東京オリンピック
テンプレート:告知 テンプレート:Notice テンプレート:オリンピックインフォメーション 東京オリンピック(とうきょうオリンピック)は、1964年(昭和39年)10月10日〜24日に日本の東京で開かれた第18回夏季オリンピック。
目次
概要
1940年大会の開催権を返上した日本及びアジア地域で初めて開催されたオリンピックで、また有色人種国家における史上初のオリンピックでもある。歴史的には、第二次世界大戦で敗戦し急速な復活を遂げた日本が、再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味を持った。
また、1940年代から1960年代にかけてヨーロッパ諸国やアメリカによる植民地支配を破り、次々と独立を成し遂げたアジアやアフリカ諸国による初出場が相次ぎ、過去最高の出場国数となった。
開会式は10月10日、閉会式は10月24日に行なわれた。開会宣言は昭和天皇、組織委員会会長は安川第五郎、準備委員長は新田純興であった。開会式の10月10日は、1966年(昭和41年)以降体育の日として親しまれるようになったが、体育の日は2000年(平成12年)より10月の第2月曜日となっている。10月10日が選ばれた理由について「東京の晴れの特異日であったことから」とよく言われるが、実際には10月10日は統計的に晴れが多い日とは言いがたい(特異日も参照)。
大会開催までの経緯
1940年(昭和15年)夏季大会の開催権[1]を返上した東京は、1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)夏季大会開催地に立候補した[2]が、翌1955年(昭和30年)の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。次に1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、1959年(昭和34年)5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。
得票数は東京が過半数を超える34票、デトロイト10票、ウィーン9票、ブリュッセル5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)や、中南米諸国の支持を集めるために奔走したロサンゼルスの実業家、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、当時都議であった北島義彦、「日本レスリングの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。和田は育った御坊市で名誉市民第1号となっている。
1957年(昭和32年)当時、日本水泳連盟会長を務めていた田畑政治は、オリンピック招致費用を2013年現在の価格に換算して1200億円掛かる事を懸念していた岸信介首相に、観光収入も見込めると直談判した[3]。
都市 | 国 | 投票数 |
---|---|---|
東京 | テンプレート:Flagicon 日本 | 34 |
デトロイト | テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国 | 10 |
ウィーン | テンプレート:Flagicon オーストリア | 9 |
ブリュッセル | テンプレート:Flagicon ベルギー | 5 |
開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった[4]。開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインは亀倉雄策が手掛けた。
実施競技と日程
各競技の詳細については、それぞれの競技のリンク先を参照のこと。
競技名 / 日付 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
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開会式 | • | ||||||||||||||
陸上競技 | • | • | • | • | • | • | • | • | |||||||
競泳競技 飛込競技 |
• | • | • | • | • | • | • | • | |||||||
水球 | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
体操 | • | • | • | • | • | • | |||||||||
柔道 | • | • | • | • | |||||||||||
レスリング | • | • | • | • | • | • | • | • | |||||||
自転車競技 | • | • | • | • | • | • | |||||||||
バレーボール | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||
バスケットボール | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||
サッカー | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||||
ボクシング | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | |||
ボート | • | • | • | • | • | ||||||||||
セーリング | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
カヌー | • | • | • | ||||||||||||
フェンシング | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||
ウエイトリフティング | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
ホッケー | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | |||
近代五種競技 | • | • | • | • | • | ||||||||||
馬術 | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
射撃 | • | • | • | • | • | ||||||||||
閉会式 | • |
公開競技
デモンストレーション
ハイライト
開会式
競技
- 女子バレーボール:東洋の魔女(バレーボール全日本女子)
- マラソン:円谷幸吉の活躍(第3位)。アベベの優勝(連覇)。男子10000メートル競走で、3周遅れの最下位となっても棄権せず完走した、セイロン代表のラナトゥンゲ・カルナナンダ(ピエール・ド・クーベルタンが唱えたオリンピック精神“重要なのは勝つ事ではなく参加する事”を体現したこのエピソードはのちに、背番号から『ゼッケン67』と題して小学校国語の教材になる)。
