今村昌平

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テンプレート:ActorActress 今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年大正15年〉9月15日 - 2006年平成18年〉5月30日)は、日本映画監督脚本家映画プロデューサー、日本映画学校(現・日本映画大学)の創設者。

人物

カンヌ国際映画祭で2度のグランプリを受賞した日本を代表する映画監督の一人。松竹日活を経て、独立プロダクションの株式会社今村プロダクションの代表取締役を務めていた。映画監督の長谷川和彦は正社員として所属した[1]

性格的には家父長志向が強く、そのことは一面では教育者として顔をも持ち合わせ、長谷川和彦を育て、映画人を育成する横浜映画専門学院を創立、後に日本映画学校となり 、日本映画大学の母体となった。撮影所システムが1970年代に崩壊して、映画会社が人材育成をやめて以降の人材供給の役割を果たしていくことになった[2][3]

家族は妻と2男1女。長男は脚本家で映画監督の天願大介。次男は今村プロダクション代表取締役の今村竑介(いまむら ひろすけ、1963年3月22日 - )。50年余の映画監督人生の中で、20作品を監督している。妻は1970年代に近所の主婦を集めて『あしたのジョー』『サザエさん』『タイガーマスク』などのアニメの彩色と仕上げを行う下請けの仕事をして、今村が劇映画を撮れなかった10年間の家計を支えた[4]

今村昌平作品は重喜劇と言われ、これは今村を象徴する言葉で、もともとは軽喜劇をもじった今村による造語である[5]。作風は自然主義リアリズムで、脚本執筆の際には徹底した調査を行った[6][7][8]。『赤い殺意』では宮城県の12家族を調査し[9]、『にっぽん昆虫記』は売春婦とその斡旋業者に取材したノートは3冊になり、『エロ事師たちより 人類学入門』のためにブルーフィルム制作者に実際に取材した[10]。その調査魔ぶりは『復讐するは我にあり』の映画化の際にも発揮され、原作者の佐木隆三を驚かせた[11]。撮影にあたっては基本的にオールロケが原則で、俳優もスタッフもロケ地で長期間の合宿生活をして暮らしながら撮影するスタイルを取っており、俳優の掛け持ち出演も許さなかった[12][13]。鬼のイマヘイと言われる妥協のない粘りの演出で、アフレコを嫌って臨場感のある同時録音にこだわった[14][15]

独立プロによる映画製作であり、自分の家を抵当に入れ製作資金捻出しているため、制作費を回収して抵当権を解除するまで3年ほどかかるため、発表ペースは3年に1度となっていた[16]。倹約家として知られ、フィルムはどんどん使ったが、映画制作費を減らす事の為ならなんでもしたと言われている。おごるのもラーメンくらいだったという[17]。不用意に電話を使う事すら許されず、電話代を節約するためハガキでのやり取りを奨励していた。

趣味は麻雀[18]。相撲取りクラスの非常に大食いであり[18][19]松竹大船撮影所ではどんぶり飯を2杯食べる新人というので評判だった[20]。しかしその旺盛な食欲が災いして29歳で糖尿病となる[21]。糖尿病治療でよくテニスをやってスタッフにもつきあわせていた[22]。晩年は高齢に加えて糖尿病の影響でエネルギッシュだった今村はめっきり無口になった[23]。ヘビースモーカーだったが、禁煙した[18]

今村が松竹から日活へ移籍した後、師匠である川島雄三が同じく日活に移籍、また監督試験で「松竹に落選」した浦山桐郎鈴木清順監督の計らいで日活入所となった。川島は幕末太陽傳での製作にかかる予算配分を巡って日活と対立し、結局日活を去るが、今村は日活に残り、『にっぽん昆虫記』、『赤い殺意』などの製作を行なう。今村は常に川島を意識して、地方出身で都会志向の川島に対して、東北土着の「基層心理」をベースにした作風(本人の言葉で言えば重喜劇)をこのとき確立させた。のちに今村はこの基層心理を推し進めてドキュメントタッチの作風に変化して行ったが、主人公は常に庶民であり、有名人の故事来歴的作品は一切取り上げなかった。

