宮古市
目次
概要
「本州最東端のまち」を掲げ、三陸沖の豊かな資源と、三陸復興国立公園・浄土ヶ浜や早池峰国定公園を代表とする海・山・川の豊かな自然環境を背景に、漁業と観光に力を入れている。
相次ぐ市町村合併により広大な面積を持ち、それは琵琶湖の面積の約2倍、日本一狭い都道府県である香川県の面積の約70%ぐらいである。山間部の川井・新里地区と、北部の田老地区、旧・宮古市部に大きく分けられる。人口は岩手県沿岸部の市町村の中で最も多いが、県庁所在地である盛岡市からは北上山地を隔てて車で2時間という地勢的不利のため、人口も経済も減退傾向にある。また老齢人口比率も30%を超えている。
2011年3月11日に発生した東日本大震災により大きな被害を受けた。市内中心部の被害はある程度抑えられたものの、田老地区を始め沿岸の集落は壊滅的被害を受けた。
地理
宮古市は、三陸におけるリアス式海岸の北端にあり、県庁所在地の盛岡市より直線距離でおよそ90km東に位置する。2010年(平成22年)1月の市町村合併によって市の面積は696.82km²から1,259.89km²に拡大し、一関市を抜いて岩手県の市町村で最大の面積を有することとなった[1]。これは東北では鶴岡市に次いで2番目、全国でも11番目の大きさである。(2011年現在)しかしその8割は山林であるため、可住地面積は約117km²と、総面積の約9%に止まり、少ない平地に人家が密集している状態である。そのため総面積当たりの人口密度は小さいものの、可住地面積当たりの人口密度は約490(人/km²)と県内平均を上回る。
市域中央部を西から東に閉伊川が貫流し、市街地のある宮古湾へと注いでいる。西部の川井地区は平地はほとんど無く、川沿いに人家が密集する地区が多い。周囲には早池峰山と青松葉山がある。北部の新里地区には刈屋川が南へ流れ、茂市(もいち)で閉伊川に合流する。閉伊川と刈屋川に沿って、国道106号(旧・閉伊街道)と国道340号が並走する。市の南東部から北に向かって津軽石川が流れ、宮古湾に注いでいる。
市街地を覆うように重茂半島が南から延び、宮古湾を形成している。重茂半島には、月山(標高455.9m)があり、市街地への見通しが良い関係から、テレビ・ラジオの中継塔が設置されている。山道口まではバスで行くことができる。太平洋に突き出る重茂地区の魹ヶ崎は本州の最東端であり、観光協会が「本州最東端訪問証明書」を発行するなど「最東端の市」として観光にも力を入れている。南に隣接する山田町との境に位置する十二神山には、自衛隊の通信施設があるため、入山に制限が設けられている。
自然
- 山地:早池峰山、青松葉山(あおまつばやま)、十二神山(じゅうにじんざん)、月山(がっさん、別名:御殿山)
- 河川系:閉伊川、刈屋川、津軽石川(つがるいしがわ)
- 沿岸地形:宮古湾、重茂半島、魹ヶ崎、浄土ヶ浜、真崎海岸(まさきかいがん)
隣接する自治体
- cf. 岩手県の市町村全図 :≪外部リンク≫ テンプレート:Cite web
地名の由来
以下の諸説がある。
- 「港」の転訛
- 貿易物としての「都物」が収められる場所
- 「宮」のある「処」であること
- 閉伊郡の政治、経済の中心地で都のように栄える場所
- ミヤ(野原)コ(土地)
また、京の「都」と同訓異字の「宮古」を天皇から賜ったとする、和泉式部や源義経に関連する伝説が存在する。
いずれにしても中世文書においては「宮古」と地名を記している文献は見受けられない。鎌倉時代においては「閉河」や「閉崎」という特定の地名で呼ばれている。公的な文献で初めて宮古の文字が登場するのは、元和四(1618)年に、盛岡藩の船員の名前を記した『浜田家文書』(岩手大学所蔵)であり、船員の一人に「宮古衛門二郎」という人物の名が見られる。これ以前の中世の時代に、地名及び集落としての「宮古」が存在したかは不明である。
少なくとも宮古の地名が公的な領地名として広まったのは、領内統一した南部氏が新たに町を制定し、宮古村及び宮古代官所を置いた慶長年間以後の事である。
気候
ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候だが最暖月が22.2度と日本ではかなり涼しく、西岸海洋性気候に近いような気候である。 テンプレート:Weather box
歴史
盛岡藩の外港
現在の宮古市の発祥は、初代盛岡藩主、南部利直によって盛岡藩の外港として宮古の町が開かれたことに由来する。また現在の普代村から山田町豊間根までの行政を管轄する宮古代官所(北閉伊代官所)が置かれ、周辺地域の政治、経済の中心地であった。江戸時代に東北と江戸とを結ぶ海運が盛んになると、沿岸部で産出される俵物を集荷し江戸へ移出するための拠点となり、前川善兵衛や鍬ヶ崎の和泉屋などの三陸の水産物を取り扱う豪商や、廻船問屋の活動が活発となった。また東北諸藩が江戸へ米や材木などを輸送するための廻船の重要な寄港地として、料亭や遊郭が軒を連ねる奥州でも有数の商港として賑わった。
陸の孤島、海の幸と災害
