アントニオ猪木
テンプレート:Infobox プロレスラー アントニオ 猪木(アントニオ いのき、テンプレート:Lang-en-short, 1943年2月20日 - )は、日本の元プロレスラー、実業家、政治家。次世代の党所属の参議院議員(2期)。本名:旧リングネーム:猪木 寛至(いのき かんじ)。神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂[1]」(当初は「燃ゆる闘魂」)。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。愛称は「アントン」。
プロレスラー現役時代は新日本プロレスの創業や異種格闘技戦で活躍。
目次
プロフィール
生い立ち
神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。父親は猪木が5歳の時に死去。前田日明は「猪木さんの弁によると父親は県会議員か何かだったって」と著書に書いている[2]。実家は石炭問屋を営んでいたが第二次世界大戦後、世界のエネルギー資源の中心が石炭から石油に変わっていったこともあり倒産。
12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。13歳の時に母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り[3]、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。
ブラジル移住後最初の1年半は、農場で早朝5時から夕方の5時までコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられた。作業のたびに手の皮が剥けて血まみれになったが、1年半の契約があり逃げることはできなかった。他の農場の脱走した者たちの中には牧場主に射殺された者もいたという。1日の作業が終わり、住居として与えられた電気も通っていない小屋に戻り、着替えるためにTシャツを脱ぐと染みこんだ汗の塩分のため、Tシャツが固まって立ったほどだったという。
幼少時代は運動神経が鈍く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」などと呼ばれていた程であったが、ブラジル移住後は陸上競技選手として現地の大会に出場し、砲丸投げで優勝するなど、その身体能力を発揮する[4]。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。
プロレスラーとして
プロレスデビュー
1960年(昭和35年)4月11日、興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウトされて日本へ帰国し日本プロレスに入団。猪木はこの出会いを振り返り、「本当に自分は運がいい」と今でも語っているテンプレート:要出典。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという[5]。
ジャイアント馬場のデビューと同日の1960年(昭和35年)9月30日、東京都台東区の台東区体育館で大木金太郎を相手にデビュー(敗戦)。この時は本名・猪木寛至で試合を行ったテンプレート:要出典。
なお、「アントニオ猪木」というリングネームは、先輩レスラー豊登による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的である[6]が、単に「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するため洋風な名前にされたという説もあるテンプレート:要出典[7]。
南米での興行を成功させるための布石として力道山は当初猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた。そのため、当時の猪木は片言の日本語でインタビューに答えたり、弟子入りのために帰国した際には「日本語は話せますか?」と記者に問われたテンプレート:要出典。横浜在住時の猪木の幼馴染がその記事を見て日本プロレスの道場を訪ね、「お前は横浜にいた猪木だろう?」と質問したが、猪木は一貫して否定した。猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山が亡くなった後であった[8]。デビューしてからまもなく、力道山の付き人となったものの、力道山は1963年(昭和38年)12月15日に死去。
1964年(昭和39年)にアメリカ武者修行に出発するが当初は正式な就労ビザが取れず、本名で活動することを避けていたと後に述べている。この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった「リトル・トーキョー・トム」等多数。アメリカ各地をサーキットし、2年後に帰国。なおこの遠征中にアメリカ人女性と同棲し、子供をもうけたが幼くして病死したテンプレート:要出典。
東京プロレス
かつて日本プロレス社長であった豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、猪木をエースとする東京プロレスを豊登とともに旗揚げする。ジョニー・バレンタインとの一戦で名声を得る。
しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱さ、豊登の横領などにより急速に業績が悪化。「客が少ない」という理由で興業を中止しようとしたところ、怒った観客にリングに火をつけられる「板橋事件」などが起き、東京プロレスは3ヶ月で破産、最終的に当時の自民党副総裁川島正次郎の仲介もあり古巣である日本プロレスに戻ることになる[9]。
日本プロレス復帰
日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、馬場とのタッグ「BI砲」としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。NET(現:テレビ朝日)が日本プロレス中継を開始した際、日本テレビとの取り決めで馬場の試合は日本テレビの独占とされた関係上、猪木はNETの日本プロレス中継のエースという形になり、UNヘビー級王座を獲得した。また、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。
しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決は当時タブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど、日本プロレスとの度重なる確執から1971年(昭和46年)に追放処分を受ける(詳しくは密告事件を参照)。同年11月、女優の倍賞美津子と結婚した(16年後の1987年(昭和62年)に離婚)テンプレート:要出典。
新日本プロレス設立
日本プロレスを追放された後の1972年(昭和47年)1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博す。タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどを外国人エースとして育成もした。WWWFと提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。
異種格闘技戦
新日本プロレスは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレスに大きな影響を与える。猪木は自身の最強を証明するため、格闘技の英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。
中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本では、昼間の生中継と同日のゴールデンタイム19時からのNETテレビでの録画中継という形で2度放送された(詳しくはアントニオ猪木対モハメド・アリを参照)。1979年(昭和54年)1月にはアフリカの元ボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領であるイディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上したテンプレート:要出典。アミンは猪木戦を承諾したが、その後アミンがクーデターを受けサウジアラビアに亡命したため、結局対戦は実現しなかった。
猪木監禁事件
1982年(昭和57年)2月27日、沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫とともにフルコンタクト空手の団体「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立した。
同年、漫画原作者の梶原一騎により猪木が監禁される事件が起こった。梶原は、暴力団関係者を使って猪木を大阪のリーガロイヤルホテルの一室に呼び出し、銃を持っていることなどを仄めかして猪木を脅迫したとされる。この事件は当時週刊誌やスポーツ新聞のみならず、テレビや全国紙でも大きく取り上げられるニュースとなったテンプレート:要出典。後に梶原が著書『わが懺悔録』で語ったところによると、この事件の発端は、当時タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から梶原に支払われなくなっていたことにあるとされている。「猪木が梶原を避けていたため全く連絡がつかない状態にあった時、たまたまホテルで会ったので部屋に招いてその件を問い質しただけで、監禁恐喝は完全に冤罪である」という。ただし、恐喝に関して梶原の他に「同席者」がいたことは否定されていない。
IWGP立ち上げと世代交代
1983年(昭和58年)には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げる。しかし同年6月2日の第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭のハルク・ホーガンからロープ越しのアックスボンバーを受け、リングサイドに落ちた際に頭を打って脳震盪を起こし、失神KO負けを喫した(詳細についてはIWGPリーグ戦の項を参照)。
この頃、猪木が自身のビジネス(「アントン・ハイセル」など)に新日本プロレスの資金を投資し、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、その後のタイガーマスクや長州力の退団騒動につながって行く。
1987年(昭和62年)、不倫騒動で倍賞と離婚。そしてアントン・ハイセルの負債、クーデターで最悪の状況の中、マサ斎藤と観客なしのノーピープルマッチを敢行。2時間5分14秒の闘いの末、勝利したテンプレート:要出典。
