名鉄三河線
三河線(みかわせん)は、愛知県豊田市の猿投駅から愛知県碧南市の碧南駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。名古屋本線の知立駅から南北に分岐する支線で、通称として知立駅を境に猿投方面の山地へ向かう北側を山線(やません)もしくは北線(きたせん)、碧南方面の海に近い南側を海線(うみせん)もしくは南線(みなみせん)と呼ぶことがある。名鉄では、名古屋本線に次ぐ路線距離を持つ。
運賃計算区分はC(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.25倍)。すべての駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが使用できる。
なお、『鉄道要覧』による起点は猿投駅だが、列車運行および旅客案内、列車番号の設定においては、碧南駅から知立駅および知立駅から猿投駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。
概要
営業中の区間
猿投 - 知立間 (三河山線)
猿投 - 知立間の山線の中間部分は自動車産業が盛んな愛知県豊田市の真ん中を貫いている。同市の玄関駅は豊田市駅で、一駅北の梅坪駅から、西進して名古屋の中心へ向かう豊田線(名古屋市内は名古屋市営地下鉄鶴舞線と相互乗り入れ)が分岐している。三河八橋駅と豊田市駅から梅坪駅を経て越戸駅までは高架線であり、豊田市 - 梅坪間は豊田線の列車も走るため複線になっている。越戸駅から猿投駅までは、林の中を抜けていくような、ローカル色の濃い区間である。2001年に線区の合理化を進めるべく、いち早くワンマン運転を開始した。1973年までは上挙母駅から挙母線が分岐していた。
山線ではスプリングポイントが使われており、島式ホームとなっている一部の駅では、右側通行ですれ違う。これは昔三河線でタブレット閉塞を実施していた頃、通過する列車でも容易に通票を交換できるようにするためと、構内踏切を渡る乗客に対して従来の方法より安全にしていた名残である。
乗客の流れは、知立駅からの名古屋本線、あるいは豊田市駅・梅坪駅から豊田線を経て、名古屋などとの往来が主体となるが、豊田市内の自動車関連工場への通勤利用による流れも見られる。
山線の有人駅は知立・若林(朝のみ駅員配置。それ以外は駅集中管理システムにより無人)・土橋・豊田市・猿投の5駅である。
近年になって利用者が増加したため、従来の2両編成に替わって4両編成での運行が増加している。
知立 - 碧南間 (三河海線)
知立 - 碧南間の海線には部分複線区間が存在するが、区間が短いために日中のすれ違いは無く、知立 - 重原間は土休日早朝の3本、刈谷 - 刈谷市間は平日早朝の1本のみである。また刈谷駅で接続するJR東海道本線のダイヤ拡充と所要時間の短さ、乗車駅によってはJR線経由の方が安くなる運賃などで、名鉄名古屋本線を利用して名古屋へ向かう利用客が減少したため、名古屋方面への直通電車を取り止めた。海線区間のうち高架駅は刈谷市駅のみで、三河高浜駅と刈谷駅が橋上駅になっている。電車交換可能駅の北新川駅は、車両が進行方向右側のホームに進入する。ワンマン運転は2006年に導入され、知立 - 猿投間で使用されている車両と共通運用されている。ただし、山線側で採用されたホームへのセンサー取り付けは行われていない。
乗客の流れは、知立駅からの名古屋本線、あるいは刈谷駅からJRの東海道本線を経て、名古屋などとの往来が主体となっている。
海線の有人駅は知立・刈谷・碧南中央の3駅のみである(高浜市の代表駅である三河高浜駅や終点の碧南駅は無人)。
営業中の区間の路線データ
- 路線距離(営業キロ):猿投 - 碧南間39.8km
- 軌間:1067mm
- 駅数:23駅(起終点駅を含む)
- 複線区間:梅坪 - 豊田市間、知立 - 重原間、刈谷 - 刈谷市間。それ以外は単線。
- 電化区間:直流1500V
- 閉塞方式:自動閉塞式
- 交換可能駅:平戸橋駅、吉浜駅、高浜港駅、碧南中央駅を除く各駅
廃止区間
2004年4月1日には両端区間の、山間部を走る西中金 - 猿投間、海沿いを走る碧南 - 吉良吉田間が廃止された。これらの区間は閑散区間で、西中金 - 猿投間が1985年から、碧南 - 吉良吉田間が1990年から合理化のため電気運転を廃止し、小型のディーゼルカーであるレールバスを運行していた。しかし両区間の乗客の減少は続き、2000年に名古屋鉄道は西中金 - 猿投間、碧南 - 吉良吉田間の廃止届を同年秋に提出することを表明。沿線自治体が赤字補填をして存続させていた。2004年10月1日が当初の廃止期限であったが、代替バスの運行開始を学校の新年度に合わせることで、半年の前倒しとなった。廃止時点で列車は一部時間帯をのぞき毎時1本程度で、全列車ワンマン運転であった。多客期には増結が行われ、最大で3両(キハ10形の場合。キハ20形・キハ30形では2両)での運転も見られた。
山線の廃止区間(西中金 - 猿投間)廃止後は豊田市から委託された名鉄東部交通・豊栄交通により、さなげ足助バス(現・とよたおいでんバス さなげ足助線)が四郷駅 - 猿投駅 - 西中金 - 香嵐渓 - 足助 - 百年草を結んでいる。
