全国高等学校サッカー選手権大会
テンプレート:スポーツ大会シリーズ 全国高等学校サッカー選手権大会(ぜんこくこうとうがっこうサッカーせんしゅけんたいかい)は、高校サッカー部の頂点を決めるサッカーの大会。各都道府県代表(東京都は2校)48校による、トーナメント戦で行われる。通称「選手権」「冬の国立」「冬の高校サッカー」。英語表記は「ALL JAPAN HIGH SCHOOL SOCCER TOURNAMENT」。
全国高等学校体育連盟の区分では全国高等学校選抜大会に含まれている。
目次
概要
毎日新聞社主催時代
創設の経緯
1910年代初頭から、関東や関西、広島など各地で個別に小規模の学生サッカーの試合は行われていたが[1][2]1917年5月に東京で開催された第3回極東選手権競技大会(極東選手権競技大会サッカー競技)は、国内の各サッカーチームにとって大きな刺激となり、各地でサッカー大会が開かれるようになった[3][4][5]。
1910年代から1920年代にかけて関西地方に於いて、特に朝日新聞大阪本社と大阪毎日新聞社(現:毎日新聞社)が主に新聞拡販を目的として野球を始め多くのスポーツイベントを開催した[6][7]。1918年(1917年度)1月に、大阪府豊中村の豊中グラウンドで大阪毎日新聞社の主催により始まった「日本フートボール優勝大會」もその一つである[8]。この大会は、もともとラグビーの関係者が大阪毎日新聞社に、ラグビー競技の大会として持ち込んだ企画で、日本のラグビーの始祖ともいうべき慶應を関西に招いて試合をしたいという狙いがあって大会名に「日本」という名を冠した。しかしラグビーは当時3チームしか関西でやっている学校がなく[9]それでは大会にならないということで、サッカーなら当時10いくつ関西でやっているということで、フットボールには、ラ式とア式とあるから、アソシエーションフットボール(ア式、サッカーは当時こう呼んだ)も入れて、ラグビーとの共同開催として「日本フートボール優勝大會」が行われた[2][10][11][12]。但しこの慶應を呼ぶという話はラグビー部門に限ったことで、慶應のサッカー部(慶應義塾体育会ソッカー部[13])はまだ創部されていないから、サッカー部門とは全く関係がない。結局慶應のラグビー部(慶應義塾體育會蹴球部)は来場したが、相手が中学生ばかりなので怒って棄権して帰ったといわれるが[2][14][15]「日本フートボール優勝大會」という名前を付けていたことが、後に一本化する際に優位に働いたとされる[2][16]。つまりサッカーはラグビーの付属大会として始まり、ラグビー部門が前述の理由で付けた「日本フートボール優勝大會」という大袈裟な名前のおかげで生き残ったということになる。なお、サッカー部門と同時に始まったラグビー部門の方も全国高校ラグビー大会の前身となっている。この他、「日本フートボール優勝大會」と銘打っているように当初は「中等学校蹴球大会」という計画ではなかったため[10][17]旧制中学校とは年長となる関西学院高等部[18]が第1回から第6回大会まで、神戸高商[19]が第3回大会に出場した。当時の関西にこれら旧制高等学校、旧制専門学校以上のカテゴリーの蹴球部がなかったから問題がなかったものと思われ[20]『関西サッカーのあゆみ』30、31頁には「日本フートボール大會ですから。なんでも来いや」と記述されている。しかし実際は何でも参加させた訳ではなく、第1回から第8回大会までは関西以外からのチームの参加はなく、またラグビー部門のように(慶應は棄権したが)例えば関東から東京蹴球団や東京高等師範などを参加させたということもない。こうした他地域からの参入があれば、試合結果が変わるのは勿論、「高校サッカー選手権」の前身である「中学校蹴球大会」とは認められなかったかも知れない。後述するが、同時期に各地で「全国中等学校蹴球大会」と名乗る大会が数多く開催されたが、どれも参加は師範学校と旧制中学校のみで、これ以上のカテゴリーのチームの参加はなく、またこれらの大会には他地域からの参加があった(#記録上の問題点)。大会は大阪朝日新聞社主催の全国中等学校優勝野球大会に対抗するべく、ラグビー競技の大会をメインとして始めたため、サッカー関係者には相談がなかった[21]。『日本サッカーのあゆみ』には「蹴球関係者側の意見を尊重してもらう余地もなく、新聞社の方が先に立った」と書かれている[10][11]。この毎日新聞が主催して大阪で始まった大会を現在の高校選手権の前身としている。
他地域の大会
同じ年に関東地区で「關東中等学校蹴球大會[22]」(かんとうちゅうとうがっこうしゅうきゅうたいかい=東京蹴球団主催、朝日新聞社の後援)[5][23]、名古屋では新愛知新聞社(現:中日新聞社)の主催で「東海蹴球大會」が別々に開催され、1918年以降にも引き続いて開かれた[4][8][10][24][25]。「關東中等学校蹴球大會」は東京蹴球団が東京朝日新聞と組んで開催したもので[5][26][27]第1回大会は、中等學校優勝大会の外、東京高師、帝大、外人(外国人チーム)等の模範試合が行われ、大日本体育協会の当時の会長・嘉納治五郎が名誉会長を務め、久邇宮邦久王、久邇宮邦英王、山階宮藤麿王、山階宮萩麿王、山階宮芳麿王、竹田宮恒徳王六殿下の台臨、さらに内野台嶺大会委員長と親交のあった英国大使グリーン、副領事・ウィリアム・ヘーグの来場まであった[5][10][28][29][30]。1936年に出版された『大日本體育協會史』下巻内の<大日本蹴球協會史>や、やはり日本体育協会が監修して1988年に出版した『保健体育スポーツ指導選書 最新スポーツ大事典』の中では、この「關東中等学校蹴球大會」が詳述され、毎日新聞主催の大会はほとんど書かれていない[29][31]。この他「關東中等学校蹴球大會」を毎日新聞主催の大会と同様に高校選手権の前身と見なし、歴代優勝校年表を毎日新聞主催の大会と並列に記載した文献もある[32]。このように古いサッカーの文献に「關東中等学校蹴球大會」を重きにおいて書かれたものがあるのは、大日本蹴球協會の中での勢力争いが関係していると考えられる。大日本蹴球協會はこの大会の3年後の1921年に設立されるが、設立にあたり中心的に動いたのが内野台嶺ら東京高等師範の関係者で「關東蹴球大會」を主催した東京蹴球団を設立したのも内野、後援した朝日新聞社側の担当者が東京府青山師範学校OBで東京蹴球団の選手でもあった山田午郎、「關東中等学校蹴球大會」の名誉会長を務めた嘉納治五郎は、大日本体育協会会長でもあり当時、東京高師の校長でもあった[10][23][27][33][34]。大日本蹴球協会も初期の間は、師範学校系の幹部たちが力を持っていたため、彼らの多くが関与した「關東中等学校蹴球大會」の方をある時期までは支持していたためと見られる[23][29][33][35][36][37][38]。毎日新聞主催の大会は、当初は大日本蹴球協会がタッチできなかったと言われるが[10][39]第9回大会からの全国大会移行にあたっては野津謙ら、大日本蹴球協会の大学OBが関与したため[26]彼ら大学OBが大日本蹴球協会内で力を増すに連れ「毎日新聞社主催大会」が支持を増やしていったのかも知れない→#全国大会へ(第9回~)。
翌1919年には神戸高商主催(朝日新聞社後援)で[40]、毎日新聞主催の大会とほぼ同じ出場チームによる「全国中等学校蹴球大会」が[41][42][43]、1921年から名古屋蹴球団主催、新愛知新聞社(現:中日新聞社)後援による「全国中等学校蹴球大会」が[44]、1924年には岐阜蹴球団主催の「全国中等学校蹴球大会」[45]。[46][47]、八高主催の「全国中等学校蹴球大会」[47]、東京文理科大学主催の「全国中等学校蹴球大会」が[48]、1925年には関西学院高等部主催(大阪毎日新聞社後援)の「全国中等学校ア式蹴球大会」が[40]、その他刈谷中学や広島高専主催でも「全国中等学校蹴球大会」と名乗る大会が[49]、その後全国各地で新聞社や蹴球団、大学、旧制高校、師範学校など、学校主催による「中等学校蹴球大会」がいくつも行われるようになり、競技会の乱立時代といわれた[2][26][40][50][51][52]。1932年から1933年にかけては、全国各地で22も中等学校のサッカー大会があった[49][51][53]。1933年に関西大学主催で行われた「関西中等学校蹴球大会」などは、他地域からの参加も含めて37校が集まる大きな大会で[49][51][54]同年の毎日新聞主催大会の参加12校を大きく上回る規模であった。八高主催の「全国中等学校蹴球大会」第1回大会(1924年)には、関西や広島からも参加があったように[47][55]「全国中等学校蹴球大会」と付けられた大会や、先の「關東中等学校蹴球大會」「東海蹴球大會」などは、所在地域の参加が主で全国規模の参加まではいかないが、どの大会にも他地域からの参加があった[46][47][48][56][57]。ところが、毎日新聞社主催の大会は「日本フートボール優勝大會」と名乗っていても、第1回から1925年の第8回大会までの間、関西以外の学校は一校も参加がなかった。「全国中等学校蹴球大会」という名前の大会が多いのは、主導権争いが目的であったといわれる[25]。1934年に大阪の毎日新聞社主催の大会に一本化されたが(#大会の一本化)、現在の高校選手権は、これら全てを源流とする見方も出てきている[52]。
カテゴリーの問題
多くの大会で師範学校が旧制中学校と同じ大会で争ったため、年齢のハンデを無視したものとして非難もあった[26][58]。旧制中学校と師範学校とでは就学年齢が一致せず、体力差が大きく影響して中学校側がいつも優勝圏に近づけない不満を持っていたので、中学校の部と師範学校の部を区別してそれぞれ公平に戦わせるのが理想であった[45]。戦前の学校制度は複雑で、さらに飛び級や、旧制中学入学に年齢制限がないようなことがあり分かりにくいが、基本的に師範学校は小学校を卒業後、高等小学校2年を経て、5年制の師範学校に行くので卒業時は19歳となるが、旧制中学校は小学校卒業後、5年間行くため卒業時17歳となり、年齢で3年重なり、最上級生のとき師範学校が二歳上となりハンデが生じる(日本の学校制度の変遷)[59]。当時は柔道や庭球などでも師範学校と旧制中学校は同じ大会で試合を行うことが多かった。これは各都道府県のスポーツ史等を見れば確認できる。中等野球(高校野球)でも戦前に福島師範や長野師範などが全国大会に出場したことがある[60]。サッカーの「関東中等学校蹴球大会」は、この大会名で朝日新聞に広告も打った[61]。大新聞に「中等学校大会」と広告も打って普通に師範学校が出場しているのだから、特に問題はなかったものと思われる。本来は師範学校と中学の部は分けて行うべきなのだが、しかしこの二分野を別立てすると大会そのものが成立しなかったと『東蹴六十年史草稿』22頁に書かれている。それが何故なのかはこの本に書かれていないが、この時代サッカーをやっている学校自体が少ないから、師範学校と中学を別々に分けるとチーム数が少なくなり、例えば各5チームずつの参加ではトーナメント大会として成立し難く盛り上がりに欠ける、或いは、元々サッカー自体に人気がない上、中学の大会ならまだしも、師範学校の大会は地味で人気がなく、師範学校だけの大会では成り立たなかったため一緒にやらざるを得なかった、等といった理由が考えられる[58][62]。毎日新聞社主催の「日本フートボール優勝大會」は、カテゴリーを問いていないので、この問題は本来関係がないが、その毎日新聞社主催大会を第9回大会から全国大会に移行させるおり、この二つを分けるという案を大日本蹴球協会が出したが、毎日新聞社側に断られたという[26]。新聞社がスポーツの大会を支援するのは、新聞の拡販や、広告獲得などの目的があるためと見られ、新聞社の主催でない学校主催の大会では、この二つを分けて開催することがあった。東京文理科大学主催の「全国中等学校蹴球大会」では1924年の第1回大会から、師範学校の部と中学の部は別々に行われた。八高主催の「全国中等学校蹴球大会」でも、1926年の第4回大会からこの二つを分けている[51][48][47][63]。この他、旧制大学、旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校は、師範学校とは年齢が重なる場合もあるが、旧制中学とは年齢が上で重ならないため、これらに所属するチームが「中学校大会」に参加することはあっても、優勝を争うトーナメントのような公式試合で対戦することはない。中学校と対戦することがあるのは模範試合や練習試合である。前述したように毎日新聞主催の大会に関西学院高等部や神戸高商が出場したのは「中学校大会」ではないからで[10]、このように「中学校大会」と銘打っていない年齢制限などを設けていない大会では対戦することがあった。広島一中や神戸一中などは、中学校でも強かったから、天皇杯の本選や極東選手権の日本代表全国予選などに出場し、これら上のカテゴリーのチームとも対戦した[37][64]。なお、旧制高等学校は1923年から「全国高等学校ア式蹴球大会」が、旧制大学、大学予科、旧制専門学校なども各地で大会やリーグ戦があった[40][65]。
