芥川龍之介賞
テンプレート:Redirect テンプレート:Infobox Award 芥川龍之介賞(あくたがわりゅうのすけしょう)、通称芥川賞は、純文学の新人に与えられる文学賞である。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われ、賞が授与される。
大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛が1935年に直木三十五賞(直木賞)とともに創設し以降年2回発表される。第二次世界大戦中の1945年から一時中断したが1949年に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円(2011年現在)が授与され受賞作は『文藝春秋』に掲載される。
選考委員は小川洋子、奥泉光、川上弘美、島田雅彦、高樹のぶ子、堀江敏幸、宮本輝、村上龍、山田詠美の9名(2012年上半期から)。選考会は、料亭『新喜楽』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見とその翌月の授賞式は、ともに東京會舘で行われる。
目次
成立
1934年、菊池寛は『文藝春秋』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にてこの年の2月に死去した直木三十五、1927年に死去した芥川龍之介の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。1924年に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『文学界』の編集者であった川崎竹一の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎がゴンクール賞やノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに日本でも権威のある文学賞を設立するべきだと書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている[1]。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。設立当時から賞牌として懐中時計が贈られるとされており、当時の副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として川端康成、佐藤春夫、山本有三、瀧井孝作ら11名があたることになった。
芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている[2]。1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており[3]、1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している[4]。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは1956年の石原慎太郎「太陽の季節」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく「太陽族」という新語が生まれ石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした[3]。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり1957年下半期に開高健、1958年上半期に大江健三郎が受賞した頃には新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた[5]。今日においても話題性の高さは変わらず特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。
選考過程
(以下は『ダカーポ』2006年7月19日号掲載の「芥川賞・直木賞はこうして決定する」による。これは日本文学振興会スタッフ菊池夏樹への取材に基づくもの)
上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは日本文学振興会から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6~7回ずつ計12~14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。
最終候補作が決定した時点で候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に築地の料亭・新喜楽1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる。
選考基準
「新人」の基準
芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新人作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。戦中から戦後にかけて芥川賞が4年間中断していた時期に野間宏、中村真一郎、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳 、三島由紀夫ら「戦後派」と呼ばれる作家たちが登場して注目を浴びたが1949年の芥川賞復活後、彼らは新人ではないと見なされて候補に挙がることもなかった(なおこの内、梅崎春生は直木賞を受賞している)。また島木健作や田宮虎彦、後述する井上光晴のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしば起こった。他方、第5回(1937年上半期)に受賞した尾崎一雄は受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている[6]。第38回(1957年下半期)に開高健と競って僅差で落選した大江健三郎はその後の半年間にも次々と話題作を発表し、続く第39回(1958年上半期)でも候補となったが作品のレベルでは群を抜いていたにも関わらず新人といえるかどうかが議論の的となった[7]。大江の受賞が決定した時には、選考委員の佐藤春夫は「芥川賞は今日以後新人の登竜門ではなく、新進の地位を安定させる底荷のような賞と合点した」と皮肉を述べている。
現在ではデビューして数年経ち、他の文学賞を複数受賞しているような作家が芥川賞を受賞することも珍しくなくなっている。近年ではデビューして10年たち伊藤整文学賞、毎日出版文化賞と権威ある賞を受けていた阿部和重が作家的地位も確立していた2004年下半期に芥川賞を受賞し「複雑な心境。新人に与えられる賞なので、手放しで喜んでいられない」とコメントした。
作品の長さ
芥川賞は短編・中編作品を対象としており長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた石川達三は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回(1964年上半期)受賞の柴田翔「されどわれらが日々―」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった[8]。第50回(1963年下半期)芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の石川淳は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している[5]。また国際的にも評価の高い村上春樹は芥川賞を受賞していないが村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、すぐに長編に移行したことが理由の一つに挙げられる[9]。
なお「作品の短さ」は本になったときに読みやすくまた値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている[10]。
直木賞との境界
純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木賞との境界があいまいになることがしばしばある。第6回(1937年下半期)直木賞には純文学の作家として名をなしていた井伏鱒二が受賞しており、直木賞選考委員の久米正雄は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている[11]。のちに社会派推理作家として一般に認知された松本清張は、「或る『小倉日記』伝」で1952年下半期に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった[12]。第46回(1961年下半期)の両賞では宇能鴻一郎が芥川賞を、伊藤桂一が直木賞をとり、このとき文芸評論家の平野謙は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている[13]。同様の事態は第111回(1998年上半期)にも起こり、このときには私小説の作家であった車谷長吉が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた花村萬月、ハードボイルド調の作品を書いていた藤沢周が芥川賞を取ったことで話題となった。
芥川賞に比べて直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、檀一雄、柴田錬三郎、山田詠美、角田光代などのように芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは柴田錬三郎「デスマスク」(第25回・1951年上半期)、北川荘平「水の壁」(第39回・1958年上半期)など芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。
