安部公房
安部 公房(あべ こうぼう、1924年(大正13年)3月7日 - 1993年(平成5年)1月22日)は、日本の小説家、劇作家、演出家。本名、安部 公房(あべ きみふさ)。
東京府で生まれ、少年期を満州で過ごす。高校時代からリルケとハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、30ヶ国以上で翻訳出版されている。
主要作品は、小説に『壁 - S・カルマ氏の犯罪』(同名短編集の第一部。この短編で芥川賞を受賞)『砂の女』(読売文学賞受賞)『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』など、戯曲に『友達』『榎本武揚』『棒になった男』『幽霊はここにいる』などがある。劇団「安部公房スタジオ」を立ちあげて俳優の養成にとりくみ、自身の演出による舞台でも国際的な評価を受けた。晩年はノーベル文学賞の候補と目された。[1]
目次
生涯
生い立ち
満州医科大学(現・中国医科大学)の医師である父・安部浅吉と、母・よりみの長男として、東京府北豊島郡滝野川町(現:東京都北区西ヶ原)に生まれる(本籍地は北海道上川郡東鷹栖町(現旭川市)。母のよりみは、公房を妊娠中の1924年に小説『スフィンクスは笑う』(2012年に講談社文芸文庫で復刻)を執筆したが、その後筆を折る。祖父母は四国地方からの北海道開拓民であった)。1925年(大正14年)、家族と共に満州(現・中国東北部)に渡り、奉天市(現・瀋陽市)で幼少期を過ごす。小学校では実験的な英才教育を受けている。1940年(昭和15年)に満洲の旧制奉天第二中学校を4年(飛び級)で卒業。帰国して旧制成城高等学校(現・成城大学)理科乙類に入学。冬に、軍事教練の影響で肺浸潤にかかり休学し、奉天の実家に一時的に帰って療養する。
1943年(昭和18年)9月、戦時下のため繰上げ卒業し、10月に東京帝国大学医学部医学科に入学。1944年に文科系学生の徴兵猶予が停止されて次々と戦場へ学徒出陣していく中、「次は理科系が徴兵される番だ」と感じた事と「敗戦が近い」という噂を耳にして家族が心配になり、大学に届けも出さずに、年末に船で満州に帰ったので、親友が代返をして繕ってくれる。1945年(昭和20年)は実家で開業医となった父の手伝いをして過ごし、8月15日の終戦を迎える。同年の冬に発疹チフスが大流行して、診療にあたっていた父が感染して死亡する。
1946年(昭和21年)に敗戦のために家を追われ、奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得る。年末、引揚船にて帰国した。小説が何冊も書けるような体験をしたはずだが、それを題材にすることはなかった(本人は『新潮日本文学46 安部公房集』の付録小冊子において「ぼくが私小説を書かない理由」を記している)。満洲を舞台にした唯一の長編小説『けものたちは故郷をめざす』も体験とはかけ離れている。北海道の祖父母宅へ家族を送りとどけてから、東京にもどる。
帰国後
1947年(昭和22年)3月、女子美術専門学校(現・女子美術大学)の学生で日本画を専攻していた山田真知子(後年、画家として安部の作品の装訂や舞台美術を手掛けることになる)と学生結婚する。同年、安部は満洲からの引き上げ体験のイメージに基づく『無名詩集』を、謄写版印刷により自費出版した。詩人ライナー・マリア・リルケや哲学者マルティン・ハイデッガーの影響を受けたこの62ページの詩集には、失われた青春への苦悩と現実との対決の意思が強く込められていた。『安部公房伝』(安部ねり著)によれば、『無名詩集』には新妻に捧げた「リンゴの実」という作品も併載されていた。[2]
1948年(昭和23年)東大医学部を卒業するが、医師国家試験は受験しなかった。(長谷川敏雄教授による前年の卒業口答試験では人間の妊娠月数を2年です、と答えたということが伝えられているが[3]、大江健三郎によれば安部公房本人は象の妊娠期間19ヵ月を答えられなくて落ちたと言っていたという[4]。結局その翌年、医者にならないことを条件に卒業単位を与えられた。[5])
