | ||
在サウジアラビア日本国大使館 | |||
広島厚生年金会館(現・広島市文化交流会館) | |||
1986年 | シンガポール・OUBセンタービル | ||
シンガポール・南洋理工大学 | |||
桐蔭学園幼稚園・小学校・中学校 | |||
1989年 | シンガポール・インドア・スタジアム | ||
大津プリンスホテル | |||
広島国際会議場 | |||
横浜美術館 | |||
アップリカ本社ビル |
- Grand Prince Hotel Akasaka.jpg
グランドプリンスホテル赤坂・新館(1982年)
- Hyogo Prefectural Museum of History01s3872.jpg
兵庫県立歴史博物館(1983年)
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OUBセンター(1986年)
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桐蔭学園幼稚園・小学校・中学校(1986年)
- Yokohama Museum of Art 2009.jpg
横浜美術館(1989年)
1990年代
年 | 施設 | 状態 | 備考 |
---|---|---|---|
1990年 | アメリカ医師会本部ビル | ||
君津市民文化ホール | |||
1991年 | 新東京都庁舎 | ||
1992年 | グラン・テクラン(パリ・イタリア広場) | ||
国際連合大学 | |||
兵庫県立人と自然の博物館 | |||
1993年 | 幕張プリンスホテル (現・APAホテル&リゾート東京ベイ幕張) |
||
1994年 | 新宿パークタワー | ||
広島平和記念資料館東館 | |||
1995年 | 日光東照宮客殿・新社務所 | ||
シンガポール・UOBプラザ | |||
1996年 | FCGビル(フジテレビ本社ビル) | ||
山口県立萩美術館・浦上記念館 | |||
1998年 | WHO神戸センター | ||
BMWイタリア本社ビル | |||
ニース国立東洋美術館 |
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東京都庁第二本庁舎(1990年)
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パリ13区イタリア広場 グラン・テクラン(1992年)
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国際連合大学(1992年)
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新宿パークタワー(1994年)
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UOBプラザ(1995年)
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WHO神戸センター(1998年)
2000年代
年 | 施設 | 状態 | 備考 |
---|---|---|---|
2000年 | 新香川県庁舎 | ||
ベアズパウ・ジャパン・カントリークラブクラブハウス | |||
東京ドームホテル | |||
2002年 | 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 | ||
2003年 | サルヴァトーレ・フェラガモ・フラッグシップショップ | ||
南アルプス芦安山岳館 | |||
ルクセンブルク大使館 | |||
2004年 | スナム・オフィスタワー・プロジェクト | ||
2005年 | 上海銀行本社ビル | ||
統一台北本社ビル | |||
東京プリンスホテルパークタワー (現・ザ・プリンス・パークタワー東京) |
|||
癌研究会有明病院 | |||
新光人壽信義サービスアパートメント | |||
上海宏國ヘッドクォーターズ・ビル | |||
2006年 | 御茶ノ水NKビル | ||
キャセイ複合施設再開発プロジェクト | |||
2007年 | リニア・コンドミニアム | ||
2008年 | ロメオ・ホテル |
計画のみ
年 | 計画名称 |
---|---|
1942年 | 大東亜建設記念営造計画 |
1943年 | 在盤谷日本文化会館計画 |
1948年 | 広島平和記念カトリック聖堂計画 |
1952年 | 外務省庁舎計画 |
1958年 | トロント市庁舎計画 |
1960年 | 世界保健機構本部計画 |
1977年 | カタール宮殿 |
都市計画・都市構想
丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む
- 1946年 戦災復興都市計画(群馬県前橋市、伊勢崎市)
- 1946年 広島市復興都市計画(1946年~1947年)
- 1947年 福島地区都市計画
- 1947年 立川基地跡地文化都市計画
- 1950年 北海道稚内市の都市計画 (北海道大学太田實研究室と)
- 1959年 マサチューセッツ 25,000人のためのコミュニティ計画 実現せず
- 1959年 東京計画1960(1959年~1961年)実現せず
- 1960年 築地再開発計画 実現せず
- 1963年 磐梯猪苗代観光開発計画 (東京大学高山研究室、日本大学小島研究室と)
- 1964年 上武広域都市開発基本計画
- 1964年 京都都市軸計画
- 1965年 静岡清水地域都市基本計画
- 1965年 盛岡都市基本計画
- 1966年 ユーゴスラビア(現・マケドニア共和国)・スコピエの震災復興都市計画(1966年~進行中)
- 1967年 サンフランシスコ・イエルバ・ブエナ・センター再開発計画 実現せず
- 1969年 ネパール・ルンビニ釈尊生誕地聖域計画(1969年~進行中)
- 1971年 イタリア・ボローニャ・フィエラ地区センター計画(1971年~進行中)
- 1971年 イタリア・リブリーノ新住宅地区都市計画(1971年~進行中)
- 1971年 アルジェリアセンタ-・オラン(1971年~進行中 都市環境研究所と)