批判
賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりとその商業的な性格を認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため1937年に財団法人日本文学振興会を創設し両賞をまかなわせるようになったが同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)[14]。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)プロレタリア文学の傑作のためには、小林多喜二賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。
文学賞に対する批判本『文学賞メッタ斬り!』を著した大森望、豊崎由美は現在の芥川賞の問題点として選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることなどを挙げている。また豊崎は改善策として選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の3分の1は文芸評論家にするなどの案を示している[15]。
最年少・最年長受賞記録
特に若年での受賞や学生作家の受賞は大きな話題となる。最年少記録は、1967年の丸山健二の記録が37年近く破られていなかったが、2004年の綿矢りさ、金原ひとみの同時受賞で大幅に更新された。
順位 | 受賞者名 | 受賞時期 | 受賞時の年齢 |
---|---|---|---|
1 | 綿矢りさ | 2003年下半期(第130回) | |
2 | 金原ひとみ | 2003年下半期(第130回) | |
3 | 丸山健二 | 1966年下半期(第56回) | |
4 | 石原慎太郎 | 1955年下半期(第34回) | |
5 | 大江健三郎 | 1958年上半期(第39回) | |
6 | 平野啓一郎 | 1998年下半期(第120回) | |
7 | 青山七恵 | 2006年下半期(第136回) | |
8 | 村上龍 | 1976年上半期(第75回) |
順位 | 受賞者名 | 受賞年 | 受賞時の年齢 |
---|---|---|---|
1 | 黒田夏子 | 2012年下半期(第148回)テンプレート:0 | |
2 | 森敦 | 1973年下半期(第70回)テンプレート:0 | |
3 | 三浦清宏 | 1987年下半期(第98回)テンプレート:0 | |
4 | 米谷ふみ子 | 1985年下半期(第94回)テンプレート:0 |
歴代ベストセラー作品
ここでは現在までの累計発行部数が100万部を超える受賞作を解説する(作品名は単行本タイトル。発行部数は『ダカーポ』2006年7月19日号に基づくもので、『蹴りたい背中』を除いて単行本と文庫との総計。古い時代のものは正確な売り上げデータが残っておらず売り上げに計上されていないものもある)。
- 安部公房 『壁』(第25回・1951年上半期)130万部
- 「戦後派」の代表的作家の一人・安部公房の作品。『壁』は3部からなるが受賞作は第1部にあたる「壁―S・カルマ氏の犯罪」で、名前を失った男の奇譚を描くシュルレアリスム風の前衛的な作品であった。石川利光「春の草」との同時受賞で、こちらは対照的に古風な作品である。選考委員のなかでは川端康成、丹羽文雄、瀧井孝作が強く推し「退屈」として宇野浩二が反対したが、他の委員が前者に同調するかたちで受賞が決まった。
- 石原慎太郎 『太陽の季節』(第34回・1955年下半期)102万部
- 前述したように「太陽族」という新語とともにブームを巻き起こし、芥川賞の話題性を決定付けた作品である。裕福な家庭で育った若者の無軌道な生活を描いたもので、奔放な性描写が話題となった。選考では最終的に藤枝静男の「痩我慢の説」との対決となり、この2作に対し選考委員の意見が分かれた。委員のうち舟橋聖一、石川達三がそれぞれ欠点を指摘しつつも「太陽の季節」を終始積極的に支持、佐藤春夫、丹羽文雄、宇野浩二が強く反対し最終的に瀧井孝作、川端康成、中村光夫、井上靖が前者に同調した。作者が弟の石原裕次郎から聞いた話が題材になっており1956年に映画化され(主演長門裕之)石原裕次郎も脇役として出演、これが裕次郎のデビュー作となった。
- 大江健三郎 『死者の奢り・飼育』(第39回・1958年上半期)109万部
- 「飼育」が受賞作。大江は前年度の第38回(1957年下半期)にも「死者の奢り」で候補となっていたが、このときには開高健「裸の王様」が受賞。開高の受賞時丹羽文雄は「技巧の点では大江のほうが上だが、視野が狭くて落ちた。開高は作品に傷はあるけれども、故島木健作の持っていたシンの強さがあり、視野も広い」としている[5]。「飼育」は大江の故郷である四国の村を舞台に子供である「僕」と村人に捕らえられた黒人兵との関係を描いた作品で、当時の大江はサルトルの影響を強く受けた作風であった。「飼育」は選考委員の間で評価の高さは一致したものの前述の通り大江がすでに有名作家となっていたことが問題となった。一旦大江をはずして審査し、他に該当作なしとなった後、「今回は賞無しというのも少し淋しいかと思って」(瀧井孝作)というような意見から受賞が決定した。舟橋聖一は「死者の奢り」にこそ賞を出したかったという選評を行なっている。