同年、安部は「粘土塀」と題した処女長編を、成城高校時代のドイツ語担当教員・阿部六郎(阿部次郎の実弟)に持ち込んだ。後に「終りし道の標べに」と改題されるこの長編は、一切の故郷を拒否する放浪の後に、満洲の匪賊の虜囚となった日本人青年が書き綴った、3冊のノートの形式を取った物語であった。阿部はこの作品を文芸誌『近代文学』の創刊者の一人である埴谷雄高に送った。[6]埴谷はただちに安部の才能を認めたが、当時の『近代文学』の編集は合議制であり、埴谷は編集同人の平野謙で落とされることを懸念し、他雑誌に安部を推挙した。結局、「粘土塀」の内の「第一のノート」が翌年2月の『個性』に掲載された。これが安部にとってはじめての商業誌での掲載であった。またこの作品が縁となって、安部は埴谷雄高、花田清輝、岡本太郎らの運営する「夜の会」に入会する。埴谷、花田らの尽力により、1948年10月に「粘土塀」は『終りし道の標べに』と題されて真善美社から一冊の単行本として刊行された。1950年(昭和25年)には、勅使河原宏や瀬木慎一らと共に「世紀の会」を結成。埴谷によるとこの時期の安部は食うや食わずの極貧で、売血をしながら何とか生活をしているという有様であり、安部を高く評価していた埴谷は幾度か安部に生活費をカンパしたほどだったという。
1950年代以降
1951年(昭和26年)、『近代文学』2月号において、安部の短編「壁 - S・カルマ氏の犯罪」が発表された。「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に触発されて生まれた作品であり、テーマとして満洲での原野体験や、花田清輝の鉱物主義の影響が含まれている超現実主義的作風の作品である。「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は1951年上半期の第25回芥川賞を、石川利光の「春の草」(『文學界』)と同時受賞した。選考会の席上で、「壁」は選考委員の宇野浩二から酷評されたものの、同じく選考委員の川端康成および瀧井孝作の強い推挙が受賞の決め手となった。同年5月に、「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は、「S・カルマ氏の犯罪」と改題の上、短編「バベルの塔の狸」および短編集「赤い繭」と共に、石川淳の序文を添えて、安部の最初の短編集『壁』として出版された。
1954年に長女誕生。妻・真知の発案で『グスコーブドリの伝記』から「ねり」と命名[7]。
1950年代には前衛芸術の立場に関心をもち、野間宏とともに『人民文学』に参加する。その流れで、『人民文学』が『新日本文学』と合流してからは新日本文学会に所属し、日本共産党に所属していた時期もあった。しかし1961年(昭和36年)に、日本共産党が綱領を決定した第8回党大会に批判的な立場をとり、党の規律にそむいて意見書を公表し、その過程で党を除名される。
1962年(昭和37年)に、昆虫採集に来て迷い込んだ村で閉じ込められた教師を主人公に、脱出を図ろうとする主人公とそれを阻止しようとする村人の関係を描いた発表した『砂の女』を発表し、国際的な評価を得た。以後は創作活動の比重を書き下ろし長編に移し、都市に住む人々の孤独と、他者との通路の回復を主たるテーマとして、次々と実験精神あふれる意欲作を発表、この頃から全国的に著名な作家となる。1964年(昭和39年)の『他人の顔』では顔を事故で失った男が引き起こす騒動を、1967年(昭和42年)の『燃えつきた地図』では失踪者を追う興信所員を主人公に失踪者と追跡者が転倒する顛末を展開して見せた。1972年(昭和47年)の『箱男』では段ボール箱を被ったまま生活する奇妙な男の日常を、1977年(昭和52年)の『密会』では病院を舞台に奇妙な病気にかかった病人とその治療に当たる奇妙な医者たちを描いた。
