文禄・慶長の役
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 文禄の役 | |
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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 文禄の役・釜山城攻略 文禄の役・釜山城攻略『釜山鎮殉節図』[1] | |
戦争:文禄・慶長の役 | |
年月日:1592年4月 - 1593年7月(第二次晋州城攻防戦) | |
場所:朝鮮半島全域、満州・豆満江一帯 | |
結果:小西行長と沈惟敬らの共謀により日明間で休戦[2][3] | |
交戦勢力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1590 | 明 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 総大将 宇喜多秀家
森吉成(毛利勝信)、島津義弘、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、島津忠豊
福島正則、戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通之(得居通幸)、来島通総
小早川隆景、毛利秀包、立花統虎(立花宗茂)、高橋統増、筑紫廣門
|
明軍
都体察使 柳成龍→李元翼
慶尚左水使 朴泓
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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 158700人[3] | 明軍53000 朝鮮軍 172000 義兵軍22400 計247400人[5] |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 約50000[6](大半が病死・餓死。戦死はわずか) | 数十万人[7][8](文禄・慶長両役の総計) |
テンプレート:Tnavbar |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 慶長の役 | |
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戦争:文禄・慶長の役 | |
年月日:1597年1月 - 1598年12月 | |
場所:朝鮮半島 | |
結果:豊臣秀吉死去により日本軍が帰国し終結 | |
交戦勢力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1590 | 明 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 大将軍宇喜多秀家 他西国諸将 |
明軍大将・経略朝鮮軍務楊鎬
東路軍総兵麻貴 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 141500人[9] | (諸説あり) |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | (諸説あり) | 数十万人[7](文禄・慶長両役の総計) |
テンプレート:Tnavbar |
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は1592年(日本:文禄元年、明および朝鮮:万暦20年)から1598年(日本: 慶長3年、明および朝鮮: 万暦26年)にかけて行われた戦争。日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と、明およびその朝貢国である李氏朝鮮の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を舞台にして戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大の戦争とされる[10]。この戦は明・中国を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦であり、日本と中国の戦争だった[11]。
