名古屋鉄道

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テンプレート:Infobox 名古屋鉄道株式会社(なごやてつどう、英称Nagoya Railroad Co., Ltd.)は、愛知県岐阜県を基盤とする大手私鉄である。通称、名鉄(めいてつ、英称:Meitetsu)。本社は愛知県名古屋市中村区名駅一丁目2番4号、近鉄名古屋駅に隣接する名鉄名古屋駅上に設けた名鉄バスターミナルビル名鉄百貨店本店メンズ館ビル)内に置いている。

本業の鉄道業では、愛知・岐阜両県に総営業距離では近鉄東武に次いでJRをのぞく日本の私鉄第3位の444.2km[注釈 1]にもおよぶ路線網、275駅を擁する(詳細は「路線」節を参照)。年間利用人員は、のべ3億6,148万9,000人(2014年3月31日時点)[1]、旅客車両数は1,060両(2013年3月31日時点)[2]である。

コーポレート・スローガンは「ココロをつなぐ、あしたへはこぶ。」。

目次

概要

名古屋鉄道は東海銀行(現:三菱東京UFJ銀行)・中部電力東邦瓦斯(東邦ガス)・松坂屋(現:大丸松坂屋百貨店)と共に名古屋経済界の中核名門企業、旧「五摂家」の1社に数えられ[3]中部地方を中心に数多くの不動産を所有する企業であり、これらの「開発事業」も経営の重要な柱となっている。レジャー・流通産業など関連事業を中心に多角的な企業展開を行っており、連結決算の対象・非対象併せて200社以上のグループ企業がある。

2005年に開港した中部国際空港空港連絡鉄道として乗り入れる唯一の鉄道会社である。

営業路線の詳細は「路線」の節を、その他の詳細は以下の各記事を参照。

沿革

創業・黎明期

現在の名古屋鉄道は、太平洋戦争の終結以前に中京圏の多くの鉄道会社が合併して成立したものであるが、その起源は1894年(明治27年)6月に名古屋市内で馬車鉄道を運行する名目で設立された企業の愛知馬車鉄道である。

名古屋電気鉄道

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ファイル:Nagoya-dentetsu Route Map 02.PNG
名古屋電気鉄道“郡部線”(1921年6月)

愛知馬車鉄道は当初、馬車鉄道を敷設するための特許を得ていたが、計画を電気鉄道に変更し、1896年(明治29年)に名古屋電気鉄道に社名を改めた。1898年(明治31年)には、京都電気鉄道(後に市営化され京都市電となる)に次ぐ日本で2番目の電車運行を開始。以後、同社は市内各所へ網の目のように路線網を構築していった。1912年(大正元年)には初の郊外路線(郡部線)を開業させ、以降は尾張北中部の各市町と名古屋市を結ぶ郊外路線を充実させていった。

1921年(大正10年)、市内線の市営化が決定する。その前段階として名古屋電気鉄道は6月に郊外線部門を引き継ぐ(旧)名古屋鉄道を新たに設立し、第二の創業とした。翌1922年(大正11年)8月には名古屋市電気局(後の名古屋市交通局)へ市内線部門を乗務員ごと譲渡して名古屋市電が発足し、(旧)名古屋鉄道の発足後も市内線の営業を続けていた名古屋電気鉄道は解散した。なお、市営化後も柳橋 - 押切町間の郊外線から市内線への乗り入れ(営業権)は、譲渡条件として保持されたまま(当該区間は市営・名鉄の二重免許区間)であった。

その後(旧)名古屋鉄道は、名古屋電気鉄道当時はおまけのような存在であった郊外線部門を生かす形で名古屋市と岐阜市という2つの大都市を直結する都市間路線を形成することを目論み、1928年(昭和3年)4月10日にはその第一歩として名岐線の丸ノ内 - 西清洲(現・新清洲)間を開通させたことにより、押切町 - 新一宮(現・名鉄一宮)間が開通した。

1930年(昭和5年)8月、岐阜市周辺の路面電車などを経営していた美濃電気軌道を合併した(旧)名古屋鉄道は、名岐間輸送を社の重点目標としたことから、合併翌月に社名を名岐鉄道と改称した。この時点で開通していたのは押切町 - 新一宮間および笠松(現・西笠松) - 新岐阜(現・名鉄岐阜)間であったが、木曽川橋梁の完成に伴い1935年(昭和10年)4月29日に新一宮 - 笠松間が開通し、押切町 - 新岐阜間が全通している。

愛知電気鉄道の発足

テンプレート:Main 1909年(明治42年)には、名古屋以西の路線(名古屋本線東枇杷島駅以西・犬山線など)を建設していた名古屋電気鉄道に対し、以東の路線(名古屋本線の神宮前駅以東・常滑線など)を建設することになる愛知電気鉄道が設立された。

愛知電気鉄道(愛電)は、1910年に知多半島西岸の振興と、それまで舟運に頼っていた常滑焼など特産品の効率的な運送を図るために設立された鉄道会社で、1913年に現在の常滑線を全通させ、続いて旧東海道沿いに名古屋市と三河地方との連絡を意図した路線(豊橋線、現在の名古屋本線神宮前駅以東に相当)の建設を開始した。一方、官設鉄道(後の国鉄・現JR)東海道本線以外に、私鉄による第2幹線を建設しようと東海道電気鉄道が設立され、愛知郡御器所村(現名古屋市昭和区)から豊橋市に至るまでの路線免許を得て、さらに豊橋市から浜名湖北岸をまわり浜松市に至る計画を持っていた遠三電気鉄道にも出資していたが、その最大の資本提供者で過去に日本電気鉄道(東京 - 大阪間電気鉄道敷設計画)の計画も推し進めていた安田善次郎が1921年に暗殺されたため、計画は宙に浮くことになった。

そのような状況下、東海道電気鉄道の創設者であり、かつて愛知電気鉄道の2代目社長を務めた福澤桃介福澤諭吉娘婿)は、愛知電気鉄道に対して救済合併を申し入れ、愛知電気鉄道側もこれを承諾し、東海道電気鉄道は愛電に吸収合併された。その後、愛知電気鉄道は東海道電気鉄道計画を継承し、当時有松裏駅(現・有松駅)まで開通していた愛電有松線を延伸する形で、豊橋方面への路線の建設に着工した。東海道電気鉄道は当初から画期的な高速鉄道を目指しており、豊橋線はそれに見合う高規格で建設され、1927年(昭和2年)6月に吉田(現・豊橋)までの全線が開通した。この豊橋線は当時の愛知電気鉄道の資本金総額を上回る莫大な建設費用を投じて建設されたことから、この設備投資による負債が経営を圧迫し、さらに当時の日本はアメリカに端を発した世界恐慌による強烈な不況風が全国に吹き荒れていたこともあって、愛知電気鉄道は深刻な経営難に陥った。その後、景気回復と3代目社長である藍川清成以下経営陣の尽力によって、愛知電気鉄道は経営危機を脱している。

「名鉄」発足の経緯

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発足当時の名古屋鉄道(1935年8月)

現在の名鉄は、1935年(昭和10年)に、名岐鉄道(名岐)と愛知電気鉄道(愛電)が合併して発足したものである。

合併前の名岐・愛電の両社は、名岐が名古屋式経営と称される多くの内部留保を抱える無借金経営を行っていた一方、愛電は積極的な設備投資に起因する負債(当時の金額で226万円)を抱えていた。もっとも、経営規模・払込資本金額・経常利益・株式配当といった経営規模・財務内容はほぼ同等であった。

それまでの両社は、三重県方面への進出(伊勢電気鉄道の買収工作)や名古屋地下鉄道の運営方法など、当地域の鉄道運営の主導権を巡って対立することも多かったが、当時の日本は世界恐慌を境として、大陸(現在の中国など)への進出・利権を廻って欧米列強との対決(戦時)色が強くなり始めた頃であり、民間企業の間では国内(同一民族間)での競争・対立を止めて協調・合同(民族団結)へ向かう機運が次第に高まった時代であった。合併話が持ち上がった時点では、陸上交通事業調整法や戦時立法の国家総動員法も構想段階であったが、当地の交通事業を再編・統合して安定した鉄道輸送を図るべく、名古屋財界の有力者を中心に民間主導の型で検討・折衝が進められることとなった。

当初は両社とも合併には消極的で、特に名岐側は企業体質が全く異なる愛電との合併に対して強い拒否反応を示したとされる。その後も名岐は「自社が愛電を合併する」という形態に拘り、最終的に名岐鉄道を存続会社として愛知電気鉄道は解散し、合併後の新会社の社長には当時の名岐社長であった跡田直一が就任し、愛電社長の藍川は副社長となることが内定した。合併比率は名岐1対愛電1の対等合併とされた。

合併期日は1935年(昭和10年)8月1日と決定したが、新会社の社長就任が内定していた跡田が同年7月17日に死去したため、急遽藍川が繰上がる形で現・名古屋鉄道の初代社長に就任した。このことを指して、旧名岐の社員からは「愛電による名岐乗っ取り」との声も聞かれたという。旧名岐の社員であった土川元夫(後に名鉄社長・会長を歴任)は自身の自叙伝において、合併契約により取締役に次ぐ上級部長職である理事職(現在の執行役に近い職位)の割り当てを受けていたが、合併後に「お前はまだ若いから」との藍川の一言で降格され、他の旧名岐社員も同様に左遷されたことを振り返っている。

両社の合併によって現・名鉄という中核企業が発足した愛知・岐阜両県では、陸上交通事業調整法施行後も法律(強制統合)の直接的な対象とはならず、名鉄を中心とした鉄道事業者統合は、戦時体制への移行という時流の要請に沿って、その多くが事業者間の合意によって自発的に行われた。これは周辺の鉄道事業者の多くが名鉄と資本的な繋がりを有する、または名鉄の子会社であったことが最たる要因として挙げられる。もっとも、名鉄と資本的繋がりを持たない独立系事業者であった瀬戸電気鉄道および三河鉄道の合併に際しては交渉が難航し、後者については鉄道省による仲介の末、ようやく合併に漕ぎ着けている。

戦中・戦後の動き

合併後の名鉄は最初の課題として、旧名岐鉄道路線(西部線)と旧愛知電気鉄道路線(東部線)の連絡線建設を進め、省線(当時、現JR)名古屋駅の移転跡地を譲受し、そこに新ターミナルとして地下駅の新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)を建設・開業し、新生名鉄(東西連絡)のシンボルとした。

新駅には手狭になった西部線のターミナル押切町駅を置き換える目的もあったため、まず西部線から建設を進め、次第に物資統制が厳しくなる中にあって1941年(昭和16年)に完成・開業させ、その後、東部線のターミナル神宮前までの路線建設に着手し、1944年(昭和19年)に連絡線が開通した。その間、太平洋戦争の開戦など情勢は日増しに悪化する中、戦時緊急整備路線の指定を受けて鉄道省(当時)の全面的な協力を得たものの、それでさえ建設資材の調達には困難をきわめ、不用不急路線・設備の転用を図り、さらには新名古屋 - 山王間の高架橋部分を一部木材で代用するなど、急場しのぎの工事であった。また、線路は一応繋がったものの、当初同時期に予定された西部線の昇圧工事はこの情勢では見送らざるを得ず、金山駅を境にして以西は架線電圧が600Vに据え置かれ、結局、架線電圧が1500Vの東部線とは直通運転ができないままに終戦を迎えた。なお、当初計画では、新名古屋駅地上には本社を兼ねた駅ビルの建設も予定していたが、情勢悪化を受けて基礎部分の対応工事のみに留められた。

終戦直後は、名鉄も他の各私鉄・国鉄(当時)と同様に車両や設備の疲労・消耗が激しく、定時運行も侭ならない、さらには満足な資材とて揃わない中ではあったが、いち早く西部線の主要各線を東部線と同じ1500Vへ昇圧する工事に着手し、東西路線の一体化を戦後復興の第一目標に据えて取り組んだ。この結果、戦災の傷が未だ癒えない1948年(昭和23年)には第一次の昇圧工事が完成し、新岐阜(現、名鉄岐阜)・新鵜沼・津島 - 新名古屋 - 神宮前 - 豊橋・常滑間などが一体的に運営(直通運転)されるようになり、現在の運行形態の基礎が出来上がった。

なお、合併前の1929年(昭和4年)にも先述の「名古屋地下鉄道」として直通路線の構想は存在したが、着工までに至らなかった。

名鉄グループの形成

ファイル:MEITETSU Department Store - Head Store - 01.JPG
名鉄名古屋駅・名鉄百貨店本店

戦後の混乱が収まるに連れて、名鉄も他の大手私鉄と同様に事業の多角化を図るようになり、その手始めとして、戦時中に計画が頓挫していた新名古屋駅(現、名鉄名古屋駅)の駅ビル建設に着手して百貨店を併設した。当初の計画では、地元の老舗百貨店松坂屋にテナントとしての出店交渉を進めたが不調に終わり、自前での百貨店経営を決意して、電鉄系百貨店の元祖である阪急百貨店の全面的な協力[注釈 2]を得て1954年(昭和29年)12月に名鉄百貨店を開業し、流通業界へ進出する足掛かりとした。その後も沿線の団地を手始めに名鉄ストアー[注釈 3]を開業して、駅の改修に併せて順次出店を進めた。

1960年代になると、沿線各地の開発をはじめ、北陸地方への進出を図るため、現地の鉄道会社を中心に提携を持ち掛けて行った。手始めに福井鉄道を傘下に収め、当時、労働争議で揺れていた北陸鉄道へは労務管理のスペシャリストを派遣して徐々に労使の意識を「名鉄グループ」寄りへと導いていき、後に傘下入りさせるなど、経営に深く関わって行った。富山地方鉄道に対しても経営(資本)参加を持ち掛け、中古車両(3800系=富山地鉄14710形)の融通や看板列車「北アルプス号」の立山駅乗り入れなど様々な経営支援を行ってグループ内への取り込みを図ったものの、良好な会社関係の構築以上には進展せずに終わり、結果として富山県への進出は1980年頃と大幅に出遅れることとなった。

他の地域への進出は名鉄側からアプローチしたものよりも、先方から経営参加を呼び掛けられる例が多かった。前述の北陸鉄道の争議終結によって「労務管理の土川(名鉄)」と当時社長であった土川元夫の評判が地方交通事業者の間で一気に広がり、経営に行き詰った会社が「立て直し」を依頼するケースが相次いだ。その代表例としては宮城交通網走バスなどが挙げられ、それまで東北・北海道には進出の足掛かりも無かっただけに、名鉄側も積極的に応じた。また、海外への進出も手掛けるようになり、香港サイパンミクロネシアには現地法人(観光施設・ホテルなど)を次々に立ち上げていった。

変わったところでは、名鉄本体から現業(保守)部門を分社化する形で独立させた事業がある。鉄道の車両保守部門を分社化した「名鉄住商車両工業」[注釈 4]、信号部門を独立させた「名古屋電子エンジニアリング」、バスの整備部門をグループのトラック・タクシーや一般車(自家用車)にも開放した「名鉄自動車整備」など、従来の鉄道・バス関連の保守事業で培った技術を使い、他社・一般向けの仕事も請負うことで独立採算制を確立させるなど、ユニークな試みも行われた。また、分社化に際しては名鉄の100%子会社とはせず、それぞれ関係の深かった取引先からも出資を募って『合弁企業』の形態を取った例[注釈 5]も多く、その点でも、昨今の私鉄各社に見られる保守部門等の分社化とは一線を画すものであった。