1973年(昭和48年)には自身が主宰する演劇集団「安部公房スタジオ」を発足させ、本格的に演劇活動をはじめる。発足時のメンバーは、新克利、井川比佐志、伊東辰夫、伊藤裕平、大西加代子、粂文子、佐藤正文、田中邦衛、仲代達矢、丸山善司、宮沢譲治、山口果林の十二名。安部公房スタジオは堤清二のバックアップにより日本では主に渋谷西武劇場で、海外公演もそれぞれ積極的に行ない、1979年のアメリカ公演での上演作品「仔象は死んだ」はその斬新な演劇手法が反響を呼び、以後各国の演劇界に影響を与えたが、自身の健康不良のため、1982年に活動を休止してしまう。
創作面でも、1977年の『密会』から1984年(昭和59年)の『方舟さくら丸』へと7年ものブランクが開き(次の『カンガルー・ノート』も7年のブランクが空いている)、内容も以後は、内向的な主人公がすえられ、閉鎖的な空間を舞台としたものへと変質している。
晩年・死去
1980年代以降は、文壇付き合いをほとんどしなくなり、辻井喬(堤清二の筆名)によれば、作家として認めていたのは大江健三郎と安岡章太郎ぐらいであったという。
晩年はクレオールに強い関心を持ち、それをテーマとした長編『飛ぶ男』の執筆に取り組んでいた。一方1986年(昭和61年)には、ジャッキを使わずに巻ける簡易着脱型タイヤ・チェーン「チェニジー」で第10回国際発明家エキスポ86で銅賞を受賞している。
1992年(平成4年)12月25日深夜執筆中に脳内出血で倒れ、退院後も自宅療養を続けるが、1993年(平成5年)1月20日、症状が悪化。高熱と意識障害のため多摩市の日本医科大学多摩永山病院に再入院。1月22日、解熱し一時は回復したにも関わらず就寝中の午前7時1分、急性心不全のため、同病院で死去、68歳であった。なお、愛人のもとでの腹上死と一部で言われているが、同病院で死去、家族が看取ったとの説が有力であり信憑性に欠ける。亡くなるまで20年以上愛人であったことを発表した山口果林によると、安部は1987年に前立腺癌を患い、闘病していたが、本人の強い希望で隠されていたという[8][9][10]。
死後、未完に終わった『飛ぶ男』などの遺作が、ワープロのフロッピーディスクから発見されるという、当時としては珍しい遺作の発見のされ方が話題となった。
死後
妻・真知は安部の後を追うように、1993年(平成5年)9月28日に癌で死去[11]。一人娘の真能ねり(産婦人科医)は、1997年(平成9年)から2009年(平成21年)にかけ刊行された「安部公房全集」(全30巻、新潮社)の編集にも尽力した。2011年(平成23年)3月に、安部ねり名義で『安部公房伝』(新潮社)を出版する。
2012年(平成24年)、母方の実家に養子に入っていた実弟井村春光宅(北海道札幌市)から、安部が1946年の引揚時に船中で執筆したと見られる未発表短編『天使』が発見され、同年11月発行の『新潮』12月号に掲載された[12][13]。
女優・山口果林は、回想記『安部公房とわたし』(講談社、2013年)で、自身と20年以上に亘る愛人関係を明かし、晩年は1980年に正妻と別居し山口と事実上の夫婦関係になり、安部の病状悪化を関係者に知らせたのも山口であったと記した。
年表
- 1948年(昭和23年) - 処女小説『終りし道の標べに』を刊行
- 1950年(昭和25年) -「赤い繭」で戦後文学賞を受賞
- 1951年(昭和26年) -「壁 - S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞
- 1958年(昭和33年) - 戯曲『幽霊はここにいる』で岸田演劇賞受賞
- 1963年(昭和38年) -『砂の女』で、読売文学賞を受賞
- 1967年(昭和42年) - 戯曲『友達』で谷崎潤一郎賞を受賞
- 1968年(昭和43年) -『砂の女』でフランスの最優秀外国文学賞を受賞
- 1972年(昭和47年) - 戯曲『未必の故意』で芸術選奨文部大臣賞を受賞
- 1973年(昭和48年) - 演劇集団「安部公房スタジオ」を結成、主宰
- 1975年(昭和50年) - 戯曲『緑色のストッキング』で読売文学賞を受賞