毎日新聞主催(第1回~第8回大会)
毎日新聞主催の「日本フートボール優勝大會」の第1回大会から第8回大会までは、関西の学校のみ参加の大会であった[11]。当時は関西でもサッカーをやっている学校は多くはなかったから、初回は予選をする程のこともなく主催者側の推薦で出場チームを決めた[66]。第8回大会では、出場の申し込みをした全チームが出場していることから、第1回~第8回大会の間は、主催者側から推薦されれば、或いは学校側から申し込めば、予選なしで全てのチームが参加できたとみられる[67][68]。予選制となったのは参加チームを全国に拡大させた1926年の第9回全国中等学校蹴球選手権大会第9回大会からである[67]。このため第1回大会から、大阪や兵庫からは複数の学校が参加し、第8回大会では、和歌山、奈良、滋賀、京都からは、各1チームに対して、大阪からは11チーム、兵庫からは7チームが参加した。当時は兵庫勢の力が抜けていたから、第1回~第8回大会までの決勝のカードは、兵庫×大阪、兵庫×京都か、兵庫同士のいづれかになる。関西地区以外の参加に関しては『神戸一中サッカー部史』[69]や、『広島一中国泰寺高百年史』[70]等に、広島一中は、毎日新聞の大会は出場できず、神戸高商主催(朝日新聞後援)の「全国中等学校蹴球大会[40]」に出場し、毎日新聞の大会を連覇中だった御影師範を二年連続で破って優勝した、と記述されていることから[42][71]第1回大会から第8回大会までは、関西地区以外の学校は参加させない、実質的に関西ローカルの大会であったと考えられる。これは参加チームを見ても分かるし、多くの文献に記述されている[72][73]。また1921年に名古屋蹴球団主催、新愛知新聞社(現:中日新聞社)後援による「全国中等学校蹴球大会[74]」が、東京府青山師範学校、豊島師範、明倫中学、愛知一師、御影師範、姫路師範など、関東、東海、関西地区から10チームが参加して名古屋で行われたが、ここでも御影師範は関東の東京府青山師範学校に敗れている[47][75]。この大会の決勝戦は東京府青山師範学校×明倫中学である。御影師範は毎日新聞主催の第1回大会から第7回大会までを七連覇するが、他の大会に出場すると負けることがあったことから、この毎日新聞の大会は、他の多くの大会と同程度のレベルであったと考えられる。大会の権威に関していえば、『高校サッカー60年史』の32頁に「東京ではそうでもなかったらしいが、大阪では大新聞の主催でないと大会に権威がなかった」、38頁に「私達御影師範では毎日新聞の大会を最高峰としていて、他の蹴球大会は前哨戦、準備大会位に考えていた」という記述や、『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』107頁に「大日本蹴球協会が設立される(1921年)まで、最も権威のあるフットボール大会は大毎の主催する全国蹴球大会で、その後も関西では蹴球大会の最高峰の一つであった」という記述が見られるから、関西の他の大会よりは権威があったのかも知れない。しかし、神戸一中の選手たちは「近畿のチームだけの毎日新聞の大会より、広島一中や広島高師附属中学の広島勢が来る神戸高商主催の大会で勝つ方が値打ちがある」と言っていたという賀川浩の証言もある[76]。静岡県立藤枝東高校のサッカー部60年史[77]には、「われわれ志太中学(藤枝東高校)の全国大会の初優勝は、1931年の東京文理科大学主催の「全国中等学校蹴球大会」で、此処に全国津々浦々に志太中サッカーの名声を響かせた」と書かれている[78]。この東京文理大学主催の「全国中等学校蹴球大会」というのも、1924年から1932年に9回開催された全国規模の中等学校サッカー大会で、東日本の学校がほとんどだが、近畿や東海地区の学校も参加した大きな大会であった[79]。志太中学は毎日新聞主催の大会が全国大会になっても、戦前には毎日新聞主催の大会の予選には出場していないようで[80]、つまり学校によっては、特に関西以外の学校にとっては、毎日新聞主催の大会を唯一の全国大会とは捉えておらず、乱立していた他の全国大会等を選んで出場していたものと見られる。毎日新聞社主催の大会が1925年度の第9回大会から全国大会となり"名実とともに全国大会として発展した"と書かれた文献もあるが、すぐに唯一の全国大会と認知された訳ではなく、徐々に認知されていって、"名実とともに全国大会""唯一の全国大会"として完全に認知されたのは、1934年に毎日新聞社主催の大会に一本化され、他の全ての大会が終了した第16回大会に以降の話と考えられる[2][26]。これらの事情を考えれば「全国高等学校サッカー選手権」が"真の全国大会"と文句なくいえるのは、1934年の第16回大会からでないかと思われる。『高校サッカー40年史、60年史』の「全国高等学校サッカー選手権大会」の記述は、関西の関係者の証言がほとんどで、他の地域の大会はほとんど触れられていない。『高校サッカー60年史』32頁に「毎日新聞主催の大会は準備委員会[81]がともかく強力で、大日本蹴球協会ができてからも、協会はタッチできなかった」、また「關東蹴球大會」を主催した東京蹴球団の団史には「東京ではサッカーの関係者が主体で、朝日新聞の方が善意の後援をしてくれたのだが、他の二つは新聞社の方が強力に推進された。これはこれらの地域のサッカー関係者が、まだ微力だったといった方がよいのかも知れない」[82]と書かれており、サッカー関係者としては、この毎日新聞主催の大会は、当初は大阪の新聞社が勝手にやっているという考えであったのかも知れない。やはりこの毎日新聞の大会が後に高校選手権の前身ということになったから重みを増したことは間違いがない。前身ということにならなかったら、他の多くの大会と同様の位置づけであったと考えられる。
第8回大会は、旧制専門学校と中学の部を分けて実施した[83]。専門学校の部の出場チームは早稲田高等学院、官立神戸高商、松山高等学校、関西大学、関西学院の5校で、決勝は早高2-1関学。何故分けて実施したのかは『高校サッカー60年史』にも記述がないが、翌年の「全国中等学校蹴球選手権大会」移行に伴い、カテゴリーが明らかに中学より上のチームを切り離すということかも知れない。各試合の結果他、詳細が『高校サッカー60年史』に書かれておらず、翌年の第9回大会以降の大会に旧制専門学校の部の結果は記載がない。『輝く埼玉サッカー75年の歩み』1082頁には「第8回大会"から"高専の部と中等学校の部に分け、会場も甲子園球場に移って開かれたのである」と書かれているため[84]、その後も継続されたと見られるが詳細は不明。
記録上の問題点
毎日新聞社主催の大会に一本化される以前の、その他の大会の記録が今日ほぼ無視されている以外に「全国 … 大会」と銘打っている本大会に、第1回~第8回大会までの関西大会時代の記録を歴代優勝回数ランキングなどに含むケースがあるという問題点がある。前述したように毎日新聞社主催の大会と同時期にあった「關東中等学校蹴球大會」「東海蹴球大會」を始め、各地で行われた「全国中等学校大会」などには他地域の学校の参加があったが[46][56][85]毎日新聞社主催大会の第1回~第8回大会までの間、関西以外の学校は一校も参加がない。他地区のチームは参加させないという規定があったかどうかは分からないが、やはりそれに近い規定があったと考えるのが自然と思われる[86]。2011年現在、主催者側[87]から、公式には優勝回数ランキングのようなものは発表されていないが、スポーツ新聞、ネットなどでは学校別優勝回数ランキング、都道府県別優勝回数ランキングのようなものが掲載されることがある。高校野球ではさらに都道府県別勝利数(勝ち星)ランキングなども主催者側から発表されている[88]。勝率ならば比較的真の実力かも知れないが、累積の優勝回数や勝利数というものは、出場回数が増えればそれらもおのずと増える。夏の大会でいえば、各都道府県1校(北海道と東京は2校)の49代表校制になるのは1978年からで、それ以前は基本的には、各都道府県の参加校の数で決めて、1都道府県で1校のところもあれば、6県で1校という場合もあった[89]。累積の優勝回数、勝利数ランキングは、出場回数が多くなる人口が多い都道府県が有利となる。
各地にあった「全国中等学校蹴球大会」など「中学蹴球大会」の記録は切り捨て、毎日新聞社主催大会の第8回大会までの関西大会時代の記録のみを、現在の「全国高等学校サッカー選手権大会」の累積ランキングの中に組み入れれば、関西地区が学校別優勝回数、都道府県別優勝回数、都道府県別勝利数は必然的に増え記録を伸ばすことになる。
第8回大会までの関西大会時代以外にも、終戦の翌1946年に関西近県の19チームを招待した大会が第25回大会として開催された[67]。これは大日本體育協會関西協会が、復活準備大会として関西学院主催の大会を再開させ、これに毎日新聞社の後援を要請して行われたもの[90]。関西の17チームと岡山県と香川県から各1チームを招待した、全国大会とはいえない、ほぼ関西大会といえるもので[67]。日本テレビの高校サッカーの公式サイト内「高校サッカー80年の歴史」でも"関西のみ復活招待大会"と記載されている大会で[67]、『高校サッカ-40年史、60年史』や、毎年刊行される『高校サッカー年鑑』[91]などの歴代優勝校表でも記載されない、公式記録から外されている大会であるが[90][92][93][94]、これも累積ランキングの中に組み入れるケースも見られる。
全国大会へ(第9回~)
1925年度の第9回大会から、全国をいくつかのブロックに分け、その予選優勝校で"本当の全国大会"に飛躍させようとの気運が高まり、全国での地区予選制となって、名称も「全國中等學校蹴球選手權大會」と改められ、ラグビー大会と分割、関西の学校以外の学校も参加する全国規模の大会に成長することになった[73][95]。前述のように第8回大会までは大日本蹴球協会は運営にタッチできなかったようであるが、この第9回大会からの全国大会移行にあたっては、毎日新聞からの要請で田辺五兵衛や野津謙、鈴木重義ら、大日本蹴球協会の関係者が運営に関与した[26]。ここで年齢制限の問題が出て、それまで年齢では2歳上となる師範学校が中学校と同じ大会で争っているという問題点について、別々に分けるという案も出されたが、この第9回大会から参加を予定していた朝鮮地区の選手が、戸籍を持たず、年齢確認が困難ということが分かったこともあり、引き続き一緒にやることになった[26]。この後、1929年(第11回大会)、1935年(第17回大会)の二度に渡り、年齢制限が加えられたため、師範学校チームは弱体化したという[96]。なお、毎日新聞が中等野球の全国大会を持とうと考えたのは、このサッカー大会がマイナーなまま、朝日新聞主催の夏の全国中等野球大会に対抗できなかったからという見方がある[97]。
大会の一本化
1925年度の第9回大会から、毎日新聞社主催の大会は全国大会になったが、全国各地にあった大会も、これ以降も続けられていた。毎日新聞社主催の大会が形を整えてゆくにつれ、これらの地方大会をどうするかという問題が起ってきた[26]。「全国大会」と銘打ったものも他にたくさんあったが、毎日新聞社主催の全国大会が規模内容が最も大きくなり、1934年に毎日新聞社主催の大会に一本化され、他の全ての大会は終了した[2]。これらを指示したのは大日本蹴球協会で[26]、この1934年から大日本蹴球協会が主催に加わった[72]。一本化にあたっては、他の地域からは大きな抵抗があり[25]、中でもやはり「關東蹴球大會」が最後まで問題となったが、サッカーの将来を考え終了を受け入れたという[26]。毎日新聞社主催の大会に一本化されたのは、ラグビーの大会をするために付けた「日本」を大会名に付けていたこと、「關東蹴球大會」は朝日新聞の後援で主催でなかったことが、有利に働いたともいわれる[16]。当時、大日本蹴球協会の大学OBが主導権を握るため、師範系OBを排除しようとしていたというから、野津謙ら大学OBが大日本蹴球協会内で力を増すに連れ、野津らが関与した「毎日新聞社主催大会」が支持を増やし、師範系OBが大きく関わっていた「關東蹴球大會」は、支持が減っていったのかも知れない[98][36][35]。この他、一新聞社に遍することのないよう、また全国の中学校へサッカーを普及振興させようと文部省に主催を移すという案も検討されたことがあった[26]。
以降、太平洋戦争による中止を挟み、戦後の学制改革で現在の名称となっても関西での開催が続いた(開催会場は後述)。1948年(昭和23)年4月新制高校が発足。同年6月に全国高等学校体育連盟(高体連)が創立され、本大会に主催団体として加わることになった[99]。
回数に関して