本業への回帰

1973年(昭和48年)のオイルショックを境に低成長時代となり、名鉄も事業計画を大幅に見直さざるを得なかった。喫緊の課題として自家用車から転移した影響による通勤客の著しい増加に対応するため、事業投資も路線・車両・駅施設の整備など本業優先となり、本格的な「大都市圏鉄道」へと脱皮を促すきっかけとなった。それまでの名鉄は快適な車内設備(クロスシート車)にこだわり、いわゆる『通勤型車』(3扉以上のロングシート車)を持たない[注釈 6]大手私鉄として有名であったが、東急から純通勤車(3880系=東急3700系)を緊急導入したのをきっかけに、1976年(昭和51年)以降は本格的な『通勤車』の導入(6000系)を開始し、朝夕の通勤輸送に本腰を入れて取り組むようになった。他にも、名古屋本線を中心に待避設備の整備を加速して列車設定(ダイヤ)の自由度を上げ、犬山線を中心に各駅ホームの有効長延長に取り組むなど旧弊な路線設備の刷新を行ない、同時に駅建物の重層化(駅ビル建設)による不動産価値(賃貸料収入)の増大も志向した。

本業に多額の設備投資を続けざるを得ない中にあっても、運輸省(当時)が採った公共料金抑制政策の影響もあり、旅客運賃は長らく他の大手私鉄と同列に扱われ続け、名鉄特有の事情(多くの不採算路線の保有)から独自の運賃改定の必要性を訴え続けていたが、なかなか認められなかった。そんな中、1974年(昭和49年)の運賃改定では、他の私鉄にはない広範囲な擬制キロ(不採算路線の営業キロ割増し)を設定し、1983年(昭和58年)には大手私鉄では初めて単独での運賃改定が認められた。以降の運賃改定は徐々に名鉄特有の事情が認められるようになり、それに比例して老朽化した旧型車の取り替えや駅設備の近代化・整備が進められた。

グループ企業についても、低成長時代に合わせて全国的な展開より本業(鉄道・バス)に付随する関連事業への深度化が進められ、駅ビル建設に伴って名鉄ストアー[注釈 3]の出店を加速するなど流通事業への進出強化や、保有する広大な山林を開発して宅地分譲を行う不動産事業など、また、貨物輸送の終焉による駅周辺の遊休地を利用してスイミングスクールを始めスポーツ・健康産業への進出など、名鉄沿線に密着した事業展開へと拡大の方向性にも転換が見られた。

事業の選択と集中

昭和後期から平成初期にかけてのバブル景気の頃は、新舞子・蒲郡など海辺を中心として沿線開発にも一層拍車が掛かり、沖縄など遠隔地でもリゾート開発事業を手がけるなど、高度成長期と同様に手を伸ばせるだけ伸ばした感のあった名鉄グループであったが、新規事業は既存の事業の延長線上に展開された事例が多く、また、事業開発の面においては先発組より後発組に属することが多かった。このため、いわゆる『先行利得』を享受できたものは僅かであり、グループ内の事業規模(売上)は拡大したものの、利益面での貢献は期待したほどの成果をもたらすまでには至らなかった。

一方で、鉄軌道路線の整理縮減も再び開始され、1988年(昭和63年)に岐阜市内線の一部を廃止したのを皮切りに不採算路線の廃止を漸次進め、最終的には全営業路線の約1/5に相当する路線の廃止を行った(「閑散線区の合理化・廃止」も参照)。これは、バブル後『失われた10年』による経済環境の厳しさに加えて、国鉄からJRへ移行した後の猛烈な巻き返し(JR東海との旅客争奪戦)への対抗上、名古屋本線をはじめとする主要路線の設備投資に経営資源を集中させる必要と、収支悪化に伴って不採算路線への内部補助(赤字補填)が利益を圧迫しはじめた影響によるもので、全体の事業継続のためには廃止せざるを得ない路線に対して、沿線市町村との話し合いを行いつつ進められた[注釈 7]

1990年代バブル崩壊後には非鉄道事業への投資が徐々に負担となり、事業の選択と経営資源(人材・資本など)の集中を余儀なくされた。手始めとして関連会社の整理・統合が行われ、グループ内で同様の事業を行っている会社同士を統合して間接費用(後方事務・管理部門等)の圧縮を試み、採算が悪化した事業(会社)の整理が行われた。

1999年3月期決算では名鉄総合企業の資金運用損失(株式譲渡損)180億円の計上をはじめ、文化レジャー事業やリゾート事業の収益低下により230億円の連結決算上の赤字となり、文化レジャー事業の一部施設の閉鎖が検討されるようになる。また、名鉄本体のスリム化に手をつけ、不採算路線の多いバス事業の分社化を積極的に進め、現在のバス事業をすべて分社化した形の基礎を築いた。

2002年9月には、不採算事業の撤退による固定資産売却損などの特別損失計上により、2003年3月期中間配当が1948年10月期(半年間)決算以来55年ぶりの無配となる事態が発生。同3月期決算においては598億円の経常損失を計上し、55年ぶりに名鉄単体での赤字決算となった。これにより2003年1月に、不採算が続いた文化レジャー事業とバス事業を中心としたリストラ・事業分社化を柱とした2006年3月期までの経営合理化策を発表し、実行に移した。

愛知万博と空港線開業

2005年(平成17年)に開催された『愛・地球博』(愛知万博)を契機として東海地方の交通再編が行われることとなり、その目玉として中部国際空港の開港が決定され、それに伴って名鉄も空港輸送を中心とした体制へと再編することになった。空港線の建設は名鉄が直接的な形では行わず、空港の関連事業の一環として『中部国際空港連絡鉄道株式会社』を設立して、同社が建設を行った。名鉄は空港線を第2種鉄道事業者(路線を借受け運行のみを担当)として営業し、フィーダーとなる常滑線に関しては徹底的に路盤強化・カーブの付け替えなどを行い、空港連絡特急用車を用意するなどの設備投資を積極的に行った。

その後も車両・駅設備のバリアフリー・安全機能の対応などをはじめ、名鉄の特徴であった2扉クロスシート車の廃車(置き換え)を積極的に進めるなど、都市間連絡輸送から都市圏輸送を主体とした輸送形態への変更を推進している。また、IC乗車券への対応を前提とした駅設備・自動改札機の整備も併せて行い、鉄道運営に関する総コストを圧縮するための設備投資を中心に行っている。これに関連して、車両設計においても鉄道会社独自の事情を考慮したフルオーダー設計から東日本旅客鉄道(JR東日本)が提唱した標準設計・部品に基づく車両の新造導入により、イニシャルコスト(車両単価)の圧縮も志向している。 加えて、関連会社の整理・統合もさらに推し進め、以前に分社化した車両現業部門の再統合(名鉄住商工業の名鉄本体への吸収・直轄事業化)や、福井鉄道パレマルシェ(旧名鉄ストアー)など不採算子会社・事業の譲渡を行い、他の私鉄各社と同様に名鉄グループ全体の採算性向上と連結決算利益を重視する経営に向けて一層の徹底を志向している。

2027年度に開業を予定しているリニア中央新幹線に備え、現在の名鉄本社ビル、名鉄百貨店、名鉄レジャックと隣接する近鉄百貨店名古屋店(近鉄パッセ)を再開発することが決定している。これに加え、これらの地下部に存在する名鉄名古屋駅と近鉄名古屋駅を一つのターミナル駅として一体化する方針も打ち出している。

年表

(旧)名古屋鉄道・名岐鉄道

  • 1921年(大正10年)
    • 6月13日 : 名古屋電気鉄道の全額出資[注釈 8]により、(旧)名古屋鉄道株式会社設立。
    • 7月1日 : 名古屋電気鉄道が名古屋鉄道に郡部線部門を譲渡(資産の現物出資と郡部線を担当する社員の移籍)[注釈 9]
  • 1925年(大正14年)8月1日 : 1896年(明治29年)6月に創立され、現在の尾西線を当時運営していた尾西鉄道を合併。
  • 1927年(昭和2年)11月20日 : 昭和天皇が犬山行幸時に押切町 - 犬山橋間を往復乗車。
  • 1928年(昭和3年)4月10日 : 岐阜へ直接向かう路線の延長を計画し、その第一歩となる名岐線の丸ノ内駅 - 西清洲駅(現新清洲駅)間が開通し、押切町駅 - 新一宮駅(現名鉄一宮駅)間が全通。
  • 1930年(昭和5年)
  • 1932年(昭和7年)10月8日 : 鉄道省(当時)高山線直通の温泉客用定員制列車「下呂行直通特急」(柳橋 - 下呂間)を運転開始(大戦末期に中止)[4]
  • 1935年(昭和10年)
    • 3月28日 : 1924年(大正13年)4月に創立され、現在の各務原線を当時運営していた各務原鉄道を合併。
    • 4月29日 : 木曽川橋梁の完成により名岐線の新一宮(現・名鉄一宮) - 笠松間が開通し、押切町 - 新岐阜(現・名鉄岐阜)間が全通。新製車のデボ800形電車を用いて、同区間を34分で結ぶ直通特急を設定。

愛知電気鉄道

  • 1909年(明治42年)9月23日 : 知多電車軌道の発起人が軌道条例による熱田 - 常滑間の特許を申請(同年8月3日に軽便鉄道法による鉄道に申請を切り替え)。
  • 1910年(明治43年)11月21日 : 知多電車軌道が名称変更し、愛知電気鉄道株式会社設立。
  • 1912年(明治45年)2月18日 : 初の路線である、伝馬町(現在廃止、名古屋市熱田区) - 大野間(現・大野町駅)が開業。
  • 1913年(大正2年)8月31日 : 現在の常滑線にあたる、神宮前 - 常滑間が全線開業。
  • 1917年(大正6年)3月19日 : 名古屋本線の東側の第一歩にあたる、有松線(現名古屋本線の一部)神宮前 - 笠寺(現・本笠寺)間開業。
  • 1922年(大正11年)7月8日 : 1920年(大正9年)8月に設立され、御器所(名古屋市昭和区) - 下地町(豊橋市)間の鉄道免許を得ていた東海道電気鉄道を合併。
  • 1926年(大正15年)
    • 4月1日 豊橋線(現名古屋本線の一部)東岡崎 - 小坂井間開通。豊川鉄道の豊川まで直通運転を開始。
    • 12月1日 : 1910年(明治43年)2月に創立され、岡崎新駅 - 西尾駅 - 吉良吉田駅 - 吉田港駅・西尾駅 - 平坂駅間の鉄道(西尾駅 - 吉良吉田駅間は現在の西尾線の一部、他は現在廃止)の鉄道を運営していた西尾鉄道を合併。
  • 1927年(昭和2年)6月1日 : 伊奈 - 吉田(現・豊橋)間開業により、神宮前 - 吉田間全通。豊川鉄道との相互乗り入れ(双方の単線を相互利用して複線運転)を開始。新製の電7形電車を用いて、直通急行(1往復のみ特急)運転開始。このとき特急は63分、急行は72分運転であった。なお、この特急の表定速度は当時日本一となる59km/hを誇った。
  • 1930年(昭和5年)
    • 4月30日 : 電鉄事業と並ぶ主力事業であった電灯事業(電力供給)を愛知電力に譲渡(翌年に東邦電力へ譲渡)。
    • 9月20日 : デハ3300形電車を用いて、神宮前 - 吉田間を57分で結ぶ超特急「あさひ」運行開始。
  • 1934年(昭和9年)5月1日 : 神宮前駅本屋を東海道線の西側に新築移転。

名古屋鉄道

戦前・戦中

  • 1935年(昭和10年)8月1日 : 名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併、(新)名古屋鉄道株式会社が発足(形式上は名岐鉄道が存続会社となって(新)名古屋鉄道と改称し、愛知電気鉄道は解散した)[5]
    • この日より、旧「名岐鉄道」の各線を「西部線」、旧「愛知電気鉄道」の各線を「東部線」と総称した。
  • 1938年(昭和13年)5月10日 : 現在の中央道特急バスの前身となる、名古屋 - 飯田間の急行バスを飯田街道(国道153号線)経由で運転開始(1941年8月休止、1952年7月再開)。
  • 1939年(昭和14年)9月1日 : 1902年(明治35年)3月に創立され、現在の瀬戸線を当時運営していた瀬戸電気鉄道を名鉄が合併。
  • 1940年(昭和15年)9月1日 : 1922年(大正11年)3月に創立され、現在の豊橋鉄道渥美線を当時運営していた渥美電鉄を名鉄が合併。
  • 1941年(昭和16年)
    • 6月1日 : 1912年(明治45年)に創立され、現在の三河線蒲郡線を運営していた三河鉄道を名鉄が合併。
    • 8月12日 : 新名古屋地下トンネルが竣工。東枇杷島駅(移設) - 新名古屋(現、名鉄名古屋)駅間を開業。「郡部線」当時からのターミナルであった押切町駅 - 東枇杷島駅間と柳橋駅までの市電乗り入れを廃止し、国鉄(現JR)名古屋駅前に地下線(駅)で乗り入れる。
  • 1943年(昭和18年)
    • 2月1日 : 1927年(昭和2年)に創立され、現在の河和線を運営していた知多鉄道を名鉄が合併。
    • 3月1日 : 1926年(大正15年)に創立され、現在の広見線の一部区間を当時運営していた東美鉄道と、1919年(大正8年)に創立され、現在の竹鼻線を当時運営していた竹鼻鉄道を名鉄が合併。
    • 8月11日 : 子会社の名鉄自動車へ名鉄直営のバス事業を譲渡・統合。同時に愛知県内の尾三自動車ほか4社も名鉄自動車が合併。
  • 1944年(昭和19年)
    • 3月1日 : 1925年(大正14年)5月に創立され、現在の西尾線の一部を運営していた碧海電気鉄道と、1924年(大正13年)1月創立で、2001年(平成13年)に廃止された谷汲線を当時運営していた谷汲鉄道、並びに元来共に現在の東海旅客鉄道(JR東海)飯田線の一部を運営していたが、既に鉄道路線が国家買収されていた豊川鉄道(1896年(明治29年)2月設立)と鳳来寺鉄道(1921年(大正10年)9月設立)を名鉄が合併(ただし、豊川鉄道・鳳来寺鉄道は証券類等事務上の処理のみ)。
    • 9月1日 : 旧名岐鉄道系の路線(西部線)と旧愛知電気鉄道系の路線(東部線)が、金山駅(翌1945年に金山橋駅に改称。現・金山駅)で繋がる。