- 1975年(昭和50年) - 5月13日、アメリカ・コロンビア大学から名誉人文科学博士の称号を受ける
- 1977年(昭和52年) - アメリカ芸術科学アカデミー名誉会員に推される
- 1986年(昭和61年) - 簡易着脱型タイヤ・チェーン「チェニジー」により「第10回国際発明家エキスポ86」で銅賞を受賞
- 1992年(平成4年) - 12月25日深夜、執筆中に脳内出血による意識障害を起こし入院
- 1993年(平成5年) - 1月22日、急性心不全のため、死去、68歳。
人物
交友
ドナルド・キーンとは後述の通り長年の親友であり、辻井喬とは、1970年頃より新潮社の編集者(出版部長など)の新田敞を通じ親交を深めた。
大江健三郎とは、1968年(昭和43年)頃は、大学紛争を巡り意見が対立したため、長らく絶交状態になった。しかし、辻井喬との計らいによって1989年(平成元年)より読売文学賞の選考委員で一緒になったりするなど、2人の関係が徐々に修復していた。
自身と同時期にノーベル賞候補と噂された井上靖を「物語作家」、井伏鱒二を「随筆作家」などとこきおろしている。
晩年は、司馬遼太郎と大変親しく、司馬は安部が選考委員をつとめる文学賞を数多く受賞している。特に司馬の著作である『南蛮のみちI』(日本文学大賞学芸部門受賞)に関して、国を持たないバスクに魅力を感じていたという。
初期作品は特にSFに属するものが多く、これらは国産SFとしても黎明期の作品にあたる。そのため、日本SF作家クラブには入会しなかったものの、この分野の関係者とは親交が深く、1970年(昭和45年)に日本で開かれた国際SFシンポジウムでも中心的役割を果たした。
最相葉月は『星新一 一〇〇一話をつくった人』で、星と安部が酒場での同席を避けるなど過敏に意識しあっていたエピソードを書いている。
他に石川淳、武満徹、萩原延壽、晩年は2度対談を行った養老孟司、河合隼雄とも親交があった。
外国文学
安部はブルガリア出身のユダヤ人思想家・作家エリアス・カネッティを、ノーベル文学賞受賞(1981年)以前から注目していた[14] 。
同じ頃に親友であるドナルド・キーンの薦めでコロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスを読み(「あなたのために書かれたようなものだ」とキーンに言われた)、その作品に衝撃を受ける。以後、安部は自著やテレビなどで盛んにカネッティやマルケスを紹介し、彼らの作品を一般読者にも広めた。
また、カフカに傾倒して居た事から、戦後間も無い時期に共産主義政権下のチェコスロヴァキアを訪れて居る。(この際の体験は、旅行記として書かれているが、当時のチェコスロヴァキアでは、カフカが「公認」の作家ではなかった事を現地旅行後に気付き、チェコスロヴァキアにおけるカフカの位置について、興味深い記述を残している。)翻訳は池内紀や岩田行一などが手掛けた。
趣味
ピンク・フロイドの大ファンであり、まだ普及する以前にシンセサイザーを購入して使用していたなど意外な一面を持っていた(その当時シンセサイザーを所有していたのは冨田勲、NHK(電子音楽スタジオ)、そして安部の3人のみだったが、職業的な面以外で使用していたのは安部のみである)。また、安部が武満徹に自身の前衛的な曲(「仔象は死んだ」の劇中音楽)を聞かせたとき、武満の顔が真っ青になったという逸話もある[15]。NHKで放送されたインタビュー番組では、所有機で自身の演劇作品のためにみずから製作した効果音等を公開している。
ドナルド・キーンとの対談(『反劇的人間』)の中で、オペラは嫌いだと述べて居る。クラシックの作曲家ではバルトークを好んでいた。
安部は、日本人で最も早い時期からワープロで小説を執筆した作家の一人である(1984年から使用[16])。NECのワープロ開発に参画し、ワープロ『文豪』は文字通り文豪が関わった機種だった。安部が使用していたワープロはNECの『NWP-10N』とその後継シリーズ『文豪』である。[17]
