ポール・セザンヌ

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テンプレート:Infobox 芸術家 ポール・セザンヌPaul Cézanne1839年1月19日 - 1906年10月22日10月23日説もある[1]))は、フランス画家。当初はモネルノワール等と共に印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。セザンヌはモネら印象派の画家たちと同時代の人物だが、ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。

後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えた。

彼の肖像はその作品と共にユーロ導入前の最後の100フランス・フラン紙幣に描かれていた。

概要

セザンヌはピサロら印象派の画家とも交流があり、1874年の第1回印象派展にも出品しているが、やがて印象派のグループから離脱し、故郷の南仏・エクス=アン=プロヴァンスのアトリエで独自の探求を続けていた。印象派の絵画が、コロークールベらに連なる写実主義の系譜上にあるのに対し、セザンヌは自然の模倣や再現から離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画世界を構築しようとした。

セザンヌは風景、人物、静物のいずれの画題の作品も多数手がけている。初期の作品にはドラクロワの影響が強く、ロマン主義的な傾向もみられたが、後半生に繰り返し描いた故郷の山・サント=ヴィクトワール山の風景や、晩年に描いた水浴群像などには主題に伴う物語性は希薄で、平面上に色彩とボリュームとからなる秩序だった世界を構築すること自体が目的となっている。西洋の伝統的絵画においては、線遠近法という技法が用いられ、事物は固定された単一の視点から眺められ、遠くに位置する事物ほど、画面上では小さく描かれるのが常であった。これに対し、セザンヌの作品では、複数の異なった視点から眺められたモチーフが同一画面に描き込まれ、モチーフの形態は単純化あるいはデフォルメされている。『台所のテーブル』を見ると、果物籠の上部の果物は斜め上から見下ろしているが、籠の側面は真横から描かれている。テーブル上のショウガ壺と砂糖壺・水指しは異なった視点から描かれている。テーブル面の角度やテーブルの手前の縁が描く線はテーブルクロスの右と左とでは異なっており、テーブル上、右端の梨は不釣合いに大きい[2]。こうした、西洋絵画の伝統的な約束事から離れた絵画理論は後の世代の画家たちに多大な影響を与えた。モーリス・ドニは1900年に『セザンヌ礼賛』という絵を描いており、エミール・ベルナールは、1904年にエクスのセザンヌのもとに1か月ほど滞在し、後に『回想のセザンヌ』という著書でセザンヌの言葉を紹介している。

セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、サロン・ドートンヌで開催されたセザンヌの回顧展(出品作品56点)は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会を訪れた画家としては、ピカソブラックレジェマティスらが挙げられる。また、詩人のリルケは、当時滞在していたパリでこの展覧会を鑑賞し、その感動を妻あての書簡に綴っている。

生涯

1860年代以前

1839年1月19日、ポール・セザンヌは南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた[3]。同年2月22日、教区の教会で洗礼を受けた[3]。父のルイ=オーギュスト・セザンヌ(1798年-1886年)は、銀行の共同創設者であり、このため、ポールは画家になってからも、同時代の画家たちには望むべくのない財政的支援を父から受けることができ、また後には多大な遺産を受け継ぐことができた[4]。母アン・エリザベス・オノリーヌ・オベール(1814年-1897年)は、快活でロマンチストだが、気が短い女性で、ポールの想像力は母から受け継いだものと言われている[5]。ポールには2人の妹、マリーとローズがおり、妹たちと一緒に小学校に通っていた[3]

10歳の時、エクスのサン・ジョセフ校に入学した[6]。1852年(13歳の時)、コレージュ・ブルボンに入り、そこで下級生だったエミール・ゾラと友達になった[4][7]。パリ生まれのゾラはエクスではよそ者で、級友から除け者にされていた。ある時セザンヌがゾラに親しく話しかけたため、級友と喧嘩になる。その翌日、ゾラはセザンヌにリンゴを1籠贈り、これが縁で親友になったというエピソードがある。もう1人の少年バティスタン・バイユ(後に天文学者)も併せた3人は、親友として絆を深めた[8]。同校に6年間在籍する間、1857年にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョセフ・ジベールに素描を習った[9]。1858年から1861年まで、父の希望に従い、エクス大学の法学部に通い、同時に素描の勉強も続けていた[10]

しかし、セザンヌは法律の勉強にはなじめず、次第に大学の勉強を怠けるようになった。友人のゾラはすでにパリに戻っていたが、絵の道に進むかどうか迷うセザンヌに、ゾラは早くパリに出てきて絵の勉強をするようにと繰り返し勧めている。ゾラからセザンヌ宛ての手紙には「勇気を持て。まだ君は何もしていないのだ。僕らには理想がある。だから勇敢に歩いていこう」、「僕が君の立場なら、アトリエと法廷の間を行ったり来たりすることはしない。弁護士になってもいいし、絵描きになってもいいが、絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけはなるな」とあった。