戦後

  • 1945年(昭和20年)12月10日 : GHQ(駐留軍)の指導により、名古屋鉄道労働組合(名鉄労組)を結成。
  • 1947年(昭和22年)6月10日 : 名鉄自動車を譲り受け、バス事業をすべて名鉄直営とする。
  • 1948年(昭和23年)5月16日 : 白紙ダイヤ改正。西部線の主要路線を東部線と同じ1500Vへ昇圧し、東西路線の直通運転を開始。
    • この日より、新岐阜(現名鉄岐阜)駅 - 豊橋駅間を「名古屋本線」と名称変更(全線に亘って路線名を見直し・変更)。
  • 1950年(昭和25年)4月25日 : 飯田線への直通運転を不定期列車で再開(1954年小坂井支線と共に廃止)。
  • 1952年(昭和27年)4月10日 : 創業記念日を(旧)名古屋鉄道の設立日である6月13日に制定。
  • 1954年(昭和29年)10月1日 : 旧渥美電鉄系の渥美線を、豊橋鉄道へ譲渡。
  • 1957年(昭和32年)7月29日 : 名鉄ビル全館完成。本社事務所をビル内に移転、業務開始。
  • 1958年(昭和33年)3月16日 : 庄内川橋梁を新橋梁へ切り替え。これにより名古屋本線の最急曲線を緩和し、枇杷島分岐点の通過速度を20km/hから40km/h(後に50km/h)へ引き上げ。
  • 1959年(昭和34年)4月1日 : 白紙ダイヤ改正5500系電車が登場し、量産車としては日本国内初となる料金不要冷房車の運行を開始。また、知立駅新設(移転)・配線変更により、名古屋方面から三河線への直通列車を増発。
  • 1961年(昭和36年)6月12日 : パノラマカー7000系電車)が就役し、名古屋本線の特急に投入される。これにより、最高運転速度を110km/hに引き上げ認可・運行開始。
  • 1962年(昭和37年)3月21日 : ラインパーク(現・モンキーパーク)モノレール線、日本国内初の跨座式モノレールとして開通。
  • 1965年(昭和40年)
  • 1967年(昭和42年)
  • 1970年(昭和45年)6月25日 : 田神線が開通、モ600形電車を使用して新岐阜駅 - 美濃駅間の直通運転を開始。世界的にも稀有な軌道車両による鉄道線乗り入れが始まる。
  • 1971年(昭和46年)
    • 3月31日 : 日本民営鉄道協会(民鉄協)を脱退(1982年8月に民鉄協へ復帰)。
    • 9月1日 : 名鉄と住友商事が共同出資で名鉄住商車両工業(後に名鉄住商工業に社名変更)を設立。日本国内で初めて車両保守部門を分社化し全面委託を行う。
  • 1973年(昭和48年)8月18日 : 岐阜市内線でワンマン運転を開始。

オイルショック後(高度経済成長期終焉後)

  • 1974年(昭和49年)9月17日 : 白紙ダイヤ改正。点輸送(拠点駅間の速達輸送重視)から線輸送(中間駅を含む相互駅間輸送重視)への転換を図り、特急を格下げして急行を増発。
  • 1975年(昭和50年)8月24日 : 中央自動車道・中津川 - 駒ヶ根間開通を機に、一般道経由で運行していた「名飯急行バス」を高速経由に改めた「中央道特急バス(現・中央道高速バス)」として開業。直営では初の高速バス路線(事業)となる。
  • 1976年(昭和51年)12月 : 名鉄初の本格的な3扉通勤車6000系登場。第1次オイルショック後に急増した通勤客輸送で威力を発揮し、名鉄における「通勤車」の地位を確立。M式自動解結装置自動電気・空気連結器)運用開始。
  • 1977年(昭和52年)3月20日 : ダイヤ改正。座席指定特急のみを「特急」とし、料金不要の特急を「高速」に種別変更(1度目の特急料金政策変更)。
  • 1978年(昭和53年)8月20日 : 瀬戸線東大手 - 栄町間の地下新線が開通。長年の悲願であった名鉄線の栄新都心への乗り入れが実現。合わせて、栄町・東大手の両駅に名鉄の駅では初めて自動改札機を導入。
  • 1979年(昭和54年)7月29日 : 豊田新線が開通。名古屋市営地下鉄鶴舞線との間で名鉄初の都市型相互直通運転を開始。
  • 1982年(昭和57年)3月21日 : ダイヤ改正。7000系5編成を名鉄初の線内特急の専用車(通称白帯車)に改造・運用開始。以降、特急運用の専用車化を進め、1988年(昭和63年)に特急専用車1000系「パノラマSuper」を新造・登場させるきっかけとなる。
  • 1983年(昭和58年)
    • 6月10日 : 特急列車に女性乗客掛(正式な乗務員としては戦後国内初)が乗務を開始。以降、順次増員を進めて早朝・深夜をのぞく全特急列車(指定席)に乗務となる。
    • 11月24日 : 特急座席管理システム完成、座席指定券のオンライン発売(前売)を開始。12月1日の全列車から機械発券に切り替え。
  • 1984年(昭和59年)
    • 1月1日 : 東名古屋港駅をのぞき、貨物営業を全面的に廃止。
    • 3月20日 : ダイヤ改正。全線を網羅した「名鉄電車・バス時刻表」(現・「名鉄時刻表」)を初刊行。以後、大規模なダイヤ改正毎に刊行。
  • 1985年(昭和60年)3月14日 : ダイヤ改正。前年に八百津線へ導入した軽量気動車「LEカー」を、広見線(新可児 - 御嵩間)・三河線(猿投 - 西中金間)にも導入・本格運用を開始し、ワンマン運転を実施。
  • 1987年(昭和62年)
    • 2月12日 : 白紙ダイヤ改正。支線直通列車を増発。
    • 3月23日 : 新名古屋駅(現・名鉄名古屋)全面改装工事完成。これにより、普通乗車券を含めた自動改札機の本格使用を開始(以降、主要駅の自動改札化を進める)。
  • 1988年(昭和63年)5月12日 : 全日本空輸・名鉄グループ各社の共同出資で中日本エアラインサービス (NAL) を設立。コミューター路線の開拓に着手。
  • 1989年(平成元年)7月9日 : 金山総合駅完成。東西連絡線開業時からの金山橋駅を移転し、駅名も「金山」に改称し全列車停車駅に昇格。新名古屋駅乗り入れ列車に限り100%冷房化[注釈 10]
  • 1990年(平成2年)
    • 4月1日 : 名鉄初のプリペイドカード「パノラマカード」を発売開始、名古屋本線金山 - 神宮前間の複々線化完成。
    • 6月8日 : サンライズバス設立。同年10月1日に名鉄バス蒲郡営業所(名古屋鉄道蒲郡自動車営業所)を移管し、採算(存続)の難しいバス路線を分社化する嚆矢となる。
    • 8月 : 特急専用車(1000系)増備により、名古屋本線特急の、最高速度120km/h運転を開始。
    • 10月29日 : ダイヤ改正。本線特急を指定席車と自由席車併結(一部指定席化)とし、自由席特急の性格を持っていた「高速」を統合(2度目の特急料金政策変更)。また、瀬戸線以外の準急を急行へ統合し、停車駅の見直し(特別停車駅による停車駅調整)を行う。またこの改正より民鉄で初めて前照灯の昼間点灯を開始。

バブル崩壊後(安定成長期終焉後)

  • 1991年(平成3年)4月21日 : 片道普通乗車券の様式を、郡部線開業時より続いた行先表示から金額表示式へ変更。
  • 1992年(平成4年)
    • 4月1日 : CI導入、新社章・コーポレートカラー(メイテツブルー)などを制定し、(旧)名古屋鉄道以来の社章を変更。
    • 11月24日 : 白紙ダイヤ改正。1000-1200系の増備に伴い一部指定席車編成を特急専用車両に統一。
  • 1993年(平成5年)8月12日 : 上小田井駅周辺の連続立体化工事完成により、犬山線も地下鉄鶴舞線と相互直通運転を開始。
  • 1994年(平成6年)6月 : 創業100周年を記念し、岐阜県可児市に名鉄資料館が開館。
  • 1996年(平成8年)4月8日 : ダイヤ改正。旧型(非冷房)車淘汰により1500V路線の全車冷房化を達成。
  • 1998年(平成10年)6月1日 : 西尾線・蒲郡線(西尾 - 蒲郡間)でワンマン運転を開始(1500V線区では初。2008年以降は蒲郡線のみとなる)。
  • 1999年(平成11年)
    • 4月1日 : 美濃町線(新関 - 美濃)を廃止。
    • 5月10日 : ダイヤ改正1600系(現・1700系)が運行開始。併せて、従来の「指定席車」(座席指定券)を「特別車」(特別車両券「ミューチケット」)へ変更する制度改正も実施[注釈 11]。また、1990年代を通じて展開されたJR東海とのスピード競争[注釈 12]は本改正で終息となる。
    • 10月 : 名鉄バス加木屋管理所を知多乗合(知多バス)へ移管。
  • 2001年(平成13年)10月1日 : 特急「北アルプス号」を廃止。これをもって36年間継続した(名岐鉄道の乗り入れ開始から中断をはさんで49年目を数えた)高山本線への直通運転が終了。同時に揖斐線(黒野 - 本揖斐)、谷汲線、八百津線、竹鼻線(江吉良 - 大須間)を廃止。
  • 2003年(平成15年)3月27日 : 上飯田連絡線が開通、小牧線と新規開業の地下鉄上飯田線への直通運転を開始。同時にSFカードシステム「トランパス」を小牧線に導入(SFパノラマカード発売開始)。以後、順次「トランパス」導入路線(駅)の拡大を進める。また、前後駅に建設されていた待避線の使用を開始し、急行などの頻度が増えた。2003年度は車両の新造が全く行われない異例の年となった。
  • 2004年(平成16年)
    • 4月1日 : 三河線西中金 - 猿投間、碧南 - 吉良吉田間を廃止。
    • 5月11日 : 名鉄の全額出資会社として「名鉄バス」を設立。10月1日付で路線バス部門[注釈 13]を全面的に「名鉄バス」へ移管。また、岐阜市内・近郊路線は岐阜乗合自動車(岐阜バス)へ譲渡。
    • 10月1日 : 創業110周年記念事業 「名鉄お客さまセンター」営業開始。
  • 2005年(平成17年)
    • 1月29日 : 白紙ダイヤ改正空港線が正式開業し、2000系「ミュースカイ」・2200系が運行開始。また、定期列車として初めて豊橋駅から常滑線への直通特急列車を設定。同年2月中部国際空港開港により空港連絡鉄道としての使命を担う。
      • 特別停車などで曖昧だった列車種別を、今までの“特急急行・普通”の3種別から“快速特急・特急・快速急行・急行・準急・普通”の6種別に分割し、例外を極力減らして各種別の停車駅を明確化した。
      • 空港線開業と同時に、新名古屋新一宮新岐阜の3駅を「新◯◯」から「名鉄◯◯」に改称する駅名変更を行うテンプレート:Refnest
      • 空港線開業による改正で、利用者が少ない特急列車の廃止や各列車の運行区間縮小など輸送力の見直しも実施。
    • 2月1日 : 豊橋 - 金山・名鉄名古屋間の2枚組回数乗車券「なごや特割2平日」「なごや特割2土休日」発売開始。
    • 4月1日 : 岐阜600V線区(岐阜市内線・揖斐線・美濃町線・田神線)を全廃し、事実上「鉄道線」として運行されている豊川線をのぞき、軌道線(いわゆる路面電車路線)が消滅。これにより総営業キロが東武鉄道 (463.3km) を下回り、JR以外の民鉄第2位から第3位に後退。
  • 2006年(平成18年)
    • 4月29日 : ダイヤ改正にあわせ名古屋本線(伊奈駅 - 黒田駅間)など9線区130駅に、乗車駅の磁気情報を記録する「乗車券確認システム」を導入。
    • 9月 空港特急「ミュースカイ」をのぞく全特急列車を一部特別車編成とする、特急政策の見直し計画を発表[注釈 14]
  • 2007年(平成19年)6月30日 : ダイヤ改正。犬山線 - 河和線直通系統の特急列車の約半数を、一部特別車編成に置き換える。
  • 2008年(平成20年)
    • 12月27日 : ダイヤ改正。パノラマカー7000系が定期運行を終了。中部国際空港連絡への速達列車「ミュースカイ」以外は全特急(快速特急)が一部特別車編成で運行となる。2006年に発表した特急政策の見直しが完了。
    • 12月29日 : 福井鉄道福武線の赤字補填と存続問題の解決策として、同社に対して1株(10億円)の増資を行うと同時に、保有する全福井鉄道株を沿線の支援団体や第三セクターに1株1円で譲渡し、福井鉄道の経営から撤退[6]。これにより福井鉄道は名鉄グループではなくなった。
  • 2009年(平成21年)
    • 4月1日 : 豊橋 - 金山・名鉄名古屋間の2枚組回数乗車券「なごや特割2平日」の発売価格を1,800円から1,700円に値下げ。
    • 5月9日 : 定額給付金の支給に合わせて1セット12,000円(SFパノラマカード2,000円分、名鉄百貨店商品券10,000円分、名鉄百貨店特別お買物券1,000円分)を4000セット発売。
  • 2010年(平成22年)9月16日 : 携帯位置登録ゲーム「コロニーな生活☆PLUS(以下コロプラ)」のキャンペーン「日本縦断!花いっぱい位置ゲーの旅」に参加。
  • 2011年(平成23年)
    • 2月11日 : ICカードmanacaを、蒲郡線と広見線をのぞく全線に導入。
    • 3月26日 : ダイヤ改正。朝ラッシュ時における特急需要に対応。
    • 3月29日 : ファミリーマートと基本契約書を締結。
    • 6月14日 : コミュニケーションスローガン『ココロをつなぐ、あしたへはこぶ。』を策定。
  • 2012年(平成24年)
    • 2月29日 : トランパス、バスカードの利用終了。回数乗車券の販売終了(特殊割引回数券をのぞく)。
    • 4月:神宮前駅東口に鉄道センタービル竣工。これに伴い、鉄道事業本部の管理部門を名鉄バスターミナルビルから鉄道センタービルへ移転。
    • 4月5日 : コロプラとタイアップ第2弾「乗り物コロカ付き1DAY フリーきっぷ」発売。
    • 4月21日 : manacaについてJR東海のTOICAとの相互利用を開始[7]
  • 2013年(平成25年)
  • 2014年(平成26年)
    • 3月6日:三菱UFJニコスと提携し、名鉄グループクレジットカード「MEITETSU μ's Card」の発行を開始[8]。。
    • 6月1日:創業120周年を記念し、社員の制服を変更。

鉄軌道事業

ファイル:Nagoya Railroad Linemap.svg
路線図(クリックで拡大)

路線

1894年(明治27年)の創業時は市内路線の敷設に注力していたが、1912年(大正元年)に郊外路線へ進出後は主に尾張地方北部に路線を伸ばしていった。その後、市内路線を名古屋市へ譲渡するため1921年(大正10年)に郊外路線のみを独立(旧名古屋鉄道設立)させ、1930年(昭和5年)には美濃電気軌道を合併(名岐鉄道へ改称)して岐阜県南部へ進出し、1935年(昭和10年)には尾張地方南部・三河地方に路線を伸ばしていた愛知電気鉄道と合併(名古屋鉄道へ再び改称)し、第二次世界大戦中には愛知・岐阜県内の中小鉄道を合併(吸収)して現在の路線網が完成した。 愛知県の郊外鉄道の中では最もきめ細かい路線網であり、このうち、一部路線の列車が、名古屋市営地下鉄鶴舞線上飯田線)と相互直通運転を行っている。