宮古は海岸の西にすぐ山地が峙えているため、平野部が狭く、また、周囲を山と海に囲まれているために「陸の孤島」になりやすく、古来、内陸からの物資輸送がとどこおることの多い土地柄であった。飢饉ともなると、この地理的制約がゆえに被害は周辺地域と比べてもひときわ大きなものとなった(江戸四大飢饉、昭和東北大飢饉)。
僧・牧庵鞭牛に代表されるような、陸の孤島になりがちな当地の交通網の整備に尽力する人材が現れた江戸時代中期には、盛岡などとの往路の大規模整備を推し進められ、これらの功績は今もって賛えられている(cf. 閉伊街道など)。
宮古はまた、V字型の湾の両岸が奥に進むにつれて狭くなるリアス式海岸地形の特殊性によって津波の被害も大きく、古来より大規模な被害の出る津波に襲われている(「三陸沖地震」、「三陸海岸」の「津波」の項を参照のこと)。
また、戦後もカスリーン台風やアイオン台風、三陸フェーン大火などの自然災害に悩まされた。
歴代の支配者
市内の遺跡からは、8世紀のものと見られる蕨手刀や和同開珎が出土しており、それまでは須賀君古麻比留のような蝦夷の有力者が地域を治めていたと考えられている。9世紀初めの征夷大将軍坂上田村麻呂や、文屋綿麻呂による蝦夷征伐は閉伊地方にも及んだ。しかしながら、鎮守府の置かれた胆沢城の勢力下にあったのは奥六郡と呼ばれた北上盆地周辺の地域が主であり、北上山地を隔てた辺境の地である閉伊地方への影響力は少なかった。
そのため11世紀後半になると、蝦夷の完全制圧を目指した後三条天皇により源頼俊、清原貞衡が派遣され延久蝦夷合戦が開始される事となる。そして「閉伊七村山徒」は制圧されたと伝わる。これにより力を付けた出羽清原氏であったが内紛による後三年の役で滅亡。以後の統治は清原氏の養子で戦いに勝ち残った藤原清衡に任せられることとなる。
平泉に本拠地を移した清衡は中尊寺金色堂などを建立し、四代に渡る奥州藤原氏による統治が始まる。
江戸期の盛岡藩の文書『奥南落穂集』には、奥州藤原氏の配下に「閉伊右衛門太郎武国」という武将の一族が居たと記している。
源頼朝による平泉侵攻(奥州合戦)で藤原泰衡が倒されると、閉伊地方は鎌倉幕府の御家人である閉伊氏の領地となる。閉伊氏は地頭として鎌倉時代を通して地域を支配し、建武の新政後は鎮守府将軍北畠顕家から所領を安堵されている。
閉伊氏は南北朝時代には、北畠顕家に従い奥州武士団の一人として足利尊氏らの軍勢と戦ったが、石津の戦いに敗れ敗走した。その後は北朝側に転じ、奥州総大将石塔義房に従った。
室町時代から戦国時代になると南部氏の勢力が進出し、南部家の武将櫻庭光康らの攻撃を受けて閉伊氏系の一族は衰退していく。
豊臣秀吉から領地を安堵された南部信直は反乱分子であった九戸政実を倒して領内統治を進めていった。当地の有力豪族だった田鎖氏や一戸千徳氏らもこれに従い、文禄の役に従軍した。その後閉伊地方の領地の一部は櫻庭、野田、楢山氏などの南部家の武将やその家臣に与えられ支配された。
慶長年間には南部利直に任命された最初の宮古代官である小本正吉が派遣され、以後約260年の間、盛岡藩の統治下となる。
戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わった盛岡藩が敗れると、南部氏は仙台白石に転封(白石藩)となり、閉伊郡は松代藩の取締地となる。
半年後、盛岡に復帰した南部利恭は1870年(明治3年)、廃藩置県に先立ち廃藩を願い出て盛岡藩知事を辞任した。その後閉伊郡は江刺県の管轄となり、江刺県廃止後は盛岡県に編入される。盛岡県はその後岩手県と改称し、磐井県の一部を編入して現在の形となる。
三閉伊一揆
江戸時代末期には、東北地方最大の一揆である三閉伊一揆が勃発した。これは、盛岡藩の失政のツケを宮古を始めとする閉伊郡に対して重税を課して住民から搾取しようとしたことが直接の原因であり、話の流れ自体は平凡な一揆であったが、この場合、問題なのは規模であった。弘化4年(1847年)、圧制に耐えかねた一揆団は1万数千人という他に例を見ないほどの人数で、遠野城下に押しかけ、藩側に要求を呑ませた。ただし、藩側はのちにこの要求も破り、さらなる人数での一揆へと発展する。
宮古湾海戦
幕末から明治にかけての戊辰戦争においては、蝦夷地にて独立を図る榎本武揚・土方歳三らの旧幕府軍艦隊(蝦夷共和国軍艦隊。総司令官:荒井郁之助。旗艦「回天丸」[艦長:甲賀源吾])が、宮古湾の鍬ヶ崎湊(くわがさきみなと。現在の宮古港の前身)に停泊する新政府軍艦隊の主力艦である装甲艦「CSS Stonewall (ストーンウォール[日本名:甲鉄艦]。1871年12月に「東艦」と改称)」を奪取すべくアボルダージュ(接舷攻撃)作戦を決行する、いわゆる、宮古湾海戦が勃発した[2]。
宮古空襲
太平洋戦争末期の昭和20年8月9日、10日、宮古は米第3艦隊の空母エセックス及びランドルフの艦載機(F6F、TBF等)による空襲を受けた。ラサ工業宮古製錬所、同田老鉱山、岩手窯業宮古工場、三井造船の木造船造船所、鉄道関連施設、湾内停泊中の輸送船、湾岸の倉庫群などが標的となった。特に藤原地区は倉庫内の燃料に引火し燃え広がったため焼け野原となった。