全国各地で多くの蹴球大会がありながら、関西の毎日新聞主催の大会だけが全国大会の前身とされている以外にも、不可解な点がある。日本体育協会が1970年に監修して出版した『現代スポーツ百科事典』の「サッカー」の項目に〔全国高等学校選手権大会〕の記述があり、ここには以下のような説明がなされている(全文を原文のまま) 「旧制中学校の大会は、東では朝日、西は毎日新聞社の協力で行われてきたが、1934(昭和9)年からJFA管理下に統一された。戦争直後に全国的でない異質のものが第24回として混入し、数年後に取り消された関係上、この回数は権威がないとされ、44回でうち切った。そして、戦後学制改革のあった1949(昭和24)年以降は標記名の大会となり、1967年(昭和42)年正月からは夏の総合大会の1、2位校、秋の国体の上位4校、それに地域大会の推薦するものを加え16チームによるトーナメントとし、このときから回数はやめて、何年度選手権大会とよぶことにした」[100]。文中の第24回は第25回大会のことか何か分からないが、一番の問題は最後の「1967年(昭和42)年から回数はやめて、何年度選手権大会とよぶことにした」という部分。日本体育協会は日本サッカー協会の上部団体であるから[101]、日本体育協会がこの時点で1967年(昭和42)年の全国高校選手権からは回数では呼ばないと決めたものと考えられるが、2011年(平成23)年の正月に行われた大会も第89回と回数で呼んでいる。一度は回数では呼ばないと決めたが、年度をまたがって行うため、何年度大会では分かりにくいから、やはり回数で呼ぶことにした。
『高校サッカー60年史』では1967年大会から、(第45回大会)という風に回数をカッコ書きにしている。しかし1981年の第59回大会から、カッコ書きは取って以前のように第〇回大会と回数が前面に出ている。その理由はどこにも書かれていないので分からない。なお、1967年の大会から数年間の間、回数で呼ばないことにした理由は以下のようなもの。
毎日新聞社が主催を外れる
1965年高校総体(インターハイ)が整備され、翌1966年に高校総体にサッカー競技が加えられ(全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会)、秋の国民体育大会サッカー競技高校の部を合わせると、高校サッカーの全国大会が三つとなった[102]。文部次官通達で高校スポーツの全国大会は、学校教育活動としては、国体を除いて年一回しか認められていなかったため複雑な問題が生じた。この時、冬の高校選手権を夏の高校総体に組み入れようと、毎日新聞社抜きで日本蹴球協会と全国高等学校体育連盟(高体連)の二つで勝手に決めた。日本蹴球協会は毎日新聞の名前まで外してしまい、第1回大会より主催していた毎日新聞社は本当に怒り主催を降りたという[102]。結局、冬の高校選手権は、日本蹴球協会が単独開催し、優勝旗は協会で新しいものを作り、大会の回数は今後は公式には数えないで「昭和○年度」と称することにした[25][102][103]。このあおりで主催が日本蹴球協会だけとなり後ろ盾がなくなった[102]。毎日新聞社が手を引いたことにより財政難となった大会は、前年の32チームから半分の16チームによるトーナメント戦に規模を縮小。予選を行わず、出場校は夏の総体の1、2位と国体の上位4チームのほか、地域推薦で決定した10チームに出場権を与えた。また各地域の予選も、文部次官通達との関連で、当分は公式には行わず、地域推薦とする建て前となった。この年を含めて4年間は日本蹴球協会の単独主催で行われたが大会継続は危機的状況となった。
読売新聞社後援へ
テンプレート:Amboxテンプレート:DMCA しかし1970年から国体が各都道府県選抜の参加となり、インターハイとは別に「選抜大会」の名目で各競技別に全国大会を開くことが認められた。これにより高体連としては選抜大会の扱いをするということで、第49回大会(1970年度)から主催に復帰した[103]。
一方で当時読売新聞社を中心とした読売グループでは、将来的なプロ化も睨んだ本格的なサッカークラブである読売サッカークラブを1969年に発足させるなど、サッカーに対して力を入れつつあった。そうした動きの中で「クラブの長期的な存続には、将来的な選手の供給源の充実が不可欠である」として高校サッカーに対する支援を行うことになり、1970年8月には日本テレビの主催で全国の強豪校11チームを招待した「高校サッカー研修大会」を開催した。読売新聞社・日本テレビではこの研修大会を継続して開催する意向だったが、夏場はインターハイや国民体育大会の予選など試合数が多く、日本蹴球協会(現:日本サッカー協会、以下JFA)側では研修大会の継続は難しいと判断。そこで代替策として、JFAでは本大会の後援に読売新聞社が加わること、並びに日本テレビが大会の中継を行うことを提案。これを読売新聞社側が了承したことから、高体連の主催復帰と時を同じくして日本テレビが大会のテレビ中継を行うことになった[25][103][67]。
しかし以前より決勝戦のテレビ中継を行っていたNHKが日本テレビへの中継の移行に難色を示したため、第49回大会(1970年度)は決勝戦のみNHKと日本テレビの2局同時中継という異例の形になった[104]。第50回大会(1971年度)から日本テレビ系列の独占中継体制になったが、高体連はこれに反発し全国放送のNHKによる中継を廃するからには「最低でもNHKの8割のエリアをカバーできる放送体制を取る」よう要求した。当時の日本テレビのネットワーク体制ではとても無理な注文だったが、ここで電通が仲介に入り当時のTBS系列のローカル局と折衝を行い、日本テレビをキー局としつつTBS系列を含めたローカル局による全国38局の中継体制を築くことに成功。これにより第50回大会より正式に中継が日本テレビに移行した[105]。『関西サッカーのあゆみ』では「高校野球は朝日と毎日がやっているが、それにはどうしても入れない読売と日本テレビが、何が何でも高校サッカーを取りたいと電通を絡ませて関西から奪った」と書かれている[106]。
全国テレビ中継とスポンサーを得た本大会の運営は強化される方向に向かい、特例としてインターハイとは別の選手権として高校サッカーの最高峰の大会と位置づけられるようになった。
1972年、開催地として使用していた西宮球技場が高速道路の工事のため単独で開催することが不可能となったため(名神高速の該当期間の開通は1965年のため正確ではない)、西宮、神戸中央球技場、長居競技場の三会場に移して一度開催、その後、長居と靱蹴球場に移転した[102][106][67]。
決勝大会の東京移転
第55回大会(1976年度)からは、決勝大会の会場を関東に移すこととなった。元々日本テレビやJFA関係者の間では決勝大会を首都圏で開催したいという要望が強かったことに加え、当時日本テレビで本大会の中継スタッフだった坂田信久が「(日本テレビに中継が移って)最初の2年で関西ではスタンドを満員にするのは厳しいとわかった」と語っているように、大会の採算面からも関西開催では大会の発展が厳しいという認識が関係者の間で広まり、最終的に高体連の47都道府県の委員長会議で多数決により会場の移転が決まった。しかし現在もなお、関西のサッカー関係者にはこの決定に不満を唱えるものが多数存在するという[107]。
さらに第62回大会(1983年度)からは、原則として1都道府県1代表制で実施されるようになり(それ以前は、第60回記念大会(1981年度)を除き、都道府県大会のあと、さらに東北や九州などの地域大会で代表校を決めていた)、現在に至っている。
現在
近年はクラブユース勢の台頭とそれに伴う人材のシフトにより、ユース年代のサッカー大会としてのプレステージが高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会、その後継大会である高円宮杯U-18サッカーリーグに移行し、当大会のレベル低下を指摘されているが、今なお多くの高校サッカー部の選手にとっては最も価値あるサッカートーナメントの位置を占めている大会であり、社会的にも最も大きな注目を集めるサッカー大会の一つである。また、クラブユースの台頭に伴って、かつて優勝を寡占した名門校の地位が下がり、また近年のサッカーの普及に伴って各地域の底上げがなされた。この結果として初優勝校が続出するようになり、近年の大会は「戦国模様」を呈している。
この大会の優秀選手から選手を選抜し、毎年4-5月に行われるヨーロッパでのユーストーナメント大会(隔年で偶数年にスイス・ベッリンツォーナ。奇数年にドイツ・デュッセルドルフ)に日本高校選抜チームとして出場している。また、かつては「ニューイヤーユースサッカー」として、ヨーロッパのユース年代のチームを招待した交歓大会もあり、日本高校選抜もそれに出場した。第88回大会(2009年度)終了後は、海外遠征前に本大会協賛社の富士ゼロックスが特別協賛している「FUJI XEROX SUPER CUP」の前座試合として、U-18Jリーグ選抜(高校1,2年生)との親善試合が組まれる。
第91回大会(2013年)の決勝戦は当初1月14日に行われる予定だったが、降雪により中止。当初は、大学入試センター試験(1月19・20日)などで3年生に影響が出る可能性があるために両校優勝の措置をとることも検討されていたが、決勝を戦う両チームの登録メンバーの中にセンター試験受験申込者がいなかったため、試合を1月19日に順延することに決定した。悪天候による決勝戦の順延は史上初(中継は録画放送)[108][109]。なお、1月14日に予定されていたテレビ中継についても、内容が大幅に変更された(詳細は#テレビ中継の項目)。
大会歌
大会歌はバーズの「ふり向くな君は美しい」(作詞:阿久悠、作曲:三木たかし)である。これは、1976年度の第55回大会よりテーマソングとして使用されており、戦いに敗れた者の健闘を讃える曲として長年高校サッカーファンに愛されている。現在は、テーマ曲と併用して使われている(後述の「イメージソング」を参照せよ)。
開催方式
- 都道府県大会は、おおむね9 - 11月にかけて各都道府県で行われる。大会の試合方式は、各都道府県により多少異なる。原則として、各都道府県予選に優勝した学校が全国大会に出場するが、東京都のみ2校出場が認められ、全48校でトーナメントを戦う。なお北海道からは高校球技の選手権大会では珍しく1校のみである。
- 三重県大会では、まず1次トーナメントを行い2次予選に進む8校を選出。2次予選では4校のグループに分けてのリーグ戦を行い、上位2校が準決勝に進むというシステムが取られている。
- 実力が他校よりも突出している、あるいはプリンスリーグに参加しているなど試合数が多くてスケジュール調整が難しい高校の場合、スーパーシードと呼ばれてかなりの段階までシードされる事がある。例を言うと第92回大会の青森県予選では青森山田は準決勝からのシードだった。
- 第69回大会(1990年度)では、武南、習志野、清水市商、国見が推薦出場で予選免除されたため、全52校で争われた。
- この年度は、都道府県大会が行われていたのと同時期に開催されたAFCユース選手権に、日本代表として上記の4校から選手が選出されていたため、推薦出場という措置がとられた。
- 第79回大会(2000年度)では、前年度優勝の市立船橋が推薦出場で予選免除されたため、全49校で争われた。しかしその市立船橋が早々に敗退してしまったことが「予選免除による調整不足」と判断され推薦出場枠は翌年から廃止に。
- 全国大会はトーナメント方式の一発勝負で行われる。全国大会の場合、警告2回で次の試合出場停止。1試合警告2回、もしくはレッドカードで退場。
- 試合時間については次の通り行う。
- 準々決勝までは前後半40分ハーフの計80分で行い、前後半終了時に同点の場合は即PK戦で決着をつける。
- 準決勝は前後半45分ハーフの計90分で行い、前後半終了時に同点の場合は即PK戦で決着をつける。
- 決勝は前後半45分ハーフの計90分で行い、同点の場合は前後半10分ずつ計20分の延長戦を行う。延長戦終了後、同点の場合はPK戦で決着をつける。
- 第78回大会(1999年度)まで、決勝で延長戦でも決着が付かない場合、両校優勝としていた。
- 第81回大会(2002年度)まで、決勝も前後半40分ハーフの計80分で行われていた。
- 第86回大会(2007年度)まで、準決勝も準々決勝までと同様の試合形式で行われていた。
使用会場
前述の通り首都圏(1都3県)の複数会場(おおむね9会場前後)が使用される。多くの会場が、施設改修や芝の張り替えなどの理由で、毎年のように会場が変更される(通常使用されない会場が使用される)のが特徴である。
特に1990年代は多くの会場がJリーグの本拠地(三ツ沢球、等々力、駒場、大宮など)として使われることを前提とした改修工事を行ったため、会場変更が著しかった。
第92回大会(2013年度)の会場
- 国立霞ヶ丘陸上競技場(東京都新宿区。開幕戦、準決勝、決勝戦のみ 2014-2018年度は建替えのため使用せず)
