名鉄瀬戸線
|} 瀬戸線(せとせん)は、愛知県名古屋市東区の栄町駅から同県瀬戸市の尾張瀬戸駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。
概要
名古屋都心・栄にある栄町駅を起点とし、都心部から東郊を経て瀬戸焼の産地である瀬戸市に達する近距離通勤路線である。大曽根駅 - 尾張瀬戸駅間では、ほぼ瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)と矢田川に並行している。
名古屋市営地下鉄、名古屋ガイドウェイバス、東海旅客鉄道(JR東海)、愛知環状鉄道と接続するものの、名鉄の他の路線とは接続していない孤立路線となっている。そのため改札口前等の案内標識では、「名鉄瀬戸線」と路線名入りかつ路線名を強調して表記されていることが多い。瀬戸電気鉄道を前身としていることも相まって、名鉄の路線となった後も高齢の世代などからは瀬戸電(せとでん)と呼ばれることがある。
運賃計算区分はB(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.15倍)。すべての駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが使用できる。
路線データ
- 営業中の区間(栄町 - 尾張瀬戸間)
- 1976年廃止区間(堀川 - (旧)東大手間、廃止時点)
- 路線距離(営業キロ):1.9km
- 軌間:1067mm
- 駅数:4駅(休止中の東大手駅含む)
- 複線区間:全線(ただしガントレットが存在した)
- 電化区間:全線(直流600V)
- 閉塞方式:自動閉塞式
- 認可最高速度:70km/h(ただし駅間距離が短く、半径60mの急曲線も存在した)
歴史
開業
瀬戸においては古くから窯業(瀬戸焼)が盛んであり、貨物輸送の需要は高く、鉄道の敷設は悲願であった。しかし、明治20年代に当時国が整備を進めていた中央線の誘致に失敗してしまう。ただ、地元により鉄道を敷設すれば、接続点として中央線に大曽根駅を開設するとの国の意向を取り付けたため、瀬戸 - 大曽根間の鉄道敷設の気運が高まった。
その結果、主に加藤杢左衛門[1]を中心した瀬戸の実業家らの出資により、瀬戸からの鉄道敷設が実現し、1905年(明治38年)4月2日、瀬戸自動鉄道として開業した。現在の名鉄の路線の中では、尾西線に次ぐ早期の開業であった。しかし、開業時においては、矢田川を渡る橋の架橋工事が困難をきわめ、瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)沿いの瀬戸駅(現在の尾張瀬戸駅) - 矢田駅間14.6kmの開業となった。翌1906年(明治39年)には大曽根駅まで開業する。ただし、中央線大曽根駅の開業は後述の「外濠線」が開業する1911年(明治44年)まで待たなければならなかった。
開業当初は非電化で、セルポレー式蒸気動車で運行していた。これが日本初の気動車運行である(「日本の気動車史」も参照)。この蒸気動車は車両ごとにそれぞれA・B・C号と称し、瀬戸駅 - 矢田駅間を1時間半近くかけて走破していた。本数は1日わずか4往復であった。しかし、上り坂で動けなくなるなどの故障が続出したため[注釈 2]、1906年(明治39年)に社名を瀬戸電気鉄道と変更し、翌1907年(明治40年)には全線を電化して電車の運転を開始した。ただし、当時は電力会社の名古屋電灯が夜間の電力需要に対応するべく毎日午後6時以降の電力供給を停止していたので、1910年(明治43年)に後に開業する喜多山駅の東側にあたる場所に火力発電所(2008年、解体撤去)が設けられるまでは、蒸気動車も引き続き使われていた。
このような経緯で開業したにも拘らず、中央線の大曽根駅はなかなか開業されなかった。そのため、名古屋都心部への乗り入れを並行して進める必要があった。名古屋都心部への乗り入れの計画としては、名古屋城の外堀を経路としてとる「外濠線」や車道沿いに新堀川に至る「車道線」などが計画されていた。これらのうち、瀬戸からの陶器など貨物を堀川を運航する貨物船へ積み替えるため、「外濠線」が建設されることとなった。
まず、1911年(明治44年)5月23日、大曽根駅 - 土居下駅間が開業した。この延伸区間は当時の名古屋市街地の北端に沿って敷設されたため、用地買収が安く済んだ。同じ年の10月1日には堀川駅まで延伸した。この外濠区間はほとんど用地買収の必要がなかったが、名古屋城の外濠に線路を通すという特殊な条件から、ガントレットと呼ばれる単複線やサンチャインカーブと呼ばれる急カーブなど特殊な線形が採用された。この外濠を通る区間は、「お濠電車」とも呼ばれ、その後長く親しまれた。これに先立つ同年4月9日には中央線大曽根駅も開業しており、これにより、大曽根駅で中央線へ、堀川で水運へとの連絡を実現し、瀬戸線は、名古屋や瀬戸の貨物輸送に大きな力を発揮するようになった。
このほか、開業当時には小牧線(大曽根 - 小牧間、1907年(明治40年)特許申請→1914年(大正3年)不許可)、龍泉寺線(小幡 - 龍泉寺間、1912年(明治45年)特許申請→1914年(大正3年)取得)、品野線(瀬戸 - 品野間、1912年(明治45年)特許申請→1912年(大正元年)取得)、瀬戸町内線(1912年(明治45年)特許申請→1914年(大正3年)取得)などの新線建設が計画されていた(取得した特許はいずれも1916年(大正5年)に失効)[2][3][4]。