年表
- 近世以前
- テンプレート:Anchor縄文時代前期初頭〜後期前半(約6000〜約3500年前。cf.):崎山貝塚の形成期(約2500年間)[3]。
- テンプレート:Anchor白鳳9年(680年):横山に八幡宮(横山八幡宮)が創建されたと伝えられる。
- 貞観11年5月26日(869年7月9日):東北地方を貞観地震が襲い、三陸は津波によっても被害甚大。
- 慶長16年10月28日(1611年12月2日):東北地方を慶長三陸地震が襲い、三陸は主に津波によって大きな被害が出た。
- 元和元年(1615年):南部藩主・南部利直が鍬ヶ崎湊(くわがさきみなと。現在の宮古港の前身)を盛岡の外港とする[4]。
- 元和2年(1616年):南部利直治世下で鍬ヶ崎湊が藩船2隻(宮古丸、虎丸)を常備する商港兼軍港となる[4]。
- 寛永20年(1643年):ブレスケンス号事件が起きる。オランダ船員を誘き出すため宮古鍬ヶ崎の遊女が派遣される。
- テンプレート:Anchor承応3年(1654年):古道・閉伊街道(別名:宮古街道。現在の国道106号の前身)の大改修なる。
- 延宝5年(1677年):延宝十勝沖地震津波により数十軒の家屋が流出。
- 元禄13年(1700年):カスケード地震津波により数十軒の家屋が流出。
- 宝暦5年(1755年):日本全国を大飢饉(宝暦の飢饉。1753- 1757年)が襲い、東北地方にも大きな被害が出る。
- 宝暦8年(1758年):先の大飢饉を契機として、僧・牧庵鞭牛が閉伊街道最大の難所である蟇目-平津戸間の改修・新道開発に着手し、これ以降、閉伊地方と周辺地域の間にある陸上輸送の難を取り除くべく生涯を賭けて尽力する。
- 明和9年(1772年):南部領に大地震。揺れによる落石、土砂崩れで宮古通の百姓数人も死亡。
- 天明3年(1783年):天明の大飢饉による米騒動が起きる。
- 享和元年(1801年):伊能忠敬一行が宮古に到着。豪商盛合家の屋敷及び鍬ヶ崎泉屋に宿泊。
- 文政6年(1823年):三戸郡五戸村(現・五戸町五戸)出身の豪商・藤田武兵衛らが閉伊街道を改修・新道開発する。
- 弘化4年(1847年):閉伊郡で三閉伊一揆(東北地方最大の一揆)が勃発。
- 近代以降
- 明治2年3月25日(1869年5月6日):宮古湾で宮古湾海戦が勃発。
- 1888年(明治21年):民営による宮古〜塩釜間の定期航路が開かれる[4]。
- 1896年(明治29年)6月15日:東北地方を明治三陸地震が襲い、三陸は津波によっても被害甚大。津波遡上高は重茂村(おもえむら。現在の宮古市重茂)で18.9mを記録した。下閉伊郡田老村(現在の宮古市田老地区)では死者・行方不明者1,859人を出し、浸水した平坦地での生存者はわずかに36人であった[5]。
- 1902年(明治35年)3月1日:魹ヶ埼灯台に初めて灯りが点る。
- テンプレート:Anchor1924年(大正13年):崎山貝塚で初めて発掘調査が行われる[3]。
- 1927年(昭和2年)10月:宮古港が第二種重要港湾に指定される[4]。
- 1928年(昭和3年)9月25日:国鉄山田線(JR山田線の前身)で区界駅が開業。
- 1930年(昭和5年)10月31日:国鉄山田線で松草駅が開業。
- 1931年(昭和6年)10月31日:国鉄山田線で平津戸駅が開業。
- 1933年(昭和8年)3月3日:東北地方を昭和三陸地震が襲い、三陸は津波によっても被害甚大。特に下閉伊郡田老村(現・宮古市田老地区)では、人口の42%にあたる911人[5] が死亡、家屋の98%が全壊し、壊滅状態となった。東日本大震災(2011年)の折、先人訓として活きた大津浪記念碑はこの後に建立された。
- 1933年(昭和8年)11月30日:国鉄山田線で川内駅・箱石駅・陸中川井駅が開業。
- 1934年(昭和9年)11月6日:国鉄山田線で腹帯駅・茂市駅・蟇目駅・千徳駅・宮古駅が開業。
- 1935年(昭和10年)11月17日:国鉄山田線で磯鶏駅と津軽石駅が開業。
- 1939年(昭和14年)6月:ラサ工業宮古工場が操業開始(これに先立ち、ラサの煙突も竣工)。
- 1939年(昭和14年)9月7日:潮吹穴が国の天然記念物に指定される。
- テンプレート:Anchor1940年(昭和15年)8月2日:ローソク岩が積丹半島沖地震に伴う津波に呑まれ、半分に割れる(現在の状態になった)。
- 1942年 (昭和17年)6月20日:市章を制定する。[6]
- 1942年(昭和17年)6月25日:国鉄小本線(JR岩泉線の前身)で岩手刈屋駅・岩手刈屋駅・岩手和井内駅が開業。
- 1944年(昭和19年)7月20日:国鉄小本線の貨物駅として押角駅が開業。
- 1947年(昭和22年)9月16日:カスリーン台風が東北地方を襲い、三陸は大きな被害を出す。国鉄山田線は茂市-蟇目間と平津戸-松草間が不通となる。