営業キロ数は、鉄道線437.0km、軌道線7.2km[注釈 15]の合計444.2km、駅数は275駅におよぶ(2008年12月28日現在)。2000年以降の600V線区を始めとする相次ぐ赤字路線廃止が始まるまでは、JRをのぞく日本の民鉄の中で営業距離は近鉄に次ぐ2位、駅数は1位[注釈 16]であったが、2005年4月以降は営業距離では近鉄・東武に続く3位、駅数では近鉄に次ぐ2位となっている。なお、過去には何度か営業キロが1位となった時期があり、1941年(昭和16年)に三河鉄道(99.9km)を合併して営業キロが500kmを超えた時[9]がその初めである。これは戦前の交通統合(合併)が関東・関西地区と比べて先行したことが影響している。その後名鉄は1位ではなくなるが、1954年に東武が伊香保軌道線の一部を廃止してから、1965年に近鉄が三重電気鉄道を吸収合併するまでの間は、再び日本で営業キロの最も長い私鉄となっていた[10]

名鉄は路線全体に占める無人駅や小規模な駅の比率が、他の大都市圏の鉄道と比べて大変多い。路線1キロあたりの利用客や収入に関する比率も、大手私鉄の中では最下位[注釈 17]である。これは、名古屋都市圏が他都市圏に比べて自家用車の所有率が非常に高く、道路網が卓越しているためモータリゼーションが特に進んだ地域であることが原因と言える。このため、1950年頃から輸送効率の向上を目指して合理化を進め、また運賃の確実な収受と駅業務の合理化(人員削減)を両立するために2003年から駅集中管理システムを、また乗車券確認システムを2005年6月29日から小牧線に、2006年4月29日から名古屋本線はじめ主要9線区に導入し、一部区間をのぞく全線に順次導入を進めている。

路線網配置

ファイル:Meitetsu Biwajima Junction 005.JPG
多数の列車が往来する枇杷島分岐点

名鉄の路線網の特徴は、名古屋を中心に岐阜方面・豊橋方面双方に支線が広がっていることである。多くの支線を持つ鉄道会社は他にもあるが、大都市圏の中核都市を貫通して両方向(名古屋の南北)に路線網を広げる会社は名鉄以外には見られない。このため、支線から名古屋市内へ直通する列車の多くは名古屋市内を通過した後に反対側の支線に入るという運行形態をとり、中核駅(ターミナル)の名鉄名古屋始発・終着となる列車は東西直通運転を始めた1948年以降、伝統的に多くは設定されていない。営業運転上は同駅止まりであっても、同駅で折り返しを行う列車は皆無であり、回送を含めたダイヤ上ではすべての列車が進行方向を変えずに運行している。

この運行形態は、名鉄名古屋駅を通過する乗客には乗り換える必要がなく、3面2線の駅構造で最大限の列車本数を設定できるメリットがある反面、行先が多方面に亘ってダイヤが複雑化したり、各支線の列車が集まる金山 - 枇杷島分岐点間は複線のままであるため、日中時間帯も過密ダイヤとなる等の短所も抱える。また、ある路線が事故などでダイヤが乱れると間を置かずに他の路線へも波及したり、運転を見合わせる区間が広範囲に及ぶ弊害もある。

1990年に行った神宮前 - 金山間の複々線化により、名古屋市内の第2ターミナルとして金山駅を整備し、当駅止まりで名鉄名古屋へ向かわない列車も徐々に増加している。また、近年では全体的な乗客の減少(他の輸送手段への転移)が影響して、名古屋本線から支線へ直通する列車は最盛期に比べると減少しており、特に名鉄名古屋以西の輸送力に過剰感が出ているため、同駅以東へ向かう始発・終着列車が増加する傾向にある。

多くの路線を持つ鉄道会社では、路線の正式名称と運転区間が必ずしも一致せず、一つの路線が複数の運転区間に分かれていたり、複数の路線が一体的に運用されるケースがある。名鉄もこれに該当し、例えば尾西線においては3つの運転区間に分かれているのに対し、犬山線・各務原線や、常滑線・空港線などはほぼ一体的に運用されている。また、西尾線など現在は一つの路線でも2つ以上の会社が全く別に建設した路線もある。

なお、瀬戸線は名鉄他線とは接続がない孤立路線であると同時に名鉄で唯一地区に乗り入れている路線であり、他線とは性格が異なっている。

路線名の前にあるカラーはラインカラーを表している。積極的な案内はなく、駅の自動券売機上に表示された運賃表示付き路線図などで見られる程度である。

岐阜方面西側の支線 岐阜方面東側の支線
豊橋方面西側の支線 豊橋方面東側の支線

名鉄他線との接続がない孤立路線

※廃止路線は「閑散線区の合理化・廃止」の節を参照のこと。

運行列車種別

2011年12月17日ダイヤ改正時点のもの。各列車種別の説明は「列車種別」の節を参照のこと。

路線名 運賃計算上の区分 列車種別の設定
テンプレート:Nowrap テンプレート:Color 快速特急
テンプレート:Color
特急
テンプレート:Color
快速急行
テンプレート:Color
急行
テンプレート:Color
準急
テンプレート:Color
普通
テンプレート:Color
名古屋本線 A
西尾線 B - - -
三河線 C - - - - - -
常滑線 B -
河和線 B - -
築港線 B - - - - - -
津島線 B - - -
各務原線 B - - -
広見線 C - - - -
竹鼻線 C - - - - - -
豊川線 C - -
蒲郡線 B - - - - - -
豊田線 B※ - - - - - -
空港線 B※ -
知多新線 C※ - - -
瀬戸線 B - - - -
尾西線 C - - -
犬山線 B
小牧線 B - - - - - -
羽島線 C※ - - - - - -
  • 運賃計算上の区分
    • A・B・C:それぞれの区分を表す
    • ※(豊田線空港線知多新線羽島線):全線、または一部区間で建設費の回収として加算額を設定している線区
  • 列車種別の設定
    • ●:設定・運行
    • -:設定なし

列車種別

2008年12月から、路線により最高7種類の列車種別となっている。各種別の運行路線は「運行列車種別」節の表を参照。

1990年 - 1995年、2003年 - 2005年の間は「特急」・「急行」・「普通」(一部線区には「特急」・「急行」が無く、また瀬戸線では「急行」・「準急」・「普通」の3種別)のみであったが、同じ種別でも特別停車駅(運行時間・行先別などにより停車の有無が変わる駅)が異なるなど、一定の法則性は確保していたものの、一般利用者にはやや分かりにくい複雑なダイヤであった。 そこで中部国際空港の開業を機に、従来の特急・急行を停車駅によって細分化(「快速特急」と「特急」、「快速急行」・「急行」・「準急」へ種別を分割)して、一部の例外をのぞき各種別の停車駅を明確化(固定)した。これに伴い、各駅の時刻表(駅配布版を含む)の表記方法も一新した。

また、種別は4文字の「快速特急」「快速急行」はLCD式の広い行き先表示の場合のみそのまま表記され、その他幕式・LED式の種別表示器や、駅のLED式・回転式列車表示板(ソラリー)では「快特」「快急」と略される。 なお、「ミュースカイ」は全車が「特別車」で運転され、「快速特急」・「特急」には「特別車」と「一般車」が併結されている。「快速急行」以下の各種別は「一般車」のみで運転される。これらの詳細については「名鉄特急」のページを参照。

ミュースカイ(全車特別車)
中部国際空港アクセスの最速達列車で、2008年12月27日のダイヤ改正で新設された種別。改正前は「快速特急」と名乗っていた。全車両特別車の2000系を使用する列車に命名され、神宮前 - 中部国際空港間を無停車(早朝の一部をのぞく)としている。神宮前以西(以北)では特急停車駅のうち、新木曽川・笠松・柏森を通過する。「特急」との所要時間の差は常滑線空港線系統で7 - 8分となっている。
方向幕は白背景に赤文字でテンプレート:Colorsの表示になっており、英語表記は「μSKY Limited Express」で、「μSKY Ltd. Exp.」と略されることもある。
快速特急(一部特別車)
神宮前以東(以南)の名古屋本線では停車駅を最小限に抑えた名鉄名古屋駅への最速達列車で、新安城・国府通過の特急がこれに当たり、「特急」との所要時分の差は本線系統で3 - 4分。2011年3月の改正で豊川線からの快速特急が平日に2本だけ設定された。この列車は豊川線内は各駅に停車し、名古屋本線東岡崎までは急行と同じ停車駅である。
神宮前以西(以北)の名古屋本線・犬山線などでは「特急」と同じ停車駅。2008年のダイヤ改正以降から急行(快速急行)停車駅の柏森を追加し、平日朝をのぞいては笠松・新木曽川にも停車して、速達性よりも地域輸送を優先する傾向にある。
方向幕は白背景に赤文字でテンプレート:Colorsの表示になっており、LED式および幕式ではテンプレート:Colorsと略される。英語表記は「Rapid Limited Express」で、「Rapid Ltd. Exp.」と略されることもある。なお、LED式に限り快特・快急が再設定されてすぐはテンプレート:Colorsと表示されていた。
特急(一部特別車・全車一般車)
沿線市町の中でも特に利用者が多い駅や、支線の分岐駅・普通との接続駅などに停車駅を絞った列車。名古屋本線では新安城・国府にも停車し、常滑線では太田川や常滑など5駅に停車する。快速特急同様、一部特別車が基本であるが、毎日運転される名鉄名古屋駅23時57分発東岡崎行きおよび中部国際空港駅23時31分発名鉄岐阜行きの2本と平日昼間帯の河和線系統のものは全車一般車で運転されている。
方向幕は赤背景に白文字でテンプレート:Colorsの表示になっており、英語表記は「Limited Express」で、「Ltd. Exp.」と略されることもある。
快速急行(以下、全車一般車)
沿線市町の代表駅、または利用者が多い駅などに停車する列車。名古屋本線では栄生通過の急行がこれに当たる。常滑線・空港線では特急と同じ停車駅である。2008年12月の改正以前は多数運行していたが、改正後は早朝・深夜の中部国際空港発着列車と平日朝ラッシュ時のみの運行。
方向幕は白背景に青文字でテンプレート:Colorsの表示になっており、LED式および幕式ではテンプレート:Colorsと略される。英語表記は「Rapid Express」。快特・快急が再設定されてすぐはテンプレート:Colorsと表示されていた。
急行
沿線の中核駅などに停車する列車。快速急行よりも名古屋本線では1駅(栄生)および名鉄一宮行のみ2駅(栄生・大里)、常滑線では5駅(大江・寺本・古見・大野町・りんくう常滑)多く停車。その他の線区では快速急行と同じ停車駅に停車。なお、瀬戸線では急行が最優等種別である。
方向幕は、幕式では水背景に白文字でテンプレート:Colors、LED式およびオーロラビジョン式では青背景に白文字でテンプレート:Colorsの表示になっている。英語表記は「Express」。
準急
普通のみでは停車本数が不足する駅などに停車する列車。急行の停車駅よりも、名古屋本線では7駅(藤川・男川・矢作橋・豊明・中京競馬場前・有松・二ツ杁・大里)、瀬戸線では2駅(印場・旭前)、犬山線では3駅(石仏・木津用水・犬山口)、常滑線では2駅(大同町・聚楽園)、西尾線では1駅(南桜井)多く停車。豊川線、河和線、津島線尾西線では急行と同じ停車駅。
方向幕は緑背景に白文字でテンプレート:Colorsの表示になっている。
英語表記は基本的に「Semi Express」だが、瀬戸線の車両のうち6000系は「Sub Express」となっていた。
普通
運行区間の全駅に停車する列車。名鉄では「各駅停車(各停)」の語を種別名としては用いない。なお豊橋駅からの発着はない。かつては椋岡駅学校前駅(共に廃駅)など一部の駅を通過する普通列車が設定されていたが、同駅が廃止された2006年12月以降はない。
方向幕は、幕式およびオーロラビジョン式では黒背景に白文字でテンプレート:Colors、LED式では灰背景に白文字でテンプレート:Colorsの表示になっている。英語表記は「Local」。

2005年1月のダイヤ改正では、改正以前の特急標準停車駅(太田川・常滑をのぞく)が「快速特急」停車駅、急行標準停車駅が「快速急行」停車駅を基本とし、状況に応じて上位列車の停車駅への昇格も実施した。また、2008年12月の改正で2000系を使用した空港アクセス「快速特急」・「特急」を「ミュースカイ」に名称変更した。

なお、1977年より1990年まで、それ以前の追加料金が不要の「特急」を「高速」へ、「座席指定券」が必要な「座席特急」を「特急」へ種別呼称を改めて運行していたが、「特急」(指定席)と「高速」(一般席)を併結した形の「一部指定席(現・特別車)特急」へ変更したことで、再び「特急」に統合された。 また、同様に1990年までは「準急」の種別も存在しており(現在と停車駅が若干異なる)、これに関しては「急行」の特別停車駅を増やして統合している(2005年の種別増加は逆の流れとみなせる)。 さらに「快速急行」の名称は、1995年から2003年まで「全車一般席車特急」の名称変更の形で存在し、それ以前にも線区を限定して運行されていたことがある。

また、一つの列車が途中駅で種別を変更するダイヤも日常的に用いられている。過去には「特急」(座席指定)から「急行」・「普通」などへ種別変更を行う場合も見られた[注釈 18]が、現在では「快速急行」以下の種別相互で行われている。

車両

テンプレート:See

乗務員区所

-の右側は主な乗務区間(列車により相違あり)

  • 名古屋乗務区 - 名古屋本線全線(直通はせず神宮前で交代)・竹鼻線・羽島線・尾西線・津島線・豊川線・常滑線(神宮前 - 大江間の一部の回送列車のみ)
    名古屋乗務区には特急の特別車改札を専門で行う専務車掌が配属されており、改札業務に限り犬山線・常滑線・空港線・河和線の一部列車も担当する。
  • 神宮前乗務区 - 常滑線・河和線・空港線・知多新線(本線直通列車は栄生まで乗務する列車もあり)
    かつては築港線も担当していたが、2011年3月26日のワンマン運転開始以降は担当から外れ、金山幹事駅係員が同線の運転業務を担当している。
  • 犬山乗務区 - 犬山線(本線直通列車は神宮前まで乗務)・各務原線・小牧線・広見線・地下鉄上飯田線
  • 知立乗務区 - 三河線・豊田線・西尾線・蒲郡線(いずれの線区も本線直通列車は神宮前まで乗務)
  • 喜多山乗務区 - 瀬戸線

過去にあった乗務員区所

  • 名古屋運転区 - 現在の名古屋乗務区
  • 名古屋車掌区 - 現在の名古屋乗務区 1983年(昭和58年)から1990年代後半まで存在した特急(北アルプスをのぞく)乗客係のパノラマメイツはここに所属していた。
  • 岐阜運輸部 - 岐阜市内線・揖斐線・谷汲線・美濃町線・田神線の600V区間の運転を担当。2005年3月31日限りで廃止。
  • 鵜沼乗務区 - 現在の犬山乗務区
  • 刈谷乗務区 - 現在の知立乗務区

運賃

名古屋鉄道の運賃は、営業キロではなく、あらかじめ一定の割合を乗じた「運賃計算キロ程」によって運賃を計算する。計算方法は以下の通り(子供は半額、5円の端数は切り上げ)。運賃額は2014年4月1日現在。