瀬戸電気鉄道の本社は大曽根駅に設置され、1917年(大正6年)に建築された本社社屋は同駅の駅舎を兼ねたモダンな建物であり、名鉄合併後も後述する矢田駅 - 森下駅間の高架化事業の完成により解体されるまで駅舎として利用されていた。
名鉄合併と戦争
名古屋市が市内の路面電車を買収し名古屋市電気局による全面市営化を進めていた1921年(大正10年)4月13日、軌道法による軌道から地方鉄道法による鉄道に変更した。これに伴い、従来あった停留場を整理し、計29駅として整備した。また、全線で複線化が進められ、1929年(昭和4年)12月には全線が複線化された。このように、輸送力の増強と設備の近代化が図られていった。開業以来、貨物輸送が収入の大きな割合を占めていたため、沿線の好況は瀬戸線の増収に結びついていった。
しかし、瀬戸市内の国鉄バスや瀬戸街道の民営バスなど沿線へのバス路線の拡張や昭和恐慌による瀬戸の窯業の不況のあおりなどを受けて、業績は急速に悪化した。日中戦争の長期化による鉄道輸送統制強化として国の陸上交通事業調整法の制定や行政指導もあって、名岐鉄道と愛知電気鉄道の合併による1935年(昭和10年)名古屋鉄道の誕生と機を一にして、1939年(昭和14年)、瀬戸電気鉄道は名古屋鉄道と合併し、同社の瀬戸線となった。
第二次世界大戦中には、運行効率を上げるため、多くの駅が休止または廃止に追い込まれた。
戦後600V時代
瀬戸線の路線施設はあまり空襲の被害を受けなかったため、太平洋戦争が終わると早期に運行が再開された。しかし、1948年(昭和23年)1月5日、大森駅(現:大森・金城学院前駅)東側で多数の初詣客を乗せた車両が横転するという脱線転覆事故が発生し、多数の死傷者が出る瀬戸線史上最悪の惨事となってしまう。
これを受けて、線形改良などの近代化が進められた。特に、輸送上のネックとなっていたお濠電車の特殊な区間を整備し、名古屋市の都心への乗り入れをいかに実現するかが最重要課題であった。そこで、名鉄は、名古屋市や戦災復興院などと名古屋市内の鉄道整備に関する協定を結び、それを受け、名古屋復興都市計画高速度鉄道路線網が取りまとめられ、1950年(昭和25年)1月、都市計画決定がされた。その中で、瀬戸線は、4号線と大曽根駅で相互直通運転を行うものとされた。4号線は、水分橋駅(現、味鋺駅付近)で名鉄小牧線と相互直通運転を行い、大曽根駅を経由し、市役所裏駅(現、東大手駅付近)まで達する路線の計画で、市役所裏駅で、新川橋駅 - 石川町駅(現、石川橋付近)間を計画していた2号線と接続することになっていた。
この都市計画決定を踏まえ、大曽根駅 - 清水駅間は、1956年(昭和31年)、大曽根地区の戦災復興の土地区画整理の進捗に合わせて、名古屋市が鉄道用地として先行取得していた土地を譲り受け、社宮祠と駅前の両駅を廃止の上、全く新しく線路を敷設し直した(旧経路は、東区と北区の区界などとしてその痕跡を見ることができる)。
しかし、その後、建築資金の分担の問題などから、相互直通運転を前提とした整備計画は暗礁に乗り上げていった。1961年(昭和36年)には、都市交通審議会名古屋部会答申において見直しがなされた。この答申には、大曽根からの東方への延伸部分を八事、金山を結ぶ4号線として計画する一方(現在の名城線の環状化の原型)、市役所 - 大曽根間については、同答申の2号線(現在の名城線・名港線の原型となる計画)の一部としつつ、含みを持たせ瀬戸線の乗り入れについての結論は保留されていた。名古屋鉄道は、その後も2号線への瀬戸線の乗り入れについて、名古屋市と協議を続けた。しかし、市内の鉄道整備を独自に行おうとする姿勢の強い名古屋市とは折り合わず、結局この協議は、1965年(昭和40年)ころまでには、実質上頓挫してしまう(その結果、名古屋市側は、市役所 - 大曽根間を黒川駅経由の北側大回りの路線として、独自に建設することとした)。
1500V昇圧と栄町乗り入れ
地下鉄への乗り入れが断念された後の1966年(昭和41年)のダイヤ改正からは、輸送力強化の方策として、車両を大幅に更新するとともに、大津町駅 - 尾張瀬戸駅間で特急が設定された。
しかし、その後、都心部への乗り換え駅として主に機能していた大津町駅が市電の廃止によってその機能を失った。さらに1971年(昭和46年)までに、名古屋市は地下鉄名城線の栄駅 - 大曽根駅間を開通させた。そのため、名古屋都心部への乗客の多くが大曽根駅で乗り換えてしまうようになった。
このような状況から、瀬戸線独自での都心部への乗り入れは急務となり、名鉄は、1968年(昭和43年)、東大手駅 - 栄町間について、独自に敷設する申請を行った。しかし、瀬戸線が独自に栄乗り入れを行えば、栄駅 - 大曽根駅間は地下鉄と競合することになることから、名古屋市と再度の協議が必要であった。協議の結果、1971年(昭和46年)12月、新三河鉄道時代から名鉄が保有していた八事 - 赤池間(現:地下鉄鶴舞線)の免許を名古屋市に譲渡し、その見返りとして、瀬戸線独自に栄への地下新線を建設する協定が、名古屋市と名鉄の間で締結された。名鉄は、栄までの路線免許を1972年(昭和47年)5月18日付で取得した。この新線建設計画と名古屋市内の他の部分の高架化計画に関して、瀬戸線は、昭和47年の都市交通審議会答申において、他の地下鉄整備計画と並んで、高速度鉄道9号線と位置付けられた(ただし、栄町駅 - 矢田駅間の整備終了後に出された平成4年運輸政策審議会答申「名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」ではそのような位置付けはなくなっている)。