- 柴田翔 『されどわれらが日々──』(第51回・1964年上半期)186万部
- 東京大学の学生を主人公に、当時の学生運動を背景にして描かれた青春小説。血のメーデー事件による革命への気分の高揚、六全協での挫折が物語の主軸となっており当時の若者に広く読まれた。選考では前述のように280枚の長さが問題となったが「他の候補作品にくらべて力倆は抜群」(石川達三)、「読み出すとスラスラ読めるので、却って、落ちた作の五十枚前後のほうが、読むのに骨が折れた」(丹羽文雄)といった意見から受賞が決定した。柴田はその後ドイツ文学者(東大教授)となった。
- 庄司薫 『赤頭巾ちゃん気をつけて』(第61回・1969年上半期)160万部
- 安保闘争などの学生運動を背景に、日比谷高等学校の男子生徒の一日を軽妙な文体で描いた作品。庄司は本名の福田章二としてデビューし、9年の沈黙を経て本作を発表した。「さようなら怪傑黒頭巾」などに続く4部作の第1作にあたり、作風にはサリンジャーなどのアメリカ文学からの影響が指摘されている。田久保英夫「深い河」との同時受賞。選考では三島由紀夫、石川淳らから激賞を受けている。
- 村上龍 『限りなく透明に近いブルー』(第75回・1976年上半期)354万部(単行本131万部、文庫223万部)
- 作者の実体験に基づき、米軍基地に近い町でドラッグとセックスに溺れる若者をLSD的な感覚で描いた作品。センセーショナルな内容が話題となり、歴代受賞作で最も売れた作品となった。選考では意見が真っ二つに分かれ「因果なことに才能がある」と評した吉行淳之介のほか、丹羽文雄、中村光夫、井上靖が支持したが永井龍男、瀧井孝作が強く反発。受賞後も江藤淳が酷評するなど論議を起こした。受賞作は村上自身の手により1979年に映画化されている。
- 池田満寿夫 『エーゲ海に捧ぐ』(第77回・1977年上半期)126万部
- 三田誠広『僕って何』との同時受賞。池田はすでに版画家として国際的な評価を得ていたため受賞は大きな話題となった。作品は池田自身を思わせる主人公がアメリカの撮影スタジオで、日本の妻と国際電話で会話しながら目の前のアメリカ人女性のヌードを観察するというエロティシズムを全面的に押し出したもの。1979年に池田自身により映画化されている。選考では中村光夫から高い評価を受けたが永井龍男は「空虚な痴態」「これは文学ではない」と授賞に抗議し、この作品と上記の村上の受賞を理由に選考委員を辞任している。
- 綿矢りさ 『蹴りたい背中』(第130回・2003年下半期)127万部(単行本のみ)
- 綿矢は17歳のときに『インストール』でデビュー、芥川賞受賞時は19歳で20歳の金原ひとみと同時受賞し最年少記録を大幅に更新、単行本は『限りなく透明に近いブルー』以来28年ぶりのミリオンセラーとなった。受賞作は周囲に溶け込めない女子高生とアイドルおたくの男子生徒との交流を描いたもので、唯一反対した三浦哲郎を除く選考委員の票をすべて集め受賞が決定。「高校における異物排除のメカニズムを正確に書く技倆に感心した」(池澤夏樹)、「作者は作者の周辺に流行しているだろうコミック的観念遊びに足をとられず、小説のカタチで新しさを主張する愚にも陥らず、あくまで人間と人間関係を描こうとしている」(高樹のぶ子)と各選考委員から高評価を受けた。綿矢の受賞と前後してこの時期10~20代前半の作家のデビューが相次ぎ、若年層の活躍を印象付けた。
太宰治の落選について
第1回芥川賞では、デビューしたばかりの太宰治も候補となった。太宰は当時パビナール中毒症に悩んでおり薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった川端康成は太宰について「作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる悩みがあった」と評していたがこれに対して太宰は強く憤り『文藝通信』に「川端康成へ」と題する文章を掲載、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す、さうおもった。大悪党だと思った」と川端をなじった(川端康成へ)。これに対し川端も翌月の『文藝通信』で「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁した。また太宰は選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが第3回以降しばらく「1度候補に挙がった者は以後候補としない」とする規定が設けられ受賞の機会が奪われることとなった。佐藤はこれらの経緯を「小説 芥川賞」と題して詳しく描いている。
