ノーベル賞
テンプレート:Infobox Award ノーベル賞(ノーベルしょう)は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞のことである。物理学、化学、医学生理学、文学、平和、経済学の6分野で顕著な功績を残した人物に贈られる。
目次
沿革
ノーベル賞は、スウェーデン語ではNobelpriset、ノルウェー語ではNobelprisen、英語ではNobel Prize(テンプレート:IPA-en ノウベル・プライズ)と言う。1895年に創設され、1901年に初めて授与式が行われた。一方、ノーベル経済学賞と一般に言われているアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞は、1968年に設立され、1969年に初めての授与が行われた。
賞設立の遺言を残したアルフレッド・ノーベル(1833年10月21日 - 1896年12月10日)はスウェーデンの発明家・企業家であり、ダイナマイトをはじめとする様々な爆薬の開発・生産によって巨万の富を築いた。しかし爆薬や兵器をもとに富を築いたノーベルには一部から批判の声が上がっていた。1888年、兄のリュドビックがカンヌにて死去するが、この時フランスのある新聞がアルフレッドが死去したと取り違え、「死の商人、死す」との見出しとともに報道。自分の死亡記事を読む羽目になったノーベルは困惑し、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになった[1]。1896年12月10日に63歳でノーベルは死去する[2]が、遺言は死の1年以上前の1895年11月27日にパリのスウェーデン人・ノルウェー人クラブにおいて署名されていた[3][4]。
この遺言においてノーベルは、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と残している。彼がこの遺言のために残した金額は彼の総資産の94%、3100万スウェーデン・クローナに及んだ[5]。周辺の人々はこの遺言に疑いを持ったため、1897年4月26日までこの遺言はノルウェー国会において承認されなかった[6]。その後、彼の遺志を継ぐためにRagnar SohlmanとRudolf Lilljequistがノーベル財団設立委員会を結成し、賞設立の準備を行った[7]。賞の名前はノーベルを記念してノーベル賞とされた。1897年4月には平和賞を授与するためのノルウェー・ノーベル委員会が設立され、6月7日にはカロリンスカ研究所が、6月9日にはスウェーデン・アカデミーが、6月11日にはスウェーデン王立科学アカデミーが授与機関に選定されて[8]選考体制は整った。賞の授与体制が整うと、1900年にノーベル財団の設立法令がスウェーデン国王オスカル2世によって公布された。1905年にノルウェーとスウェーデンは同君連合を解消したが、両国分離後も授与機関は変更されなかった.[6]。
部門
以下の6部門から構成される。
特に自然科学部門のノーベル物理学賞、化学賞、医学生理学賞の3部門における受賞は科学分野における最大級の栄誉であると考えられている。近年は医学生理学賞と化学賞、物理学賞との境界が曖昧な分野が増えてきている。
複数人による共同研究や、共同ではないが複数人による業績が受賞理由になる場合は、一度に3人まで同時受賞することができる。ただし性質上「複数人による業績」が考えづらい文学賞は例外で、定数は一度に1人と定められている。また、基本的に個人にのみ与えられる賞であるが、平和賞のみ団体の受賞が認められており、過去に国境なき医師団などが受賞している。
選考
選考は「物理学賞」、「化学賞」、「経済学賞」の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、「医学生理学賞」はカロリンスカ研究所が、「平和賞」はノルウェー・ノーベル委員会[9]が、「文学賞」はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行う。
ノーベル賞の選考は秘密裏に行われ、その過程は受賞の50年後に公表される。よって「ノーベル賞の候補」というものは公的には存在しないことになるが、「いつか受賞するだろう」と目される人物が各分野に存在するのも事実である。トムソン・ロイターは旧トムソン時代から毎年独自にノーベル賞候補を選定発表している(トムソン・ロイター引用栄誉賞)が、これは近年の論文の引用数などから算出したものである。ただしノーベル賞はアカデミズムにおいて業績の評価がある程度定着してから決定されることが多いので、必ずしもこの基準で賞が決まるわけではない。最終選考は発表日当日に行われることが慣例になっており、マスコミの事前予想が難しい所以である。
資格
1973年までは、受賞者の候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもあった。例としては、1931年の文学賞を受賞したエリク・アクセル・カールフェルト、1961年の平和賞を受賞したダグ・ハマーショルドが授賞決定発表時に故人であった。
