キンシャサ

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テンプレート:世界の市 キンシャサ英語テンプレート:Lang-fr)は、コンゴ民主共和国首都。人口約900万人を抱えるアフリカ有数の世界都市であり、2014年のシンクタンクの世界都市ランキングでは世界第83位の都市と評価された。アフリカの都市としてはカイロヨハネスブルグナイロビラゴスケープタウンカサブランカアディスアベバチュニスに次ぐ第9位であった。

概要

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キンシャサ周辺の衛星写真。中央にある円形のマレボ湖をはさみ、北にブラザヴィル、南にキンシャサがある

当地はコンゴの東部を流れるコンゴ川(旧称ザイール川)下流に位置する河港都市。近郊を含む都市的地域の人口は9,046,000人[1]であり、世界第30位、サブサハラ・アフリカではラゴスに次いで2位、アフリカではカイロとラゴスに次ぐ第3位である[2]

キンシャサは、マレボ湖(スタンリープール)と呼ばれるコンゴ川の広がった部分に面している。マレボ湖より下流はリビングストン滝と呼ばれる急流部が350km下流のマタディまで続いており、船舶の航行ができない。一方、キンシャサより上流は高原となっており、緩やかな流れがかなり上流まで続いているため、コンゴ川は1600㎞上流のキサンガニまで、ウバンギ川は1200㎞上流のバンギまで、カサイ川は800㎞上流のイレボまで、それぞれ大型船の通年航行が可能である。そのため、コンゴ盆地各地からの物資を集散し、鉄道で海まで運ぶ結節点として建設され、繁栄してきた。

コンゴ川をはさんだ対岸は、コンゴ共和国の首都ブラザヴィル。首都が隣り合っているのは世界でここだけである。この二つの都市で大都市圏を形成している(双子都市)。お互いの都市は活発な経済活動がある。

旧称レオポルドヴィル (Leopoldville)。1966年、前年に政権を掌握したモブツ・セセ・セコにより現在の地名に改称された。

同じ地域名を国名として持つコンゴ共和国と区別するため、コンゴ民主共和国を首都キンシャサに因んで通称コンゴ・キンシャサと呼ぶことがある。コンゴ共和国は、コンゴ・ブラザヴィルと呼ぶ。同じ論法で正式国名になったのが、ギニアビサウである。

歴史

19世紀にはここにキンシャサとキンタンボという名前の2つのコンゴ人の村落があり、キンタンボは族長ヌガリエマのもとで交易の中心として人口5,000人を数えていたが、ベルギー王レオポルド2世の命で探険を進めていたスタンリーが、1881年にレオポルド山(現在のヌガリエマ山)のふもとに拠点を設け、レオポルドヴィルと名付けた。

1885年にはコンゴ自由国領となり、政府によって内陸河川交通の要所として注目され、1898年にはマタディ・キンシャサ鉄道が開通し、沿岸部との交通が整備された。これ以降、内陸部の物資を船で集め、鉄道で海岸へと運び出す経済の要所となり、発展が始まった。1908年にはコンゴ自由国(レオポルド2世の私領)からベルギーの植民地へと移管され、1926年には、コンゴ河口に近いボマにかわってベルギー領コンゴの都とされた[3]

コンゴ自由国時代の反省からベルギー領コンゴでは入植者に政治権力を持たせず、本国議会が集中管理を行ったためレオポルドヴィルは立法機能を持たなかったが、政府の決定を執行する行政府は大きな力を持ち、行政府の集中するレオポルドヴィルは急速な成長を遂げていった。首都となった1926年にはすでに20,000人の人口を抱えていたが、1950年には人口は20万人に達していた[4]第2次世界大戦後には本国からの投資が急増し、農産物加工や食品、鉱業関係の企業によって工業化が進んでいった。これに伴いレオポルドヴィル市民の生活も向上し、民間企業中心に中産階級も出現し、彼らによってリンガラ音楽などの新しい文化が生み出されていった[5]