- 1948年(昭和23年)9月17日頃:アイオン台風が東北地方を襲い、前年の台風被害からの復旧途上にあった三陸は重ねて被害を受ける。国鉄山田線は松草-蟇目間も不通となり、復旧工事がなされなかったその後の6年間は江戸中期以前と変わらない「陸の孤島」と化した。
- 1950年(昭和25年)6月:太平洋戦争の終戦間際に焼失していた魹ヶ埼灯台が再建される。
- 1951年(昭和26年)1月19日:宮古港が重要港湾に指定される[4]。
- 1953年(昭和28年)5月18日:旧・閉伊街道が県道から二級国道106号宮古盛岡線に昇格。
- 1954年(昭和29年)4月5日:浄土ヶ浜が岩手県指定名勝(第1号)となる[7]。
- 1955年(昭和30年)5月2日:浄土ヶ浜を中心として、北は下閉伊郡普代村から南は釜石市に到る三陸海岸地域が国立公園に指定される(陸中海岸国立公園・現三陸復興国立公園)[8]。
- テンプレート:Anchor1958年(昭和33年):旧・田老町で、巨大防潮堤(堤高10m超。のち「田老万里の長城」と雅称される)の1期工事が竣工。
- 1960年(昭和35年)5月24日未明:チリ地震に伴って発生した津波の襲来を受けるも、田老の防潮堤が被害を最小限に食い止め、人的被害は皆無。これにより、防災の分野で国際的知名度を高める。
- 1961年(昭和36年)12月20日:国鉄山田線で花原市駅が開業。
- 1964年(昭和39年):早池峰山が日本百名山の一つに選定されている。
- 1965年(昭和40年)4月1日:二級国道106号が国道106号に昇格。国道45号が市域で開通(同時に全線開通)。
- 1966年(昭和41年)4月1日:旧・宮古市が青森県の黒石市と姉妹都市提携。
- 1966年(昭和41年)10月1日:国鉄小本線で中里駅開業。
- 1972年(昭和47年)2月27日:国鉄宮古線(のち、三陸鉄道北リアス線に移管)の駅として一の渡駅・佐羽根駅・田老駅が開業。
- 1982年(昭和57年):旧・田老町で、この頃までに海抜10m・総延長2,433mの巨大防潮堤(田老の防潮堤、別称:田老万里の長城)が完成する。
- 1984年(昭和59年)4月1日:三陸鉄道北リアス線の開業に伴い、摂待駅が開業。
- 1986年(昭和61年)10月1日:旧・田老町が岩手県の旧・松尾村(現・八幡平市松尾)と姉妹都市提携。
- 1987年(昭和62年)1月10日:浄土ヶ浜に見る白砂青松の景観が日本の白砂青松100選の一つに選定される。
- 1987年(昭和62年)3月:国道106号で道の駅区界高原が登録開業。
- 1992年(平成4年)7月4日- 9月15日:地方博覧会「JAPAN EXPO」の第2回として「三陸・海の博覧会」を釜石市および山田町と共同開催する[9]。
- 1992年(平成4年)8月7日:旧・新里村(現・宮古市新里)がフィリピン共和国ベンゲット州のラ・トリニダッド市 (en) と友好交流都市提携。
- 1993年(平成5年)10月26日:旧・宮古市が中華人民共和国山東省の烟台市と友好協力都市提携。
- 1995年(平成7年)4月:国道45号で道の駅たろうが登録開業。
- 1996年(平成8年)2月6日:旧・宮古市が沖縄県宮古郡の多良間村と姉妹市村提携。
- 1996年(平成8年):浄土ヶ浜が「日本の渚百選」の一つに選定される。
- 1999年(平成11年)9月:東京都品川区上大崎で1996年から毎年9月に開催されている「目黒のさんま祭り」に、第4回に当たるこの年以降、宮古市が、水揚げされたサンマ数千匹の無償提供を始める[10](cf.)。
- テンプレート:Anchor2000年(平成12年):重茂地区にあるケヤキの大木である「重茂の大ケヤキ」が、林野庁による「森の巨人たち百選」の一つに「『森林浴の森』の木」名義で選定される。
- 2001年(平成13年)3月23日:浄土ヶ浜海水浴場が「日本の水浴場88選」(環境省)の一つに選定される。
- 2001年(平成13年)10月30日:浄土ヶ浜海水浴場が「かおり風景100選」(環境省)の一つに「浄土ヶ浜の潮のかおり」名義で選定される。
- 2002年(平成14年)10月14日(鉄道の日):宮古駅が「潮風を感じる賑わう港町の駅」名義で「東北の駅百選」の一つに選定される。
- テンプレート:Anchor2003年(平成15年)2月20日:川井地区(旧・川井村)で収集された伝統的な生産用具のコレクションが、「生産・生業」の分野にて「北上山地川井村の山村生産用具コレクション」名義で国の重要有形民俗文化財に指定される[11]。
- 2003年(平成15年)3月3日:旧・田老町(現・田老地区)が「津波防災の町」を宣言する[12]。
- テンプレート:Anchor2003年(平成15年)11月1日:出崎埠頭で複合施設「シートピアなあど」(広域総合交流促進施設およびタラソテラピー[海洋療法]施設)が開業する[13]。
