アラブ首長国連邦
- アラブ首長国連邦
- الإمارات العربية المتحدة
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アラブ首長国連邦の国旗 100px (国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:アラブ首長国連邦国歌
- アラブ首長国連邦の位置
公用語 アラビア語 首都 アブダビ 最大の都市 ドバイ 通貨 UAEディルハム(AED) 時間帯 UTC +4(DST:不明) ISO 3166-1 AE / ARE ccTLD .ae 国際電話番号 971 </dd> </dl> アラブ首長国連邦(アラブしゅちょうこくれんぽう)、通称UAE(英:United Arab Emirates)は、西アジア・中東の国。アラビア半島のペルシア湾(アラビア語圏ではアラビア湾と呼ぶ)に面した地域に位置する7つの首長国からなる連邦国家である。首都はアブダビ。東部ではオマーンと、南部および西部ではサウジアラビアと隣接する。カタールとは国境を接していないものの、論争がある。
目次
国名
正式名称はアラビア語で、الإمارات العربية المتحدة (ラテン文字転写 : al-Imārāt al-‘Arabīyah al-Muttaḥidah; アル=イマーラート・アル=アラビーヤ・アル=ムッタヒダ)。略称は إمارات (イマーラート)で、これはアラビア語で「首長国」を意味する、「إمارة(イマーラ)」という単語の複数形である。
公式の英語表記は、United Arab Emirates。略称は、UAE。
日本語の表記は、アラブ首長国連邦。日本語名称をアラブ首長国連合としている場合が見受けられるが、外務省ではアラブ首長国連邦としている。行政機関では略称としてア首連を使用することが多いが、近年では英字略であるUAEの使用も見られる。また、サッカーなどスポーツ競技内ではUAEを使用することが多い。
歴史
マガン
現在のアラブ首長国連邦の領域で最古の人類居住遺跡は紀元前5500年ごろのものである。やがて紀元前2500年ごろにはアブダビ周辺に国家が成立した。メソポタミアの資料でマガンと呼ばれるこの国は、メソポタミア文明とインダス文明との海上交易の中継地点として栄えたが、紀元前2100年ごろに衰退した。
アケメネス朝ペルシア
紀元前6世紀ごろには対岸にある現在のイランに興ったアケメネス朝ペルシアの支配を受け、その後もペルシア文明の影響を受けていた。
イスラム帝国
7世紀にイスラム帝国の支配を受けイスラム教が広がる。その後オスマン帝国の支配を受ける。
ポルトガル
16世紀、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見し、ポルトガルが来航、オスマン帝国との戦いに勝利し、その後150年間、ペルシア湾沿いの海岸地区を支配する。
オスマン帝国
その他の地域はオスマン帝国の直接統治を経験する。現在のアラブ首長国連邦の基礎となる首長国は17世紀から18世紀頃にアラビア半島南部から移住してきたアラブの部族によってそれぞれ形成され、北部のラスアルハイマやシャルジャを支配するカワーシム家と、アブダビやドバイを支配するバニヤース族とに2分された。
トルーシャル首長国
18世紀から19世紀にかけてはペルシア湾を航行するヨーロッパ勢力の人々に対立する海上勢力『アラブ海賊』と呼ばれるようになり、その本拠地『テンプレート:仮リンク』(テンプレート:Lang-en、現ラアス・アル=ハイマ)として恐れられた。彼らは同じく海上勢力として競合関係にあったオマーン王国ならびにその同盟者であるイギリス東インド会社と激しく対立し、1809年にはイギリス艦船テンプレート:仮リンクを拿捕して(Persian Gulf campaign)、海賊団の旗艦とするに至る。イギリスはインドへの航路を守るために1819年に海賊退治に乗り出し、ボンベイ艦隊により海賊艦隊を破り、拿捕されていたミネルヴァを奪回の上に焼却。