大人キロ制区間運賃表
キロ程 運賃 キロ程 運賃 キロ程 運賃
初乗り3km 170円 33 - 36 600円 73 - 76 1,210円
4 190円 37 - 40 660円 77 - 80 1,260円
5 - 7 230円 41 - 44 730円 81 - 85 1,310円
8 240円 45 - 48 790円 86 - 90 1,360円
9 - 12 300円 49 - 52 860円 91 - 95 1,420円
13 - 16 350円 53 - 56 920円 96 - 100 1,470円
17 - 20 400円 57 - 60 980円 101 - 110 1,550円
21 - 24 450円 61 - 64 1,040円 111 - 120 1,640円
25 - 28 500円 65 - 68 1,110円 121 - 130 1,720円
29 - 32 550円 69 - 72 1,160円 131 - 143 1,810円
  1. 乗車する区間の、各乗車線区ごとに、営業キロを算出する。
    • 列車乗り換えの都合上、枇杷島分岐点 - 東枇杷島駅栄生駅・名鉄名古屋駅間を折り返し乗車する場合には、この区間の営業キロは含まない。[注釈 19]
    • 以下にあげる区間を経由する場合は、最短経路で計算する。
      • 名古屋本線(枇杷島分岐点 - 名鉄岐阜駅間)
      • 津島線(須ヶ口駅 - 津島駅間)
      • 尾西線(津島駅 - 名鉄一宮駅間)
      • 犬山線(枇杷島分岐点 - 新鵜沼駅間)
      • 各務原線(名鉄岐阜駅 - 新鵜沼駅間)
    (例)名鉄岐阜駅 -(名古屋本線)- 神宮前駅 -(常滑線)- 太田川駅 -(河和線)- 富貴駅 -(知多新線)- 内海駅の運賃の場合、
    • 名古屋本線(A)名鉄岐阜駅 - 神宮前駅37.6キロ
    • 常滑線(B)神宮前駅 - 太田川駅12.3キロ
    • 河和線(B)太田川駅 - 富貴駅22.3キロ
    • 知多新線(C)富貴駅 - 内海駅13.9キロ
    と各線区に分け、営業キロを計算する。
  2. 各々の線区の運賃計算上の区分(運行列車種別の表でA・B・C)が同じ線区同士の営業キロを足し合わせ、以下の倍率をかけ、小数点第2位以下を切り上げる。このキロ程が「運賃計算キロ程」である。
    A:1.00倍 B:1.15倍 C:1.25倍
    (例)A:名古屋本線《37.6キロ×1.00=37.6キロ》
    B:常滑線・河和線《(12.3キロ+22.3キロ)×1.15=39.790→39.8キロ》
    C:知多新線《13.9キロ×1.25=17.375→17.4キロ》
  3. 運賃計算キロ程を足し合わせ、小数点以下を切り上げ、上の運賃表に照らし合わせる。
    (例)37.6キロ+39.8キロ+17.4キロ=94.8キロ→95キロ から、1,420円
  4. 加算額を設定している線区(以下の路線。運行列車種別の表で※印)が含まれる場合は、加算額を加算する。加算額は以下の各項目を参照。
    豊田線 空港線 知多新線 羽島線
    (例)知多新線は加算額設定線区であるので、上記の運賃1,420円に富貴駅 - 内海駅間の加算額70円を加算し、この区間の運賃は1,490円である。

開発事業

バス・文化レジャー事業の分社化の後、本社の鉄軌道事業以外の事業は、全日本空輸の航空代理業、ビル、駐車場などの賃貸、土地の分譲等となり、これを「開発事業」と呼称している。

合理化

閑散線区の合理化・廃止

ファイル:Nagoya Railroad Linemap (Abandoned Lines).svg
廃止路線の分布(クリックで拡大)

数多くの鉄道会社の合併や運営路線の譲り受けによって成立した名古屋鉄道は、多くの閑散線区を抱えることになり、そうした線区の合理化・廃止が進められてきた。特に、トヨタ自動車を核とした自動車産業が盛んな愛知県では車社会の進展が早く、1950年代から路線の廃止が相次いでいる。1984年には広見線・八百津線にレールバス導入・ワンマン運転化がなされ、1985年に三河線・猿投 - 西中金間、1990年に三河線・碧南 - 吉良吉田間にもレールバスが導入された。鉄道事業法2000年に改正され、それまでは許可制で所轄官庁の許可が必要だった鉄道廃止が届出制に変わると、閑散線区の廃止を相次いで表明している。

  • 名古屋鉄道成立後の廃止路線(経路変更や駅移設による延長・短縮のぞく)
    • 勝川線 - 1936年4月8日休止、1937年2月1日廃止
    • 大浜口支線 - 1946年8月1日廃止
    • 清洲線 - 1944年6月10日休止、1948年8月3日廃止
      • 戦時中の線路供出(東西連絡線の建設など)のため「不要不急線」に指定されたことによる廃止。
    • 起線 - 1953年6月1日休止、1954年6月1日廃止
      • 起線についてはいわゆる「閑散線区」ではなく、単線で行き違い設備の乏しい路線(少ない線路容量)に比べて乗客が多すぎるため、増発が自由に行えるバス化が妥当との結論に達して廃止が行われた。
    • 渥美線(三河田原 - 黒川原間) - 1944年6月5日休止、1954年11月20日廃止。
      • 残存区間(新豊橋 - 三河田原間)は豊橋鉄道に譲渡され現在も営業中。
    • 小坂井支線 - 1954年12月25日廃止
      • 豊川市内線(現豊川線)延伸により、飯田線乗り入れ中止に伴う廃止。
    • 新川口支線 - 1955年2月1日廃止
    • (旧)西尾線 - 1959年11月25日福岡町 - 西尾間廃止
      • 1943年 岡崎新 - 福岡町 - 西尾間休止、1951年 岡崎駅前 - 福岡町間が福岡線として営業再開。戦時中の線路供出(東西連絡線の建設など)のため「不要不急線」に指定され、戦後も復活されずに休止中だった路線を正式に廃止とした(尾西線の玉ノ井 - 木曽川港間も同様)。
    • 尾西線 - 1959年11月25日玉ノ井 - 木曽川港間廃止
      • 1944年 奥町 - 玉ノ井 - 木曽川港間休止、1951年 奥町 - 玉ノ井間が営業再開。
    • 平坂支線 - 1960年3月27日廃止
      • いわゆる「閑散路線」として初の廃止路線。
    • 高富線 - 1960年4月22日廃止
      • 閑散路線ではなかった。理由は起線とほぼ同じ。
    • 安城支線 - 1961年7月30日廃止
    • 岡崎市内線・福岡線 - 1962年6月17日廃止
    • 岩倉支線 - 1964年4月25日廃止
    • 鏡島線 - 1964年10月4日廃止
    • 一宮線 - 1965年4月25日廃止
    • 挙母線 - 1962年6月17日岡崎井田 - 大樹寺間廃止、1973年3月4日大樹寺 - 上挙母間廃止
      • 岡崎井田 - 大樹寺間は岡崎市内線と一体で運行されていたため、岡崎市内線と同日に廃止された。
    • 瀬戸線 - 1976年2月15日堀川 - 東大手間廃止
      • 同日に東大手 - 土居下間を休止とし、1978年の栄町 - 東大手間の地下新線開業と同時に営業再開(土居下駅は廃止)。
    • 知立連絡線 - 1984年4月1日廃止
    • 岐阜市内線 - 1988年6月1日徹明町 - 長良北町間廃止、2003年12月1日岐阜駅前 - 新岐阜駅前間休止、2005年4月1日岐阜駅前 - 忠節間廃止
    • 美濃町線 - 1999年4月1日関 - 美濃(実態は新関 - 美濃)間廃止、2005年4月1日徹明町 - 関間廃止。
    • 八百津線 - 2001年10月1日廃止
    • 竹鼻線 - 2001年10月1日江吉良 - 大須間廃止
    • 谷汲線 - 2001年10月1日廃止
    • 揖斐線 - 2001年10月1日黒野 - 本揖斐間廃止、2005年4月1日忠節 - 黒野間廃止
    • 三河線 - 2004年4月1日西中金 - 猿投間、碧南 - 吉良吉田間廃止
    • 田神線 - 2005年4月1日廃止
    • モンキーパークモノレール線 - 2008年12月28日廃止

閑散駅の廃統合

合併によって閑散線区を抱えたのと同様に、前身事業者の施策の違いによって駅間距離が短すぎる線区も名鉄は多く抱えることになった。そのため、名鉄はスピードアップや駅勢圏の調整といった合理化策の下で駅の廃止、統合を個別に実施したほか、過去二回、全線にわたる駅の整理を行っている[13]

一度目の整理は1944年に実施された。輸送力や資材を確保するために閑散路線が「不要不急線」として休止されたように、乗降客の少ない小駅が相次いで休止されている。戦後に復活した駅も少なくないが、復活しなかった駅の大半は1969年4月5日に廃止手続きが取られた。

1944年に休止された駅
凡例:
(無印) - 1969年4月5日廃止
× - 1969年4月5日以前に廃止
- 1969年4月5日以降に廃止
- 1969年4月5日以前に復活
- 1969年4月5日以後に復活
- 復活した後に廃止(廃線による廃駅を除く)

二度目の整理は駅集中管理システム導入に伴う閑散駅の削減である。2001年度より導入が始まった同システムは、自動改札機自動券売機自動精算機・列車接近警報装置を該当駅に設置し、近隣の管理駅から遠隔操作するものである。これらを全駅に導入するに当たり、費用対効果が低い小駅の廃止が検討された。

2005年1月29日廃止(乗降客数200人以下)
2006年12月16日廃止(乗降客数300人以下)

駅集中管理システムは2007年度までに全線全駅で導入される見込みであったが、弥富駅、広見線明智駅以東、蒲郡線(吉良吉田駅をのぞく)には導入されなかった。導入前は有人駅であったが導入後は無人駅になってしまったという駅も多く、ミューチケットや企画きっぷ等を購入できないケースも出てきている(後に一部の無人駅でもタッチパネル式の新型自動券売機を利用すればミューチケットを購入できるようになった)。

自動車事業の分社化・委託

かつてはバス事業も行い、名古屋駅からの高速バス名古屋空港へのバス、路線バス観光バス等を展開していたが、2004年10月1日から、愛知県内は名鉄バスとして分社され、岐阜県内はグループ企業の岐阜乗合自動車(岐阜バス)に移管された。また、名鉄バスとして残った路線も、一部路線について運営を子会社等に委託するケースが現れている。例:犬山地区路線の「岐阜バスコミュニティ」への委託等(2006年12月に名鉄バスは犬山地区の運営から撤退し、委託先だった岐阜バスコミュニティに路線のすべてを移譲した)

文化レジャー事業の分社化

名古屋鉄道は、博物館明治村リトルワールド等の施設を経営していたことでも知られ、これは「文化レジャー事業」としていた。しかし名鉄の1999年3月期決算で名鉄総合企業・バス・レジャー事業といった関連事業を起因とする連結決算での赤字計上により、陸運事業のリストラのほか、知多新線沿線の開発に伴い開業したレジャー施設の閉鎖が検討された。このうち阿久比スポーツ村の運営撤退(現:阿久比町立阿久比スポーツ村)をのぞいて撤回されたものの、2003年3月期の中間・期末の両方で無配となったことに伴い、2003年1月にグループ合理化策を発表した。

特に不採算が強かった以下の事業については名鉄直下で廃止された。

その他の文化レジャー施設を経営・運営する子会社として「名鉄インプレス」が設立され、2003年10月から次のような体制に変化した。

  • 明治村・リトルワールド・杉本美術館は、名鉄が経営主体となり、名鉄インプレスに運営を委託。
  • 日本モンキーパーク、カルチャーセンター、スイミングスクール、テニススクール、南知多ビーチランドについては名鉄インプレスに譲渡させ、同社の経営とする。

企画乗車券の大幅廃止

閑散駅の合理化で駅員非配置の駅が増えたことや、トランパス導入に際してカードにプレミアムをつけたこと、合理化のためもあって、昨今では大幅に「パノラマパック」などの企画割引乗車券を廃止する傾向が出ている。近畿日本鉄道南海電気鉄道と共同で出していた「3・3・SUNフリーきっぷ」も、2006年夏限りで廃止した。

未成線

名古屋鉄道、及びその前身となった鉄道にも数多くの幻となった路線が存在する。一部は以下のとおりである。

名称 区間 距離 出願 免許 失効 備考
尾西鉄道[14][15]
一宮 - 犬山 - 可児郡 - 多治見 40.0km 1897年2月 却下
奥町 - 起 2.8km 1911年10月 1912年3月取得 1917年9月
清洲 - 起 15.4km 1912年8月 1913年10月却下
名古屋 - 大治 - 津島 15.5km 1912年8月 1913年10月却下
津島 - 多度 7.9km 1912年8月 1913年10月取得 1915年5月
中村線 新一宮駅 - 甚目寺 - 中村 16.2km 1919年10月 1920年11月取得 (旧)名鉄へ継承
稲葉地 - 則武 3.4km 1923年10月 1925年4月却下
瀬戸電気鉄道[16][17][18]
小牧線 大曽根駅 - 小牧 11.8km 1907年10月 1914年7月不許可
品野線 瀬戸駅 - 品野 4.5km 1912年3月 1914年12月取得 1916年8月
龍泉寺線 小幡駅 - 志段味(竜泉寺) 2.8km 1912年2月 1914年12月取得 1916年8月
瀬戸町内線 瀬戸一ノ坪 - 刎田 1.2km
東山線 矢田駅 - 東山村(覚王山) 4.0km
東山村(覚王山) - 鳴海 13.2km 1912年9月 1914年5月却下
御器所村北山前 - 小針 1.2km
御器所村滝子 - 熱田東町沢下 1.1km
呼続町瑞穂田光 - 熱田東町 1.0km
呼続町瑞穂市場 - 熱田東町内浜 1.1km
西尾鉄道[19][20]
岡崎新駅 - 岩津村 9.0km 1915年11月 1915年12月却下
吉田村 - 幡豆村西幡豆 16.4km 1921年12月 1922年12月返付
岡崎新駅 - 豊富村 16.5km 1923年1月 1923年12月取得 愛電へ継承
岡崎電気軌道[21][22]
井田町 - 門立 - 松平村 10.5km 1921年9月 1922年4月取得 三鉄へ継承
羽根 - 岩津 7.1km 不明 1924年5月取得 三鉄へ継承
三河鉄道[23][22][24][25][26]
平針 - 東郷 - 高岡 - 矢作 23.5km 1912年9月 1913年3月却下
知立 - 若林 - 矢作 8.5km 1913年9月 1913年11月却下
越戸駅 - 保見 - 瀬戸 25.2km 1913年9月 1913年11月却下
若林駅 - 矢作 8.6km 1914年6月 1914年9月却下
有松裏 - 富士松 - 安城 - 矢作 21.0km 1915年11月 1916年1月却下
蒲郡 - 御津 - 牟呂 - 豊橋 18.9km 1916年11月 1916年7月却下
足助方面線 西中金駅 - 足助 7.3km 1919年11月 1921年11月取得 名鉄へ継承
足助 - 武節 - 豊根 - 富草 - 飯田 101.9km 1920年3月 1921年11月却下
猿投 - 保見 - 長久手 - 水野 19.8km 1920年11月 1921年11月却下
蒲郡駅 - 御津 - 国府 - 豊川 20.2km 1921年8月 1922年2月却下
岡崎村戸崎 - 針崎 1.3km 1923年5月 1924年8月下戻 貨物線
猿投 - 日進 - 天白 - 東大曽根 26.2km 1924年4月 1925年9月取下
明治村線 三河高浜駅 - 明治村 9.3km 不明 1922年12月取得 1930年8月 尾三鉄道より継承
門立駅 - 九久平 4.6km 岡崎電気軌道より継承 1931年8月 岡崎線(門立支線)の残区間
羽根 - 岩津 7.1km 岡崎電気軌道より継承 1932年10月 貨物線
上郷 - 挙母 2.6km 1930年6月 1931年7月取得 1935年5月 貨物線
中部日本鉄道 石野 - 稲橋村夏焼 40.4km 1924年10月 1929年10月却下
名南鉄道 刈谷 - 鳴海 - 千種 16.4km 1927年9月 1930年3月却下
豊浜鉄道 柳生橋駅 - 浜松 35.4km 1929年3月 1931年12月却下
新三河鉄道[27][24]
大曽根線 大曽根 - 八事 - 挙母 36.5km 1926年3月 1926年10月取得 1935年8月 鶴舞線(一部)・豊田線の原型
八事線 広路 - 八事
尾三電気鉄道・東海道電気鉄道[28][29][30][31][32][19]
熱田 - 有松 - 知立 - 岡崎
- 本宿 - 国府 - 下地 - 豊橋
65.6km 1910年5月 1911年5月却下 名古屋本線東部の原型
御津 - 国府 - 豊川 7.4km 1910年10月
千種 - 矢作 33.4km 1911年10月 1913年2月却下
千種 - 御器所 - 知立 - 岡崎
- 本宿 - 国府 - 下地 - 豊橋
75.2km