画家としての出発(1860年代)

セザンヌは、ゾラの勧めもあって、大学を中退し、絵の勉強をするために1861年4月にパリに出た。ルーヴル美術館ディエゴ・ベラスケスカラヴァッジオの絵に感銘を受けた。しかし、美術学校への入学が断られたため、その年のうちにエクスに帰り、父の銀行で働きながら、美術学校に通った[4]。銀行勤めはうまく行かず、1862年、再びパリを訪れ、アカデミー・シュイスで絵を勉強した。ロマン主義ウジェーヌ・ドラクロワ写実主義ギュスターヴ・クールベ、のちに印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響を受けた[4]。この時期(1860年代)の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多い。

1863年サロン・ド・パリに応募したが落選し、同年開かれた落選展に出展した。翌1864年から1869年にかけても毎年サロンへの応募を繰り返したが、落選し続けた。

1865年頃に「カフェ・ゲルボワ」の常連たち(後の印象派グループ)と知り合い、とくに9歳年長のカミーユ・ピサロと親しくなった。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケ(当時19歳)と知り合い後に同棲するが、厳格な父を恐れ彼女との関係を隠し続けた。

1870年普仏戦争が勃発したが、母がエクスから約30キロ離れ地中海に面した村エスタックに用意してくれた家にフィケとともに移り、兵役を逃れた[11]

印象主義の時代(1870年代)

ファイル:Paul Cézanne - La Maison du pendu.jpg
『オーヴェールの首吊りの家』1872年-73年、オルセー美術館
ファイル:Paul Cezanne, A Modern Olympia, c. 1873-1874.jpg
『モデルヌ・オランピア』(第2作)1873年頃

エスタックからパリに戻った後、1872年にはフィケと生まれたばかりの息子ポールを連れてポントワーズに移り、ピサロとイーゼルを並べて制作した。この時期にピサロから印象主義の技法を習得してセザンヌの作品は明るい色調のものが多くなった。

1874年、モネ、ドガらが開いた第1回印象派展に『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』など3作品を出品した[12]。中でも『モデルヌ・オランピア』には、新聞紙上で「腰を折った女を覆った最後の布を黒人女が剥ぎとって、その醜い裸身を肌の茶色いまぬけ男の視線にさらしている」と書かれるなど、厳しい酷評・皮肉が集中した[13]

その後、パリとエクスの間を行ったり来たりした。辛辣な批評に自信を失ったセザンヌは、1876年の第2回印象派展には出品を断ったが、絵画収集家ヴィクトール・ショケの励ましにより、1877年の第3回印象派展に17作品を出品した。その中に含まれていたショケの肖像は再び厳しい批評にさらされたが、一方で、「『水浴図』を見て笑う人たちは、私に言わせればパルテノンを批判する未開人のようだ」と述べたジョルジュ・リヴィエールのほか、エドモン・デュランティ、テオドール・デュレのようにセザンヌの作品を賞賛する批評家も現れた[14]

しかし、1878年頃から、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感がなおざりにされがちな印象派の手法に不満を感じ始め、同時期から印象派の他のメンバーとの交流が少なくなり、制作場所もパリを離れ故郷のエクスに戻した。1878年から1879年にかけて、エクスとエスタックに滞在することが多くなった[15]。この頃、妻子の存在を父に知られたことで、父子の関係は悪化し、毎月の送金を減らされ、数か月間ゾラの援助に頼った[16]

1880年代

1880年代には、主にエクスの周辺で制作を続け、この時期から規則的な筆触を用いて対象物を再構築するという独特の制作手法が現れ始めた。

初めてサロン(官展)に入選したのは43歳(1882年)のときである(このとき出品したのは1866年に制作された『画家の父』である)。このとき、セザンヌは友人の審査委員に頼み込み、やっとの思いで入選を果たしたという。

1886年、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚した。その数か月後、父が死去した[17]。父から相続した遺産は40万フランであり、経済的には何も不安がなくなった[18]

同じ1886年、ゾラが小説『テンプレート:仮リンク』を発表した。ゾラはこの小説の中でセザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家の主人公の芸術的失敗を描いた。この小説がきっかけとなり、セザンヌとゾラの友情は断たれてしまった。

サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けたが、絵はなかなか理解されなかった。

晩年(1890年代 - 1906年)