師匠川島雄三についての追悼録、『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の生涯』では、川島の生涯を実証的に取り上げ、川島がALSに侵されながらそれを一切他言せず、最後まで映画製作の現場に立っていたことを取り上げた。今村は総じて女性を肉感的に表現することを好み、作品には『うなぎ』も含め多くの作品で女優のヌードシーンが登場している。また『ええじゃないか』の女優の放尿シーンは映像倫理審査会の規定に触れるとして物議をかもした事がある。テンプレート:要出典

経歴

東京府東京市の大塚で耳鼻咽喉科の開業医の三男一女の四男として生まれる。父・半次郎は兵庫県加東郡東条村に生まれ、東京帝国大学医学部卒業後、京橋に耳鼻咽喉科医院を開業[24]。母は北海道小樽市の漁師の娘だった[24][25]小学校の同級生に俳優の北村和夫がいた。長兄はフィリピンで戦死。

1944年昭和19年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同期には、星新一小説家)、槌田満文武蔵野大学名誉教授)、大野公男(元北海道情報大学学長)、児玉進(映画監督)、黒澤洋(元日本興業銀行会長)、星野英一東京大学名誉教授)などがいた。

徴兵を避けるため桐生工業専門学校(現・群馬大学工学部)に入学、終戦後直ちに退学し、早稲田大学第一文学部西洋史学科卒業。

早稲田大学では演劇部に所属し演劇活動を行っていたが、『醉いどれ天使』に感動し、演劇に見切りをつけ監督の黒澤明に付こうと思い決めた。しかし、黒澤のいた東宝はその時助監督募集をしていなかった。

1951年(昭和26年)早稲田大学第一文学部を卒業し、松竹大船撮影所に入社。欠員の出た松竹が初の助監督公募を行い2000人中8人という難関を突破しての合格だった。主に小津安二郎の助監督をつとめ、松竹大船助監督部の幹事にまでなったが、収入や仕事で不満を感じ、1954年(昭和29年)に日活に移籍する。のちに「松竹では束縛だらけだったが、日活はまったくなかったから驚いた」と松竹と日活のギャップを語っている。

1957年(昭和32年)の川島雄三監督『幕末太陽傳』や浦山桐郎監督の『キューポラのある街』の脚本も書いている。

1958年に『盗まれた欲情』で監督デビュー。同作では川島雄三との繋がりで黛敏郎が音楽を担当し、以後黛は亡くなるまで今村作品の音楽を担当した[26][27]

1959年の『果しなき欲望』の頃からスタッフが固定化、今村組が形成されていった[28]。同年の『にあんちゃん』は今村の名を一般に知らしめた出世作で文部大臣賞も受賞したが、田坂具隆が日活をやめたための代役で本来やりたい企画ではなく、文部大臣賞の受賞については今村はそのような健全な映画を撮ったことを反省したという[29][30]

1961年の『豚と軍艦』は、高い評価を得る一方、予算オーバーしたことと興行成績が良くなかったためしばらく日活から干されることになった作品である[31]1963年の『にっぽん昆虫記』では山形県で俳優とスタッフによる合宿でのオールロケと同時録音に挑戦し[32]、大胆なセックス描写が話題を呼び[33][34][35]配給収入は3億5千万円と大ヒットした[36]

『にっぽん昆虫記』の大ヒット後は、会社から却下されてお蔵入りしていた『赤い殺意』の企画を甦らせて1964年に公開。同作は今村が自分のベストと認めている作品である[33][37]。この『赤い殺意』などで監督として世間に認められる。

しかし『にっぽん昆虫記』『赤い殺意』で配役や予算、フィルム使用量で会社と衝突し、『赤い殺意』を最後に日活から独立し、1966年3月に自らが代表を務める独立プロの今村プロダクションを設立[38]。以後、ここを拠点に映画製作をした。この時期の今村は柳田国男民俗学に傾倒し、日本の古くからの農村に根付く俗信やルールをテーマとしていた[39]

2年がかりの沖縄ロケをし、初のカラー作品となる『神々の深き欲望』を1968年に発表。同作は各種映画賞を総なめにしたが、長期ロケのために2000万円の借金を抱え、資金難のため、その後の10年間は主にドキュメンタリー作品を手掛けた、この空白期もあり同作は今村の前半期の総決算と位置づけられる作品でもある[40][41]

