中隊

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NATO軍の歩兵中隊を表す兵科記号

中隊(ちゅうたい)は、軍隊の部隊編成の単位で、小隊の上、大隊の下に位置する。一般的には歩兵なら約200人、砲兵では4門か6門だが、兵科、装備、時代によって規模はさまざまである。

西洋語では兵科によって異なる語を当てる。英語にすると、歩兵と工兵の中隊はCompany、砲兵はBattery騎兵戦車装甲車troopヘリコプターなどの部隊はsquadronである(squadronは、空軍海軍航空隊飛行隊の意味もある)また、警察機動隊など)や消防などにも中隊単位の編成がされる場合もある。

テンプレート:陸軍の単位

概説

20世紀始めまでの近代陸軍では、部下の兵士全員を自分の声が届く範囲内において指揮する最上位の指揮官が中隊長であった。戦場における直接戦術指揮は中隊長が執り、具体的にどの敵を攻撃するかを選択したり、前進の速度と方向を調整したりする命令は中隊長が発した。小隊長以下は戦術判断をすることなく、一丸となっての集団行動だけが求められた。

20世紀に歩兵の散兵化が進むと、部隊の行動単位は細分化し、中隊長が全てを掌握する方式は自ずと放棄された。他方、砲兵においては中隊単位の射撃管制がその後も維持された。

このように役割は変化してきたが、中隊の構成人数は、おおむね100~230人(平均150人)の範囲に収束している。これは、著明な進化生物学者であるロビン・ダンバーによって提唱されたテンプレート:仮リンクにほぼ合致する人数である。ダンバー数はそれぞれと安定した関係を維持できる個体数の認知的上限とされている。

なお、海軍海上自衛隊)では、の指導監督及び身上取扱に関して分隊長が、陸軍陸上自衛隊)で言う中隊長に近い役割を果たす。

旧日本陸軍

中隊の定員

明治23年11月1日制定時の「陸軍定員令」(明治23年11月1日勅令第267号)によると、当時の各兵科の連隊及び大隊における中隊の平時定員は次の通りであった。

歩兵連隊の中隊

明治23年11月1日制定時の「陸軍定員令」(明治23年11月1日勅令第267号)によると、当時の歩兵連隊における中隊の平時定員は次の通りであった。歩兵連隊の中隊長には乗馬の割当てはなかった。歩兵中隊は、将校5名、下士10名、兵卒120名、看護手1名の136名からなっていた。

  • 将校
  • 下士官
    • 曹長(1名)
    • 一等軍曹(5名):内1名は給養掛の分課。
    • 二等軍曹(4名)
  • 兵卒:内4名は喇叭手。一等卒及び二等卒中には、縫工卒2名、靴工卒2名を含む。
    • 上等兵(16名)
    • 一等卒(36名)
    • 二等卒(68名)
  • 看護手(1名)

平時編成歩兵中隊の幹部

今次大戦中の内地にある平時編成の歩兵中隊の幹部は次のような構成となっていた。

中隊長(大尉)、本部の諸委員(兵器・経理など)を兼務することがある

中隊附将校(中尉少尉3~4名)、初年兵教育掛・古兵教育掛・本部勤務・諸委員など適宜分担

人事掛(准尉、以前は特務曹長)内務掛と称することもある

経理掛ないし給養掛(曹長)庶務掛と称することもある

兵器掛(軍曹

被服掛(軍曹)

陣営具掛(軍曹ないし伍長

内務班長(軍曹)数名(平時定員が150名程度なので、1~5班くらいと考えられる)

内務班附(伍長)1班につき1~2名程度

週番下士官(軍曹ないし伍長)中隊附下士官が輪番で就き、部隊の週番司令(佐官級の宿直主任将校)の指揮下にある。

准尉・曹長が複数いる場合は、人事掛以外の准尉に馬掛・演習掛・教育掛などを適宜担当させ、兵器掛が曹長であることがあった。准尉・曹長複数あるのは動員部隊用に幹部を増員したことがあったため。 中隊附将校が不足している場合は、見習士官に少尉の代行をさせた。見習士官は士官学校予備士官学校から部隊に派遣されてくる士官待遇の生徒(階級は曹長で下士官中の先任とされる)で、文字通り中隊で幹部の実務を見習うのが仕事である。見習士官は部隊実習の任期途中から将校勤務となり、階級は曹長であるが准尉の上位者となる。 また中隊内には幼年学校生徒(下士官ないし上等兵待遇)が派遣されてきて、部隊下士官の実務を実習することがある。

「幹部」は将校・准士官・下士官の総称である。下士官のうち中隊附諸官に挙げられているのは経理掛(ないし給養掛)と兵器掛がそれであって、他の掛や内務班長は中隊附諸官とは云わない。なお中隊の掛や班に属さない下士官もあり、大隊本部や聯隊本部ないし部隊外の諸機関に勤務していたり、学校・教導部隊に分遣されていたりすることがある。この場合も籍はあくまで中隊の所属となっている。

