開城市
開城市(ケソンし)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)南部にある都市。高麗の王都として、また商業の中心として栄えた古都である。
朝鮮戦争の休戦後、周辺部も含めて長らく北朝鮮の直轄市として扱われてきたが、南北共同の工業団地「開城工業地区」の建設とその特区としての運営が行われるに伴い、開城周辺地域の行政区画が再編成されている。中心部は現在、「開城市」として黄海北道に所属しているとみられる[1]。推定人口は約35万人(1998年現在)。
目次
概要
朝鮮八道では京畿道に属し、朝鮮半島の主要都市の中では、最も板門店に近い位置にある。
市域の東はそのまま軍事境界線になっている。開城市街地から、板門店までの距離は8km。典型的な城郭都市であり、歴史的に商都として知られていた。市内には高麗時代の遺跡が多く残っている。市街地周囲は松岳山(海抜489m )、子男山など松の多い山に囲まれているので松都と呼ばれる事がある。韓国政府の協力により工業団地の建設が進み軽工業が盛んで韓国企業も多く進出している。しかし韓国の李明博大統領は対北朝鮮政策を見直す方針であり、反発した北朝鮮が2008年3月に開城の韓国関係者の一部を追放するなど変化が起きている。
朝鮮人参(高麗人参)の産地として有名で、人参酒は北朝鮮の主要な輸出品となっている。
儒学の最高教育機関であった「成均館」が残るほか、王建王陵、観音寺、高麗王宮の宮殿の基壇跡である満月台、開城南大門、旧市街に架かる石橋であり高麗に忠誠を尽くした学者・政治家の鄭夢周が李成桂側の人物に暗殺された場所である善竹橋などがこの街の歴史的な見所である。
歴史
百済がこの周辺まで支配していた時代は「冬比忽(동비홀、トンビボル)城」と呼ばれており、高句麗時代を経て統一新羅の757年(景徳王16年)に地名を「開城郡」と中国風の漢字2文字に改めた。松嶽などの名も用いられた。
高麗の王都として
新羅末期(後三国時代)、松嶽(開城)を本拠としていた豪族の王建は、群雄の一人である弓裔に投降してその部下となり、弓裔を迎え入れた。弓裔は901年に松嶽で後高句麗王を称した。弓裔はやがて鉄円(現在の江原道鉄原)に都を移すが暴虐さを増したため、918年に王建は反乱を起こして彼を殺し、その勢力を継承して高麗を建国した。王建は翌919年に首都を故郷・松嶽に遷し開州と改めた。開州には王の居住する寿昌宮のほか、仁徳宮、寿徳宮などの宮殿があった。1015年に宋に遣わされた郭元は、「三五千を下らぬ民がいる」と語っており、テンプレート:要出典範囲。高麗後期、モンゴルの侵攻により江華への遷都を余儀なくされた30年間を除き、約500年にわたって都として栄えた。礼成江河口にある開州の外港・碧瀾渡は貿易港として繁栄した。
李氏朝鮮時代
その後、高麗が滅亡し、李氏朝鮮を建国した李成桂が都を現在のソウルに遷した。李氏朝鮮の時代も開城は朝鮮の重要都市であり続けた。特に商業が盛んな都市で、「松房」または「松商」と呼ばれる開城商人は朝鮮半島各地で活躍した。南北朝鮮では、世界初の複式簿記による帳簿は開城商人が発明したと主張している(四介治簿法)。16世紀に開城に住んだ妓生・黄真伊(ファン・ジニ)は美貌と知性で知られ、開城の満月台や朴淵瀑布や悲恋などを描いた時調を残した。
日本統治下
1910年からの日本合邦期の1930年には、開城府が置かれた。日本語読みは、かいじょう(表記は、かいじやう)である。朝鮮を統治した日本の朝鮮総督府は朝鮮半島の社会基盤の整備に注力した。京城と改められた漢城は近代的な都市として開発が進むのと歩調を合わせて、鉄道の敷設によって京城都市圏が形成され開城はそれに取り込まれた。そのため京城と開城の間は鉄道の敷設と都市化によって形成された通勤通学圏として結びつきが強固になった。