1820年、イギリスは、ペルシア湾に面するこの地域の海上勢力(この時以来テンプレート:仮リンクとなった)と休戦協定を結び、トルーシャル・オマーン (Trucial Oman:休戦オマーン) と呼ばれるようになる (トルーシャル・コースト (Trucial Coast:休戦海岸とも) 。
1835年までイギリスは航海防衛を続け、1835年、イギリスと首長国は「永続的な航海上の休戦」に関する条約を結んだ。その結果、イギリスによる支配権がこの地域に確立されることとなった。この休戦条約によりトルーシャル・コースト諸国とテンプレート:仮リンク(テンプレート:Lang-ar)との休戦も成立し、陸上の領土拡張の道を断たれたオマーン帝国は東アフリカへの勢力拡大を行い、ザンジバルを中心に一大海上帝国を築くこととなる。一方トルーシャル・コースト諸国においては、沿岸の中継交易と真珠採集を中心とした細々とした経済が維持されていくこととなった。その後、1892年までに全ての首長国がイギリスの保護下に置かれた。
1950年代中盤になると、この地域でも石油探査が始まり、ドバイとアブダビにて石油が発見された。ドバイはすぐさまその資金をもとにクリークの浚渫を行い、交易国家としての基盤固めを開始した。一方アブダビにおいては、当時のシャフブート・ビン・スルターン・アール・ナヒヤーン首長が経済開発に消極的だったため、資金が死蔵されていたが、この状況に不満を持った弟のザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーンが宮廷クーデターを起こし政権を握ると、一気に急速な開発路線をとるようになり、湾岸諸国中の有力国家へと成長した。
1968年にイギリスがスエズ以東撤退宣言を行うと、独立しての存続が困難な小規模の首長国を中心に、連邦国家結成の機運が高まった。連邦結成の中心人物はアブダビのザーイドであり、当初は北のカタールやバーレーンを合わせた9首長国からなるアラブ首長国連邦 (Federation of Arab Emirates:FAE) の結成を目指していたが、カタールやバーレーンは単独独立を選び、一方アブダビとドバイは合意の締結に成功した。
アラブ首長国連邦
アブダビとドバイの合意により、残る首長国も連邦結成へと動いた。 1971年にアブダビ(アラビア語ではアブザビの方が発音に近い)、ドバイ、シャールジャ、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラの各首長国が集合して、連邦を建国。 翌1972年、イランとの領土問題で他首長国と関係がこじれていたラアス・アル=ハイマが加入して、現在の7首長国による連邦の体制を確立した。
政治
内政
アラブ首長国連邦は、7つの首長国により構成される連邦国家である。各首長国は世襲の首長による絶対君主制に基づき統治されている。現行の連邦憲法は1971年発布の期限付き暫定憲法が、1996年に恒久化されたものである。
連邦の最高意思決定機関は連邦最高評議会(FSC、Federal Supreme Council)で、連邦を構成する7首長国の首長で構成される。議決にはアブダビ(首都アブダビ市がある)、ドバイ(最大の都市ドバイ市がある)を含む5首長国の賛成が必要になる。憲法規定によると、国家元首である大統領、および首相を兼任する副大統領はFSCにより選出されることとなっているが、実際には大統領はアブダビ首長のナヒヤーン家、副大統領はドバイ首長のマクトゥーム家が世襲により継ぐのが慣例化している。閣僚評議会(内閣相当)評議員は、大統領が任命する。
議会は一院制の連邦国民評議会で、定数は40。議員は連邦を構成する各首長国首長が任命する。議席数はアブダビとドバイが8議席、シャールジャとラアス・アル=ハイマが6議席、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラが4議席を持つ。連邦の最高司法機関は連邦最高裁判所である。
連邦予算は8割がアブダビ、1割がドバイ、残りの1割は連邦政府の税収によってまかなわれており、残りの5首長国の負担額はゼロである。事実上、アブダビが北部5首長国を支援する形になっていると言える。後述のように石油収入は油田を持つ首長国の国庫に入るため、連邦に直接石油収入が入るわけではない。