海線の廃止区間(碧南 - 吉良吉田間)はほぼ三河湾に沿って走っており、碧南 - 三河旭の部分は、市街地を3分の2周する大きなオメガ(Ω)カーブとなっていた。これは鉄道敷設当時にカーブの先端に当たる玉津浦駅を、海水浴場の最寄り駅としての利便性を図ったことに起因するともいわれる。三河楠 - 寺津間には、この区間の鉄道敷設の翌年の1927年に北寺津駅が設置されたが、1944年に休止され1969年に廃止された。同区間にある鉄道高架橋は、三河南部から中部国際空港へのアクセス道路となる県道衣浦岡崎線への踏切設置を避けるために、およそ21億円の費用で建設をされたが、1998年に供用を開始して間もなく名鉄は区間廃止を表明したため、わずかな期間しか利用されない高架橋工事への批判が噴出した。沿線自治体による年間2億円の赤字補填で鉄道の延命が図られたものの、このまま赤字補填を続けても、近い将来、三河旭 - 中畑間の矢作川鉄橋の架け替えに莫大な費用が掛かるとの懸念から、一部自治体が存続を断念する表明をしたことで海線側の廃止が決まり、山線側も追随する結果となった。
廃止後、旧沿線自治体からなるふれんどバス運行協議会から、碧南 - 吉良吉田 - 吉良高校前間が名鉄バス東部によるふれんどバスという名称の代替バスに転換された。
廃線から9年が経過した2013年3月現在、山線側は山間部で放置されたレールが落ち葉に埋もれるなど自然に還りつつある部分もあるが、踏切部分が撤去され、枝下駅や三河広瀬駅などのように駅が広場として一部整備された以外は駅舎・ホーム・レール・鉄橋(枝下 - 三河広瀬間の矢作川鉄橋など)はほとんど撤去されずに廃線当時のままの姿が残っている。一方海線側はレールや鉄橋などは前述の矢作川鉄橋を含めほとんど撤去され、駅も三河一色駅のように駅舎が解体されたり、中畑駅のように駅そのものが更地化されるなど、往時の面影を偲ばせるものは少ない。
- 廃線跡.JPG
三河線 猿投 - 三河御船間廃線跡。左手に見えるのは「一丁目しだれ桜」。
- 一丁目しだれ桜 2.JPG
「一丁目しだれ桜」。2013年3月下旬撮影。
廃止区間の路線データ
データは各区間の廃止時点のもの。
区間 | 廃止年 | 路線距離 (営業キロ) |
軌間 | 駅数 | 複線区間 | 電化区間 | 閉塞方式 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
西中金 - 猿投間 | 2004年 | 8.6km | 1067mm | 4[* 1] | なし(全線単線) | なし(全線非電化) | スタフ閉塞式(西中金 - 猿投間で1閉塞) |
碧南 - 吉良吉田間 | 2004年 | 16.4km | 1067mm | 11[* 2] | なし(全線単線) | なし(全線非電化) | 票券閉塞式[* 3] |
新川口支線 | 1955年 | 0.6km | 1067mm | 1[* 4] | なし(全線単線) | 直流1500V | |
大浜口支線 | 1946年 | 0.4km | 1067mm | 1[* 5] | なし(全線単線) | 直流1500V |
テンプレート:Anchors 未成区間
山線の終点は西中金駅であったが、最終的には足助に至る予定だった。しかし、世界恐慌の影響や用地買収の難航などが足助付近の建設に支障し、路盤のほとんどの完成を見た時には太平洋戦争の開戦に見舞われた。敷設されるはずだったレールは南方戦線に供出されてしまい、ついに電車が走ることのなかったかつての路盤は現在、細い市道となっている。足助には紅葉の名所として知られる香嵐渓があり、毎年秋のシーズンになると三河線に並行する国道153号(飯田街道)が激しい渋滞を起こすため未成線になってしまったことが悔やまれているが、通年利用者数が期待できず、採算性の面から実現は乏しかったとする見方もある。
また三河線前身の三河鉄道当時に、子会社の新三河鉄道が取得していた八事(名古屋市) - 挙母間の鉄道敷設免許は、のちに合併した名鉄に引き継がれ、長い時間を経て名鉄豊田線となっている。
運行形態
知立駅で運転系統が分かれているが、運用上の都合で山線・海線の直通列車も存在する。2008年12月27日のダイヤ改正で平日朝時間帯、2011年3月26日のダイヤ改正から平日夕 - 夜間帯は原則として直通運転を行い、山線の列車は知立駅4番ホームに到着して名古屋方面へ「対面乗り換え」ができるように配慮されている。なお知立駅で列車番号が変わる。知立駅での名古屋本線(名鉄岐阜・新鵜沼 - 豊橋)の快速特急・特急との接続もきわめて良好である。2011年3月26日現在のダイヤでは全列車が知立駅を起終点としており、名古屋本線への直通列車は1本もない。
猿投 - 知立間 (三河山線)
山線区間では、知立 - 猿投間で深夜時間帯を除き15分間隔で普通列車が運行されている。この区間には駅集中管理システムが導入されており、2001年10月1日からワンマン運転が実施されている。知立・豊田市・猿投駅を除く各駅にはホームに赤外線センサーが据え付けられ、列車発車直後の列車接触を検出するようになっている。なお、赤外線センサーは、あくまでもセンサーであり、ドア部分以外でのホーム転落を防ぐための柵ではなく、そのような形状はしていない。そのため降車した客がセンサーを遮り、発車した電車が緊急停車することがしばしば発生している。