1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが授賞の条件とされている。しかし、2011年には、医学生理学賞に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していたことが後に判明し、問題となったことがある[10]。
ただし、授賞決定発表の後に本人が死去した場合には、その授賞が取り消されることはない。上記のスタインマンの場合はこの規定に準ずる扱いを受けることになり、特別に故人でありながらも正式な受賞者として認定されることが決まった。
授賞式
授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、「平和賞」はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行われ(古くはオスロ大学の講堂で行われた)、受賞者には、賞金の小切手、賞状、メダルがそれぞれ贈られる[11][12]。
晩餐会
授賞式終了後、平和賞以外はストックホルム市庁舎(1930年まではストックホルムのグランドホテルの舞踏室)にて、スウェーデン王室および約1,300人のゲストが参加する 晩餐会が行われる。平和賞の晩餐会はオスロのグランドホテルで行われ、こちらにはノルウェーの国会、首相および2006年以降はノルウェーの国王夫妻を含めた約250人が招かれる。1979年の平和賞の晩餐会は受賞者のマザー・テレサが「貧しい人にお金を使ってください」として出席を辞退、開催を中止させて、晩餐会に使うはずだった7000USドルの費用はカルカッタの2000人のホームレスへのクリスマスの夕食に使われた。これは現時点で唯一の晩餐会が中止になった例である。
1991年にノーベル賞90周年事業の一環として、晩餐会に使う食器類をすべてスウェーデン製に置き換えようとしたが、カトラリーだけはその複雑なデザイン故に仕上げ研磨ができる技術が国内に無く、カトラリーのデザインを担当したゴナ・セリンが懇意にしていた新潟県燕市の山崎金属工業に依頼した[13]。食器類など受賞式に使う調度品は、普段は厳重に鍵のかかった倉庫に保管されており、ノーベル賞の晩餐会にのみ使用される。 晩餐会で使用されるカトラリーセットは「ノーベルデザインカトラリー」として一般向けにも販売されている。
その他のイベント
受賞者は受賞後にノーベル・レクチャーと呼ばれる記念講演を行うのが通例になっている。その後、受賞者はストックホルム大学やストックホルム経済大学などの大学の学生有志団体が毎年持ち回りで行うパーティーに出席し、そこで大学生らと希望する受賞者はさらなる躍進を願っていっせいに「蛙跳び」をするのが慣例となっている。
授与
受賞者へは賞状とメダルと賞金が与えられる。受賞者に与えられる賞金は、ノーベルの遺言に基づき、彼の遺産をノーベル財団が運用して得た利益を原資としている。但し「経済学賞」は1968年に創設され1969年から授与されたが、その原資はスウェーデン国立銀行の基金による。そのため、この賞は正式名称を「アルフレッド・ノーベルを記念した経済学におけるスウェーデン国立銀行賞」としており、厳密にはノーベル賞には含めない場合も多い。
2001年から現在まで賞金額は1,000万スウェーデン・クローナ(約1億円)である。しかしスウェーデンのノーベル財団は2012年6月11日の理事会で、過去10年間にわたって運用益が予想を下回ったこと等を理由として、2012年のノーベル賞受賞者に贈る賞金を2割少ない800万スウェーデン・クローナ(約8,900万円)とすることを決めた[14]。 賞金の配分については、受賞者が2人(団体)の場合は全賞金を折半する。受賞者が3人(団体)の場合は、「1人ずつが単独の研究による受賞」「3人の共同研究による受賞」であれば1/3ずつ分けられ、「1人が単独、2人が共同研究による受賞」であれば単独受賞の人物が1/2、共同受賞の2人が残りの1/2(1人あたり1/4)を得る形になる。
メダル
受賞時に渡されるメダルは1902年から使用され、ノーベル財団によって商標登録されている。1901年の第1回受賞時にはメダルが間に合わなかったため、第2回からの授与となっている。
メダルには表面にアルフレッド・ノーベルの肖像(横顔)と生没年が記されている。表面のデザインは物理学賞・化学賞・医学生理学賞・文学賞では同じであるが、平和賞と経済学賞では若干異なる。裏面のデザインは賞によって異なるが、物理学賞と化学賞では共通のデザインで、自然の女神のベールを科学の女神がそっと外して横顔を覗いているデザインとなっている。1980年以前のメダルは24Kの純金であったが、落としただけで曲がってしまったり、傷がつきやすいということもあって、現在では18Kを基材として、24Kでメッキした金メダルが使用されている。重量は約200g、直径約6.6cm。
メダルのレプリカは、受賞者本人が上限を3個として作成してもらうことが許可されている。
2010年まではスウェーデン政府の機関が制作していたが、予算削減のため2011年からノルウェーの企業に委託されることになった。しかし国内での製造を望む国民の要望が多かったため、2012年からスウェーデンの民間企業で製造されることが決定した。
ガムラスタンにあるノーベル博物館には、ノーベル賞のメダルを模した「メダルチョコ」が売られており、観光客だけではなく授賞式に訪れた受賞者本人も土産として購入するという。益川敏英はこのチョコを600個も買い込んで話題となった[15]。