ファイル:Paul Cézanne - Les Joueurs de cartes.jpg
『カード遊びをする人々』(1890 - 1892) オルセー美術館

1895年アンブロワーズ・ヴォラールの画廊で初個展を開き、一部の若い画家たちから注目され始めた。「オーヴェルの納屋の庭」と「エスタック」の2点が、ギュスターヴ・カイユボットからの遺贈によりリュクサンブール美術館に収められた。モネ、ドガ、ルノワール、ゴーギャンも、セザンヌを賞賛した[19]。この頃手掛けた多数の水彩画は簡略な描線と淡彩によって描かれ、透明な色の重なりが影を、塗り残された紙の地の色が光を表し、色面で把握されモティーフが全体的な調和の中で画面を構築している。静物画のみならず、水浴をテーマとした水彩画「水浴の女たち」や「釣り」にもその例を見ることができる。

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『サント・ヴィクトワール山』(1904) フィラデルフィア美術館

1900年にパリで開かれた万国博覧会の企画展である「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちと共に出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになった。1904年から1906年までは、まだ創設されて間もなかったサロン・ドートンヌにも3年連続で出品した。

「自然を円筒、球、円錐によって扱いなさい」というフレーズは、1904年4月15日付けのエミール・ベルナール宛ての書簡に出てくるものである。このフレーズは後のキュビスムに影響を与えたものだが、セザンヌの真の意図については諸説ある。

1906年10月15日に野外で制作中に大雨に打たれ肺炎にかかり、同年10月22日(または10月23日)に死去した。

彼の「絵画は、堅固で自律的な再構築物であるべきである」という考え方は、続く20世紀美術に決定的な影響を与えた。

ギャラリー

脚注

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参考文献

関連文献

著作、交友のあった人物達による評伝
  • ジョン・リウォルド編、池上忠治訳 『セザンヌの手紙』 (筑摩叢書、新版・美術公論社、1982年)
  • 『セザンヌ 絶対の探求者』 山梨俊夫編訳 (二玄社 1997年)
  • P. M. ドラン編 『セザンヌ回想』 高橋幸次訳・村上博哉訳 (淡交社 1995年)
  • ジャワシャン・ガスケ 『セザンヌ』 與謝野文子訳 (岩波文庫、2009年、初版・求龍堂)
近年刊行の研究書
  • メアリー・トンプキンズ・ルイス 『セザンヌ 岩波世界の美術』 宮崎克己訳(岩波書店 2005年)
  • アンリ・ペリュショ 『セザンヌ』 矢内原伊作訳、みすず書房
  • 吉田秀和全集18.セザンヌ』 白水社、2002年
  • 内田園生 『セザンヌの画』 みすず書房 1999年
  • 前田英樹 『セザンヌ 画家のメチエ』 青土社、2000年
  • ユリイカ 臨時増刊号 還ってきたセザンヌ』  1996年8月号、青土社
  • アンリ・ララマン 『セザンヌ』 千足信行監修、小田部麻利子訳(日本経済新聞社、1996年)
  • コンスタンス・ノベール=ライザー 『セザンヌ 岩波世界の巨匠』 山梨俊夫訳 (岩波書店、1993年)
  • 浅野春男 『セザンヌとその時代』 (世界美術双書、東信堂、2000年)
  • 永井隆則『セザンヌ受容の研究』(中央公論美術出版、2007年)
  • 永井隆則『もっと知りたいセザンヌ』(東京美術、2012年)
  • 永井隆則/工藤弘二/三浦篤/新畑泰秀『シンポジウム「セザンヌーパリとプロヴァンス」展から見る今日のセザンヌ』(記録集)(国立新美術館、2013年)
  • 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房、2013年)

外部リンク

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  1. 近年(特に1993年以降)の文献では、死没日を10月23日とするものが多くなっている。浅野春男著『セザンヌとその時代』(世界美術双書、東信堂、2000年)では、近年の研究でセザンヌが10月23日に死去したことが判明したと指摘している。また、メアリー・トンプキンズ・ルイス著、宮崎克己訳『セザンヌ』(岩波世界の美術・岩波書店 2005年)のセザンヌ年表では、セザンヌの墓碑に記された10月22日という死没日は誤記であるとしている。その他の文献については、参考文献の項を参照。
  2. ベックス=マローニー、2001、pp55 - 57及びボルゲージ、2007、pp96 - 97
  3. 3.0 3.1 3.2 Lindsay (1969: 6)。
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 テンプレート:Cite web
  5. Vollard (1984: 16)。
  6. Machotka (1996: 9)。
  7. Vollard (1984: 14)。
  8. テンプレート:Cite web
  9. Gowing (1988: 215)。
  10. Cézanne (1941: 10)。
  11. オーグ (2000: 44-45)。
  12. オーグ (2000: 51)。
  13. オーグ (2000: 53-55)。
  14. オーグ (2000: 55)。
  15. オーグ (2000: 65)。
  16. オーグ (2000: 80)。
  17. テンプレート:Cite web
  18. Lindsay (1969: 232)。
  19. オーグ (2000: 101)。