ヒャルマル・シャハト
テンプレート:政治家 ホレス・グリーリー・ヒャルマル・シャハト(Horace Greeley Hjalmar Schacht, 1877年1月22日 - 1970年6月3日)は、ドイツの経済学者、政治家、銀行家。ライヒスバンク総裁(在任:1923年 - 1930年、1933年 - 1939年)、ドイツ経済相(在任:1934年 - 1937年)。
目次
経歴
前半生
当時プロイセン王国のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州(de:Provinz Schleswig-Holstein)に属していたティングレフ(da:Tinglev)に生まれる(現在はデンマーク領)。父はヴィルヘルム・レオンハルト・ルートヴィヒ・マクシミリアン・シャハト(William Leonhard Ludwig Maximillian Schacht)。母はコンスタンツェ・ユスティーネ・ゾフィー・シャハト(Constanze Justine Sophie Schacht)(旧姓フォン・エッガース(von Eggers))。母は男爵令嬢だった[1]。
両親とともにアメリカ合衆国へ移住。父ヴィルヘルムはアメリカ合衆国市民権を取得した[2][3]。父ヴィルヘルムはアメリカのジャーナリズムの先進性に感銘を受け[4]、シャハトの名前もアメリカのジャーナリストホレス・グリーリーに因んでいる[5]。
1895年から1899年にかけてドイツのキールやベルリン、ミュンヘンなどの大学で経済学を学んだ[2][6]。1899年に経済学の博士号を取得した。
1903年にドレスナー銀行に入社し、経済室長となった。1908年には副頭取となった[6][7]。1916年には私立銀行の「ドイツ国家銀行」(de)の頭取となる[6][7]。第一次世界大戦中には通貨偽造スキャンダルに巻き込まれた[4]。
一次大戦後の1918年にはドイツ民主党(DDP)の共同創設者となった[6][7]。1922年にはドイツ国家銀行をダルムシュタット銀行と合併させて「ダルムシュタット及び国家銀行」(de、ダナート銀行)を設立させた[6][7]。
インフレとライヒ通貨委員就任
1923年1月11日に「ドイツ政府がヴェルサイユ条約に定められた賠償金支払義務に不履行があった」としてフランス軍とベルギー軍はルール地方を占領した[8][9]。このフランスの横暴にドイツでは右翼から左翼に至る全ての政党が憤慨し、ヴィルヘルム・クーノ内閣が主導してルール地方の工場停止など「消極的抵抗」を行ったが、その影響でドイツのマルクは壊滅的な暴落をして、ドイツはハイパーインフレになってしまった[9]。
1923年8月にクーノ政権は崩壊。人民党、中央党、社民党、民主党の連立でグスタフ・シュトレーゼマン内閣が成立した。シュトレーゼマンは「売国奴」の批判を受けようともルール地方占領への「消極的抵抗」を断固中止させ、マルクを安定させる道を選んだ[10]。マルクの立て直しのためにシャハトは民主党内でレンテンマルクの発行を主張した[11]。蔵相ルドルフ・ヒルファーディングやハンス・ルターのもとで新マルク導入が決定されたものの更迭されたため[12]、1923年11月13日にシャハトはフリードリヒ・エーベルト大統領よりライヒ通貨委員(Reichswährungskommissar)に任命された[6][7][13]。中央銀行であるライヒスバンク総裁ルドルフ・ハーヴェンシュタイン(de:Rudolf Havenstein)がその役割を果たすべきところだったが、彼は政府と経済人の信用を完全に喪失していた。ヴェルサイユ条約によってドイツ政府はライヒスバンク総裁を独断で任免できなくなったので、結局新しいポストを急遽作ったのであった[13]。
レンテンマルクは金本位制を前提としながらも、ひとまずドイツの不動産や商工業資産を基礎として出された補助通貨であり、1923年11月20日から1兆マルクは1レンテンマルクで交換された[14]。これにより奇跡的にマルクの信用は回復した。翌1924年には金本位のライヒスマルクに置き換えられた[15]。
ライヒスバンク総裁
1923年12月22日にはハーヴェンシュタインの死で空席となっていたライヒスバンク総裁に任じられた[16]。シャハトはフランスが賠償金取り立てに軍事力を使った事に反感を持つイングランド銀行総裁モンターギュ・ノーマンと接近した[17]。フランスは引き続きルール地方を占領していたが、これに反発したイギリスはドイツの賠償方法についての専門委員会の創設を求める動きを起こした。アメリカがこれに賛同し、フランスも従わざるを得なくなった。こうしてアメリカのチャールズ・ドーズを委員長としてドーズ委員会が創設された[18]。シャハトは同委員会との交渉に参加した[7]。同委員会は1924年4月には新しい賠償金支払い方式のドーズ案を作成した[18]。
1926年にドイツ民主党の左派寄り・リベラル志向を倦厭するようになり、同党を離党し、右派・保守派と接近するようになった[6][7]。