- 2004年(平成16年)8月9日:国道106号で道の駅やまびこ館が登録開業。
- 2004年(平成16年)12月:合併して市制を施行するにあたって新たな市の名称を「宮古市」に決定した沖縄県宮古列島の5市町村に対し、岩手県宮古市が抗議する。その後の2005年(平成17年)3月、沖縄県の5市町村は新市に付ける名称を「宮古島市」に改めた。cf. 宮古列島の「宮古市」命名問題。
- テンプレート:Anchor2005年(平成17年)7月18日(海の日):「シートピアなあど」を中心とする地域が「みなとオアシス」の登録地となり、「みなとオアシスみやこ」として開業[9][14]。
- 2005年(平成17年)8月10日:国道45号で道の駅みやこが登録開業[9]。
- 2006年(平成18年)3月15日:黒森神楽が国の重要無形民俗文化財に指定される。
- 2006年(平成18年):浄土ヶ浜海水浴場が快水浴場百選(海の部特選)の一つに選定される。
- 2008年(平成20年)10月1日:オランダ船籍の大型クルーズ客船「アムステルダム」が宮古港に寄港(当時で岩手県寄港史上最大)[15]。
- 2010年(平成22年)3月21日:宮古道路が開通し、宮古南インターチェンジと宮古中央インターチェンジが供用を開始する。
- テンプレート:Anchor2011年(平成23年)3月11日午後2時46分:東北地方太平洋沖地震が発生し、宮古市全域が震度5(茂市地区で震度5強、川井地区・田老地区・五月町地区・長沢地区・鍬ヶ崎地区・門馬田代地区で震度5弱を観測)で被災[16][17]。さらに、この地震に伴って発生した大津波にも襲われ、沿岸部は壊滅的被害を負った[18](東日本大震災)。
- 津波の高さは地震発生から約40分後の午後3時26分頃に襲来した第2波が最大で、8.5m以上(気象庁発表)[16]。遡上高(陸を駆け上って到達した高さ)は、重茂半島にある姉吉地区が全被災地中で最も高い38.9mに達していたことが東京海洋大学教授・岡安章夫(沿岸域工学)の調査で判明し、4月15日に公表された[19][20]。海岸線より400- 450m離れた重茂半島の姉吉漁港近くの山の斜面に津波で倒された木が発見されており、斜面を駆け上がった津波の遡上高において明治三陸地震(1896年)で記録された気仙郡綾里村(現・大船渡市綾里地区。cf. 三陸町)の遡上高38.2mを日本の観測史上初めて上回った[19][20]。また、姉吉地区を流れる川の上流で津波によって海岸から流されたと見られる材木等が発見されていることから、実際の津波の到達点はさらに高い所であった可能性もある[20]。なお、田老地区の小堀内漁港近くでも遡上高37.9mが確認されており[19][20]、日本最大規模を誇った防潮堤(田老万里の長城)も破壊された[5] (a/b)。田老地区の死者・行方不明者数は5月15日の発表で200人弱[5]。
- テンプレート:Anchor重茂半島にある姉吉地区では、漁港(姉吉漁港)から約800m内陸で海抜約60mの高所にある大津浪記念碑が津波から12世帯約40人の住民の命を守った。これは、「此処(ここ)より下に家を建てるな」と刻まれた先人訓に従って住民全員がそこよりも高い場所に居を構えていたからである。[21][22]
- 3月11日午後2時46分:宮古市災害対策本部、設置[16]。
- 3月11日午後2時49分:市民5,277世帯・12,842人を対象に、市が避難指示を発令(避難者数:最大時8,889人)[16]。
- 3月16日:この時点で、死者157人、行方不明者1,658人、避難者8,836人[23]。
- 3月23日:この時点で、死者394人、行方不明者1,301人、避難者4,063人、住家約4,500棟全半壊[24]。
- 5月17日:この時点で、死者412人、行方不明者355人、避難者1,946人、住家全壊3,669棟(内、田老地区は1,609棟と特に被害甚大)・半壊1,006棟、公共施設全壊41箇所・半壊11箇所[25]。
- 平成25年2月28日時点の県の調査では死者420人、行方不明者94人、負傷者33人、家屋倒壊4005棟となっている[26]。
行政区域の変遷(市町村制施行以後)
- cf. 宮古地方の大字小字名 :テンプレート:Cite web
- 1889年(明治22年)4月1日:東閉伊郡で町村制が施行される。[注 1][注 2]
- 宮古村と浦鍬ケ崎村(うらくわがさきむら)がそれぞれ単独で町制を施行し、宮古町と鍬ケ崎町(くわがさきちょう)が成立。
- 旧制度の山口村・近内村(ちかないむら)・田代村が合併した上で村制を施行し、新生の山口村が成立。
- 旧制度の千徳村(せんとくむら)・根市村(ねいちむら)・花原市村(けばらいちむら)が合併し、新生の千徳村が成立。
- 旧制度の磯鶏村(そけいむら)・高浜村・金浜村(かねはまむら)・小山田村(こやまだむら)・八木沢村が合併し、新生の磯鶏村が成立。
- 旧制度の崎山村と崎鍬ケ崎村(さきくわがさきむら)が合併し、新生の崎山村が成立。
