深沢七郎
テンプレート:Portal 深沢七郎(ふかざわ しちろう、1914年(大正3年)1月29日 - 1987年(昭和62年)8月18日) は、日本の小説家、ギタリスト。
来歴・人物
山梨県東八代郡石和町(現笛吹市)に生まれる。旧制日川中学校(現山梨県立日川高等学校)卒業。中学の頃からギターに熱中し、ギタリストとなる。1923年(大正12年)には京浜地方を中心に発生した関東大震災を生家で体験し、後に『庶民烈伝』において回想している。1954年、「桃原青二」の芸名で日劇ミュージックホールに出演した。
1956年に姨捨山をテーマにした『楢山節考』を中央公論新人賞に応募、第1回受賞作となった。三島由紀夫らが激賞して、ベストセラーになった。また、戦国時代の甲州の農民を描いた『笛吹川』も評判になった。しかし一度も芥川賞候補になっていない。
1960年末に『中央公論』に発表した『風流夢譚』では、皇室を侮辱していると受け取れるような内容を描いたため、翌年、中央公論社社長宅が右翼に襲撃される嶋中事件(風流夢譚事件)が起こった。そのため筆を折って3年間各地を放浪した。放浪中も『放浪の手記』などを執筆している。
1965年、埼玉県南埼玉郡菖蒲町(現久喜市)に落ち着き、上大崎の見沼代用水近くに2人の若者を連れて「ラブミー農場」[1]を開き、以後そこに住んだ。
1968年10月31日、心筋症による重度の心臓発作に見舞われ、生死の境をさまよった。以後、亡くなるまでの19年間、闘病生活を送ることとなる。
1971年、東京都墨田区東向島の東武曳舟駅の近くで今川焼屋「夢屋」を開く。包装紙は横尾忠則のデザインによる。このころ「夢屋」の入っている建物の3階に住む女性が窓から水を捨てたところ、それが誤って「夢屋」の客にかかってしまったことがある。激怒した深沢は女性に謝罪を要求したが拒まれたため、彼女を殴り、傷害罪の容疑で逮捕・書類送検された[2]。
1981年に『みちのくの人形たち』で谷崎潤一郎賞を受賞した。
1987年8月18日、心不全のため73歳で死去した。告別式では、遺言に従ってフランツ・リストの『ハンガリー狂詩曲』やエルヴィス・プレスリー、ローリングストーンズなどをBGMに自ら般若心経を読経したテープや、自ら作詞した『楢山節』の弾き語りのテープが流された。
実際、エルヴィス・プレスリーの大ファンで、「短編しか書けないのは、マンボやロカビリーやウエスタンのような小説が書きたかったから」と語っていた。「東京のプリンスたち」にはエルヴィスの曲名が次々に登場する。また、ビートルズやジミ・ヘンドリックスも好んでいた。
晩年のラブミー農場には、嵐山光三郎や赤瀬川原平らが招かれていた。嵐山は深沢を「師匠」と呼んでいる。
著作
- 楢山節考(1956年)- 中央公論新人賞受賞
- 東北の神武たち(1957年)
- 揺れる家(1957年)短編
- 柞葉の母(1957年)短編
- 三つエチュード(1957年)短編
- 言わなければよかったのに日記(1958年)エッセイ
- 笛吹川(1958年)
- 木曽節お六(1958年)短編
- ささやき記(1958年)エッセイ
- 東京のプリンスたち(1959年)
- 「文士劇」ありのままの記(1959年)エッセイ
- 風流夢譚(1960年)
- 流浪の手記 : 風流夢譚余話(1963年)エッセイ
- 正宗白鳥と私(1963年)
- 千秋楽(1964年)
- 甲州子守唄(1964年)
- 人間滅亡の唄(1966年)
- 生態を変える記(1966年)エッセイ
- 庶民烈伝(1970年)
- 人間滅亡的人生案内(1971年)
- 怠惰の美学(1972年)
- 盆栽老人とその周辺(1973年)
- 無妙記(1975年)
- 妖木犬山椒(1978年)
- みちのくの人形たち(1979年)-谷崎潤一郎賞受賞
- ちょっと一服、冥土の道草(1983年)エッセイ
- 極楽まくらおとし図(1984年)
映画化された作品
レコード
- ギター独奏集・祖母の昔語り(1973年)