山線の最長編成は地下鉄直通用の6両編成を除くと4両である(ただし、猿投駅に留置線がある関係で車両検査や疎開留置で山線全線に渡り6両編成の回送が運転されることがある)。日中と休日は2両編成が中心ではあるが、ラッシュ時など利用客が多い時間帯では4両編成での運転となる。 他に、梅坪 - 豊田市間には、豊田線・名古屋市営地下鉄鶴舞線・犬山線への直通列車が乗り入れているほか、豊田線運用車両の出庫を兼ねて土橋発豊田市行きが早朝に2本設定されている(土橋行きは客扱いを行わず回送となる)。なお、豊田スタジアムなどでのイベント開催時には線内の交換設備をすべて使用し毎時6本(約10分間隔)の運転となる。
山線では、1965年からは1974年まで猿投駅まで特急が運行されていた(ただし、豊田市 - 猿投間は普通列車として運転)。2005年1月29日のダイヤ改正までは昼間と夜間に、本数はわずかながら名古屋本線との直通列車(名古屋本線内急行)が運転されていた。
また、1993年7月29日には豊田市で開催されたイベントへの参加者輸送のため、豊田市駅まで本線から直通の快速急行が6000系などによって運転された[1]
知立 - 碧南間 (三河海線)
海線区間では、普通列車のみ15分間隔で運行されている。山線と同じく、日中と土休日ダイヤでは2両編成運行が中心になるが、ラッシュ時には4両編成の運転となる。海線にも全線で2005年より駅集中管理システムが導入されたことにより、2006年4月29日のダイヤ改正からワンマン運転が開始された。運転方式は山線で採用されているホームセンサーを採用せず、小牧線で採用された小型液晶モニター支援でのワンマン運転となっている(海線においては、無人駅でないとモニターに何も表示されない。また、山線ではホームセンサーのみの使用で、液晶モニターには何も表示されない)。この区間の最長編成は山線と同じく4両である。現在のダイヤでは交換設備をほぼすべて使用しているため、これ以上の増発は困難である。
名古屋本線との直通列車については、2005年1月29日のダイヤ改正で昼間時の直通列車(名古屋本線内急行)を廃止した後、名古屋本線から碧南に向かう直通列車は2006年4月29日の改正、碧南から名古屋本線に向かう直通列車は2008年12月27日の改正で全面廃止された。海線にも1950年からは1974年まで特急が運行されていた。
廃止区間
廃止区間の西中金 - 猿投間、碧南 - 吉良吉田間は、廃止時点でレールバスを使用しての区間内折り返しワンマン運転で、60分間隔の運行であった。また出入庫の関係上知立までの直通列車も存在していた。平日朝のみ三河平坂駅での折り返しや列車交換も行われていた。
使用車両
ここでは基本的に2001年以降の車両について記述する。
現在の車両
海線における平日午後の1往復と山線の梅坪 - 豊田市間に乗り入れる豊田線の電車をのぞき、基本的にワンマン運転対応車で運転され、車内放送は自動放送によって行われている[注釈 1]。ワンマン運転対応の車両はホームセンサー対応で、自動放送装置のほかにホーム監視のためのモニター、運転席の放送用マイク、デッドマン装置などを装備するが、都市型ワンマンのため、整理券発行機や運賃箱などは設置されていない。また、全編成とも先頭車は前面貫通型となっている。ワンマン対応の車両である6000系は間合いで名古屋本線など他の路線でも運用されている。なお、山線の沿線でイベントが開催されて列車の増発が行われた場合には通常の三河線用のワンマン車両だけでは足りなくなるため、通常は当路線での定期運用のない3500・3700系、3300系、5000系、6500系などが入線することがある。ただし三河線では猿投 - 土橋間をのぞき3500・3700系・3300系などのVVVF車の入線は基本的に行っていない。
- 6000系:通勤用3ドア車でワンマン仕様のものは全席ロングシート。当路線のワンマン用としては2両編成12本と4両編成8本が在籍。2両編成のうち11本は1980年 - 1983年に製造された開閉可能な窓を持つ、俗に言う中期車で、ワンマン化に際して側窓の下部に保護棒が取り付けられた。2両編成のもう1本(6014編成)は1978年製、4両編成は1976年製・1977年製(6004編成と6005編成)・1979年製で、これらは固定連続窓を持つ、俗に言う初期車である。
- 名鉄100系・200系、名古屋市交通局3000形・3050形・N3000形:これらは地下鉄鶴舞線規格の20m4ドア車で6両編成を組む。いずれも全席ロングシート。当路線では基本的に豊田市 - 梅坪間の1区間のみに乗り入れてくるが、名鉄車のみ前述の早朝に2本設定のある土橋発豊田市行きの運用がある。この運用では自動放送は行われない。三河線内では6000系とは編成の向きが逆である(豊橋寄り先頭車が6000系では猿投向き、100系・200系では知立向き)。
過去の車両
- 7100系:もともとは7000系(パノラマカー)の中間車として1975年に12両が製造されたものであるが、1984年にこのうちの2両(モ7101号とモ7104号)のみ6000系8次車と同様なスタイルの先頭車に改造されたものである。当初は4両編成を組んでいたが、1987年に2両編成に組み直され、さらに2001年にワンマン化され、7700系と共通運用されていた。7700系と同様の2ドアの転換クロスシート車であったが、こちらの方はロングシートの割合が多かった。2009年11月27日に定期運用を離脱し、2日後にさよなら運転を行った。