- 柔道:正式種目となる。無差別級でオランダのアントン・ヘーシンクが優勝した。
- レスリング
- 重量挙げ
- サッカー
閉会式
東京オリンピックのメダル
オリンピック・メダル
東京オリンピックのメダルは大蔵省造幣局の工芸官が原型を作り作成した。
デザインは金・銀・銅、共に、表面は「勝利者を肩車した男性の群像」、裏面は「勝利の女神」が浮き彫りにされ、また「大会名、競技名」を記載してある欄があった。
サイズは、金メダル・銀メダル・銅メダル共に直径6cm、厚さは3mm。
重さは、金メダル90g、銀メダル82g、銅メダル69g。
製造された数は、金メダル300個、銀メダル300個、銅メダル314個。
価格は、金メダル12,500円、銀メダル7,500円、銅メダル6,000円。(全て昭和39年当時の価格)と発表されだが、この価格はあくまで造幣局が日本オリンピック委員会に請求した額であり、実際のメダルの製造では1枚のメダルを製作するのにプレス加工を合計25回も繰り返すなど手間のかかったものになっていた。大会後、製造したが余ったメダルは鋳つぶされている。
各国の獲得メダル
1 | テンプレート:FlagIOC | 36 | 26 | 28 | 90 |
2 | テンプレート:FlagIOC | 30 | 31 | 35 | 96 |
3 | テンプレート:FlagIOC(開催国) | 16 | 5 | 8 | 29 |
4 | テンプレート:FlagIOC | 10 | 22 | 18 | 50 |
5 | テンプレート:FlagIOC | 10 | 10 | 7 | 27 |
6 | テンプレート:FlagIOC | 10 | 7 | 5 | 22 |
7 | テンプレート:FlagIOC | 7 | 6 | 10 | 23 |
8 | テンプレート:FlagIOC | 6 | 2 | 10 | 18 |
9 | テンプレート:FlagIOC | 5 | 6 | 3 | 14 |
10 | テンプレート:FlagIOC | 4 | 12 | 2 | 18 |
主なメダリスト
- テンプレート:Gold medal
- 桜井孝雄(日本、ボクシングバンタム級)
- 三宅義信(日本、ウエイトリフティングフェザー級)
- 市口政光(日本、レスリンググレコローマンバンタム級)
- 花原勉(日本、レスリンググレコローマンフライ級)
- 上武洋次郎(日本、レスリングフリースタイルバンタム級)
- 渡辺長武(日本、レスリングフリースタイルフェザー級)
- 吉田義勝(日本、レスリングフリースタイルフライ級)
- 中谷雄英(日本、柔道軽量級)
- 猪熊功(日本、柔道重量級)
- 岡野功(日本、柔道中量級)
- 早田卓次(日本、体操男子つり輪)
- 山下治広(日本、体操男子跳馬)
- 遠藤幸雄(日本、体操男子平行棒、体操男子個人総合)
- 遠藤幸雄・小野喬・鶴見修治・早田卓次・三栗崇・山下治広(日本、体操男子団体総合)
- 磯辺サダ・河西昌枝・近藤雅子・佐々木節子・篠崎洋子・渋木綾乃・谷田絹子・半田百合子・藤本佑子・松村勝美・松村好子・宮本恵美子(日本、バレーボール女子)
- ボブ・ヘイズ(アメリカ、陸上競技男子100m、4×100mリレー)
- ピーター・スネル(ニュージーランド、陸上競技男子800m)
- ピーター・スネル(ニュージーランド、陸上競技男子1500m)
- ビリー・ミルズ(アメリカ、陸上競技男子10000m)
- アベベ・ビキラ(エチオピア、陸上競技男子マラソン)
- アル・オーター(アメリカ合衆国、陸上競技男子円盤投)
- ベティ・カスバート(オーストラリア、陸上競技女子400m)
- マリー・ランド(イギリス、陸上競技女子走幅跳)
- ヨランダ・バラシュ(ルーマニア、陸上競技女子走高跳)
- アメリカ(陸上競技男子4×100リレー)
- ポーランド(陸上競技女子4×100リレー)
- ドン・ショランダー(アメリカ、競泳男子100m自由形)
- ドン・ショランダー(アメリカ、競泳男子400m自由形)
- アメリカ(競泳男子4×100mリレー)
- アメリカ(競泳男子4×200mリレー)
- ドーン・フレーザー(オーストラリア、競泳女子100m自由形)
- イングリッド・クレーマー(統一ドイツ、女子飛びこみ)
- ヴァチェスラフ・イワーノフ(ソビエト連邦、ボート競技男子シングルスカル)
- ボリス・シャハリン(ソビエト連邦、体操鉄棒)
- ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア、体操女子平均台)
- ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア、体操女子平均台)
- ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア、体操女子跳馬)
- ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子ゆか)
- ソビエト連邦(体操女子団体)
- ドイツ(馬術馬場馬術団体)
- アントン・ヘーシンク(オランダ、柔道男子無差別級)
- ジョー・フレージャー(アメリカ、ボクシング・ヘビー級、後にプロボクシングで世界ヘビー級王者)
- テンプレート:Silver medal
- 神永昭夫(日本、柔道無差別級)
- 鶴見修治(日本、体操男子あん馬、体操男子個人総合、体操男子平行棒)
- 遠藤幸雄(日本、体操男子床運動)
- モハメド・ガムーディ(チュニジア、陸上競技男子10000m)
- ベイジル・ヒートリー(イギリス、陸上競技男子マラソン)
- イレーナ・シェビンスカ(ポーランド、陸上競技女子200m)
- イレーナ・シェビンスカ(ポーランド、陸上競技女子走り幅跳)
- マリー・ランド(イギリス、陸上競技女子五種競技)
- オーストラリア(競泳女子4×100mリレー)
- ボリス・シャハリン(ソビエト連邦、体操男子個人総合)
- ソビエト連邦(体操男子団体)
- ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子個人総合)
- ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子跳馬)
- テンプレート:Bronze medal
- 円谷幸吉(日本、陸上男子マラソン)
- 一ノ関史郎(日本、ウエイトリフティングバンタム級)
- 大内仁(日本、ウエイトリフティングミドル級)
- 堀内岩雄(日本、レスリングフリースタイルライト級)
- 吉川貴久(日本、ライフル射撃男子フリーピストル)
- 岩崎邦宏・岡部幸明・庄司敏夫・福井誠(日本、競泳男子800m自由形リレー)
- 相原俊子・池田敬子・小野清子・千葉吟子・辻宏子・中村多仁子(日本、体操女子団体)
- 池田尚弘・小瀬戸俊昭・小山勉・佐藤安孝・菅原貞敬・出町豊・猫田勝敏・南将之・森山輝久・中村祐造・樋口時彦(日本、バレーボール男子)
- ロン・クラーク(オーストラリア、陸上競技男子10000m)
- ウーベ・バイヤー(ドイツ、陸上競技ハンマー投げ)