1988年(昭和63年)8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木が負ければ引退か?」という憶測の中、IWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった[10]。猪木は「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により急遽この試合を実況するという設定の中、試合は60分時間切れの引き分け。これが猪木最後のIWGP挑戦となった。
1989年(平成元年)2月22日、両国国技館での長州力とのシングルマッチで完璧なピンフォール負けを喫した。猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にしたテンプレート:要出典。
引退
1994年(平成6年)5月1日、福岡ドームでグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収める。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、カウントがダウンせずに「1・2・3」とアップしている)。
1995年(平成7年)12月30日、大阪城ホールにて自主興行「INOKI FESTIVAL」を開催。
1996年(平成8年)11月3日には以前自身が平壌での対戦を熱望したジョージ・フォアマンが来日し、東京ベイNKホールで行われたマイナー団体のプロボクシング世界戦で判定勝ち。猪木は二宮清純と共にTBSテレビの解説を務めた。
1998年(平成10年)、沖縄県豊見城村(現・豊見城市)内の平仲信明のジムで現役生活最後のキャンプ、3月22日愛知県体育館で角田信朗と公開スパー、4月4日東京ドームにおける引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、小川直也らと対戦し勝ち上がってきたドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。引退の際には「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った[11]。この「道」のセリフは、後に盛んに春一番らがものまねの対象にしている。
引退後
引退後はUFO、PRIDE、INOKI BOM-BA-YEなど、多くの団体やイベントに盛り上げ役として登場したり、猪木完全プロデュースによる「ジャングルファイト(MMA/VT)」をブラジルで開催するなどしている。
2002年(平成14年)8月28日に行われた「Dynamite!」では、上空4,000メートル(夜間規制があったため発表は3,000メートル)からのスカイダイビングに挑戦[12]。国立霞ヶ丘陸上競技場への着地に成功したが、その後「PRIDE」と絶縁。
2003年(平成15年)12月31日には日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催したが大失敗に終わり、格闘技プロデュースからは退いた。
2005年(平成17年)11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。
2006年(平成18年)4月、アメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任。IFL参戦のため、同年9月に自身が監督を務める東京サーベルズを結成。同時に、自ら企画した格闘技イベント「INOKI GENOME 〜格闘技世界一決定戦〜[13]」の開催延期を発表するなど試行錯誤を繰り返した。
2007年(平成19年)3月、自身が社長(後に会長)を務める新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を発足、6月に旗揚げ戦を行った。娘婿であるサイモン・ケリー猪木も新日本プロレス社長を辞職、IGFへ合流した。
2007年(平成19年)7月11日、親交のあるTRIPLE-Pと“TRIPLE-P vs. アントニオ猪木”を組み、アントニオ猪木の名言「道」を曲にして発売した。道のCDジャケットの裏側はアントニオ猪木の手書きの「道」が書かれている。プロモーションビデオにも出演しDJプレイしたりサンプラーを叩いたりする。
2007年(平成19年)12月20日、有明コロシアムで行われた小川直也対安田忠夫戦の試合終了後、レフェリーの制止を無視して暴れまわる小川を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。
2010年(平成22年)2月1日、WWEは猪木のWWE殿堂(WWE ホール・オブ・フェイム)顕彰を発表した。WWE殿堂入りを果たした日本人は猪木が初めてである[14]。理由は、世界のプロレス界発展に貢献したことを評価しての選出であった。インダクター(プレゼンター)はスタン・ハンセン。
猪木のWWE殿堂表彰セレモニーは3月27日、アリゾナ州フェニックスにて行われた。猪木は翌日にアリゾナ州グレンデールのユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアムで開催された第26回レッスルマニアにも登場し、観衆からの祝福を受けた[15]。
2010年(平成22年)12月、「INOKI BOM-BA-YE」を復活させると共に、「Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜」のプロデューサーとして大晦日興行に復帰する。
2011年(平成23年)12月31日、「元気ですか!! 大晦日!! 2011」を開催。
2012年(平成24年)7月10日、中国・上海で新団体「上海愛武」を旗揚げ。
2012年(平成24年)11月20日、キューバ友好勲章を授与される[16]。
2013年2月20日、古希を祝うパーティーが東京都港区のホテルオークラ東京で催され、坂口征二、小川直也、藤波辰爾、藤原喜明、木村健悟、佐山聡、ジョージ高野、前田日明、北沢幹之、蝶野正洋、棚橋弘至、橋本大地、スタン・ハンセンらかつての愛弟子・ライバルや、各界から千葉真一・谷隼人、デヴィ・スカルノ、船越英一郎、九重親方、南部虎弾、野村克也&野村沙知代夫妻など、660人が祝福に駆けつけた[17]。
政治家として
政界進出・参議院議員
テンプレート:See1989年(平成元年)、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉にスポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙に比例区から99万3989票を集めて初当選し、参議院議員となる[18](キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」)。史上初のレスラー出身の国会議員となった。「今話題になっているリクルート問題に対して私はこの一言で片付けたい“逆十字固め”」、「国会の場でも俺にしかできないことをやる」と宣言したテンプレート:要出典。
なお、当時参院比例区は政党名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いた無効票が大量に出た(当時の参議院比例代表選挙は厳正拘束名簿式)。政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、政治とプロレスの「二足のわらじ」を履いて活動した。
1989年(平成元年)10月14日、福島県会津若松市で講演中に暴漢に刃物で襲われ、左の頸部などを負傷。会場が一時騒然となる中、傷口をタオルで押さえたまま講演を最後まで行い、終了後に東京の病院に入院した。この時の猪木はマスコミのインタビューで「アトラクションにしては痛てーな」とコメントしていた。10月25日、統一会派を組んだ民社党の配慮により、頭に包帯をし車椅子に乗った状態で初めて質問に立ったテンプレート:要出典。
湾岸戦争で邦人人質解放
1990年(平成2年)8月2日、当時サッダーム・フセイン政権下のイラクが突如クウェートに侵攻(湾岸戦争)。イラクは日本を含む国際連合からの非難や制裁措置を受け、当時クウェートにいた日本人41人などを事実上の人質としてイラクヘ連行・国外移動禁止処分にする。
政府間の人質解放交渉は難航したが、猪木が12月1日にイラクで「平和の祭典」を行うことを発表。外務省はこれに難色を示したが、猪木は個人で費用を負担してトルコ航空機をチャーター、関係者や人質被害者41人の家族46人と共にトルコ経由でバグダードへ入った。このイベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。
不測の事態が発生した際の問題等、この行動には賛否両論あったテンプレート:要出典。しかし、猪木のこの行動によって結果的に多数の人質が救い出されたことは事実であるテンプレート:要出典。
これを追い風に、その後1992年(平成4年)7月の第16回参議院議員通常選挙でも1議席を獲得[19](参議院会派で2議席目)した。
落選
1994年(平成6年)、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子[20]およびスポーツ平和党前幹事長の新間寿らが、「政治資金規正法違反」、「収賄」、「右翼(日本皇民党)との癒着」、「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板」、「税金未納」、「女性問題(カンボジアで13歳の少女買春)」などの問題を告発するいわゆる「猪木スキャンダル」をぶち上げた。新間にそそのかされたTBSは、新間の記者会見を急遽生中継したテンプレート:要出典。
このうちのいくつか(少女買春など)は完全な捏造であり、特に政治資金規正法違反については東京地検捜査中に時効となり、処分はまぬがれた。税金未納問題については、世田谷区役所および国税から差し押さえ処分を受けた(官報テンプレート:要出典に記載)。
これと前後して、もう1人のスポーツ平和党所属議員江本孟紀と党の運営を巡って対立。特に金銭疑惑にまつわる江本の猪木に対する不信により大きな亀裂が生じた。また、釈明記者会見の際、激高した猪木が机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度をとったことも強い批判を浴びた。また東京佐川急便事件との関係も報じられたテンプレート:要出典。
一連の「猪木スキャンダル」もあり、1995年(平成7年)の参議院選挙で落選。なお、同じ参院選挙では高田延彦が副党首を務めた「さわやか新党」も立候補したが[21]、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。選挙後、江本は離党した。
なお、スポーツ平和党は2004年4月を以て解散した。
参議院選挙への再出馬・国政復帰