文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄2年)に休戦した。また、慶長の役は1597年(慶長2年)講和交渉決裂によって始まり、1598年(慶長3年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。
なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は元号的には天正20年の出来事である。
目次
名称
豊臣政権時から江戸時代後期あたりまでは、この戦役が秀吉が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであるということから、「唐入り」や「唐御陣」と呼ばれたり、「高麗陣[12]」や「朝鮮陣」などの呼称が用いられていた[13]。秀吉自身は「唐入り」と称し、他の同時代のものとしては「大明へ御道座」[13]という表現もあった。
「朝鮮征伐」という表現も歴史的に頻繁に用いられてきた。これはすでに江戸初期の1659年(草稿成立は1644年頃[14])に刊行された堀杏庵(堀正意)『朝鮮征伐記』において見られた。この戦役を征伐とする立場は後述する倭乱の逆バージョンであるが、北条氏直を攻めた小田原征伐や島津義久を攻めた九州征伐などでも用いられており、朝鮮だからとことさら卑下して表現したわけではない[15]し、韓国では現在でも元寇を「麗蒙の日本征伐」と呼んでいる[16]。堀杏庵は、秀吉は民の苦しみを顧みずに戦役を行ったとして撫民仁政の思想から批判した[14]が、征伐そのものを否定したわけではなく、江戸期の絵本太閤記や明治期のその他の歴史書籍の多くにおいて、朝鮮征伐は単純に秀吉の武勇伝の一つと捉えられていた[13]。これは江戸中期の学者山鹿素行が提唱した朝鮮を日本の属国と定義した史観(中朝事実)や、江戸後期の日本史研究を主導した水戸学者たちが秀吉が死去しなければ明も日本領になっていたとの考えが影響しており[13]、彼の野望は称賛されこそすれ、批判の対象ではなかったからである。明治初期に起こった征韓論にともなってこの戦役も「征韓の役」などと呼ばれたこともあったが、これは島津綱久が万治年間(1658~60年)に編纂を命じた『征韓録』が先であり、幕末の水戸学者川口長孺なども『征韓偉略』(1831年)を著した。征韓は意味としては朝鮮征伐と同義である。懲罰の意味合いのある「征伐」や「征韓」(または征明)の表現は日本では避けられるようになった。
「朝鮮出兵」の呼称も早くからあり、ほぼ全ての国語辞典や辞書等に項目がある。戦後も昭和期には教科書で広く使われていたが、出兵の表現も次第に避けられるようになっている[17]。1960年代の世相を反映して、朝鮮出兵が海外侵略であったということが強く意識された結果、朝鮮社会が受けた被害にもより関心が持たれ、「朝鮮侵略」[18]が盛んに使われた時期もあり[13]、「大陸侵攻」などの表現も登場した。1980年代になると史学では多角的分析が主流になるが、1990年代になると日韓の文化交流が解禁されて韓国の書籍が翻訳されるなどし、後述の朝鮮での呼称も日本の書籍でみられるようになって、用語は多様化した。近年の日韓関係を反映して、教科書等の記述にはかなり変動があったわけであるが、現在は、第一次出兵を「文禄の役」として第二次出兵を「慶長の役」とし、併せて「文禄・慶長の役」とする呼称で定着している。また略称としては単に、前役、後役とも言う。
中国では「抗倭援朝」または「朝鮮之役(朝鮮役)」と呼ばれるが、後者は朝鮮戦争(または朝鮮での戦役)という意味であり、1950年の同名の戦争やその他の朝鮮での戦争と区別する意味で、中国の当時の元号である万暦を付けて「萬曆朝鮮之役」と称されている[13]。日本で書き言葉に漢文が使われていた影響で「朝鮮役」という呼称も古くは使われたが、これはこの中国語の呼称をそのまま用いたものであった。中国から見て遠征であったという解釈では「萬曆東征」という呼称もある。また「萬曆日本役」という呼称もあったとされるが、戦地を戦役名とするのが慣習であり、現在はあまり使われていない。
朝鮮半島(韓国・北朝鮮)では李王朝の時代から、この戦役も小中華思想を基にして従来通りに倭乱[19]であると定義し、戦乱が起こった時の干支を取って、文禄の役を「壬辰倭乱」[20]と呼び、慶長の役を「丁酉倭乱」[21]または「丁酉再乱」[22]と呼んだ。現在も韓国ではこの倭乱が用いられており、二つの戦役を一つと見て壬辰倭乱を戦争全体の総称として使う場合もある。また、北朝鮮では「壬辰祖国戦争」[23]と言う呼称も用いられる。テンプレート:See also