- イギリス(陸上競技女子4×100mリレー)
- ボリス・シャハリン(ソビエト連邦、体操男子つり輪)
- ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子平均台)
- ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子段違い平行棒)
- ダニエル・モレロン(フランス、自転車競技スクラッチ)
競技会場
東京23区内
- 国立霞ヶ丘陸上競技場(新宿区):開閉会式、陸上競技(マラソンと50km競歩は甲州街道折り返しコース、20km競歩は明治神宮聖徳記念絵画館周回コースをいずれも競技場発着として使用)、サッカー、馬術
- 東京都体育館(渋谷区):体操
- 東京都体育館屋内水泳場(渋谷区):水球
- 秩父宮ラグビー場(港区):サッカー
- 国立屋内総合競技場本館<国立代々木競技場第一体育館>(渋谷区):水泳、飛び込み、近代五種(水泳)
- 国立屋内総合競技場別館<国立代々木競技場第二体育館>(渋谷区):バスケットボール
- 渋谷公会堂(渋谷区):重量挙げ
- 駒沢陸上競技場(世田谷区):サッカー
- 駒沢体育館(世田谷区):レスリング
- 駒沢バレーボールコート(世田谷区):バレーボール
- 駒沢オリンピック公園(世田谷区):ホッケー
- 後楽園アイスパレス(文京区):ボクシング
- 早稲田大学記念会堂(新宿区):フェンシング、近代五種(フェンシング)
- 日本武道館(千代田区):柔道
- 馬事公苑(世田谷区):馬術
周辺地域
東京都(23区を除く)
神奈川県
埼玉県
- 朝霞射撃場(北足立郡朝霞町、現:朝霞市):射撃、近代五種(射撃)
- 朝霞根津パーク(北足立郡朝霞町):近代五種(馬術)
- 戸田漕艇場(北足立郡戸田町、現:戸田市):ボート競技
- 大宮蹴球場(大宮市、現:さいたま市):サッカー
- 所沢クレー射撃場(所沢市):クレー射撃
千葉県
- 東京大学検見川総合運動場(千葉市):近代五種(クロスカントリー)
長野県
選手団
- 各国選手団の中で最初に日本に乗り込んできたのは韓国の馬術競技の選手団である。5月31日に釜山港からアリラン丸に乗り出航。6月3日に東京に到着した。その後世界各国の選手団が空路や海路で乗り込んできた。東京国際空港には各国の選手団を運んできた旅客機が並んだほか、競技用の道具や馬を運んできた貨物機も並んだ。
- 選手村
- 食事[7]
- 選手村では大会期間中、毎日7,000食もの食事が作られた。
- 選手村の開村から閉村までの期間中に供された食事はのべ60万食にも及んだ。
- 選手村には選手用の食堂が2ヶ所あった。食堂の名前は一つは「富士 (Fuji)」で、もう一つは「桜 (Sakura)」だった。
- 「富士食堂」は帝国ホテルが、「桜食堂」はホテルニューグランドが担当した。
- 食堂のコックの数は2つあわせて総勢306名もいた。
- 選手村における選手の食費は「1人あたり1日6ドル以内(1ドル360円換算で2160円)」と決められていた。
- イスラム教徒用の食事を調達するため日本在住でイスラムのと殺免許と日本の調理師免許を持った人を探し出して(当時、この条件に合う人は日本で1人だけだった)その人に選手村でイスラム教徒向けの料理を作ってもらった。
- フランス選手団は自前でフランス料理の調理人をフランス本国から連れてきた。
- 選手食堂で開村から閉村までの期間中に消費された食材は、牛340頭、豚280頭、ヒツジ600頭、ニワトリ6万羽、えび・鮭・ヒラメ合計46トン、野菜356トン、鶏卵72万個、米16トン、食パン8万6千斤、牛乳50万本、だった。
- 大量の食事をまかなうために、冷凍食品の技術や解凍法や調理法が向上した。
- その他
開催に向けての整備
この東京オリンピックの開催にむけて、競技用施設から選手村、公共交通機関などのインフラストラクチャーや観戦客を受け入れるためのホテルに至るまで、東京都内のみならず日本各地において種々の建設・整備がなされた。
競技場等の施設
- 国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場、秩父宮ラグビー場、国立代々木競技場)
- 日本武道館
- 駒沢オリンピック公園
- 岸記念体育会館
- 織田フィールド(当時の選手練習場、現在は代々木公園陸上競技場)
- 三ツ沢公園球技場[8]
- 選手村(その他内の記述を参照)
交通機関・道路等のインフラ
宿泊施設
- ホテルニューオータニ
- ホテルオークラ(現・ホテルオークラ東京)
- 東京ヒルトンホテル
- 東京プリンスホテル
- コープオリンピア
聖火
- 1964年8月21日にギリシャのオリンピア・ヘラ神殿で採火式が行なわれた。その後、アテネ(ギリシャ)、イスタンブール(トルコ)、ベイルート(レバノン)、テヘラン(イラン)、ラホール(パキスタン)、ニューデリー(インド)、ラングーン(ビルマ)、バンコク(タイ)、クアラルンプール(マレーシア)、マニラ(フィリピン)、香港(当時はイギリス領)、 台北(中華民国台湾)、沖縄(当時はアメリカ合衆国の統治下)と、第二次世界大戦で日本軍が、それらの地域を植民地として支配していたヨーロッパ諸国やアメリカの軍隊と戦った地域を通り、平和のための聖火リレーを印象づけた。本土までは東京オリンピックのオフィシャル・キャリアかつ日本のフラッグ・キャリアの日本航空のダグラスDC-6Bによって運搬され、鹿児島市、宮崎市、千歳市の3カ所からスタートしリレーされた。
- 1964年9月7日に日本国内最初の地として沖縄に到着した聖火は、第一ランナーの宮城勇や戦災遺児ランナーの金城安秀を多くの日の丸の小旗が応援した。アメリカ合衆国の統治下の沖縄では、日の丸は祝祭日以外は掲げられなかったが、聖火歓迎は日の丸の小旗で埋まった[9]。
- この聖火の国内における輸送には国産旅客機の日本航空機製造YS-11が使用された。ちなみにその時の機体には「聖火号」と名づけられた[10]。
- 聖火リレーには、輪島大士、貴ノ花利彰、三遊亭小遊三(いずれも当時は学生)などの後の著名人もランナーとして参加・力走している。
- 聖火の最終ランナーは、1945年(昭和20年)8月6日に広島県三次市で生まれた19歳の陸上選手・坂井義則(当時早稲田大学競走部所属、後にフジテレビ社員)であった。原爆投下の日に広島市に程近い場所で生を享けた若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴であった[11]。なお、本来は陸上選手の後藤(後に東京海上火災の社員)が走る予定であったが、「原爆投下の日に生まれた」というエピソードからぎりぎりで坂井に変更された。
- 聖火ランナー総数は、10万713人だった[9]。
計時
- セイコー(現セイコーホールディングス)が初めてオリンピックの公式計時を担当した。セイコーは電子計時を採用、オリンピック史上初めて計測と順位に関してノートラブルを実現し、世界的な信頼を勝ち取ることに成功した。
交通規制