栄乗り入れ工事の起工式は、1976年(昭和51年)1月30日に実施され、その工事開始に伴って、土居下駅を仮設駅に移転し、堀川駅 - 土居下駅間は、同年2月14日から代替バスでの運行となった。また、全線で昇圧工事も始まり、各駅のホームの嵩上げや4両編成に対応するための延伸工事が実施された。
1978年(昭和53年)になると貨物営業が廃止され、同年3月19日、1500Vへの昇圧が完了した。これに伴い、新造車6600系の投入など、車両の全面的な更新が行われた。
そして、遂に、同年8月20日、名鉄長年の悲願であった瀬戸線の都心乗り入れを果たした。都心乗り入れ区間の終着駅である栄の駅は、地下鉄と同じ栄とはせず、栄町とした。栄乗り入れにあたっては、テレビ塔周辺の久屋大通公園の整備も同時に行われ、栄町駅に接続するセントラルパーク地下街も開業した。
栄町乗り入れに伴い、従来の特急を急行に変更し、準急の停車駅を見直した上で、朝は準急及び普通(栄町駅 - 喜多山駅間の運転)で各12分間隔、日中は急行30分・普通15分間隔、夕方は準急及び普通(栄町駅 - 喜多山駅間の運転)で各15分間隔のダイヤとなった。
なお、栄町への乗り入れに伴い、建設費用回収のため栄町駅 - 東大手駅間内または同区間に跨って利用する場合はキロ程で算出された運賃に別途全乗車区間のキロ程に応じて大人の普通運賃の場合で40 - 60円を加える加算運賃の制度が導入された。加算運賃は1995年(平成7年)9月1日の運賃改定から普通運賃は一律30円(大人)に引き下げられている。
名古屋市内高架化と駅集中管理システムの導入
矢田 - 大曽根間は、旧瀬戸街道(現在の矢田本通商店街)沿いの経路を通っていたが、ここは江戸時代の矢田川の河道に沿ったところでもあり、大雨が降ると中央線のアンダークロス部分を中心に線路が浸水し、運行に支障が生じることがよくあった。また、大曽根駅北側の踏切は東大曽根六叉路交差点(現在は五叉路)のすぐ東側にあって、ラッシュ時の東大曽根交差点の道路の渋滞は深刻なものになっていた。そこで、大曽根駅周辺の瀬戸線の高架化整備が急がれ、周辺の土地区画整理事業の進捗とあいまって、1983年(昭和58年)に森下駅 - 矢田駅間が高架化された。これに伴い、瀬戸電気鉄道の本社として建設された大曽根駅駅舎は解体された。
1990年(平成2年)9月30日 には、国道19号と空港線(国道41号)を跨ぐ東大手駅 - 森下駅間が高架化された。これにより、両国道の渋滞の原因となっていた踏切が廃止された。また、車両の冷房化率が100%となった。
その後、尾張旭駅(1994年(平成6年)移転新築)、印場駅(1995年(平成7年)再開)、小幡駅(1999年(平成11年)改築)、尾張瀬戸駅(2001年(平成13年)移転新築)などの設備の改善が進められた。
2006年(平成18年)には駅集中管理システムが導入され、主要駅を除き多くの駅が大曽根駅から遠隔管理される無人駅となった。また、ストアードフェアシステムが導入され、全駅でトランパスが利用できるようになった[注釈 3]。
2007年(平成19年)6月30日には、戦後長く使用されてきた喜多山検車区が廃止され、尾張旭検車区が供用を開始した。併せて検車・保線業務については、入換・牽引用電気機関車や貨車を全廃し、機械扱いの機材への置き換えが行われた。
2008年(平成20年)、4000系の導入[注釈 4]が開始され、1500V昇圧以来30年ぶりに、車両の全面的な更新が始まった。
現在、検車区廃止後の喜多山駅の高架駅化と、瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)と環状2号(国道302号)上の踏切の立体化を中心とした小幡 - 大森・金城学院前間(1.9km)の高架化事業が進捗中である。当初は2013年(平成25年)度末(2014年3月)の完成を目指していたが、同年度末になっても工事の第1段階である仮道の整備もできていない状態で工事は進んでおらず、2019年(平成31年)度まで事業が延長されている[5]。
年表
- 1901年(明治34年)5月16日 軌道特許状下付(西春日井郡六郷村-東春日井郡瀬戸町間)[6]
- 1902年(明治35年)3月17日 瀬戸自動鉄道株式会社設立(取締役会長 加藤杢左衛門)[7][8]
- 1905年(明治38年)4月2日 瀬戸自動鉄道により矢田 - 瀬戸(現在の尾張瀬戸)間が開業
- 1906年(明治39年)
- 1907年(明治40年)3月17日 大曽根 - 瀬戸間が電化。電車運転開始
- 1909年(明治42年)12月25日 軌道特許状下付(西春日井郡六郷村-名古屋市西区南外堀町間)[6]
- 1911年(明治44年)
- 1912年(明治45年/大正元年)
- 1913年(大正2年)
- 7月15日 坂下 - 大曽根間に駅前駅開業
- 11月 堀川 - 大曽根間が複線化
- 1914年(大正3年)12月23日 軌道特許状下付(東春日井郡瀬戸町一ノ坪-同町字刎田間、同郡守山町-志段味村間、西春日井郡六郷村-相愛知郡東山村間)[10]
- 1915年
- この年以前 桜川駅廃止
- この年以降 尼ヶ坂 - 社宮祠間の師範下駅廃止
- 6月16日 森下駅開業