1929年2月11日にドイツの新しい賠償方式を決める専門家会議がアメリカの銀行家オーウェン・ヤングを議長としてフランス・パリで開かれた。ドイツの首席代表でシャハトが出席した[19]。しかしシャハトはシュトレーゼマン外相の方針を無視して独断的な行動をとった。対案覚書にドイツ植民地の返還要求やポーランド回廊の返還要求を条件にいれて、あわや決裂しかけたりしている[20][21]。
結局シャハトは6月7日にはヤング案を受け入れた[20]。ヤング案によりドイツの賠償金額は大幅に減らされた。しかしドイツはこの後も59年にわたって賠償金を払わねばならないことが約定された[22]。これは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)をはじめとするドイツ国内の国粋主義運動を成長をさせる結果となった[22]。
1929年10月24日、アメリカ・ニューヨークのウォール街の株式市場が大暴落し、世界大恐慌が発生した[23]。ドイツも失業者であふれかえった。ただちに失業保険法が改正されたが、それだけではドイツの財政の均衡の回復はできず、ルドルフ・ヒルファーディング蔵相と大蔵次官ヨハネス・ポーピッツは外債を発行しようと決意し、アメリカの銀行がこれに応じようとしたが、ドイツ帝国銀行総裁として政府から独立した立場にあるシャハトが赤字は租税で賄うべしとして反対を表明。外債を引き受けようとしていたアメリカ銀行も離れてしまい、1929年12月21日にはヒルファーディングとポーピッツは辞職させられる事態となった[24]。
1930年3月6日にはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領と対談してヤング案に反対する意思を伝えた。ヒンデンブルクはシャハトの説得にあたったが、シャハトは聞き入れず、翌3月7日にドイツ帝国銀行総裁職を辞した[25]。
ナチ党との連携
その後、シャハトは本格的にナチ党に接近した。アドルフ・ヒトラーの『我が闘争』にも強い感銘を受けたという[7]。
1931年10月にはハルツブルク戦線(ナチ党・国家人民党・鉄兜団の反ハインリヒ・ブリューニング内閣共同戦線)に参加した[6][7]。自分の友人である銀行家や実業家をヒトラーに紹介し、ナチ党の活動資金確保に尽力した[7]。
クルップ、ユナイテッド・スチール、IGファルベンなど重工業界のナチ党への支援はシャハトの推薦の影響が大きかった[7]。1932年11月29日には政財界人との連名で、ヒンデンブルク大統領に対し、ヒトラーを首相にするよう要請する書簡を送った(Industrielleneingabe)[7]。
ナチ党政権下
1933年1月30日にナチ党党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命され、ドイツの政権を掌握した。1933年2月20日にはヒトラーはゲーリングの執務室でシャハトを含めた実業界首脳25名を招集。マルクス主義の根絶と再軍備を約し、代わりとしてナチ党への献金を依頼した。この会談でナチ党は300万マルクの献金を取り付けた(de)[26]。
1933年3月16日にシャハトは再びライヒスバンク総裁に任じられた[6][27]。ヒトラー内閣は国民にインフレの不安を持たせず、また外国から察知されずに軍事費を調達する方法をライヒスバンクに命じた。シャハトらは財源調達の仕組みとして1933年6月にメフォ手形の導入を決定した。メフォ手形は国防軍から受注を受けた企業が手形の振出人となり、メフォと略称される会社が引受人となり、政府が手形支払いの義務を負い、ライヒスバンクが手形の再割引を保証する手形であった。1934年から1937年の間にメフォ手形の総額は204億マルクにも上った[28]。
1934年8月2日にクルト・シュミット(de)経済相の辞任に伴い、代わってシャハトが経済相に任命された[29]。1935年5月21日には「戦争経済全権」(Generalbevollmächtigten für die Kriegswirtschaft)にも任じられた[6][7][30]。
政権前期のシャハトは思うままにドイツ経済に実権をふるった[7]。市場経済の信奉者であったシャハトは大企業がナチ党の支配や干渉を受けないように努めた[7]。経営者団体・商工会議所をまとめた「ライヒ経団連」(de:Reichswirtschaftskammer)の創設にも携わった[7]。
またシャハトは反ユダヤ主義を好ましく思っておらず、シャハトが経済相にあった間はユダヤ人企業をドイツ人企業に安値で売却させる「アーリア化」は徹底されてこなかった[31]。