1945年以降、北朝鮮統治下
1945年の日本の連合国に対する敗戦で、朝鮮半島における日本統治は終焉したが、代わって第二次世界大戦の連合国による統治が始まり、北緯38度線上を境に北はソ連が、南はアメリカが統治した。分割統治は当初、一時的なものであったはずであった。しかし、程なくして米ソ間で冷戦が始まり、連合国による分割統治中に南北それぞれで政権が立ち上がった。南北の境界は北緯38度線上に引かれていたため、この時点では、北緯38度線以南にある開城の中心部は、韓国側の統治圏内だった。また当時、人々の南北間の往来も、盛んではなかったものの可能ではあった。
1950年に朝鮮戦争が始まると、開城は真っ先に北側の朝鮮人民軍の手に渡った。その後アメリカ軍を中心とした国連軍が応戦したことで一時は開城全域が南側のものとなった時期もあったが、北側にも中華人民共和国から義勇軍が参戦したことで開城は再び北側のものとなり、南北の軍の最前線は開城のすぐ南で膠着した。
1953年、板門店での休戦協定締結により、朝鮮戦争は停戦(休戦)となる。それ以来、人々の南北間の往来は絶望的となった。更に、軍事境界線は北緯38度線からややずれていたことから、戦争前は南側の韓国の統治圏内だった開城は、戦争後は北側の朝鮮民主主義人民共和国の統治圏内になった。開城の人々は戦争の際、南に逃れた人もいれば、開城に留まった人もいた。この結果、南北間の離散家族は開城出身者が最も多い。
また、韓国政府統治範囲で首都圏を形成している旧京畿道所属地域の中では、開城だけが例外的に、軍事境界線よりも北に位置している。このことや、軍事境界線に最も近い主要都市であることから、開城とその周辺地域は、朝鮮民主主義人民共和国においてどの道にも属さない「開城直轄市」として1950年代半ばから行政がなされてきた。
2002年までの「開城直轄市」の行政区分は以下の通りであった。
2003年、開城市の一部と板門郡が特区「開城工業地区」として再編されるとともに、開城直轄市が解体されて黄海北道へ編入された。一時期「開城特級市」が設立されたという報道もなされたが、現在は開城市として黄海北道に属しているとみられる。
韓国人にとって陸路での観光が可能な北朝鮮唯一の都市であるが、韓国人に貧しい状況を見せないよう、観光開始に伴い北朝鮮政府が住民に自転車を配ったものの、街に人通りは少なく動いている車はほとんどない状態で、街に電気の通っている形跡さえほとんど見られないというテンプレート:要出典。ただし韓国が協力した「開城工業地区」の中にはソウルとまったく同じバスが走っておりコンビニエンスストアもある。だが、政府関係者やエリート層を除き物質的に住民は困窮しており、工業団地で働く北朝鮮労働者は、まず韓国企業が肉入りスープなどを食べさせ栄養状態を改善してからでないと労働力にならないほど、栄養状態が悪く貧困な状況である。
年表
- 919年 - 高麗を開いた王建が都を移し、開城郡と松嶽郡を合わせて開州と称する。
- 995年 - 開城府と称する。
- 1232年 - モンゴルの侵攻を受け江華に遷都。
- 1270年 - 開京(開城)に還都。
- 1394年 - 朝鮮王朝を開いた李成桂により漢陽に遷都。
- 1399年 - 定宗が都を開京に戻す。
- 1405年 - 太宗が都を再び漢陽に戻す。
- 1438年 - 開城府を設け、開城府留守の職を置いた。
- 1895年 - 開城府の留守職を廃して新たに観察使を置き、13郡を管轄した(二十三府制)。
- 1896年 - 京畿道に属し開城府尹が置かれた(十三道制)。
- 1906年 - 開城郡となった。
- 1914年 - 旧市街地は開城郡松都面となった。豊徳郡が開城郡に併合される。