レオポルドヴィルには1959年には独立を求める暴動が起こり、翌1960年の独立に影響を与えた。しかし独立後はすぐにコンゴ動乱が勃発し、国内は内戦の渦に飲み込まれた。出現した中産階級も産業の壊滅とともに姿を消した。こうした中、クーデターで政権を握ったモブツ1966年、オータンティシテ(真正化)政策と名づけた文化のアフリカ化政策を実行し、レオポルドヴィルは植民地化以前にあった村のひとつの名前を取ってキンシャサと改名された。ザイールと改名されたモブツ政権下のコンゴにおいては政治経済は混乱を極め、多くの労働者が職を求めてキンシャサへと向かったため、この時期キンシャサの人口は急速に増大した。モブツ政権は1990年になると欧米からの圧力によって民主化の動きを見せるが、あくまでも実権はモブツが握り続け貧富の差はいっこうに解消されなかったため、1991年には軍の一部が反乱を起こし、これに市民が加わって全市で大暴動が勃発した。その後も情勢は安定せず、ついに1997年第一次コンゴ戦争においてローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) がキンシャサへ武力侵攻し、モブツ政権を打倒した。

1998年にはカビラ政権の内紛から第二次コンゴ戦争が起き、反政府勢力のコンゴ民主連合 (RCD) は地盤の東部から兵士を空輸してキンシャサの西へと降下させ、東西からのキンシャサ侵攻を狙ったものの、政府軍によって撃退された。その後、2001年にローラン・カビラが暗殺されると政権は息子のジョゼフ・カビラが継いだ。カビラは反政府勢力との和平を進め、2006年には選挙が実施されてカビラが当選したものの、この時の対立候補であった野党のジャン=ピエール・ベンバとの間で選挙結果を巡って武力衝突が発生し、20人以上が死亡した。決選投票でベンバはカビラに敗れ、ベンバは開票の不正を訴えてベンバ派は激しい抗議デモを繰り返した[6]たものの、最高裁判所の抗議却下を受けて、数日後に結果の受け入れを表明した[7]。しかし翌年、2007年3月22日には両派の私兵同士が衝突し、23日にはベンバが亡命し、24日の朝に沈静化するまで続いた。この衝突によってキンシャサでは死者155人、重傷者150人を数える惨事となった[8]21世紀にはいると、政情が以前に比べればやや安定したことを受けて、欧米や中国の鉱山会社が資源を求めてコンゴへの進出を図るようになった。この動きはコンゴの富の集中するキンシャサにおいて富裕層の増大をもたらしたが、一方で市民の多くを占める貧困層には何の恩恵ももたらされておらず、貧富の差はさらに拡大傾向にある。

気候

熱帯モンスーン気候に属しており、明確な雨季乾季があるが、乾季は短い。6月から9月までの4か月間は乾季で、ほとんど雨が降らない。一方、気温は乾季に1度から2度下がるものの、一年中を通じて最低気温20度、最高気温30度程度で一定している。乾季は気温がわずかに下がるため、現地では「」とも呼ばれている。雨季はスコールも多いが晴天も多く、一方で乾季は降雨はほとんどないが曇天が続く[9]テンプレート:Weather box

市内の地理

ファイル:Palais du peuple de la RDC.jpg
人民宮殿。コンゴの国会議事堂である

キンシャサは市制を敷いているが、同時にコンゴの11の州のうちの一つである。キンシャサは4つの地区に分けられ、その下に24の区が置かれている。キンシャサの町の名前は市の中心部にあるキンシャサ区に由来するが、コンゴ川沿いのラ・ゴンベ区に企業が集まっており、ビジネスの中心となっている。ラ・ゴンベ区から南のキンタンボ区へと伸びる6月30日大通りが繁華街で、銀行や航空会社などが集まっている。その南のヌガリエマ区は官庁街で、ヌガリエマ山のふもとに沿って官庁が並んでいる。ヌガリエマ区は高級住宅街ともなっている。一方、その東に位置するカラム区のマトンゲ地区とヴィクトワール広場は下町の繁華街であり、多くのミュージシャンが居住するコンゴ音楽の中心となっている。市域の総面積は9,965㎞2[10]である。キンシャサ市は広大な面積を持っているため、市の90%は農村部や自然であり、市の西端の10%の地域のみが都市化されている。

キンシャサの地区と区
フナ地区 ルクンガ地区 アンバ山地区 Tshangu地区
Bandalungwa バルンブ キンセンソ キンバンセケ
ブンブ ラ・ゴンベ レムバ マルク
カラム キンシャサ区 リメテ マシナ
カサブブ区 キンタンボ マテテ ンジリ
マカラ リンガラ ンガバ ンセレ
ンジリ=ンジリ ンガフラ山
セレンバオ ヌガリエマ
キンシャサ市24区
キンシャサ市旗