趣味の領域を越えた写真マニアとしても知られ、彼ならではのインテリジェンスに満ちた作品を多く残している。現在、それらの一部は現行版の安部公房全集(新潮社)の箱裏と見返しに見ることができる。愛機はコンタックスで、安部が好きな写真のモチーフはごみ捨て場など。
1986年(昭和61年)、ジャッキを使わずに巻ける簡易着脱型タイヤ・チェーン「チェニジー」により第10回国際発明家エキスポ86において銅賞を受賞した。
愛煙家であり、「タバコをやめる方法」という軽妙なエッセイを書いている。
評価
主なものだけでも、戦後文学賞(1950年)、 芥川龍之介賞(1951年)、 岸田演劇賞(1958年)、 読売文学賞(1963年・1975年)、 谷崎潤一郎賞(1967年)、 フランス最優秀外国文学賞(1968年)、 芸術選奨(1972年)などを受賞している。
早くから安部を高く評価していた埴谷雄高は、芥川賞受賞作『壁』(1951(昭和26)年)の書評においては、安部が自分の後継者であるばかりか、自分を越えたとまで述べている。
単に幻想文学にとどまらず、スリップストリームやメタフィクションといったポストモダン文学に顕著な技法を実践し、推し進めた前衛文学者として、世界中で評価が高い。 『砂の女』(1962(昭和37)年)は、世界30カ国語に翻訳され、『燃えつきた地図』(1967(昭和42)年)はニューヨーク・タイムズの外国文学ベスト5に選ばれている。
安部の評価は特に共産主義圏の東欧で高く、西欧を中心に高評価を得ていた三島由紀夫と対照的とされた。その三島もまた安部を高く評価し、1967年の谷崎潤一郎賞の選考において安部の『友達』を強力に推し、長編小説を主な授賞対象としていた同賞では異例といえる戯曲の受賞を実現させている。
大江健三郎は、安部公房をカフカやフォークナーと並ぶ世界最大の作家と位置づけている。自身がノーベル文学賞を受賞したおりには、大岡昇平、井伏鱒二の名前と共に安部公房の名前をあげ、もっと長生きしていれば、自分ではなくて彼らがノーベル文学賞を受賞したであろうという事を述べている。実際に、ノーベル文学賞を選考するスウェーデン・アカデミーのノーベル委員会のペール・ベストベリー委員長は、2012年3月21日、読売新聞の取材に応えて、「(安部公房は)急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。非常に、非常に近かった」と語っている[1]。
作品一覧
小説
- 終りし道の標べに(真善美社、1948年 / 講談社文芸文庫、1995年) - 改訂版は新潮文庫(1978年)
- 壁(月曜書房、1951年 / のち角川文庫、新潮文庫)
- 闖入者(未來社、1952年)
- 飢えた皮膚(ユリイカ、1952年)
- 飢餓同盟(大日本雄弁会講談社、1954年 / のち新潮文庫)
- R62号の発明(山内書店、1956年 / のち「R62号の発明・鉛の卵」新潮文庫)
- けものたちは故郷をめざす(大日本雄弁会講談社、1957年 / のち新潮文庫)
- 第四間氷期(講談社、1959年 / のち新潮文庫)
- 石の眼(新潮社、1960年 / のち文庫)
- 砂の女(新潮社、1962年 / のち文庫)
- 他人の顔(講談社、1964年 / のち新潮文庫)
- 水中都市(新潮社、1964年 / のち「水中都市・デンドロカカリヤ」新潮文庫)
- 無関係な死(新潮社、1964年 / のち「無関係な死・時の崖」新潮文庫)
- 榎本武揚(中央公論社、1965年 / のち文庫)
- 終りし道の標べに(改稿版)(冬樹社、1965年 / のち新潮文庫)
- 燃えつきた地図(新潮社、1967年 / のち文庫)
- 人間そっくり(早川書房、1967年 / のちハヤカワ文庫、新潮文庫)
- 夢の逃亡(徳間書店、1968年 / のち新潮文庫)
- 箱男(新潮社、1973年 / のち文庫)
- 洪水(プレス・ビブリオマーヌ、1973年)
- 事業(プレス・ビブリオマーヌ、1974年)
- 密会(新潮社、1977年 / のち文庫)