- 1972年 北摂ニュータウン南地区第五住区計画(1972年~1975年)
- 1973年 サウジアラビア・メッカ巡礼者のための聖地ムナ計画 実現せず
- 1973年 アメリカ・バルティモア都市再開発
- 1974年 イラン・テヘラン・アバサバット新都市開発基本計画 実現せず
- 1974年 アルジェリア・アンダルース湾リゾート総合計画
- 1974年 イタリア・フィエラ地区センター基本計画
- 1974年 アルジェリア・マドラクリゾートコンプレックス
- 1974年 アメリカ・ミネアポリスアートコンプレックス
- 1975年 シリア・ダマスカスパブリックガーデン
- 1976年 ヨルダン・ヤルムーク大学総合計画(1976年〜1982年)
- 1980年 イタリア・フィエラ地区センター建築計画
- 1980年 イタリア・リブリーノ新住宅地区都市計画
- 1980年 ナポリ市新都心計画(1980年~進行中)
- 1981年 ナイジェリア・新首都アブジャの都市計画(1981年~進行中)
- 1984年 イタリア・ボローニァ北部開発計画
- 1984年 シンガポール・マリーナサウス都市設計
- 1985年 マレーシア・トランクアブドララーマン通り都市再開発計画
- 1985年 ネパール・ルンビニ生誕地聖域計画
- 1986年 東京計画1986 実現せず
- 1987年 ブルネイ・パンダラセリベカワン市マスタープラン
- 1987年 東京・川の手新都心構想
- 1989年 イタリア・ミラノフィオーリマスタープラン
- 1993年 フランス・セーヌ左岸都市計画
- 1993年 シンガポール・ユナイテッドオーバーシープラザⅠ・Ⅱ(1993年〜1995年)
- 1994年 台湾・台中市干城商業地区マスタープラン
- 1996年 ベトナム・ホーチミン市新都心計画
- 1997年 フィリピン・スービックベイ中心地区都市計画
参考文献
- テンプレート:Cite book
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- テンプレート:Cite journal
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丹下事務所・丹下研究室出身の建築家
- 大谷幸夫
- 浅田孝
- 光吉健次
- 沖種郎
- 神谷宏治
- 槇文彦
- 磯崎新
- 黒川紀章
- 月尾嘉男
- 曽根幸一
- 富田玲子
- 山岡義典 - 都市計画家
- 谷口吉生
- 高宮眞介
- 梅沢良三 - 構造家
- 木島安史
- アーキテクトファイブ・古市徹雄/城戸崎博孝/松岡拓公雄/堀越英嗣/川村純一
- 鈴木エドワード
- 押田健雄
- 梅沢忠雄 - 都市計画家
- 加藤源 - 都市計画家
- 丹下憲孝
- 寒竹伸一
- 今井秀明
- 渡辺純
- 渡辺浩一郎
- 小林正美
- 鵜飼哲矢
- 松井龍哉 - ロボットデザイナー
脚注
注釈
出典
関連項目
- 建築 - 建築学
- 都市計画- 都市計画家
- 日本近代建築史
- 1960年代の建築 - 1970年代の建築 - 1980年代の建築 - 1990年代の建築 - 2000年代の建築
- モダニズム建築
- 新都庁舎コンペ
- フライ・オットー
- 丹下憲孝 - 丹下健三の息子で同じく建築家 丹下都市建築設計代表
外部リンク
テンプレート:- テンプレート:プリツカー賞受賞者 テンプレート:世界文化賞建築部門 テンプレート:RIBAゴールドメダル テンプレート:AIAゴールドメダル テンプレート:日本建築学会賞大賞 テンプレート:日本建築学会賞作品賞 テンプレート:広島平和記念公園 テンプレート:Normdatenテンプレート:Link GA
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タグがありません- ↑ 草柳大蔵『新・実力者の条件』p.271(文藝春秋社、1972年)
- ↑ 井上章一2006、289-292頁。
- ↑ 丹下健三・藤森照信2002、118-127頁。
- ↑ 丹下健三1997、62頁。
- ↑ 丹下健三2011、248-249頁。
- ↑ 丹下健三・藤森照信2002、139-143頁。
- ↑ 丹下健三・藤森照信2002、142-143頁。
- ↑ 井上章一2006、297-298頁。
- ↑ ヒロシマ・ナガサキ、86頁。
- ↑ 丹下健三2011、251頁。
- ↑ 東琢磨2007、33-36頁。
- ↑ 濵井信三2006、57-64頁。
- ↑ 丹下健三2011、247頁。
- ↑ ヒロシマの記録、137頁。
- ↑ 丹下健三1997、64-65頁。
- ↑ 丹下健三2011、259頁。
- ↑ 丹下健三2011、258-260頁。
- ↑ 丹下健三・藤森照信 2002、184頁。
- ↑ Casa BRUTUS 2009、84頁。
- ↑ Casa BRUTUS 2009、146頁。
- ↑ 21.0 21.1 丹下健三・藤森照信 2002、326頁。
- ↑ 日経BP 2005、118頁。
- ↑ 例えば、Casa BRUTUS 2009、146、149頁。詳細はノートページの当該箇所で。
- ↑ 平松剛2008、170-172頁。
- ↑ 平松剛2008、283-284頁。
- ↑ 平松剛2008、351-359頁。
- ↑ 五十嵐太郎2006、222頁。
- ↑ 平松剛2008、25-29、452頁。
- ↑ 建築三粋人1997、75頁。
- ↑ 宮内嘉久2005、171-172頁。
- ↑ 平松剛2008、338-345、351-359頁。
- ↑ 32.0 32.1 五十嵐太郎2006、221-224頁。
- ↑ 平松剛2008、457頁。
- ↑ 丹下健三・藤森照信 2002、448頁。
- ↑ 丹下健三・藤森照信 2002、57、62-65頁。
- ↑ ル・コルビュジエと日本、200-203頁。
- ↑ 論拠を丹下健三・藤森照信2002の詳解な立論に負う。とくにその「第2章 学生時代」「第3章 修業時代-前川事務所にて-」を参照。
- ↑ Casa BRUTUS2005-6、45頁。
- ↑ 39.0 39.1 39.2 新建築2005-5、20頁。
- ↑ 越後島研一2003、88頁。