1936年には四カ年計画がスタートし、全権ヘルマン・ゲーリングは経済分野でも大きな権力を持つことになり、シャハトとの間で摩擦が増えた。シャハトはこの時期から亡命することを考えるようになり、イギリスの高官を通じてアメリカの政府におけるしかるべき地位と亡命の受け入れを求める動きをしていたテンプレート:Sfn。メフォ手形を含む手形の残高が増大する中で、インフレは避けがたくなっていったテンプレート:Sfn。1937年にシャハトはライヒスバンク総裁の任期切れを迎えていたが、ヒトラーは留任を望んだ。シャハトは一年後のメフォ手形発行停止をヒトラーに要求して飲ませたことで、1938年にはメフォ手形の発行は停止された[32]。
しかし1937年初頭には経済分野での指導権をゲーリングに奪われテンプレート:Sfn、1937年11月に経済相と戦争経済全権委員を解任された。ただし代わりに無任所相に任じられ、形式的な閣僚の地位はその後もしばらく保持した。またライヒスバンク総裁職は保持しつづけたが、本来ライヒスバンクに属していた通貨信用政策と資本市場に対する統制権も奪われていったテンプレート:Sfn。軍事費を含む政府支出と借り入れはますます増大し、1938年にはライヒ政府の国庫は危機的な状態となり、財務相のルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクとの関係も悪化したテンプレート:Sfn。1939年1月7日、シャハトは軍事費が増えすぎたせいでインフレーションが起こっているとして、財政金融政策、特に軍事財政の中止を訴える手紙をライヒスバンク理事全員と連名で、ヒトラーに送ったテンプレート:Sfn。1939年1月19日にはライヒスバンク総裁からも解任された[33]。無任所相の地位は形式的に保持していたが、1943年1月に失った[34]。シャハトはナチ党政権中枢に最後まで残っていたブルジョワ代表であった[34]。
しかし1944年7月20日に、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐を中心にしたヒトラー暗殺未遂事件が発生すると、連座していたとして1944年7月29日に逮捕されてラーフェンスブリュック強制収容所、ついでフロッセンビュルク強制収容所に“特殊囚人”として収容された。1945年4月にアメリカ軍によって解放された[34]。
ニュルンベルク裁判
解放後は、一転ナチス独裁政権の強化に貢献した疑いでアメリカ軍により逮捕された。ヘルマン・ゲーリング、カール・デーニッツ、アルベルト・シュペーア、ヴィルヘルム・カイテルなど大物捕虜を集めたルクセンブルク・バート・モンドルフの収容所に収容された[35]。
ニュルンベルク裁判にかけるために1945年9月に他の被告人達とともにニュルンベルク刑務所へ移送された。シャハトは第一起訴事項「侵略戦争の共同謀議」と第二起訴事項「平和に対する罪」で起訴された。
被告人達の精神分析官グスタフ・ギルバート大尉が開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると彼の知能指数は143あり、被告人の中で一番知能の高い人物であるとのことであった(ただシャハトは高齢であることを考慮されて実際の素点の数値より15から20多く出されている。調整前の素点では141のアルトゥル・ザイス=インクヴァルトが一位であった)[36][37]。
シャハトは他の被告と関わりたがらず、自ら進んで孤立していた。「何の罪も犯していない」自分が被告人にされたことについてシャハトは「ジャクソン氏は、裁判が公正である事を示すために一人無罪になる者を入れようとして、私を被告人にしたのだよ」などと語っていた[38]。
裁判の証人席にたった被告人のうちシャハトだけがドイツ語ではなく英語で証言した[5]。
シャハトについてソ連判事イオナ・ニキチェンコ(ru)は有罪を主張し、アメリカ判事もニキチェンコに同調したが、イギリスとフランスの判事が無罪を主張した。結局ニキチェンコの反対にもかかわらず、再軍備計画自体は犯罪ではないとしてシャハトは無罪となった[34][39]。
戦後
その後シュトゥットガルトの非ナチ化裁判にかけられ、第一審では「主要戦犯」として労働奉仕8年の刑を受けたが、1948年9月2日に上告審で無罪判決を受け釈放された[34]。
釈放後はデュッセルドルフ銀行でブラジル、エチオピア帝国、インドネシア、イラン帝国、エジプト、シリア、リビアなど発展途上国の経済・財政に関するアドバイザーとして活動した[34]。1970年にミュンヘンで死去した[34]。
邦訳著書
- 『戦時経済とインフレーション――ドイツ・マルクの混乱より安定まで』(越智道順訳, 叢文閣, 1935年)
- 『ナチス戦時経済講話――戦費と財政政策』(共著, 中屋則義訳, 八元社, 1940年)
- 『我が生涯(上・下)』(永川秀男訳, 経済批判社, 1955年)
- 『イギリス重商主義理論小史』(川鍋正敏訳, 未來社, 1963年)
- 博士論文を公刊したもの。原著1900年
参考文献
- 林健太郎著『ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの』、1963年、中公新書、ISBN 978-4121000279
