万里の長城

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万里の長城(明代)
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清代後期の長城の古写真(1907)

万里の長城(ばんりのちょうじょう、テンプレート:Lang-zh ワンリーチャンチョン Wàn lǐ Chángchéng)は、中華人民共和国にある城壁遺跡である。ユネスコ世界遺産文化遺産)に登録されており、新・世界七不思議にも選ばれている。

2009年4月18日中華人民共和国国家文物局の発表により東端の遼寧省虎山から西端の甘粛省嘉峪関まで総延長は8,851.8kmとされていたが、2012年6月5日に総延長は従来の2倍以上の21,196.18kmと発表された。現存する人工壁の延長は6,259.6km。

英語をはじめとする漢字文化圏以外の言語では、「(中国の)大きな壁」を意味する訳が充てられている。

歴史

始皇帝の構築した長城が認識されているが、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。

戦国時代には外敵に備えるために戦国七雄のすべての国が長城を建設していた。北方の敵に備えるためのものだけではなく、斉や韓、魏や楚のように北方遊牧民族と接していない国も、特に警戒すべき国境に長城を作っていた。そのなかで、北の異民族に備えるために北の国境に長城の建設を行っていたのは、秦の3ヶ国であった。始皇帝は中華を統一後に中国の中にある長城を取り壊すと、北に作られた3ヶ国の長城を繋げて大長城としたのである。この時の長城は版築により粘土質の土を固めて築いた建造物であり、や人が乗り越えられなければ良いということで、場所にもよるが多くの区間はそれほど高くない城壁(幅3~5m、高さ約2m)だったという。また現在の物よりかなり北に設置されて、その東端は朝鮮半島に及んだ。

長城は前漢にも引き継がれ、武帝の時代にさらに延長される。匈奴を追って領土を拡張したことで、長城は新しく得た河西回廊を守る形で西に延長され、玉門関まで拡張された。後漢の半ばごろには放棄され、三国時代には長城防衛は行われていなかった。その後の五胡十六国時代に異民族の力が強くなり、華北を統一した鮮卑族の北魏はさらに北からの遊牧民族の来襲を警戒すると、漢代長城より南寄りの現在の線に新しく長城を築いた。これは東西分裂後の北斉にも引き継がれ、北斉を倒したもこの長城を維持した。王朝は長城防衛そのものを放棄すると、その後の五代十国王朝もこの方針を引き継いだため、長城はしばらく中国史から姿を消す[1]

長城が復活を遂げたのは、女真の建国したの時代であった。金はさらに北方からの襲撃を恐れ、大興安嶺の線に沿って界壕と呼ばれる長大な空堀を掘った。界壕の内側には掘った土を盛り上げて城を築き、ここで実質的に長城防衛が復活した。ところが、界壕はモンゴル人の建国したモンゴル帝国によって難なく突破され、長城を越えて侵入したモンゴルによって金は滅亡した。モンゴル人のは長城を築かず、南方から興った中国人王朝であるが元王朝を北方の草原へ駆逐しても、首都を南の南京に置いた朱元璋は長城を復活しなかった。長城防衛を復活させたのは明の第3代皇帝である永楽帝である。首都を遊牧民族の拠点に近い北京へと移した永楽帝は、元の再来に備えて長城を強化する必要に迫られ、北方国境全域において長城を建設することで、長城はようやく現在の形になった。

よく「農耕民族遊牧民族の境界線」と言われるが、実際は草原の中に建っている。これは元の時代に北方の草原と南方の農耕を一体とした社会経済が成立し、明も自国内でそれを実現すべく、北方への勢力拡大を行なっていたからである。そのため北方民族も南方の農耕民族の物産を必要としており、長城沿いに交易所がいくつも設けられた。交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もあった。その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していた。

明末に満洲族(女真)が勃興して後金を建国すると、明との間で長城の東端を巡り死闘が繰り返された。後金は明に対して有利に戦いを進めるも、名将袁崇煥に阻まれ長城の東端の山海関を抜くことができなかった。袁崇煥は後金の謀略にかかった明の崇禎帝に誅殺された。その後に明は李自成に滅ぼされ、後金から改名していたは、明の遺臣の呉三桂の手引きにより山海関を越え、清の中国支配が始まった。