2013年6月5日、日本維新の会より、第23回参議院議員通常選挙比例代表での出馬を表明。日本維新の会共同代表の石原慎太郎立ち会いの下で開催した記者会見で『猪木の元気を日本のために活かしたい』と国政再挑戦への意欲を漲らせた[22]。
同年7月21日の投開票において、獲得票数35万6606票(同会内最多得票)で当選し[23]、18年ぶりの国政復帰を果たした。
2013年7月29日より議員氏名として「アントニオ 猪木」を使用することが、参議院で許可された[24]。
2014年8月の日本維新の会分党に際しては石原慎太郎共同代表を支持するグループ「次世代の党」に参加。党国民運動局長および参議院政策調査会長に就任した。
訪朝
2013年7月25日から北朝鮮の朝鮮戦争休戦60年の記念行事に出席[25][26]。平壌で金永南最高人民会議常任委員長と会談した[27]。参議院規則では議員が登院できない場合には議院の許可を得ることとされているが、参議院選挙の比例区で当選した後ではあったものの前任の参議院議員の任期満了が7月28日であり未だ民間人なので問題はないと説明されていた[28]。
その後、北朝鮮のスポーツ教化委員長であった張成沢の打診を受け、10月下旬に再度訪朝の意向を示した。10月31日の参議院議院運営委員会理事会は「必要性がない」として渡航不許可を決定[29]。しかし、不許可は不合理と反発して11月に入って実際に訪朝が実行されたため、参議院議院運営委員会理事会は処分を含めた対応を検討[30]。11月13日の参議院本会議で懲罰動議が可決され懲罰委員会に付託して処分の是非や内容を審査することとなった[31]。懲罰委員会からは弁明の機会が与えられていたもののこれを拒否し、11月20日の懲罰委員会理事懇談会の協議で登院停止30日の処分内容が決定され、11月21日の懲罰委員会でこれを全会一致で可決、11月22日の参議院本会議で登院停止30日とすることに維新を除く賛成多数で可決された[32][33]。また、維新から党としての処分として、党員資格と党副幹事長職それぞれ50日間停止を言い渡された。
猪木を招待した張成沢は12月8日粛清され、公職追放された。そして12月12日死刑判決を受け、即日処刑された。猪木は張の処刑について聞かれ、「よく分からない。北朝鮮も神経質になっているときなので余計なことを話さず、言葉を控えたい」と答えた。また、訪朝時に打診した国会議員団訪問の受け入れは、北朝鮮側から「約束はまったく変わらない」と返答があったという。猪木は、理事長を務めるNPO法人「スポーツ平和交流協会」が平壌に設立した事務所を通じた交流活動についても「変化しない」と述べた[34]。
2014年1月13日 - 16日にかけ、北朝鮮に訪問した[35][36]。猪木の訪朝はこれで27回目となる[37]。
2014年4月には同じ維新の会の松浪健太、石関貴史、阪口直人(衆)、清水貴之(参)の4議員とともにゴールデンウィーク中の再度の訪朝を計画した。維新の会は党として許可したテンプレート:Cite news</ref>ものの、政府として北朝鮮に対して渡航自粛勧告を通達するなど制裁発動中であることを理由に自民党からの自粛要請に逢い[38]、渡航に必要な衆参両院の許可が得られる見込みがなくなったとして最終的に断念した[39][40]。同年6月、第186回国会の閉会を待って再度の訪朝計画を発表(国会会期中以外の海外渡航は議員が所属する各院の許可が不要であるため)、これに対して菅義偉官房長官は7月7日の定例記者会見で、政府が北朝鮮への経済制裁を一部解除したことを踏まえ「渡航で特段の措置を取ることはない」として反対しない方針を表明[41]、7月9日、猪木と上記の4議員にみんなの党の山田太郎参議院議員を加えた6名の議員団を組織して北朝鮮へ出発、平壌市内の各施設や開城市などを訪問したほか、朝・日友好親善協会顧問である朝鮮労働党の姜錫柱書記や労働党国際部副部長を務める朝日友好親善協会の朴根光会長と会談を行い、拉致問題解決に向けた取り組みや人的交流を確認し合った[42][43][44]。
プロレス
主な戦績
- 1960年(昭和35年)9月30日、デビュー戦で大木金太郎(金一=キム・イル)に逆腕固めで敗退。
- 1966年(昭和41年)11月19日、ジョニー・バレンタインを破り、USヘビー級王座を獲得。
- 1967年(昭和42年)10月31日、ジャイアント馬場と組み、ビル・ワット&ターザン・タイラーからインターナショナル・タッグ王座を奪取。
- 1969年(昭和44年)5月16日、クリス・マルコフを破り、ワールドリーグ戦初優勝。
- 1969年(昭和44年)12月2日、NWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンク・ジュニアに挑戦、60分時間切れ引き分け。
- 1971年(昭和46年)3月2日、ジョン・トロスを破り、UNヘビー級王座を獲得。
- 1972年(昭和47年)10月4日、カール・ゴッチを破り、世界ヘビー級王座を獲得。
- 1973年(昭和48年)10月13日、坂口征二と組み、ルー・テーズ&カール・ゴッチと90分3本勝負で対戦、2-1で勝利。
- 1973年(昭和48年)12月10日、ジョニー・パワーズを破り、NWF世界ヘビー級王座獲得。
- 1974年(昭和49年)3月19日、NWF世界ヘビー級選手権試合でストロング小林と対戦、大物日本人同士の対決が話題となった。ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利。
- 1974年(昭和49年)4月26日、坂口征二と初対戦。30分1本勝負で時間切れ引き分け。
- 1974年(昭和49年)5月8日、キラー・カール・クラップを破り、新日本プロレス版ワールドリーグ戦初優勝。
- 1974年(昭和49年)6月26日、タイガー・ジェット・シンと対戦し、腕を折る。
- 1974年(昭和49年)8月16日、坂口征二と組み、クルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツから北米タッグ王座を奪取。
- 1974年(昭和49年)10月10日、NWF世界ヘビー級選手権試合で大木金太郎と対戦、13分13秒でバックドロップからフォール勝ち。
- 1975年(昭和50年)12月11日、NWF世界ヘビー級選手権試合でビル・ロビンソンと対戦、60分時間切れ引き分け。
- 1976年(昭和51年)2月6日、ミュンヘンオリンピック柔道無差別級金メダリストのウィレム・ルスカと初の異種格闘技戦。バックドロップ3連発で勝利。
- 1976年(昭和51年)6月26日、プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリと対戦、時間切れ引き分けに終わる(アントニオ猪木対モハメド・アリ参照)。
- 1976年(昭和51年)10月7日、アンドレ・ザ・ジャイアントと格闘技世界一決定戦で対戦、レフェリーストップで勝利。
- 1977年(昭和52年)8月2日、空手のWKA世界スーパーヘビー級王者ザ・モンスターマン(エベレット・エディ)と対戦、KO勝ち。
- 1978年(昭和53年)5月30日、アンドレ・ザ・ジャイアントを破り、MSGシリーズ初優勝。
- 1978年(昭和53年)11月25日、ドイツのシュトゥットガルトにてローラン・ボックと対戦、判定負け。
- 1979年(昭和54年)8月26日、プロレス夢のオールスター戦でジャイアント馬場と組み、アブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シンと対戦、シンを逆さ押さえ込みに仕留めて勝利。
- 1979年(昭和54年)11月30日、ボブ・バックランドに勝利。日本人初、WWFヘビー級王座獲得(王座はのちに返上)。
- 1980年(昭和55年)2月27日、極真会館所属のウィリー・ウィリアムスと対戦、ドクターストップの無効試合となった。
- 1980年(昭和55年)9月25日、スタン・ハンセンと対戦、逆ラリアットでフォール勝ち。
- 1981年(昭和56年)8月6日、マスクド・スーパースターと賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチで対戦、ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利。
- 1982年(昭和57年)11月4日、国際軍団(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)と1対3変則マッチで対戦、寺西、浜口からフォールを奪うも木村にリングアウト負け。
- 1983年(昭和58年)5月27日、第1回IWGP決勝リーグ戦で前田明と唯一のシングル対戦、フォール勝ち。
- 1983年(昭和58年)6月2日、第1回IWGP決勝戦でハルク・ホーガンと対戦、アックスボンバーによりリング外に転落し頭を打ちKO負け。
- 1983年(昭和58年)11月3日、維新軍との4対4綱引きマッチで谷津嘉章と対戦、フォール勝ち。
- 1984年(昭和59年)6月14日、第2回IWGP決勝戦で前年優勝したハルク・ホーガンに挑戦、2度の延長戦や長州が乱入するもののリングアウト勝ち。
- 1985年(昭和60年)4月18日、ブルーザー・ブロディと初対戦、両者リングアウト。
- 1985年(昭和60年)12月12日、'85IWGPタッグリーグ戦決勝戦で坂口征二と組み、藤波辰巳&木村健吾と対戦、藤波のドラゴン・スープレックスで敗退。
- 1986年(昭和61年)2月6日、UWF代表の藤原喜明と対戦、疑惑の急所蹴りがあるものの勝利。
- 1986年(昭和61年)6月17日、アンドレ・ザ・ジャイアントから世界初のギブアップ勝ちを収める。
- 1987年(昭和62年)3月27日、大阪城ホールでの「INOKI闘魂LIVE Part2」のマサ斎藤戦に海賊男が乱入。観客が暴動を起こす。
- 1987年(昭和62年)10月4日、マサ斎藤と「巌流島の戦い」を行う。2時間5分14秒の死闘の末勝利。
- 1987年(昭和62年)12月27日、たけしプロレス軍団の刺客、ビッグバン・ベイダーと対戦し、2分49秒で敗れる。再三のカード変更と猪木の敗北に観客が、大阪城ホールに続き暴動を起こす。
- 1988年(昭和63年)7月22日、長州力と対戦、フォール負け。
- 1989年(平成元年)4月24日、「格闘衛星闘強導夢」と釘打ち、プロレス初の東京ドーム大会でショータ・チョチョシビリと異種格闘技戦。裏投げを食らい、左肩を脱臼し(異種格闘技戦初の)敗北。
- 1989年(平成元年)5月25日、大阪城ホールで再戦し、ギブアップ勝ちを収めている。
- 1990年(平成2年)2月10日、坂口征二と組み、蝶野正洋&橋本真也の挑戦を受ける形で対戦、蝶野からフォール勝ち。この試合で初めて「1、2、3、ダー!」を披露。
- 1992年(平成4年)1月4日、馳浩と対戦、卍固めで勝利。
- 1994年(平成6年)1月4日、天龍源一郎と対戦、パワーボムで敗れる。
- 1994年(平成6年)5月1日、福岡ドームでグレート・ムタと対戦、フォール勝ち。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まる。
