サンライズ (アニメ制作会社)

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テンプレート:特殊文字 テンプレート:Infobox 株式会社サンライズテンプレート:Lang-en-short)は、アニメーションを主体とした映像作品の企画・制作を主な事業内容とするバンダイナムコグループ傘下の日本企業日本動画協会正会員。

概要

創業

1972年、経営難に陥った旧虫プロダクション(虫プロ)から独立した営業・制作畑のスタッフが中心となって、有限会社サンライズスタジオという名で創業。

虫プロの制作・営業部門に所属していた岸本吉功、伊藤昌典、山浦栄二、渋江靖夫、岩崎正美、沼本清海の7名[注 1]が設立メンバーである。手持ちの資金がなかったことから、同年、虫プロ作品で音響を担当していた東北新社に出資を仰ぎ[1]、サンライズ創業者との共同出資により株式会社創映社を設立。創映社が企画と営業を行い、アニメの実制作はサンライズスタジオで行なう体制だった[2]。そのため、当初の営業・制作スタッフはサンライズスタジオと創映社に同時に在籍する状態であったが、創映社自体は東北新社の子会社で下請けの存在だったため、当時制作した作品の著作権表示は全て「©東北新社」となっている。

設立の1972年は、彼らのルーツともいえる虫プロやその子会社の経営難や労働争議が表面化しつつあった頃で、果たして虫プロは1973年11月に経営破綻に追い込まれた。これはクリエーターである手塚治虫によって作られた企業という成り立ちがゆえに、「アニメーターにあらずんば人にあらず」と言われる程にアニメーター偏重の作品作りが最優先される企業風土となり、合理的で適切な企業運営ができなかったことが主な要因となったものであった。

創業メンバーは、虫プロが倒産直前の末期的様相を呈する前に独立した面々ではあるものの、虫プロの内情と体質的な問題を組織内部から見て知る人物達で、この虫プロの企業体質はサンライズスタジオの経営における大きな教訓となり、現在まで受け継がれている。すなわち、サンライズにおける「クリエーターが経営陣に入ってはいけない」という経営ポリシーの確立である[3]。そのため、創業以来、自社スタジオは構える一方で、制作進行管理業務以外の実制作作業は外注スタッフがほぼ全てを担っており、既に約40年の歴史を持つ企業ながら同社一筋のプロパー正社員として監督を務めた人物もいない[注 2]。これはアニメ制作に必要なスタッフや専門職の大半を自社で正規雇用として抱え続けたために昇給・人件費増加・社内ポストなどの問題が解決できずに労働争議に至って破綻した虫プロの反省でもあり、その様な意味において言えば、サンライズでヒット作を手掛けてその名を知られる富野由悠季高橋良輔などの監督や塩山紀生安彦良和木村貴宏などの著名アニメーターも外注スタッフに過ぎず、クリエイターは携わっても作品単位での企画・制作までにとどまっている。

また、創業当初の経営陣はアニメの作品性も重視するが、それ以上に必要に応じた外注の多用などコスト削減や各種版権収入なども含めて、総合的な採算確保を図り健全経営を維持することを最重視する経営方針を打ち出した。玩具の商品企画のタイアップをアニメ企画の起点と主軸に据える作品構築のシステムを採用していたことも、今日に至るサンライズを形成した重要な特徴の一つである[4]。この背景には、「資金のない弱小プロダクション故に人件費を負担できない」[5]という経営初期に抱えていた資金面の事情もあった。

「1970年代のサンライズはギャラは業界一の安さ」[6]とも、「絵コンテ料の安さは業界で有名」[7]だったとも言われ、アニメーターの間ではサンライズの仕事はやらない方がいいと話題になっていたという[8]

作る作品もきわめて低品質であり、「アマチュアのサンライズ」と揶揄されるほどであった[9]安彦良和によると「ものづくりの会社としてはとてもいい加減だった」とのこと[10]

日本サンライズ時代

1976年11月に東北新社傘下から離脱。株式会社日本サンライズに改組・商号変更し、東映本社作品と円谷プロ作品のアニメーション制作を下請け。サンライズの飯塚正夫によると『ゼロテスター』や『勇者ライディーン』などで得た利益はすべて東北新社にいって、彼らは給料が上がらず不満が溜まっていたそうである[11]。一説には利益の配分を巡る喧嘩別れとも言われる[12]。翌1977年の『無敵超人ザンボット3』にて初めて自社企画制作作品を世に送り出す。1979年制作の『機動戦士ガンダム』とその後の劇場用作品により、アニメ業界にリアルロボットブームを興した。