東京オリンピックの開催期間中は千駄ヶ谷や代々木などのメイン会場の周辺はもちろんその他の広範囲にわたって大規模な交通規制が行われた。特に、10月10日の開会式では警視庁は1万人の警察官を動員して警備に当たった。開会式会場となった国立競技場の横の神宮外苑も開会式当日は一般に開放されたが、この神宮外苑も収容人数は4万人程であり、チケットのない者は神宮外苑に入ることができなかった。
そして午前10時から開会式終了後までは、この神宮外苑には警察や大会関係などの許可車両以外は一切通行が禁止された。またそれ以外に「外周制限線」と名付けられた制限区域がもうけられた。これは「新宿4丁目交差点 - 四谷見附交差点 - 溜池交差点 - 西麻布交差点 - 新宿4丁目交差点」を囲む範囲内でおこなわれた極めて大規模な交通規制で、開会式会場の警備の他に国内外のVIPなどの移動をスムーズにするのが目的であった。また、その他にマラソン、競歩、自転車競技、など多くの競技で大規模な交通規制が実施された。
東京オリンピック開催が日本にもたらした影響
- 東京オリンピックの開催期間には、1964年(昭和39年)10月14日のソ連のニキータ・フルシチョフ首相解任、10月16日の中華人民共和国(後述の通り本大会には不参加)による初の核実験など国際的事件が次々と起こった。これにより、「世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、激動の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。
- 史上初の3人乗り宇宙船であるソ連のボスホート1号(1964年10月12日打ち上げ、10月13日帰還)は東京上空を飛行するにあたり、オリンピックに参加する「世界の青年に熱烈なあいさつを」送った。
- キング牧師のノーベル平和賞受賞が決定したのも、会期中の10月14日のことである(実際の受賞は12月10日)。
- イギリス領北ローデシアは閉会式の日にあたる1964年10月24日(日本時間では同日午前7時)にザンビアとして独立したため、開会式と閉会式とで異なる国名となった。選手村の国旗なども同日をもって新国旗に付け替えられた。
- 東京オリンピック招致の成功は、開催に先駆けて1964年4月28日に経済協力開発機構 (OECD) への加盟が認められる大きな背景となった。OECD加盟は原加盟国のトルコに次いでアジアで2番目、同機構の原型となったマーシャル・プランに無関係の国としては初めてで、戦前は「五大国」の一国であった日本が敗戦を乗り越えて再び先進国として復活した証明の一つともなった。
- 東京オリンピック開催を契機に競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資が行なわれ、競技や施設を見る旅行需要が喚起され、カラー放送を見るためのテレビ購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。テレビ購入者が増えたため「テレビ番組」の視聴者も多くなった。その為、娯楽性の高い「バラエティ番組」が増えたといわれる。
- 特に開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず地下鉄やモノレール、ホテル、首都高速道路など様々なインフラストラクチャーの整備が行なわれ、都市間交通機関の中核として東京(首都圏)から名古屋(中京圏)を経由して大阪(京阪神)に至る三大都市圏を結ぶ東海道新幹線も開会式9日前の10月1日に開業した[12]。これらの殆どは現在に至るまで改良を重ねながら利用されている。特に首都高速道路の建設は急ピッチで進められ、東京国際空港(羽田空港)から国立競技場(その先の新宿まで開業)までつながり、途中で銀座・東京駅(呉服橋)・皇居周縁・国会議事堂・霞ヶ関官庁街などの主要施設を経由するルートが大会前に完成したが、用地買収の期間を省くために日本橋川上空などが利用され、日本橋も首都高速道路の高架の下に隠れる事となり、東京都心部の親水空間は減少した。
- 「ゴミ都市」と呼ばれていた東京に、都の主導でゴミ収集車が250台導入され、また、積水化学製のポリバケツが普及した。
- オリンピック組織委員会が、代々木選手村の整備期間中及び大会期間中の警備に際しては警察官の人員不足を考慮して、民間警備会社『日本警備保障』(現在のセコム)に警備の依頼を行った。この民間警備会社による警備が無事に終了したことを機に、日本の社会に民間警備が認知されるようになっていく[13]。
- 東京オリンピックで初めてコンピュータによるリアルタイムでの記録管理が行なわれたことも、地味ではあるが特筆すべき事項である。それ以前のオリンピックでもコンピュータは使われていたが、あくまで記録管理はバッチ処理により行なわれており、最終的な公式記録の確定・レコードブックの作成には大会終了後数ヶ月を要していたのに対し、東京オリンピックではプレスセンターのある日本青年館に設置されたコンピュータによりリアルタイムで記録が管理され、全競技会場に置かれた端末で入力された各競技の記録が集められただけでなく、端末では他会場の競技結果も参照することができたという。また公式記録の確定も速やかに行なわれ、大会最終日の閉会式において全競技の記録を記したレコードブックが当時のアベリー・ブランデージIOC会長に渡された。同システムの構築は日本アイ・ビー・エムが約2年半がかりで行なったもので、プロジェクトリーダーを務めた竹下亨(後に中部大学大学院経営情報学研究科教授)はこのシステム構築に関する論文をまとめた功績で、1988年(昭和63年)に山内業績賞を受賞している。本システムの成功は、日本においてリアルタイムシステムが普及する大きな契機となり、同プロジェクトのメンバーはその後三井銀行の第一次オンラインシステム、マツダの生産管理システムなど多くのリアルタイムシステムを手がけていくことになる[14]。
- 森永卓郎(経済評論家)によると、チキン弁当は、外国人用の駅弁を考えていた時に、当時の食堂車のコックの洋食まかないを参考に考案され、福岡銘菓のひよ子も1964年に東京に進出して東京銘菓になった[15]。
- それまで社会人のスポーツは見る物だったが、ママさんバレーに代表される参加するスポーツが盛んになり、公共のスポーツ施設が各地に造られていった。
「テレビ・オリンピック」
東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。衛星放送技術を始め、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。
東京オリンピックの衛星中継は、現地の映像をシンコム3号で日本からアメリカへ送信し、さらにアメリカが受信した映像をリレー1号でヨーロッパへ送信するという方式で行われた。
スローモーションの放送技術で、試合直後に微妙な対戦結果をその場で確認でき、その後のスポーツ中継で欠かせない放送技術になった。