- 1998年(平成10年)4月4日、「ファイナルイノキトーナメント」を勝ち上がったドン・フライと引退試合で対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利。
通算成績
- シングル戦 - 612勝41敗50分
- タッグ戦 - 1466勝104敗130分
獲得タイトル
- NWAビッグタイム・レスリング
- NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
- NWA世界タッグ王座(テキサス版):1回(w / デューク・ケオムカ)
- NWA世界タッグ王座(ミッドアメリカ版):1回(w / ヒロ・マツダ)
- USヘビー級王座:1回(ジョニー・バレンタインを破り獲得したタイトル)
- UNヘビー級王座:1回
- インターナショナル・タッグ王座:4回(w / ジャイアント馬場)
- アジアタッグ王座:4回(w / 吉村道明×3、大木金太郎)
- ワールドリーグ戦優勝:1回
- NWAタッグ・リーグ戦優勝:2回(w / 星野勘太郎、坂口征二)
- 世界ヘビー級王座:1回(カール・ゴッチが所有していたタイトル。前身はオハイオ版のAWA世界ヘビー級王座)
- WWF世界マーシャルアーツ・ヘビー級王座:1回
- NWF世界ヘビー級王座 / NWFヘビー級王座:4回
- UWA世界ヘビー級王座:1回
- IWGPヘビー級王座:1回
- NWA北米タッグ王座(新日本プロレス版):2回(w / 坂口征二)
- ワールドリーグ戦(新日本プロレス版)優勝:2回
- プレ日本選手権優勝:1回
- IWGPリーグ戦優勝:4回
- MSGシリーズ優勝:4回
- MSGタッグ・リーグ戦優勝:4回(w / ボブ・バックランド、ハルク・ホーガン×2、藤波辰巳)
- ジャパンカップ争奪タッグ・リーグ戦優勝:1回(w / 藤原喜明)
- ジャパンカップ・イリミネーション・リーグ戦優勝:1回(w / 長州力&星野勘太郎)
- その他
- WCW殿堂
- WWE殿堂
- NJPWグレーテストレスラーズ
得意技
フィニッシュ・ホールド(必殺技)
- コブラツイスト(アバラ折り:アブドミナル・ストレッチ)
- 日本プロレス時代に頻繁に使用した技。ジャイアント馬場など他の使い手が増えたことから必殺技としての説得力が薄れ、卍固めをフィニッシュとして使うようになる。猪木のコブラツイストは他人を滅多に褒めることの無かったブルーザー・ブロディも絶賛していた。
- 卍固め(オクトパス・ホールド)
- アントニオ猪木の代名詞的な技。コブラツイストに代わる新しい必殺技として使い始め、卍固めという名前は一般公募により名づけられた。別名アントニオ・スペシャル。
- 延髄斬り
- 運動中枢であり、人体の急所である延髄をジャンプして蹴る技。これも猪木の代名詞的な技である。
- バックドロップ(岩石落とし)
- 「ヘソで投げる」と表現されるルー・テーズ式のバックドロップ。
- ジャーマン・スープレックス・ホールド(原爆固め)
- 日本プロレス時代にカール・ゴッチから体得した技。ストロング小林戦で放ったときは勢いがつきすぎてブリッジの際に足が一瞬浮き上がり、首だけで身体を支える形になった(この時のジャーマンはオールスタープロレスリングで必殺技として収録されている)。
- ブロックバスター・ホールド
- ルー・テーズとのNWF世界ヘビー級王座戦でフィニッシュとして使用した。
主に晩年に使用された技
- グラウンド・コブラツイスト
- コブラツイストをかけたまま相手とともにマットに倒れ、フォールを取るか関節を極めてギブアップを奪う技。引退試合のフィニッシュ・ホールドとなった。
- スリーパーホールド(裸絞め)
- UWFとの対抗戦で、藤原喜明を締め落としてから使い出した。猪木が使用していたいわゆる「魔性のスリーパー」はチョークスリーパーに近いものであった。
- 一部では“チョークスリーパー”と呼ばれているが、プロレスではチョーク攻撃は禁止されており、これは実況アナウンサー辻よしなりの誤認であると、当時の解説者マサ斎藤も語っている。
その他
- アーム・ブリーカー(腕折り)
- 相手の手首を自分の肩越しにつかみ、二の腕から腕の付け根にかけて自分の肩に強打する、テコの原理を利用した技。1974年(昭和49年)6月26日大阪府立体育会館、NWFヘビー級選手権試合で、相手のタイガー・ジェット・シンに多用し腕を折るというギミックを行った。「なんで逃げないの?」への答えは、「掌を押え、肘の関節を外に開く方向で力を加えているから、逃げようとするともっと痛い」。
- アントニオ・ドライバー(フロント・ネック・チャンスリー・ドロップ)
- 東京プロレス時代にのみフィニッシュとして使用していた投げ技。
- アリキック
- モハメド・アリとの異種格闘技戦で使用したためアリの名がつけられた蹴り技。自ら仰向けになり相手の脚の側面や裏側を蹴るこの技は、ボクシングとの異種格闘技戦におけるルールの盲点をついた効果的な攻撃であった(立ったまま、或いは「スライディングキック」で相手の脚を蹴るバージョンもあり)。アリの脚は試合後、紫色に腫れあがり、ホテルのエレベーターでがっくりと膝をついた、との挿話あり。以降は相手の足を狙ったローキックは、猪木が繰り出すとアリキックと呼ばれるようになる。
- リバース・インディアン・デスロック
- うつ伏せにした相手の交差させた足を極める技。自分の片足を相手の交差した両足に入れながら、そのまま後ろへ受身を取りダメージを与える。両手を叩きながら観客を煽り、派手に後ろへ倒れこむ様は、歌舞伎でいうところの大見得であり、アントニオ猪木が逆襲に転じる際の大きな見せ場の一つとなっている。倒れこんだ状態で相手のアゴを手で捉えブリッジする「鎌固め」に移行することも多い。また、足を絡めた状態から「変形弓矢固め」に移行するパターンもある。
- ナックル・パート
- 勢いよく振りかぶった拳を相手の顔面(主に額)に叩き込む技。技を出すときは、片手で相手の髪の毛を掴みつつ何度も繰り出すため、相手の額が割れることもある。拳骨はプロレスにおいて反則技だが、アントニオ猪木が激高した際に繰り出す定番の技である。拳を固め、中指のみ突出させて相手の額に打ち付けることもある。別名「鉄拳制裁」、「弓を引くストレート」。弓を引くように思い切り振りかぶる様子から、「ナックルアロー」と呼ばれることもある[45]。
- ドロップキック
- 助走無しで至近距離から蹴るのを得意としていた。全盛期には3回連続で使うこともあったが決め技としての効果は当然無く、試合中盤から反撃の口火を切る際に用いることが多かった。日本プロレス時代は背面とびが多かったが、新日本プロレス時代ではスクリュー式を多用した。
- ニー・ドロップ
- 通常は寝ている相手に対して膝から落ち、ダメージを与える技だが、猪木の場合はトップロープから飛び降り、寝ている相手の顔、または反対方向を向いている相手の後頭部に膝蹴りを繰り出す。
骨法技
- 浴びせ蹴り
- 「竜巻蹴り」とも称される。骨法の技の一つとされており、レオン・スピンクス戦前の骨法特訓にて習得。マッハ文朱や前田日明が得意とした縦回転ニールキックと混同されることが多いが、軸足を残してバランスを取るニールキックとは、両足を離して宙に浮く点が大きく異なる。のちにシングルマッチでこの技を食らった天龍源一郎が、我流のアレンジを加えてこの技を継承している。
「イノキボンバイエ」
「イノキボンバイエ」のフレーズを持つ入場曲『炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜』は、元々モハメド・アリの伝記映画『アリ・ザ・グレイテスト』(en)の挿入曲(作曲はマイケル・マッサー)であったが、猪木と対戦したアリから猪木に贈られ、それをアレンジしたもの。
ちなみに「ボンバイエ」とは、「Boma ye(ボマ・イェ)」(リンガラ語:“彼を殺せ!”。“やっちまえ”程度の意味。中邑真輔の必殺技名でもある)が訛ったもの。アリがコンゴの首都キンシャサでジョージ・フォアマンと戦った際の声援が由来とされる[46]。また高校野球の応援などでも使用されることが多い。
1977年(昭和52年)にシングルレコード「アントニオ猪木のテーマ 炎のファイター/炎のファイター(パート2)」(演奏:マンドリル)が発売(東芝EMI IER-20307)。
同年、「炎のファイター〜アントニオ猪木のテーマ」(演奏・歌:アントニオ猪木とザ・ファイターズ)も発売された。B面には歌詞(作詞:なかにし礼)をつけた「いつも一緒に」(歌:倍賞美津子)がカップリングされていた(東芝EMI TP-10341)。
2002年(平成14年)さまざまなバージョンを収録したアルバム「21世紀ヴァージョン 炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜」(WBSS-20123)が発売。
2006年(平成18年)韓国のヒップホップ・グループSide-B(サイドビー)が「SB BOMBA YE」としてラップ風にカバー、2007年(平成19年)にDJ OZMAが同曲を「疾風迅雷 〜命BOM-BA-YE〜」として再カバーした。
猪木の弟子たち
- 猪木の最初の弟子は藤波辰爾であり、日本プロレス時代の付き人であった。
- 猪木を慕って来た者の中にはその後袂を分かったケースも少なくない。前田日明(猪木の関係する旧UWFへエースとして参加→崩壊)、佐山聡(旧UWF→シューティング→UFO→決裂→和解→IGF参戦)、高田延彦(「PRIDE」で共闘するも後に絶縁)、いわゆる闘魂三銃士(武藤敬司=全日本プロレスへ移籍、蝶野正洋=IGF GM→退任、橋本真也=ZERO ONE設立)などである。
- 現役時代に最後の付き人を務めたのは藤田和之。
- 猪木最後の愛弟子は前UFC世界ライトヘビー級王者であるLYOTOである。
寛水流空手
寛水流空手(かんすいりゅうからて)は、1982年(昭和57年)2月27日に空手家・水谷征夫とアントニオ猪木が創設したフルコンタクト空手の団体。その名称はアントニオ猪木の本名である猪木寛至の「寛」と水谷の「水」を取って命名された。現在は正式名称を「特定非営利活動法人 世界寛水流空手道(せかいかんすいりゅうからてどう)」として東海地方を中心に活動している。
寛水流空手発足の経緯
『いつ何時誰の挑戦でも受ける』と表明したアントニオ猪木に対して、安藤昇の小説『東海の殺人拳』のモデルとして知られる空手家・水谷征夫が「ルールの無い命をかけた戦い」を申し入れた。
その申し出を猪木は承諾し、具体的な話が進められた。なお、「ルールの無い命をかけた戦い」とはプロレスと空手のいかなる技も自由とし、急所攻撃さえ禁止しない、勝負は生死をもって決するというものである。水谷が鎌、サイ、トンファーなど琉球古武術の達人でもあったことから、猪木の素手に対して鎖鎌で戦いを挑んだといわれているが、これは誤りである。