人口動態

キンシャサの人口推移
人口
1920年* 1,600
1936年 40,300
1938年 35,900
1939年 42,000
1947年 126,100
1957年 299,800
1959年 402,500
1967年 901,520
1968年 1,052,500
人口
1970年 1,323,039
1974年 1,990,700
1976年 2,443,900
1984年 2,654,000
1991年 3,804,000
1994年 4,655,000
2003年 6,786,000
2005年 7,500,000
2012年 9,464,000
ソース: Populstat, World Gazetteer
(*)印のみレオポルドヴィルのみの人口を記載

2010年都市的地域の人口では842万人であり、世界第30位、アフリカではカイロラゴスに次ぐ第3位である[11]。キンシャサの人口は急速に増加を続けてきた。1920年に1600人だった人口は独立直前の1959年に約40万人となり、独立後はさらに人口増のペースが上がり、平均して年率7%の人口増加を記録することとなった[12]。この急速な人口増にインフラストラクチャーの整備が追い付かず、後述するように様々な都市問題を抱え込むこととなった。

言語

公用語はフランス語であるが、共通語としてリンガラ語が広く使われる。もともとこの地域はコンゴ人の居住地域であり、言語もコンゴ語が中心であったが、人口の急増とともにリンガラ語にとってかわられるようになった。リンガラ語は19世紀後半にコンゴ川中流域で成立したクレオール言語であったが、リンガフランカとして流域に広まるようになり、流入者の多いキンシャサでは20世紀初頭にはすでにリンガラ語が共通語として広く使用されるようになっていた[13]。リンガラ語がキンシャサ及びブラザビルの言語となると、キンシャサに拠点を置くマスメディアや音楽でも多用され、さらに全国から人の集まる軍においてもリンガラ語が共通語として使用されたため、両コンゴに広がっていった。特にキンシャサで勃興したリンガラ音楽はコンゴのみならずアフリカ全体に広がり、リンガラ語の普及に大きな役割を果たしている。フランス語圏の都市としてはキンシャサはパリに次いで世界で2番目に大きな都市であり、共通語としてはリンガラ語が使われるものの、政府や学校、新聞、上流階級やビジネスなどではフランス語が使用される[14]。現在の人口増加が続けば、2020年ごろにはキンシャサは人口でパリを抜いてフランス語圏最大の都市となると考えられている[15]2012年10月、キンシャサでは第14回のフランコフォニー・サミットが開催された[16]

都市機能と治安

ファイル:Kinshasa downtown.jpg
キンシャサ市の交差点の風景。信号機は設置してもすぐに破壊されるという。このため、警官が交通整理にあたる[17]

電力供給は、下流のリビングストン滝に建設されたインガ・ダムに多くを負っているが、ダム自体の発電能力は十分であるにもかかわらず、発電機の老朽化や送電網の不備などによって停電が日常的なものとなっている。それに伴い、大河コンゴ川のほとりにあるのにもかかわらず水道の断水なども頻繁に起こっている。もともとモブツ時代から電力水道などの都市インフラストラクチャーは未整備な都市であったが、モブツ政権崩壊からジョゼフ・カビラ政権成立までの間、政情不安と財政破綻により行政サービスが完全に停止した。1997年には、当時のローラン・カビラ大統領に反乱を起こしたコンゴ民主運動軍がインガ・ダムを占拠し、キンシャサへの電力供給が完全に断たれる事件も起きた。幹線道路も一応舗装はされているもののまったく補修がされておらず、目抜き通りである6月30日大通りにさえ路面に大きな陥没が目立つような状態であった。水道の給水量はひとりあたり50リットル、漏水などを勘案すると30リットル程度にすぎない。この状態を改善するため、市内の上水の16%を供給するンガリエマ浄水場の改修計画をJICA2010年より開始した[18]

過去数度の内戦において、キンシャサ市街は直接には甚大な被害をこうむることはなかった。モブツ政権崩壊時も、市街戦などは起こっていない。しかし内戦の続く国内各地から避難民がキンシャサへと流入した結果、治安や衛生状況が極度に悪化。2004年には、キンシャサはヨハネスブルグナイロビと並び、アフリカでもっとも危険な都市と評されるようになった。第二次コンゴ内戦後、市内のスラムにはギャングが割拠するようになった。殺人強盗強姦などの犯罪が蔓延し[19]、キンシャサの殺人率は人口10万人当たり112人以上にまで上昇した[20]。戦乱や貧困によって孤児となったものも多く、彼らは「シェゲ」と呼ばれるストリートチルドレンの集団となって、治安悪化の要因となっている[21]