国名のとおり、7つの独立した首長国が連邦を組んでいる体制であるため、各首長国の権限が大きく、連邦政府の権限は比較的小さい。外交、軍事、通貨などについては連邦政府の権限であり、また連邦全体の大まかな制度は統一されているが、資源開発、教育、経済政策、治安維持(警察)、社会福祉、インフラ整備などは各首長国の権限である。そのため、アブダビでは石油資源開発系の省庁が大きく、ドバイでは自由貿易系の省庁が力を持っている。世界有数のソブリン・ウエルス・ファンドであるアブダビ投資庁(ADIA)も、連邦ではなくアブダビ首長国に属する。
一般国民には国政に関する選挙権が無いのが特徴だったが、2005年12月1日、連邦国民評議会の定数の半数に対する国民の参政権が認められた。しかし、その参政権の幅は極めて限定的なもので、有権者は各首長が選出した計2000人程度に留まる見通しである。政党は禁止されている。
とはいえ、アラブ首長国連邦は石油の富によって成り立つ、つまり国民の労働とその結果である税金に拠らずして国家財政を成立させうる典型的なレンティア国家であるため、国民の政治への発言力も発言意欲も非常に小さい。また、連邦成立以降の急速な経済発展と生活の向上は首長家をはじめとする指導層の運営よろしきを得たものと国民の大多数は考えており、実際にUAE国籍を持つ国民はゆりかごから墓場までの手厚い政府の保護を受けている。また首長が国民の声を直接聞く伝統的なマジュリスなどの制度も残っているため、民主化を求める動きは大きくない。UAE全住民に対する国民の割合が20%に過ぎないことも、民主化に消極的な原因の一つとなっている。2011年にアラブ世界全域に広がった民主化運動(アラブの春)においても、アラブ首長国連邦国内においては民主化要求デモなどの動きはまったく起きなかった[2]。
外交
外交は湾岸協力会議諸国などの近隣諸国との関係を重視する保守穏健路線で、特に隣接するサウジアラビアとの関係を重視している。ラス・アル・ハイマ領に属するアラビア湾のアブームーサー島・大トンブ島・小トンブ島にはイラン軍が駐留している。また、サウジアラビアとの国境問題は1974年に条約を締結し一時解決したかに思われたが、2006年に再燃した。
湾岸諸国の中では比較的欧米に寛容で、湾岸戦争時は米軍に基地使用を認め、イラク戦争でもその駐留を許可した。イギリスは旧宗主国であり、現在も関係が深いが、アメリカはじめそのほかの欧米諸国とも関係が深まってきている。
アラブ首長国連邦とインドとは季節風に乗れば非常に近いため帆船時代より関係が深く、現在でもアラブ首長国連邦にやってくる労働者のかなりの部分を南アジア出身者が占める。
軍事
テンプレート:Main アラブ首長国連邦軍は陸軍、海軍、空軍の三軍を有する。このほかに沿岸警備隊がある。湾岸戦争の際はクウェート奪還に戦力を提供した。
地方行政区分
テンプレート:Main アラブ首長国連邦は以下の7首長国から構成されている。各首長国の国名はそれぞれの首都となる都市の名前に由来しており、最大の国であるアブダビ首長国の首都のアブダビが、連邦全体の首都として機能している。ただ近年は、外国資本の流入によるドバイの急激な発展によって、政治のアブダビ、経済のドバイと言われるようになってきている。アブダビとドバイ以外は国際社会ではあまり著名でない。
連邦を構成する7首長国
地理
アラビア半島の南東部にあり、アラビア湾とオマーン湾に面している。国土の大部分は、平坦な砂漠地帯であり、南部には砂丘も見られる。東部はオマーンと接する山岳地帯であり、オアシスがある。南部はサウジアラビア領に広がるルブアルハリ砂漠の一部であり、リワなどのオアシスがある。ホルムズ海峡(海峡に臨むムサンダム半島はオマーン領)に近いということで、地政学上、原油輸送の戦略的立地にある。国民のほとんどは沿海地方に住む。また7首長国のうち、フジャイラを除く6国は西海岸(アラビア湾)に、フジャイラは東海岸(オマーン湾)に位置する。砂漠気候(BW)のため、年間通じて雨はほとんど降らないが、冬季に時折雷を伴って激しく降る事がある。アラビア湾に面し海岸線が長いことから気温の日較差は小さい。11~3月は冬季で、平均気温も20度前後と大変過ごしやすく、観光シーズンとなっている。6~9月の夏季には気温が50度近くまで上昇し、雨が降らないにもかかわらず、海岸に近いため湿度が80%前後と非常に高くなる。ドバイの平均気温は23.4℃(1月)、42.3℃(7月)で、年降水量は60mm。
