フョードル・ドストエフスキー
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(テンプレート:Lang-ru,1821年11月11日〔ユリウス暦10月30日〕 - 1881年2月9日〔ユリウス暦1月28日〕)は、ロシアの小説家・思想家である。代表作は『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』など。レフ・トルストイ、イワン・ツルゲーネフと並び、19世紀後半のロシア小説を代表する文豪である。
その著作は、当時広まっていた理性万能主義(社会主義)思想に影響を受けた知識階級(インテリ)の暴力的な革命を否定し、キリスト教、ことに正教に基づく魂の救済を訴えているとされる。実存主義の先駆者と評されることもある。なお、姓は訳者によって「ドストエフスキイ」「ドストエーフスキイ」「ドストイェーフスキイ」などと表記されることもある。
生涯
モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれる。15歳までモスクワの生家で暮らす。工兵学校生・作家時代を送ったサンクトペテルブルクは、物語の舞台として数々の作品に登場する。
1846年、処女作『貧しき人々』を批評家のヴィッサリオン・ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞され、華々しく作家デビューを果たす。デビュー前のドストエフスキーから直接作品を渡されて読んだ詩人ニコライ・ネクラーソフが、感動のあまり夜中にドストエフスキー宅を訪れたという逸話は有名である。
デビューこそ華々しかったが、続けて発表した『白夜』、『二重人格』は酷評をもって迎えられる。その後、ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライ1世からの特赦が与えられて(この一連の特赦はすべて仕組まれたものであった)、シベリアに流刑へ減刑となり、オムスクで1854年まで服役する。この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。他にも『白痴』などで、死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に多大な影響を与えた。刑期終了後、兵士として軍隊で勤務した後、1858年にペテルブルクに帰還する。この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化があった。その後『罪と罰』を発表し、評価が高まる。
自身の賭博にのめりこむ性質、シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん(側頭葉てんかんの一種と思われる。恍惚感をともなう珍しいタイプのてんかん)などが創作に強い影響を与えており、これらは重要な要素としてしばしば作品中に登場する。賭博好きな性質は、必然としてその生涯を貧乏生活にした。借金返済のため、出版社との無理な契約をして、締め切りに追われる日々を送っていた。あまりのスケジュール過密さのため、『罪と罰』、『賭博者』などは口述筆記という形をとった。速記係のアンナ・スニートキナは後にドストエフスキーの2番目の妻となる。
また、小説以外の著名作に『作家の日記』がある。これは本来の日記ではなく、雑誌『市民』でドストエフスキーが担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり、文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、政治・社会評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)を含み、後年ドストエフスキー研究の根本文献となった。
晩年に、自身の集大成的作品『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。その数ヵ月後の1881年1月28日、家族に看取られながら亡くなった。
次女リュボーフィ・ドストエフスカヤは作家。曾孫ドミトリー・ドストエフスキーはサンクトペテルブルクのドストエフスキー博物館に勤務。関東(早稲田大学、東京芸術劇場)、関西(天理大学)で2004年に来日記念講演を行った。
ドストエフスキーをめぐる女性たち
ドストエフスキーは多くの女性たちと複雑な恋愛関係を持ったが、それは直接的にも間接的にも作家活動に影響を及ぼした。最初の妻マリアは既婚であり、後の恋人ポリーナ・スースロワとの交際も屈折したものだった。2番目の妻であるテンプレート:仮リンクは家政をみるだけでなくドストエフスキーの速記役でもあるが、彼女たちはただ伝記のなかに現れるばかりでなく、小説中の登場人物のモデルとも考えられている[1]。
ドストエフスキーと日本