科学史としてのノーベル賞
前述のようにノーベル賞の自然科学分野における受賞者は欧米の研究者を中心としており、1920年代に日本人の山極勝三郎がノミネートされた際には、選考委員会で「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」との発言があったことも明らかになっている[16]。欧米以外の国で研究活動を行った非欧米人では、1930年にインド人のチャンドラセカール・ラマンが物理学賞を受賞したのが最初である。日本人である湯川秀樹、朝永振一郎らがやはり物理学賞で受賞している。
受賞条件と辞退
ノーベル賞は受賞者が自然人の場合、「本人が生存中」が受賞条件だが、かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、そのケースに当てはまる受賞者には、1931年文学賞のエリク・アクセル・カールフェルトと、1961年平和賞のダグ・ハマーショルドがいる。1973年から、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要があるが、その後死亡しても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞のウィリアム・ヴィックリーは授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されなかった。2011年医学生理学賞のラルフ・スタインマンは受賞者発表の直後に当人がほんの3日前に死亡していたことが判明したが、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになった。
これまでにノーベル賞の受賞を辞退したのは、ジャン=ポール・サルトル(1964年文学賞辞退)、レ・ドゥク・ト(1973年平和賞辞退)、ゲルハルト・ドーマク(1939年医学・生理学賞辞退)の3人であるが、ドーマクは本人の意思ではなく、ナチスの圧力で強制的に辞退させられただけなので、戦後の1947年に賞を受け取っているため、最終的に受け取らなかったのは前者2名である。
エピソードと評価
ノーベルの遺言により、平和賞の選定はスウェーデンの機関ではなくノルウェー国会に委任されている。理由は諸説ありはっきりしないが、当時のスウェーデンとノルウェーは同君連合を組んでいたこと、またノルウェーは平和を探求する方針を国際的に表明していたこと、などが理由と考えられている[17]。
クリスティアーン・エイクマンがビタミンB1の発見によって医学生理学賞を受賞しているが、エイクマンは米ぬかの中に脚気の治癒に効果のある栄養素(ビタミン)の存在を示唆したにすぎず、実際にその栄養素をオリザニン(ビタミンB1)として分離・抽出し発見したのは鈴木梅太郎である。
ヨハネス・フィビゲルが寄生虫によるガン発生を唱えて医学生理学賞を受賞しているが、同時期に刺激説を唱えていた山極勝三郎が受賞を逃している。後年、フィビゲルの説は限定的なものであるとして覆された。
アントニオ・エガス・モニスはロボトミー手術で受賞し、その手法はアメリカと日本では広く普及した。だが、効果が限定的であるにも関わらず、副作用や事故も多く、向精神薬が発達したこともあり、現在では臨床で使われることはない。モニス自身も実験的な手術を行っただけで、臨床に導入してはいない。
文学賞は歴史書や哲学書も受賞したことがあったが、イギリス元首相ウィンストン・チャーチルの「第二次世界大戦回顧録」の受賞が選考対象の定義をめぐって論争になり、これ以降純文学に限るとした。
平和賞は戦争を起こした当事者が受賞して批判になった。ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー元米国務長官と北ベトナムのレ・ドゥク・ト元共産党書記がベトナム戦争終結を約したパリ協定の功労による平和賞を受賞したが、レ・ドゥク・トは受賞拒否して戦争は結局アメリカの撤退と南ベトナムの併合で終わった。
平和賞は受賞した人の国から反発されることがよくある。その例として、ドイツのカール・フォン・オシエツキー、ソ連のアンドレイ・サハロフ、チベットのダライ・ラマ14世、ミャンマーのアウンサンスーチー、中国の劉暁波などが挙げられる。
1958年にノーベル文学賞を受賞したボリス・パステルナークは、当時のソビエト連邦政府の圧力により授賞辞退を余儀なくされた。ただし委員会側が彼に一方的に賞を贈っている。
ノーベル賞の自然科学系受賞者には、8人の中国・台湾系の人物がいる(中華民国国籍、中華人民共和国乃至中華民国から米国乃至英国へ帰化、及び米国出生の中国系米国人)。
候補者の予想
トムソン・ロイターは、同社が運営する代表的なサイテーションインデックス(学術文献引用データベース)のWeb of Scienceの情報に基づいて、ノーベル賞の有力候補者の予想を行っている。2011年の受賞者9人は、全て過去に候補に挙げている[18]。
賞に関する記録
- ノーベル賞を二度受賞した人・団体
- マリ・キュリー(1903年に物理学賞、1911年に化学賞)
- ジョン・バーディーン(1956年と1972年に物理学賞)
- フレデリック・サンガー(1958年と1980年に化学賞)