アブダビ首長国に属し、内陸部の同国東部国境にあるアル・アインとオマーン領のブライミは隣接したオアシスであり国境線は複雑に入り組んでいるが、オマーンの入国管理局はブライミよりずっとオマーン寄りに設けられており、両都市間の移動に支障はない。南部の油田地帯を含むサウジアラビアとの国境は1974年の条約によって一時確定し、これによりアラブ首長国連邦はアル・アイン周辺の数ヶ村をサウジアラビアから譲り受ける代わりにカタールとアブダビとの間のアラビア湾に面した地域を割譲して、アラブ首長国連邦とカタールとは国境を接しなくなった。しかし2006年にアラブ首長国連邦政府はふたたび割譲した地域の領有権を主張し、紛争が再燃した。
経済
2010年のGDPは約2396億ドルであり[4]、日本の埼玉県とほぼ同じ経済規模である[5]。
かつては沿岸部の真珠採集と、ドバイやシャールジャなどでおこなわれていたわずかな中継貿易、それに北部諸首長国でおこなわれた切手の発行(土侯国切手と呼ばれ、コレクターの間では忌み嫌われる)がわずかな収入源であった。その真珠採集も1920年代の日本の養殖真珠の成功により衰退し、ますます経済活動が縮小していたが、1960年代後半にアブダビでの石油産出が本格化して以降、経済構造が一変した。
GDPの約40%が石油と天然ガスで占められ、日本がその最大の輸出先である。原油確認埋蔵量は世界5位の約980億バレル。天然ガスの確認埋蔵量は6兆600億m³で、世界の3.5%を占める。一人当たりの国民所得は世界のトップクラスである。原油のほとんどはアブダビ首長国で採掘され、ドバイやシャールジャでの採掘量はわずかである。アブダビは石油の富を蓄積しており、石油を産しない国内の他首長国への支援も積極的におこなっている。
石油が圧倒的に主力であるアブダビ経済に対し、ドバイの経済の主力は貿易と工業、金融である。石油をほとんど産出しないドバイは、ビジネス環境や都市インフラを整備することで経済成長の礎を築いた。1983年にジュベル・アリ港が建設され、1985年にはその地域にジュベル・アリ・フリーゾーンが設立された。ジャベル・アリ・フリーゾーンには、外国企業への優遇制度があり、近年、日本や欧米企業の進出が急増して、物流拠点となっている。オイルショック後オイルマネーによって潤うようになった周辺アラブ諸国であるが、それら諸国には適当な投資先がなく、自国に距離的にも文化的にも近く積極的な開発のおこなわれているドバイに余剰資金が流入したのが、ドバイの爆発的発展の原動力となった。それ以外にアルミや繊維の輸出も好調である。アルミ工場は石油や電力の優遇措置を受けているためきわめて安価なコストでの生産が可能であり、主力輸出品のひとつとなっている。また、貿易、特にインド・イラク・イランに向けての中継貿易の拠点となっている。
数値的にはアラブ首長国連邦の石油依存度は低いように見えるが、連邦の非鉱業部門の中心であるドバイの商業開発や産業はアブダビや周辺諸国のオイルマネーが流れ込んだ結果であり、アルミ部門のように原料面などでの支援を受けているものも多く、石油無しで現在の状況を維持しきれるとは必ずしもいえない。本質的には未だ石油はこの国の経済の重要な部分を占めている。
なお近年は、ドバイのみならず国内全体において産業の多角化を進め、石油などの天然資源の掘削に対する経済依存度を低め、東南アジアにおける香港やシンガポールのような中東における金融と流通、観光の一大拠点となることを目標にしている。また、特にドバイにおいて近年は観光客を呼び寄せるためのリゾート施設の開発に力を入れており、世界一高いホテルであるブルジュ・アル・アラブの建設、「パーム・アイランド」と呼ばれる人工島群、2010年に完成した世界一高い建造物であるブルジュ・ハリーファなど、近年急速に開発が進んでおり、中東からだけでなく世界中から観光客を引き寄せることに成功している。この成功を見たアブダビやシャルジャなど他首長国も観光に力を入れはじめ、豪華なリゾートホテルや観光施設の建設が相次いでいる。