近年、三国の自国史を超克することを目的として行われた日韓中共同研究では「壬辰戦争」という呼称が提唱された[24]。韓国の歴史学界でも、倭乱の使用は自国中心史観で不適切として、一部の教科書では2012年から「壬辰戦争」との表記に変わった[25]。ただし韓国では「イムジンウェラン(壬辰倭乱)」が未だに一般的な呼称で、書籍や新聞、テレビ等で広く用いられている。
背景
朝鮮の内情
宣祖実録(25年5月の条)には「人心恨叛し、倭と同心」と認め、宣祖が「賊兵の数、半ばが我が国人というが、然るか」と臣下に尋ねたと記述され、また、金誠一の「鶴峯集」には、「倭奴幾ばくもなし、半ばは叛民、極めて寒心すべし」[26]という。人口の大半は農奴や奴隷である李朝社会では民心が離反していたため、日本側に協力する民衆が多数存在した。ルイス・フロイスの著作にも同様の記述が見られる。
日朝関係前史
秀吉によって唐(中国)、天竺(インド)、南蛮(西欧)にいたると構想された大陸進出について、秀吉は当初は高麗への出兵について言及していた(後述)。このような秀吉の海外出兵構想の形成要因については多種説がある。 テンプレート:See also 互いに隣国である日本と朝鮮半島との間には伝承を含めて歴史的な関係が深く、戦争や相互の侵略の経験も多い。秀吉が生きていた当時の日本の認識としては、以下の出来事が関連する前史として存在していた。
古代には、神功皇后(170年-269年)による新羅出兵と新羅・高句麗・百済が日本に朝貢したと伝える三韓征伐の伝承が日本書紀等に記載されている。好太王碑文では加羅は倭国の支配領域であり、391年に倭国が百済・新羅を破り服属させたという記録がある(倭国による征伐以前は新羅、百済は高句麗の侵略を受け従属していた)。また、369年から562年にかけて任那日本府が朝鮮半島南部に存在した。
663年に、唐軍と倭国・百済連合軍が衝突した白村江の戦いがあり、倭国・百済側が敗北した。
812年から906年まで新羅の入寇が繰り返され、997年から1001年にかけての高麗海賊による入寇があった。
1274年と1281年に元の軍勢(モンゴル人、南宋人、高麗人)が日本の九州北部を侵攻する、所謂、元寇があった。北条時宗の鎌倉幕府が二度に渡って撃退するわけであるが、対馬・壱岐では虐殺や童女・童子を掠って奴婢とするなどの蛮行があった。その後、日本は動乱期を迎えて南北朝時代の1350年頃から倭寇(庚寅倭寇)が活発化したという前後関係から、倭寇は元寇への報復であった[27]という主張が安土桃山・江戸時代から語られていたようだが、倭寇と海賊衆の実態から考えればその指摘は正しくないというのが定説である。むしろ承久の乱で敗者を支持して厳しい立場となった西国武士団が海に活路を求めたのを始まりとし、室町幕府の内紛(観応の擾乱)によっても同様のことが起きて、九州探題今川了俊が南朝勢力を降した時にも、さらに船団で海外に脱出する者が増えたと考えられていて[28]、江戸末期の『日本防考略』でも倭寇をして「日本あふれ」と定義していた[29]。テンプレート:Main
倭寇の襲来に怯える高麗では、軍備が荒廃して満足に戦えず[29]、倭人(投化倭人)を巨済島や南海県などに住まわせ、時に食料を供給することで鎮撫しようとしたが、倭寇はそこを新たな出撃地としただけで海賊活動は止めず、この政策は完全に失敗した。倭寇は府庫の米だけなく奴婢の獲得を狙うようになり[29]、逃亡した禾尺・才人と言った高麗賤民なども倭寇の側に合流した[28][30]。1375年には家臣団を連れて投降した倭人の藤経光を誘殺しようとして失敗し、逆に激しい報復を受けた。以後、倭寇は暴虐の度をむしろ高めて「倭寇猖獗」と呼ばれる前期倭寇の最盛期を迎えた。1380年には朝鮮で鎮浦大捷と撃退が賞賛される倭寇500隻[31]の大襲撃があった[28]。高麗は海賊取締を要請したが日本の北朝に無視されたため、1389年、対馬に軍を差し向ける康応の外寇を行ったと言われている[32]。テンプレート:Main