- 1916年(大正5年)8月16日 鉄道免許失効(1912年12月18日免許東春日井郡瀬戸町字刎田-同郡品野村大字品野 指定ノ期限内ニ工事施工認可申請ヲ為ササルタメ)軌道特許失効(1914年12月23日軌道特許 東春日井郡瀬戸町一ノ坪-同町字刎田間、同郡守山町-志段味村間、西春日井郡六郷村-相愛知郡東山村間 指定ノ期限内ニ電気事業経営許可及工事施工認可ノ申請ヲ為ササルタメ)[10]
- 1920年(大正9年)8月13日 鉄道免許状下付(名古屋市西区南外堀町-東春日井郡瀬戸町間)[11]
- 1921年(大正10年)
- 1922年(大正11年)2月24日 新居駅を旭新居駅に改称[14]
- 1924年(大正13年)12月17日 三郷 - 根ノ鼻(後に廃止)間が複線化
- 1926年(大正15年) 本町 - 久屋間に大津町駅開業
- 1927年(昭和2年)
- 1928年(昭和3年)12月27日 根ノ鼻 - 横山間が複線化
- 1929年(昭和4年)12月18日 矢田川橋梁が複線化され全線複線化完成
- 1935年(昭和10年)6月1日 横山駅を尾張横山駅に改称
- 1936年(昭和11年)6月3日 瓢箪山駅開業
- 1939年(昭和14年)9月1日 名古屋鉄道が瀬戸電気鉄道を合併、瀬戸線となる。
- 1941年(昭和16年)
- 2月10日 聯隊前駅を二十軒家駅に改称
- 2月24日 大津町 - 東大手間の久屋駅、社宮祠 - 森下間の坂下駅廃止
- 1942年(昭和17年) 印場 - 旭新居間の聾石駅廃止。旭前駅開業
- 1944年(昭和19年) 東大手駅、社宮祠駅、駅前駅、守山口駅、瓢箪山駅、笠寺道駅、小幡原駅、霞ヶ丘駅、印場駅、平池駅、根ノ鼻駅休止
- 1945年(昭和20年)頃 今村駅を水野駅に改称[15]
- 1946年(昭和21年)
- 6月1日 二十軒家駅を守山町駅に改称
- 9月1日 喜多山車両検査工場開設
- 9月15日 瓢箪山駅営業再開
- 1948年(昭和23年)1月5日 印場 - 大森間で名鉄瀬戸線脱線転覆事故発生。瀬戸線史上最悪の惨事となる
- 1955年(昭和30年)2月1日 守山町駅を守山市駅に改称
- 1956年(昭和31年)10月15日 大曽根 - 清水間の路線を敷設し直す。休止中の尼ヶ坂 - 森下間の社宮祠駅、森下 - 大曽根間の駅前駅廃止。
- 1958年(昭和33年)1月20日 追分駅を瀬戸市役所前駅に改称
- 1966年(昭和41年)3月15日 守山市駅を守山自衛隊前駅に改称
- 1969年(昭和44年)4月5日 休止中の守山口駅、笠寺道駅、小幡原駅、霞ヶ丘駅、印場駅、平池駅、根ノ鼻駅廃止
- 1971年(昭和46年)11月1日 旭新居駅を尾張旭駅に、尾張横山駅を新瀬戸駅に改称
- 1976年(昭和51年)2月15日 堀川 - 東大手(1944年から休止中)間が廃止、東大手 - 土居下間が休止
- 1978年(昭和53年)
- 1983年(昭和58年)8月21日 森下 - 矢田間が高架化。0.1km延長
- 1986年(昭和61年) 6750系営業運転開始
- 1990年(平成2年)
- 6750系20両の増備とそれにともなう非冷房車(3730系・3770系)全廃により、冷房化率100%達成
- 9月30日 東大手 - 森下間が立体交差化
- 1992年(平成4年)11月14日 大森駅を大森・金城学院前駅に改称
- 1995年(平成7年)
- 本線系より6000系16両が転入
- 12月22日 印場駅再開業
- 1996年(平成8年)6月8日 本線系からの6000系12両転入とそれによる3780系全廃にともなうダイヤ改正。全列車3ドア車での運転となり、スピードアップが実施された
- 2000年(平成12年)6月10日 本線系からの6000系8両の転入によるダイヤ改正。この時より、平日朝ラッシュ時間帯の運転パターンが普通のみの4分間隔での運転となった。また、平・休日に関わらず昼の時間帯に尾張旭折り返しの準急が毎時2往復増発され、1時間当たり急行・準急各2往復と普通4往復のダイヤパターンとなった
- 2001年(平成13年)4月14日 尾張瀬戸駅が移転。0.1km延長
- 2003年(平成15年)3月27日 ダイヤ改正により、昼の運転パターンが見直され、準急を尾張瀬戸まで延長する代わりに普通の半数が尾張旭折り返しとなり、尾張旭で急行と接続するダイヤパターンとなった。また、大曽根駅と小牧線上飯田駅との通過連絡運輸措置の廃止
- 2005年(平成17年)1月29日 瓢箪山駅の表記を正字から略字の「箪」に変更。ダイヤ改正により、水野駅、瀬戸市役所前駅を急行停車駅に格上げ。これにより、急行は尾張旭 - 尾張瀬戸間の各駅に停車するようになった
- 2006年(平成18年)
- 2007年(平成19年)6月30日 尾張旭検車区の供用開始に伴い、喜多山検車区が廃止
- 2008年(平成20年)10月1日 4000系車両営業運行開始
- 2011年(平成23年)2月11日 ICカード乗車券「manaca」供用開始。
- 2012年(平成24年)2月29日 トランパス供用終了。
- 2013年(平成25年)3月3日 6600系のさよなら運転を実施。瀬戸線の営業電車が4000系に統一。
運行形態
急行・準急・普通の3種別の列車が運転されているが、途中に待避設備がないため平行ダイヤとなっており、追い抜きは行われず、先発列車が先行する。普通列車の全区間所要時間は40分前後で、急行より10分長い程度である。