- 旧制度の津軽石村と赤前村(あかまえむら)が合併し、新生の津軽石村が成立。
- 旧制度の重茂村(おもえむら)と音部村(おとべむら)が合併し、新生の重茂村が成立。
- 旧制度の花輪村・老木村(ろうきむら)・田鎖村(たくさりむら)・松山村・長沢村が合併し、新生の花輪村が成立。
- 旧制度の田老村(たろうむら)・乙部村(おとべむら)・末前村(すえまえむら)・摂待村(せったいむら)が合併し、新生の田老村が成立。
- 旧制度の茂市村(もいちむら)・蟇目村(ひきめむら)・腹帯村(はらたいむら)が合併し、新生の茂市村が成立。
- 旧制度の刈屋村と和井内村(わいないむら)が合併し、新生の刈屋村が成立。
- 1889年(明治22年)4月1日:中閉伊郡で町村制が施行される。
- 1889年(明治22年)3月29日:東閉伊郡・北閉伊郡・中閉伊郡が合併し、下閉伊郡となる。
- 1824年(明治43年)4月1日:宮古町と鍬ケ崎町が合併し、新生の宮古町が成立。
- 1941年(昭和16年)2月11日:宮古町・山口村・千徳村・磯鶏村が合併した上で市制を施行し、宮古市が誕生する。
- 1955年(昭和30年)4月1日:崎山村・津軽石村・重茂村・花輪村を編入する。
- 1955年(昭和30年)7月1日:川井村、小国村、門馬村が合併し、新生の川井村が成立。
- 2005年(平成17年)6月6日:宮古市、田老町、新里村が合併した上で市制を施行し、新生の宮古市が成立。
- 2010年(平成22年)1月1日:川井村を編入する。
行政
- 現市制下の歴代市長
姉妹都市・友好都市
- 日本国内
- テンプレート:Flagicon 黒石市(青森県) :旧・宮古市が、1966年(昭和41年)4月1日に姉妹都市提携。
- テンプレート:Flagicon 八幡平市(岩手県) :旧・田老町が旧・松尾村と1986年(昭和61年)10月1日に姉妹都市提携。
- テンプレート:Flagicon 多良間村(沖縄県 宮古郡) :旧・宮古市が1996年(平成8年)2月6日に姉妹市村提携。
- 日本国外
- テンプレート:Flagicon 烟台市(中華人民共和国山東省) :旧・宮古市が1993年(平成5年)10月26日に友好協力都市提携。
- テンプレート:Flagicon ラ・トリニダッド市(en。フィリピン共和国ベンゲット州) :旧・新里村が1992年(平成4年)8月7日に友好交流都市提携。
人口
経済
産業
古来、水産業で栄え、特産品としては、サケ、イクラ、ウニ、アワビ、毛ガニ、ワカメなどが挙げられる。
平成22年の水揚高は48,897tと、全国主要港中15位である。特にサケやサンマ、スケトウダラは全国屈指の水揚げを誇る。
工業では、ヒロセ電機や関連企業などによる電子部品の製造、ラサ工業宮古工場によるガリウムの生成、製造と同NCRI事業部による石油精製触媒の再生事業、コープケミカル宮古工場による化学肥料製造やホクヨープライウッド(株)による合板加工などが主産業である。
宮古税関管内の平成22年の輸出入貿易額は13億66百万円で、そのほとんどがこれら工業に関わる木材とリン鉱石の輸入が占める。
輸出では対ロシア向けの水産加工物の輸出と、対中国向けの県産りんごの輸出が若干あるのみである。
平成22年の製造品出荷額は7,788(千万円)で、岩手県内で8位である。
平成20年の一人当たり市町村民所得は226万円(県調査統計課)で、県内では平均レベルであるが、全国的に見ればかなり低い水準である。
震災による影響
宮古市の東日本大震災による被害総額は2457億円と推計されており、このうち住宅被害が1496億円と全体の約61%を占めている。
また市内では1078の事業所が被災し、業種別ではサービス業が547事業所(51%)、商業が334事業所(31%)、製造業125事業所(12%)などとなっている。
市内金融機関
市内に支店、営業所等を置く主な企業
テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-break
商業
市内の主な宿泊施設
テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-break 公共の宿
ホテル
- 浄土ヶ浜パークホテル
- ホテル近江屋
- 宮古ホテル沢田屋
テンプレート:Col-break ビジネス
- 宮古セントラルホテル熊安
- 宮古ステーション古窯
- ホテルビックウェーブ
- 幸プラザホテル
旅館
- 旅館末広館(ユースホステル)
- 山田屋旅館(別館)
テンプレート:Col-break ペンション
- 日昇館
民宿
- 治郎兵衛屋
ラブホテル
- ホテルSUZUKAKE
- 東本陣
- ねむの木
市内の主なチェーン店等
テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-break
市内の主な外食産業
テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-break