受賞者一覧
1930年代
- 第1回(1935年上半期) - 石川達三「蒼氓」
- 第2回(1935年下半期) - 該当作品なし(二・二六事件のため審査中止)
- 第3回(1936年上半期) - 小田嶽夫「城外」、鶴田知也「コシャマイン記」
- 第4回(1936年下半期) - 石川淳「普賢」、冨澤有爲男「地中海」
- 第5回(1937年上半期) - 尾崎一雄「暢気眼鏡」他
- 第6回(1937年下半期) - 火野葦平「糞尿譚」
- 第7回(1938年上半期) - 中山義秀「厚物咲」
- 第8回(1938年下半期) - 中里恒子「乗合馬車」他
- 第9回(1939年上半期) - 半田義之「鶏騒動」、長谷健「あさくさの子供」
- 第10回(1939年下半期) - 寒川光太郎「密獵者」
1940年代
- 第11回(1940年上半期) - 高木卓「歌と門の盾」(受賞辞退)
- 第12回(1940年下半期) - 櫻田常久「平賀源内」
- 第13回(1941年上半期) - 多田裕計「長江デルタ」
- 第14回(1941年下半期) - 芝木好子「青果の市」
- 第15回(1942年上半期) - 該当作品なし
- 第16回(1942年下半期) - 倉光俊夫「連絡員」
- 第17回(1943年上半期) - 石塚喜久三「纏足の頃」
- 第18回(1943年下半期) - 東野邊薫「和紙」
- 第19回(1944年上半期) - 八木義徳「劉廣福」、小尾十三「登攀」
- 第20回(1944年下半期) - 清水基吉「雁立」
(第二次世界大戦のため中断)
1950年代
- 第23回(1950年上半期) - 辻亮一「異邦人」
- 第24回(1950年下半期) - 該当作品なし
- 第25回(1951年上半期) - 安部公房「壁 S・カルマ氏の犯罪」、石川利光「春の草」他
- 第26回(1951年下半期) - 堀田善衛「広場の孤独」「漢奸」その他
- 第27回(1952年上半期) - 該当作品なし
- 第28回(1952年下半期) - 五味康祐「喪神」、松本清張「或る『小倉日記』伝」
- 第29回(1953年上半期) - 安岡章太郎「悪い仲間・陰気な愉しみ」
- 第30回(1953年下半期) - 該当作品なし
- 第31回(1954年上半期) - 吉行淳之介「驟雨」その他
- 第32回(1954年下半期) - 小島信夫「アメリカン・スクール」、庄野潤三「プールサイド小景」
- 第33回(1955年上半期) - 遠藤周作「白い人」
- 第34回(1955年下半期) - 石原慎太郎「太陽の季節」
- 第35回(1956年上半期) - 近藤啓太郎「海人舟」
- 第36回(1956年下半期) - 該当作品なし
- 第37回(1957年上半期) - 菊村到「硫黄島」
- 第38回(1957年下半期) - 開高健「裸の王様」
- 第39回(1958年上半期) - 大江健三郎「飼育」
- 第40回(1958年下半期) - 該当作品なし
- 第41回(1959年上半期) - 斯波四郎「山塔」
- 第42回(1959年下半期) - 該当作品なし
1960年代
- 第43回(1960年上半期) - 北杜夫「夜と霧の隅で」
- 第44回(1960年下半期) - 三浦哲郎「忍ぶ川」
- 第45回(1961年上半期) - 該当作品なし
- 第46回(1961年下半期) - 宇能鴻一郎「鯨神」
- 第47回(1962年上半期) - 川村晃「美談の出発」
- 第48回(1962年下半期) - 該当作品なし
- 第49回(1963年上半期) - 後藤紀一「少年の橋」、河野多惠子「蟹」
- 第50回(1963年下半期) - 田辺聖子「感傷旅行 センチメンタル・ジャーニィ」
- 第51回(1964年上半期) - 柴田翔「されどわれらが日々──」
- 第52回(1964年下半期) - 該当作品なし
- 第53回(1965年上半期) - 津村節子「玩具」
- 第54回(1965年下半期) - 高井有一「北の河」
- 第55回(1966年上半期) - 該当作品なし
- 第56回(1966年下半期) - 丸山健二「夏の流れ」
- 第57回(1967年上半期) - 大城立裕「カクテル・パーティー」
- 第58回(1967年下半期) - 柏原兵三「徳山道助の帰郷」
- 第59回(1968年上半期) - 丸谷才一「年の残り」、大庭みな子「三匹の蟹」
- 第60回(1968年下半期) - 該当作品なし
- 第61回(1969年上半期) - 庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」、田久保英夫「深い河」
- 第62回(1969年下半期) - 清岡卓行「アカシヤの大連」
1970年代
- 第63回(1970年上半期) - 吉田知子「無明長夜」、古山高麗雄「プレオー8の夜明け」
- 第64回(1970年下半期) - 古井由吉「杳子」
- 第65回(1971年上半期) - 該当作品なし
- 第66回(1971年下半期) - 李恢成「砧をうつ女」、東峰夫「オキナワの少年」