また、食糧安保のために農業にも多大な投資をおこなっている。デーツなどを栽培する在来のオアシス農業のほかに、海水を淡水化して大規模な灌漑農業をおこなっており、野菜類の自給率は80%に達している[6]。
アラブ首長国連邦の企業
交通
ドバイやアブダビ、シャールジャなどが古くから中東における交通の要衝として発達しており、この3都市は第二次世界大戦後の航空網の発達に併せてその地位を高いものとしている。ドバイ国際空港は中東のハブ空港としての地位にある。また、近代的な高速道路がこれらの都市間を結んでいるほか、海運も盛んに行われている。ドバイでは2009年9月に日本企業による地下鉄であるドバイ・メトロが開通した。
空港
国民
住民は、在来のアラブ人からなるアラブ首長国連邦の国民は全体の19%を占めるに過ぎない。その他は外国籍の住民であり、他のアラブ諸国から来た人々や、イラン人、南アジア系50%(インド人140万人、パキスタン人、バングラデシュ人、スリランカ人)、東南アジア系(フィリピン人)、欧米系、東アジア系の人々などがいる。これらの外国籍の多くは、石油収入によって豊かなアラブ首長国連邦に出稼ぎとしてやってきた人々である。しかし、単身が条件で家族を連れての居住は認められていない。長期在住者でも国籍取得は大変難しく、失業者は強制送還するなど、外国人へは厳格な管理体制がなされている。
外国人への厳しい管理体制と裏腹に、旧来のUAE国民とその子孫(UAEナショナルと呼ばれる)へは、手厚い支援体制がとられている。教育や医療は無料で、所得税もなく、民間に比べて高給である公務員への登用が優先的になされる。このため、UAEナショナルの労働人口のかなりの部分が公務員によって占められている。国民同士が結婚すれば国営の結婚基金から祝い金が交付され、低所得者や寡婦などには住宅や給付金などの保障が手厚くなされる。これは国民への利益分配の面のほかに、全住民の5分の1に過ぎない連邦国民の増加策の面もある。
しかし政府はあくまでも現在のUAE国民とその子孫の増加を望んでいるため、UAE国民以外の国籍取得は大変難しい。一般の長期在住者がUAEの国籍を取得する資格を得るには、30年以上の継続した国内在住を要する。アラブ系国家出身であれば条件は緩和され、7年の継続居住で国籍取得申請ができ、兄弟国とも言えるカタール、バーレーン、オマーン出身者であれば3年の継続居住で国籍取得申請は可能である。また、帰化しても市民権にはいくつかの制約が設けられる。例えば、カタール、バーレーン、オマーン出身者を除く帰化市民には選挙権は与えられない。[7]
また、近年では若年層人口の増加により公務員の仕事をすべての希望する国民に割り振ることができなくなる可能性が指摘されており、政府は外国人によって占められている職場に自国民雇用義務を導入し、労働力の自国民化を目指している。しかし、厳しい競争に晒されてきた外国人に比べて、これまで保護されてきたUAEナショナルは高給だが能力に劣ることが多く、また国民も厳しい仕事を嫌って高福祉を頼り無職のままでいることも多い。
言語はアラビア語が公用語である。ただし、外国人が多いため、英語や南アジア系の言葉なども広く使われている。
人口の推移[8] 1975年 1980年 1985年 1990年 2008年 アブダビ 21万2000 45万4000 67万0000 88万9000 89万6751 ドバイ 18万3000 27万6000 41万9000 55万9000 177万0533 シャールジャ 7万9000 15万9000 26万9000 37万7000 84万5617 ラアス・アル=ハイマ 4万4000 7万5000 11万6000 15万9000 17万1903 アジュマーン 1万7000 3万6000 6万4000 9万2000 37万2923 フジャイラ 1万6000 3万2000 5万4000 7万6000 10万7940 ウンム・アル=カイワイン 7000 1万3000 2万9000 4万6000 6万9936 合計 55万8000 104万5000 162万1000 219万8000 459万9000 文化