ドストエフスキーは、日本に正教を伝え、日本ハリストス正教会の原型を築いたロシア人大主教ニコライ・カサートキンに会ったことがある[2]。ドストエフスキーは日本に正教会を伝道する大主教ニコライと会うことを楽しみにしていたという。当時の二人の会話にある彼の台詞は、ドストエフスキーの日本に対する見方と、正教伝道に対する姿勢が垣間見える貴重な判断材料である。
ドストエフスキー研究の専門家の中からニコライ大主教の膨大な量の日記を全て日本語訳するプロジェクトを監修するに至る研究者(中村健之介)が出てきていることからも分かるように、ドストエフスキーと日本との数少ない接点がここに見出される。
ドストエフスキーが日本文学に与えた影響は計り知れない。ドストエフスキー熱は現在でも冷めることなく、「ドストエーフスキイの会」(木下豊房代表)、「ドストエーフスキイ全作品を読む会」がある。
全集刊行は、大正期に新潮社(未完)ほか3社で、戦前は三笠書房で、戦後は米川正夫訳が河出書房より2度、小沼文彦訳が筑摩書房で、江川卓、原卓也、川端香男里、小笠原豊樹、工藤精一郎、木村浩等の訳が新潮社で出されている。
作品中での日本に関する言及としては、『白痴』第一編の終わりの箇所で、ヒロインのナスターシャの自棄的な振る舞いを説明する比較的重要な場面において、比喩として近代以前の日本の士族階級の切腹の風習が持ち出される。
著作
死去するまでに残した著作は全部で35篇で、短編も多く出している。
- 1841年『マリヤ・ステュアルト』(Мария Стюарт)
- 『ボリス・ゴドゥノフ』(Борис Годунов)
- 『ユダヤ人ヤンケリ』(Жид Янкель)(いずれも現存せず)
- 1846年『貧しき人びと』(Бедные люди)
- 『分身』(Двойник)
- 『プロハルチン氏』(Господин Прохарчин)
- (以下の二作品は現存せず)『剃り落とされた頬髯』、『廃止された役所の話』
- 1847年『九通の手紙にもられた小説』(Роман в девяти письмах)
- 『ペテルブルグ年代記』(Петербургская летопись)
- 『家主の妻』(Хозяйка)
- 1848年『他人の妻』
- 『弱い心』(Слабое сердце)
- 『ポルズンコフ』(Ползунков)
- 『世なれた男の話』(のちに改稿の上『正直な泥棒』(Честный вор)と改題)
- 『クリスマス・ツリーと結婚式』(Елка и свадьба)
- 『白夜』(Белые ночи)
- 『嫉妬ぶかい夫』(のちに『他人の妻』と合わせて『他人の妻とベッドの下の夫』(Чужая жена и муж под кроватью)と改題)
- 1849年『ネートチカ・ネズワーノワ』(Неточка Незванова)
- 1857年『小英雄』(Маленький герой)
- 1859年『伯父様の夢』(Дядюшкин сон)
- 『ステパンチコヴォ村とその住人』(Село Степанчиково и его обитатели)
- 『ペテルブルグの夢―詩と散文』(Петербургские сновидения в стихах и в прозе)
- 1862年『いまわしい話』(Скверный анекдот)
- 1863年『冬に記す夏の印象』(Зимние заметки о летних впечатлениях) ヨーロッパ滞在経験が主となっている。
- 1864年『地下室の手記』(Записки из подполья)
- 1865年『鰐』(Крокодил)(未完)
- 1866年『罪と罰』(Преступление и наказание)
- 『賭博者』(Игрок)
- 1868年『白痴』(Идиот)
- 1869年『大いなる罪人の生涯』(創作ノート)
- 1870年『永遠の夫』(Вечный муж)
- 1871年『悪霊』(Бесы)
- 1873年『ボボーク』(Бобок)※
- 1875年『未成年』(Подросток)
- 1876年『キリストのもみの木祭りに行った男の子』(Мальчик у Христа на ёлке)※
- 『百姓マレイ』(Мужик Марей)※
- 『百歳の老婆』(Столетняя)※
- 『やさしい女』(Кроткая)※
- 1877年『おかしな人間の夢』(Сон смешного человека)※
- 1880年『カラマーゾフの兄弟』(Братья Карамазовы)
注:題名に「※」をつけてある作品は、『作家の日記』(Дневник писателя)に収録された短編。
一般に『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』が、ドストエフスキーの5大作品と呼ばれる。
ドストエフスキー作品の多くは、革命的思想を宿したものが多かったため、1924年から1953年までのスターリン体制下では「貧しき人々」以外の殆どの著作は発禁処分を受けていた。1956年のスターリン批判後に解禁再刊された。