- 味の素フィールド西が丘(東京都北区、1976年度の関東移転後途切れることなく使用されたが、2012年度は使用せず)
- 駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場(東京都世田谷区、2010年度は改修工事中のため使用せず)
- 埼玉スタジアム2002(さいたま市緑区、2001年度より使用、2014年度は準決勝・決勝の会場となる予定[110])
- 浦和駒場スタジアム(さいたま市浦和区 1992-1994年度と2010-2011年度は改修工事中のため使用せず)
- フクダ電子アリーナ(千葉市中央区 、柏の葉・市原臨海=ゼットエーの代替会場として2009-2010・2012-2013年度使用)
- ゼットエーオリプリスタジアム(千葉県市原市、2010年度は使用せず)
- 等々力陸上競技場(川崎市中原区、2012年度は使用せず)
- ニッパツ三ツ沢球技場(横浜市神奈川区、2009年度は使用せず)
以前使用されていた会場
関東へ移転後も、Jリーグ基準を満たすスタジアムが増加したことから、2000年代から使用されなくなった会場もある。また、通常は使われないが本会場の施設改修に伴い代替会場として使用されるケースもある。
- 関西で開催の時代[111]
- 豊中グラウンド (1917年度 - 1921年度) (野球兼用)
- 宝塚球場 (1922年度 - 1923年度) (野球兼用)
- 阪神甲子園球場 (1924年度 - 1927年度) (野球兼用、当時は甲子園大運動場)
- 甲陽中学 (1924年度)
- 南甲子園運動場 (1928年度 - 1940年度) (甲子園球場の南側にあった総合競技場)
- 西宮球技場 (1946年度 - 1962年度、1966年度 - 1971年度)
- 靱蹴球場 (1963年度 - 1964年度、1972 - 1975年度)
- 金岡公園陸上競技場 (1963年度 - 1964年度)
- 大阪市長居陸上競技場 (1964年度 - 1970年度、1971年度 - 1975年度)
- 京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場 (1965年度)
- 神戸市王子陸上競技場 (1965年度)
- 神戸市立中央球技場 (1971年度)
- 関東へ移転後
- 大井ふ頭中央海浜公園陸上競技場(東京都品川区、1981年度・1983年度のみ使用)
- 江戸川区陸上競技場(東京都江戸川区、2010年度は駒沢・2012年度は西が丘の代替会場として使用)
- NACK5スタジアム大宮(埼玉県さいたま市大宮区、2002年度以後使用されなかったが2010-2011年度は駒場の代替会場として使用)
- 川越運動公園陸上競技場(埼玉県川越市、2001年度以後使用せず)
- 柏の葉公園総合競技場(千葉県柏市、2009年度・2012年度以降は使用せず)
- 千葉県総合スポーツセンター陸上競技場(千葉市稲毛区、2003年度以後使用せず)
- 習志野市秋津公園サッカー場(千葉県習志野市、1999年度以後使用していないが、2003年度は千葉市非開催に伴う代替会場となる)
- 三ツ沢公園陸上競技場(横浜市神奈川区、三ツ沢球・等々力の代替会場として1990年度 - 1993年度に使用)
- 平塚競技場(神奈川県平塚市、等々力・三ツ沢球の代替会場として1992年度・1994年度・2001年度・2002年度・2009年度に使用)
- 相模原麻溝公園競技場(相模原市南区、等々力の代替として2012年度使用)
国立競技場での試合開催
国立霞ヶ丘陸上競技場(国立競技場)でのプレーが許されるチームは、開幕戦を戦うチーム(1つは東京都代表のどちらか)とベスト4のチームの最大6チームのみであり、厳しく狭き門であると言える。開幕戦のなかった第77回(1998年度)以前はさらに厳しく、ベスト4の4チームだけであった。「目指せ国立」は、この大会のキャッチコピーともなっている。
- 1月に国立競技場で行われる全国大学ラグビー選手権大会決勝との日程重複のため、当大会の準決勝を国立競技場以外で開催した事例もある。その場合、当大会で国立競技場のピッチに立てるチームは最大4チーム(国立競技場での開幕戦実施以前については2チーム)に減少する。
- 第56回大会(1977年度)では、唯一の例外として準々決勝のうち1試合(北陽高校vs習志野高校)が国立競技場で行われた(参考:高校スポーツデータ室)。
なお国立競技場は2019年の開催が決定した2019 ラグビーワールドカップ及び2020年の開催が決定した東京オリンピック・パラリンピックへ向けた全面建て替え工事の施工(2014年夏着工予定~2019年春竣工予定)に伴い、2014年1月に行われる第92回大会(2013年度)の決勝を持って一旦会場から外れることになる。第93回大会(2014年度)については、開幕戦を駒沢陸上競技場で、準決勝・決勝を埼玉スタジアム2002で開催する[110]。
日程
同大会は選手の健康管理を考え、第73回大会(1994年度)より、それまでの新年元日(1月1日)開幕(試合は1月2日から)から年内12月30日開幕(試合は大晦日(12月31日)から)に早め、試合日程に余裕を持たせる措置をとった。これに伴い、以前は3回戦と準々決勝の中間日(1月5日)のみだった休養日が拡大され、3回戦と準々決勝の中間日(1月4日)に加えて、1回戦と2回戦の中間日(元日)、準々決勝と準決勝の中間日(1月6日)も休養日に当てられるようになった。
なお、第81回大会(2002年度)以降は、決勝戦をハッピーマンデー制度が適用された成人の日(1月第2月曜日)に移動して、さらに余裕を持たせている(ただし、1月第2月曜日の成人の日が1月8日であった、第85回大会(2006年度)については、準々決勝と準決勝を1月5・6日の連続開催とし、7日を休養に当てた。また、第86回大会(2007年度)は、1月6日が日曜日である点を考慮して準決勝を開催)。第91回(2012年度)は、準々決勝を1月5日に行った後、1週間空けて1月12日に準決勝・19日に決勝(14日の成人の日に開催予定のところ、降雪により延期)とする日程が組まれた[108]。
このように、大会後半(準々決勝と準決勝、ないしは準決勝と決勝)の日程の間隔が開いたことにより、その間のコンディションの維持、もしくは回復が新たなポイントとなった。
開幕戦
元日開幕の頃は、開会式は天皇杯決勝戦の前座イベントとして行われていた(開幕式の模様は1月2日に1回戦の実況に先だって放映されていた)。ところが、12月30日開幕となって以降、開幕日は開会式のセレモニーのみ行われ、試合自体は行われていなかったため、観客動員の減少が懸念されていた。これをふまえて、第78回大会(1999年度)から一部変更し、開会式直後に国立競技場にて「オープニングマッチ」を開催することになった。
初めて開催された第78回大会では集客を考え、地元の東京のチームの試合が選ばれた。東京都は毎年2校出場するが、この年は帝京高校が2回戦から登場のシード校だったため、もう一校の国学院久我山高校の試合と事前に決められた(抽せんの結果対戦相手は沖縄県の具志川高校となった)。
次年度の第79回大会(2000年度)では、趣向を変えて、前年度優勝チームの市立船橋を推薦出場とし、対戦相手を抽せんで決めて開幕戦を開催してみたものの、その後、同校が2回戦敗退(PK戦による)と成績がふるわなかったことから、前年度優勝チームの推薦出場・開幕戦招待はその年度限りで廃止。第80回大会(2001年度)以降は、1回戦の対戦カードのうち、神奈川県、埼玉県、千葉県代表の試合を除いたものの中から1試合抽出し、対戦カードが決定されるようになった。さらに第86回大会(2007年度)より、東京B代表のチームの試合が1回戦に組まれた場合、その試合が最優先で開幕カードとなることになった。
結果と統計
主催
- 日本サッカー協会
- 全国高等学校体育連盟
- 民間放送43社 (表参照)
- 全国大会にはこれに開催各都道府県のサッカー協会・高等学校体育連盟が「主管」として大会を運営する
担当都道府県 参加民放社名 放送系列 備考 担当都道府県 参加民放社名 放送系列 備考 東京都 日本テレビ NNN/NNS 主幹局 愛媛県 南海放送 NNN/NNS 茨城県 高知県 高知放送 北海道 札幌テレビ 山口県 山口放送 青森県 青森放送 福岡県 福岡放送 岩手県 テレビ岩手 佐賀県 宮城県 ミヤギテレビ 長崎県 長崎国際テレビ 1991年開局 秋田県 秋田放送 熊本県 くまもと県民テレビ 1982年開局 山形県 山形放送 大分県 テレビ大分 NNN/NNS・FNN/FNS 2000年から放送開始 福島県 福島中央テレビ 鹿児島県 鹿児島読売テレビ NNN/NNS 1994年開局 新潟県 テレビ新潟 1981年開局 宮崎県 宮崎放送[112] JNN 長野県 テレビ信州 1980年開局 沖縄県 沖縄テレビ[113] FNN/FNS 山梨県 山梨放送 栃木県 とちぎテレビ JAITS 1999年開局 静岡県 静岡第一テレビ 1979年開局 群馬県 群馬テレビ 1971年開局 愛知県 中京テレビ 埼玉県 テレビ埼玉 1979年開局 富山県 北日本放送 千葉県 千葉テレビ放送 1971年開局 石川県 テレビ金沢 1990年開局 神奈川県 テレビ神奈川 1972年開局 福井県 福井放送 NNN/NNS・ANN 岐阜県 岐阜放送 大阪府 読売テレビ NNS 三重県 三重テレビ 鳥取県 日本海テレビ 1989年フルネット化 滋賀県 びわ湖放送 1972年開局 島根県 京都府 KBS京都 広島県 広島テレビ 奈良県 奈良テレビ 1973年開局 岡山県 西日本放送 1983年相互乗り入れ 和歌山県 テレビ和歌山 1974年開局 香川県 兵庫県 サンテレビジョン 徳島県 四国放送
過去の参加放送局
担当都道府県 現在の民放社名 現在の系列 中継終了年次 引き継いだ社名 現在の系列 理由 岩手県 IBC岩手放送 JNN 1982年 テレビ岩手 NNN/NNS 系列局への一本化 福島県 福島テレビ FNN/FNS 1976年 福島中央テレビ 系列局への一本化 栃木県 日本テレビ NNN/NNS 1999年 とちぎテレビ JAITS 地元局開局による移行 新潟県 新潟放送 JNN (未確認) テレビ新潟 NNN/NNS 系列局への一本化 長野県 信越放送 1990年 テレビ信州 長野朝日放送(ANN系列)開局による
テレビ信州フルネット化のため静岡県 静岡放送 1983年 静岡第一テレビ 系列局への一本化 石川県 北陸放送 1990年 テレビ金沢 系列局開局による移行 愛知県 名古屋テレビ放送[114] ANN 1973年 中京テレビ 系列整理による一本化 島根県 山陰放送 JNN 1971年 日本海テレビ 日本海テレビへのNNN/NNS
番組一本化のため岡山県 山陽放送 1980年 西日本放送 相互乗り入れによる
系列局への一本化長崎県 長崎放送 1991年 長崎国際テレビ 系列局開局による移行 熊本県 熊本放送 1982年 くまもと県民テレビ 系列局開局による移行 大分県 大分放送 1999年 テレビ大分 NNN/NNS
・FNN/FNS系列局への一本化 鹿児島県 南日本放送 1994年 鹿児島読売テレビ NNN/NNS 系列局開局による移行
補足
- 毎年、日本テレビ(主幹局)+NNS系列放送局[115]+独立UHF放送局(若干局)が、幹事局とされている。
- かつては一部地域において、1つの県で2つのテレビ局が共同で主催・制作していた時期があった。例えば静岡県では静岡第一テレビとSBSが(静岡県においては参加社の切り替えが行われた1983年度第62回大会に限り、両社で決勝戦・清水東対帝京が同時放送された。なお、翌年度大会でも藤枝東が決勝に進出した場合に両社で放送が予定されていたが、藤枝東が準決勝で敗退したため静岡第一テレビのみの放送となった)、長野県ではテレビ信州とSBCが、長崎県では長崎国際テレビとNBCが、熊本県ではくまもと県民テレビとRKKが共同で行っていた。石川県では1990年のテレビ金沢開局後も、石川県大会は1994年までMROで放送されていた。これらは、NNS系列局が開局して年数がまだ経っておらず、制作能力がまだ弱かったことや、テレビ信州についてはテレビ朝日系列メインのクロスネットだったことと、フルネット後もSBCが長野県大会の主催を続けており、SBC杯兼高等学校選手権長野県予選といったねじれ解消に時間がかかったため。さらに新規開局の放送(平成新局)の多くは、UHFであり、中継局が十分に整備されておらず、同じサービスエリアの県であっても、直接受信で視聴できない地域(ケーブルテレビでは配信しているため視聴可能世帯多い)が存在するためによることも挙げられる。
