ヴァンゼー会議
ヴァンゼー会議(ヴァンゼーかいぎ、テンプレート:Lang-de-short、テンプレート:Lang-en-short)は、15名のヒトラー政権の高官が会同して、ヨーロッパ・ユダヤ人の移送と殺害について分担と連携を討議した会議である。会議は1942年1月20日にベルリンの高級住宅地、ヴァンゼー湖畔にある親衛隊の所有する邸宅で開催された。
目次
「最終的解決」の計画
会議が開かれる以前からアインザッツグルッペンという部隊は占領下の東ヨーロッパやソ連においてヨーロッパユダヤ人を組織的に絶滅させていたが、ナチス政権は広大な占領地域に分散し居住する多数のヨーロッパユダヤ人を絶滅させるために必要な官僚組織の協調体制を確立できずにいた。官僚組織は異なる省庁に属し、それらはしばしば互いに競合していたからである。ホロコースト計画を完全には履行できていなかった失敗の原因は、各省庁がヨーロッパ・ユダヤ人の抹殺を必ずしも優先事項として取り扱わなかったことにある。
ヴァンゼー会議が開催されたのは、ヨーロッパユダヤ人の絶滅を優先事項とすることを再確認し、関係省庁の上層幹部に必要な権限を取り戻し、複雑に絡み合う官僚組織の多くが最終的解決を共同して実行できるようにするためであった。
会議以前にもすでにヨーロッパユダヤ人の絶滅を目的とすることを示すヒトラーの演説があったが、ヴァンゼー会議がユダヤ人に対するナチス・ドイツの政策を理解する上で特別な地位を占めている理由としては、(1)会議の開催に関わる完全な文書記録と会議の議事録が戦争で失われなかったこと、(2)会議の出席者がユダヤ人の追放や組織的殺害を実行するのに必要な主要省庁の上層幹部だったこと、(3)会議以降に大量移送や会議目的に適う絶滅収容所における収容者の死亡が加速したこと、(4)会議の議事録がニュルンベルク裁判の尋問や反対尋問において広く使用されたことが挙げられる。
参加者
議長はヨーロッパ・ユダヤ人問題の最終的解決を任務とする国家保安本部の長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将が務めた。出席者は以下の通りである。
- ハインリッヒ・ミュラー、国家保安本部 秘密警察局々長、親衛隊中将
- ゲルハルト・クロップファー、党官房法務局長,(de)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリツィンガー(Friedrich Wilhelm Kritzinger )、首相官房局長(de)
- オットー・ホフマン、親衛隊人種・移住本部、親衛隊中将
- ゲオルク・ライプブラント(Georg Leibbrandt)、東部占領地省局長
- アルフレート・マイヤー(Alfred Meyer)、東部占領地省次官
- ヴィルヘルム・シュトゥッカート、内務省次官
- マルティン・フランツ・ユリウス・ルター、外務省次官補
- エーリヒ・ノイマン(Erich Neumann)、四ヵ年計画省次官
- ルドルフ・ランゲ、ラトヴィア地区SDとSipo指揮官代理、親衛隊少佐
- ヨーゼフ・ビューラー、ポーランド総督府次官
- カール・エバーハルト・シェーンガルト(Karl Eberhard Schöngarth)、ポーランド総督府SDとSipo指揮官、親衛隊上級大佐
- ローラント・フライスラー、司法省次官
- アドルフ・アイヒマン、国家保安本部 秘密警察局 第IV部ユダヤ人担当課長、親衛隊中佐
ヴァンゼー・プロトコル
会議の公式な議事録(独:Protokoll,プロトコル)では、会議の目的は「最終解決」を実行するために関係省庁の業務を調整することであると述べられている。プロトコルは親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーの筆頭副官で国家保安本部長官であるラインハルト・ハイドリヒの指示を受けたアドルフ・アイヒマンによって作成された。会議の要約には、ドイツからユダヤ人を排除する方法が国外移住の促進から移送と強制収容と強制労働と計画的殺害に変更されたことが特記されている。
様々な方策(移送、強制収容、強制労働、計画的殺害)の組み合わせがプロトコルに詳述されている。これら方策の組み合わせがナチスのヨーロッパユダヤ人絶滅政策と相互に関連していた。移送はそれだけで終わりというわけではなかった。ドイツや同盟国からユダヤ人を強制的に移送することは単にユダヤ人を排除するのではなく、彼らを強制労働者として利用することであった。
強制労働者は同時に2つの主要目的を満たした。強制労働は特に道路建設のような大規模な社会基盤の整備に当てられたが、同時にそれは奴隷的重労働であった。労働は極度の疲労を伴い、結果として多数の労働者が死亡することが期待されていた。過酷な条件を生き抜いた者は殺されることになっていた。(「最後まで何とか切り抜けた者は、適切な処置を受けなければならない…」)。プロトコルによれば「特別処置」とは「殺害」と同義語であることは明らかである。アイヒマンは後にイスラエルでの裁判でこれを認めた。また、イスラエル政府によってアイヒマンが自白を強要された証拠は発見されていない。会議から一年以内にホロコーストは加速し、ユダヤ人の多くは絶滅収容所に到着すると同時に強制労働者に選別されることなく殺害されることとなった。なぜわざわざ輸送したのかは不明である。