執務場所は、中隊長が中隊長室(個室)、将校は中隊の将校室(1部屋雑居)、准士官・下士官は中隊事務室、准尉は人事を扱うため面接などに使う個室を別に持つ場合がある、兵器掛は中隊兵器庫、被服掛は中隊被服庫で助手や使役の兵隊を指揮監督していることが多い。内務班長・班附下士官は内務班の隣に下士官室を持ち、下士官のみで雑居している。中隊には食事から給与・被服・兵器・陣営具と金銭・物品会計の事務があって、准尉・曹長は専ら机にしがみついて、これらに必要な書類・計算を正確に処理しなければならず、これに動員下令があると処理量は倍増し、非常に繁忙となった。各掛には助手の上等兵が附くが、読書算盤の達者な一等兵以下を使役兵として事務室勤務にすることも行われていた。また、お茶汲として中隊長室・事務室には当番がつけられた。

平時の幹部は全員が現役軍人であるのが原則だが、戦時になり動員令が降(くだ)ると、予備役の将校准士官下士官が大量に応召してきて、現役幹部の占める率は急激に減ずる。昭和12年以降は動員部隊が急激に膨張したため、むしろ内地の留守部隊においては現役将校が珍しい存在となっていく。終戦近くになると、幹部不足のため大隊長を大尉、中隊長を中尉が務めることが多くなってしまう。尉官の進級は年功序列となっているので、中隊長は30歳を越えている場合が多く、少佐になっても佐官は抜擢進級となるので、陸軍大学校を出ない者は中少佐で現役定限年齢(いわゆる定年)を迎えて予備役編入(退職)となることが多かった。そのまま下士官から進級してきた准士官の現役准尉になると30歳代後半の老巧者(予備役編入は40歳)が多かった。

下士官も予備役応召の下士官適任証を持つ上等兵が「志願にあらざる下士官」として伍長を命ぜられ、そのまま復員・応召を幾度も繰り返して進級していく例が多くなる。平時は上級者がつかえているので30歳を越えないと准尉まで進級するのは難しかったが、戦時には現役優秀者で29歳くらいに准尉に進級することがあった。

生活は現役軍人の給与がインフレに対応しきれず、昭和に入ってからは総じて貧乏であり、役所の文官の給与にあてはめれば、だいたい中隊長が本省係長(警察で云えば警部)、将校・准士官は本雇いの係員(警部補)、下士官は雇員(巡査部長・巡査)の水準と考えられる。特に下士官は任期制で、任期ごとに現役志願を繰返す方式であった。任期の切れた時に民間に転職する者も多くあり、世の中の景気の良い時は下士官が不足すると云う現象が起きた。

下士官は原則として営内居住であり、曹長・古参の軍曹には中隊兵舎内に個室が与えられた。古参の曹長は願出れば営外居住が認められた。その住まいは下宿や間借が多く、准尉になって給与が上がると、やっと一戸建ての借家に入ることができた。中少尉はやはり下宿か間借が多く、大尉になると体裁上からも借家に移る者が多い。これは戯言に「貧乏少尉、遣繰り中尉、やっとこ大尉」と云われていた。将校の被服・個人携帯兵器(軍刀拳銃双眼鏡など)は、少尉になった時の任官手当を除いて、それ以降は自弁であり、家計を遣繰りして調達しなければならなかった。

将校は転勤があり、他の師団管区に移ることがあったが、下士官は現地採用者であり原隊から移動することは稀で、他部隊に移ることはあるが、それは同一師団管区内もしくは戦時に編成される動員部隊となることが原則であった。 なお関東軍の満州事変以前の鉄道守備隊の下士官兵は全国各地の予備役のうちから志願した者から成っており、例外とされる。

なお「私的制裁」であるが、幹部はこれに関与することは原則としてなく、専ら古参兵が初年兵を苛めるものと、内務班の初年兵掛(上等兵ないし兵長)が任務の必要から新兵に教育的指導を施すものとがあった。私的制裁禁止の達示は上層部から何度か出ているが、准尉や内務班長がきちんと統制しないと徹底しないことがあった。また、准尉そのものが「近頃の初年兵はたるんどる」と云い暗に締上げを示唆することもあった。また、地方によっては私的制裁の伝統がまったくない部隊もある。地方ごとの若者宿の伝統的な苛め儀式が、そのまま兵営に持込まれたとする見方もある。

陸上自衛隊

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普通科中隊旗(甲)で3等陸佐が中隊長の指定職である部隊、普通科連隊の隷下中隊や師団等直轄の普通科職種中隊等はこの旗が授与される