- 第67回(1972年上半期) - 畑山博「いつか汽笛を鳴らして」、宮原昭夫「誰かが触った」
- 第68回(1972年下半期) - 山本道子 「ベティさんの庭」、郷静子「れくいえむ」
- 第69回(1973年上半期) - 三木卓「鶸」
- 第70回(1973年下半期) - 野呂邦暢「草のつるぎ」、森敦「月山」
- 第71回(1974年上半期) - 該当作品なし
- 第72回(1974年下半期) - 日野啓三「あの夕陽」、阪田寛夫「土の器」
- 第73回(1975年上半期) - 林京子「祭りの場」
- 第74回(1975年下半期) - 中上健次「岬」、岡松和夫「志賀島」
- 第75回(1976年上半期) - 村上龍「限りなく透明に近いブルー」
- 第76回(1976年下半期) - 該当作品なし
- 第77回(1977年上半期) - 三田誠広「僕って何」、池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」
- 第78回(1977年下半期) - 宮本輝「螢川」、高城修三 「榧の木祭り」
- 第79回(1978年上半期) - 高橋揆一郎「伸予」、高橋三千綱「九月の空」
- 第80回(1978年下半期) - 該当作品なし
- 第81回(1979年上半期) - 重兼芳子「やまあいの煙」、青野聰「愚者の夜」
- 第82回(1979年下半期) - 森禮子「モッキングバードのいる町」
1980年代
- 第83回(1980年上半期) - 該当作品なし
- 第84回(1980年下半期) - 尾辻克彦「父が消えた」
- 第85回(1981年上半期) - 吉行理恵「小さな貴婦人」
- 第86回(1981年下半期) - 該当作品なし
- 第87回(1982年上半期) - 該当作品なし
- 第88回(1982年下半期) - 加藤幸子 「夢の壁」、唐十郎「佐川君からの手紙」
- 第89回(1983年上半期) - 該当作品なし
- 第90回(1983年下半期) - 笠原淳「杢二の世界」、高樹のぶ子「光抱く友よ」
- 第91回(1984年上半期) - 該当作品なし
- 第92回(1984年下半期) - 木崎さと子「青桐」
- 第93回(1985年上半期) - 該当作品なし
- 第94回(1985年下半期) - 米谷ふみ子「過越しの祭」
- 第95回(1986年上半期) - 該当作品なし
- 第96回(1986年下半期) - 該当作品なし
- 第97回(1987年上半期) - 村田喜代子「鍋の中」
- 第98回(1987年下半期) - 池澤夏樹「スティル・ライフ」、三浦清宏「長男の出家」
- 第99回(1988年上半期) - 新井満 「尋ね人の時間」
- 第100回(1988年下半期) - 南木佳士「ダイヤモンドダスト」、李良枝「由煕」
- 第101回(1989年上半期) - 該当作品なし
- 第102回(1989年下半期) - 大岡玲「表層生活」、瀧澤美恵子「ネコババのいる町で」
1990年代
- 第103回(1990年上半期) - 辻原登「村の名前」
- 第104回(1990年下半期) - 小川洋子「妊娠カレンダー」
- 第105回(1991年上半期) - 辺見庸「自動起床装置」、荻野アンナ「背負い水」
- 第106回(1991年下半期) - 松村栄子「至高聖所アバトーン」
- 第107回(1992年上半期) - 藤原智美「運転士」
- 第108回(1992年下半期) - 多和田葉子「犬婿入り」
- 第109回(1993年上半期) - 吉目木晴彦「寂寥郊野」
- 第110回(1993年下半期) - 奥泉光「石の来歴」
- 第111回(1994年上半期) - 室井光広「おどるでく」、笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」
- 第112回(1994年下半期) - 該当作品なし
- 第113回(1995年上半期) - 保坂和志「この人の閾」
- 第114回(1995年下半期) - 又吉栄喜「豚の報い」
- 第115回(1996年上半期) - 川上弘美「蛇を踏む」
- 第116回(1996年下半期) - 辻仁成「海峡の光」、柳美里「家族シネマ」
- 第117回(1997年上半期) - 目取真俊「水滴」
- 第118回(1997年下半期) - 該当作品なし
- 第119回(1998年上半期) - 花村萬月「ゲルマニウムの夜」、藤沢周「ブエノスアイレス午前零時」
- 第120回(1998年下半期) - 平野啓一郎「日蝕」
- 第121回(1999年上半期) - 該当作品なし
- 第122回(1999年下半期) - 玄月「蔭の棲みか」、藤野千夜「夏の約束」
2000年代
- 第123回(2000年上半期) - 町田康「きれぎれ」、松浦寿輝「花腐し」
- 第124回(2000年下半期) - 青来有一「聖水」、堀江敏幸「熊の敷石」
- 第125回(2001年上半期) - 玄侑宗久「中陰の花」
- 第126回(2001年下半期) - 長嶋有「猛スピードで母は」