- 方舟さくら丸(新潮社、1984年 / のち文庫)
- カーブの向う・ユープケッチャ(新潮文庫、1988年)
- カンガルー・ノート(新潮社、1991年 / のち文庫)
- 飛ぶ男(新潮社、1994年 / 単行本版は夫人の真知による加筆が後に判明し、文庫化はされなかった。現在全集に加筆前の複数の異稿(「スプーン曲げの少年」「スプーンを曲げる少年」「飛ぶ男」)が収録されている)
戯曲
- どれい狩り・快速船・制服 安部公房創作劇集(青木書店、1955年)
- 幽霊はここにいる(新潮社、1959年 / のち「幽霊はここにいる・どれい狩り」新潮文庫)
- 友達・榎本武揚(河出書房、1967年 / のち「友達・棒になった男」新潮文庫)
- 棒になった男(新潮社、1969年)
- 安部公房戯曲全集(新潮社、1970年)
- 現代文学の実験室1 安部公房集(1970年6月、大光社)
- 未必の故意(新潮社、1971年)
- 愛の眼鏡は色ガラス(新潮社、1973年)
- 緑色のストッキング(新潮社、1974年 / のち「緑色のストッキング・未必の故意」新潮文庫)
- ウエー 新どれい狩り(新潮社、1975年)
評論・随筆
- 東欧を行く ハンガリア問題の背景(大日本雄弁会講談社、1957年)
- 猛獣の心に計算器の手を(平凡社、1957年)
- 裁かれる記録 映画芸術論(講談社ミリオン・ブックス、1958年)
- 砂漠の思想(講談社、1965年 / 講談社文芸文庫、1994年)
- 内なる辺境(新潮社、1971年 / のち中公文庫)
- 反劇的人間(中公新書、1973年 / のち文庫) - ドナルド・キーンとの対談
- 手について(プレス・ビブリオマーヌ、1973年)
- 発想の周辺(新潮社 1974年) - 対談集
- 笑う月(新潮社、1975年 / のち文庫)
- 安部公房の劇場 七年の歩み(安部公房スタジオ編、1979年)
- 都市への回路(中央公論社、1980年)
- 死に急ぐ鯨たち(新潮社、1986年 / のち新潮文庫、1991年)
詩集
- 無名詩集(自費出版)
作品集
- 安部公房全作品(全15巻、新潮社、1972年 - 1973年)
- 安部公房全集(全30巻、新潮社、1997年 - 2000年・2009年[18])
映画
ラジオドラマ
- ひげの生えたパイプ
- お化けが街にやって来た
- 耳(文化放送、1956年11月)
- 棒になった男(文化放送、1957年11月29日) - 芸術祭奨励賞受賞
- 吼えろ!(朝日放送、1962年11月、脚本)
- 審判(文化放送、1963年11月)
テレビドラマ
- 魔法のチョーク(NHK、1958年、脚本)
- 円盤来たる(NHK、1959年2月、脚本)
- 人間そっくり(KRテレビ、1959年7月、脚本)
- 日本の日蝕(NHK、1959年10月、脚本) - 芸術祭奨励賞受賞
- 詩人の生涯(朝日放送、1959年11月、脚本)
- 煉獄(九州朝日放送、1960年10月、脚本) - 芸術祭脚本奨励賞受賞
- お化けの島(NHK、1960年、脚本)
- 人命救助法 -おぼれる者は-(NHK、1961年7月、脚本)
- お気に召すまま(NETテレビ、1962年、企画・構成・監修・演出) - オムニバスシリーズ(全20回)
- モンスター(NHK、1962年、脚本)
- 闖入者(1963年、脚本)
- 羊腸人類(NET、1962年11月)
- 購入者(NHK教育テレビ、1963年、脚本)
- 虫は死ね(「東芝日曜劇場」、北海道放送、1963年、脚本) - 芸術祭奨励賞受賞
- こんばんは21世紀(東京12チャンネル、1964年、構成) - 東京12チャンネル(現:テレビ東京)開局記念番組
- 目撃者(「近鉄金曜劇場」、RKB毎日放送、1964年、脚本) - 芸術祭奨励賞受賞
映像化作品
- 『砂の女』は、1964年に東宝より映画化された。監督:勅使河原宏、脚本:安部公房、音楽:武満徹、出演:岡田英次、岸田今日子。
- 『他人の顔』は、1966年に東宝より映画化された。監督:勅使河原宏、脚本:安部公房、音楽:武満徹、出演:仲代達矢、京マチ子。