現在、万里の長城は中華人民共和国政府によって重要な歴史的文化財として保護されており、世界遺産にも登録されている。世界有数の観光名所としても名高いが、地元住民が家の材料にしたり、観光客へ販売するなどの目的で長城の煉瓦を持ち去り、破壊が進んでいる。また、長城がダム工事により一部沈んだり、道路建設により分断もされている。長城周辺の甘粛省陝西省は、中華人民共和国でもっとも貧しい地域の1つで、当局は対策に頭を悩ませている。

2006年4月に行われた中華人民共和国の学術団体「中国長城学会」の調査によると、万里の長城が有効保存されている地域は全体の2割以下で、一部現存している地域も3割であり、残り5割以上は姿を消しているとの報告があった。

2009年4月18日中華人民共和国国家文物局は万里の長城の総延長を従来の6,352km(東端は河北省山海関とされていた)から8,851.8kmに修正発表した。毎日新聞によるとのろし台5723カ所も確認され、煉瓦などでできた人工壁6259.6kmに加え、くぼみや塹壕部分の359.7km、などの険しい地形2232.5kmが含まれたことから延びたとみられるとしている。

2012年6月5日、中華人民共和国国家文物局は、秦代、漢代など他時代を含んで調査した所、万里の長城の総延長は従来の2倍以上の21,196.18kmであったと発表した。

主な長城・関の一覧

※東から西の順。

北京以東
北京周辺

※北京近辺で訪問できる場所

  • 司馬台長城(しばだい)
険しい山の上に築かれている。あえてあまり修復されていない。
  • 金山嶺長城(きんざんれい)
慕田峪と司馬台の間にあり、司馬台とお互いに徒歩で行き来できる。
  • 蟠龍山長城
あえて全く修復せずに公開された長城。崩れかかった長城の上に歩道だけを整備して公開された。
  • 古北口長城(こほくこう)
  • 大榛峪長城(だいしんよく)
  • 黄花城長城(こうかじょう)
  • 慕田峪長城(ぼでんよく)
  • 箭扣長城(せんこう)
  • 八達嶺長城(はったつれい)
もっとも有名な見学地。ツアーのほか北京市内からの路線バスも頻繁にある。
  • 水関長城(すいかん)
  • 居庸関 ・居庸関長城(きょようかん)
八達嶺長城のすぐ北京寄りにある。元代に建築された雲台が著名。2006年に修復後公開された。
  • 挿箭嶺長城(そうせんれい)
北京以西
  • 老牛湾長城(ろうぎゅうわん)
  • 楡林鎮北楼(ゆいんちんほくろう)
  • 三関口長城(さんかんこう)
  • テンゲル砂漠長城
  • 丹峡口長城(たんきょうこう)
  • 嘉峪関(かよくかん)
  • 河倉城(かそうじょう)
  • 玉門関(ぎょくもんかん)
  • 陽関(ようかん)

「宇宙から見える建造物」

宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われ、中国の教科書にも掲載されていたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認するのはきわめて困難である。2003年に中国初の有人宇宙船神舟5号」に搭乗した楊利偉飛行士が、「万里の長城は見えなかった」と証言したため、中国の教科書からこの節は正式に削除された。

2004年には中国系アメリカ人リロイ・チャオ飛行士が国際宇宙ステーション(ISS)より180ミリ望遠レンズを付けたデジタルカメラで万里の長城を撮影することに成功したが、肉眼では見えなかったと証言している[2]

世界遺産登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core

慣用句

分離壁や堤防などの長大な構造物を指して「万里の長城」と比喩することがある。

日本に於いて1989年証券取引法改正で、インサイダー取引への規制が強化されたことを受け、企業の非公開情報を知り得る立場にいる引受部門と、投資家に銘柄選定のアドバイスをする営業部門の間に「情報の壁」をつくるため、両部門を異なる場所に離す、管理体制を徹底するなどの対策を施すとした証券界の自主ルールを設定。この自主規制のことを、「チャイニーズウォール(万里の長城の意)」という。これは、英語圏で生まれた用法だが、日本でも良く用いられる。

中国政府のインターネット検閲システム金盾は、Great Firewall of China(グレート・ファイアーウォール・オブ・チャイナ)と俗に呼ばれる。万里の長城は英語ではGreat Wall of Chinaと呼ばれるが、これにネットワークの外部との通信を規制・制御するファイアーウォールをかけたものである。

脚注

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テンプレート:Commons&cat

テンプレート:各国の世界遺産 テンプレート:新・世界の七不思議

  1. 「万里の長城 攻防三千年史」p143-178 来村多加史 講談社現代新書 2003年7月20日第1刷
  2. テンプレート:Citation