ロンシャン競馬場

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ロンシャン競馬場 (ロンシャンけいばじょう、Hippodrome de Longchamp) とは、フランスパリ西のセーヌ川沿い、ブローニュの森の中にある世界で1番美しいと言われる競馬場である[1]平地競走専用の競馬場であり、凱旋門賞をはじめとするフランス競馬の主要な競走が行われることで知られる。

競馬場の正門にはフランス競馬史上最高の国民的英雄と評された史上2頭目のイギリスクラシック三冠グラディアトゥール (Gladiateur) の銅像がある。

歴史

年表

競馬場建設以前のロンシャン

ロンシャン平原と呼ばれる、後に競馬場が建てられることとなるセーヌ川沿いの細長い草原には、女子修道院が建てられていた。修道院の建設は13世紀のことであり、その計画はイザベル・ド・フランスものである。イザベルはブランシュ・ド・カスティーユの娘、つまり聖王ルイの妹であり、ルイにより30,000リーブルの贈与や1256年6月10日の定礎といった援助が行われている。修道院は当時の慣習に従い農地と風車に囲まれていた[9]

アンシャン・レジームのころになると修道院で聖週間に催されるミサ上流階級の間で好評を博し、着飾った上流階級の人々が高級馬車に乗り富を見せびらかしてシャンゼリゼ通りからロンシャンまで進む、「ロンシャンの散策」と呼ばれるパレードが始まる。やがて、天気のよい日に行われる習慣となった。フランス革命が起こると修道院は破壊され、習慣も一時的に失われたが、王政復古とともに再びパレードを行うようになる。習慣は戻ったが修道院の再建は行われなかった[10]。現在でも残っている赤い風車がその名残である[† 1]

競馬場の創設

ロンシャン競馬場を建設し、その後の管理を行ったのはフランス馬種改良奨励協会 (フランスギャロの前身、以降は奨励協会と表記) である。奨励協会は1833年11月11日に組織され、1834年5月4日には、パリのシャン・ド・マルス競馬場において、奨励協会による最初の競馬を行っている[† 2]。また、15日には場所を移しシャンティイ競馬場でも行われた[11]1852年になるとシャン・ド・マルスは競馬場として問題があるため、奨励協会ではロンシャンに競馬場を建設できないか話し合われるようになった。その翌年には計画実現のため、皇帝となったナポレオン3世の異父弟にしてジョッキークラブの会員であるシャルル・ド・モルニーに合意を求めることとなる[12]

シャン・ド・マルスから移転した理由などの詳細はパリ大賞典#ロンシャン競馬場の創設を参照

モルニーの働きかけもあり、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマンの協力を得ることに成功する[13]1854年8月18日にパリ市議会[† 3]はロンシャン平原を市の名義で買取りブローニュの森に併合することをセーヌ県知事に一任した[† 4]。この決定は8月24日から29日の勅令により承認されたが、その中に競馬場の建設も含まれていた[16]

1856年6月には1856年7月1日から1906年6月30日までのリース契約を結んだ[17][† 5]。さらに、1856年12月16日には、これまで国営である帝国牧場が監督していたシャン・ド・マルスの秋開催を委譲し、春開催と同じく奨励協会が一括して管理しロンシャン競馬場で行う協約を結ぶ。この2点は12月17日付の勅令で承認された[19]

こうした交渉の上、2年余りをかけ建設された競馬場における最初の競走は、1857年4月27日の日曜日に大勢の群集の前で開催されている。そこにはナポレオン3世とその妻ウジェニーが親臨し[† 6]ジェローム・ボナパルトとその息子ナポレオン公ナッサウ公子テンプレート:仮リンクといった面々がロイヤル・エンクロージャーに顔をそろえた[† 7]。非貴族の上流階級はロイヤル・エンクロージャーに入れなかったためテンプレート:仮リンクキャリッジからの観戦となった。また、パリ市民の多くもテンプレート:仮リンク型キャリッジや水上バス外輪船などでこの新しい催しに集まっている[17]。その多さは、混雑により第1競走の開始時間を30分ほど遅らせなければならなかったほどである[21]

競馬場の施設変遷

開設時は木造だったロンシャン競馬場のスタンドが老朽化したため、1904年に石造で建てなおされた[3]。また、1908年には新コースと呼ばれるポケットから大外回りコースの最終コーナーに合流する5つ目のコースが完成している[4]1936年の凱旋門賞の数日前には、グラディアトゥールの銅像が現在と同じ正門前に設置された[22]

1957年から1958年まで開催期間外である冬季に最終コーナーの改修が行われる。これにより直線コースの最初の標識柱が370mから600mに延長された。この新直線コースは芝が定着した1960年9月11日まで使用されなかった[23]。続く1961年、12月5日の奨励協会の役員会において新スタンドの改築が決定され、1962年11月から工事が開始された[24]1964年には観客の間を横切らずにすむ新しいパドックと、全馬が同じ方向に向いてスタートできる新しい発馬機が設置されている[25][† 8]。1966年4月3日に新メインスタンドが開場された[7]。そのときは別館スタンドを引き続き使用していたが、老朽化のため1977年に閉鎖されている[26]

コース形態

右回りの芝コース。大外回り1周2750メートル、中回り1周2500メートル、小回り1周2150メートル、第3コーナーのポケットからのコースは1400メートル、直線コースは1000メートルと5つのコースがある。

向こう正面のコースは中間から第3コーナーまでゆったりとした上り坂が続き、そこからゆったりとした下り坂が続く。大外回りコースは最大10メートルの高低差となっている。

中回りコース、大回りコースのみ第4コーナーまではフォルスストレート(false straight、「偽りの直線」の意味)と呼ばれる最大650メートルの擬似直線が続く。

直線はゴール板は2つ有り手前のゴール板までは533メートル、奥手のゴール板までは650メートルの平坦なコース。

直線コースはゴールまで平坦なコースが続く。

距離設定

直線の1000mコースから40000mまで46箇所の発走地点がある。[27]

  • 主な距離設定
    • 1000m(直線)、1400m、1600m、2000m、2400m

おもな競走

廃止されたおもな競走

脚注

注釈

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出典

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参考文献

ウェブサイト
出版物

外部リンク

  • 鹿島2004、p285
  • 2.0 2.1 フランスギャロ、競馬の歴史(19世紀)
  • 3.0 3.1 チボー2004、p24
  • 4.0 4.1 チボー2004、p33
  • チボー2004、p105
  • チボー2004、p122
  • 7.0 7.1 チボー2004、p205
  • 16年凱旋門賞はシャンティイで開催 ロンシャンは来年大規模工事 - スポーツニッポン、2014年5月2日閲覧
  • フランスギャロ、アベイドロンシャン賞の歴史
  • 鹿島2004、p284
  • 11.0 11.1 ロンシャン競馬場、歴史概略
  • フィッツジェラルド1995、pp10-12
  • 大串2011、pp225-226
  • 松井1997、p63
  • 松井1997、pp230-231
  • フィッツジェラルド1995、p13
  • 17.0 17.1 17.2 フランスギャロ、競馬場の歴史(ロンシャン)
  • JAIRS、改修計画が前進
  • 19.0 19.1 フィッツジェラルド1995、p14
  • 大串2011、p227
  • フィッツジェラルド1995、p15
  • フィッツジェラルド1995、p143
  • チボー2004、p185
  • チボー2004、p189
  • 25.0 25.1 チボー2004、p197
  • チボー2004、p253
  • JAIRS フランスの競馬場

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