- また、日本テレビ系フルネット局がない、もしくはあっても、クロスネットでメインネットが日本テレビ系でない地域では、系列に関係なくテレビ第一波目のVHF局が参加放送局だった地域が多かった。そのため、JNN系列局が参加していた地域もあった。しかし、日本テレビ系の新局が開局したことにより、制作参加局がそちらへ移るようになったため、現在はMRTのみとなった。また日本テレビフルネット局がない沖縄の担当局であるOTVもテレビ第一波目のVHF局である。
- 三重県は現在、三重テレビが担当しているが、日本テレビが中継を開始した当初は名古屋テレビが、1973年4月の系列整理による一本化から1980年度の大会までは、中京テレビが担当していた(三重テレビが放送を開始した時期は、1981年度の第60回記念大会から)。
- 優勝校にはサッカーボールを模った金色の民間放送杯が、また準優勝校には銀色、3位は銅色が授与される。なお、民間放送杯は協賛社杯同様永久保持が認められている。
協賛
以下は、優勝チームに対して持ち回り賞品の「協賛社杯」、及び協賛社からの記念品を合同で贈呈する(他、持ち回り正賞品の優勝旗、優勝トロフィー、ミドルセックス・ワンダラード杯、アルゼンチン共和国杯、永久保持の表彰状、民放杯(前述)も同)。
テレビ中継のオープニング・エンディングでのスポンサー紹介では、各社のコーポレートメッセージ・キャッチコピーが付け加えられる形での紹介方法である(年度によっては付かないスポンサーもある)。なお、協賛字幕は地方大会決勝戦と、全国大会1回戦-準々決勝までは後述の映像をバックに通常の白文字、準決勝と決勝は薄い白地絨毯+各社カラー表示を行っている。
- TEIJIN (旧・テイジン)
- TOYOTA (89回(2011年)から参加)
- 第90回大会(2012年)では、ヴィッセル神戸所属の森岡亮太が出演した、高校サッカーへのエールを送るオリジナルCM(トヨタ・ウィッシュとのコラボCM)が放映された。
- また、同回では各都道府県大会決勝からベスト4の歩みまでの提供時は「(Tのマーク)TOYOTA」と表示したが、準決勝以後は「FUN TO DRIVE, AGAIN. (Tのマーク)」と表示。
- トヨタ自動車はFIFAクラブワールドカップの協賛会社として大会運営している。
- PUMA (プーマジャパン)
- Coca-Cola
- meiji:89回(2011年)大会までは明治製菓(88回(2010年)・89回(2011年)大会は「meiji明治製菓」名義、87回大会(2009年)までは「Meiji」名義)
- 旧明治製菓時代より、同社の菓子類や、サプリメント「ザバス」のCMが放送されている。また都道府県予選から決勝にかけての時期が、秋から冬と風邪の流行期に差し掛かることも関係してか、うがい薬「イソジン」のCMも放送されている。
- 87回大会(2009年)では、同根の明治乳業との経営統合が決定していたこともあり、明治乳業が発売していたスポーツ飲料のVAAM(ヴァーム)のCMが放送された。2009年4月に同社は、明治乳業とともに明治ホールディングスに経営統合された[116]ことで、88回(2010年)・89回(2011年)は名義表記も、統合後の「meiji明治製菓」に変更された。
- 2011年4月1日付で、明治ホールデイングス傘下各社の事業再編が行われ、菓子・食品・一般用医薬品事業を担当する「株式会社明治」(旧明治乳業を存続会社とし、旧明治製菓の菓子・食品・一般用医薬品事業を移管)が発足したことで[117]、90回大会(2012年)より名義表記は「meiji」へ変更された。
- fuji Xerox(旧FUJI XEROX) (1970年から参加)
なお、上記6社はすべて30秒CMを4回ずつ流す。主に試合開始前に1回、ハーフタイム中に2回、後半終了後に1回1社ずつ流す。後半の提供クレジットは、4回目のCMが放送された順番に表示される(なお、前半のものは1回目のCMが放送される順番に表示される)。各スタジアムでも協賛会社の看板が1つずつ(国立競技場のみ各会社の看板は2つずつ)表示している。
過去の協賛社
- HITACHI (技術の日立)
- NISSAN (技術の日産)
- 電気化学工業 (DENKA)
- LAWSON
- 三井ホーム (2009年度まで)
- NIKE
- ユニフォーム・靴スポンサー枠。後枠はPUMA(プーマジャパン)に変わった。
- SANYO(2012年1月よりパナソニックに統合された)
- 大正製薬
- BRIDGESTOnE
- 東京海上(現:東京海上日動)
クレジット表示の映像
- 冒頭に大会題名(選手の蹴り上げるイメージを描いたロゴ入り)を出した後、主催・後援・協賛の一覧を表示し、その後改めて協賛スポンサー紹介がアナウンサーの読み上げとともに行われる。スポンサー読み上げは過去は準々決勝まで共同制作参加各放送局ごとに、全国共通ネットとなる準決勝以後は日本テレビからそれぞれ行っていたが、後述の共通オープニング映像が採用されてからは全て日本テレビの若手男性アナウンサーの読み上げになった。
- 当初はブルーバックだったが、1980年代には中継映像を編集したイメージ映像とテロップという形式になり、1990年代に入ってから準決勝・決勝以外は著名プロ選手の本大会出場時(オープニング)および前回大会(エンディング)の名シーンを集めた映像で構成するようになった(準決勝と決勝は生中継の映像、および当該試合のダイジェスト映像で、先述したとおり白じゅうたん・カラー表示)。
- 2試合連続で放送される準々決勝(NNSマストバイ局の一部のみ)・準決勝については、高校野球や高校ラグビーの中継のようにタイトル・クレジットを1日のプログラム全体の開始・終了(第1試合開始時と最終試合終了時)だけ流すのではなく、1試合ごとの開始・終了時に表示している。したがって番組表の扱いも第1試合と第2試合を別番組扱いとしている(但し、独立県域放送など、一部放送局のEPGなどでは、特に準決勝で2試合を一つの番組として一括表示する例もある)。
- なおこれは地上波・BSのみで、CS放送(大会終了後に全試合を再放映)については協賛社のCMが放送されていないため割愛されている。
試合中継
テレビ中継
民間放送43社(地上波)での放送
- 原則として各都道府県の主としてNNS系列29社[118]、および東京メトロポリタンテレビを除く全国独立放送協議会12社・宮崎放送[112](JNN)・沖縄テレビ[113](FNS)が都道府県の地方大会決勝や全国大会における当該地域の試合(一部地域を除き独立系地上波局などでは地元代表校の勝敗を問わず放送)また全国大会の開会式・準決勝及び決勝を放送する。ただし日本テレビは東京都と茨城県(日本テレビは関東地方広域放送であるが、それ以外の関東各県は各独立系地上波局担当)。日本海テレビは鳥取県と島根県、RNCは香川県と岡山県。福岡放送は福岡県と佐賀県を担当する。
- なお日本テレビと同じく広域放送の中京テレビ・読売テレビでもそれぞれの本社所在府県のみ(中京テレビ:愛知県、読売テレビ:大阪府)の担当となる。また関連番組としてベスト8・ベスト4に勝ち上がったチームを詳しく紹介する「ベスト8・ベスト4への歩み」と当日の試合を振り返る「全国高等学校サッカーハイライト・"サッカー魂"」(一部地域を除く)が放送される。
- 1都道府県1代表校制度の実施以前、当時民間放送テレビが存在しない栃木県の場合は群馬県との北関東ブロック大会の試合や全国大会の一回戦などの試合は群馬テレビのみで放送。日本テレビでの中継がなかったため栃木県では地域により視聴できない状況[119]であった。ただし同じく民間放送テレビが現在でも存在しない茨城県の場合は茨城県立古河第一高等学校や茨城県立水戸商業高等学校など全国大会でも好成績を残す学校があったことと、早くから1県1代表校となった県であったために日本テレビによる決勝戦の中継が行われていた。
- 地方大会に関しては参加社により都道府県の地方大会準決勝ハイライトから放送するところもあるなど、まちまちである。
- オープニング[120]・エンディングともに、全国共通のものを地方大会から使用する社もあれば、独自制作のものを使用する社[121]もあり、やはりまちまちである。オープニング・エンディングVTRが同じであるが、提供クレジットが独自の局もある。汎用VTRは基本的に日テレの若手男性アナが提供読みをしたものを放送しているが、1990年代初期までは同時ネットとなる準決勝以後を除き、ブルーバックの字幕を各参加局から出し、提供読みも各放送局のアナウンサーが読み上げていた局と、日本テレビからオープニング映像の提供を受けて自社で送り出した局とに分かれていた。
- 日本テレビが中継を開始してから1990年代初期の頃までは、決勝戦を除いては前半戦の途中から(だいたい20分前後のあたりから)放送を開始することが多かった。
- 2005年1月8日の準決勝第2試合において、PK戦5人目終了時点で成功同数であった状況で放送終了した。その後、番組終了から2時間で、約200件に及ぶ抗議電話が、放送された日本テレビへかかってきたという(なお、翌年から準決勝の延長時間が5分拡大されている)。そのためか、遅れネット社はこの試合のスコア表示およびPK戦を最後まで放送する対応がなされた。また、決勝・準決勝以外でもPK戦の途中で番組終了するケースも多々ある。2004年12月31日は各会場で雪に見舞われて放送が中断したり、試合途中に除雪作業をしたために、PK戦の途中で終了した局もあった。
- 2011年1月8日の準決勝第2試合においてでも、PK戦が長く縺れ、番組終了時の提供クレジットが終わるまで実況中継したが、決着の瞬間は生中継されなかった(日テレ他一部地域では直後のハイライト番組で決着の瞬間が録画で放送された)。遅れネット社は2005年の時同様、PK戦の始めの部分をカットし決着まで放送(千葉テレビ放送・テレビ埼玉等)したり、テロップにて結果を表示(群馬テレビ等)したりした。
- 2013年1月14日に決勝が大雪となり、19日に順延されたため、14日当日および順延された19日は、いずれもイレギュラー対応となった。
- 14日における中継番組の放送そのものは実施し、日本テレビ報道フロアからの大雪関連のニュース・天気予報を挟みながら、国立競技場の放送席から準決勝の振り返りや両校の情報、決勝の展望を送ったり、そのほかに今大会で既に敗退したチームのドキュメント映像を流すなどして凌いだ。なお、報道フロアからの放送の間、独立局各局やJNN単独加盟の宮崎放送[112]、FNN単独加盟の沖縄テレビ[113]に配慮して、「NNN」の表記を出さない配慮がなされていた。遅れネット(当日夜に録画中継)の局は、それぞれ対応が分かれており、テレビ埼玉では2012年12月31日開催の地元代表の1回戦「正智深谷 vs 京都橘」の再放送に差し替えたが、その一方で千葉テレビ放送・とちぎテレビ・KBS京都・サンテレビジョン・奈良テレビでは日本テレビの放送を大雪のニュースや天気予報も含めそのまま放送した。特にニュースや天気予報では情報の混乱が生じるため、各局独自で「この番組は、きょう午後○時頃制作・放送されたものです。」(○には2,3,4のいずれかの時刻)などといった断りの字幕を入れて対応した[122]。
- 19日に行われた決勝戦は、テレビ神奈川と宮崎放送[112]では生中継された一方、日本テレビと系列局の多くおよび一部独立局では編成の都合上、13:45 - 15:25の時間差録画放送となり[123]、編成の都合で当日もしくは翌日に日本テレビより遅れネットとする系列局・独立局もある[124]。なお、読売テレビを除く日本テレビ系列局および前述のテレビ神奈川・宮崎放送[112](生中継)、KBS京都(遅れネット)以外の独立局は日本テレビと同じ100分編集版を放送することになった一方、読売テレビは85分編集版を日本テレビより当日夕方に遅れネットで放送することになった。また、どのケースも協賛社提供は冒頭と最後で表示されたものの、CM自体は前半開始前と延長前半終了後(当日生放送版は後半終了後)の2回が協賛社のCMで、それ以外は各局別のスポット扱いでの対応になった。
- 中継では各参加社からアナウンサーが派遣され、実況の他、ベンチ・応援席リポート(同一アナウンサーが担当するのではなくベンチと応援席それぞれにアナウンサーを配置)、サブ(実況者のサポート)も担当する。アナウンサーは長年大会にかかわりのあるメイングループとそれ以外のご当地アナウンサーの二つに分かれており、メイングループは地元校が敗退しても決勝戦まで主に応援席リポート、サブの仕事がある。2009年度より全参加社から派遣されるが2008年度までは派遣しない局もあった(ただし局の事情により、局アナではなく当該局に出演頻度の高いフリーアナウンサーを派遣するケースもある)。[125]
- 実況は初戦(1回戦と2回戦の一部)をご当地アナウンサーが、開会式と2戦目以降は決勝までメイングループのアナウンサーが担当する。初戦は東西対決のため奇数回大会を東日本のアナウンサーが担当し、偶数回大会は西日本のアナウンサーが担当する。局の事情(主に関東の独立局)で実況経験のないアナウンサーが派遣された場合は、もう一方のアナウンサーが担当する。どちらもいない場合はメイングループのアナウンサーが担当となる。1回戦・2回戦(2回戦でいずれかの相手が初戦となる場合でも、対戦両校とも放送する)の場合は、ハーフタイムの時間にチーム紹介VTRを流す。また3回戦はスタンドからリポートが入る。