陸上自衛隊普通科連隊には、大隊が置かれず、普通科連隊のすぐ下に普通科中隊等が置かれている。そして、状況に応じて中隊戦闘群(これは諸兵科連合部隊で、規模は大隊に匹敵する。見方によってはこれを大隊結節と見る事もできる)を編成することがあるため、3等陸佐(少佐相当。一般的には中隊長ではなく大隊長に充てられることが多い)と比較的高位の階級の自衛官が当てられることもある。特科大隊隷下の射撃中隊においては最小の部隊単位であり、指揮官職である中隊長及び中隊旗(乙)が充てられているとはいえ、その人員等の規模は普通科でいう小隊規模の編成である。

中隊本部の構成

中隊長 
3等陸佐又は1等陸尉が充てられる。一部部隊は指揮運用の都合(主に駐屯地司令兼務若しくは希であるが在任中に昇任)により2等陸佐が充てられる[1]。特科連隊(群)等の大隊隷下射撃中隊長に限り2等陸尉が充てられる場合もある。(1尉補職の中隊長職のための特例、殆どの場合は在任中に1尉に昇任する)
副中隊長(任意的) 
陸尉准陸尉を含まない)が充てられる。中隊長の補佐・不在時における代行等が職務である。主に師団(旅団)等直轄部隊及び重要視される部隊、部隊規模が大隊規模に準ずる中隊、連隊等とは本隊とは遠方に配置された中隊に配置。具体的な運用例等は第9普通科連隊を参照。運用訓練幹部として勤務していた1尉職の自衛官が中隊長と同一の階級である3佐職に昇任した場合は、自動的に副中隊長職に指定される場合もある。(定期異動するまでの暫定扱い)また、中隊長が駐屯地司令を兼務する場合、副中隊長は3佐の階級を指定された自衛官が上番する[2]
係幹部 
中隊に勤務する幹部又は准陸尉が、中隊長から中隊の業務を割り当てられる。中隊長等の命を受け、分担させられた業務区分に応じ、その業務の実施につき係陸曹陸士及び営内班長を指導監督する。運用訓練幹部などが置かれている。

通常は「運用訓練幹部」・「後方幹部」・「1~4小隊長」等編成上必要とされる役職を指定される。

中隊付准尉(現在は上級曹長) 
准陸尉~1等陸曹が充てられる。通常は「先任」と呼ばれる。命令又は会報の伝達責任者でもある。中隊若しくは隊(科)等、隊本部における最上級陸曹である。部隊内における営内者の外出権限において中隊長の次に権限を持つ。(実質的には外出申請において最終的に捺印される関係で最高権限がある)

中隊長

中隊は、部隊構成単位上、基本的な役割を果たすものであり、中隊長には幹部任官後数年以上を経た者が就くことから、中隊長には様々な権限が与えられている。

  • 服務指導:中隊長等は、営内服務にあたっては、部下と真に一体となって率先垂範に努め、隊員相互の親和を助長し、もって中隊長等を核心として強固に団結した中隊等をつくり上げなければならないものとされている[3]
  • 懲戒権:その指揮監督下にある自衛官に対し懲戒処分を行うことができる部隊長としては最小単位のものである。幹部自衛官に対しては戒告、准尉、曹又は士たる自衛官に対しては、軽処分を行うことができる[4]
  • 外出許可権:中隊に勤務する自衛官に対する外出許可権を有する。(但し、この許可権は建前で本音としては中隊付准尉や先任陸曹に捺印の面で委譲している)なお、自動車教習所への教育入校や隷下小隊が他駐屯地に移駐している場合に限り、当該部隊長若しくは隷下小隊長に外出に関する権限を委譲する場合もある。部隊が中隊に準ずる隊編成若しくは部隊隷下に中隊が設置されていない1佐職の隊長が指揮官の部隊においては当該部隊長がその許可権を持つ[5]

アメリカ軍

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米軍ライフル中隊の編成(1941)
歩兵野戦教範「INFANTRY FIELD MANUAL(2 JUN 1941)」より

第二次世界大戦におけるアメリカ軍では歩兵中隊は小銃小隊3個と火器小隊1個を基幹として編成されていた。中隊単位でも迫撃砲と機関銃による火力支援を持っている。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 駐屯地司令職兼務により2佐が上番する場合、序列上は隷属部隊の副隊長の下位になるが、業務車が配当され通勤時に使用する
  2. 原則論としては陸尉が指定されるものの、中隊長が駐屯地司令職を兼務する場合2佐が中隊長の指定階級となる事から副中隊長職は3佐若しくはそれに準ずる序列の1尉が指定されている。また、司令部付隊の場合1尉に準ずる序列の2尉職の幹部が副隊長職を兼ねる場合もある
  3. 陸上自衛隊服務規則(昭和34年9月12日陸上自衛隊訓令第38号)第11条第1項
  4. 任命権に関する訓令(昭和36年2月3日防衛庁訓令第4号)第48条
  5. 陸上自衛隊服務細則(昭和35年4月30日陸上自衛隊達第24-5号)第60条

関連項目

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