日本では1959年(昭和34年)のミッチー・ブーム以降テレビ受像機(白黒)の普及が急速に進み、1959年(昭和34年)に23.6%だった普及率は1964年(昭和39年)には87.8%に達した。当時非常に高価だったカラーテレビ受像機は、東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れ始めた。メディアでの昭和世相史に関する記事等で「東京オリンピックの時期にカラーテレビが普及した」という趣旨の記述が見られることがあるが、1966年(昭和41年)まではカラーテレビの普及率は1%未満であり、メキシコシティオリンピックが行なわれた1968年(昭和43年)の調査でも5.4%で、カラーテレビの普及率が白黒テレビを上回ったのは1973年(昭和48年)である。
また、当時アメリカ支配権下にあった沖縄では、当時の琉球政府の大田政作主席が「早期復帰がかなわないのなら、せめて本土と同じ時間にテレビが見たい」[16]と関係各所に陳情、これによって、電電公社のマイクロ回線が那覇まで延伸されることとなり、山岳回折を用いた見通し外通信によって建設が進められ、東京オリンピック直前の1964年9月1日に開通し、沖縄でも同時に放送された。なお、沖縄からは出場した選手は1人もいない。NOCを作って沖縄として出場する案もあったが、島ぐるみ闘争の激化で「1地域としての五輪参加はアメリカによる沖縄の恒久支配を意味する」との意見もあり設立されなかった。結果的に沖縄住民の日本人意識を高め、1972年5月15日の領土返還へとつながっていった。
ポスター
東京オリンピック第2号ポスター(第1号ポスターは縦長の全体が白地に、赤い日の丸の下に、金の五輪マークと金字のTOKYOと1964のイラスト)は、歴代大会のオリンピックポスターがイラストであったのを、グラフィックデザイナーの亀倉雄策のデザイン、ストロボ写真演出早坂治で、オリンピックポスター初の写真ポスターである[17]。
日本選手団のユニホーム
東京オリンピックにおける日本選手団のユニホームは1964年(昭和39年)2月に国立競技場でコンテストが開催され、そこで選ばれたデザインが後日JOC総会にかけられて承認を受けるかたちで決定された。オリンピック東京大会日本選手団ユニホーム、特に開会式・閉会式で着用された式典用デレゲーションユニホームが、上半身が赤色で下半身が純白のかなり派手な服装であり、50年近く時を経た現在でもオリンピック日本選手団の公式ユニホームと言えばこの「上半身が赤色で、下半身は白色」を思い浮かべる人が多い。
- 開会式・閉会式用ユニホーム(デレゲーションユニホーム)
- 選手村などで着るユニホーム
- 開会式・閉会式用ユニホームと基本的に同じデザインだがダークカラーが採用されて地味になっている。下半身は男子はグレーのズボン、女子も色はグレーでボックス・ブリーツをスカートにしたもの。靴は男子は黒色の紳士靴。女子も黒色のローヒール。そして女子だけ純白のショルダーバッグを持つ。
- トレーニングウェア
- 大会会場などで試合時以外に着用するトレーニングウェア。男女共に同じデザインで、赤色を基本に方から袖、わきの下からパンツの裾まで、身体の両側の側線に沿うようなラインで白い筋が入っている。そして胸と背中に白色のローマ字で「NIPPON」と書かれている。素材は100%化学繊維で出来ていた。
記録映画
『東京オリンピック』
テンプレート:Infobox Film 総監督を務めることになった市川崑は、自身とその妻で脚本家の和田夏十の名コンビに加え、新鋭脚本家の白坂依志夫と詩人の谷川俊太郎という布陣で、そもそも筋書きなどはないはずのオリンピックのためにまず緻密な脚本を書き、これをもとに壮大なドラマである『東京オリンピック』を撮るという制作手法をとった。日本を代表するカメラマンとして世界的にも名を知られた宮川一夫が主導した撮影にも、アスリートの心情の表現を重視した演出や、超望遠レンズをはじめとする複数のカメラを使った多角的な描写などを駆使し、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げた。しかしそれは、1936年のベルリンオリンピックを記録したレニ・リーフェンシュタール監督の『民族の祭典』と並んで、「芸術か記録か」という大論争を引き起こすことになった。
完成披露試写の2日前(1965年3月8日)におこなわれた関係者のみの試写会で本作を鑑たオリンピック担当大臣の河野一郎は、「俺にはちっともわからん」「記録性をまったく無視したひどい映画」とコメントし、「記録性を重視した映画をもう一本作る」とも述べた[19]。文部大臣の愛知揆一も「文部省として、この映画を記録映画としては推薦できない」という声明を3月16日に出した[20]。東宝は市川に映画の修正を求め、市川は試写版に日本人金メダリストやオリンピック建造物の映像を追加して公開版を作成した[19]。
この状況で、女優の高峰秀子は3月18日付の東京新聞に「市川作品はオリンピックの汚点だなとと乱暴なことばをはくなんて、少なくとも国務相と名のつく人物のすることではない」と市川を擁護する意見を投稿した[21]。高峰はさらに単身河野に面会し、映画と市川の優れた点を訴えるとともに、河野が市川と面談するように求めた[22]。このあと河野は3度にわたって市川と面談する機会を持ち(うち2回は高峰も同席)、最終的に市川ら関係者の努力を認め「できあがりに百パーセント満足したわけではないが、自由にやらせてやれ」と映画プロデューサーの田口助太郎(東京オリンピック映画協会会長)に電話して矛を収めることとなった[23]。
この時の騒動について市川は映画の完成から20年後に「要するに河野さんは、馬とかマラソンにうんちくのある方だったんですが、その辺の競技を映画で見たかったのにそれが十分入っていないのが気に食わなかった。作品を全面否定されたわけでも何でもないんです。今から言えば笑い話ですがね」とインタビューで語っている[24]。
英語版では大会組織委員会が再編集を施し、上映時間が日本語版より40分短い作品に仕上げている。一方市川自身も、2004年(平成16年)にオリンピック開催40周年を記念して発売されたDVDでは、本人が再編集したディレクターズカットを公開版と併せ収録している。このディレクターズカット版も、公開当時に全体のバランスから入れざるを得なかった競技や、やや創作に偏り過ぎたというチャド共和国の陸上アスリート、アフメド・イサのエピソードがカットされたため、公開版より22分短い。
さまざまな波紋を広げながらも、『東京オリンピック』は日本国内で12億2321万円の配給収入を記録。同年度のカンヌ国際映画祭では国際批評家賞受賞した。また映画館の他にも日本各地の学校や公民館で上映会が開かれたことから、その観客動員数は一般観客750万人、学校動員1600万人の合計2350万人で、事実上日本映画史上最多であるといわれている[25]。
この映画のタイトルは一般公募され4万7千通もの応募があり、その中から監督の市川が選ぶというかたちを取ったが市川は結局のところ「いちばん簡潔なものを」ということでタイトルは「東京オリンピック」に決まった[26] 。
映画の製作はオリンピック開催の4か月以上も前の5月28日、オリンピック会場の建設現場でそれまで建っていた建物が壊されるシーンの撮影からクランクインした[27] 。使用されたカメラは103台、レンズは232本、撮影したフィルムの長さは40万フィート、録音テープの長さは6万5千メートル、携わったスタッフは総勢556名にも及び撮影と編集には莫大な労力を費やした。効果音はほとんどが後付けであり、富士山をバックに聖火ランナーが走るシーンなども別撮りである。