- 『燃えつきた地図』は、1968年に東宝より映画化された。監督:勅使河原宏、脚本:安部公房、音楽:武満徹。出演:勝新太郎、市原悦子。
- 『友達』は、1988年に映画化された。監督・脚本:シェル・オーケ・アンデション、撮影:ペーテル・モクロシンスキー。出演:デニス・クリストファー、レナ・オリン。[19]
尚、映像化企画はあったが未製作となった作品もある。以下。
- 『けものたちは故郷をめざす』(脚色:恩地日出夫。恩地氏のシナリオは、『映画評論』1965年8月号掲載。)
- 『第四間氷期』(脚色:安部公房、監督:堀川弘通。安部が1965年9月7日に脱稿した本作品のシナリオは東宝映画が映画化を企画。シナリオは、『映画芸術』1966年4月号掲載。)
脚注
参考文献
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book - 付属資料に詳細な書誌、年譜、伝記、CD-ROM1枚がある。
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- 安部ねり『安部公房伝』新潮社 (2011/03)
- テンプレート:Cite book
- 木村陽子『安部公房とはだれか』(笠間書院/2013.5.15)
- 山口果林『安部公房とわたし』(講談社、2013年)
関連人物
外部リンク
- テンプレート:Yahoo!百科事典
- テンプレート:Kotobank
- Abe Kobo(英語)
- 「安部公房とわたし」の真実 - 東洋経済
- ↑ 1.0 1.1 安部公房は受賞寸前だった…ノーベル委員長語る 読売新聞 2012年3月23日閲覧。
- ↑ http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/cat283/ 紀伊国屋 書評空間 Booklog "阿部公彦"2011年4月18日のブログ
- ↑ 後輩である養老孟司が本人から直接聞いている(『小説を読みながら考えた』(双葉社)所収)。
- ↑ 大江健三郎「定義集」『朝日新聞』2008年5月20日付朝刊
- ↑ 全集後半に何度か本人の弁がある。
- ↑ 『死に急ぐ鯨たち』(新潮文庫)P.99での安部自身の弁では、"「これは何のことかさっぱりわからん。しかし、待てよ。たしか他にも何のことだかさっぱりわからんことを書いている奴がいたっけ。ためしにそいつの所にまわしてみてやろう」ということで、埴谷さんのことろに送ってくれたんだよ。"となっている。
- ↑ 安部ねりさんと語る加藤弘一HP「ほら貝」
- ↑ ノーベル文学賞候補といわれた作家・安部公房の封印されてきた過去ダ・ヴィンチ、2013年08月27日
- ↑ 『安部公房とわたし』山口果林著 人生賭けた悲運の不倫劇産経新聞、2013.9.22
- ↑ 安部公房、隠し通した「がん闘病」 山口果林さん、手記で語る朝日新聞、2013年7月25
- ↑ 妻子ある有名作家との二十三年間を、はじめて公に文藝春秋WEB、2013.09.26
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ ライフワークとしていた研究「群衆と権力」、唯一の長篇小説「眩暈」、戯曲「猶予された者たち」などのカネッティの作品群は、カネッティ夫人の短編作品集「黄色い街」と共に、法政大学出版局で出版されている
- ↑ 安部ねり『安部公房伝』p.210-311。
- ↑ 安部の他にも、星新一ら何人かの小説家・SF作家が1970年代末から1980年代前半頃にワープロの使用を試みているが、安部以外の作家は平井和正(1982年頃から使用)や村上春樹を除き、すぐにワープロでの執筆を断念してしまったという。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 資料編の最終30巻目のみ、刊行が大幅に遅れた。
- ↑ テンプレート:Cite web