ワンマン運転は行われていないが、車内放送は、全列車瀬戸線専用の自動放送装置による自動放送になっている。各駅到着前に広告放送が入る[注釈 5]。
原則として全列車が栄町駅を発着する。「せともの祭り」などでまれに尾張瀬戸発尾張旭駅または喜多山駅行きの臨時普通列車(一部は回送列車を特別に客扱いする)が運転されることがある。方向幕には「三郷」も入っているが、通常は使用されない。
現在列車はすべて4両固定編成であるが、一部の駅では将来の増結を考慮し6両編成に対応したホームを有する。
時間帯ごとの運行形態
平日の朝は、栄町方面の平日朝7時から8時までにおいては、尾張旭駅 - 栄町駅間は、最短運転時隔で3分、その他は4分間隔で走る高密度ダイヤになっている。待避設備がないこともあって、栄町方面には、急行などの優等列車が設定できず、普通のみの運用となっている。尾張瀬戸方面は準急と普通が交互に走り、普通の大半と準急1本が尾張旭折り返しになる。
昼間時間帯では、平日・休日問わず毎時急行2本、準急2本、普通が4本ある。普通4本のうち2本が尾張旭駅折り返しで、急行と尾張旭駅で連絡する。平日の夕ラッシュ時間帯にはすべての列車が栄町駅 - 尾張瀬戸駅間の通し運転となり、優等列車の種別が、尾張瀬戸方面はすべて準急、栄町方面はすべて急行となる。
平日夜間21時以降と休日夜間19時以降は、一部を除いて普通のみの運用となっている。この時間帯は尾張瀬戸駅発の回送列車も尾張旭駅または喜多山駅まで数本運行されている。
喜多山に検車区があった当時は栄町駅 - 喜多山駅間の区間列車も数多くあったが、検車区が尾張旭に移転した現在では最終列車など限られたものとなっている。
準急・急行
曲線区間が多いことなどから、急行といえども平常ダイヤ時の実質的な最高速度は尼ヶ坂駅 - 大曽根駅間、守山自衛隊前駅 - 小幡駅間、印場駅 - 尾張旭駅間と三郷駅 - 水野駅間で85km/h程度である。また、車両性能が向上しても、同時に停車駅も増えてきたので、全区間の所要時間は30分前後と、600V時代の1966年から1977年に運行されていた特急からほとんど変わっていない。
また、急行と準急では、2005年のダイヤ改正で水野駅と瀬戸市役所前駅が急行停車駅となったため、印場駅と旭前駅に停車するかどうかの違いしかない。
栄乗入れ時からは、普通を栄町駅 - 喜多山駅間の区間運用とし、急行停車駅を除き、名古屋市内の駅は普通、尾張旭・瀬戸両市内の駅は準急という運用が行われていた。
1990年から2005年までの間、瀬戸線は名鉄で唯一準急が走る路線だった。
列車種別・停車駅の変遷
- 瀬戸電気鉄道時代(1936年 - 1939年頃[注釈 6])
- 停車駅
- 1953年6月28日改正
- 急行を再設定(1950年8月1日改正)。
- 停車駅
- 1969年7月6日改正
- 特急を新設(1966年3月16日改正)。
- 急行を廃止(1967年8月22日改正)。
- 準急を新設(1968年3月20日改正)。
- 停車駅
- 1978年8月20日改正
- 停車駅を変えずに特急を急行に格下げ(1977年3月20日改正)。
- “お濠区間”を廃止し、栄町へ乗入れ(1978年8月20日改正)。
- 停車駅
- 1995年5月8日改正
- 停車駅
- 2005年1月29日改正
- 停車駅
沿線風景
瀬戸線の沿線はほとんど住宅地や市街地となっており、山林や田園地帯は多くない。全体的に平坦な地形を通っていることからトンネルは栄町地下トンネルのみである。大まかには以下のようになる。
起点の栄町駅は、名古屋市の繁華街栄地区にあり、地下街や地下鉄栄駅に隣接している。ここから東大手駅を過ぎるまでの約1.7kmは栄町地下トンネルを進む。地下で名古屋市営地下鉄名城線と並走し、同桜通線との交差地点には両地下鉄線の久屋大通駅があるが、栄町駅に近いため瀬戸線の駅は設けられていない。愛知県庁の直下付近で60km/h制限のS字カーブを切り名城線と別れてさらに東寄りになり、地下駅の東大手に着く。同駅の付近には愛知県庁・名古屋市役所を始めとする官庁街、名古屋医療センター、愛知県立明和高等学校などがあり、朝夕は通勤客と学生で賑わう。
東大手を出てすぐのところで地上に出て30パーミルの勾配で一気に高架に上がる。右へカーブして空港線(国道41号)と、名古屋高速1号楠線を乗り越えたところに清水駅がある。清水から尼ヶ坂を経由して森下付近までは道路が高架の両側にあり、線路もカーブしている。国道19号を乗り越え森下、さらに左へカーブして大曽根に着く。大曽根はJR中央本線・名古屋市営地下鉄名城線・ゆとりーとラインと乗り換えが可能な比較的大きな駅。瀬戸方面から名鉄で来た後、同駅でJRに乗り換え金山・名古屋方面へ向かう客もいる。大曽根を過ぎると右へカーブしてJRを乗り越える。高架から降りて掘割を通る瀬戸街道を乗り越えると矢田に着く。なおここには瀬戸線で唯一のトラス橋である矢田橋梁が存在する。矢田は瀬戸線の駅では最も利用者が少ないが、ナゴヤドームまで900mであり、地下鉄が開業するまでは最寄り駅だったこともあり、現在でも瀬戸方面から同駅で下車してナゴヤドームへ向かう客が少なからず存在する。