- ウェルナー・マーザー著『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』西義之訳、TBSブリタニカ、1979年
- ジョゼフ・E・パーシコ(en)著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(上) 』、原書房、1996年
- ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(下) 』、原書房、1996年
- 成瀬治、山田欣吾、木村靖二著、『ドイツ史〈3〉1890年~現在』、1997年、山川出版社、ISBN 978-4634461406
- 阿部良男著、『ヒトラー全記録 :20645日の軌跡』、2001年、柏書房、ISBN 978-4760120581
- ロベルト・ヴィストリヒ(en)著、滝川義人訳、『ナチス時代 ドイツ人名事典』、2002年、東洋書林、ISBN 978-4887215733
- レオン・ゴールデンソーン著(en)、小林等・高橋早苗・浅岡政子訳『ニュルンベルク・インタビュー(上)』、河出書房新社、2005年
- テンプレート:Cite book
- Charles Hamilton,"LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1",R James Bender Publishing,1996,ISBN 9780912138275(英語)
- テンプレート:Cite journal
- テンプレート:Cite journal
脚注
関連項目
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ルドルフ・ハーヴェンシュタイン(de)
ハンス・ルター
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagiconテンプレート:Flagicon ライヒスバンク総裁
1923 - 1930
1933 - 1939
|style="width:30%"|次代:
ハンス・ルター
ヴァルター・フンク
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
クルト・シュミット(de)
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon ドイツ国経済相
1934 - 1937
|style="width:30%"|次代:
ヘルマン・ゲーリング
- 転送 Template:End
テンプレート:ヒトラー内閣 テンプレート:ニュルンベルク裁判被告人
テンプレート:Normdaten- ↑ ゴールデンソーン、上巻172頁
- ↑ 2.0 2.1 ヴィストリヒ、92頁
- ↑ ゴールデンソーン、上巻171頁
- ↑ 4.0 4.1 Hamilton,p331
- ↑ 5.0 5.1 パーシコ、下巻183頁
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 6.7 6.8 6.9 LeMO
- ↑ 7.00 7.01 7.02 7.03 7.04 7.05 7.06 7.07 7.08 7.09 7.10 7.11 7.12 7.13 7.14 7.15 ヴィストリヒ、93頁
- ↑ 林、97頁
- ↑ 9.0 9.1 阿部、91頁
- ↑ 林、104頁
- ↑ 林、105頁
- ↑ Deutsches Historisches Museum, Biographie: Rudolf Hilferding. http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/HilferdingRudolf/index.html
- ↑ 13.0 13.1 阿部、105頁
- ↑ 阿部、106頁
- ↑ 林、104-105頁
- ↑ 阿部、107頁
- ↑ 阿部、108頁
- ↑ 18.0 18.1 林、117頁
- ↑ 阿部、152頁
- ↑ 20.0 20.1 阿部、154頁
- ↑ 林、143頁
- ↑ 22.0 22.1 阿部、155頁
- ↑ 林、146頁
- ↑ 阿部、160頁
- ↑ 阿部、163頁
- ↑ 阿部、219頁
- ↑ 阿部、224頁
- ↑ 成瀬・山田・木村、232頁
- ↑ 阿部、282頁
- ↑ 成瀬・山田・木村、234頁
- ↑ 栗原(1997) p.30
- ↑ 成瀬・山田・木村、233頁
- ↑ 阿部、403頁
- ↑ 34.0 34.1 34.2 34.3 34.4 34.5 34.6 ヴィストリヒ、94頁
- ↑ マーザー、77頁
- ↑ レナード・モズレー著、伊藤哲訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、1977年、早川書房 166頁
- ↑ パーシコ、上巻166頁
- ↑ パーシコ、下巻182-183頁
- ↑ パーシコ、下巻261頁