- 原則として、全試合とも勝利チームヒーローインタビューは試合終了後に場内公開で行われ、1回戦-準々決勝まではその試合の勝利チーム側ベンチサイドレポートを担当したアナウンサーが、準決勝と決勝についてはベンチ・応援席レポーターとは別のアナウンサーが進行を担当する。但し録画中継となった試合でPK戦にもつれ込んだものについては、編集の都合でインタビューの箇所を放送で割愛する場合もある
- 日本テレビ・及び一部のNNS系列局のアナウンサー・スタッフは年度により東京箱根間往復大学駅伝競走の実況などに携わる者も若干名いる(年度により担当する大会を変えるシフト勤務であったり、双方兼務のアナも若干名いる。<例・河村亮他>ただし、駅伝の実況に登場するアナは日テレのみで、地方系列局は技術・サブスタッフなど裏方での参加が主である)。
- 準決勝の実況は、日本テレビ以外にも参加社枠があり、過去には、ミヤギテレビの三雲茂晴、青森放送の大竹辰也(現:フリー、ローカル局で初めて全国大会開会式実況を担当)、読売テレビの小城敏や牧野誠三(現在ともに別部署所属)等が担当。近年では読売テレビの小澤昭博(2007・2008・2011年度大会)、テレビ大分の小笠原正典(2009年度大会)、三重テレビの平田雅輝(2010年度大会)、静岡第一テレビの伊藤久朗(2012年度大会)などが担当した。なお、準決勝の実況担当者は決勝戦の優勝校インタビュアーも務めることが多い。決勝戦は日本テレビのアナウンサーが担当し、ここ数年は鈴木健や藤井貴彦が担当、2010年度大会は田辺研一郎が初めて担当した。
- 最近では珍しくはないが女性アナウンサーもリポーターや実況を務めており、実況者としては今までに日本テレビの鈴江奈々、宮城テレビの岩瀬裕子(退職)、テレビ神奈川の三崎幸恵、佐藤亜樹、テレビ和歌山の山田みゆきの4人が務めている(三崎は佐藤に、山田は上枝俊也に引き継いでいる)。2011年度大会は長崎国際テレビの千北英倫子が実況。また85回大会(2006年)では日本テレビ系列外の平田雅輝(三重テレビ)が、開会式の進行と優勝インタビュアーを担当した。
- メイングループの実況は、監督・周辺(近所)エピソード(特に決勝は中継時間の半分以上を費やす)に終始しピッチ上の展開を疎かにしていることがあり(解説者に「チャンスですよ」と指摘されることもある)、特に解説者がその監督に師事していた場合、完全に話が試合から脱線する傾向があり、これを非難する声も大きい。またご当地アナウンサーは地元校に肩入れする場合がある。
- 解説者については、全国高等学校体育連盟サッカー部会、日本サッカー協会理事などを務めるサッカー指導者の諸先生方(セルジオ越後、藤田一郎、松本育夫ら)のほか、Jリーグ発足後は、風間八宏、中山雅史、武田修宏ら、Jリーグ選手経験者(年により現役選手も若干名)も多数出場している。
- 決勝戦のエンディングでは参加全アナウンサーと全ディレクターならびに技術プロダクションと各競技場における責任者名が競技場ごとに表示される。また日本テレビ所属の者のみではあるが、制作スタッフや事務局担当者も表示される。(アナウンサーの所属社クレジットはなし)。
- 試合中のテロップ表示は得点表示は各社共通(日本テレビのテロップだが準決勝・決勝よりも動画を簡略化[126])だが、1回戦〜準々決勝の中継冒頭に出る対戦カード、競技場名、解説・実況・リポーターは各社で送出している。準決勝・決勝は全て日本テレビのテロップを使う。
- 地上デジタル放送では、2009年度より全試合(2008年度は開会式と3回戦から決勝まで、2007年度は準々決勝から決勝まで、2006年度までは準決勝・決勝のみ)をハイビジョン制作、準決勝・決勝は5.1chサラウンド放送と連動データ放送を実施。また2009年度からは決勝のみリアルタイム字幕放送も実施される(NNS系列以外では実施していない局もある)。
- 第85回(2006年)の幹事社は、日本テレビ・読売テレビ・テレビ岩手・テレビ神奈川・静岡第一テレビ・福井放送・びわ湖放送・山口放送・くまもと県民テレビである。
- 第85回以降の準決勝・決勝の大会協賛スポンサーによる提供クレジットは、日本テレビ系列番組の『世界一受けたい授業』『世界の果てまでイッテQ!』と同じカラーテロップになっているが、ユニフォームの色が被ることから、全社じゅうたん付きで表示している。
- 2回戦は平年1月2日に開催されているが、岐阜放送・三重テレビ・びわ湖放送・テレビ和歌山・奈良テレビでは新春ワイド時代劇(1981年開始当初-2000年は12時から24時→2001年以後14時から24時)と重なるため社により、以下のパターンに分かれた。
- 夕方16時ごろで一旦飛び降りて中継を実施し、以後の時代劇はテレビ東京系列から2時間程度遅らせて放送。
- 時代劇は全部テレビ東京からの同時ネットとし、第1試合に当たる場合は生中継、第2試合に当たる場合は時代劇終了後の深夜に録画放送(ディレード)。[127]
- しかし、2010年以後は時代劇の放送が16時から23時に更に短縮されたため、各社とも生中継と、時代劇の全編同時ネットが可能となった。
- 3回戦は平年1月3日に開催されているが、NNS系列局はその日の14:18まで[128]箱根駅伝の中継を行うため試合に関係なく録画での中継となる。
- 1月2日に行われる2回戦もNNS系列局の場合、第2試合に該当する学校の担当局は生放送で行うが第1試合の場合は録画中継となる。
- 開会式の放送では各社放送分数が20分(日テレ同時ネット・提供クレジットは日テレ出し)バージョンと30分(日テレ裏送り・提供クレジットは全社共通)バージョンに分かれており、放送時間が地元校の初戦の前に放送する社と、朝または深夜に放送する社がある。なお20分バージョンは一部出場校の入場行進が割愛される。
- 全国大会の予選〜準々決勝まで各地で開催される試合の放送は、NiTRo(この他、大会全体の制作・技術協力も担当するほか、他の協力会社とは異なり、2〜3会場を担当する)・クロステレビ・エキスプレス・テレテックといった制作プロダクションが、参加社各社と共同で制作を担当している。
- ハーフタイム前後の協賛社CMに入る前には、アナウンサーが「この放送は民間放送43社の共同制作で、(試合会場のスタジアム名。例・「千葉市のフクダ電子アリーナ」。まれに「埼玉会場=この場合は埼玉スタジアム」と地名だけでアナウンスする場合もある)からお送りしております」とコメントしてCMに入る。
衛星放送
- 日テレG+では、12月に地方大会の決勝戦を、1月末からは全国大会の全試合(47試合)をノーカット録画放送している(ノーカット版以外に「総集編」と題したダイジェスト版も放送されている)。過去にはBS日テレで、2009年までは準々決勝から決勝、2010年は準決勝・決勝、2011年は決勝を録画で放送していた。なお開会式の生放送およびノーカット録画放送は行われない。
動画配信
- 日テレオンデマンド ゼロ(2011年度まで第2日本テレビ)では、地方大会の決勝戦と全国大会の全試合をダイジェストで、また後述の学校紹介を配信している(2006年度から、但し2010年度を除く)。過去にはテレビドガッチでも配信された(2012年度まで)。
ハーフタイムの企画
- 1・2回戦は多くの学校が初戦となるため、ハーフタイムには各校の地元社が製作した学校紹介を放送する。同様のコーナーがあるNHKの高等学校野球中継とは違い、単にその学校の地元自治体や校風、練習風景を紹介するだけでなく、サッカー部員自らがパフォーマンスを見せたりするものもある。
- 3回戦以後はハーフタイムの応援席の表情(注目選手の保護者、あるいは郷土芸能などを応援に取り入れている生徒らへのインタビューなど、ご当地色の強い内容が多い)を紹介する他、準決勝・決勝の日にはゴール集などのミニ特集や決勝戦にはテーマソングを歌う歌手のミニライブ(これをバックに名シーンを再生する)が行われたりする。
関連テレビ番組
以下の特別番組が日本テレビ系列局で放送されている。
- 高校サッカー春夏秋冬
- 地方予選出場校2~3校に密着。全国大会に向けて揺れる想いや成長する過程を伝える。
- 背番号12の選手たち
- 寮母や家族、応援団や吹奏楽部などチームを支える人々を紹介する。
- 最後のロッカールーム
- 全国大会のハイライトとともに敗れたチームの試合後のロッカールームを取材。監督やメンバーの最後の言葉を伝える。
- この番組を収録したDVDも発売されている。
ラジオ中継
テレビと違い、読売グループがキーとなるラジオを持っていないため、中継の扱いは社によってまちまちである。
- 静岡放送(テレビはJNN系列、ラジオはJRN・NRN両系列)では静岡県代表校の試合を初戦から生中継する。
- 決勝戦はアール・エフ・ラジオ日本でも中継される。
- 鹿島学園高等学校出場試合を、FMかしまが中継した(2006年)。
マスコット
1980年代はビーグル犬を擬人化したマスコットキャラクター「シュウタロウ」が、1990年代から第80回大会(2001年度)まではサッカーボールをモチーフとしたマスコットキャラクター「ケレくん」が存在していた。ケレくんは1994年に14461通の一般公募の中から選ばれ、ボールに手足と頭がついており、両手でピースサインをして「Get 2002!」のメッセージを上に表示していた。
なおケレくんは、後に登場する日本テレビサッカー中継マスコット「サッカーモンスター」とは似ているものの別物である。
イメージソング
第73回大会(1994年度)からは、レコード会社の高校生年代へのプロモーション戦略の一環により、回ごとのイメージソングが設けられている。これらの曲はテレビ中継のエンディングで流れるほか、開会式や決勝戦でライブパフォーマンスを披露されることもある。
回 | 年度 | 楽曲名/歌手名 |
---|---|---|
73 | 1994 | 「Melodies & Memories」/TUBE |
74 | 1995 | 「風になって」/TOKIO |
75 | 1996 | 「この地球が果てるまで」/佳苗 |
76 | 1997 | 「sparkle」/奥居香 |
77 | 1998 | 「祈り」/CURIO |
78 | 1999 | 「Sign of Love」/S.E.S |
79 | 2000 | 「約束」/中武佳奈子 |
80 | 2001 | 「Yourself」/dream |
81 | 2002 | 「理由なきNew Days」/SOPHIA |
82 | 2003 | 「Golden Age 〜黄金世代〜」/ゴスペラーズ |
83 | 2004 | 「夢の場所へ」/w-inds. |
84 | 2005 | 「Starting Line」/コブクロ |
85 | 2006 | 「Start to 0(Love)」/絢香 |
86 | 2007 | 「Remember」/RIP SLYME with MONGOL800 |
87 | 2008 | 「心の花を咲かせよう」/いきものがかり |
88 | 2009 | 「明日へ」/FUNKY MONKEY BABYS |
89 | 2010 | 「キミノトモダチ」/WEAVER |
90 | 2011 | 「Message」/ナオト・インティライミ |
91 | 2012 | 「ホイッスル〜君と過ごした日々〜」/miwa |
92 | 2013 | 「僕らの物語」「僕らは物語」/GReeeeN |
第82回大会(2003年度)を前に、大会歌「ふり向くな君は美しい」も含め第82回大会までのイメージソングが収録されている「Golden Age 〜黄金世代〜 全国高校サッカー選手権大会イメージソングコンピレーション」がキューンレコード(第82回大会のゴスペラーズが所属するレーベル)から発売された(第74回大会の「風になって」は収録されていない)。
イメージキャラクター(応援リーダー)
第81回大会(2002年度)より、高校サッカー経験を持つ日本の現役プロサッカー選手(平山相太は起用当時筑波大学蹴球部所属のアマチュア選手[129])がイメージキャラクターとして、大会ポスターのモデルに起用されている(出身校名の後の※は、在学中に本大会進出経験なし)。第86回(2007年度)からは「応援リーダー」と呼ばれている。
- 第81回(2002年度):小野伸二(清水市商※)
- 第82回(2003年度):小野伸二
- 第83回(2004年度):平山相太(国見)
- 第84回(2005年度):大久保嘉人(国見)
- 第85回(2006年度):中山雅史(藤枝東)
- 第86回(2007年度):中澤佑二(三郷工技※)
- 第87回(2008年度):小笠原満男(大船渡)
- 第88回(2009年度):長谷部誠(藤枝東※)