矢田を過ぎるとすぐに当線の最急カーブ(半径120m・制限35km/h。現在は名鉄全線中最急でもある)を通過後矢田川鉄橋を渡る。ここは瀬戸線の有名撮影地として知られ、瀬戸線でイベント列車が走るときは多くのカメラマンが集結する。橋を渡ると守山区に入り、ゆとりーとラインの高架をくぐると守山自衛隊前に着く。この付近から終点の尾張瀬戸まではほとんど瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)と並走する。瓢箪山を過ぎると守山区役所に近く、橋上駅を持つ急行停車駅の小幡。準急はここから瀬戸方面は各駅停車となる。小幡を出ると左へカーブし瀬戸街道と交差する。この交点にある小幡5号踏切は自動車の交通量がかなり多く、朝ラッシュは電車の本数も多いためよく閉まり、開かずの踏切になっている。なお、踏切付近の線路はS字状にカーブしており、45km/hの速度制限が掛かっている。踏切を抜けると瀬戸街道の北側を走り、喜多山に着く。喜多山には瀬戸線で唯一構内踏切が残っている。尾張旭検車区ができる前は同駅に隣接して車庫が設けられていたため現在も電車の運行上で重要な駅であり、乗務員の交代も行われている。また、喜多山駅周辺では連続立体交差化工事が始まっており、同駅は高架駅となる予定である。喜多山を出ると環状2号(国道302号)と平面交差する(名古屋第二環状自動車道は同所で地下を通る)。度々渋滞が起こっているが高架化によってこの踏切も除去される予定である。さらに進むと大森・金城学院前に着く。同駅は瀬戸線で名古屋市内最後の駅であり、付近の金城学院大学の学生で賑わっている。大森・金城学院前を出ると尾張旭市に入り、東名高速道路の高架をくぐってすぐのところにあるのが印場。同駅は1944年に休止、その後廃止されていたが、1995年に復活した瀬戸線で最も新しい駅であり、労災病院への通院者や付近からの通勤・通学での利用者がそこそこいる。印場の次は旭前。両駅間にあるカーブの85km/h制限は当線で最も高い速度制限である。旭前は愛知県立旭野高等学校の最寄り駅であり朝夕は高校生で賑わう。旭前を出て左側に城山公園やスカイワードあさひや尾張旭市役所など、右側に尾張旭検車区が見えてきて尾張旭市の中心部に入ると、橋上駅舎を有する尾張旭に着く。
尾張旭は検車区を有し、栄町方面から来た普通電車の約半数が折り返す大きな駅である。急行はここから終点の尾張瀬戸まで各駅に停車する。かつては急行も停まらない無人駅で利用者が少なかったが、1995年に急行が停車するようになり利用者も大幅に増えている。尾張旭の次は愛知県森林公園に近い三郷。同駅は1977年まで特急も停車しており尾張旭市内では最も利用者が多く、現在も急行停車駅として多くの利用者で賑わっている。三郷を出ると瀬戸市に入り水野を経由し新瀬戸。新瀬戸は愛知環状鉄道の瀬戸市駅が隣接しており、乗り換える客や公立陶生病院への通院患者、付近からの通勤・通学などの利用者がそこそこいる。新瀬戸を出ると瀬戸市役所前。瀬戸市役所前駅の周辺は静かな住宅街となっており、利用者は少ない。瀬戸市役所前を出るとすぐに終点の尾張瀬戸に着く。
車両
瀬戸線は、名鉄の他の路線網と接続がないいわゆる孤立路線であること、また、栄町駅 - 東大手駅間では地下を走るため、A-A基準を満たす、いわゆる地下鉄対応車両が必要となることなどから、瀬戸線専用として登場した特徴的な車両がいくつか存在する。1996年に3780系が全廃となって以降、瀬戸線では3ドアロングシートのいわゆる通勤型車両のみが走っている。
新車両の導入や他線との車両の転属を行う場合は、トレーラーでの陸送が行われる。2008年度より開始された4000系の導入に際しても、製造会社である日本車輌製造豊川製作所から尾張旭検車区まで、道路上をトレーラーで運ばれた。これに対し1978年の1500V昇圧時など、大曽根駅が地上駅で中央線に連絡する貨物設備があった頃は、同線経由で搬入していた。
6000系・6600系などの4000系より前に登場した車両は塗装が必要な車体であったが、現在瀬戸線内には揮発性塗料による塗装設備がないため、全般検査等においても部分補修に留めてその延命を図っていた。しかししだいに塗装の傷んだ部分が目立つようになったため、2010年12月に出場した6600系(6602F)からは周囲の環境に影響を与えにくいよう、水性塗料を用いて塗装するようになった。
現行の車両
列車はすべて4両編成で運転しており、2014年4月現在18編成が在籍する[注釈 7]。
- 4000系(全18編成)
過去の車両
早い時期に電化されたため、蒸気機関車[注釈 8]やディーゼル気動車は走ったことがない。ただし、電化後にガソリンカー(キハ300形)が使用されたことはある。
2008年からすべての在籍車両の4000系への置き換えが進められ、2011年3月までに6750系、2013年3月までに6600系を全車廃車し、6000系についても1編成(6032F)が2011年4月に廃車となったことを皮切りに廃車が進められた。6600系については、2013年3月3日のさよなら運転で[16]、6000系については2014年4月6日のさよなら運転で[17]運用を終了した。
1500V昇圧後
- 電車
- 6000系 - 2014年4月4日運用離脱
- 6600系 - 2013年3月3日運用離脱
- 6750系 - 2011年3月運用離脱
- 3780系 - 1996年5月運用離脱
- 3730系・3770系 - 1990年7月運用離脱
- 電気機関車
600V時代
- 電車
- モ700形・モ750形 - 1500V昇圧とともに揖斐線・谷汲線系統へ転属。
- モ900形 - ク2300形などと組んで特急に用いられた。1500V昇圧とともに北陸鉄道・福井鉄道へ全車売却。