- 7700系:もともとはセミパノラマカーと呼ばれ、7000系が入線できない支線区の特急車として運用されてきた。1973年に4両編成4本、2両編成4本が導入された。特急運用離脱後は三河線を中心に運用され2001年に8本ともワンマン化された。しかし、老朽化によって運用を終えることが決まり、2010年3月21日にさよなら運転が実施された。運用終了時では名鉄で唯一方向幕を持たない車両であった。
- 6800系:当路線全線でのワンマン化にともない当路線での定期運用はなくなっていたが、2009年10月5日に行われた車両運用の一部変更によって、平日午後に限って海線に1往復定期運行が再開された。休日の同運用は6000系であったが共に車掌が乗務し、車内放送も車掌の肉声によって行われていた。また、この6800系と上記6000系のうちの非ワンマン仕様の2両編成のほとんどは固定セミクロスシートとなっていた。2011年3月26日のダイヤ改正で元のワンマン車両による運用に戻り、定期運用を再び離脱した。
- 5000系:2008年6月、2009年9月から10月の間、猿投検車区へ疎開留置された5000系一部編成による定期運転が週1往復設定されていた。
また、ワンマン化される以前は前出の6500系や3500系のほか、1800系や5700・5300系なども主に本線との直通列車で定期運用があったほか、1990年代半ばまでは7300系や3730系などの旧性能車による定期運用も存在した(こちらの方は晩年は線内運用が主体であった)。このほか、7000系もかつては臨時特急で猿投まで乗り入れた。団体列車のみではあるが、8800系や1000系も乗り入れたことがある。非電化区間が廃止されるまではレールバスキハ20・30形も間合い運用(猿投検車区での給油のため)で電化区間を走っていた。電化区間ではレールバスはワンマン運転をしていなかった。
利用状況
愛知県の統計[2]によれば2004年度(平成16年度)の輸送人員は、26,999,000人(一日平均73,969人)、乗車密度は15,283人であった。
廃止前の廃止区間(西中金 - 猿投・碧南 - 吉良吉田)を含めた輸送人員は、2002年度(平成14年度)は一日平均72,424人、2003年度(平成15年度)の一日平均74,200人と、全線の約3分の1にあたる25kmもの区間が廃止されたにもかかわらずほとんど変わっていない。
なお、猿投駅、豊田市駅、刈谷駅、刈谷市駅等の利用者数はここ数年は上昇傾向にある。
歴史
1910年11月に刈谷出身の代議士三浦逸平や刈谷の有力者大野介蔵、太田平右衛門、高野松次郎らと大阪の才賀電機商会の才賀藤吉ら計31人が発起人となって、大浜(現在の碧南市)から高浜を結び、刈谷で東海道線に接続し碧海郡役所のある知立を結ぶ碧海軽便鉄道[3](軌間762mm 動力蒸気)を申請した。1911年7月に免許が下付されたが、同年8月に知立 - 挙母(豊田市)の敷設免許が下付された才賀が発起人総代の知挙軽便鉄道[4](軌間762mm 動力蒸気)と合同することになり、1912年5月に創立総会を開き社長は地元の武山勘七が就任[5]。社名を三河鉄道とすること、軌間を762mmから1067mmにすることを決議した。
1913年1月刈谷から大浜港までの工事に着手したが、不況により株式の払込が不調であり、また株主から経営者に対する不満から武山勘七は社長を辞任。久保扶桑にかわった。ようやく1914年2月刈谷新-大浜港間、1915年10月刈谷新-知立間と旧碧海軽便鉄道の区間が開業した。ただその間社内では1914年9月に久保が死去。さらに事業不振の責任をとって役員全員が辞任するという事態となっていた。困った株主達は神谷伝兵衛に社長の就任を要請し1916年4月になり神谷は社長となった[6]。
神谷は1916年11月臨時株主総会を開き猿投腰戸まで路線を延長すること、資本金を125万円にすることを提議し決議を得た。そして自ら沿線町村をまわり株の引受を依頼し応募は順調にすすんだ。路線は1920年7月から順次開通し1922年1月に越戸まで全通した。そして全通してまもなく財政を立て直した神谷は4月に死去した[7]。しばらくは社長は空席のまま専務に東京渡辺銀行の渡辺勝三郎がついた[8]。1924年2月には増資して資本金を525万円とすることにして北は足助町へ南は蒲郡町への延長と既設線の電化を決定した[9]。1926年11月になり2代目神谷伝兵衛が社長に、専務には電気鉄道経営の専門家として伊那電気鉄道社長の伊原五郎兵衛がついた[10]。1927年岡崎電気軌道を合併し資本金は625万円となったがこの時期三河鉄道は路線延長や電化による設備投資により多額の債務を抱えており、くわえて不況に見舞われることになり経営は苦境に立っていた[注釈 2]。このため愛知電気鉄道との合併を画策し東邦電力に斡旋を依頼したところ1930年4月に合併契約書の調印にこぎつけた。ところが愛知電鉄の経理担当者が三河鉄道が粉飾決算をして利益を計上していることを発見したため大問題となり愛知電鉄は合併契約破棄を宣言した。窮地に立った神谷らは私財提供による粉飾決算の是正を申出たが愛知電鉄の藍川清成はこれを拒否。1931年6月の株主総会で合併取消を決議してしまった[11][注釈 3]。この粉飾決算のなかには三河鉄道が出資している新三河鉄道への融資金の流用があった。1929年に新三河鉄道は日本興業銀行より40万円の融資を受けたがうち20万円を三河鉄道が流用した。その後10万円は返済したが10万円は返済不能となってしまい、このため1931年に興銀からおくりこまれた半田貢[注釈 4]、鈴木均平が取締役[12]となり三河鉄道は銀行管理となってしまう[13]。1934年7月には1/4減資を断行資本金468万7500円[14]となる。