会議議事録に関する論議
ヴァンゼー会議の存在を裏付ける会議の議事録「ヴァンゼー文書」はアドルフ・アイヒマンが作成したとされ、1947年にアメリカ軍が外務省の文書の中から発見したものである。ドイツ国内でそれが原本であるかどうかの議論が存在する[1]。
しかし会議が開催された時期の前後に、議長であるラインハルト・ハイドリヒと、出席者であるオット・ホフマンやマルティン・ルターの間に複数の書簡が交わされ、いくつかは現存している。それらにはヴァンゼーで開催される会議の予定と、会議の議題が「ユダヤ人問題」であることが明記されており、歴史学的には会議関係者の残した記録(手紙やレポート、日記帳などの一次史料)から明白であり、ヴァンゼーでユダヤ人問題を討議する会議が行われたことに疑問の余地は無い。
1942年2月26日ルター宛書簡
懐疑派の立場
元ドイツ国防軍の将校で著名なホロコースト否認論者のヴィルヘルム・シュテークリヒ(de)はこのヴァンゼーの会議録を、ニュルンベルク裁判の国際検察局のロベルト・ケンプナーが作成した「偽造文書」だと主張している。
歴史修正主義者のゲルマー・ルドルフ(Germar Rudolf)は、ヴァンゼー会議録には、ユダヤ人の絶滅についての内容がはっきり書いておらず、ユダヤ人が絶滅されるとしても、いつ、どのようにしてか、などについても一言も触れられていない。などとして、ユダヤ人絶滅が決定されたという根拠が不十分としている。
ドイツ近代史のエルンスト・ノルテ(Ernst_Nolte)教授や同じくドイツ近代史のヴェルナー・マーザー(Werner_Maser)教授・博士らが歴史修正主義の立場から議事録の改竄の可能性や信憑性に疑問を表明している。[2] [3]
記念館
ヴァンゼー会議が開かれたヴァンゼー別荘は1943年にノルトハフ財団からRSHAに売却された。戦後はアメリカ軍が使用した後、しばらくホステルとして使われていた。1965年から1972年まで歴史家ヨーゼフ・ヴルフが記念館の設立を計画したが実現せず、1992年になってヴァンゼー会議記念館として開館した。
会議にまつわる誤解
- ヒトラー自身はヴァンゼー会議に出席していないが、デンマーク放送協会が1992年に作成された放映した『ユダヤ人虐殺を否定する人々』ではヒトラーがヴァンゼー会議の主催者であると[4]するなど、出席者にまつわる錯誤もある。
出典・脚注
- ↑ http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-21411069.html?name=Ich+war+gleich+alarmiert (ドイツ語)デア・シュピーゲル誌による文書の発見に関わった連合国スタッフへのインタビュー記事。記者が「ヴァンゼー会議録が本物かどうかで何十年もの間、疑問が投げかけられているが、どう思うか?」とスタッフに尋ねている。
- ↑ E. Nolte, Der Europaische Burgerkrieg 1917-1945, Ullstein, Frankfurt am Main / Berlin 1987, p. 592; Nolte, Streitpunkte, Ullstein, Frankfurt am Main / Berlin 1993, pp. 313f.
- ↑ W. Maser, op. cit. (note 100), pp. 317f
- ↑ http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-57.html NHK放映『ユダヤ人虐殺を否定する人々』をめぐって
関連項目
- ユダヤ人問題の最終的解決
- 『謀議』:ヴァンゼー会議の内幕を描いた2001年の映画。フランク・ピアソン監督。
外部リンク
- ヴァンゼー・プロトコル英訳
- ヴァンゼー・プロトコル日本語訳
- House of the Wannsee Conference -ヴァンゼー会議記念館公式サイト (英語、日本語、ドイツ語など全16か国語)
- ヴァンゼー会議 社会研究部 — 高校の部活の研究、翻訳。
- テンプレート:Imdb title
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- ホロコースト百科事典ヴァンゼー会議の記事 — アメリカホロコースト記念館 テンプレート:En icon
- 「ヴァンゼー会議録」は国際検察局のケンプナーが作成の「偽造文書」という説ホロコースト否定論者木村愛二のウェブサイト