1981年、初代社長の岸本吉功が死去。当時四十代であったが激務が祟り身体を壊したものであったという[13]。岸本の死を受けて第2代社長に伊藤昌典が就任。

1985年にはオリジナルビデオアニメ(OVA)に進出。ただしオリジナルと言っても全くのオリジナル企画は少なく、『装甲騎兵ボトムズ』のようなテレビシリーズで人気を得た作品の続編と『機甲猟兵メロウリンク』のようにその延長線上にある企画との基本方針を取っている。

株式会社サンライズ

1987年6月株式会社サンライズに商号変更し、第3代社長に山浦栄二が就任する。

創業以来手掛けてきた作品にはオリジナル企画ロボットアニメや、玩具メーカーとりわけバンダイ系列各社とのタイアップが多いが、その他にも漫画原作付きなど様々なアニメ作品を制作している。

玩具タイアップを中心にオリジナル作品を多く手掛けてきた理由の1つに、設立当初は資金に乏しく漫画原作の著作権翻案権)を得るために必要な予算が捻出できなかったという事情がある。ただし、原作が出版物である作品の場合、アニメ雑誌が記事に取り上げる際、著作権者の意向という形で誌面の素材として使用したい映像の使用許諾が得られなかったりページ数の制限が付きまとうことが多く、オリジナル企画の多さは、1980年代を中心にアニメ雑誌においてサンライズ作品がメインに据えられ大きく取り扱われる要因となった[14]

1987年、従来のオリジナル企画主体の路線から転換し、『ミスター味っ子』『シティーハンター』『バツ&テリー』などを端緒に原作付き作品を手がけることが増えていった。同時期にリアルロボットブームが下火になったのを見るや、『機甲戦記ドラグナー』を最後にガンダム由来のリアルロボット系作品に依存した体制からも一旦脱却し、玩具メーカーとのタイアップのオリジナル企画においても『魔神英雄伝ワタル』を機に子供がロボットに乗る、或いはロボットと友情を育むことで敵を倒すロボットアニメが登場した他、『鎧伝サムライトルーパー』の関連作品の成功を受けて容姿端麗な美少年が特殊アーマーを装着する変身ヒーロー作品が幅を利かせた。また、1990年代前半には当時のガンダムよりも下の年齢層をメインターゲットとした『勇者シリーズ』が商業的な成功を収めるなど、元々得意とするオリジナル作品も堅調に推移した。

バンダイ・ナムコ傘下のグループ企業へ

1994年4月1日バンダイによる資本参加を受けて同社傘下のグループ企業となる。それと同時に経営陣が刷新され、以降の経営上層部の人材は松本悟のように主にバンダイの送り込んだ人物が占める様になっていった。

川口克己によると、バンダイグループ内部には出資した作品のマーチャンダイジングの成功・不成功の判断基準として『ガンダム』シリーズを指標に用いる向きがあり、同シリーズと同程度の売上でないと作品として成功とは見なされないことから、自然とガンダムに偏重していく傾向があるという[15]。サンライズ作品に限らず、「ロボットアニメはガンダムに淘汰される」という見方もある[16]。このため近年ではサンライズ自身でさえ少年向け・低年齢層向けのロボット物のオリジナルアニメ作品を発表する機会にはなかなか恵まれなくなった。

2000年代

2007年のバンダイナムコグループへの経営統合もあって、以降は旧ナムコ系のテレビゲーム作品とのタイアップが増え、『THE IDOLM@STER』を原案とした『アイドルマスター XENOGLOSSIA』が制作された。また、2008年には同じく旧ナムコの『テイルズ オブ ジ アビス』のアニメ版の制作も行なっている。

バンダイナムコグループは、前身のバンダイグループの当時から版権・キャラクター関連のビジネスでは長年の業界最大手として豊富なノウハウを持っているが、その裏返しとして同社が関与する作品では版権や制作体制全般の管理が極めて厳しく徹底されることで知られている。サンライズもバンダイグループ入りの後は版権ビジネスのみならず作品出演の声優や原作者・監督などのメディア出演についても管理が強化・徹底されるようになっており、現在ではその様な意味でもアニメ業界で知られる、アニメマスコミ関係者にとって扱いにくい存在になっているという[17][18]

2000年以降は、更に様々なジャンルの作品を手がける様になった。(なお、かつての主軸でもあった玩具をメインとしたコンテンツとのタイアップ作品は、2004年の『陰陽大戦記』以降激減している)