開業時は大浜港(現在の碧南)、新川町、高浜港、吉浜、小垣江、刈谷町(現在の刈谷市)、刈谷新(現在の刈谷)の各駅と、北新川の停留所が置かれ、14.5kmの区間を所要時間1時間以上かけて運転されていた。後にこの区間には三河高浜駅が増設され、夏の海水浴シーズンには新須磨臨時停車場が設置された。
大浜港以南の区間も1926年に神谷(後の松木島)まで延長され、1928年に吉良吉田駅まで開通した。開通時に神谷駅と呼ばれた松木島駅は、神谷伝兵衛の出身地で、その功績をたたえて駅名を神谷とした。現在、蒲郡線となっている吉良吉田 - 蒲郡間も、三河鉄道により敷設され1936年に開通した。1941年の名古屋鉄道合併後も暫く三河線を名乗っていたが、1948年に蒲郡線に改称された。
三河線は知立駅でスイッチバックする線形となっているが、もともと三河線の三河知立駅が知立駅を名乗り、三河知立(三河線上の知立) - 重原間は名古屋本線上の現知立駅を通らない直線ルートをとっていた。開業当時は名古屋本線は愛知電気鉄道(愛電)、三河線は三河鉄道と別会社であった。名古屋本線の知立駅は三河線との交差地点上にあり三河線の乗り場と連絡橋で結ばれていた。1928年(昭和3年)6月1日 愛電豊橋線知立信号所と三河鉄道知立駅間に知立連絡線0.8kmが開通。1959年4月1日に現在の知立駅が開業し、それまでの知立駅は名古屋本線のものが東知立駅、三河線のものが三河知立駅と改称された。同時に三河線も新しい知立駅への新線が開通し、現在の線形となった。貨物列車のため従来の線路も残されたが、貨物列車廃止後は廃線となり、今でも複雑に入り組んだ連絡線の廃線跡がかなり残っている。
年表
- 1911年(明治44年)7月18日 : 碧海軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(知立-大浜間)[3]。
- 1911年(明治44年)8月5日 : 知挙軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(知立-挙母間)[4]。
- 1912年(明治45年)5月30日 : 三河鉄道設立[15][5]。
- 1914年(大正3年)
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正6年)
- 1918年(大正7年)
- 1919年(大正8年)から1924年(大正13年)の間に新須磨駅(四代)開業[18]。
- 1920年(大正9年)
- 1921年(大正10年)11月2日 : 鉄道免許状下付(西加茂郡猿投村-加茂郡足助町間)[27]
- 1922年(大正11年)1月17日 : 越戸駅 - 挙母駅間開業[28]。
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)10月31日 : 猿投駅 - 越戸駅間開業[30]。
- 1926年(大正15年)
- 1927年(昭和2年)
- 1928年(昭和3年)
- 1941年(昭和16年)
- 6月1日 : 名古屋鉄道が三河鉄道を合併、西中金駅 - 蒲郡駅間を三河線とする。
- 8月1日 : 豊橋線(現在の名古屋本線)新知立(後の東知立)駅と三河線知立(現在の三河知立)駅を統合し知立駅に改称。
- 1943年(昭和18年)
- 2月1日 : 三河吉田駅を移設し西尾線の同駅(現在の吉良吉田駅)と統合。
- 12月 : 刈谷乗務区を設置。
- 1944年(昭和19年) : 北寺津駅休止。
- 1946年(昭和21年)8月1日 : 大浜港駅 - 大浜口駅間廃止。
- 1948年(昭和23年)5月16日 : 三河線を西中金駅 - 三河吉田駅間とし、三河吉田駅 - 蒲郡駅間は蒲郡線とする。
- 1949年(昭和24年)12月1日 : 神谷駅を松木島駅に改称。
- 1950年(昭和25年): 知立連絡線を介して名古屋本線との直通運転を開始。
- 1952年(昭和27年)3月1日 : 刈谷町駅を刈谷市駅に改称。
- 1954年(昭和29年)4月1日 : 大浜港駅を碧南駅に改称。
- 1955年(昭和30年)2月1日 : 新川町駅 - 新川口駅間廃止。
- 1958年(昭和33年)6月27日 : 足助駅 - 西中金駅間の免許失効、延伸計画を断念。
- 1959年(昭和34年)
- 4月1日 : 名古屋本線に現在の知立駅開業、従前の知立駅を名古屋本線東知立駅と三河線三河知立駅に分離、三河知立駅 - 知立駅 - 重原駅間の新線開業、刈谷乗務区を知立乗務区に移転。
- 10月1日 : 挙母駅を豊田市駅に改称。
- 11月1日 : 三河吉田駅を吉良吉田駅に改称。
- 1964年(昭和39年)9月14日 : 特急みかわ号運転開始(5500系使用)。
- 1969年(昭和44年)4月5日 : 北寺津駅廃止。
- 1972年(昭和47年)7月13日 : 集中豪雨により西中金駅 - 猿投駅間不通、同年8月10日復旧。
- 1976年(昭和51年)4月11日 : 知立駅 - 重原駅間複線化。
- 1980年(昭和55年)12月14日 : 刈谷駅 - 刈谷市駅間高架複線化。