33.6km
1913年4月
↓(変更)
1914年4月
岡崎 - 下地間
33.6kmのみ
1914年6月取得
取得区間は愛電へ継承され、
愛電豊橋線(名古屋本線)の一部となる
御津 - 国府 - 豊川
知立 - 岡崎 12.0km 1914年6月 1914年9月却下
有松裏 - 知立 - 岡崎 21.6km 1916年1月 1916年3月却下
東八事駅 - 岡崎 28.0km 1918年2月 1918年7月取得 愛電へ継承
千種 - 鵜沼 1919年1月 取下
知立 - 宇頭 7.8km 1919年9月 1920年8月却下
国府 - 豊川 - 宇利峠 - 浜松 54.9km 1919年8月 1922年9月返付 遠三電気鉄道として事業を分離
古沢 - 平針 11.2km 1920年1月 1920年6月取得 愛電へ継承
古沢 - 愛知 - 中村 - 稲沢
- 起 - 竹ヶ鼻 - 大垣 - 赤坂
43.2km 1920年4月 不明
遠三電気鉄道・遠三鉄道[30][33]
豊橋駅 - 東田 - 多米峠 - 気賀 29.3km 1920年3月 下案に変更
東田 - 豊川 8.6km
豊橋駅 - 東田 - 多米峠 - 気賀 32.5km 1921年11月 1922年9月取得 下案に変更
東田 - 下地
豊橋駅 - 石巻 - 本坂峠 - 気賀 35.2km 1924年10月 1926年12月認可 愛電へ継承
石巻 - 豊川・牛久保 却下
石巻 - 豊川町 5.9km 1927年10月 1928年5月取得 愛電へ継承
渥美電気鉄道[19][34]
渥美線 三河田原駅 - 福江 15.9km 1920年1月 1921年4月取得 1937年10月 1938年以降に国鉄線として工事が
再開されるが未成に終わる
谷汲鉄道[35]
広神戸駅 - 黒野駅 7.1km 1922年6月 1923年12月返付
東美鉄道[36]
八百津線 八百津駅 - 錦織 2.6km 1923年1月 1926年7月取得 名鉄へ継承
中央電気鉄道・城北電気鉄道[37][38][39][40]
押切町 - 上飯田 - 勝川 - 坂下 - 豊岡 14.3km 1924年2月 下案に分割されて一部取得 上飯田 - 味鋺 - 小牧間、
味鋺 - 勝川間は取得後開業
勝川 - 小牧 7.7km
押切町 - 上飯田 5.2km 上案を分割 1926年8月取得 名岐へ継承
勝川 - 坂下 7.5km 1926年8月取得 名岐へ継承
坂下 - 豊岡 1926年8月却下
小牧 - 西小牧 1.1km 1926年8月取得 名岐へ継承
上飯田 - 下飯田 1.4km 1928年3月 (旧)名鉄へ継承
下飯田 - 東大曽根 0.33km 1928年12月
知多鉄道[41]
知多武豊駅 - 武豊駅 1.4km 1932年3月 1932年9月取得 名鉄へ継承
(旧)名古屋鉄道・名岐鉄道[42][43][44][39][45][38][40][46]
八百津線 土田村 - 錦津村 11.8km 1921年7月 1922年9月返付
西枇杷島駅 - 枇杷島駅 0.7km 1921年1月 1922年10月返付
循環線 枇杷島 - 四女子 - 西築地 - 東築地
- 呼続 - 御器所 - 大曽根 - 枇杷島
37.3km 1919年4月 1924年7月取下
横断線 四女子 - 御器所
太田線 今渡駅 - 太田 1.0km 名古屋電気鉄道より継承 1925年6月
尾北循環線 清洲駅 - 奥田駅 - 萩原町 - 起駅 - 奥町駅 9.6km 1921年4月 1923年5月取得 1929年9月
奥町駅 - 木曽川 - 浅井 - 古知野駅 16.1km 1927年6月
関線 新鵜沼駅 - 関 12.1km 名古屋電気鉄道より継承 1927年8月 関線(犬山線)の残区間
中村町 - 稲永新田 13.1km 不明 不明 1930年3月
押切町 - 上飯田 5.2km 城北電気鉄道より継承 1931年2月 城北線(小牧線)の残区間
新勝川駅 - 坂下 7.5km 1931年2月 城北線(勝川線)の残区間
新小牧駅 - 西小牧 1.1km 名鉄へ継承
上飯田駅 - 下飯田 1.4km 城北電鉄が
出願
1931年2月取得 名鉄へ継承
下飯田 - 東大曽根 0.33km
中村線 中村町 - 甚目寺 - 新清洲駅 8.3km 尾西鉄道より継承 1932年5月 中村線(国府宮支線)の残区間
祖父江線 国府宮駅 - 森上 - 祖父江 10.8km 1927年2月 1927年6月取得 下案に変更
奥田駅 - 森上 - 祖父江 11.7km 1929年1月(上案から変更) 1932年6月
長住町駅 - 芥見村 12.3km 1928年6月取得 1932年11月
名古屋地下鉄道[47]
熱田 - 栄町 - 名古屋駅前 1929年1月 1931年6月却下 名岐・愛電が共同出資
(現)名古屋鉄道[48][39][40][49][50][51][46][52][53][54][55][56][57]
新小牧駅 - 西小牧 1.1km 名岐鉄道より継承 1937年11月 城北線(小牧線)の残区間
上飯田 - 下飯田 1.4km 名岐鉄道より継承 1939年2月
下飯田 - 東大曽根 0.33km
八百津線 八百津駅 - 錦織 2.6km 東美鉄道より継承 1943年8月 八百津線の残区間
植田駅 - 船渡町 2.5km 1943年1月 1944年4月返付
河和駅 - 内海 7.6km 1944年7月 1945年10月返付
工廠線 豊橋市花田 - 八幡村 7.6km 1940年 1947年12月返付
飛行場線 豊橋市花田 - 豊橋市大崎 8.1km
三河線 西中金駅 - 足助 7.3km 三河鉄道より継承  1958年6月 三鉄足助方面線の残区間
市内乗入線 天白信号所 - 熱田 6.0km 愛知電気鉄道より継承  1958年6月 愛電市内乗入線の残区間
知多武豊駅 - 武豊駅 1.4km 知多鉄道より継承  1958年6月
鳥居松線 新小牧駅 - 鷹来 - 新勝川駅 - 味鋺駅 12.7km 1941年9月 却下
鷹来線 新小牧駅 - 鷹来 4.4km 1943年10月取得 1961年7月
岐垣鉄道 茶所駅 - 西大垣駅 - 名鉄・近鉄・岐阜市・大垣市出資
1953年7月に名鉄が計画発表
養老長良線 長良橋駅 - 新岐阜駅 - 宇佐 - 大垣 - 養老滝 32.1km 1961年3月 不明 モノレール構想
宇佐 - 羽島 11.1km
名古屋空港線 味美駅 - 名古屋空港 - 運輸政策審議会答申路線

特記事項

路線の特徴

路線網配置の項目で述べたように、岐阜方面と豊橋方面に支線を持ち、双方が名古屋方面に集中する。岐阜 - 豊橋・犬山 - 常滑など、名古屋駅を経由する電車がほとんどであり、路線が集中する名古屋本線枇杷島分岐点 - 神宮前間は上下共に約2分30秒間隔で行き来する高密度運転区間である。

名鉄の西半分を建設した会社である名岐鉄道は、市内線(路面電車)事業を発展させる形で路線を建設したことから、市内線の市営化後も1941年まで、名鉄の電車が市電に乗り入れて市内の柳橋駅ターミナル駅にしていた。

名古屋本線は古くからの市街地・宿場町を結ぶ目的で敷設された関係から、名古屋電気鉄道の建設した枇杷島橋(現・枇杷島分岐点) - 丸ノ内間、美濃電気軌道の建設した茶所 - 名鉄岐阜間と、愛知電気鉄道の建設した神宮前 - 桶狭間(現・中京競馬場前付近)間は曲線区間が多い。特に名古屋 - 岐阜間では、岐阜駅付近(最小半径100m)を始め、名古屋駅へ乗り入れる枇杷島橋以南の路線も最小半径130m(両者とも戦後に緩和されたがそれでも160m)の急曲線で建設したことから、並行するJR東海の東海道本線に対して所要時間・運賃いずれにおいても相当に不利な条件となっている。同じ名古屋本線でも、郊外の区間では高速運転を前提に敷設し、優等列車が120km/h運転(対応車のみ)を行っているのとは対照的である。

名古屋本線の伊奈 - 豊橋間のうち、平井信号場 - 豊橋間はJR東海飯田線と線路を共用している。1920年代中期、小坂井駅まで到達した名鉄の前身の愛知電気鉄道(愛電)が豊橋への延長を模索するにあたって、飯田線の前身である豊川鉄道が自社に並行する愛電線の建設を遮る動きがあったため、愛電・豊川鉄道がそれぞれ敷設した単線の線路同士をお互いに共用することで複線として機能させる協定を結んだ。愛電が名鉄に、豊川鉄道が国鉄からJR東海の路線へとそれぞれ移管された現在でも、この線路共用の協定は継続している。このため同区間は、最高速度が飯田線の規格である85km/hに、豊橋駅の発着番線が1線に、列車乗り入れ本数が毎時6本以内(現行では快速特急・特急・急行とも各2本)にそれぞれ制限されるなど、名鉄ダイヤの大きなボトルネックとなっている。この影響で、毎時2本の急行が国府駅から豊川線へ分かれ豊川稲荷駅で、同様に本線系の普通も伊奈駅で折り返さざるを得なくなっている。一部の豊橋発着列車では、特急列車として運用された列車が急行列車になったり、急行列車として運用された列車が特急列車として運用されたりするケースがある。その際には、特急車両を使用するため、特急以外の運用の際は特別車両部分を閉め切って営業している(回送#送り込み列車の例でも記載)。

また、名古屋本線の名鉄岐阜駅ホームに入る直前も単線になっており、東海道線と直接競合する区間の両端にボトルネックを抱えていることになる。

名鉄線で使用されている踏切警報機1980年代から、閃光灯を覆う部分が四角い独特の形状になっている。これは、自動車からの踏切視認性(特に警報時)を考慮したものであり、テンプレート:要出典範囲名鉄の特徴となっている。

他私鉄との競合

現在の競合はJR東海との間で繰り広げられているが、過去には近畿日本鉄道(近鉄)や東京急行電鉄(東急)と路線やグループ企業の拡大を巡って競合していた時期がある。

近鉄との競合

昭和初期の三重県には伊勢電気鉄道(伊勢電)が、岐阜県の西部には養老鉄道(養老鉄道養老線の前身だが2007年10月より同線を運営している養老鉄道とは別企業)が営業を開始していた。当時の名岐鉄道は三重県への拡大を目指しており、昭和恐慌の影響で経営難に陥っていた伊勢電に触手を伸ばし、名古屋 - 桑名間の路線免許を申請していた。同時期、近鉄の前身の一社である参宮急行電鉄(参急、後の関西急行鉄道)も名古屋進出の足掛かりとして伊勢電を欲しており、両社が吸収合併を目的とした支援合戦を繰り広げていた。結局、この争いは参急側に軍配が上がり、現在の近鉄名古屋線の大部分を占める重要路線を手にした。

なお、1960年頃(近鉄名古屋線の狭軌時代)まで、新名古屋駅(当時、現在の名鉄名古屋駅)と隣接する近鉄名古屋駅の間には連絡線が敷設されており、名鉄線-近鉄線相互間で団体列車に限り直通運転を行っていた。また、戦前から戦後の一時期に新名古屋駅で近鉄線の発券および改札を行っていた時期があった(2001年までは、名鉄線各駅-近鉄線各駅相互間の連絡切符も通常発売していた)。

その後、近鉄は1959年の名古屋線の標準軌改軌(名阪直通特急の運転開始)を境にして、名鉄の牙城である東海地方への進出を積極的に行うようになり、1961年には、旧養老鉄道岐阜線免許を使用して大垣 - 羽島間の新線の建設を発表、さらに岐阜への延長を画策した。名鉄では対抗策として岐阜から羽島を経由して養老を結ぶモノレール線の建設(この計画は、後に羽島線建設に変更・縮小された)を発表するなど、高度経済成長期の事業拡張に伴って、両社の関係は再び険悪化して行った。

他にも、名神高速道路が一宮まで開通した折には高速バスの路線免許を廻って争いが発生し、名鉄主導の日本急行バスで一本化が決まっていた私鉄系のバス会社(路線)[注釈 20]に対し、土壇場で近鉄主導による日本高速バスが参入を強行し、開業後も激しい競合のために両社が共倒れ寸前に陥りかけた。また、近鉄がテリトリーとしていた石川県において、名鉄が中部運輸局(運輸省・当時)の要請に呼応して北陸鉄道の支援を行った際には、対抗措置として北陸日本交通なるバス会社の設立を目論む(後に北日本観光自動車へ合併させるが、路線拡大は却下された)など、名鉄と近鉄の両社は1970年頃まで激しく対立していた。

しかし1980年代以降、次第に両社は競合から協調関係に入り、名鉄各駅や電車内に近鉄グループの「志摩スペイン村」や近鉄特急アーバンライナー等の広告を、近鉄各駅や電車内に名鉄グループの「明治村」や名鉄特急ミュースカイ等の広告を互いに出すようになり、南海電気鉄道とともに「3・3・SUNフリーきっぷ」(2006年に販売終了)を発行したり、近鉄とは完全な提携関係を築いている。また、名鉄名古屋駅のタクシー乗り場は「名鉄・近鉄タクシーのりば」として、名鉄交通など名鉄グループに加え、名古屋近鉄タクシーも乗り入れている。