- 第89回(2010年度):田中マルクス闘莉王(渋谷幕張)
- 第90回(2011年度):内田篤人(清水東※)
- 第91回(2012年度):遠藤保仁(鹿児島実)
- 第92回(2013年度):三浦知良(静岡学園中退※)
イメージガール(応援マネージャー)
第62回大会(1983年度)より、一般公募のオーディションによりイメージガール「ときめきの少女」が毎年2名選ばれ、関連番組への出演や出場チームへのインタビューなどを行ってきたが、第84回大会(2005年度)より高校在学中の女性タレントが起用される「応援マネージャー」に変更された。
ブレザーの学生服を着用し、主にテレビの中継や関連番組「(応援マネージャー名)の高校サッカー魂」への出演、開会式においての入場行進の先導役を務める[130]。また、お披露目会見の席や番組内でボールリフティングに挑戦することが定例となっている(下記は、歴代応援マネージャーの氏名とリフティングの回数)。
- 第84回(2005年度):堀北真希(2回)
- 第85回(2006年度):新垣結衣(4回)
- 第86回(2007年度):北乃きい(6回)
- 第87回(2008年度):逢沢りな(5回)
- 第88回(2009年度):川島海荷(4回)
- 第89回(2010年度):広瀬アリス(7回)
- 第90回(2011年度):川口春奈(3回)
- 第91回(2012年度):大野いと(2回)
- 第92回(2013年度):松井愛莉(10回)
全国大会の組み合わせ抽選の手順(現在)
基本的に予備抽選を経て本抽選となる。抽選会は2003年(第82回大会実施分)から、東京都港区の日本テレビ本社日テレホールで行われている。2002年には六本木のディスコ「ヴェルファーレ」で、またそれ以前は東京都立日比谷高等学校で行われた。
予備抽選
全国大会の抽選会場に来たチームから、順にくじを引き、その番号が小さい順に本抽せんを行なう。
本抽選
トーナメント表の番号(1番から48番)に各校が振り分けられる。原則として、初戦で同じ地区が対戦しないように東西(福井、岐阜、愛知までが東ブロック。京都、滋賀、三重から西ブロック)に分けられている。抽選の際、東ブロックは奇数の番号札、西ブロックは偶数の番号札を引く(ただし、第79回大会は出場校が49校だった関係で、トーナメント番号38番以降が入れ替わっていた)。ただし事前の制約があるチームから抽選する。
シード校
シード校は、前年度の成績でベスト4以上だった都道府県に割り当てられる。出場校が異なっていてもシード権は引き継がれる。シード校のトーナメント表における番号が決まっている。前年度優勝の都道府県のチームは1番、準優勝の都道府県のチームは48番、3位の2校は24番と25番(この2つの番号は、前年度大会の準決勝で対戦した都道府県が、決勝まで対戦しないように分けられる)にまず入る。この4校は抽選する必要がない。この際に、西ブロックのチームが1番か25番に、あるいは東ブロックのチームが24番か48番に入った場合は、東ブロックの他のチームが偶数の番号札(2番か26番)、西ブロックの他のチームが奇数の番号札(23番か47番)を引くことになる。シード校は、全チーム2回戦が初戦になる。他には、シード校の初戦の対戦相手やそれ以外のチームでも8校(トーナメント番号11番から14番、35番から38番を引いたチーム)も2回戦からとなる。
開催地区の抽選
開催地である東京都A、神奈川県、埼玉県、千葉県の4校。これらのチームは、開催地区が重ならないように準決勝まで対戦しないように分けられる。まず、トーナメント表の4つのゾーンの中のどこに入るか、ゾーン抽選をする(Aゾーンが1番から12番、Bゾーンは13番から24番、Cゾーンが25番から36番、Dゾーンが37番から48番)。その後に、決まったゾーンの中のどこに入るかを決める本抽選をする。ただし、半分は西ブロックに割り当てる番号なので、本抽選の箱にある5枚または6枚の抽選札から選択する(ちなみに第84回大会までは、ゾーン抽せんは8つのゾーンに分かれていた)。4校の抽選が終了すると、東京都Bのチームの抽選をする。東京は2チームが出場するので、この2校が決勝まで対戦しないように分けられ、すでに決まっている東京都Aのチームと反対側に入る。なお東京都Bは、1回戦に決まると無条件に国立競技場での開幕カードとなる(86回大会より)。また、抽選の際に2回戦か3回戦に開催地区と当たる可能性のある番号に決まると、東京以外の会場になる。
なお、東京都にはA,B2つの代表枠があるが、都予選のA,B各ブロックの代表がそのまま東京都A,東京都Bとして決まるのではない。東京都の代表校2校が決定した後に抽選を行ない、どちらが東京都A(又はB)になるのかを決定している。
東海地区の抽選
東海地区は静岡県、岐阜県、愛知県、三重県の4校だが、三重県は西ブロック、他3県は東ブロックのため、初戦で対戦しないように分けられる。まず三重県のチームが抽選する。このとき、すでにシード校の中に東の東海地区のチームがある場合は、そのチームと初戦で対戦することになる番号札を事前に抜き取ってから抽選する。また三重県のチームが抽選した時点で初戦の対戦相手が決まらなかった場合は、そのチームと初戦で対戦することになる番号札を一時的に抽選箱から抜き取ってから、残り3県のチームが抽選をする。抜き取った番号札がある場合、この抽選が終わった後に抽選箱に戻される。
これですべての制約のある抽選が終わる。後は残りの高校が1校ずつくじを引いていき、すべての組み合わせが決定する。これらすべての抽選は制約のあるチーム、ないチームすべて範囲内で予備抽せんの番号の小さい順に行なわれる。組み合わせ決定後に開幕戦のカードを決める抽選をして(開幕戦の項を参照)、さらに選手宣誓の抽選も行なう。選手宣誓は、開幕戦を戦う2チーム以外の46チームの中から選ばれる。
その他、備考
同じ抽選箱に入る可能性はないが、混同しやすい6番と9番の番号札に関しては、アラビア数字(算用数字)は用いないで、漢数字を使用する。よって6は「六」、9は「九」と書かれている。
もし、抽選会までに代表校が決まらなかった場合は、抽選日には都道府県代表の番号だけ決めておき、代表校が決まるとその番号に入る。これまでに代表校が決まらない事例としては、災害により地区予選の開催が遅れること(最近では第83回大会の新潟県予選が、新潟県中越地震の影響で、抽選会の時点で準々決勝以降が残っていた)や、地区予選開催時期に、U-18など年齢制限のある日本代表に招集される選手がいる、またはその可能性がある場合、そのチームの主力選手の欠場による戦力的な不利をなくすため(第86回大会の予選では、この理由で6県が抽選会までに予選が終了しなかった)などがあった。なお、第69回大会で採られた措置(レギュレーションの項を参照)もあった。
このようなケースでは、対戦相手が抽選会で決まらないことで、すぐに相手の分析ができないが、その地区の予選会場で相手をある程度しぼりこんで分析できるなどのメリット・デメリットが、対戦相手には生じるといえる。
主催者の不手際
第80回大会で起きた。予備抽選の後、主催者が14番目の長野県代表の松商学園高校を富山県代表(この大会の富山県代表はシード校だったため、予備抽選はあまり意味がなかったための不注意と思われる)と記してしまい、14番目以降がすべて抽選順が1つずつ間違ったまま、あと2校というところまで気付かれなかった。このため、14番目以降の抽選がすべてやり直された。このため、対戦相手も大きく変わってしまった。なかでもシード校は、前回準優勝の滋賀県代表の草津東高校は群馬県代表の前橋育英高校、前回3位の青森県代表の青森山田高校は鹿児島実業高校との強豪との初戦に変わってしまい、共に初戦で敗退している。ちなみに間違えられた松商学園高校の初戦は、前回優勝校の長崎県代表の国見高校だった。
その他特記事項
- この大会の発祥は豊中グランドであるが、同様のルーツを持つ高校野球、高校ラグビーのように、豊中を聖地化するような動きは無い。これには、上記の理由と豊中グランドイコール高校野球の聖地とイメージが強すぎる事と、当時の主催が毎日新聞社(現在は日本テレビ)だった点があげられる。
- 草創期に7連覇した御影師範をはじめ、戦前まで参加していた師範学校は、現在の学制では大学に相当する。また、実際に関西大学や関西学院高等部、神戸高商などの現在の大学そのものも参加していた。
- 高校野球や高校ラグビーと異なり、学校の改組(合併など)が行われると前身校時代からの出場回数がリセットされてしまう(第88回出場校では東京A代表東久留米総合、兵庫代表神戸科学技術、大分代表中津工・中津東)。
- 開会式の入場行進は、通常、国立競技場の千駄ヶ谷門からトラックに入りメインスタンド前を通って(その際、選手達は、メインスタンドの観客に向かって手を振ったり地元の名産品を掲げるなど、挨拶を兼ねたパフォーマンス行うことが多い)バックスタンド前で一旦整列した後、一斉にメインスタンド前まで行進して式典に移行するが、雨天の場合は千駄ヶ谷門からメインスタンド前を通って代々木門へ退場する(その後キャプテンがメインスタンドに集まり式典が行われる)。選手宣誓後は筒状の中にテープが入ったミサイルが発射されるが、これは雨天でも実施される。
- 2011年(2010年度)よりフジテレビジョン主催、全日本バレーボール高等学校選手権大会(通称「春の高校バレー」)が高校サッカーとほぼ重複する日程で開催する事になり、競合を避ける観点からコカ・コーラボトラーズは前身大会・全国高等学校バレーボール選抜優勝大会時代から続けた協賛杯の「コカ・コーラ杯」の贈呈を中止(協賛杯は通販・ジャパネットたかた提供に変更)したが、引き続きコカ・コーラ、アクエリアスを公式飲料として提供するなど大会協賛は継続している。
脚注
関連項目
外部リンク
- 公益財団法人 日本サッカー協会
- 公益財団法人 全国高等学校体育連盟 (高体連)
- 全国高校サッカー選手権大会 (日本テレビ)
- 高校サッカー80年の歴史 - 日本テレビ
- 高校サッカーデータベース歴代出場校一覧、大会成績のデータ集計
テンプレート:日本のサッカー テンプレート:日本の2種サッカー大会 テンプレート:全国高等学校サッカー選手権大会
テンプレート:全国高等学校サッカー選手権優勝校- ↑ 1912年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ
1914年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ - ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 『関西サッカーのあゆみ』、関西サッカーのあゆみ編集委員会編、関西サッカー協会発行、2006年、25、26、30、31、146、264-288頁
- ↑ 代表TIMELINE | SAMURAI BLUE サッカー日本代表| 日本サッカー協会
初の国際試合 ~第3回極東選手権大会 - サッカー オンラインマガジン
『高校サッカー60年史』全国高等学校体育連盟サッカー部、講談社、1983年、21頁 - ↑ 4.0 4.1 後藤健生著・『日本サッカー史・代表篇 日本代表の85年』22-23頁
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 『東蹴六十年史草稿』、東京蹴球団、1977年、2-6、10-23頁
- ↑ 東京・大阪両都市の新聞社による野球(スポーツ)イベントの展開過程
- ↑ わが国のプロ野球におけるマネジメントの特徴とその成立要因の研究
- ↑ 8.0 8.1 1918年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ
- ↑ 第三高等学校、同志社、京都三高(『日本サッカーのあゆみ』46頁)。
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 10.6 10.7 日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』、講談社、1974年、45、46頁
- ↑ 11.0 11.1 11.2 日本サッカーの歴史 第007回 全国高校サッカー選手権の始まり
- ↑ 1922年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ
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- ↑ ラ式は結局2試合しかなかった(『日本サッカーのあゆみ』46頁)。
- ↑ 東北初の高校チャンピオンを育てた剣道の達人 内山真(上)|賀川サッカーライブラリー
- ↑ 16.0 16.1 『高校サッカー60年史』178-179頁