アラブ諸国の中では寛容な文化政策を採っており、特にドバイなどでは各所のショッピングモールなどで各国のポップカルチャーや食文化を楽しむことができる。一方で、国民が圧倒的に少数という現状から、政府は伝統的な文化の保存・保護や国民意識の形成に力を入れている。
教育
教育制度は小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年の6・3・3・4制である。識字率は90%(2007年)。義務教育は小学校6年間と中学校3年間のみであるが、ほとんどの生徒は高校へと進学する。近年では大学進学率も上昇を続けている。大学は1977年に国内初の大学としてUAE大学がアル・アインに創立され、以後国立大学数校が設立された。また、私立大学も多く設立され、欧米の大学のUAE校も多数進出してきている。欧米への留学生も多い。連邦政府は教育を最重要項目として重点的に予算を配分しており、連邦予算の25%が教育予算によって占められている。国公立学校においては小中高から大学まで授業料はすべて無料であり設備も充実している。一方、私立学校も多数設立されている。イスラム教国家であるため、小学校から大学にいたるまですべてが男女別学であるが、幼稚園のみは男女共学となっている。
宗教
宗教はイスラム教が国教であるが、外国人を中心にキリスト教やヒンドゥー教なども信仰されている。信教の自由は認められ、イスラム教以外の宗教を信仰することも宗教施設を建設することも可能である。一方、イスラム教の戒律に関しては、もっとも自由で開放的なドバイ首長国から、最も敬虔で厳格なシャールジャ首長国にいたるまで、各首長国によって態度に違いがある。たとえば、ドバイでは女性はアバーヤなどを着ずともよく、肌を露出させた服装を着るのも自由であり、酒類の販売も可能である。一方アブダビはやや保守的であり、シャールジャでは服装にも厳格で、酒類販売は原則的に禁止されている。
スポーツ
アラブ首長国連邦で最も人気のあるスポーツはサッカーであり、国内リーグとして12チームからなるUAEリーグがある。また、サッカーアラブ首長国連邦代表は1990年にFIFAワールドカップへの出場歴があり、現在でもアジア内では強豪として知られる。また、競馬はドバイ首長家であるマクトゥーム家が特に力を入れており、ドバイのメイダン競馬場で3月下旬に開催されるドバイワールドカップは、1着賞金が世界最高金額の競馬競走として知られる。伝統的な競技として、ラクダのレースも人気がある。競技ではないが、鷹狩りも伝統的に人気のあるスポーツである。2005年にはドバイのショッピングモール内に屋内スキー場スキー・ドバイがオープンし、この国でもスキーを楽しむことが可能になった。
メディア
ドバイにはメディアのフリーゾーンである「ドバイ・メディア・シティ」(DMC)が建設されており、衛星テレビ局アル・アラビーヤの本部やBBCやCNNの支局などが開設されて、報道の一中心となっている。また、在来のドバイテレビやアブダビテレビもある。
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:OPEC- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ↑ ただし、必ずしも民主化や人権問題と無縁ではない。テンプレート:Cite news
- ↑ 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2014年4月公表)
- ↑ IMF
- ↑ 内閣府による県民経済計算
- ↑ 「アラブ首長国連邦(UAE)を知るための60章」p263 細井長編著 明石書店 2011年3月18日初版第1刷発行
- ↑ 「湾岸産油国 レンティア国家のゆくえ」p122-124 松尾昌樹 講談社 2010年8月10日第1刷発行
- ↑ 『魅惑のドバイ』 〔ISBN 4-326-93312-7〕 - 田畠富子