- ク2300形・ク2320形 - 1500V昇圧とともに揖斐線・谷汲線系統へ転属または廃車。
- 3700系 - 600V時代末期の1973年、3700系(2代)が降圧の上、導入された。これは3730系・3770系・3780系の形式の設計の基本となった車両である。1978年、1500V昇圧とともに本線系路線に復帰した。
- ク2220形 - 1973年、3700系導入により廃車。
- ク2190形 - 1973年、3700系導入により廃車。
- ク2230形
- ク2040形
- モ600形
- モ200形
- 電気機関車
- 貨車
瀬戸電気鉄道(瀬戸自動鉄道)
- セルポレー式蒸気動車
- 木製2軸電車(瀬戸電気鉄道テ1形電車)(名鉄モ10形・モ20形・モ30形)
- テ1・2 - 1906年日本車輌製造製、名鉄合併前に廃車。
- テ3・4 - 1908年製(名鉄サ11・12)
- レ5・6 - 1909年製(名鉄サ21・22)
- テ7-12 - 1910年 - 1912年製、名鉄合併前に廃車。
- テ13-22 - 1912年 - 1913年名古屋電車製作所製(名鉄モ11-19)
- テ23-27 - 1919年京都丹羽製作所製(名鉄モ21-25)
- テ28-32 - 1920年名古屋電車製作所製(名鉄モ31-35)
- テワ1・2 - 1921年製。電動貨車テ3・4の電動機を流用(名鉄デワ1・2)。
- ボギー式電車
- ガソリンカー
- キハ300形(名鉄ク2200形)→福井鉄道140形電車 - 瀬戸電気鉄道としては最後の新造車。急行運転用のセミクロスシート車で、戦争によるガソリン不足のため使用時期は短かった。
- 電気機関車
- デキ1形 - 1927年日本車輌製造製(名鉄デキ200形)
駅一覧
全駅愛知県に所在。
営業中の区間
- 接続路線名の()内の英数字は駅番号を表す。
- 普通は全駅に停車(表中省略)
- 凡例
- ●:すべての列車が停車 |:通過
- *:有人駅、無印:無人駅
駅名 | 駅間キロ | 営業キロ | 準急 | 急行 | 接続路線 | 所在地 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
栄町駅* | - | 0.0 | ● | ● | 名古屋市営地下鉄:15px 東山線(栄駅:H10)・15px 名城線(栄駅:M05) | 名古屋市 | 東区 |
東大手駅* | 1.5 | 1.5 | ● | ● | 中区 | ||
清水駅 | 0.7 | 2.2 | | | | | 北区 | ||
尼ヶ坂駅 | 0.5 | 2.7 | | | | | |||
森下駅 | 0.9 | 3.6 | | | | | 東区 | ||
大曽根駅* | 1.0 | 4.6 | ● | ● | 東海旅客鉄道:中央本線 名古屋市営地下鉄:15px 名城線 (M12) 名古屋ガイドウェイバス:ガイドウェイバス志段味線(ゆとりーとライン) (Y01) | ||
矢田駅 | 1.3 | 5.9 | | | | | |||
守山自衛隊前駅 | 1.1 | 7.0 | | | | | 名古屋ガイドウェイバス:ゆとりーとライン(守山駅:Y04) | 守山区 | |
瓢箪山駅 | 0.6 | 7.6 | | | | | |||
小幡駅* | 1.0 | 8.6 | ● | ● | |||
喜多山駅* | 1.3 | 9.9 | ● | ● | |||
大森・金城学院前駅* | 0.8 | 10.7 | ● | ● | |||
印場駅 | 1.5 | 12.2 | ● | | | 尾張旭市 | ||
旭前駅 | 0.9 | 13.1 | ● | | | |||
尾張旭駅* | 1.6 | 14.7 | ● | ● | |||
三郷駅* | 1.4 | 16.1 | ● | ● | |||
水野駅 | 1.9 | 18.0 | ● | ● | 瀬戸市 | ||
新瀬戸駅* | 0.7 | 18.7 | ● | ● | 愛知環状鉄道:愛知環状鉄道線(瀬戸市駅:21) | ||
瀬戸市役所前駅 | 0.7 | 19.4 | ● | ● | |||
尾張瀬戸駅* | 1.2 | 20.6 | ● | ● |
廃駅
駅名は廃止時のもの。廃止区間の駅については#廃止区間を参照。
- 社宮祠駅(師範下駅 - 坂下駅間) 1944年休止、1956年10月15日廃止
- 坂下駅(社宮祠駅 - 森下駅間) 1941年2月24日廃止
- 駅前駅(森下駅 - 大曽根駅間) 1944年休止、1956年10月15日廃止
- 守山口駅(矢田駅 - 二十軒家駅間) 1944年休止、1969年4月5日廃止
- 笠寺道駅(瓢箪山駅 - 小幡駅間) 1944年休止、1969年4月5日廃止
- 小幡原駅(小幡駅 - 喜多山駅間) 1944年休止、1969年4月5日廃止
- 霞ヶ丘駅(大森・金城学院前駅 - 印場駅間) 1944年休止、1969年4月5日廃止
- 聾石駅(印場駅 - 尾張旭駅間) 1942年廃止
- 平池駅(尾張旭駅 - 三郷駅間) 1944年休止、1969年4月5日廃止
- 根ノ鼻駅(三郷駅 - 水野駅間) 1944年休止、1969年4月5日廃止
- 学園前駅(新瀬戸駅 - 瀬戸市役所前駅間)1926年-1927年廃止
1921年(大正10年)以前の軌道時代に、廃止された停車場
- 御園(堀川 - 本町間)
- 師範下(尼ヶ坂 - 社宮祠間) 1915年以降廃止
- 木ヶ崎(矢田 - 聯隊前間)
- 役場前(矢田 - 聯隊前間)