こうした多種多様な作品を手掛け、アニメ雑誌アニメージュ」主催のアニメグランプリでも受賞作品を数多く出している様に、多くの作品でサンライズはアニメ業界内部や熱心なアニメファンから高い評価と支持を得ている。しかし、反面で収益構造を見た場合にはその大半を『ガンダム』シリーズに依存したいわば「ガンダム頼み」の体質になっていることも現実で[19]、後述の様に親会社のバンダイナムコグループにおいてもサンライズに対してはガンダムシリーズに偏って重きが置かれる傾向がある。

その他

  • 制作スタジオはいくつもあり、それぞれに「第1スタジオ」などと数字が割り振られることが多い。略して「1スタ」などと呼ぶことがある。ただし中で働いているのは前述のように外注スタッフである。
  • 『ケロロ軍曹』では第33話において、ケロロ小隊が同社を訪れたことがある[注 4]

制作作品

サンライズで制作されている作品は、全部で12箇所のスタジオが母体となっている。

主なテレビシリーズ

シリーズ単位

1970年代

1980年代

1990年代

2000年代前半

2000年代後半

2010年代

主な劇場映画(制作年順)

1980年代(劇場映画)

1990年代(劇場映画)

2000年代(劇場映画)

2010年代(劇場映画)

主なOVA(制作年順)

※テレビシリーズの総集編はほぼ除外

1980年代 (OVA)

1990年代 (OVA)

2000年代 (OVA)

2010年代 (OVA)

グロス発注作品

パイロット作品

TVドラマ

  • G-SAVIOUR:『機動戦士ガンダム』20周年記念作品(93分×1話のみ、アメリカポールスター・テレヴィジョン社との合作)

TVCM

PV

ゲーム

その他

同社スタッフが独立・起業した会社

歴代代表取締役社長

  1. 岸本吉功
  2. 伊藤昌典
  3. 山浦栄二
  4. 吉井孝幸
  5. 内田健二(2008年4月25日)
  6. 宮河恭夫(2014年4月1日)

ラジオ番組

関連人物

演出家


アニメーター

キャラクターデザイナー


キャラクター作画監督


メカ作画監督


その他のアニメーター

メカニックデザイナー


脚本家・小説家


制作・企画

その他


関連項目


脚注

注釈

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出典

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外部リンク

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  1. Web現代取材班「第5章 飯塚政夫」『ガンダム者 ガンダムを創った男たち』(講談社・2002年)p230。
  2. 「山浦栄二インタビュー」『富野由悠季全仕事』キネマ旬報社、1999年、p112。
  3. ガンダム者 ガンダムを創った男たち
    • 「いま、映画機動戦士ガンダムに燃える日本サンライズ PART4 座談会」『アニメージュ』1981年1月号、p114-p115。山浦栄二取締役企画部長(当時)の発言による。
    • 中島紳介、斎藤良一、永島収『イデオンという伝説』太田出版、1998年、p104.
    • Web現代取材班「第5章 飯塚政夫」『ガンダム者 ガンダムを創った男たち』講談社、2002年、p248-p249。
  4. Web現代取材班「第1章 安彦良和」『ガンダム者 ガンダムを創った男たち』(講談社・2002年)p72。
  5. 富野由悠季『だから僕は… 増補改訂版』(徳間書店 アニメージュ文庫・1983年)p323。
  6. 「押井守検証インタビュー」『前略、押井守様。』(野田真外編著・フットワーク出版・1998年)p345.
  7. 「いま、映画機動戦士ガンダムに燃える日本サンライズ PART4 座談会」『アニメージュ』1981年1月号p113。金山明博の発言による。
  8. ガンダム神話
  9. ガンダム者
  10. Web現代「ガンダム者」取材班 ガンダム者―ガンダムを創った男たち 講談社 2002年
  11. 「ロングインタビュー 安彦良和」『キネマ旬報別冊 動画王』Vol.7(キネマ旬報社・1998年)p174.
  12. 市報松江12月号(2010年)
  13. 中島紳介、斎藤良一、永島収『イデオンという伝説』太田出版、1998年、p174-p176
  14. 柿沼秀樹 加藤智 バンダイキャラクタープラモ年代記 学習研究社 2007年
  15. Great Mechanics 5 双葉社 2002年
  16. アニメマスコミを泣かせる"サンライズ様"の銭ゲバ体質(前編)
  17. アニメマスコミを泣かせる"サンライズ様"の銭ゲバ体質(後編)
  18. アニメ・ビジネスが変わる
  19. テンプレート:Twitter status、2012年12月10日閲覧。
  20. テンプレート:Cite web
  21. テンプレート:Cite web