オマーン
- オマーン国
- سلطنة عمان
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オマーンの国旗 オマーンの国章 (国旗) 国章 - 国の標語:なし
- 国歌:Ya Rabbana Ehfid Lana Jalalat Al Sultan
- オマーンの位置
公用語 アラビア語 首都 マスカット 最大の都市 マスカット 通貨 オマーン・リヤル (YTL)(OMR) 時間帯 UTC +4(DST:なし) ISO 3166-1 OM / OMN ccTLD .om 国際電話番号 968 </dd> </dl>
オマーン国(オマーンこく)、通称オマーンは、中東および西アジアの絶対君主制国家。首都はマスカット。アラビア半島の東端に位置し、アラビア海(インド洋)とオマーン湾に面する。北西にアラブ首長国連邦、西にサウジアラビア、南西にイエメンと隣接する。なお、石油ルートとして著名なホルムズ海峡の航路もオマーン領海内にある。
国名
正式名称は、سلطنة عمان (テンプレート:Transl スルタナトゥ・ウマーン)。通称、عمان (テンプレート:Transl ウマーン)。旧称はマスカット・オマーン土侯国。
公式の英語表記は、Sultanate of Oman、通称、Oman。日本語の表記はオマーン国。通称オマーン。漢字による表記は阿曼。一部ではオマーン・スルタン国やオーマンという表記も見受けられるが、一般的ではない。
アラビア語の発音では2番目の母音「マ」は長母音であるため、「オマーン」というカタカナ表記が正しい。「オマン」と発音を縮める表記は他の外国語でもありえなくはないが、英語表記を英語読みしたものを日本語にした「オーマン」のようなアラビア文字の綴りやアラビア語の音韻を逸脱した表記は日本語では間違いとされる。正則アラビア語に従った仮名表記では「ウマーン」になる。
歴史
- 紀元前3千年紀 テンプレート:仮リンクにあるバット遺跡の銅がシュメール(テンプレート:仮リンク)に輸出されていた。
- 紀元前2世紀頃 アラブ人が移動・定住
- 7世紀 イスラームに改宗し、当時影響力を及ぼしていたペルシア人勢力を追放。
- 1509年 ポルトガル人が渡来。16世紀初頭にポルトガルの支配下に入る。
- 1650年 テンプレート:仮リンクがポルトガルからマスカットを奪回しオマーン全土を回復。この後19世紀末まで、オマーンの商船はインド洋全域を商圏とし、東アフリカ海岸部を勢力下に置いた(オマーン海洋帝国)。
- その後、ヨーロッパ列強が東洋進出への拠点として利用した。イギリスとフランスの争奪戦が起こり、18世紀の末、イギリスがオマーンと同盟条約を結んだ。
- 1741年 現テンプレート:仮リンク(アラビア語:آل بوسعيد)による支配が始まる。
- 1798年 グワーダルがオマーンの飛地となる。
- 1804年 サイイド・サイード(サイード大王)第5代スルタンに即位。
- 1820年 テンプレート:仮リンク(テンプレート:Lang-ar)成立(Persian Gulf campaignの休戦協定をテンプレート:仮リンクと締結)。
- 1832年 東アフリカ沿岸の奴隷・象牙・香辛料貿易の拠点でもあったザンジバルに遷都。オマーン、全盛期を迎える。
- 1856年 サイード大王、死去。国土はオマーンとザンジバルに分割される。帆船から蒸気船の時代となり、オマーンは急速に衰退する。
- 1891年 イギリスの保護国となる。
- 1954年 テンプレート:仮リンクでテンプレート:仮リンク(1954年-1959年)が始まる。
- 1963年12月10日 ザンジバル王国が成立。
- 1964年1月12日 ザンジバル革命でザンジバル人民共和国が成立
- 1965年 南部のドファール地方でドファール解放戦線(Dhofar Liberation Front)によるテンプレート:仮リンク(1962年-1976年)が激化。
- 1967年 石油輸出を開始。
- 1970年 皇太子カーブースがクーデターを起こし、父王テンプレート:仮リンクを追放、自身は国王に即位。また、国名をテンプレート:仮リンクから現国名「オマーン」に改める。
- 1971年 イギリス保護領より独立し、国際連合に加盟。
- 1972年7月19日 オマーン解放人民戦線によるテンプレート:仮リンクが勃発
- 1991年 立法権のない諮問議会の設置。
- 1997年 立法権のない国家評議会の設置。
- 2000年 世界貿易機関に加盟。
- 2011年 アラブの春に触発されたテンプレート:仮リンク
政治
カブース現国王(スルターン)は絶対君主制を維持しつつも、諮問議会(政治的実権を持たない)設置や毎年の地方巡幸を通じて民心の掌握に努め、その政権の基盤は安定している。産油による、高い国内総生産も政治の安定に寄与している。
外交
オマーンは湾岸協力会議(GCC)の一員ではあるが、イランと良好な関係を有している[2]。
日本との関係
現国王スルタン・カーブースの祖父に当たる先々代国王スルタン・テンプレート:仮リンクは退位後日本人と結婚しており、二人の間の子がブサイナ王女である(現国王スルタンカブースにとっては叔母にあたる)。