2012年には、名鉄名古屋駅と近鉄名古屋駅を一体化し、相互の乗り換えを便利にする構想が発表された[58]

2013年3月23日には名鉄で発行しているICカード乗車券「manaca」が近鉄線で、近鉄で発行しているICカード乗車券「PiTaPa」「ICOCA」が名鉄線でそれぞれ利用できるようになった。また、2014年9月21日には近鉄とのmanaca・ICOCAのIC連絡定期券も発行される予定である[59][60]

東急との競合

名鉄はグループ展開を行う過程において、東急(東急グループ)と激しく競合・対立していた時期がある。その最も有名なものとして「全日本空輸」(全日空、現ANAホールディングス)設立時の経営権を廻る争いがあげられる。全日本空輸は「日本ヘリコプター輸送」(日ペリ)と「極東航空」が合併して誕生したが、当時の日ペリは名鉄が経営権を握り、極東航空は東急系列として誕生していたため、合併後の経営権を廻って、株式や株主総会の議決権を委任する委任状の取得合戦を展開するなど、一時はお互い一歩も引かぬ総力戦の様相を呈した。やがて名鉄は争いに疲れて全日本空輸の経営権を諦めるが、近年になって東急側がグループ再編の一環として全日本空輸株の一部を名鉄側に譲り渡し、再び名鉄が筆頭株主となり中部国際空港の開港を契機として、名鉄と全日本空輸は一層結びつきを増している。

また、北海道東部を自社グループのテリトリーとしていた東急は、名鉄が「網走バス」の支援を決めると様々な対抗策を打ち出して、名鉄の北海道進出を阻止する動きを見せた。その一つとして、名古屋の観光バス業界では老舗である「鯱バス」が経営難に陥った折、名鉄に先んじて有利な支援を次々に行った。名鉄も地元の名門を手に入れるチャンスであっただけに、熾烈な支援合戦を展開したが、結局東急は「鯱バス」をグループへ取り込むことに成功して名鉄に一矢報いている(なお鯱バスは2009年10月1日をもって東急グループから離脱しジェイ・コーチグループに入り、網走バスも2012年に名鉄グループを離脱した)。

全日本空輸総代理店

テンプレート:See also 名鉄は、ANAホールディングス(全日空、旧全日本空輸)の筆頭株主であり、名古屋地区総代理店として愛知岐阜三重静岡長野の5県の全日本空輸の業務を行ってきた。総代理店とは、全日本空輸の黎明期から、各就航地において、地元の有力企業に全日本空輸の市内(営業)・空港業務を委託した制度である。名鉄では、名古屋・静岡・長野(市内業務)と名古屋空港(空港業務)の4航空営業所を展開して、名古屋空港(現県営名古屋空港)の空港ハンドリングも含め全日本空輸総代理店業務を推進してきた。中部国際空港の開港で名古屋空港航空営業所は廃止され中部空港航空営業所が設置された。また、ANAセールス株式会社の展開で総代理店の市内業務の中身も変化した。最後まで残った総代理店業務も、名古屋予約センター・栄カウンター業務は2006年12月末で、中部国際空港国内線旅客・貨物業務は2007年6月末で契約終了、業務は終了した。現在、名古屋カウンター業務はANAセールス株式会社が、中部国際空港ハンドリング業務は、名鉄も出資しているANA中部空港株式会社(元の国際エアラインサービス)で行っている。

また、全日本空輸の名古屋 - 南紀白浜線が就航していた当時は、白浜航空営業所を設置して南紀白浜地区総代理店業務を受託していた。

競馬

2002年中京競馬場でスタートしたレース「名鉄杯」(非重賞)に賞を出している。中央4場では観客輸送にかかわる大手私鉄が賞を出しているが、それに続く形となった。発走時のファンファーレは通常の中京・小倉共通特別競走(非重賞)用のものではなく、パノラマカーのミュージックホーンをアレンジしたものが名鉄ブラスバンドにより生演奏されており、中京のファンに親しまれている。

また中京競馬場内には、かつて現役で運用されていたパノラマカー7000系の車両を利用した「ビュッフェ・パノラマステーション」がある。

なお競馬開催時の臨時列車は現在設定されていないが、最寄の中京競馬場前駅には急行と午前中の快速特急が臨時停車する(場外発売時の土曜日は夕方のみで特急系列は通過、日曜は夕方まで、開催日は場外日曜時より早い時間帯から急行の停車、高松宮記念及び有馬記念当日は夕方の特急・快速特急も停車)。

案内表示・放送

  • 豊橋駅をのぞく名鉄駅のホームの表示はJRのように駅舎がある側から1番線、2番線…ではなく、西側(名古屋本線下りホーム)から1番線、2番線…となっている。名古屋本線に直通する路線もこれに則った表示をしている(豊川線、常滑線、空港線、河和線、知多新線、尾西線の一部、各務原線、豊田線、三河線の一部をのぞく)。瀬戸線は瀬戸方面が1番線、栄町方面が2番線と分けられている。
  • かつては設備面などにおいて他の大手私鉄会社と比較すると近代化が立ち後れている面が否めなかった。しかし中部国際空港の開港や名鉄グループ内での大幅なリストラ、トランパス導入に伴う駅集中管理システム導入の推進などもあって、近年はユニバーサルデザインのピクトグラムを導入するなど首都圏の大手私鉄会社にひけをとらない水準にまで向上している。しかし一部の主要駅では一世代前(CI展開初期)のものが使われている駅もある。
  • 車内放送はミュースカイ、特急列車(ただし1000系・1230系で運用される列車はのぞく)、豊田線、瀬戸線やワンマン列車では自動放送で案内される。また特急列車では英語での案内放送や、特急列車と急行列車の一部で中日新聞ニュースも文字放送で流している。
  • LEDの車内案内装置を搭載している車両では走行中、列車の走行を模した速度表示が行われることがある。左側に速度を表示し、速度に合わせて右端から車両が姿を見せ、最高速度(120km/h)で速度表示の隣に達する。また、下段は線路をイメージしており、速度に伴って動きが変化する。
  • 列車の案内放送は、基本的に「種別・行先」の順(例:快速特急・新鵜沼行き)であるが、駅ホームの自動放送では「行先・種別」の順(例:犬山行き普通)である。しかしながら、最近になって自動放送装置が更新された駅では「種別・行先」の順で放送される。なお、近年投入された車輌には、乗降促進メロディの吹奏装置が設置されている。ただし、鶴舞線直通用の車輌と3100系3次車は「プルル、プルル、プルル」という音の交通局で使われているものと同一(ただし、若干音が甲高く、大きい)の発車の際に鳴らすブザーが設置されている。
  • 各主要駅のホームや改札口などに設置されている発車標は名鉄名古屋駅で液晶式のものが使用されているのをのぞくと、行灯式や反転フラップ式のものが広く使われていたが、近年のバリアフリー化などに伴い、それらは順次LED式のものに交換され、いずれもその数を減らしつつある。なお、LED式のものについては、従来は3色式であったが、最近交換もしくは新設されたものは種別部分のみフルカラー表示となっている。
  • 列車の行き先の中には、須ヶ口、佐屋、柏森、伊奈など地元住民・利用客以外は所在地・行政名をすぐに連想できない駅名がいくつかある。そのため特に名鉄名古屋駅では「名古屋本線・伊奈行き急行」、その他の駅では「名古屋方面・急行須ヶ口行き」や「津島方面の電車がまいります」などのような案内放送がよく聞かれる。
    • 過去、支線直通が盛んな時代には特急森上行き、今渡行きなどの列車もあり、系統板の使用が一般的であった時代には、行先横に『名古屋方面』と肩書き(朱書き)されたり、『名古屋』を中央に大書し下部に『方面』、横に小さく本来の行先(『今渡』など)を配した系統板が多用された。
  • 準急以上の列車が各駅停車の区間を走る場合、種別表示幕の表示は時刻表上の種別表示に従う。岩倉以北の準急、豊川線、知多新線などでは、普通に種別変更しない限りは優等種別を表示したまま運行する。
    • 種別板を使用する列車の場合は、1964年頃から各編成の前頭部に全種別をセットした種別板を装備(常備)[注釈 21]し、普通列車は無表示(車体色と同色)の板を使用する。7700系までの各系列・車両(ただし、種別も一体で表示する『逆さ富士』板が装備された7000系・7500系などをのぞく)では系統板と共に日常的に使用されていたが、7700系の廃車(2010年3月)以降は種別幕の故障(破損)等で臨時に使用される場合に限られる。種別板は1964年(昭和39年)5月6日に表示改正され、特急が白地に赤字、急行が黄地に黒字、準急が緑地に黒字と制定された[61]。その後の変遷は以下のとおりである。
      • 準急の種別板は、1980年まで青地に黒字、1980年から橙色地に白抜き文字(ごく短期間のみ使用)、1981年以降は上半白地・下半黄色地に黒字という変遷を辿っている。
      • 急行の種別板は一貫して黄色地に黒字である。また、2005年まで存在した600V区間用の各車両(種別幕装備車をのぞく)は円形の種別板を装備し、白地に黒字であった(裏面は車体色と同色)。
      • 特急の種別板は、1982年までが白地に赤字、1982年以降は銀色地に赤字(グレーの縁取り)となった。また、特急(座席指定)の系統板も白帯車登場(1982年)前までが黄色地に黒字、それ以降は緑地に黒字[注釈 22]へと変更した。
      • 1977年から1990年まで存在した「高速」の種別板は、白地に青字であった。
      • 快速急行の種別板はほとんど使用されたことがないが、銀色地に橙色字である。2005年以降は使用されていない。
      • 回送の種別板は、緑地に黒字である。
  • 乗車券類には淡黄色でMeitetsuと地紋が印刷されている。また、定期券には偽造防止用に薄く「M」と書かれている。
    • 新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)発行の乗車券は、今までに淡青色・淡緑色など他駅とは違った地紋色を使用していた期間がある(1950年代には発駅地帯毎に地紋色を変えていた時期があった)。
    • かつての「座席指定券」(現・ミューチケット)は淡黄色の地紋が基本で他に淡緑色・淡紅色などもあった。オンライン発券開始(1983年)以降は淡緑色の地紋を使用していたが、普通乗車券なども発売できる「複合端末」導入後は他の乗車券類と共通の地紋に変更されている。
  • 主要駅の乗車位置は1 - 16と2扉車用に表示されている。しかし、現在は3扉車の割合が高くなっていることから、奇数と偶数の間に「3扉車の中間扉」の表示をつけた駅や、1 - 24と3扉車を前提に表示されている駅もある。

広報・広告

  • 2006年7月15日より放送が開始された同社の企業広告である「いってらっしゃい。おかえりなさい。名古屋鉄道」のCMソングに、シンガーソングライターの小田和正が楽曲を提供。デビューから37年が経つ小田が地方ローカルCMへ楽曲を提供することは初めてであり、小田のファンや鉄道ファンの話題を呼ぶ(楽曲名『大好きな君に』・アルバム「そうかな」収録)。2008年10月からは「ありふれた日々篇」の放送が開始され、使用楽曲は小田が1993年に発表した「風の坂道」に変更となる。CMタイトルの「ありふれた日々」というのは「風の坂道」の歌詞からの引用である。
  • 基本的に1年間隔を目安としてダイヤ改正を行い、その都度「名鉄時刻表」を発行している。「名鉄時刻表」は各有人駅の窓口や駅売店・旅行センター、中京圏で無くとも一部の大手書店などで購入可能。A4サイズ。
  • 毎月、沿線の観光情報や名鉄の取り組みを紹介する「Wind」という冊子を発行している。Windは名鉄の有人駅や、近鉄の主要駅などでも配布されている。
  • 近年では犬山(日本モンキーパーク明治村など)の観光PRを強化しており、関西圏や首都圏の大手私鉄の広報誌でのコラボ企画や吊り広告の展開を行っている。
  • 沿線の施設などでイベントがある際は、宣伝も兼ねてラッピング車両が走ることがよくある。代表的なものでは、春から夏の時期に子供たちに人気のあるポケットモンスターのラッピングを2000系などに施すことや、受験シーズンのキットカットのラッピングなどがあげられる。

乗務員と運転業務

  • 社員の制服は2014年6月以降はダークネイビーを基調としている。[62]冬季に上着を着用する場合、当社制定の社章を当然の如く着用しているが、その下に「PRU」(私鉄総連)のバッジも着用している乗務員が大多数である。夏季は開襟シャツを着用する。なお、役職によって上着の形状が異なり、管理職以上の者と専務車掌はダブルの上着を着用している(夏季は一般乗務員とは異なる薄い緑色の上着を着用)。制帽に関しては、役職によって巻かれている金線の太さが異なり、助役以上の役職は太い金線(駅の営業助役は加えて赤色の線が入る)、助役補佐に関しては細い金線が巻かれている。
  • 駅発車時には、ワンマン運転や車掌乗車の電車で運転士がドア扱いをした時以外、電鈴を2回鳴らすように義務づけられている。これは発車の合図で、運転士は電鈴が鳴るまえに発車させてはならない。大半の車両は「チン、チン」と鳴るベル式の電鈴を装備しているが、2002年登場の300系以降の新造車両と、相互乗り入れを行っている上飯田連絡線・鶴舞線の名古屋市交通局所属車両の一部はブザーを採用しているため、合図は「プッ、プッ」となっている。また、進行方向後ろの乗務員室から乗降客全体の安全確認ができない場合、運転士が安全確認を行い、車掌にドア閉めを要求するために鳴らすことがある。
  • 駅到着番線(入線ホーム)の伝達も電鈴が使用される。これは到着番線が列車によって異なる名鉄岐阜駅で主に行われており(それ以外の駅でも行われる場合はあり)、運転士が信号・進路等を確認、電鈴を使用して車掌に合図(1回で進行方向右側、2回で進行方向左側)を送り、車内アナウンスで下車扉を正しく案内できるように補うもの。この場合は、車掌が電鈴を待ってから下車のアナウンスをするケースが多い。
  • 普通列車などが優等列車を通過待ちする時は、停車中の列車乗務員は必ずホームに立ち通過監視を行う。その時、運転士はブレーキハンドルを非常ブレーキ(常用ブレーキ最大位置や両者の中間であることもある)にセットし、リバースハンドル(主幹制御器に取り付ける前進・後進の切り替えハンドル)を所持してホームに立つ。なお、固定式ワンハンドル列車の場合、リバースハンドルの代わりにマスコンキー(固定式ハンドルを動かすために使う鍵)を所持し監視にあたる。ただし、運転席が2階にあったパノラマカー(現在は運用を離脱)では、運転席からホームへの移動が大変なため行わない場合が多かった。
  • 運転士のスタフ(行路表)は進行方向から見て左に置かれている。そのため指差確認はJRのように右手で行わず、左手で行っている(ブレーキハンドルから手を離さないためでもある。ワンハンドルの車両でも動作は変わらない)。なお、加速中に指差確認を行う場合は、マスコンから手を離さず、左手人差し指をスタフに向ける動作で済ましている。
  • 運転中の指差称呼はJRに比べて少なめで、基本的に指差称呼を行うのは、発車前に行う次停車駅の確認と出発信号機(警戒表示以上)の確認。駅の停止・通過確認。分岐点(平井信号場と枇杷島分岐点)の通過側信号確認時で、それ以外(閉塞信号機表示確認・制限速度確認等)では口頭で済ませることが多い。
  • 増解結を行う際、作業を担当する駅員は必ずヘルメットを着用する。作業で使用する旗もしくはライトは、赤が「止まれ」、緑が「進め」である。
  • 速度制限標識は、制限速度の下に曲線(半径m単位)、下り勾配、分岐(方向は矢印で表示)、構内、ATSなどの理由が記載されている。これが数字のみのものは制限速度で通過した場合の速度制限を受ける秒数を表す(JRなどのような距離ではない)。いずれの場合も口頭では制限速度のみを称呼する。
  • 閉塞信号機の名称番号は、キロポストに基づいた起点からの距離(m)÷100の近似値が方向により偶数・奇数に分けて付番されている。口頭では現示と進行・停止以外における制限速度のみ(「注意65」「減速85」など)を喚呼するが、豊橋 - 平井信号場間のJR共用区間ではJRの規則に従って「第3閉塞・注意45」「第2閉塞・減速65」のように称呼する。なお、信号喚呼位置標識はJR共用区間をのぞいて信号警標の基本デザインたる縦長方形で黄色地に黒縞が斜めに2本入ったものである。
  • 他に名鉄独特の標識としては、指示速度やパラレル止めなどのノッチ指定を記した力行標や惰行標(通称オフ板)があるが、名古屋本線では1990年代にスピードアップが進む過程で撤去されほとんど残っていない。従って現在は本線ではフルノッチに投入し区間最高速度まで上げる走行が原則となっている。なお、制動標(通称H板)については各線とも引き続き掲出され、分岐方(副本線)用の表示にはブレーキ初速度を併記している。
  • 単線区間での列車交換(行き違い)のことを、内部では離合と呼んでいる。