撮影を進めるうえで「実際に競技している音を望遠マイクで拾うために1,700万円」、「競技場の臨場感を再現するステレオ録音にするため680万円」、「閉会式など夜間の明かりが暗い場所で撮影するためF値の明るい超望遠レンズの調達に780万円」、等々と経費が次々とかさみ、最終的な制作費は3億5,360万円まで膨れ上がった[28] 。
最初に話を受けたのは黒澤明だったが予算の関係から断り、次に今井正、今村昌平、渋谷実、新藤兼人ら複数の監督に話が流れ、最終的に市川が引き受けた。
撮影スタッフの一人に山本晋也がおり、市川に「選手の癖を撮れ」と言われ、非常に困ったと後に話している。
『東京オリンピック』(英題:テンプレート:En)
イーストマンカラー、35mm ワイドスクリーン (2.35 : 1)
170分
- 総監督:市川崑
- 監督:渋谷昶子(バレーボール)、安岡章太郎(体操)、細江英公
- 脚本:市川崑、和田夏十、白坂依志夫、谷川俊太郎
- 監修:与謝野秀
- 制作補:谷口千吉
- 音楽監督:黛敏郎、※開会式冒頭のテープ音楽『オリンピック・カンパノロジー』も作曲担当
- 技術監督:碧川道夫
- 美術:亀倉雄策
- 撮影:宮川一夫、林田重男、中村謹司、田中正
- ナレーター:三國一朗
『オリンピック東京大会 世紀の感動』
市川崑が総監督を務めて制作された『東京オリンピック』のフィルムを新たなスタッフが再編集・再構成し、シナリオを執筆した作品。1966年5月15日公開。市川の『東京オリンピック』に比べ、実況を含んだ解説の流れる部分が多く、「記録映画」の色彩が濃いため、いわゆる「ドキュメンタリー」に分類されている。
- 『オリンピック東京大会 世紀の感動』
154分
テレビドキュメンタリー
2013年8月にNHK総合テレビジョンで3部作として放送。
テレビの関連番組
- NHKテレビの放送開始60周年記念事業として、2013年に当時の映像記録を視聴者などから提供したもので構成した特別番組が編成されている。何れもNHK BS1にて放送
- 2013年1月1日 「伝説の名勝負・東洋の魔女 世紀の金メダルロード」
- 東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボール日本代表が金メダルを決定させるソビエト戦のノーカットフルタイムの映像が視聴者から提供された。この試合に関与した選手や、その試合を観戦した著名人各氏のインタビューを交えてその試合を振り返った。[29]
- 2013年12月31日 「よみがえる東京オリンピック1964→2020半世紀を経て発見!20時間の競技映像」
- NHKの取材班は2020年の東京五輪開催決定前の事前取材で、1964年に行われた同大会の記録映像となる16㎜フィルムを発見した。この中にはNHKのライブラリーにも残されていない映像も多数発掘された。そこで、この映像にラジオのアーカイブス音源を絡ませ、この大会に参加した選手や当事者へのインタビューを交え、1964年五輪の記憶をよみがえらせる[30]
楽曲
- 『東京五輪音頭』(作詞:宮田隆、作曲:古賀政男、歌:三波春夫・橋幸夫・つくば兄弟・神楽坂浮子・三橋美智也・坂本九・北島三郎・畠山みどり・大木伸夫・司富子)
- 『海をこえて友よきたれ』(作詞:土井一郎、作曲:飯田三郎)
- 「東京五輪音頭」「海をこえて友よきたれ」の2曲は日本放送協会 (NHK) 製作で、レコード会社各社から競作で吹き込み発売された。
- 『東京オリンピックの歌「この日のために」』(作詞:鈴木義夫、補作:勝承夫、作曲:福井文彦、編曲:飯田信夫、歌:三浦洸一・安西愛子・ビクター合唱団)ビクターレコードVS-693 (JES-3408)
- 『東京オリンピック音頭』(作詞:山川茂男、補作:佐伯孝夫、作曲:馬飼野曻、編曲:寺岡真三、歌:橋幸夫・市丸・松島アキラ・神楽坂浮子・ビクター少年民謡会)VS-693 (JES-3409)
『東京オリンピックの歌「この日のために」』、『東京オリンピック音頭』の2曲は公募当選歌で、選定は日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都が行ない、日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都、文部省、日本放送協会 (NHK)、日本民間放送連盟(民放連)の後援によって1962年(昭和37年)に制作され、5月8日には、東京都体育館で日本ビクター主催の「オリンピックの歌発表会」が催された。
- 『オリンピック東京大会ファンファーレ』作曲:今井光也
- 『オリンピック・マーチ』作曲:古関裕而
- 『オリンピック讃歌』(作詞:コスティス・パロマ、訳詞:野上彰、作曲:スピロ・サマラ)
記念発行物
その他
- 新興国競技大会 (GANEFO) への参加選手への資格停止処分をめぐり、国際陸上競技連盟と国際水泳連盟と対立していた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とインドネシアは、直前まで参加予定で選手団も日本に来ており、組織委員会は両国の参加を実現すべく両者の間に入り調整を続けていたが対立関係は修復されず、両国とも開会式の前日(10月9日)に不参加届を組織委員会に提出して参加を取りやめた[31]。
- 当時アパルトヘイト政策をおこなっていた南アフリカの参加をめぐって、これに反対、抗議するアフリカ・スポーツ最高会議の要請を受けて、国際オリンピック委員会は南アフリカの参加を拒否。これに反発した南アフリカはオリンピック参加を辞退し、アフリカ各国のボイコットは回避された。
- 中華民国と「中国を代表する国家」の地位をめぐって対立していた中華人民共和国は、独立したNOCとしてIOCに加盟していた中華民国の扱いへの反発から1958年にIOCを脱退していたため、当初より参加の予定はなかった(新興国競技大会の項目も参照)。また会期中の10月16日に同国初の核実験(原子爆弾実験)を行なっている。
- 会期中に使用された国立代々木競技場や選手村の本村、代々木選手村は、第二次世界大戦での日本の敗戦後に日本を占領下に置いた連合国軍の1つであるアメリカ軍によって設けられたワシントンハイツが返還された跡地に建設された。選手村で新築された4階建ての中層共同住宅形式の宿舎は1965年(昭和40年)以降、国立オリンピック記念青少年総合センターとなった。
- 開会式では、1年半を海の上で訓練したブルーインパルスのF-86が貴賓席から見えるよう、上空3000メートルに五色のスモークで直径1800メートル各五輪の間隔300メートルで五輪のマークを描いたことで話題を呼んだ[9]。
- 開会宣言の前にIOCのブランデージ会長が片言の日本語で「開会宣言を天皇陛下にお願い申しあげます」と述べた後、昭和天皇が開会宣言を行なった。
