ジョー・フレージャー
テンプレート:Infobox テンプレート:MedalTableTop テンプレート:MedalCountry テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalCompetition テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalBottom ジョー・フレージャー("Smokin'" Joe Frazier、1944年1月12日 - 2011年11月7日)は、アメリカ合衆国のプロボクサー。「スモーキン・ジョー」と称される機関車のような突進力とスタミナを備え、リズミカルに上体を揺すり、相手の攻撃を避けながらクラウチングスタイルからの左フックを得意とした。モハメド・アリをプロキャリアで初めて敗北させたボクサーでもあった。息子のマーヴィス、娘のジャッキー、甥のロドニーもプロボクサー。
来歴
1964年、負傷したバスター・マシスに代わって出場した東京オリンピックで金メダルを獲得。
1965年8月16日、プロデビュー。
1967年、6連勝を果たし、リングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手賞)に選出された(1度目)。
1968年3月4日、NYSACニューヨーク州公認世界ヘビー級王座決定戦でバスター・マシスと対戦し、11回KO勝ちで王座を獲得した。
1969年2月16日、ジェリー・クォーリーと対戦し、7回TKO勝ちで4度目の王座防衛に成功した。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤー(年間最高試合賞)に選出された。
1970年2月16日、ジミー・エリスを4回KOで破り、WBA王座を吸収し、統一世界ヘビー級王座に就く。1970年のファイター・オブ・ザ・イヤーに選出された(2度目)。
1971年3月8日、モハメド・アリと対戦し、15回判定勝ちで2度目の王座防衛に成功した。この試合はリングマガジンのファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(2度目)。また、1971年のファイター・オブ・ザ・イヤーに選出された(3度目)。
1973年1月22日、ジョージ・フォアマンに2回KOで敗退し、王座から陥落した。この試合はリングマガジンのファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(3度目)。
1974年1月28日、モハメド・アリと北米王座をかけて、リターンマッチを行うが、不運な12回僅差判定負け(当時の世界戦は15回戦制)。
1975年10月1日、モハメド・アリの持つ世界ヘビー級王座に挑戦するが、14回TKOで敗退(スリラー・イン・マニラ)。14回終了後、本人は戦う意欲を持っていたものの、セコンド陣はこれ以上戦わせると生命の危険があると判断し、トレーナーがフレージャーの目が見えなくなっていることを、目の前に差し出した指の本数を確認させてから試合を止めさせた。一方、アリもこの時点で体力の消耗が著しく、敗北を覚悟してグローブを外して欲しいとセコンドに頼んだと言う。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(4度目)。
1981年、引退。
2011年11月7日、肝臓がんのため死去[1]。テンプレート:没年齢。
戦績
- 37戦 32勝 (28KO) 4敗 1分
その他
- ドラマーのビル・ブラッフォードが結成した自身のバンド「ブラッフォード」のアルバム「Gradually Going Tornado」に彼の名をそのままタイトルにした「Joe Frazier」という曲がある。 また、このバンドのベーシストであるジェフ・バーリンのソロアルバムには「Joe Frazier Round2」が収録されている。
- 1984年に放送された第8回アメリカ横断ウルトラクイズ(日本テレビ)の準決勝(フィラデルフィア)において、罰ゲームのゲスト(スパーリングパートナー)を務めた。敗者2名が罰ゲームに挑んだが、このうち1名の敗者は腹部にフレージャーのパンチを受け気絶した。
- 1964年 - 1965年頃、練習中の事故により、左目の視力をほとんど失っていたといい、右からのパンチが見えていなかったという[2]。
- 格闘漫画家の板垣恵介は週刊少年チャンピオンにてフレージャーの死を同年に死去したスティーブ・ジョブスよりも残念だとコメントした。
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:Championshiptitle テンプレート:Championshiptitle先空 テンプレート:ボクシング競技オリンピック金メダリストヘビー級
テンプレート:Boxing-bio-stubテンプレート:Link GA- ↑ 訃報:ジョー・フレージャーさん67歳=元ヘビー級王者 毎日新聞 2011年11月8日閲覧。
- ↑ 2009年6月20日 HV特集フロンティア「新証言・伝説のタイトルマッチ アリVSフレイジャー」にて本人の発言。