研究
ドストエフスキー研究史の中で、特に重要な研究者としては以下のような人々が挙げられる。
- ミハイル・バフチン - バフチンは、ポリフォニー論やカーニバル論により、ドストエフスキー研究に新たな境地を拓いた。バフチンの論は半ば一般論として普遍化している。
- アンドレ・ジイド - ジイドは、『地下室の手記』がドストエフスキー文学を解く鍵であるとした。ジイドの論文「ドストエフスキー」は、数ある評論の中でも特に有名。新潮社版「全集」に寺田透訳がある。
- レオニード・グロスマン(1888年 - 1965年) - ドストエフスキー作品が、冒険小説的構成をとっていることなどを指摘した。
- トマーシュ・マサリク - チェコ・スロヴァキア共和国の初代大統領で、プラハ大学で哲学講座を持っていた。「ロシア精神史研究」の古典で代表作。邦訳は、下記前編がドストエフスキー論。なお英語読みでは、トマス・マサリックである。
- 『ロシアとヨーロッパ〈3〉 ロシアにおける精神潮流の研究』(石川達夫・長与進訳、成文社、2005年)
- ヴィクトル・シクロフスキー
- 『ドストエフスキー論 肯定と否定』(水野忠夫訳、勁草書房)
- ニコライ・ベルジャーエフ
- パーヴェル・エフドキーモフ
- 『ドストエフスキーと悪の問題』(1942年、邦訳未刊)
- 江川卓 - 江川は、ドストエフスキー文学の言語のダブルミーニングなどについて、研究を行った。
- 『謎解き 罪と罰』、『謎解き 白痴』、『謎解き カラマーゾフの兄弟』 各新潮選書
主な伝記・回想
- コンスタンチン・モチューリスキー 『評伝ドストエフスキー』
- 松下裕・松下恭子訳、筑摩書房、2000年、大著
- アンリ・トロワイヤ 『ドストエフスキー伝』
- アンナ・ドストエーフスカヤ 『回想のドストエフスキー』、全2巻
- 松下裕訳、みすず書房〈みすずライブラリー〉、1999年-旧訳:筑摩叢書上下、1973~74年
- 『ドストエフスキー 同時代人の回想』
- ドリーニン編、水野忠夫訳、河出書房新社、1966年
著名人への影響等
ドストエフスキーは文学者以外の著名人からも、高く評価されている作家である。
- アルベルト・アインシュタイン「ドストエフスキーは、どんな思想家が与えてくれるものよりも多くのものを私に与えてくれる。ガウスよりも多くのものを与えてくれる」
- ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、『カラマーゾフの兄弟』を50回以上も熟読したとされている(第一次世界大戦従軍時の数少ない私物の一つが『カラマーゾフの兄弟』だった)。
- ジークムント・フロイトは、論文「ドストエフスキーと父親殺し」において、ドストエフスキーの小説や登場人物について研究している(フロイトが論文の表題に作家の名前を冠したことは、極めて異例なことだった)。
- グスタフ・マーラーは、妻アルマによれば、ドストエフスキーの信奉者であり、つねづね「この地上に誰か一人でも苦しんでいる者がある限り、どうしてわれわれは幸せになれようか」と言っていた。
- 江戸川乱歩は、ドストエフスキーの作品を繰り返し読み、「スリルの事」というドストエフスキーの作品に関するエッセイも書いている。また、乱歩の『心理試験』の設定は『罪と罰』から借りたものである。
- 黒澤明「ドストエフスキーは若い頃から熱心に読んでいて、どうしても一度は映画化をやりたかった。もちろん僕などドストエフスキーとはケタが違うけど、作家として一番好きなのはドストエフスキーですね」(黒澤監督は『白痴』を、日本を舞台にした上で映画化している。また『赤ひげ』の「おとよ」は山本周五郎の原作からは離れて、「虐げられた人びと」のネリーをモデルにしている。)
- 手塚治虫は、ドストエフスキーの影響を非常に受けた漫画家である。「ボクの長編の基本は『罪と罰』なんです」と公言していた。手塚治虫は『罪と罰』を初期に漫画化している[3]。
- 村上春樹は、スコット・フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』とともに、最も好きな作品のひとつとして、『カラマーゾフの兄弟』を挙げている。エッセイ『村上朝日堂の逆襲』では、「ドストエフスキーは、この世に様々な”地獄”が存在することを示した」と書いている。
- 三島由紀夫は初期作品『仮面の告白』の冒頭で、『カラマーゾフの兄弟』を引用している。
- エリック・ホッファーは、『白痴』を愛読書としていた。
脚注
関連項目
- ウラジーミルの生神女大聖堂 (サンクトペテルブルク) - ドストエフスキーが所属していた正教の教会。
外部リンク
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- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』岩波書店〈岩波新書〉。
- ↑ 『一億人の手塚治虫』JICC出版局。