高麗が滅び李氏朝鮮に代わると、太祖李成桂は日本に禁寇を要求した。1392年、南北朝合一を果たして動乱を治めたばかりの足利義満は日本側として初めてこれに応じ、今川了俊に倭寇取締が命じられた。了俊はさらに守護大名大内義弘に命じて倭寇鎮圧の功績を上げた。朝鮮側が言う1396年の壱岐・対馬征伐は日本側に記録がないが、いずれにしても、日朝の取締強化によって前期倭寇は減退の傾向を見せていた。しかし1419年、太宗上王と世宗が応永の外寇(己亥東征)を実施して227隻1万7千余の大軍勢で、壱岐・対馬を侵攻した。ちょうどこの頃、明の永楽帝との関係が拗れていた時期で、将軍足利義持は明が朝鮮と連合して攻めてきたのかと驚き、京都では三度目の蒙古襲来という噂が広がって大きな衝撃が広がった[13][29]。幸い、この外寇は宗貞盛の僅かな手勢によって撃退され、台風を恐れて撤退した。結局、これが朝鮮側からの最後の日本侵攻となった[33]。前期倭寇は、明の海禁、勘合貿易が始まるなどしたことで1444年頃にほぼ終息した。他方、日朝貿易の増加は、通交統制となって、1510年に恒居倭人(朝鮮居留日本人)の反乱である[[三浦の乱|テンプレート:ルビの乱]]という副産物を生んだ。
1544年には蛇梁倭変があり、1547年に丁未約条が締結された。この時、対馬宗氏が朝鮮に駿馬を求め、朝鮮が日本に服属している旨を明朝に伝えたとの報告を行った。これに対して、李氏朝鮮の司憲府大司憲林百齢は、
且つ聞く、倭人、中原に言いて曰く、「朝鮮は我に服事す、我まさに其の上に序すべし」と云えりと。乃ち厚待の恩を念わず、反りて驕心を生じ、班を上国に争う。其の言此の如く、唇のこれより大いなるは莫し。交隣の道、亦まさに節あるべく、永く絶つ能わざると雖も、此の時に及びては、裁制するが当なり[34]
と激怒している[35]。
また1555年には達梁倭変があり、1557年に丁巳約条が締結された。1588年、秀吉は海賊停止令を発布している。
この他、当時の日本人による世界認識を示す例として義経記八巻の「真に我が朝の事は言ふに及ばず、唐土天竺にも主君に志深き者多しと雖も、斯かる例なしとて、三國一の剛の者と言はれしぞかし」に見えるように唐土(中国)・天竺(印度)・日本(倭国)を三国と呼び、これをもって全世界と表現していたことなども挙げられる。
秀吉の明征服計画について、戦後日本に限ると秀吉の誇大妄想として評価することが多いが[36]、こと朝鮮と日本の地位については、すでに戦国時代に朝鮮よりも日本が優位であるとする認識が存在していたことが近年、明らかになってきている[37]。すでに1540年(天文9年)の時点で、日朝貿易に従事する大内義隆が明の北京へ派遣した湖心碩鼎ら第18次遣明使が、「日本は朝鮮を服事(服属)させているから、席次は朝鮮より上にすべし」と要請していた[38]。
環シナ海地域の変化
村井章介らの研究[39]などを基にすれば、16世紀初頭の1501年から1525年頃には、明、李朝、日本、琉球、東南アジア諸国の環シナ海地域においては、それまでの勘合貿易などの朝貢形式の明王朝主導の貿易ではなく、海禁政策に反する非合法な中国人倭寇商人の活動や、堺や博多の豪商などを中心にしたネットワークが構築され、また1510年には三浦の乱、1511年にはポルトガルがマラッカを滅ぼして東アジアでの交易を始め、1523年には寧波の乱が起きるなど、明王朝の海禁政策を逃れた貿易が広がっていった。
嘉靖帝の時代に、武力による海禁政策の厳格な取締りが進むと倭寇や南蛮人の活動も過激化し、1554年6月には済州島で唐人と倭人の同乗する船が朝鮮水軍と衝突する事件が起き、1555年には倭冦が明の南京や朝鮮の全羅道を侵している(乙卯の倭変)。 テンプレート:Main
秀吉の「唐国平定」構想
秀吉が明を征服する事を計画した理由は、かつて仕えた織田信長の支那征服構想を継いだとも[40]、武士や足軽の人数が過剰になっており将来の内乱や反乱を誘発する可能性を憂慮したためとも[41]、国内の統一戦争の延長として考えていたとも言われている。朝尾直弘によれば、家臣団内部の対立紛争を回避し、それらを統制下におくための論理として「唐国平定」が出て来たとしている[42]。また、惣無事令など日本国内統制政策の際にも「日本の儀はいうに及ばず、唐国までも上意を得られ候」という論法を用いていたことから、大陸を含む統合を視野にいれていたともいう[42]。
一方外交面においては、秀吉は明とは友好関係を築こうとしており、交易ルートを荒らしていた倭寇の取締りを援助した。
唐国征服構想の時系列
秀吉は、日本を統一するよりもかなり前から大陸侵攻計画を抱いていたといわれる。秀吉がまだ信長の部将であった1578年ごろ、中国地方の覇権を争っていた毛利輝元に対し信長には明侵攻計画があると伝えている。