この試合は両者で一旦は合意され、当時マスコミに「昭和の巌流島」として取り上げられた。猪木有利の予想の中、新間寿は水谷の実力を冷静な目で判断していた。そして、テレビ放映のスポンサーがつかなかったことと、水谷の貫手による目への攻撃や蹴りによる急所攻撃によって猪木に万一のことがあることを恐れた新間の必死の仲裁により、直前で中止された。
交渉の過程で水谷は猪木に対して、プロレス界のスターでありながら、一空手家の挑戦をリスク覚悟で承諾した姿勢に尊敬の念を抱く。また猪木は、自らの命をかけて戦いを挑んでくる日本人がいることに驚嘆する。戦いを前に鋭く対立した二人であったが、その後交流を深め寛水流空手を創設した。水谷は1990年(平成2年)に死去したが、訃報を知った猪木は盟友の早すぎる死に涙したという。
政治
略歴
- 1989年(平成元年)、「スポーツを通じて国際平和」の合言葉で、スポーツ平和党を結成。同年に行われた第15回参議院選挙に比例区から出馬し初当選し、史上初のレスラー出身の国会議員(=参議院議員)となり、「猪木チャリティーテレホン」(ダイヤルQ2)など様々な政治活動を行った。
- 東京スポーツは "レスラー・猪木" と "参議院議員・猪木" で扱いを分けていた。「猪木」と呼び捨ての記事にした場合はレスラー・アントニオ猪木、「猪木さん」「猪木氏」と書いた場合は参議院議員・猪木寛至についての記事。
- ソビエト連邦から勇利アルバチャコフ・オルズベック・ナザロフをはじめとするアマチュアボクシングのトップ選手を親交の深い金平正紀率いる協栄ボクシングジムに預け「映画『ロッキー4』の世界を現実化させる」と謳い、日本でプロデビューする道を拓いた。現在は薬師寺ボクシングジム後援会名誉会長として薬師寺保栄を支援している。同時にソ連のアマチュアレスリングのトップ選手サルマン・ハシミコフ・ビクトル・ザンギエフなども新日本プロレスでプロデビューさせた。
- 湾岸戦争前夜にイラクにおいて行ったイベントにより、人質状態にあった在留日本人と全人質の解放に貢献。なお、北朝鮮でもイベント「平和の祭典(リック・フレアーと対戦し勝利を収めている)」を開催した。翌1996年(平成8年)春、自身は落選し前議員ながら崔鉄洙を協栄ジムからプロデビューさせる道を拓いた。
- 1992年(平成4年)7月に実施された第16回参議院議員通常選挙には、比例代表候補として元阪神タイガースのプロ野球解説者江本孟紀を擁立。当選し参議院会派で2議席目を獲得。
- 猪木は第8代自民党総裁・清和政策研究会初代会長の福田赳夫に可愛がられ、福田の実弟の福田宏一が猪木の格闘家としての後援会会長を務め、また福田の愛弟子で第19代自民党総裁・清和会第4代会長森喜朗とも親交が深い。
- 二階堂進は日本プロレスリングコミッション(新日本プロレス・国際プロレス)のコミッショナーも務めていた。1985年(昭和60年)、新国技館(両国国技館)の新日本プロレス使用を、前年の蔵前国技館でのファンの暴動騒ぎ(IWGPリーグ戦第二回大会決勝戦の項を参照)から相撲協会が貸し出しを渋った際には、仲介の労をとった。
- いわゆる「猪木スキャンダル」によって、1995年(平成7年)の参議院選挙で落選する。
- 同年に突如江本副代表から党の運営を巡って対立する。特に党運営に関わる金銭疑惑による猪木への不信感は2人の関係に大きな亀裂を生じてしまう。江本孟紀副代表は離党し無所属になってしまい、元公設第1秘書(借金問題で一度は解雇された)だった、実兄である猪木快守(テノール歌手・パブロ猪木)が党首(代表)に就任。
- その後スポーツ平和党は主立った政治活動を行わなくなり、2007年(平成19年)3月には公式サイトを閉鎖。既に政治団体解散届を総務大臣に提出している。
イラク在留邦人人質解放までの真相
1990年(平成2年)湾岸戦争が危惧される中、イラクのサッダーム・フセイン大統領は、在留外国人を国外出国禁止(事実上の人質)とした。その中に多くの日本人が含まれており、安否が気遣われていたが、外務省主導による、人質解放交渉は遅々として進まなかった。
解決の糸口さえ見えない外務省の人質交渉に痺れを切らした猪木があることを決断する。それは被害者家族等を率いてあえて緊張高まるイラクでのイベント"スポーツと平和の祭典"を行うため、バグダードに向かうと言うものだった。
猪木に対して外務省はイラク行きを止めるよう説得するもこれを拒否、すると今度は人質被害者家族に対し圧力を掛け「いつ戦争が起こるか分からないし、日本政府としては責任を持てない。そんな所に行くことはまかりならん、もしどうしても猪木議員とイラクに行く場合は、……それはあなた方も含めて命の保証が無いと言う意味です。」と猛烈に反対した。イラク邦人人質被害者家族(あやめの会)は悩んだ末に、外務省が動かないために、猪木に全てを託すことにしたのである。
1990年(平成2年)11月、猪木は日本の各航空会社にイラクへの出航を要請したが、外務省の強い圧力もあり、他のいずれの航空会社も拒否してきたことでイラクへの直行便の計画は暗礁に乗り上げた。やむなく猪木は、園遊会の会場で当時の駐日トルコ特命全権大使に懇願したところチャーター機の費用を猪木個人が負担することが条件で、トルコ大使の仲介によりトルコ航空の協力でバグダード入りが可能となった。
1990年(平成2年)12月1日、平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダード入りを果たした。この時サッダーム・フセイン大統領は、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えたという。
イラクでのスポーツと平和の祭典は邦人人質を中心に人質被害者家族とイラク人観衆が会場を中心に向き合う中で始まり、12月2日、3日の両日に渡り、ロックコンサートと、日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント、そして最後にプロレスが行われ無事終了し平和の祭典は成功を収める一方、イベント開催中に家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった。
焦りと落胆の中、帰路に着くべく機中に着いた時、フライト直前の猪木にイラク政府から「大統領からお話があります」と告げられ急遽猪木だけ飛行機を降り、この結果まず12月5日在留邦人の解放が決まり、7日には人質全員の解放が決定する。
猪木はかつて新日本プロレスのパキスタン遠征において、格闘技の英雄アクラム・ペールワン[1]と対戦し腕を折るなどして勝利を収めると一躍国民的一大事になり、同行した妻の倍賞美津子と共に猪木が国王と並んで国民に挨拶をする姿が当地のマスメディアで大きく紹介されるなど、猪木はアラブ諸国において英雄として扱われていたことが、イラクへの入国と人質解放に向かわせた大きな要因と言える。
これらの背景には、反米感情を背景に米国ブッシュ大統領との対決姿勢を強める中、イラク国民に敬虔なイスラム教徒を強くアピールしていたサッダーム・フセインは、英雄的存在であり同じイスラム教徒である猪木の扱いを通じてイスラム諸国や国王の支持を取付けたいとの政治的思惑があったとされる。
東京都知事出馬と撤退
1991年東京都知事選挙に、かつてNHKのニュースキャスターだった磯村尚徳が出馬を表明した後に出馬を表明したが、マスコミから「なぜ出馬したのか?」と聞かれ猪木が「彼(磯村)には、かつて『ニュースセンター9時』でアリとの試合を茶番扱いされたので」と答えた。
その後スポンサー佐川急便の佐川清会長、総理大臣及び自民党総裁経験者で清和研創始者福田赳夫やその愛弟子森喜朗及び三塚博に説得され、出馬を断念し磯村と政策協定を結んだ。出馬断念に至る裏には、数千万円の現金が動いたとの証言があり、東京スポーツの激闘の永田町にスクープを書いた菊池久を名誉毀損で民事提訴し、マスコミを賑わせたが、判決は領収書の所在が不明との判断で金銭授受を否定して菊池側の敗訴となった。
地裁判決には、猪木と新間寿も出廷していたが、判決後には猪木が菊池久に対して『もう少しうまく話し合いが出来ればねえ』と余裕の表情で語っていた。
なお、猪木の出馬撤回に触発され内田裕也が出馬している。
参議院落選まで
1995年(平成7年)参議院出馬するが、1993年(平成5年)に佐藤久美子元公設第1秘書とスポーツ平和党前幹事長新間寿に告発された「政治資金規正法違反の問題」「賄賂の問題」「右翼(日本皇民党)との癒着問題」「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板問題」「税金未納問題」、「女性問題」などスキャンダルが発覚。政治資金規正法違反については、時効となり、処分はまぬがれたがこの影響により落選。TBSテレビ・フジテレビ・ニッポン放送は、新間寿の記者会見を急遽生中継までして放送した。
数多くのスキャンダルに対して猪木本人は完全否定したが、マスコミから「なぜちゃんと反論しないのか」と聞かれ猪木は「めんどくせえ!!」の一言で終わらせた。
なお、TBSテレビは、新間の記者会見を急遽生中継までして放送した。「仕掛け人」の異名を持つ新間は猪木の出馬する参議院選挙に合わせ告発本の出版を計画していたが、参議院選が早まると急遽出版時期を繰り上げて、本の出版を理由に記者会見を開いた。
新間は出版記者会見で、「女性の方は耳を塞いでください」と言って、「アントニオ猪木のPKO、それはパンパン、来い来い、オマンチョやろう」と放送禁止用語を生中継にもかかわらず発言し物議を醸す。
その後佐藤はオーストラリア在住の日本人と結婚永住。現在は現地IT企業勤務。
朝鮮半島問題との関わり
師匠の力道山が韓国を訪問していたことを知った猪木は、参議院議員時代の1994年(平成6年)9月に金容淳の招きで初めて北朝鮮を訪問し、何人かの要人と力道山の娘に会った。その後、20回以上北朝鮮を訪問している。猪木は世界 (雑誌)のインタビュー記事で、日本の政治家たちは北朝鮮問題に先入観を持っており拉致と制裁以外に何も言わない。戦前、戦後の知識を持たないため相手を理解せず日本の基準で判断して主張する。それでは相手と衝突するだけで何も進まないと批判している。拉致担当大臣が直接北朝鮮に行って対話と交渉をすべきで、国力の優位を利用して落ち着いた寛大な外交をするべきと主張し、「スポーツ交流を通じて世界平和を」を理念に国家間の話し合いのきっかけになっていきたいと語っている[47]。
2013年7月に26回目の訪朝をして北朝鮮政府の要人と会談をした猪木は、帰国後に日本外国特派員協会で記者会見を開き、拉致被害者名簿の信頼性や拉致問題を国際社会に訴えて解決することについて疑問を抱いていること、「拉致が解決したら、我々は幸せになれますかね?」と発言して独自の見解を示した[48]。
事業
猪木の旺盛な野心はリング内に収まらず、多くの事業に挑戦している。ただし成功を収めたものはほとんど無い。数多くの事業の大半はブラジルに関係することが多く、アントン・ハイセルに私財を投げ打ってまで事業を進めることに対して美津子夫人(当時)は新間寿に「なぜそこまでしてブラジルに拘るのか」と聞いた程である。下記のように、猪木はプロレスだけに止まらず、様々な事業に手を広げているが、本人は「(事業欲が旺盛であった)力道山と祖父の影響が大きい」と述べている。かつて「さんまのまんま」に出演した際、明石家さんまに対して「さんまさん預金いくらあるの?うまい儲け話があるけど投資してみない?」と誘っていたが、さんまはやんわりと拒否している。