- 志談味通(大森 - 印場間)
- 桜川(追分 - 瀬戸間)1915年以前に廃止
廃止区間
堀川駅 - 本町駅 - (護国神社前駅) - 大津町駅 - (久屋駅) - (東大手駅 - 土居下駅 - 清水駅)
※護国神社前駅・久屋駅は1921年以降1976年廃線前に廃止、東大手駅は1944年から休止されていたが新線上で再開された。東大手 - 清水間は新線切り替え区間。
脚注
注釈
- ↑ 他の名鉄路線より運転速度が低く、信号現示に対する制限速度も注意信号45km/h、減速信号65km/hと20km/hほど低くなっている。
- ↑ 不通時には人力のトロッコに乗客を乗せ換えて対処したといわれている。
- ↑ 2006年のストアードフェアシステム導入を機に、栄乗り入れ時に導入された加算運賃制度は、資本費の回収が進んだため、撤廃された。また同時に、栄町駅と名古屋本線名鉄名古屋駅・金山駅相互間を連続しているものとみなして運賃のキロ程通算する通過連絡運輸措置も廃止された。この措置により、瀬戸線内では、他の名鉄線との通し乗車券を購入できたが、廃止によりそれぞれの区間で乗車券を購入することが必要になった。なお、この措置は、通学定期券のみ、その後に開業した西尾線南桜井駅利用の場合を除き、2009年12月15日購入分まで、据え置かれて存続した。
- ↑ 4000系電車は、同年8月24日、尾張旭検車区での栄町乗り入れ30周年の記念イベント開催の際、初めて一般に公開された(〜名鉄瀬戸線 栄町乗り入れ30周年記念イベント〜「記念発車式」や「新型車両4000系撮影会&車内見学会」などを実施。 - 名古屋鉄道、2008年8月5日)。
- ↑ 自動放送を担当するのは加藤純子である。
- ↑ 1936年7月3日(瓢箪山駅開業)から1939年9月1日(瀬戸電気鉄道が名鉄に合併)までの間。
- ↑ 4000系運転開始まで、平日朝ラッシュ時は検査車両を除く全編成(当時18本)で運行し、予備編成はなかったため、事故や故障で1本でも車両が使えなくなると、数本の運休または区間運休をせざるを得なくなっていた。運休となった場合は次の列車を利用するように案内される。また運休や遅れによって乗り換え予定の列車に乗り遅れても、その補償はしないといったことが駅の時刻表に掲示されている。
- ↑ 雨宮製作所の8トン機が1920年から1937年まで在籍しているが、営業に使用されたか、詳細は不明。
出典
- ↑ 『人事興信録. 3版(明44.4刊)』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 一般国道302号及び都市計画道路守山本通線と名古屋鉄道瀬戸線との立体交差事業 - 名古屋市
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 「軌道特許失効」『官報』1921年5月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 『日本全国諸会社役員録。 明治36年』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道。 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1912年12月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 10.0 10.1 「軽便鉄道免許失効」、「軌道特許失効」『官報』1916年8月16日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「鉄道免許状下付」『官報』1920年8月16日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 『大正10年 愛知県統計書』(国立国会図書館近代デジタルライブラリーより) - 鉄道に変更直後の駅
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1921年4月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 官報では4月1日「地方鉄道停車場名称変更」『官報』1922年3月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図 7号 東海』新潮社 2008年、p.46
- ↑ 名鉄6600系が、さよなら運転 鉄道ファン公式サイト、2013年3月4日配信
- ↑ 名鉄瀬戸線6000系がさよなら運転 鉄道ファン公式サイト、2014年4月7日配信
参考文献
- 『瀬戸線の90年 保存版 われらが「せとでん」激動のドラマ』 郷土出版社 1997年
- 『せとでんの歴史 名鉄瀬戸線史』 前島一廣著 雑論グループ知神 1995年
- 『瀬戸電開通90周年特別企画展せとでん』 瀬戸市歴史民俗資料館 1995年
- 『名鉄の廃線を歩く』 徳田耕一編著 JTB 2001年
- 『せとでん100年』 山田司・鈴木裕幸著 中日新聞社 2005年
- 『名古屋鉄道社史』 名古屋鉄道 1961年
- 『瀬戸電鉄沿線案内』 瀬戸電気鉄道 1924年
- 『日本鉄道旅行地図 7号 東海』今尾恵介監修 新潮社 2008年、pp.45-46 - 主に駅の開業・改称・廃止日について
関連項目
外部リンク
- 瀬戸線 路線・駅情報 - 名古屋鉄道