1975年(昭和50年)、横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)を開校し、校長理事長を務め、三池崇史細野辰興金秀吉佐々部清本広克行李相日佐藤闘介などの映画監督、鄭義信などの脚本家、芥川賞作家の阿部和重、さらに、タレントのウッチャンナンチャン、俳優の長谷川初範隆大介などの人材を輩出した。

1979年に9年ぶりの劇映画となる『復讐するは我にあり』が公開。この作品の映画化をめぐっては、黒木和雄、深作欣二、藤田敏八らと映画化権取得をあらそった。同作品の成功により低迷期を脱し、映画監督として復活をとげる。

『復讐するは我にあり』のヒットにより借金を返済して松竹も利益を上げたことで10年間温めていた企画で初の時代劇となる『ええじゃないか』を1981年に松竹と共同製作して公開。3億円のオープンセットなど莫大な予算を投じたが、不入りで内容的にも今村自身が失敗作と認める結果に終わる[42]

1983年に東映との共同製作で『楢山節考』を発表。同作はカンヌ国際映画祭の最高賞(パルム・ドール)を受賞[43]。受賞効果もあり、1億7千万円で制作した同作は12億円を稼ぐヒットとなった[44]。なお、『楢山節考』を出品した際には、姥捨て山の話など外国人に分かるわけがなくどうせ受賞しないのだからと映画祭を欠席した[45]。同年のカンヌ国際映画祭では大島渚の『戦場のメリークリスマス』の前評判が高く、その下馬評を覆しての受賞だったが、受賞について本人は特に感動がなかったと述べている[46]

『楢山節考』の成功により、東映とは1987年に『女衒 ZEGEN』を共同製作、1989年に東映配給で『黒い雨』を公開して東映とは3本で組んだが、『楢山節考』以外は当たらなかった[47][48]。『黒い雨』は田中好子の演技が評価されたが[49]、20数社に出資を断られて資金調達に苦労し[50]、カンヌでも無冠に終わった[51]。同作を評価するフランス人評論家が無冠を批判する一幕もあった[52]

『黒い雨』の後に7年間沈黙し、1997年に『うなぎ』を発表し、2度目のカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞。同作は今村作品としては水準に達していないという評価があり、受賞は意外であるという反応だった。『楢山節考』では欠席していた今村は夫婦で同映画祭に出席したが、本当は気が進まずに授賞式の前に帰国した[53][54]

『うなぎ』の頃より糖尿病の悪化と加齢により立っているのがやっとの状態で気力も減退し、従来の粘りや執念も発揮できなくなっていたが[55]、その後も1998年に『カンゾー先生』、2001年に『赤い橋の下のぬるい水』を発表。 

2006年(平成18年)5月30日午後3時49分、転移性肝腫瘍のため東京都渋谷区の病院で79歳で死去。遺作は『11'09''01/セプテンバー11』中の短編。

葬儀には、私淑していた映画監督マーティン・スコセッシ[56]「今村昌平監督はマスターです」と弔文を寄せた[57]

監督作品

その他の映像作品

出演作品

テレビ出演

受賞歴

著作

  • 映画は狂気の旅である(2004年、日本経済新聞社) ISBN 4-532-16471-0
  • 撮るーカンヌからヤミ市へ(2001年、工作舎) ISBN 978-4-87502-357-9
  • 『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の生涯』(ノーベル書房:昭和43年)この川島雄三の追悼録が、今村の著作の中でもっとも有名なものとされる。