娯楽施設など
- 宮古シネマリーン(映画館)
- 宮古カントリークラブ(ゴルフ場)
- テレトラック宮古(場外勝馬投票券発売所)
漁港
漁港:田老漁港と重茂漁港は第2種漁港、他は全て第1種漁港である。[注 3]
- 田老地区の漁港
- 宮古地区の漁港
- 重茂地区の漁港
- 浦の沢漁港(うらのさわ ぎょこう)
- 仲組漁港(なかくみ ぎょこう)
- 音部漁港(おとべ ぎょこう)
- 重茂漁港(おもえ ぎょこう)
- テンプレート:Anchor(あねよし ぎょこう)[注 6]
- 千鶏漁港(ちけい ぎょこう)
- 石浜漁港(いしはま ぎょこう)
- 川代漁港(かわしろ ぎょこう)
公的機関
官公庁等
復興庁
- 復興庁 岩手復興局 宮古支所
警察
消防
海上保安庁
- 第二管区海上保安本部釜石海上保安部 宮古海上保安署
防衛省
- 自衛隊岩手地方協力本部 宮古地域事務所
法務省
地方検察庁
厚生労働省
財務省
- 函館税関 宮古税関支所
国税庁
- 仙台国税局 宮古税務署
国土交通省
農林水産省
林野庁
- 東北森林管理局 三陸北部森林管理署
環境省
特殊法人
- 日本年金機構 宮古年金事務所
独立行政法人
岩手県
- 沿岸広域振興局(宮古)
主な市の施設
- 田老総合事務所
- 新里総合事務所
- 川井総合事務所
- 宮古市民総合体育館
- 宮古市立図書館
- 宮古市民文化会館(休止中)
- 宮古運動公園(休止中)
- 姉ヶ崎サン・スポーツランド
- 湯ったり館
メディア
テレビ等
- NHK盛岡放送局 宮古報道室
- テレビ岩手 宮古支局
- 岩手めんこいテレビ 宮古支局
- 臨時災害放送局 みやこさいがいエフエム
郵便
- 宮古郵便局(集配局)
- 川井郵便局(集配局)
- 門馬郵便局(集配局)
学校
短期大学
高等学校
- 岩手県立宮古商業高等学校
- 岩手県立宮古水産高等学校
- 鹿島学園高等学校宮古キャンパス
※岩手県立杜陵高等学校の宮古分室が宮古高校内に設置されている。
中学校
- 宮古市立第一中学校
- 宮古市立第二中学校
- 宮古市立河南中学校
- 宮古市立宮古西中学校
- 宮古市立花輪中学校
- 宮古市立津軽石中学校
- 宮古市立重茂中学校
- 宮古市立崎山中学校
- 宮古市立田老第一中学校
- 宮古市立新里中学校
- 宮古市立川井中学校
小学校
- 宮古市立宮古小学校
- 宮古市立山口小学校
- 宮古市立千徳小学校
- 宮古市立磯鶏小学校
- 宮古市立鍬ヶ崎小学校
- 宮古市立花輪小学校
- 宮古市立重茂小学校
- 宮古市立千鶏小学校
- 宮古市立藤原小学校
- 宮古市立崎山小学校
- 宮古市立高浜小学校
- 宮古市立鵜磯小学校
- 宮古市立津軽石小学校
- 宮古市立赤前小学校
- 宮古市立亀岳小学校
- 宮古市立田老第一小学校
- 宮古市立田老第三小学校
- 宮古市立和井内小学校
- 宮古市立刈屋小学校
- 宮古市立茂市小学校
- 宮古市立蟇目小学校
- 宮古市立川井小学校
- 宮古市立川井西小学校
- 宮古市立小国小学校
- 宮古市立江繋小学校
- 宮古市立門馬小学校
特別支援学校
学校教育以外の施設
交通
鉄道
東日本旅客鉄道(JR東日本)
- テンプレート:Color山田線 : 区界駅 - 松草駅 - 平津戸駅 - 川内駅 - 箱石駅 - 陸中川井駅 - 腹帯駅 - 茂市駅 - 蟇目駅 - 花原市駅 - 千徳駅 - 宮古駅 - 磯鶏駅 - 津軽石駅
- テンプレート:Color岩泉線(2014年4月1日をもって正式に廃止) : 茂市駅 - 岩手刈屋駅 - 中里駅 - 岩手和井内駅 - 押角駅
三陸鉄道
都市間バス
路線バス
道路
高速道路
地域高規格道路
一般国道
道の駅
都道府県道
主要地方道
一般県道
- 岩手県道115号茂市停車場線
- 岩手県道138号宮古停車場線
- 岩手県道142号川内停車場線
- 岩手県道143号陸中川井停車場線
- 岩手県道163号津軽石停車場線
- 岩手県道170号松草停車場線
- 岩手県道171号大川松草線
- 岩手県道177号有芸田老線
- 岩手県道200号花輪千徳線
- 岩手県道201号千徳停車場線
- 岩手県道248号浄土ヶ浜線
- 岩手県道259号崎山宮古線
- 岩手県道277号宮古港線
- 岩手県道290号宮古山田線
港湾
名所・旧跡・観光施設、等
景勝
- 三陸復興国立公園の中心的な名勝(1955年指定)。岩手県指定名勝(第1号)(1954年指定)であり、日本の白砂青松100選(1987年)、および、かおり風景100選(環境省、2001年)の選定地[27] でもある[7]。浄土ヶ浜海水浴場については後述する。
旧跡
観光施設・多目的施設
- 土産物
- 宮古魚菜市場
- 海水浴場
- 展示館など
- 岩手県立水産科学館
- 宮古市北上山地民俗資料館: cf.
- 薬師塗漆工芸館
- 西塔幸子記念館
- 寄生木展示室(山口公民館)
- みなとオアシスみやこ: cf.
- シートピアなあど: cf.