- 1981年(昭和56年)12月14日 : 新須磨駅(四代)を移設し碧南中央駅に改称。
- 1984年(昭和59年)
- 1月1日 : 貨物営業廃止。
- 4月1日 : 知立連絡線 三河知立駅 - 知立信号所間が廃止。
- 1985年(昭和60年)
- 1986年(昭和61年)10月1日 : 梅坪駅 - 豊田市駅間が高架複線化。
- 1990年(平成2年)7月1日 : 碧南駅 - 吉良吉田駅間の電気運転を廃止し、レールバスを投入。同区間でワンマン運転開始。
- 1993年(平成5年)8月12日 : 知立駅 - 碧南駅間を昼間時20分間隔から15分間隔に増発。
- 1994年(平成6年)7月 : 三河高浜駅橋上駅舎化。
- 1996年(平成8年)4月8日 : 猿投駅 - 知立駅間を昼間時20分間隔から15分間隔に増発。
- 1998年(平成10年)11月 : 寺津高架橋完成。三河楠 - 寺津間高架化。
- 2000年(平成12年)12月 : 越戸駅周辺高架化。
- 2001年(平成13年)10月1日 : 猿投駅 - 知立駅間に駅集中管理システムを導入、ワンマン運転開始。
- 2002年(平成14年) : 前川河川改修工事により小垣江駅北300mを複線化。
- 2003年(平成15年)10月1日 : 猿投駅 - 知立駅間の各駅にトランパスを導入[36]。
- 2004年(平成16年)4月1日 : 西中金駅 - 猿投駅間、碧南駅 - 吉良吉田駅間廃止。
- 2005年(平成17年)9月14日 : 知立駅 - 碧南駅間の各駅に駅集中管理システムとトランパスを導入。
- 2006年(平成18年)4月29日 : 知立駅 - 碧南駅間でワンマン運転開始。
- 2009年(平成21年)12月12日 : 三河八橋駅周辺高架化。駅南約500mを複線化。
- 2010年(平成22年)3月27日 : 土橋駅橋上駅舎化。
- 2011年(平成23年)2月11日 : ICカード乗車券「manaca」供用開始。
- 2012年(平成24年)2月29日 : トランパス供用終了。
複線化計画
山線では沿線の豊田市に本社を置くトヨタ自動車が、名古屋駅前の高層ビルミッドランドスクエアに営業部門を集結させたことや、沿線にある同社の工場へ通勤する上での電車利用を推進する方針を打ち出したことで、さらなる輸送人員増加が期待できることから、名鉄は2006年度からの新3カ年経営計画で、名鉄空港線とともに「高架化、複線化、高速化など、需要に応じた投資を多角的に行う」と明示し、知立駅から豊田市駅までの複線化計画についても本格的に検討を開始した。
すでに豊田市は、複線化用地取得費用の面で及び腰だった名鉄側の姿勢を見た上で、独自に区画整理事業、立体交差事業を進め、あらかじめ複線化対応での高架化を計画するなど、「後は複線の線路を敷設するだけ」という積極行動に出た。第一段階として、2006年7月頃から三河八橋駅付近の高架化工事に着手し、2009年12月12日に三河八橋駅周辺1.6kmの高架化事業が完了した[注釈 5]。さらに隣の若林駅周辺2.3kmの高架化計画についても2006年度から調査が進められており、2011年度の都市計画決定を目指して調整が行われている。また、2010年3月27日に橋上化が完了した土橋駅においては、将来的に知立方面の増線(2面4線化)が可能な構造へと改良された。
一方、知立駅連続立体交差事業についても、既に仮駅整備に向けた工事や一部の周辺整備事業が開始されているが、すべての完成予定は2023年度と、工事の進行が当初計画と比べて大幅に遅れている。また知立市の計画では、既に重原駅まで部分複線化されている海線側の高架化工事は複線対応で行う予定であるが、現在も単線である山線側については、一連の連続立体交差事業により知立駅と同時に高架化される予定の三河知立駅までが複線化対応で、三河知立駅から三河八橋駅手前までの区間は、単線のままの高架化計画となっている。これは一つの事業としての費用を低く抑えるために、現時点で名鉄側との確約が取れていない複線化を、先行して行わないという消極的判断によるものである。この点、豊田市の対応とは対照的であり、自治体の財政の差を見せつけられた結果となっている。また、知立市が行う一連の連続立体交差事業の事業費をさらに圧縮するため、三河知立駅の高架化計画をとりやめ、高架区間から外れた知立市山町、同市牛田町地内に駅そのものを移転させ、地上駅とする案も出されている。
海線では1967年9月に沿線自治体4市により名鉄三河線複線化促進期成同盟会が結成されて以来、1976年の知立 - 重原間、1980年の刈谷市駅高架化に伴う刈谷 - 刈谷市間の複線化がなされたものの、翌1981年に碧南中央駅の移設開業では1面1線の駅構造となり、複線化対応は見送られた。1984年に貨物営業が廃止されると各駅構内の整理が進み、間もなく吉浜、高浜港両駅も棒線化された。鉄道から車へのシフト、またJR東海道線のダイヤ拡充に伴い、名鉄本線直通の効果が見いだせない海線には、複線化促進の兆しが見えていない。そんな中、2002年に河川改修に伴う小垣江駅周辺の工事では、刈谷市駅寄りにおよそ300mの複線区間が完成した。なお、重原 - 刈谷間は全線に渡って複線分の用地は確保されており、JR東海道本線をまたぐ橋梁も複線分用意されている。現在使用されている線の方が後に設置されたものである。