アントン・トレーディング
「アントン・トレーディング」という貿易会社を設立。この会社は一時日本国内でのタバスコ(マキルヘニー・カンパニー)の販売権を持っていたことがあるが、別件で借金を抱えたため手放している。当時はまだタバスコは一般的ではなく、その後激辛ブームや宅配ピザが広まり需要が大幅に伸びた。また、「タバスコを最初に日本に持ち込んだのは猪木」と言われることもあるが、事実ではない。(タバスコの項参照) また、新日本プロレスの興行を多数開催していた。
アントン・フーズ
スペアリブのレストランチェーン「アントンリブ」を展開する他に、健康食品などを販売していた。そのほかにも「アントンマテ茶」やスナック菓子「アントンナッツ(ひまわりナッツ)」を販売。ワールドプロレスリングの番組内で古舘伊知郎アナウンサーが宣伝したが、販売実績は振るわなかった。
アントン・ハイセル
ブラジル政府を巻き込んだ国際的なプロジェクト「アントン・ハイセル」(1980年(昭和55年)に設立)は、猪木自身にとって生涯最大の事業であった。これは、ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかすを有効活用法として考案された事業で、当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをバイオ燃料として使用する計画を進めており、バイオテクノロジーベンチャービジネスの先駆けであった。このアントン・ハイセルを開始するにあたって、猪木は自民党の大物議員に「アントン・ハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」と言って協力を呼びかけたが断られ逆にブラジル情勢を危惧し辞めるよう説得されるが、猪木はこの事業に傾倒して行く。
この一大プロジェクトとも言える計画に、解決しなければならない大きな問題が発生する。サトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りかす(バガス)の弊害、公害問題である。そこで家畜に飼料として食べさせるが、直ぐに下痢を起こしてしまう。また、土中にバガスをそのまま廃棄すると、土質を悪化させるため、その土地では農作物が取れなくなるなどの弊害が生じる結果になってしまう。
それでも猪木は世界の食料危機問題に対応すべく、バガスの再生飼料を食べた家畜の糞を有機肥料として、農業生産の向上と家畜の増産を目指すも、結局は日本とブラジルの気候の違いから発酵処理に失敗する。さらに追い討ちをかけるように、ブラジル国内のインフレが原因で生産コストはさらに悪化の一途を辿る。
これらの原因により、経営は数年で破綻する。マスコミ報道によれば、アントン・ハイセルのおよその負債額は数十億円とも言われ、テレビ朝日に放送権を担保に12億円の肩代わり(後に、株券と引き換えに佐川清佐川急便会長に債権を移動)してもらうがそれだけでは補えず、遂には新日本プロレスの収入の大半を補てんしてしまう。しかしこれが仇となり新日本プロレスでは初代タイガーマスク(佐山聡)や長州力などスター選手をはじめ13名もの選手が大量離脱するなど当時クーデターと言われた騒動が起き、やがて猪木の社長解任劇に発展する。山本小鉄などの動議により猪木代表取締役社長と坂口副社長は解任されテレビ朝日の社員が役員に就任したが、両者とも混乱の終結と共に数か月後に復帰した。
なお、ブラジルではサトウキビからエタノールを抽出するバイオ燃料事業は環境対策や2005年(平成17年)以降の原油価格高騰などから、内容が見直され積極的に行われている。
永久機関
INP技術研究所の名誉会長となっている。同社は「永久電気」用発電機を開発していたが、途中から「高効率モーター」に変化している。研究開発には莫大な資金を投じ、新日本プロレスの経営にも悪影響を及ぼした。
かつてマスコミ関係者(スポーツ新聞やプロレス雑誌の編集者)を集めて永久電気の発表会を開いたことがあったが、実験は失敗に終わった。猪木の弁明は「ネジを一本締め忘れた」というものであった。
アントニオ猪木酒場
東京・池袋に2006年(平成18年)、居酒屋「アントニオ猪木酒場」を開店した。「午後八時のプロレスを見ながら食べたメニューを再現する」がうたい文句の居酒屋で、店内は古きよき昭和の時代をイメージし、常時プロレスが放送されており、プロレスにあやかった名がついた料理がメニューに並ぶ。なお実際の店舗運営は、IGFのスポンサーでもあり、焼肉屋さかいなどを傘下に収める外食産業大手のジー・コミュニケーションが行っており、猪木は経営には関与していない。ジー・コミュニケーションでは同ブランドのフランチャイズ展開を進めているが、沖縄・仙台・千葉・福岡・広島・池袋の店舗が既に閉店するなど展開は順調とはいえず、2012年(平成24年)4月現在店舗数は1店舗(新宿)にとどまっている。
その他
- 「サンダリッパ」や「とうふパン」のプロデュースも手掛けた。
- ジャパンフリトレー 闘魂スナック監修(2010年)
エピソード
プロレス
- 日プロ入門当初、ジャイアント馬場は付き人を経験せずにすぐにアメリカ遠征に出され、デビュー前から給料も出ていたという完全に特別扱いだったが、猪木はその全く正反対で、力道山からはまるで目の仇のように厳しく育てられた。例えば、力道山にリングシューズを履かせる際、ちょっとした紐の掛け違いでも殴られたり蹴飛ばされたりしたほどであった。しばしば公衆の面前で殴られて恥をかかされた経験や日常的に「あご」「こじき野郎」と罵られた事実も後年に伝わっている[49]。それでも力道山が死去する前日に参加していた宴席に呼び出された際、元横綱・前田山(当時既に引退して年寄・高砂となっていた)が猪木の飲みっぷりを見て器の大きさを評したその横で力道山が嬉しそうな顔で頷いた姿を見て「自分への期待が初めて分かった。あの顔を思い出すと、それまでの恨みがすべて晴れた。」と感じたといい、「オレは勝手に、あの時の師匠の顔は『今後のプロレス界を頼んだぞ』という遺言というか、メッセージだったと受け止めている」とまで受け止めるようになった[50]。
- 過去にテレビ番組「とんねるずのハンマープライス」内で素人と対戦したり、力道山メモリアル内で滝沢秀明と対戦している。なお「ハンマープライス」で猪木との試合権を購入したのは諸富祥彦明治大学文学部教授である(リングネームは「ゾンビー諸富」)。
- 「延髄斬り」は海外マットでもenzuigiriと呼称され、名詞として定着している。
- 猪木は1961年5月から1963年10月まで馬場と16回対戦したが、16戦全敗で一度も勝てなかった。
- 袂を分かってからジャイアント馬場を執拗に敵視し挑発してきたが、私生活ではホテル(キャピトル東急など)で馬場に会った際、「どーもどーも」と笑顔で握手に行き食事に勝手に同席した上、会計を馬場にまかせて去っていったなどの逸話が残されており、公私は別にしていた。プライベートでは「馬場さん」「寛ちゃん」と呼び合う仲であった。馬場も挑発には乗らなかったが(そもそも馬場は「猪木をライバルと思ったことはない」と生涯語っていた)、新日本のNWA加盟に対して妨害工作を行うなど、内心ではかなり猪木を意識していたと考えられる。また、猪木が自らのタニマチであった佐川清を馬場に紹介し、佐川宅を二人で訪れて統一コミッション設立に向けた計画を話し合うなど、利害が一致する場合は両者は積極的なビジネス関係を結んでいた[51]。
- 猪木のトレードマークは、「ストロングスタイル」を表す黒のショートタイツであったが、日本プロレス時代にはオレンジやグリーンのショートタイツを着用していたこともある。新日本プロレス時代の1975年にはウイルス性関節炎で休場していた後の復帰戦で師:力道山と同じ黒のロングタイツを着用して試合を行ったことが1度だけあった。
- 引退後もプロレス・格闘技のイベントや試合の開催案を不定期で発表するが、実現せずに終わることも多い(実現しても大赤字に終わってしまうケースが多い)。「できるかどうかは関係ない。まず発表してしまうこと。それでいろいろ周りを巻き込んで 実現へと向かわせればいい。それがオレのやり方」と、交渉の前に発表するという方法を使う。この方法は新日本プロレスおよびその派生団体で今も使われ続けているが、名を挙げられた選手、所属団体のフロントなどからの反発も大きい。
- かつて「いつ何時誰の挑戦でも受ける」とコメントしていたが、新日本に復帰した前田日明の挑戦は受けなかった。後の前田との対談で、前田に「なぜシングルで戦ってくれなかったんですか?」と聞かれ、笑いながら「逃げてたから」と答え、それを聞いた前田も笑っていた。また闘魂三銃士のうちシングルで戦ったのは武藤敬司(グレート・ムタ)のみであった。
- 猪木は引退の時、「後継者は前田と思っていた」とコメントした。しかし、前田自身は猪木のことを心良くは思っておらず、かつてインタビューで猪木のことを「格闘界に老人が徘徊しとるやんけ」と痛烈に批判している。
- しかし同時に前田はインタビューで「俺は今でも“純粋な”猪木さんの弟子ですから」と前田自身が“プロレスラー前田日明”として“純粋に”猪木の“弟子”である事を告白している。
- 成田空港で渡航前後に記者会見を行い、今後の自分の動向や、プロレス・格闘技界に意見を言う「成田会見」が定番である。
- 力道山は、角界と関係修復を計る際、『猪木を一度大相撲に入門させ、十両になったらプロレスに復帰させる』と言う計画を持っていたが、猪木自身はこのことを知らなかった。
アゴ
その特徴的な尖ったアゴは猪木を猪木たらしめており、コンプレックスでしかなかったそのアゴをやがては武器にまで昇華させた。藤原喜明は「スリーパーをされると尖ったアゴが肩に食い込み非常に痛かった」と語っている。モハメド・アリとの対戦前の記者会見で、アリから「ペリカン野郎」とそのアゴをバカにされるが、猪木は「オレのアゴは尖っているからそれだけ強い」と、自分のアゴをアピールした。金的と並び鍛えようのない急所である喉元をガードしている、という意味でも武器であることは、本人も認めている。
顎の形が花王の「月のマーク」に似ていることから、若手時代には「花王石鹸」というあだ名で呼ばれていたこともある。また、アメリカでタッグを組んだことがあるヒロ・マツダは、「猪木のアゴはジャーマン・スープレックスの際に相手の背中に引っ掛かって邪魔になるから、綺麗なジャーマン・スープレックスにはならない」と語ったことがある。
かつて前妻の倍賞美津子がテレビ朝日「徹子の部屋」に出演した際に、猪木の顎の深さを図ろうと、寝ている間に口を開けて、中指と薬指の2本を入れてみたら全部入ってしまった、と語っている。
猪木信者