- 浄土ヶ浜ビジターセンター
- 浄土ヶ浜マリンハウス
- 浄土ヶ浜レストハウス
他の名所・施設
- がっかり島:珍地名で知られる無人島。
- テンプレート:Anchor
- ラサ工業宮古工場構内にある、日本で2番目に高い煙突(高さ160m)。小山田地区にある標高90mの山上に建ち、煙突本体と併せて250mの高さを誇る。1939年(昭和14年)6月の操業開始以来、長らく宮古のランドマークである。
- 田老地区の沖合いに建設された防潮堤。cf. 田老の防潮堤は時代を追って巨大かつ堅牢なものとなり、高さ10m[注 8]・長さ2.4kmにも及ぶに至り、中国の万里の長城になぞらえて「田老万里の長城」「田老の万里の長城」などと雅称されるようになった。海側と陸側の2重構造になっている、日本最大規模の防潮堤であったが、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災では、地震直後に20m級の津波が押し寄せたため、海側に面した堤防の半分が崩壊した。
- ラサ工業田老鉱山跡
- 現在は明星大学の所有地である。
祭り
伝統芸能
宮古を舞台とした作品
- 大いなる旅路
- 喜びも悲しみも幾歳月:ロケ地。1957年(昭和32年)製。
- トラック野郎 一番星北へ帰る:1978年(昭和53年)、東映。宮古港、浄土ヶ浜、国道106号。
- あの夏、タイムマシーンにのって:宮古市民参加自主制作映画。2005年(平成17年)製。
- こちら葛飾区亀有公園前派出所:第8巻収録。アドリブ旅行シリーズ。1978年(昭和53年)。
出身著名人
- 江戸時代
- 南部重信 - 第3代盛岡藩主
- 牧庵鞭牛 - 僧侶、土木技術者
- 久保田礼斎 - 儒学者(亀田鵬斎門下)、盛岡藩医
- 高橋文中 - 儒学者(井上蘭台門下)、盛岡藩医
- 山崎鯨山 - 儒学者(佐藤一斎門下)、歌人(梁川星巌門下)
- 明治
- 小笠原善平 - 軍人
- 菊池長右衛門 (立憲政友会) - 政治家
- 菊池長右衛門 (日本自由党) - 政治家
- 鳥取春陽 - 演歌歌手、作曲家
- 大正
- 昭和
- 菊池長右ェ門 - 政治家
- 玉澤徳一郎 - 政治家 元防衛庁長官、元農林水産大臣
- 本田竹広 - ジャズピアニスト
- 藤原敏男 - キックボクサー
- 茂市久美子 - 児童文学作家
- 柏葉幸子 - 児童文学作家
- 中村貴之 - ミュージシャン(NSP)
- 日蔭暢年 - 柔道家
- 久保田茂 - アナウンサー(NHK)
- 菊池清麿 - 伝記作家
- 伊藤奏子 - ヴァイオリニスト
- 高橋裕二 - アナウンサー(岩手めんこいテレビ)
- 天野こころ - AV女優
- 金澤未咲 - 演歌歌手
- 愛彩(浅田りょう) - グラビアアイドル
- お船chan - 元女子プロレスラー
- 卯月妙子 - 漫画家
- 甲斐谷望 - アナウンサー(IBC岩手放送)
- 坂下敬 - 実業家、プロレスラー
- 佐香厚子 - 漫画家
- 工藤章 - モントリオールオリンピック銅メダリスト
- 藤倉健吉 - モントリオールオリンピック日本代表
- 星野夏澄 - モデルナレーター
- LIKKLE MAI - 歌手
- 韓永大 - 美術史研究家
- 宮錦浩 - 大相撲力士
- 中洞正 - 農業経営者
- 三浦徳松 - 物理学者
- 平成
- みやさと奏 - 演歌歌手
- 生年非公表
その他の関連事象
- 三陸沿岸では古来、源義経の末路について、「平泉にて自刃したのは臣下の将であって、義経自身は逃げ延び、沿岸を北上していった」と語り継がれてきた[31](cf. 源義経#不死伝説)。岩手県から青森県の沿岸にはこの言い伝えを残す寺社が多く存在し、史実はどうあれ、郷土史研究家の好奇心をくすぐる格好の材料となっている。
- 宮古市は、東京都品川区上大崎で1996年(平成8年)以来毎年9月開催される「目黒のさんま祭り」に、第4回に当たる1999年(平成11年)以降、水揚げされたサンマ数千匹を無償提供している[10](2007年は5千匹[32]、2008年は6千匹[33]、2009年・2010年は7千匹[34][35])。
- 宮古列島のテンプレート:Anchor
- 2004年(平成16年)12月、沖縄県宮古列島の5市町村が合併する際に合併協議会では新たな市の名称を「宮古市」に決めたが、これを受けて岩手県の宮古市は同じ市名が存在すると混乱する点と事前に岩手県の宮古市への照会が無かったことから猛反発し、宮古列島の協議会に抗議した。その後、宮古列島では住民アンケートの結果、「宮古島市」を希望する意見が多かったため、協議会は「宮古島市」を採用した。cf. 宮古島市#合併の経緯。
- 市外局番:市内全域で0193。
脚注
出典
関連項目
テンプレート:Sister テンプレート:Multimedia
外部リンク
テンプレート:Navbox- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 3.0 3.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 テンプレート:Cite web
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 テンプレート:Cite news
- ↑ 図典 日本の市町村章 p32
- ↑ 7.0 7.1 7.2 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 9.0 9.1 9.2 テンプレート:Cite web
- ↑ 10.0 10.1 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 16.0 16.1 16.2 16.3 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 19.0 19.1 19.2 テンプレート:Cite news
- ↑ 20.0 20.1 20.2 20.3 テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news:被災状況全図。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 岩手県発行 岩手県東日本大震災津波の記録 p43
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
引用エラー: 「注」という名前のグループの <ref>
タグがありますが、対応する <references group="注"/>
タグが見つからない、または閉じる </ref>
タグがありません