コンゴ動乱
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コンゴ動乱(Congo Crisis、1960年 - 1965年)は、1960年6月30日にベルギー領コンゴがコンゴ民主共和国としてベルギーから独立した後、ベルギーがカタンガ州の分離独立を工作し、その結果発生した内乱である。民族問題に加え、豊富な地下資源の利権、東西対立も絡み複雑な展開の中、カタンガの白人傭兵部隊と、国連軍が戦闘を行った。
ソ連の計画では、コンゴで抵抗している人達や部族やコンゴで活動をしている共産主義者に多額の軍事援助をし、革命を支援し独立後は共産主義国化する予定であったという。また、キューバからも政府側にチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が、軍事支援のため派遣されていた。
1963年のコンゴ国連軍の制圧によりカタンガの分離・独立の終了宣言で一応の終了をみるが、1965年11月25日にアメリカ合衆国の援助下にモブツ・セセ・セコが無血クーデターを起こして独裁政権を樹立するまで不安定な状態が続いた。動乱によって約10万人が亡くなり、パトリス・ルムンバ初代首相の虐殺に続き、仲介を試みたダグ・ハマーショルド国連事務総長が飛行機事故で死亡する悲劇も発生した。
年譜
日付 | 出来事 | |
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1960年 | ||
6月30日 | コンゴがベルギーから独立し民族主義的政権が発足。大統領は親西側諸国のジョセフ・カサブブ 、首相は親東側諸国のパトリス・ルムンバ 。 | |
7月6日 | コンゴ国軍内でコンゴ人兵士がベルギー人将校に対して反乱を起こす。 | |
7月10日 | 白人保護を名目にベルギーが軍をコンゴに派遣。 | |
7月11日 | カタンガ州がテンプレート:仮リンクとして分離独立を宣言。 | |
7月14日 | 国連が緊急軍の派遣を決定。 | |
8月7日 | カタンガ州で「カタンガ憲法」が制定され、テンプレート:仮リンクの党首モイーズ・チョンベが大統領に就任。 | |
8月6日 | テンプレート:仮リンクが分離独立を宣言。 | |
8月12日 | 国連事務総長ダグ・ハマーショルドがカタンガ訪問。ベルギー軍の撤退、国連緊急軍の派遣、カタンガ問題への政治的不干渉などを約束する。 | |
8月25日 | ソ連の援助をうけたコンゴ国軍が南カサイ鉱山国を攻略。 | |
9月1日 | ベルギー軍の撤退が完了するが、その後もカタンガ軍内にベルギー軍人約600人が残留する。 | |
9月14日 | コンゴ陸軍のモブツ・セセ・セコがクーデターを起こし、ソ連との関係断絶。ルムンバをカタンガ派が拘束。 | |
12月12日 | スタンレーヴィル州(現・東部州)でルムンバ派のアントワーヌ・ギゼンガが新政権の樹立を宣言。 | |
1961年 | ||
1月 | ルムンバ派のギゼンガ政権が北部の「テンプレート:仮リンク」を吸収。 | |
1月17日 | ルムンバが殺害される。 | |
2月21日 | 国連がルムンバ派政権の支持を採択。 | |
7月16日 | カタンガ派を除く諸勢力が結集してテンプレート:仮リンクを樹立。 | |
8月28日 | 国連軍が外国人傭兵の逮捕・追放のための作戦を開始。 | |
9月 | 国連軍とカタンガ軍が衝突。フランス製ジェット機フーガ・マジステールを持つカタンガ軍が優勢となる。 | |
9月16日 | 調停に向った国連のハマーショルド事務総長が乗ったチャーター機が、操縦ミスにより経由地北ローデシアのンドラ空港の手前に墜落、ハマーショルド死亡[1]。 | |
11月 | スウェーデンが国連軍にサーブJ29テュナン5機を派遣。 | |
12月 | 国連軍のカタンガ攻勢が始まる。 | |
12月21日 | アメリカの調停でカタンガ独立を放棄する宣言が行われ、停戦が成立。しかしチョンベはカタンガの実効支配と実質的独立を継続。 | |
1962年 12月4日 | アドウラ政府が停戦協定を破棄、北カタンガに進攻。 | |
1963年 1月14日 | 国連軍の攻勢により、カタンガ政府がカタンガ分離独立の断念を宣言、チョンベはスペインに亡命。 | |
1964年 6月 | 国連軍が撤収。その後共産勢力のルムンバ派がゲリラ戦を展開し、一時は国土の半分を制圧するが、アメリカの支援でコンゴ政府に復帰したチョンベに鎮圧される。 | |
1965年 | モブツが再びクーデターを起こし、アメリカの支援下にモブツの独裁政権が発足。 |
脚注
- ↑ 大学1年生の時にカタンガ傭兵隊にスカウトされてコンゴ動乱に参加していた作家の柘植久慶によると、国連軍と敵対していたカタンガ隊が北ローデシアに潜入して同機を撃墜したと主張いう(自著『撃墜王・坂井三郎から学んだ戦いの極意と技術』)。ただし事故調査委員会が墜落機の残骸を詳細に調査したところ、被弾や爆発の痕跡は一切発見されなかった。