- ↑ 『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』160頁では「当時は高専チームも含んでいた」と記述(『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』、兵庫県サッカー協会70年史編集委員会、兵庫県サッカー協会、1997年、160頁。)
- ↑ 『関西サッカーのあゆみ』30頁に「関西学院高等部は旧制高等学校」と記述。
- ↑ 第8回大会に中学の部と分かれた旧制専門学校の部に出場。他の出場チームは早稲田高等学院、松山高等学校、関西大学、関西学院。『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』43頁では関西大学、早稲田大学、慶應義塾大学などと試合を行ったという記述がされている。カテゴリーでは旧制高校か大学か? 対戦相手が少ない時代でどちらのチームとも対戦したのかも知れない(『高校サッカー60年史』、30、45頁、『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』、43頁)。
- ↑ 『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』185頁に、第1回大会に参加した8チームに関して「当時はこれらの学校しかサッカーが普及していなかったことを示している」と記述。
- ↑ 『高校サッカー60年史』178頁
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- ↑ 23.0 23.1 23.2 賀川サッカーライブラリー『大日本蹴球協会(JFA)設立、全日本選手権開催。大正年間に組織作りを成功させた漢学者・内野台嶺』
- ↑ 賀川サッカーライブラリー第1回日本フートボール大会「高校選手権の起源は大正7年に」
日本サッカーの歴史 第009回 各地区で高まるサッカー熱 - ↑ 25.0 25.1 25.2 25.3 25.4 高校サッカーと民放テレビ - サロン2002オフィシャルサイト
- ↑ 26.00 26.01 26.02 26.03 26.04 26.05 26.06 26.07 26.08 26.09 26.10 26.11 『高校サッカー40年史』、毎日新聞大阪本社、1962年、220-222頁
- ↑ 27.0 27.1 自らプレーヤーで指導者でもありサッカーに生涯を捧げた記者 山田午郎
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- ↑ 29.0 29.1 29.2 大日本體育協會編『大日本體育協會史』下巻、1937年(復刻版、1983年、1012-1148頁)。
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- ↑ この「全国中等学校蹴球大会」は、第1回(1918年)、第2回大会(1919年)は、新愛知新聞社の主催で「東海蹴球大会」の名前で行われ、第3回大会(1920年)は、名古屋蹴球団主催となり「関西中等学校ア式蹴球大会」という名前で行われた。第4回大会(1921年)からは「全国中等学校蹴球大会」と名称が変更される。第7回大会(1924年)では「全国ア式蹴球大会」となり、これ以降の開催は不明(『愛知県体育スポーツ史資料年表 <サッカー>』、8-60頁)。
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- ↑ 48.0 48.1 48.2 東京高等師範学校(東京文理科大学)主催全国中等学校蹴球大会はなぜ消滅したか
- ↑ 49.0 49.1 49.2 山田午郎『蹴球のコーチと練習の秘訣』、目黒書店、1932年、62-66頁
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- ↑ 51.0 51.1 51.2 51.3 1932年頃の各種中等蹴球大会: 蹴球本日誌
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もうひとつの高校サッカー選手権 ~全国高等学校ア式蹴球大会
『関西サッカーのあゆみ』、36頁 - ↑ 財団法人 日本高等学校野球連盟 出場校一覧
- ↑ 『東蹴六十年史草稿』1頁
- ↑ 全国中等学校蹴球大会の年齢制限: 蹴球本日誌
- ↑ 『愛蹴 滋賀大学サッカー部創設70周年記念誌』滋賀大学教育学部体育研究室、1975年、35頁
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1927年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ - ↑ 『日本サッカーのあゆみ』、139頁
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金枡晴海『広島スポーツ100年~広島県のスポーツ史』、中国新聞社、1979年、47、63、64頁
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『広島一中国泰寺高百年史』より(2): 蹴球本日誌
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1920年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ
1922年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ - ↑ 72.0 72.1 『高校サッカー60年史』、179頁、裏表紙年表
スポーツ報知、2011年1月9日3面、1月11日2面
日刊スポーツ、2011年1月9日2面
2)兵庫サッカー黄金時代 | 兵庫県サッカー史ウェブサイト
滝川二PK戦つかんだ初の決勝切符…全国高校選手権:その他:サッカー
『関西サッカーのあゆみ』: 蹴球本日誌
日本サッカー・ブックガイド - ↑ 73.0 73.1 日本サッカーの歴史 第008回 日本フートボール大会から全国高校サッカー選手権への変遷
- ↑ この「全国中等学校蹴球大会」は、第1回(1918年)、第2回大会(1919年)は、新愛知新聞社の主催で「東海蹴球大会」の名前で行われ、第3回大会(1920年)は、名古屋蹴球団主催となり「関西中等学校ア式蹴球大会」という名前で行われた。第4回大会(1921年)からは「全国中等学校蹴球大会」と名称が変更される。第7回大会(1924年)では「全国ア式蹴球大会」となり、これ以降の開催は不明(『愛知県体育スポーツ史資料年表 <サッカー>』、8-60頁)。
- ↑ 『運動年鑑 第6巻(大正10年)』、258-259頁
- ↑ 『週刊サッカーマガジン』2010年10月19日号、67頁
『週刊サッカーマガジン』2010年12月7日号、63頁 - ↑ 『サッカー60年のあゆみ 創立60周年記念』静岡県立藤枝東高等学校編 静岡県立藤枝東高等学校、1982年
- ↑ 『サッカー60年のあゆみ 創立60周年記念』、発刊にあたって、6、146頁
- ↑ 東京高等師範学校(東京文理科大学)主催全国中等学校蹴球大会はなぜ消滅したか
- ↑ 『サッカー60年のあゆみ 創立60周年記念』静岡県立藤枝東高等学校編、150頁
- ↑ 毎日新聞関係者と明星商業OBが中心であったという(『関西サッカーのあゆみ』、32頁)。
- ↑ 『東蹴六十年史草稿』、13頁
- ↑ 『高校サッカー60年史』、30、45頁
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- ↑ 『運動年鑑 第6巻(大正10年)』、257頁
『高校サッカー60年史』、181頁
『愛知県体育スポーツ史資料年表 <サッカー>』、8-60頁 - ↑ 『高校サッカー60年史』48頁に大会規定の記載あるが参加校の規定のようなものは書かれていない。
- ↑ 全国高等学校体育連盟
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民間放送43社 - ↑ asahi.com:高校野球「甲子園ランキング」
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- ↑ 全国高校サッカー選手権大会・歴代優勝校 ― スポニチ Sponichi Annex
- ↑ 高校サッカー - スポーツナビ | 全国高校サッカー選手権大会 | 過去の決勝戦戦績
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- ↑ 『スポーツ中継 知られざるテレビマンの矜恃』 (梅田明宏著、現代書館、2008年) pp.98 - 101
- ↑ 梅田 pp.102 - 104
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- ↑ 梅田 pp.104 - 106
- ↑ 108.0 108.1 【重要】1/14(月・祝)の高校サッカー決勝戦は1/19(土)に延期となりました - 大会オフィシャルサイト・2013年1月14日
- ↑ 高校サッカー決勝 雪で延期 76年度以降初めて 19日仕切り直し - 東京新聞・2013年1月15日
- ↑ 110.0 110.1 テンプレート:Cite pressrelease
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 112.0 112.1 112.2 112.3 112.4 FNN/FNSを主体にNNN・ANN系列とのクロスネットのテレビ宮崎はNNSに加盟していないため、現在の本大会としては、唯一JNN系列局による準特例として参加している。
- ↑ 113.0 113.1 113.2 FNN/FNS系列局の沖縄テレビは、NNN/NNS系列局が無い沖縄県において、最もNNN/NNS系列に協力的な局であり、特例で参加している。
- ↑ この頃の本大会としては、唯一、現在のANN系列のフルネット局による参加となっていた。
- ↑ 但し、新潟総合テレビ、テレビ熊本、鹿児島テレビ放送を除く。(いずれも現在は脱退。)
- ↑ グループの統一CI(社章・商標(企業ブランド))導入もこのためである。
- ↑ 同時に、旧明治製菓に残った医療用医薬品事業については、同社を商号変更した「Meiji Seika ファルマ株式会社」が継承した。
- ↑ 現在はすべてのNNS加盟局が参加(過去にNNSに加盟していた新潟総合テレビ、テレビ熊本、鹿児島テレビ放送はNNS加盟期間中も一度も参加しなかった(現在はNNS脱退。)。)。
- ↑ 県境付近では直接受信できるところもあったほか、ケーブルテレビ再配信を利用して受信した場合もある。
- ↑ 高校サッカーの映像をバックに、大会スポンサー(主催・後援・協賛団体の字幕。協賛社は一括表示後改めて1社ずつアナウンサーの読み上げで表示する)がテロップで表示されている。
- ↑ 広島テレビでは、中継映像に白テロップで番組名・主催・後援・協賛団体の字幕を表示している。
- ↑ これに加え、大雪の最中であった千葉テレビ放送・とちぎテレビではL字型画面で、放送時点での実際の積雪・ライフライン・交通情報などを流し対応した(地元代表の試合に差し替えたテレビ埼玉も同様の対応をした)。テレビ埼玉・KBS京都は順延の旨を、EPGに表示した。
- ↑ 日本テレビ及び同時ネット局は一部地域を除き、13:35 - 13:45に『決勝戦のみどころ』も別途放送。
- ↑ これらの局でも『決勝戦のみどころ』も別途放送する局が一部にある。
- ↑ 千葉テレビ放送はアナウンサーが不在だった2005年度から2008年度まで、元局アナで当時フリーの石井力が実況・リポートを担当。2013年度は局アナが2名とも報道番組専任のため、同じく元局アナで当時フリーの笠井さやかがリポートを担当した)。他にとちぎテレビ・奈良テレビ・テレビ埼玉も2008年度まで派遣しなかった。
- ↑ 広島テレビ・読売テレビ・福岡放送等プロ野球中継を制作している系列局では、県大会決勝でも日本テレビに準拠したデザインのテロップを使用している。
- ↑ 2000年までは12時開始であるため、第1試合に当たる場合でも深夜録画放送になる場合もあった。
- ↑ 日本テレビなど基幹局を中心とした数局はさらに14:18-15:00に「続報!!箱根駅伝」を放送。
- ↑ 第88回大会のデータ放送「今大会の応援リーダー」欄では過去の起用選手に平山の名があり、肩書は「FC東京(当時・ヘラクレス/オランダ)」となっていたが、平山がヘラクレスと契約したのは2005年8月なので、誤り。
- ↑ 選手とは異なりコート(主にダッフルコート)を着用して行進する。また雨天の場合はビニール傘を差して行進(例:大野いと)。それから全国高等学校野球選手権大会開会式の先導役とは異なり、一斉前進の先導は行わない(メインスタンド前の直走路を通って途中退場する)。