マスカットでは「オマーン・日本友好協会[3]」が日本語教育などの活動を続けている。2011年(平成23年)3月に東日本大震災が日本で発生した際には、オマーンの王族系の企業から迅速な支援のために南相馬市の落合工機に26億円の発注がされて話題となった[4][5][6]。また、同年9月には日本人女性書道家・矢部澄翔がオマーンを訪問、18の学校や機関で書道の指導やパフォーマンスを行った[7]。
駐日オマーン大使館は東京都渋谷区広尾四丁目にあり、広尾ガーデンヒルズと外苑西通りに挟まれた場所に位置している[8]。駐日オマーン大使館は2009年(平成21年)5月まで、「お万(おまん)榎」で知られる、千駄ヶ谷・榎坂に所在していた。
2012年に、オマーン・日本外交関係樹立40周年を迎えた[9]。外交樹立40周年記念特別企画として、茨城県つくば市にある地質標本館にて特別展「砂漠を歩いてマントルへ -中東オマーンの地質探訪-」が2011年4月~7月に開催された。
軍事
テンプレート:Main 陸海空三軍からなる。歴史的にペルシア人に幾度も支配された経緯からイランが仮想敵国ともなっており、海軍はホルムズ海峡に主力を置いている。植民地であった関係からイギリス軍と関係が深い。イラク戦争やアメリカのアフガニスタン侵攻ではアメリカ軍に協力している。
地方行政区分
地理
北西部にはテンプレート:仮リンク、南部にはカラー山地が連なる。南部にワジ多数。また、飛地としてアラビア湾とホルムズ海峡に臨むムサンダム半島とマダを領有する。最高地点はアフダル山地のシャムス山 (標高3075m) である。 本土北部はオマーン湾とアラビア海(インド洋)に面する。南西海岸沖の40kmにはクリアムリア諸島がある。 全土が砂漠気候に属し、ワジを除き通常の河川が存在しない。古代より乳香の産地として知られる。 マスカット、ソハール、スルといった都市が北部に、サラーラが南部にある。 マスカットの年間降水量は100㎜で、降雨は12月~4月にある。最高気温は5月から9月にかけ35度Cを超える。南部のドファール地域はインド洋のモンスーンの影響を受け6月から9月にかけ降雨が多く、海岸で霧が発生する。ココナツヤシの成長を助ける。 テンプレート:Clearleft
オマーン国内に鉄道は通っていない。
経済
IMFの統計によると、2011年のオマーンのGDPは556億ドルであり[10]、日本の青森県とほぼ同じ経済規模である[11]。一人あたりのGDP(為替レート)では18,657ドルであり、これは台湾、チェコなどと同水準である。
オマーンは先代サイード国王のもとで鎖国的政策が行われ、経済は停滞していたが、1970年に就任したカブース国王は開国を進め、国内経済は大きく成長を遂げた。原油関連設備の近代化による収入の安定はオマーンの成長に大きく寄与している。
オマーンの鉱業の中心は原油生産(4469万トン、2003年時点)で、輸出額の76.7%を占めており、天然ガスも産出する。金属資源としては、クロム鉱石、銀、金を採掘するものの、量が少なく重要ではない。
河川もないにも関わらず、オアシスを中心に国土の0.3%が農地となっている。悪条件にもかかわらず、人口の9%が農業に従事している。主な農産物は、ナツメヤシ(25万トン、世界シェア8位、2002年時点)。穀物と根菜では、ジャガイモ(13キロトン)の生産が最も多い。その他、冬場の日本での生鮮サヤインゲンの流通を補うため、日本向けサヤインゲンの大規模生産も行われている。
オマーンは東アフリカ・中東・ペルシア湾岸・インドを結ぶ航路を扼する、戦略的に重要な位置にある。特に南部のサラーラには経済特区や大きなコンテナ港が設置されている。これらの経済政策で外資企業の誘致を進めている。
国民
住民は半数以上がアラブ人である。その他にテンプレート:仮リンク、イラン人、インド人(印僑)などがいる。
言語は公用語がアラビア語である。英語も多用される。その他バローチ語、ウルドゥー語なども使われている。
宗教はおよそ3/4がイスラム教のイバード派、1/4がスンナ派に属している。ヒンドゥー教やキリスト教を信仰しているものもいるが少数である。
文化
祝祭日 日付 日本語表記 現地語表記 備考 1月1日 元日 11月18日 ナショナルデー 11月19日 国王誕生日 イスラム暦新年 イスラム暦による移動祝日 ムハンマド生誕祭 イスラム暦による移動祝日 預言者昇天祭 イスラム暦による移動祝日 ラマダーン明け祭(イード・アル=フィトル) イスラム暦による移動祝日 犠牲祭(イード・アル=アドハー) イスラム暦による移動祝日 脚注
参考文献
- 遠藤晴男『オマーン見聞録』 展望社(ISBN 978-4-88546-199-6)
関連項目
外部リンク
- その他
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ Oman Japan Friendship Association
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 駐日オマーン・スルタン共和国大使館 公式ウェブサイト 平成24年3月1日閲覧
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ IMF
- ↑ 国民経済計算