今でも名鉄三河線複線化促進期成同盟会は活動を行っているが、名鉄側は東部支配人と部長などが参加し、毎回、要望と意見交換で終わっている。
駅一覧
全駅愛知県に所在。上り方向(猿投→碧南)に記述。
営業中の区間
運行されている列車は普通列車のみ。全駅に停車。他線との直通列車も三河線内ではすべて普通列車として運行。
- 凡例
- 色 … ラインカラー
- 線路 … |:単線区間 ◇:単線区間の交換可能駅 ∧:これより上は単線 ∨:これより下は単線
色 | 駅名 | 駅間キロ | 営業キロ | 接続路線 | 線路 | 所在地 |
---|---|---|---|---|---|---|
猿投駅 | - | 0.0 | ◇ | 豊田市 | ||
平戸橋駅 | 1.1 | 1.1 | | | |||
越戸駅 | 1.1 | 2.2 | ◇ | |||
梅坪駅 | 2.0 | 4.2 | 名古屋鉄道:豊田線 | ∧ | ||
豊田市駅 | 1.4 | 5.6 | 愛知環状鉄道:愛知環状鉄道線(新豊田駅) | ∨ | ||
上挙母駅 | 1.8 | 7.4 | 愛知環状鉄道:愛知環状鉄道線(新上挙母駅) | ◇ | ||
土橋駅 | 2.8 | 10.2 | ◇ | |||
竹村駅 | 2.6 | 12.8 | ◇ | |||
若林駅 | 2.3 | 15.1 | ◇ | |||
三河八橋駅 | 2.4 | 17.5 | ◇ | |||
三河知立駅 | 3.1 | 20.6 | ◇ | 知立市 | ||
知立駅 | 0.7 | 21.3 | 名古屋鉄道:名古屋本線 | ∧ | ||
重原駅 | 2.2 | 23.5 | ∨ | |||
刈谷駅 | 1.7 | 25.2 | 東海旅客鉄道:東海道本線 | ∧ | 刈谷市 | |
刈谷市駅 | 1.6 | 26.8 | ∨ | |||
小垣江駅 | 2.6 | 29.4 | ◇ | |||
吉浜駅 | 2.0 | 31.4 | | | 高浜市 | ||
三河高浜駅 | 1.9 | 33.3 | ◇ | |||
高浜港駅 | 1.0 | 34.3 | | | |||
北新川駅 | 1.8 | 36.1 | ◇ | 碧南市 | ||
新川町駅 | 1.0 | 37.1 | ◇ | |||
碧南中央駅 | 1.1 | 38.2 | | | |||
碧南駅 | 1.6 | 39.8 | ◇ |
過去の接続路線
廃止区間
- 凡例
- 線路(当該区間は全線単線) … |:交換不可 ◇:交換可能
駅名 | 駅間キロ | 営業キロ | 接続路線 | 線路 | 所在地 |
---|---|---|---|---|---|
西中金駅 | - | 0.0 | | | 豊田市 | |
三河広瀬駅 | 2.8 | 2.8 | | | ||
枝下駅 | 1.3 | 4.1 | | | ||
三河御船駅 | 3.0 | 7.1 | | | ||
猿投駅 | 1.5 | 8.6 | ◇ | ||
この間は営業区間 | |||||
碧南駅 | - | 48.4 | ◇ | 碧南市 | |
玉津浦駅 | 0.7 | 49.1 | | | ||
棚尾駅 | 0.9 | 50.0 | | | ||
三河旭駅 | 0.7 | 50.7 | | | ||
中畑駅 | 1.5 | 52.2 | | | 西尾市 | |
三河平坂駅 | 1.0 | 53.2 | 名古屋鉄道:平坂支線(1960年3月27日廃止)(平坂口駅:徒歩7分) | ◇ | |
三河楠駅 | 1.1 | 54.3 | | | ||
北寺津駅* | 1.5 | 55.8 | | | ||
寺津駅 | 0.5 | 56.3 | | | ||
西一色駅 | 2.3 | 58.6 | | | 幡豆郡一色町 | |
三河一色駅 | 1.5 | 60.1 | | | ||
松木島駅 | 2.0 | 62.1 | | | ||
吉良吉田駅 | 2.7 | 64.8 | 名古屋鉄道:西尾線・蒲郡線 | ◇ | 幡豆郡吉良町 |
未成区間
足助駅 - 追分駅 - 中切駅 - 野口駅 - 東中金駅 - 西中金駅
東海地震への対応
三河線では猿投駅 - 豊田市駅 - 知立駅 - 碧南駅間の全線が東海地震の防災対策強化地域に含まれており、東海地震に関する警戒宣言が発令された場合、列車の運行が休止されることになっている[37]。
脚注
注釈
- ↑ これは豊田線の電車も同様。なお、放送は豊田線および犬山線から地下鉄鶴舞線に乗り入れる電車ともども、小牧線や瀬戸線と同じく女声によるものとなっている。
- ↑ 1930年時点借入金402万円、支払手形43万円、未払金44万円『日本全国諸会社役員録. 第38回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 競争相手の吸収、輸送需要の誘発など愛知電鉄側にも十分にメリットがあるにもかかわらず合併が実現しなかったのは実情は愛知電鉄も豊橋線の高規格設備投資があだとなり経営危機に陥っており三河鉄道と合併する余裕などなかったことだという『名古屋鉄道百年史』164-165頁
- ↑ 小田原電気鉄道技師から専務取締役になり退社後は湘南電気鉄道、京浜電気鉄道、海岸電気軌道の役員を歴任『人事興信録. 9版』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 高架設備はすべて複線分のスペースが確保されている。
出典