秀吉における海外進出の構想を如実に示す文書は、天正13年(1585年)以降である。
と秀吉は述べている[42]。
- 天正14年(1586年)3月には、イエズス会準管区長ガスパール・コエリョに対して、国内平定後は、日本を弟秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりで、そのため新たに2000隻の船の建造を始めているとしたうえで、2隻の大型船(ガレオン船)のあっせんを依頼している[42][44]。
- 同4月、毛利輝元への朱印状14カ条のなかで「高麗御渡海事」と記している[45]。6月には対馬宗氏への書状でも高麗への派遣を語る[46]。
- 天正15年(1587年)5月9日に秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において
「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記し、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もある事を示している[47]。 「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」
と記している[48]。高麗(朝鮮)国王は諸大名と同じように朝廷(秀吉)への出仕義務があると考え、直後に李氏朝鮮に対馬の宗氏を介して服属入貢を要求した[47]。
- 同年には諜報目的で、秀吉は26隻からなる人員を朝鮮南岸に派遣し[49]、テンプレート:要出典範囲
- 天正16年(1588年)には島津氏を介して琉球へ服属入貢を行い、以後複数回要求を繰り返す。
- 1590年に小田原城の北条氏を降伏させた秀吉は次の戦争の準備を開始した。
- 天正19年(1591年)3月から、九州の大名に命じて侵攻軍の基地として名護屋城(現唐津市)の建設を始めた。
- 同年7月25日にはポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求した[50]。
- 同年9月15日、スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に朝貢と服属を要求。既に朝鮮と琉球は日本に入貢していると述べている[50]。書状は、海外情勢に詳しかった商人原田孫七郎を使者としてマニラのスペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスのもとに届けられた。原田はダスマリニャス返書を持って帰国。翌年の天正20年(1592年)ダスマリニャスの使節としてドミニコ会のフアン・コボ (Juan Cobo) が来日し秀吉に謁見した。フィリピン総督の書状を渡したコボは秀吉からの書簡を受け取って帰路についたが、台湾沖で遭難した[51]。
- 天正20年(1592年)5月18日付関白豊臣秀次宛朱印状では高麗の留守に宮中を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与えるとした[52]。また秀吉自身は北京に入ったあと、天竺(インドの古称)や南蛮(ヨーロッパや西アジアまでを射程にいれていたともいう[53])の征服のために寧波に移るとした[54]。
- 同年、毛利輝元宛書状では
「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するがごとくあるべきものなり。ただに大明のみにあらず、いわんやまた天竺・南蛮かくのごとくあるべし」
と記している[42]。 - 文禄2年(1593年)には高山国へ服属入貢を要求した[55]。「高山国」とは当時、台湾に存在すると考えられた国名。商人の原田孫七郎に台湾へ届けさせたが、「高山国」が存在しない国家だったため交渉先を見つけることができずその試みは失敗した。その後の孫七郎の消息は不詳[56]。
軍事力と軍事情勢
以下、関係国の軍事力を記す。なお、当時の各国の人口は、1600年の時点で、日本は2200万人、李氏朝鮮は500万人、明朝は1億5000万人であったと推測されている(歴史上の推定地域人口参照)[57]。またイベリア帝国(スペイン・ポルトガル)は1050万人、オランダは150万人、ブリテン諸島全体で625万人であった[58]。
日本軍
- 動員数
秀吉は、侵攻軍と予備軍の宿営地として新たに建設した名護屋城に軍隊を集結させた。