- 力道山も馬場も、その支持者は「ファン」であるが猪木のファンは「猪木信者」である。猪木信者の代表的な人物は春一番、桑田佳祐、森岡隆三、和田竜二、石橋貴明、岡野雅行など多数に上る。信者は猪木のことを「会長」または「先生」と呼ぶのが特徴。森岡は、サッカーアジア杯で優勝した際に「1!2!3!ダァ〜!」を行っていたが、その姿を見た彼の妻に「今度猪木のマネをしたら、離婚する」とまで言われたという。和田はテイエムオペラオーで宝塚記念を勝った時には「ダァ〜!」(1!2!3!は無し)を、同年の有馬記念では「1!2!3!ダァ〜!」を行った。桑田佳祐は、サザンオールスターズのライブの際、ライブ終了後に「1!2!3!ダァ〜!」をやるのがかつてのお約束であった。また、ダァ〜!ばかりか桑田はライブが佳境を迎え盛り上がると、何度となくアゴを突き出しファイティングポーズを取っていた。
- 全日本プロレス中継の担当だった倉持隆夫アナウンサーも、日本テレビ退社後に、実は猪木信者であることをカミングアウトした。
- 竹内睦泰は『これだけは知っておきたい 世界の宗教 知識と謎 80』において、「イノキイズム」を「わが国において、宗教を超え、もっとも信仰を集めている思想」と評価している。
闘魂ビンタ
- 国会議員当時の1990年(平成2年)5月16日、早稲田予備校での講演(題目「五月病に卍固め」)で、予備校生のパンチを腹部に受ける余興を行った。その中の予備校生一人は、実は少林寺拳法の有段者であり、力を込めて殴った。この不意打ちに準備できなかった猪木は反射的に予備校生にビンタを打ってしまった。予備校生は猪木ファンであり、ビンタを受けた直後に「ありがとうございました」と一礼した。この様子は、テレビカメラにより録画されており、全国に流れた。その後、縁起が良いと東大受験生が受験前に猪木にビンタをお願いし、全員合格を果たした。このことから、縁起ものの『闘魂ビンタ』が生まれた。その後も有名になり、女性の有名人までもテレビ番組中に闘魂ビンタ(近年は「闘魂注入」と表されるケースが多い)をねだるまでになっているが、2006年(平成18年)のテレビ番組で語ったところによると、最近は闘魂ビンタをあまりやりたくないとのこと。また、国際線のスチュワーデスから「闘魂注入ビンタしてください」と頼まれ、飛行機の中でしたと猪木自身もインタビューで語っていた[52]。一時期若い女性ファンからビンタでは無くキスして欲しいとせがまれ、その後他の女性達も次々と並びだて、キスをせがむ現象が起き、それを「闘魂注入キス」と呼ばれていた。
- なお試合以外で一般人に初めてビンタを見舞った相手は当時テレビ朝日アナウンサーの佐々木正洋である。1990年2月10日東京ドーム大会において、アントニオ猪木&坂口征二vs橋本真也&蝶野正洋戦の試合前の控室で、『ワールドプロレスリング』のリポーター担当として「もし負けるということがあると、これは『勝負は時の運』という言葉で済まないことになりますが」と質問した佐々木に対して激怒し、「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」と言った後にビンタを見舞ったのが最初であると言われている。
その他
- テレビ番組にて司会者から身長を聞かれ、「昔は189位あったんですけど、今はちょっと縮んで186位」と答えている。公称身長は191cm。なお、中学校に入学した時点で身長は既に180cmあったという。
- 1986年(昭和61年)にアントニオ猪木と倍賞美津子の娘である猪木寛子がミュージカル『アニー』のアニー役で主演を務めている。現在、猪木寛子は新日本プロレス前社長のサイモン・ケリー猪木の妻である。
- よく大量の氷を入れた水風呂に入る。のちに猪木自身が語ったところによるとこれは「糖尿病で血糖値が上がった際、氷風呂に入り全身の筋肉をガチガチと痙攣させ血糖を消費させるため」だったらしい。医師は「とんでもないことだ」と驚愕し、「普通の人間は真似してはいけない」と語っている。
- 「愛読書は朝日新聞」と語っている。
- ある日、古舘伊知郎から1万円を借りたがそのことを忘れてしまった。当時若手だった古舘にとって1万円は高額であったが、相手は大スターであり、なかなか言うに言えず困っていた。ところがある日、猪木は急にそのことを思い出し、「いや〜、ごめんごめん」と30倍にして返した。
- 「1! 2! 3! ダー!」は商標登録されている(登録商標としての表記は「1・2・3・ダァーッ」)。この登録商標を使ったラーメンが「1・2・3・ダァーッ麺」という名で発売されている。ちなみに猪木の「1! 2! 3! ダー!」が商標登録されていることは2004年(平成16年)3月3日のフジテレビの『トリビアの泉』で紹介された。なお、「ボンバイエ」、「猪木イズム」、「闘魂」も商標登録されている。
- キューバとパラオにアントニオ猪木の名前がつけられた「猪木アイランド」と呼ばれる無人島を所有している。島の名前はイザベル島であったがイソラ、アミーゴ デ イノキ(友人猪木島)であり、2島ともキューバのフィデル・カストロから贈られたものであり、猪木は休暇の際に利用しているという。キューバ本島からかなり離れたカリブ海にその島は浮かんでおり、まわりを珊瑚礁に囲まれた平坦な島で、海水が上昇すれば海に沈んでしまいそうな島である。島の周りは白砂のビーチで海水は透きとおり美しく、背の低い木、草がはえている中にイグアナがいる。
- 渡米時代アメリカ人の女性リンダと結婚し1児をもうけるが死亡している。その後、女優の倍賞美津子と1億円の結婚式を挙げて当時の話題になった。離婚後、現在の22歳程離れた妻と3度目の結婚をしている。
- 1984年(昭和59年)発表(1983年(昭和58年)度)のいわゆる長者番付でプロスポーツ部門で1位(納税額8,268万円)になる。
- 力道山はエンターテイメント施設「リキパレス」を建設。猪木は若い時から付き人として夜遊びのお供をしていた。猪木はロサンゼルスからニューヨークに住居を引っ越し、そして最近では日本を拠点に興行活動を再開したが、そのためか夜遊びが多い。猪木の場合はやはり銀座、赤坂、六本木が夜の主戦場で何軒もハシゴをして遊んでいるのが確認されている。
- 圓鍔勝三が熱心なプロレスファンだったことが縁で空襲で焼失した池上本門寺(東京都大田区、力道山の墓所が在る寺である)の仁王像再建の際、モデルを依頼され快諾。数十枚の写真撮影を行いこれをもとに仁王像が作られた。仁王像は近年修復され、本殿に安置されている。
- ホームレスの人たちに食べ物を配るなどしてボランティア活動も積極的に行っている。自身も「俺はアメリカにしか家がないから日本ではホテル住まいだ。実質、日本ではホームレスだな」と語っている。年末になると炊き出しを自ら行い、9回目となる2009年(平成21年)では新宿の都庁前で行い2000人が集合、猪木のモノマネをするアントニオ小猪木らも参加し手伝っている。
- 好物は納豆。オランダの柔道家ウィレム・ルスカとの異種格闘技戦の際、「私はチーズを食べているから強い」とするルスカに対し「俺は納豆を食べて強くなった」と発言したところ、納豆協会から表彰された。最低でも100回以上はコネ回し(アミノ酸やコラーゲンが出るから)、醤油ではなくフレックスオイルをかけて食べると言う哲学がある(『闘魂レシピ』より)。他には函館漁港に水揚げされたイカを好む。
- 「最後の晩餐」は、ふぐとブラジリアン・コーヒーを用意して欲しいと言う(『闘魂レシピ』より)
- 39歳の時、血糖値596の糖尿病にかかり、自然治癒で血糖値180まで下げ44日後にはカムバック戦を行った。インシュリン注射の力で治すのは自分の哲学に反すると言っていた。その間の主食は主にキャベツであった(どんぶりにキャベツの千切りを平らげていた)。
猪木語録
ポエム
- 詩(ポエム)を作るのが趣味で詩集も出版した。
- 「この道を行けば…」という詩[11]を自らの引退試合で引退メッセージとしてファンに贈った。これは以後新日本プロレスの道場訓となった。このセリフは後のMr.Childrenの楽曲、『one two three』の最後の部分に引退の際のメッセージが音声そのままで収録されている。これはボーカルの桜井和寿が是非引用したいと、本人に許可を得て実現したもの。
その他
- DREAM競馬 - 2008年(平成20年)の菊花賞、オープニングに登場。京都競馬場で観客と「1・2・3ダー」をした。
- 日刊スポーツ東海・関西版(東海地方・北陸地方・近畿地方・山口県以外の中国地方・四国地方向けの新聞)コラム・「猪木のコトバ」(水曜日テレビ面)
- 大井競馬場 - 2009年(平成21年)の帝王賞、プレゼンターゲストとして登場。観客や勝利馬・ヴァーミリアン関係者とと「1・2・3ダー」をした。
- 明治神宮野球場 - 2010年(平成22年)6月26日のヤクルト対阪神戦において、「同じ場所で一斉に乾杯した人数」ギネス記録に挑戦した際、乾杯の音頭を務める。その結果、ギネス記録を更新(27,126人)。
著書
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- テンプレート:Cite book - 奥付・表紙の書名:『アントニオ猪木の闘魂ハイスクール』。
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- テンプレート:Cite book - 猪木(1998)の増補版。
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- テンプレート:Cite book - アントニオ猪木(2000a)の増補版。
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- テンプレート:Cite book - 共同刊行:三省堂書店。
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映画
- がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征- - 本人役(1978年)
- 激突!格闘技 四角いジャングル - ドキュメンタリー映画(1979年)
- 格闘技オリンピック 四角いジャングル - ドキュメンタリー映画(1980年)
- ACACIA
- 2010年6月12日公開。辻仁成監督、元プロレスラー・大魔神役(主演)。俳優として初主演作。
- 燃える闘魂アントニオ猪木50年の軌跡
- 2010年11月13日公開。『アントニオ猪木デビュー50周年DVD-BOX』発売記念としてDVD収録映像を劇場用に特別編集し1週間限定上映。
テレビ
- 水曜スペシャル(テレビ朝日)
- 『恐怖の無人島に挑む7人の少年ターザン・隊長アントニオ猪木とパラオ島大探検』(1981年11月25日)
- 『挑戦!アントニオ猪木と少年シルクロード冒険隊!!』(1984年9月5日)
- プラチナチケット(2003年、テレビ東京)
- そこまでやるかマン 世界最強の勇者たち(2010年、日本テレビ)
- 火曜曲!(2012年、TBS) - OPで実写やアニメ映像で登場。
ドラマ
- チャンピオン太 - 死神酋長役、ストライプ・スネイク役(1962年、第1話、第4話)
- プロレスの星 アステカイザー - 本人役(1976年、第1話ゲスト出演)
- 佐々木夫妻の仁義なき戦い 第1話(2008年、TBS)
ラジオ
