秋田明大
テンプレート:Infobox 革命家 秋田 明大(あきた あけひろ、(あきた めいだい)、 1947年1月2日- )は、日大紛争時の日大全共闘議長。元・全国全共闘連合副議長。広島県安芸郡倉橋町(合併により呉市に編入)出身。
経歴
戦後生まれであり、団塊の世代として育つ。1965年(昭和40年)、崇徳高等学校卒業後、日本大学経済学部に入学。1966年(昭和41年)、大学2年の時にサークル社会科学研究会(社研)に所属、最初は水泳サークルであり、マルクスもレーニンもかじっただけだったという[1]。日本大学4年生の時の1968年(昭和43年)5月27日、20億円を越える大学側の経理不正問題の表面化をきっかけに教職員組合、父兄会をも巻き込み、全国一の動員を誇った日大闘争を指揮する全学共闘会議議長となり、やがて全共闘は日大を超えて全国に広まることになる秋田明大「まだ何もしていない」。1968年(昭和43年)9月、両国講堂で3万人の学生と共に日大トップの古田重二良(日大帝王と呼ばれて理事長や会頭を歴任していた)を糾弾後、潜伏した。大学当局に対して一定の成果を得たかに見えたが、大学側が導入した機動隊の前に次々と拠点を失い、先鋭化した日大全共闘にも一般学生、父兄会の指示が離れていき、孤立を深めることとなった。翌年の1969年(昭和44年)3月12日、公務執行妨害などの容疑で秋田が逮捕された。これ以降全共闘運動は急速に衰退していった。また、この日大闘争では機動隊に向かって、重さ約16kgのコンクリートの塊が校舎の4階から落とされ、頭に直撃させられた機動隊員の西条秀雄巡査部長が殉職する事件が起こっている[2]。
運動終息後は土木作業員、自作詩集の立ち売りなどをする。東京キッドブラザースの主宰・東由多加が秋田に興味を持ち交流を深め1975年(昭和50年)、東が監督した映画『ピーターソンの鳥』に主演した。珍鳥を発見することだけに熱中する青年の話で、悠木千帆とのベッドシーンや、鰐淵晴子、坪田直子とラブシーンなどもした。しかし映画の評判が芳しくなかったこともあって東とは喧嘩別れする形となった。翌年の1976年(昭和51年)には、キングレコードからシングル「あほう鳥」(作詞は東と交流があった岡本おさみ、作曲は加藤登紀子。B面は「砂の唄」)を発売。
その後、郷里の広島県呉市音戸町に帰り、自動車修理工場を経営。最初の妻との離婚後は生活が荒れ、数年前に結婚紹介所を通じて知り合った20歳年下の中国人妻と再婚し、4歳の息子と3人暮らし(産経新聞2008年5月)。
かつては運動には2度と関わらないような言動もあった。
1994年(平成6年)に全共闘白書編集委員会によって行われた全共闘参加者へのアンケート調査に寄せた回答では以下のように答えている。
- もう一度「あの時代」に戻れたら運動に参加するか→「しない。アホらしい」
- 運動による損害→「有名になったこと」
- 運動を離れた主因→「別にないが強いて言えば生活」
- 当面の最重要課題→「生活」
近年は2007年(平成19年)に国民投票法に反対する運動や山本義隆とともに9条改憲阻止の会への賛同人として名を連ねているように、思いが変わったのか再び表に出るようになっている。 2008年(平成20年)7月12日号の図書新聞(2877号)で、「秋田明大に聞く1960年代・1970年代を検証する」と題したインタビュー記事が掲載された。(インタビュアーは小嵐九八郎) 日大全共闘は自由を求めて闘った、といい、また「日大全共闘の闘いは大きな失敗はなかった」と思いを述べている。「死ぬときは、私の人生は全共闘だったといえばいい」という締めくくりで終わっている。
著作
参考文献
- 『KIDぼくらの時代』森永博志編集、八曜社、1977年
- 『地球よとまれ、ぼくは話したいんだ』東由多加著、毎日新聞社、1977年
- 『旅に唄あり』岡本おさみ著、八曜社、1980年
- 『新宿、わたしの解放区』佐々木美智子 岩本茂之著、寿郎社、2012年
- 『毎日ムック―シリーズ20世紀の記憶:1968年 バリケードの中の青春』西井一夫編、毎日新聞社、1998年
- 産経新聞、2008年5月16日、25頁―さらば革命的世代③秋田明大