- 第127回(2002年上半期) - 吉田修一「パーク・ライフ」
- 第128回(2002年下半期) - 大道珠貴「しょっぱいドライブ」
- 第129回(2003年上半期) - 吉村萬壱「ハリガネムシ」
- 第130回(2003年下半期) - 金原ひとみ「蛇にピアス」、綿矢りさ「蹴りたい背中」(最年少受賞)
- 第131回(2004年上半期) - モブ・ノリオ「介護入門」
- 第132回(2004年下半期) - 阿部和重「グランド・フィナーレ」
- 第133回(2005年上半期) - 中村文則「土の中の子供」
- 第134回(2005年下半期) - 絲山秋子「沖で待つ」
- 第135回(2006年上半期) - 伊藤たかみ「八月の路上に捨てる」
- 第136回(2006年下半期) - 青山七恵「ひとり日和」
- 第137回(2007年上半期) - 諏訪哲史「アサッテの人」
- 第138回(2007年下半期) - 川上未映子「乳と卵」
- 第139回(2008年上半期) - 楊逸「時が滲む朝」
- 第140回(2008年下半期) - 津村記久子「ポトスライムの舟」
- 第141回(2009年上半期) - 磯崎憲一郎「終の住処」
- 第142回(2009年下半期) - 該当作品なし
2010年代
- 第143回(2010年上半期) - 赤染晶子「乙女の密告」
- 第144回(2010年下半期) - 朝吹真理子「きことわ」、西村賢太「苦役列車」
- 第145回(2011年上半期) - 該当作品なし
- 第146回(2011年下半期)- 円城塔「道化師の蝶」、田中慎弥「共喰い」
- 第147回(2012年上半期)- 鹿島田真希「冥土めぐり」
- 第148回(2012年下半期)- 黒田夏子「abさんご」
- 第149回(2013年上半期)- 藤野可織「爪と目」
- 第150回(2013年下半期)- 小山田浩子「穴」
- 第151回(2014年上半期)- 柴崎友香「春の庭」
歴代選考委員
各回ごとの出席状況などは別項芥川賞の受賞者一覧を参照。
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参考文献
選評は『芥川賞全集』に収録されている。
- 永井龍男ほか『芥川賞の研究』みき書房、1979年
- 永井龍男『回想の芥川・直木賞』文藝春秋、1979年
- 『芥川賞全集』文藝春秋、1982年-
- 『ダカーポ』2006年7月19日号「特集・芥川賞、直木賞を徹底的に楽しむ」マガジンハウス
- 大森望、豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』シリーズ、PARCO出版、2004年-
脚注、出典
関連項目
いずれも非公募の純文学新人賞。
外部リンク
テンプレート:ウィキポータルリンク テンプレート:ウィキポータルリンク
テンプレート:Good article- ↑ 梅田康夫「芥川賞裏話」『創』1977年3月号初出、『芥川賞の研究』124-125頁
- ↑ 永井龍男、佐佐木茂作「芥川賞の生まれるまで(対談)」『文学界』1959年3月号初出、『芥川賞の研究』10-11頁
- ↑ 3.0 3.1 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁
- ↑ 遠藤周作、開高健「対談 芥川賞」『文学界』1963年9月号初出、『芥川賞の研究』158-159頁
- ↑ 5.0 5.1 5.2 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁
- ↑ 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』133頁
- ↑ 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』147頁
- ↑ 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』149頁
- ↑ 「なぜ村上春樹は芥川賞をとれなかったのか?」『ダカーポ』2006年7月19日号、28-29頁
- ↑ 「データでみる芥川賞・直木賞」『ダカーポ』2006年7月19日号、18-19頁
- ↑ 橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」『小説新潮』1964年1・2月号初出、『芥川賞の研究』117-118頁
- ↑ 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』140頁
- ↑ 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』148頁
- ↑ 橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」、『芥川賞の研究』70頁
- ↑ 「文学賞大国ニッポン―両賞の位置は?」『ダカーポ』2006年7月19日号、34-35頁