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ 愛知県ホームページ あいちの陸上交通
- ↑ 3.0 3.1 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年7月24日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 4.0 4.1 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年8月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 5.0 5.1 『日本全国諸会社役員録. 第21回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 『日本全国諸会社役員録. 第24回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 『名古屋鉄道社史』1960年、293-294頁
- ↑ 取締役の神谷伝兵衛は2代目『日本全国諸会社役員録. 第31回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 『名古屋鉄道社史』296-297頁
- ↑ 『日本全国諸会社役員録. 第35回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 『名古屋鉄道百年史』163-164頁
- ↑ 『日本全国諸会社役員録. 第40回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 小川功『企業破綻と金融破綻』318-319頁
- ↑ 『株式投資年鑑.昭和12年版』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 15.0 15.1 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年2月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1914年9月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 18.0 18.1 18.2 18.3 日本鉄道旅行地図帳 追加・訂補 7号 東海 - 鉄道フォーラム
- ↑ 「軽便鉄道貨物運輸開始」『官報』1915年8月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年11月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年12月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1918年4月24日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1920年7月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1920年9月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1920年11月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「鉄道免許状下付」『官報』1920年12月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「鉄道免許状下付」『官報』1921年11月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1922年2月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 『名古屋鉄道百年史』870頁。官報では11月15日「地方鉄道駅設置」『官報』1923年11月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年11月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始並営業哩程変更」『官報』1926年9月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1927年9月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1927年9月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年1月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年9月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ 列車運行に支障がある場合の取扱い 名古屋鉄道
関連項目
外部リンク
- 三河線 路線・駅情報 (名古屋鉄道)
テンプレート:名古屋鉄道路線
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