- 当時、ボディビルや剣道に勤しみスポーツに関心を持っていた作家の三島由紀夫が期間中のオリンピック・リポーターとして採用され、式典、各競技の感動の模様を伝える記事を毎日新聞、報知新聞、朝日新聞などに分載形式で連載している[32]。
- 選手村においてブルガリア人選手同士が結婚式を挙げた。これは史上初のことであった。
- 折からガンで入院していた池田勇人首相は、10月10日の開会式には参加したが、閉会式翌日の10月25日に退陣を発表した。
- 日本のお家芸と言われた男子体操団体は、ローマ大会に続いて2連覇を果たしたが、前回のローマ大会と東京大会に限って団体総合では1つしかメダルが授与されていない。東京大会では女子も団体で銅メダルを獲得したが、チームへの一つだけである。他の団体競技では選手全員にメダルが授与されているので、このようなケースは珍しい。2006年10月19日になって表彰の楯が各選手に贈られた[33]。
- 閉会式は誘導のトラブルからこれまでの慣例と違い国別の整然とした行進にならなかったが、そのために却って、各国の選手が入り混じり腕や肩を組み合って入場するものとなった。その後のオリンピックでは東京方式が採用されるようになった。ただし国別に選手が入場しなかったのはメルボルンオリンピックが先である。
- マラソン競技は全コースが生中継されたが、オリンピックのマラソン競技が全コース生中継されたのはこの東京オリンピックが世界最初である。なお、この生中継はNHKが担当したが、全コースを生中継するためにNHKはテレビ中継車7台、ヘリコプター1機、を投入し放送用カメラは全部で26台もあった。また沿道にカメラを設置し、移動中継車やヘリコプターなどを経てNHK放送センターへ画像を送るなどして見事に全コースの生中継を全世界へ送り届けた。
- 案内や誘導、競技種目表示においてピクトグラムが採用されたのは東京オリンピックが最初である。開催時に外国語(特に英語)によるコミュニケーションをとることができ難い当時の日本人と外国人の間を取り持つために開発された。制作にはアートディレクターを務めた勝見勝を中心に粟津潔ほか30名ほどのデザイナーが携わった。競技種目ピクトグラムを制作したのは山下芳郎1人である。
- 大会後の日本における祝勝会にはメダル取得者が呼ばれていたが、男子バレーボールチームは競技でメダルを取ったにも拘らず、連絡ミスにより参加できなかった。
- 諸外国から来日するオリンピック関係者や各国元首たちを接待するためのコンパニオンを30名採用した。このコンパニオンは一般公募などされたが総理大臣の次女と三女、日本オリンピック委員会長の長女、日立製作所顧問の長女など大会関係者の子女が数多く含まれていた。そのうちの一人の西村亜希子は報知新聞の企画で対談したプロ野球・読売ジャイアンツの長嶋茂雄と1965年(昭和40年)に結婚した。
- 公募で決まった公式標語は「世界は一つ東京オリンピック」。名古屋の中学生の作品。
- 柔道会場の日本武道館には日本古来の稲藁やシチトウを用いた畳が敷かれた。その後のオリンピックではビニール・プラスティック素材のマットに変わる。
- 1966年、アメリカ映画『歩け走るな!』(コロムビア映画、チャールズ・ウォルタース監督、ケーリー・グラント主演)が制作・公開された。オリンピックを含めた当時の東京の様相が色濃く描かれている。
- 日本国内ではチケットの売れ行きが好調で種目によっては徹夜で売り場に並ぶなどの現象も見られた。しかし海外におけるチケットの売れ行きはあまり良くなかった。当初の割り当て分を全て完売したのは大韓民国(韓国)のみでそれ以外の国々では競技によっては完売したチケットがあったが、全て完売した国は無かった。その理由について「チケットを買ってもホテルが予約できないので行けない」という声が多かったという[34]。なお、日本と韓国はまだ外交関係を結んでいなかったが[35]、北朝鮮と異なり、韓国は東京五輪に参加した。
- 日本中の関心がオリンピックに集中したため、プロ野球もこれに配慮して公式戦の日程を前倒しして消化し、日本選手権シリーズの日程もプロ野球史上最も早い9月29日開幕、第7戦予定は10月7日としていたが、南海ホークスと阪神タイガースの関西圏チーム同士で争われた実際の1964年の日本シリーズは10月1日開幕となった上、雨天による試合延期や両チームが3勝ずつで並ぶ接戦などもあって、阪神甲子園球場で行われた第7戦はオリンピック開会式当日の10月10日の夜となり、注目度は大きく下がった[36]。
- 日本選手団は、1位の統一東西ドイツ選手団の374人、2位のアメリカ合衆国の361人に次ぐ3位の355人で、4位はソビエト連邦の332人だった[37]。
- 統一東西ドイツが金メダルの場合、国旗掲揚が統一東西ドイツ旗で、国歌演奏でなく「曲演奏」と紹介され交響曲第9番 (ベートーヴェン)が演奏された。
- 東京オリンピックにおいて国立競技場に翻っていた五輪旗は、その見事な大会運営に感動したアベリー・ブランデージIOC会長から組織委員会会長の安川に寄贈され、その後安川から母校である修猷館高校に寄贈されている。現在は修猷館高校の体育館に額に入れて飾られており、以前は同校の運動会の入場行進において使用されていた(現在はレプリカを使用)。
- 2005年(平成17年)に東京都の石原慎太郎知事は、2016年(平成28年)の夏季オリンピック開催地に立候補する意向を表明した。1964年大会で使用した施設の中では国立霞ヶ丘競技場がマラソンコースの起点となり、代々木体育館や日本武道館も使用されるが、競技の中心は新設の東京オリンピックスタジアムなどの臨海部で開催される計画案を作成したが、2009年のIOC総会による投票で2016年のオリンピックはブラジルのリオデジャネイロで開催されることが決定された(2016年東京オリンピック構想も参照)。その後、石原都知事は2020年のオリンピックについても再び東京への招致を表明し、石原の後任の猪瀬直樹知事の下、2020年は56年ぶりに東京でオリンピックを開催することが決定した(2020年夏季オリンピックの開催地選考も参照)。
東京オリンピックを扱った小説
注釈
関連項目
- 国際オリンピック委員会
- 日本オリンピック委員会
- オリンピック賛歌
- 夏季オリンピック
- 東京オリンピック日本選手団
- 東京オリンピックの開会式
- 東京オリンピックの閉会式
- 東京パラリンピック
- 東京オリンピック支援集団
- プロジェクト:オリンピック
外部リンク
- IOC - Tokyo 1964 Page
- JOC - オリンピックの歴史、東京オリンピック 1964
- 東京オリンピック:現代美術用語辞典 - artscape
- 現代アーティストとみんなで考えるオリンピック招致
- テンプレート:Movielink
- テンプレート:Movielink
- テンプレート:Movielink
- テンプレート:Movielink
- テンプレート:Movielink
テンプレート:東京オリンピック実施競技 テンプレート:Navbox テンプレート:日本の経済史
テンプレート:市川崑- ↑ 夏季大会は非開催でも回次はそのまま残るため、東京は回次上では2回目の開催扱いとなる
- ↑ 朝日新聞.1954年(昭和29年)10月10日,6面.