ダイヤ

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  • ラッシュ時は優等列車中心となる中での小駅の利便性を確保するなどの様々な事情により、一時期よりは減少したものの、前述の特別停車が多い。かつては朝ラッシュ時や臨時の特急列車や、椋岡駅(廃止)・学校前駅(廃止)・江吉良駅等では近年(最終は椋岡駅の2006年)まで残っていた普通列車の特別通過もあった。特別通過は2011年3月26日のダイヤ改正で朝ラッシュの上り特急の笠松駅新木曽川駅において復活している。また、同様の理由で途中駅での種別変更も多く、中には2 - 3回種別変更する列車もあり、特に朝ラッシュ時には様々なパターンが見られる。
  • 本線系の路線では始発列車最終列車が普通列車ではなく優等列車となる場合が多い。他社の路線ではあまり見られない特徴である。
  • ダイヤ策定の際に編成両数はあまり考慮されておらず、ドアカットが頻繁に発生している。実施例については当該項目を参照。
  • 以前は大晦日に、初詣客用として午前3時台まで普通列車(末期には神宮前駅豊明駅新一宮駅犬山遊園駅太田川駅の各駅間)を約1時間間隔で運転していたが、2004年大晦日の運転をもって中止した。
  • お盆期間は休日ダイヤでの運行となる。ただし豊橋駅 - 伊奈駅間はJRに乗り入れていることから、JRの平日ダイヤに合わせるため一部列車の発着時刻が通常より数分変更される。
  • また毎年1月・2月(2月は土休日のみ)は豊川稲荷への初詣客用のために豊川線に直通する特急列車(全車指定席、のちに全車特別車)を増発していた時期もあった。2005年の空港線開業後は中部国際空港への輸送を比重に置いているために豊川線内の区間列車の増発のみに留まっている。
  • 名鉄名古屋駅付近の高密度ダイヤ設定のためや、きめ細かくスピードアップ(または逆に余裕時分の付加)を行うために、ダイヤ(列車運行図表)上の運転時分・停車時分は5秒単位で設定されている。極端な例をあげると、発車時刻が0分55秒であっても、時刻表には案内上00分発と表示され、01分発となることはない。なお、一部の支線は10秒単位、豊橋駅付近のJR共用区間は15秒単位となっている。
  • 神宮前 - 枇杷島分岐点の高密度運転のため、特にラッシュ時などでは時刻通りに運行されることは多くない。余裕時分が乏しいうえに混雑する本線の特急は特に遅れやすく、1・2分の遅れはざらである。折角の5秒刻みのダイヤも、あくまで目安となってしまうケースが少なくない。

車両の輸送

名古屋鉄道の車両の甲種輸送の際は、豊川駅→JR飯田線豊橋駅→JR東海道本線笠寺駅名古屋臨海鉄道東名古屋港駅 - 名鉄築港線 - 大江駅の経路で搬入され、ここまでは機関車に牽引されるが、その日の終電後に豊明駅舞木検査場などへ自走する。出発地が豊川駅なのは現在在籍している車両が全車豊川市に工場のある日本車輌製造製であるためである(ただし閑散線区合理化の際にディーゼル車を導入した際のメーカーは富士重工業だった)。

名古屋市営地下鉄鶴舞線は名鉄と線路がつながっていて、地下鉄桜通線は鶴舞線と線路がつながっている関係で、これら2路線の新車も名鉄で輸送する。大江駅までは名鉄の新車と同じ経路で、その日の終電後に大江→金山→知立→豊田市→赤池の経路で日進車庫に入庫する。上飯田線も名鉄と線路がつながっている(実質小牧線と一体化)ため、犬山検車場まで名鉄で輸送されて入庫する。

名鉄が(名古屋本線経由で)豊橋から直接車両を搬入しない理由は、名古屋本線における営業時間内の甲種輸送が法的に認められていないこと、新車運行手続き・自走するための整備に必要なスペースが豊橋にないこと、営業時間外であっても名鉄に所属する電気機関車がいずれも非力で、かつ名古屋本線の国府 - 岡崎間では急勾配が続くため牽引による搬入が不適なことによる。逆に、名鉄から他社に車両を売却する場合は甲種輸送とは逆の経路で笠寺駅まで出て、そこから売却先へと輸送される。なお、瀬戸線は孤立した路線のため、東名古屋港駅岸壁の海外輸出用の留置線でトレーラーに乗せ換えて、一般道経由で尾張旭の車両基地に搬入される。

過去、国鉄時代の刈谷駅では貨物扱いを行っており、側線を通じ名鉄刈谷駅で新製車両の搬入を行っていた時期があった。また瀬戸線も過去には大曽根駅構内にあった貨物扱い用の側線を使って国鉄線から車両の搬入・搬出を行っていたが、栄町乗り入れに伴う大曽根駅のホーム延伸に伴って側線が廃止されたため、瀬戸線の車両搬入は前述の方法に変更された。

代表的な名鉄グループ企業

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愛知県に拠点を置く運輸業

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愛知県以外に拠点を置く運輸業

その他グループ企業

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過去のグループ企業

その他関係の深い企業

2013年現在、ANAホールディングス(全日空、旧全日本空輸)の筆頭株主であり、単体で発行済株式の2.07%をもち、前述したようにかつては全日本空輸総代理店業務を行っていた。

1952年(昭和27年)に全日本空輸の前身となる「日本ヘリコプター輸送(日ペリ航空)」が設立された際に名鉄は出資を引き受けて関係を持つようになったが、日ペリ航空の経営は苦しい状態が続き、1954年(昭和29年)に名鉄に対し資金援助を要請。名鉄は当時の金額で3,500万円を融資し、窮地から救った。全日本空輸創業以来の役員で1987年(昭和62年)当時副社長であった福本柳一は手記の中で次のように述べている。

「名鉄が全日空生い立ちのために(中略)神野社長以下3代にわたり何くれとなく尽くしてくれた並々ならぬ恩義に対しては、いやしくも全日空の食をはむ者の断じて忘れてはならないことである」[63]

その後も、名鉄傘下の中日本航空が運航していた定期路線便は1965年(昭和40年)に全日本空輸に譲渡、名鉄、中日本航空、全日本空輸3社の出資でコミューター会社の「エアーセントラル」(旧:中日本エアラインサービス)の設立など両社は現在に至るまで常に深い関係にある。また、金山駅南口にある「金山南ビル」の「ANAクラウンプラザホテルグランコート名古屋」も名鉄と全日本空輸の協力関係の中で設立されている。

そのほか、丸栄名古屋観光ホテル御園座などにも出資している。

1951年からは中日ドラゴンズに出資(これに伴い、球団名を「名古屋ドラゴンズ」に変更)、中日新聞社と隔年で球団経営を行ったが、3年で撤退。その後球団数拡大を目指すパシフィック・リーグから新球団設立の話を持ちかけられたが、中日との観客の奪い合いによって共倒れになることを恐れたため断っている。2リーグ分裂の話が持ち上がった1949年にも、プロ野球への参入を考えていた朝日新聞が、名鉄と地方紙「新東海」を提携させて鳴海球場を本拠とする新球団を発足させる構想(「朝日レッドソックス」という名称が報じられたこともあった)があった[64]

提供番組

テンプレート:Notice テレビでは提供クレジットは英字で「Meitetsu」と表示されるが、読み上げられる場合は日本語で「名古屋鉄道」となる。なおグループの名鉄百貨店は異なるロゴの「MEITETSU」をクレジットに使用している。

現在(2011年現在)

過去

ほか。

脚注

注釈

  1. 名鉄まるわかりブック』(p12)記載の2007年時点の445.4kmから2008年12月廃止のモンキーパークモノレール線1.2kmを差し引いた値。
  2. 松坂屋との交渉決裂を受けて、阪急の創業者小林一三の提案が百貨店進出のきっかけとなっており、開業までの準備や社員研修など阪急グループの強力なバックアップがあった。
  3. 3.0 3.1 現在の「パレマルシェ」。ただし、現在は名鉄グループから離脱している。
  4. 後の「名鉄住商工業」。現在は再び名鉄直轄事業として、名鉄本体へ吸収合併された。
  5. 「名鉄住商車両工業」はその名から分かる通り、車両納入に際して関係の深かった住友商事との合弁の形を取り、信号関係は京三製作所、通信関係は東芝など、単純に名鉄本体から切り離す『分社化』とは違い、取引企業との共同出資を基本とした。
  6. 戦中の製造車(3550系など)、または終戦直後に割当てられた初代3700系(国鉄63型)など少数の例外はあった。
  7. 規制緩和の一環として導入された『参入・退出の自由』化で『届出後1年で廃止可能』となった影響が大きい。また、世界的な巨大企業へと成長した『トヨタ自動車』が象徴するように、自家用車の浸透による旅客減の影響も無視できない。
  8. 厳密には、新会社の設立時に名古屋電気鉄道の経営陣(事実上オーナー)も直接出資(10%程度)しているため同社の100%出資ではないが、出資者はすべて新会社(分割会社)の経営陣へ横滑り(兼務)しており、直接出資分は発足時の「増資」(手持ち資金の確保・拡充)とも捉えられるため、実質的には「全額出資」と見なしてよい。
  9. これを現代風に言うと「会社分割」にあたる。一部の事業部門(この場合「郡部線部門」)を分社化したものと捉えることができる。
  10. ただし、運用上どうしても新名古屋駅に停車する営業列車に非冷房車が連結される場合が存在したが、その場合は同駅において該当車両のドア扱いを行わないことで「100%」とした。
  11. 特急列車を「出入台」・「リクライニングシート」など設備の整った専用車での運用に統一し、7000系白帯車はこの改正から特急運用を外される。ただし、この改正では後に行われる「特急政策の見直し」までは想定していない。
  12. 主に名古屋 - 豊橋間で展開。指揮に当っていた当時の副社長犬飼栄輝が、名古屋本線特急の運行状況を中日本航空のヘリに乗って上空からチェックする程の熱の入れようであったという。
  13. 名古屋観光を設立以降、名鉄本体に貸切バス専門の事業部門はない。
  14. 特急に「座席確保(指定)」料金制度(期間限定)を導入した1964年、「座席指定特急」を通年運行とした1970年、「特急」(座席指定)と「高速」を分離した1977年、「特急」に一部指定制(一般車の併結・「高速」を「特急」へ併合)を導入した1990年、そして今回と、名鉄による『特急政策』の大幅な方針転換は5度目となる。
  15. 法規上は軌道線の豊川線
  16. JR四国をも上回り、JR各社を含めても日本全国第6位
  17. 名古屋都市圏よりも人口密度の低い福岡都市圏を走る西鉄よりも輸送密度が低い。
  18. 「急行」・「普通」などから「特急」へ種別変更するケースは特殊な場合をのぞいて見られなかった。「特急」同士では「北アルプス」が社線内特急(料金種別が異なるので、特急券と座席指定券が個別に必要)へ変更するケースは存在した。
  19. 名鉄名古屋駅までの折り返し乗車は無条件でできるわけではない。以下の例は不正乗車となる。
    • 名鉄一宮駅から名鉄名古屋駅まで特急を利用し、栄生駅まで普通で折り返す(東枇杷島駅、下小田井駅以遠までの場合は不正乗車にはならない)
    • 名鉄一宮駅から名鉄名古屋駅まで急行を利用し、犬山駅まで急行を利用する(急行以下同士の場合は栄生駅で乗り換えなければならない、津島・岐阜方面と犬山方面のどちらか一方が快速急行以上でなければならない)など
  20. 当初の運輸省案では、私鉄連合(1社)にのみ路線免許を与え、国内の高速道路すべてをこの枠組みで進める目論見で、名神高速道路沿線の私鉄(名鉄25%・京阪12.5%・阪急12.5%)を中心に大手私鉄各社(在京7社・在阪3社は各5%)に出資を求めた。後に国鉄(当時)も参入の意欲を示し、主導権が取れず不満を持っていた在阪の3社(近鉄・南海・阪神)も、独自参入を強行するきっかけとなった。
  21. それ以前は普通が種別板なし(系統板のみ)、準急以上の列車には各種別の種別板(円形が基本)を前頭部の右側(種別差し)へその都度装着した。
  22. 白帯車常備のいわゆる『小富士』に標準装備された各行先は茶色字であった(地色も明るい緑色)。

出典

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  2. 加盟会社紹介 名古屋鉄道株式会社 - 日本民営鉄道協会
  3. 日本記者クラブ
  4. 名古屋鉄道広報宣伝部(編) 『名古屋鉄道百年史』 名古屋鉄道、1994年、954頁。
  5. 1935年8月2日付報知新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  6. テンプレート:PDFlink - 名古屋鉄道(2008年12月15日)
  7. manaca(マナカ)とTOICAの乗車券機能の相互利用サービスを平成24年4月21日(土)に開始します - 名古屋鉄道「ニュースリリース」(2011年12月22日)
  8. テンプレート:PDFlink - 名古屋鉄道、2014年2月13日。
  9. 『名古屋鉄道社史』 名古屋鉄道、1961年、227頁。ASIN B000JAMKU4。
  10. 鉄道ピクトリアル』1981年12月臨時増刊号(No.398、近畿日本鉄道特集)、電気車研究会、p.10
  11. 竹鼻線 柳津駅の移設供用開始に伴う運賃変更について(2008.4 名鉄)
  12. 『名鉄時刻表 Vol.20』名古屋鉄道、2005年、p.561
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  62. 名鉄創業120 周年にあわせ係員の制服を一新します
  63. 私の人生行路(2)福本柳一(1987年8月)
  64. 中野晴行『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』(筑摩書房、2001年)P137

参考文献

関連文献

外部リンク

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