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参考文献

  • 『今村昌平伝説』(香取俊介著、河出書房新社
  • 『カンヌからヤミ市へ 撮る』(今村昌平著、工作舎

脚注

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関連項目

テンプレート:毎日芸術賞 テンプレート:今村昌平監督作品 テンプレート:ブルーリボン賞監督賞 テンプレート:ブルーリボン賞新人賞

テンプレート:毎日映画コンクール監督賞
  1. 長谷川和彦は『神々の深き欲望』で制作進行。(後に長谷川の上司が辞めてしまったので、新入りの長谷川が制作部門の実質のトップで沖縄ロケを取り仕切った。)
  2. 香取俊介『人間ドキュメント 今村昌平伝説』河出書房新社、2004年、p.295
  3. 田中千世子「映画・書評スペシャル 『教育者・今村昌平』」『キネマ旬報』2011年2月上旬号、pp.158-159
  4. 今村昌平『映画は狂気の旅である 私の履歴書』日本経済新聞社、2004年、pp.175、242
  5. 今村、2004年、p.81
  6. 「わくわくすることを求め続けて 長谷川和彦インタビュー」『20世紀の記憶 かい人21面相の時代 1976-1988』毎日新聞社、2000年、p.26
  7. 香取、2004年、p.180
  8. 佐藤忠男『今村昌平の世界 増補版』学陽書房、1997年、p.72
  9. 香取、2004年、p.200
  10. 今村、2004年、pp.129-130
  11. 佐木隆三「文庫版のためのあとがき」『復讐するは我にあり 改訂新版』文春文庫、2009年、pp.477-478
  12. 香取、2004年、p.52
  13. 「場欄万丈撮影日記 北村和夫の巻」『「のど自慢」な人びと』「のど自慢」な人びと製作委員会編、文藝春秋、1998年、p.57
  14. 香取、2004年、pp.180、455
  15. 紅谷愃一『日本映画のサウンドデザイン 感動場面を演出する音声収録と音響処理のテクニック』誠文堂新光社、2011年、pp.43、47
  16. 今村昌平『撮る カンヌからヤミ市へ』工作舎、2001年、p.291
  17. 香取、2004年、pp.283、297
  18. 18.0 18.1 18.2 今村、2004年、p.242
  19. 今村昌平『撮る カンヌからヤミ市へ』工作舎、2001年、p.218
  20. 村松友視『今平犯科帳 今村昌平とは何者』日本放送出版協会、2003年、p.16
  21. 今村、2004年、p.75
  22. 香取俊介『人間ドキュメント 今村昌平伝説』河出書房新社、2004年、p.258
  23. 香取、2004年、pp.476、491
  24. 24.0 24.1 香取、2004年、pp.71-77
  25. 北海道新聞』2006年5月31日
  26. 今村、2004年、p.97
  27. 香取、2004年、p.143
  28. 香取、2004年、p.151
  29. 佐藤、1997年、pp.30、38
  30. 香取、2004年、p.159
  31. 香取、2004年、p.171
  32. 香取、2004年、p.175
  33. 33.0 33.1 佐藤、1997年、p.75
  34. 桑原稲敏『切られた猥褻 映倫カット史』読売新聞社、1993年、p.83
  35. 藤木TDC松井修「肉体女優映画・成人映画の巨人 大蔵貢が残したピンクの遺産! 八ダカ女優ブームに沸いた昭和30年代と大蔵映画」『別冊宝島240 性メディアの50年 欲望の戦後史ここに御開帳!』宝島社、1995年、p.66
  36. 板持隆『日活映画 興亡の80年』社団法人日本映画テレビプロデューサー協会、1999年、p.69
  37. 香取、2004年、p.189
  38. 今村、2004年、p.127
  39. 今村、2004年、p.105
  40. 今村、2004年、pp.152-153
  41. 村松友視、2003年、p.159
  42. 香取、2004年、pp.341-342
  43. テンプレート:Cite news
  44. 日下部五朗『シネマの極道 映画プロデューサー一代』新潮社、2012年、p.179
  45. 日下部、2012年、p.11
  46. 『映画は狂気の旅である 私の履歴書』日本経済新聞社、2004年、p.193
  47. 日下部、2012年、p.179
  48. 今村昌平『映画は狂気の旅である 私の履歴書』日本経済新聞社、2004年、p.187
  49. 『キネマ旬報』2011年6月上旬号、pp.19、21
  50. 今村昌平『撮る カンヌからヤミ市へ』工作舎、2001年、pp.239-240
  51. 中川洋吉『カンヌ映画祭』講談社現代新書、1994年、pp.90-92
  52. 田山力哉『辛口シネマ批評 これだけは言う』講談社、1993年、p.50
  53. 今村、2004年、p.195
  54. 香取、2004年、pp.454-456
  55. 香取、2004年、pp.455-457
  56. マーティン・スコセッシ「追悼今村昌平 マスター」『映画芸術』2006年秋号第417号、p.68
  57. ETV特集「今村昌平に捧ぐ スコセッシが語る映像哲学 NHK公式サイト内