- ライナス・ポーリング(1954年に化学賞、1962年に平和賞)
- 国際連合難民高等弁務官事務所(1954年と1981年)
- ノーベル平和賞を三度受賞した団体
- 赤十字国際委員会(1917年と1944年と1963年)
- 親子でノーベル賞を受賞した組
- 兄弟でのノーベル賞を受賞した組
- 叔父-甥の関係でノーベル賞受賞
- 夫婦で共同受賞した組
- ピエール・キュリーとマリ・キュリー(1903年物理学賞)
- フレデリック・ジョリオ=キュリーとイレーヌ・ジョリオ=キュリー(1935年化学賞)
- カール・コリとゲルティー・コリ(1947年生理学・医学賞)
- 親子で共同受賞した組
- ヘンリー・ブラッグとローレンス・ブラッグ(1915年物理学賞)
- 最年少ノーベル賞受賞者
- ローレンス・ブラッグ1915年25歳で物理学賞受賞
- 最年長ノーベル賞受賞者
- レオニード・ハーヴィッツ(2007年に90歳で経済学賞受賞)
- レイモンド・デービス(2002年に88歳で物理学賞受賞)
- ドリス・レッシング(2007年に88歳で文学賞受賞)
- ペイトン・ラウス(1966年に87歳で生理・医学賞受賞)
- カール・フォン・フリッシュ(1973年に87歳で医学生理学賞受賞)
- ジョセフ・ロートブラット(1995年に87歳で平和賞受賞)
- (受賞の決め手となる功績から)最短記録
- (受賞の決め手となる功績から)最長記録
脚注
関連項目
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- ノーベル賞受賞者の一覧
- 国別のノーベル賞受賞者
- 日本人のノーベル賞受賞者
- 国道41号 - 日本人ノーベル賞者に縁のある場所が沿線に多いことから、「ノーベル街道」の異名あり。
- ハンガリー人のノーベル賞受賞者
- 日本人のノーベル賞受賞者
- ノーベル財団
- アーベル賞(数学)
- フィールズ賞 (数学)
- チューリング賞(計算機科学)
- ゲーデル賞(理論計算機科学)
- ダーウィン・メダル(生物学)
- プリツカー賞(建築)
- クラフォード賞(数学、地球科学、生物科学、天文学) - ノーベル賞が扱わない科学領域
- アルバート・ラスカー医学研究賞
- ルイザ・グロス・ホロウィッツ賞(生化学・生物学)
- ジョン・ベイツ・クラーク賞(経済学)
- ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会)
- ストックホルム国際青年科学セミナー
- イグノーベル賞 - ノーベル賞のパロディ版
- ルードヴィ・ノーベル賞 - ロシア版ノーベル賞
- ライト・ライブリフッド賞
- スティーブン・A・クーンズ賞
- テンプルトン賞
- Nobel laureates by university affiliation
- 孔子平和賞 - 劉暁波への授与に猛反発する中国がノーベル賞に対抗して設立した独自の賞。
- スターリン平和賞 - ソビエト連邦がノーベル平和賞に対抗して創設した賞。後にレーニン平和賞と改められる。
- ドイツ芸術科学国家賞 - カール・フォン・オシエツキーへの平和賞授与に反発したナチス・ドイツによって創設された賞。
- トムソン・ロイター引用栄誉賞 - ノーベル賞受賞の可能性が高い人達に授与される賞。トムソン・ロイター社
外部リンク
- Nobelprize.org(ノーベル賞の公式サイト)テンプレート:En icon
- ノーベル賞候補者@ウィキ
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- ↑ 6.0 6.1 テンプレート:Cite book
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- ↑ ノーベル平和賞 (Norway - the official site in Japan)
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ ノーベル賞との関わり - 山崎金属工業株式会社
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 益川教授「土産はこれだ」 メダルチョコ600個も購入 - asahi.com 2008年12月9日
- ↑ 朝日新聞社編 『100人の20世紀(上)』 朝日文庫 p237-「山極勝三郎」。ただし、科学ジャーナリストの馬場錬成はその著書『ノーベル賞の100年』(中公新書)の中で、3回にわたるノーベル財団への取材経験から、ノーベル賞選考における日本人差別は「100パーセントないだろう。」と指摘している。また、2004年に(山極が候補となった)1926年の医学生理学賞の選考書類を再調査した文献でもそのような指摘はない(山極の項目を参照)。
- ↑ ノーベル平和賞(Norway - The official site in Japan)
- ↑ トムソン・ロイターのノーベル賞予測:今年のノーベル賞受賞者9名すべてを過去に予測、2011年10月
- ↑ 自然科学分野では、ヨハネス・ゲオルグ・ベドノルツとアレキサンダー・ミュラーが、酸化物高温超伝導体の発見の論文発表から約1年後の1987年に受賞したのが最短記録。