- ↑ 2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第2回オリンピック招致にかけた男たち」
- ↑ 当時の大卒初任給は国家公務員I種で23,300円であった。
- ↑ 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p205
- ↑ 日本オリンピック委員会ホームページ内のメモリアルプレイスの記事[1]
- ↑ 選手村の調理に携わった調理師のエピソードは、『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の題材になっている(第94回「料理人たち 炎の東京オリンピック」、2002年8月27日放映)。
- ↑ 東京オリンピックサッカー競技の為に改装工事が行われた。
- ↑ 9.0 9.1 9.2 2013年8月19日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第1回平和の炎が灯った日」
- ↑ その後も聖火輸送を記念して、YS-11を運航する1社である全日空のYSには「オリンピア」の愛称が付けられていた
- ↑ トラックから聖火台までの階段の段数については、文献によって163や182など複数の説がある。坂井自身は167段と聞かされていた(小沢剛「心の聖地 スポーツ、あの日から」四国新聞2010年5月11日、20面)。
- ↑ 突貫工事による開業だったため、日本国有鉄道(国鉄)は路盤の安定に時間がかかるとして一部区間での徐行運転を実施し、東京駅-新大阪駅間は超特急「ひかり」でも所要時間が4時間ちょうどに設定された。1年1か月後の1965年(昭和40年)11月1日からは3時間10分に短縮された。
- ↑ 第7回 東京オリンピックの警備を受注 セコムオフィシャルサイト『創業物語』
- ↑ NHKスペシャル『新・電子立国』第5巻「驚異の巨大システム」(相田洋著、日本放送出版協会、1997年)pp.48 - 95
- ↑ 「2020五輪で東京はこう変わる!大胆予測SPマル秘公開」テレビ朝日 2013年9月8日放送
- ↑ 2011年7月25日、琉球放送「RBC ザ・ニュース アナログ放送半世紀の歴史に幕」
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 19.0 19.1 野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』小学館、2011年、pp.246 - 247
- ↑ 野地、2011年、p.247。文部省はすでに都道府県教育委員会に児童生徒が集団鑑賞する通達を出していたが、それについては「取り消さない」との但し書きが着いていた。
- ↑ 野地、2011年、pp.247 - 248。高峰は市川の監督デビュー作と2作目に主演するなど親しい間柄だった。
- ↑ 野地、2011年、p.249。河野は高峰の話を笑いながら聞き、「実は映画のことは少しも分からんのだ」と打ち明けたという。
- ↑ 野地、2011年、p.250。2度面談に同席した高峰によると、その模様は「和気あいあいで歓談しただけ」だったという。
- ↑ 1985年8月27日『朝日新聞』
- ↑ 『ギネスブック'84』講談社、1984年、p452。この記述は日本版で独自に編集された「特集・日本の記録」の項目に記載されたもの。
- ↑ 朝日新聞・昭和39年6月30日朝刊記事
- ↑ 朝日新聞・昭和39年5月28日夕刊記事
- ↑ 朝日新聞・昭和39年6月30日朝刊記事
- ↑ 伝説の名勝負紹介サイト
- ↑ NHK注目番組ナビ「よみがえる東京オリンピック」
- ↑ なお、北朝鮮がオリンピック記念切手を最初に発行したのも東京オリンピックのときである(内藤陽介『北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国』雄山閣 2001年 ISBN 9784803503166)。
- ↑ 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日)、「競技初日の風景――ボクシングを見て」(朝日新聞 1964年10月12日)、「ジワジワしたスリル――重量あげ」(1964年10月13日)、「白い叙情詩――女子百メートル背泳」(報知新聞 1964年10月15日)、「空間の壁抜け男――陸上競技」(毎日新聞 1964年10月16日)、「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」(毎日新聞 1964年10月18日)、「完全性への夢――体操」(毎日新聞 1964年10月21日夕刊)、「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」(報知新聞 1964年10月24日)、「『別れもたのし』の祭典――閉会式」(報知新聞 1964年10月25日)
- ↑ 国際オリンピック委員会ロゲ会長が来日レセプションの会場にて、東京五輪日本代表男子チーム・女子チームの選手全員に対し 「シンボル・オブ・リコグニッション」を贈呈した。(日本オリンピック委員会 日本オリンピアンズ協会)
- ↑ 朝日新聞昭和39年5月19日朝刊記事
- ↑ 日韓基本条約の締結は五輪翌年の1965年。
- ↑ 観客数は1万5172人で、各年の日本シリーズ優勝チーム決定戦での最低観客数記録となっている。試合はジョー・スタンカの完封で南海が阪神に3-0で勝利し、南海としては最後の日本一となった。
- ↑ 2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」