隣国コンゴ共和国の首都ブラザヴィルとはコンゴ川を挟んでわずか5㎞しか離れていない隣町であり、そのためブラザヴィルで大事件が勃発した場合キンシャサに被害が及ぶこともある。1997年には、自国のモブツ政権崩壊においてはそれほどの被害がなかったのに、同時期にブラザヴィルでドニ・サスヌゲソ前大統領派とパスカル・リスバ大統領派の間で市街戦が勃発した際にはコンゴ河畔を中心に流れ弾などの被害を受けた。2012年3月4日にはブラザヴィルで軍の武器庫が大爆発を起こし146人以上が死亡する大惨事となったが、この時キンシャサにおいても衝撃で窓ガラスが割れるなどの被害が相次いだ[22]

21世紀に入り、6月30日大通りをはじめとするキンシャサ市内の幹線道路はおもに中国の援助によって次々と改修されている。日本もヌジリ国際空港とキンシャサ市内を結び、バコンゴ州とバンドンドゥ州を結ぶ大幹線道路の一部ともなっている長さ4㎞のポワ・ルー通りを2009年よりJICAの支援によって改修している[23]

交通

ファイル:KIH01.jpg
ヌジリ国際空港

キンシャサにはンドロ国際空港とヌジリ国際空港の二つの空港がある。1940年に建設されたンドロ国際空港は市街中心部に位置するが、現在は国内の短距離線にのみ使用される。キンシャサの玄関口であるヌジリ国際空港は市中心部より29km南東に位置し、国内長距離線やブリュッセルなどヨーロッパやアフリカ各地への国際線が就航している。鉄道交通はマタディ・キンシャサ鉄道が、キンシャサとコンゴ河口近くのマタディ港を結んでいるが、老朽化が著しい。水上交通については、コンゴ河畔にLe Beach Ngobilaと呼ばれる長さ7kmにわたる河港があり、埠頭や桟橋が連なる。オナトラ社など各社が運行するフェリーが、コンゴ川水系上流に位置するキサンガニやイレボなど国内各地を結んでいるほか、中央アフリカの首都バンギにも国際航路が就航している。コンゴ川の対岸にあり4km離れたコンゴ共和国の首都ブラザヴィルとの間もフェリーが多数往来している。市内交通においてはいくつかのバス路線があるものの、輸送のほとんどは個人によるミニバスが中心となる。

教育

キンシャサの教育は、公用語であるフランス語によって行われている。キンシャサ大学はコンゴ民主共和国で最も古く大きな大学で、ベルギー領コンゴ時代の1954年にロヴァニウム大学として創立された。ロヴァニウム大学は宗主国ベルギーのルーヴェン・カトリック大学と提携して設立された。その後、1971年8月にロヴァニウム大学は、1962年に創立されたキサンガニのプロテスタント自治コンゴ大学および、1956年に設立されたルブンバシのコンゴ大学と合併してザイール国立大学キンシャサキャンパスとなったが、1981年には再び3校に分離し、キンシャサ大学と改名して現在に至っている[24]。このほかにも、コンゴ・プロテスタント大学や国立教育大学などがキンシャサにある。

文化

音楽

キンシャサはアフリカにおける音楽の一中心地であり、とくに1970年代にこの地で生まれたリンガラ音楽(リンガラ・ポップスとも)と呼ばれる音楽はコンゴのみならずアフリカ中に広まった。キンシャサにおけるポピュラー音楽の系譜は、1930年代から1940年代にかけてキューバからルンバが伝わったことにはじまる。これを起源として、当時のレオポルドヴィルではスークースと呼ばれる新しい音楽が起こった。その後1950年代にはアメリカからジャズも伝わり、ルンバを基本としてキンシャサに集まったミュージシャンたちが新たなポピュラー音楽(ルンバ・コンゴレーズ)を作り上げていった。フランソワ・ルアンボ・マキアディ(通称フランコ)や、グラン・カレといった音楽家が出現し、レオポルドヴィルに次々と設立されたレコード会社によってブラックアフリカ全土へと音楽が広がっていった。1969年にはパパ・ウェンバが中心となってとなってザイコ・ランガ・ランガが結成され、以後のキンシャサ音楽は完全に独立した新しいものとなり、ルンバ・ロックやリンガラ・ポップスと呼ばれる新しいジャンルとなっていった。カラム区のマトンゲ地区とヴィクトワール広場付近には多くのミュージシャンが集まり、音楽の中心となっていった。