- 日曜夜は馬鹿になれ、847ダー!!(2010年4月 - 、FMヨコハマ)
アニメ
テレビアニメ『タイガーマスク』では出演はしていないが実在の人物としてのアニメキャラが登場している、声は中曽根雅夫。
- タイガーマスク二世 - (1981年、プロレス指導としてクレジット)
- スキージャンプ・ペア Road to TORINO 2006 (2006年)
音楽
- 道(2007年7月11日、TRIPLE-P vs アントニオ猪木)
CM
- 陶陶酒本舗 陶陶酒(日本プロレス時代に出演)
- エースバッグ 企業イメージCM
- マキルヘニー・カンパニー タバスコ(初代タイガーマスクと共演)
- 大塚製薬 ハイネックスV
- 日本ハム ジャンボフランク
- OSGコーポレーション 低周波治療器「リズムタッチ」
- サントリー 缶コーヒー「BOSS」
- 久光製薬 エアーサロンパスEX
- ロッテ モナ王
- ポッカコーポレーション ポッカコーヒー顔缶 (声のみの出演)
- 日健総本社 プロポナンゴールド
- 平和 企業イメージCM
- ABCマート 企業イメージCM
- 富士通 パソコンFMVシリーズ (木村拓哉と共演、声のみの出演)
- マルハン 企業イメージCM (和田アキ子との共演バージョンも存在した)
- ACジャパン 震災臨時キャンペーン
- サッポロビール MLBメジャTキャンペーン
- カルビー 堅あげポテト(ナレーション)
- サントリー 黒烏龍茶(アニメーションでの出演)
- グリー 「GREE探検ドリランド」(2012年)
- ソニー・コンピュータエンタテインメント PlayStation Vita「ツイてるパック篇」(過去映像を使用、声のみ新録)
- ダイハツ工業 初売りフェアCM「意気込む店長」篇
パチンコ、パチスロ
- パチンコ
- パチスロ
- アントニオ猪木という名のパチスロ機(2002年・平和)
- アントニオ猪木自身がパチスロ機(2003年・平和)
- アントニオ猪木も燃えるパチスロ機(2007年・平和)
- アントニオ猪木が元気にするパチスロ機(2010年・オリンピア)
- アントニオ猪木が伝説にするパチスロ機(2013年・オリンピア)
2006年(平成18年)秋にフィールズが猪木に関するパチンコ・パチスロの商品化権独占使用許諾契約を結んだため、「CR燃える闘魂〜」、「アントニオ猪木も燃える〜」の2機種はフィールズから販売されている。
猪木のものまねをする人物
- 有田哲平(くりぃむしちゅー)
- 有吉弘行
- アントキの猪木
- アントニオ小猪木
- 石橋貴明(とんねるず)
- 井手らっきょ
- 伊藤千晃(AAA)
- キンタロー。
- グラップラーたかし
- 桑田佳祐
- コロッケ
- 鈴木末吉(元ザ・ハンダース)
- 春一番
- 山本彩(NMB48)
- ゆーとぴあ・ピース
猪木をモデルとした架空の人物・キャラクター
- マンガ・小説
- 国会議員(浦安鉄筋家族)
- グレート巽(餓狼伝)
- 猪狩完至(グラップラー刃牙)
- アイアン木場(高校鉄拳伝タフ)
- 金小路鉄男(The・かぼちゃワイン)
- グレートニオ猪地(マーダーライセンス牙)
- 生野勘助(喧嘩商売)
- アドニオン諸本(頑丈人間スパルタカス)
- マーベラス・ロッカ(神拳李酔竜)
- マーベラス・虎嶋(アグネス仮面)
- イノギ漢字(わ〜お!ケンちゃん)
- ゲーム
- ビクトリー武蔵(ファイヤープロレスリングシリーズ)
- ファイター隼(プロレス)
- イノキング/闘魂戦士イノキ/闘魂王者イノキ(GREE「探検ドリランド」)
- ダッシャー猪場(エアガイツ)
脚注
関連項目
外部リンク
- 日本維新の会参議院議員-アントニオ猪木
- テンプレート:Twitter
- Wrestler Profiles - Online World of Wrestling
- WWE Hall of Fame(日本語) - WWE.com
- Inoki gets Hall of Fame nod - The Sun
- プロレス最強王者列伝 第1回 アントニオ猪木
- アントニオ猪木×九州スポーツ・独占インタビュー(2012年2月24日)
- テンプレート:Kotobank
テンプレート:新日本プロレスリング社長 テンプレート:IWGPヘビー級王座 テンプレート:プロレス大賞MVP歴代受賞者 テンプレート:WWE殿堂
テンプレート:めちゃ×2イケてるッ!- ↑ 当時テレビ朝日プロレス中継アナウンサーの舟橋慶一の命名である。
- ↑ 山本小鉄・前田日明『日本魂』講談社
- ↑ 長兄は同行せず。祖父は渡航中に船上で毒性のある未熟なバナナを食べて死去。
- ↑ なお陸上部の前にバスケットボール部に入っていた。ただし「うまくないから」という理由で退部。
- ↑ 後日談であるが、猪木の肉体は全盛期のルー・テーズにそっくりだったため、力道山もそこに目を付けた。デビュー後に外国人トレーナーからもオファーが殺到したと言うテンプレート:要出典。
- ↑ ジャイアント馬場一代記漫画「ジャイアント台風」(作:梶原一騎、画:辻なおき)の作中で馬場が「後にアントニオ・ロッカにちなんで、猪木寛至くんに「アントニオ」というリングネームをつけた」と語る場面があるテンプレート:要出典。
- ↑ なお、リングネームが決まる前に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山が猪木にその名をつけようとしたところ、猪木自身はそれが気に入らず、その名前を付けるのであればやめるとまで言ったとの逸話もあるテンプレート:要出典。
- ↑ 力道山の死後、「俺は日系ブラジル人と言われてましたが、れっきとした神奈川県出身の日本人です。力さんの付き人になってからは何時も力さんに殴られるので、このままでは馬鹿になってしまうと思って(日本プロレスを)辞めようと思ってました。でも力さんが亡くなったので、これからは豊登さんに着いて行きます」と、初めて日本人であることをマスコミに公表したテンプレート:要出典。
- ↑ プロレススーパースター列伝 アントニオ猪木の項
- ↑ 試合前に長州力の不意打ちのラリアットをくらいピンフォール負けするなど、非常に苦しいトーナメントであった。
- ↑ 11.0 11.1 猪木は一休の言葉として紹介したが、実際には、文言に多少の相違はあるものの、もとは清沢哲夫の「道」いう詩であったと見られる。[2]
- ↑ このスカイダイビングに猪木は10億円の保険を掛けていた。
- ↑ モハメド・アリの娘や猪木の娘(サイモン猪木の妻)などが参戦を表明していた。
- ↑ 日系アメリカ人では過去にミスター・フジが殿堂入りしている。
- ↑ ヨシ・タツVに猪木殿堂入り デイリースポーツ 2010年3月30日閲覧
- ↑ http://www.sanspo.com/geino/news/20121120/sot12112020380001-n1.html
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 1989年(平成元年)7月29日中央選挙管理会告示第14号「平成元年七月二十三日執行の参議院比例代表選出議員選挙における名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件」。選挙期間には路上に特設リングを作り、張り子のレスラー人形「ワルダー消費税」に対し延髄斬りをかけ、首をすっとばすというパフォーマンスを行ったテンプレート:要出典。
- ↑ 1992年(平成4年)8月3日中央選挙管理会告示第11号「平成四年七月二十六日執行の参議院比例代表選出議員の選挙における名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件」
- ↑ 当初は公設第2秘書であったが、第1秘書の猪木快守が借金問題で秘書を解雇され昇格。
- ↑ 1995年(平成7年)7月12日参議院比例代表選出議員選挙選挙長告示第1号「平成七年七月二十三日執行の参議院比例代表選出議員の選挙において、政党その他の政治団体から参議院名簿の届出があった件」
- ↑ アントニオ猪木氏、参院選出馬表明「元気を日本のために」 スポーツニッポン 2013年6月5日閲覧
- ↑ (平成25年)7月26日中央選挙管理会告示第25号「平成二十五年七月二十一日執行の参議院比例代表選出議員の選挙における参議院名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件」
- ↑ 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「shimei
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 比例当選のアントニオ猪木氏、北朝鮮訪問へ 読売新聞 2013年7月27日閲覧
- ↑ アントニオ猪木氏25日訪朝へ 維新幹部「まだ民間人」 朝日新聞 2013年7月27日閲覧
- ↑ 訪朝の猪木氏、金永南氏と会談 朝鮮中央通信伝える 朝日新聞 2013年7月29日
- ↑ アントニオ猪木氏25日訪朝へ 維新幹部「まだ民間人」 朝日新聞 2013年7月25日
- ↑ アントニオ猪木氏、訪朝強行の構え 参院議運は許可せず msn産経ニュース 2013年11月1日
- ↑ 猪木氏、北朝鮮へ出発…参院の許可なしで強行 読売新聞 2013年11月1日
- ↑ 猪木氏懲罰動議を可決、参院 山本氏は厳重注意 日本経済新聞 2013年11月13日
- ↑ アントニオ猪木参院議員:登院停止処分に…無許可訪朝で 毎日新聞 2013年11月21日
- ↑ 猪木氏、登院停止30日=63年ぶり懲罰決定-参院 時事通信 2013年11月22日
- ↑ アントニオ猪木氏「言葉控える」 張氏と11月に会談 2013.12.13 22:08 『産経新聞』 2013年12月13日 12月14日閲覧
- ↑ テンプレート:Ja icon テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Ja icon テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Ja icon テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 古舘伊知郎は『弓を引くナックルパート』と表現したこともある。
- ↑ 猪木の弟子で、「猪木最後の闘魂継承者」と呼ばれる藤田和之は、オーケストレーション・バージョンを入場曲とする。
- ↑ テンプレート:Cite journal ja-jp
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 日刊スポーツ 2006年9月13日
- ↑ 日刊スポーツ2006年9月17日
- ↑ 「戦いのロマンと企業戦争」(『G SPIRITS vol.30』辰巳出版、2013年、ISBN 9784777812660)P18の坂口征二による証言
- ↑ テンプレート:Cite journal