- 1930年 - 府制が施行され、松都面ほかが開城府となった。郊外は開豊郡に編成された。
- 1945年8月15日 - 米軍管理下に置かれる。
- 1949年 - 開城市になる。
- 1951年 - 開城市・開豊郡・板門郡を置き、開城地区として北朝鮮の中央政府の管轄下に置かれる。
- 1955年 - 開豊郡・板門郡を含めた開城直轄市が発足。
- 1960年 - 黄海北道長豊郡を開城直轄市に編入。
- 2002年 - 開城市と板門郡の一部を工業地区に指定し、板門郡を廃止。
- 2003年 - 直轄市を廃して開城市とし、開豊郡・長豊郡とともに黄海北道に所属。
- 2004年1月 - 開城特級市が置かれる。
- 2006年9月現在 - 開城市は黄海北道に所属。
観光
高麗の古都である開城は観光地としても有望な場所である。高麗時代の城壁、王陵、教育機関などは2013年に「開城の歴史的建造物群と遺跡群」として世界遺産リストに登録された。
なお、日本の外務省は2006年の北朝鮮の核実験に伴い「北朝鮮に対する渡航情報(危険情報)」を出し「渡航を自粛してください」としている(罰則はない) [1]。 また、超望遠レンズつきスチルカメラ・携帯電話・GPSは北朝鮮国内への持込が禁止されている。買い物にはドル・ユーロなどが使える(ただし、下記ソウルからの開城観光の場合、一部を除きドルのみ使用可能)。
ソウルからの観光
開城はソウルから近く、2005年8月にソウル発の日帰り試験観光が実施された。その後北朝鮮側に支払う観光料などの条件面で交渉が続いた。2007年12月から観光会社の現代峨山(ヒョンデアサン)が実施する、韓国側からのバスによる陸路での観光は開始された。大韓民国国民は大韓民国旅券ではなく観光証を携帯する。外国人も参加可能であるが、外国人は旅券を持参する必要がある(都羅山で、通常の出入国審査がある。ただし、出入国スタンプには「都羅山開城」の但し書きスタンプが添えられる)。郊外の寺など観光名所以外でバスを降りたり、許可された場所以外への自由行動は許されず、バスの中からの撮影や北朝鮮側の住民や軍人、ガイド(ただし、本人の了解を得れば可能)を撮ることも厳禁されている。撮影は観光地でのみ許可されており(ただし、観光地内でもそこから見える町並みや住民の撮影は、一部を除き禁止されている)、金剛山観光時と違い、北朝鮮を出る際に撮影データがチェックされる。街の貧しい現状を見せたくないためと思われる。もちろん住民と接触することはできず、常に韓国側ガイドや北朝鮮政府の役人が観光客に付き添い監視しており、街や道路沿線に観光バスを監視する兵士も配備されている。
2008年11月24日、北朝鮮側が12月1日から開城観光を中止するとともに、すべての民間団体、開城工業団地関係者の軍事境界線通過を制限すると発表し、11月28日をもって開城観光は中断された。これにより、すでに中断している金剛山観光も含め、韓国側からの北朝鮮への陸路観光が全面中断することになった。
平壌からの観光
いくつかの日本国内の旅行会社が北朝鮮へのツアーを扱っているが、そのほとんどに平壌を拠点とした開城への日帰り観光が含まれている。基本的に写真・ビデオともに撮影は自由である。ただし観光名所以外では下車できないので、街中の写真などは車内からの撮影に限られることになる。
交通
ソウルからの開城への鉄道は2003年6月までに修復され、2007年5月には列車の試運転が行なわれた。同年12月からは、開城工業地区に隣接する板門駅と韓国側の汶山駅との間で、貨物列車が土・日曜日を除いて毎日1往復運行されていた。しかし、北朝鮮側が南北間の列車往来を中断すると発表し、2008年11月28日から再び中断した。なお、旅客列車の定期運行は今日テンプレート:いつまで行なわれていない。