スポーツ

ファイル:Martyrs stadium.jpg
スタッド・デ・マルティール

サッカーはキンシャサで最も人気のあるスポーツの一つであり、いくつかのサッカークラブがある。2012年現在、コンゴ民主共和国のトップディビジョンであるリナフットには、ASヴィタ・クルブ、DCモテマ・ペンベの2チームが所属している。この2チームはともに12回の優勝経験を持ち、リナフットで最も多く優勝したチームである。キンシャサの現在のメインスタジアムは、リンガラ区にあるスタッド・デ・マルティールである。このスタジアムは80,000人を収容し、世界でも19番目に大きなスタジアムである。このスタジアムはザイール時代の1988年に建設が開始され、総工費3,800万ドルをかけて1994年9月14日にオープンした。この時の名前はカマニョラ・スタジアムであったが、1997年にモブツ政権が崩壊するとカビラ政権によって現在の名称に改称された。これ以前は、スタッド・タタ・ラファエル(旧名は5月20日スタジアム)がメインスタジアムであった。このスタジアムでは、1974年10月30日にモハメド・アリとジョージ・フォアマンの試合が行われている。

キンシャサの奇跡

テンプレート:Main 1974年10月30日モハメド・アリテンプレート:Flagicon アメリカ合衆国)がこの地でジョージ・フォアマンテンプレート:Flagicon アメリカ合衆国)に8ラウンドKO勝利し、ボクシング世界ヘビー級王者のタイトルを奪還した。下馬評を覆したこの逆転劇は「キンシャサの奇跡」と呼ばれ、ボクシング史上屈指の名勝負として語り継がれる。

この試合はアメリカへの衛星中継に合わせた為、現地でのゴング(試合開始)は深夜3時頃だった。試合終了直後、激しい雨が降り注いだためもし試合が長引いたのならば15ラウンド(当時)まで続けられなかっただろう。

姉妹都市

ギャラリー

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister

テンプレート:コンゴ民主共和国の行政区画
  1. テンプレート:Cite web
  2. Demographia: World Urban Areas & Population Projections
  3. 『新訂増補アフリカを知る事典』、平凡社、1991年9月1日新訂増補第1刷 p.121
  4. 「愛しのアフリカン・ポップス リンガラ音楽のすべて」pp29-30 大林稔 ミュージック・マガジン 1986年6月1日初版第1刷
  5. 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p339
  6. http://www.afpbb.com/article/politics/2143489/1113383 <コンゴ大統領選挙>ベンバ候補支持者、キンシャサでデモ - コンゴ(旧ザイール) AFP 2006年11月22日 2013年3月2日閲覧
  7. 「ルポ 資源大陸アフリカ」白戸圭一 東洋経済新報社 p181 2009年8月13日発行
  8. http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2201801/1459692 政府軍と反政府勢力の衝突、死者155人、重傷者150人と修正発表 - コンゴ(旧ザイール) AFP 2007年03月27日 2013年3月2日閲覧
  9. 「コンゴという国」pp62-63 草場安子 明石書店 2002年6月25日初版第1刷
  10. テンプレート:Cite web
  11. Demographia: World Urban Areas & Population Projections
  12. 「世界の地理17 西・中央・東アフリカ」p2419 千葉立也訳 田辺裕監修 朝倉書店 1996年9月25日初版第1刷
  13. 「多言語使用と教育用言語を巡って コンゴ民主共和国の言語問題」p231 梶茂樹/「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷
  14. テンプレート:Cite web
  15. テンプレート:Cite web
  16. テンプレート:Cite web
  17. アフリカ視察報告6.コンゴ民主共和国「国民全体がその日暮らし」(日本財団ホームページ)
  18. http://www2.jica.go.jp/ja/evaluation/pdf/2010_1060220_1_s.pdf#search='%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B5+%E6%B2%BB%E5%AE%89' ンガリエマ浄水場拡張計画 - JICA
  19. テンプレート:Cite web
  20. http://africacenter.org/wp-content/uploads/2010/09/AfricaBrief-7.pdf
  21. http://www.anzen.mofa.go.jp/manual/democratic_republic_of_the_congo.html 日本国外務省 海外安全ホームページ 在留邦人向け安全の手引き 在コンゴ民主共和国日本国大使館 2012年11月15日閲覧
  22. http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/disaster/2862824/8595399 コンゴ共和国の武器庫で大規模爆発、死者146人 AFP 2012年11月17日閲覧
  23. http://www.jica.go.jp/oda/project/0960980/index.html キンシャサ市ポワ・ルー通り補修及び改修計画 - ODAが見える。わかる。JICA 2012年11月15日閲覧
  24. 田辺 裕、島田 周平、柴田 匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店  p229 ISBN 4254166621