- 文禄の役の動員は、9軍団に分かれた総勢158,000人で、その内の2軍団21,500人は予備[59]として、それぞれ対馬と壱岐に駐屯した。これに諸隊(播磨三木の中川秀政ほか)の12000人、水軍9200人、石田三成ら奉行7200人が後詰めとして名護屋に在陣し、渡海軍と待機軍とを含めると、総計187100人であった[60]。
- 慶長の役では141,500人[61]が動員された。
ただし、これらは諸大名に賦課された軍役の動員定数であって動員実数はその八割程度ともいわれ[62]、日本軍の動員数には人夫や水夫など非戦闘員が含まれており、非戦闘員が全数の四割以上を占めていた[63]ため、留意が必要である。
ほかに、20万5570あまりの兵が高麗へ渡り、名護屋在陣は10万2415兵で、総計30万7985兵で陣立てされたという『松浦古事記』による記録もある[64]。
- 武器・装備
15世紀中頃から日本は長い内戦状態(戦国時代)にあったため、豊臣秀吉の指揮下には実戦で鍛えられた50万人の軍隊がいる状態となっており、これは当時の地球では明と並び最大規模の軍隊であった。1543年の鉄砲伝来で日本に持ち込まれた火縄銃(マスケット銃)は、その後直ぐに国産化され日本国内で普及していた。当時の貿易取引書からの推計で戦国時代末期には日本は50万丁以上を所持していたともいわれ、当時世界最大の銃保有国となっていた[65]。なお、当時の日本の武士人口は200万人であるのに対して、イギリスの騎士人口は3万人であった[66]。
日本軍は歩兵(足軽)が中心で火縄銃と弓を組み合わせて使用し、接近戦用には長槍、乱戦用には日本刀を用いた。火縄銃は、六匁筒が標準であった日本国内の戦で用いるには威力不足な弾丸重量二匁半(約9.4グラム)の安価で大量生産の出来る比較的小口径のものが主に用いられ、大筒や大鉄砲を含む装備銃砲数のおよそ七割をこの二匁半筒が占めた。[67]
戦争の初期、日本軍は500メートル以上の最大射程を持ち[68]、弓矢よりも貫通力のある銃の集中使用によって優位に立った。本来の日本の火縄銃の用法は、西洋における戦列歩兵による弾幕射撃とは異なり狙撃型のものであり、射撃開始距離も1町(約109メートル)程度であったとされるが、朝鮮においてはより遠距離からの射撃戦が行われる傾向にあり、遠距離射撃による精度の低下を補うために、一斉の集中射撃も行われた。しかし、戦争の末期になると朝鮮と明も鹵獲した日本製火縄銃やそれを模造したものを採用して使用数を増やし対抗した。
日本の騎兵は槍や、馬上用の小型銃を装備していた。しかし、日本では戦国時代に銃の集団射撃に対する騎兵の脆弱性を経験していたため、騎兵の使用は減りつつあった。
日本水軍は安宅船は一部の上級指揮官の乗船などに限られ、中型の関船や小型の小早による機動性の高い戦闘を主戦法とし、接舷切り込みによる白兵戦指向で、可能であれば敵船を鹵獲する傾向があった。なお、当時の世界の海戦としては敵船鹵獲が常道であった[69]。開戦初期、日本水軍の任務は食料や兵員の輸送であり、火器による海戦を想定しておらず、軍船には基本的に大砲を装備していなかった。その後、日本船も大砲を載せたものの、和船の設計上困難で、火力を補うため大口径の火縄銃形式である大鉄砲が多く用いられた。
明軍
朝鮮で「天兵」と呼ばれた明軍は、文禄の役においては、祖承訓率いる5,000人、李如松率いる秋水鏡を含む43,000人が参戦し、さらに碧蹄館の戦い後に劉綎率いる5,000人が増援として新たに到着した。ルイス・フロイスは、平安城を囲んだ明軍の兵力を伝聞として「少なくとも20万」と記載している[70]。
慶長の役については、最大動員となった慶長3年(1598年)9月の蔚山・泗川・順天の三方面同時反攻の際の兵力を、『宣祖実録』は水軍を合わせ92,100人とし、参謀本部編纂『日本戦史 朝鮮役』では同じく64,300人としている。また朝鮮の史料『燃黎室記述』では両役を通しての明の動員数を221,500余人とする。
明の歩兵は、広大な帝国内における多様な戦闘を経験しているため、様々な武器を使用した。飛び道具として火縄銃、弓、南蛮式火縄銃、小火砲、長柄武器として槍、三又、鉄棒、射手の護身用に片手刀、その他に大砲、煙幕弾、手投げ弾などである。しかし、明の火縄銃や南蛮式火縄銃は日本の物と比べ射程が短く威力も弱いためあまり役に立たなかった[71]。明軍の防具は鉄製のため守備力があり、槍も日本刀も通じにくかった[72]。一方、懲毖録[73]は碧蹄館の戦いにおいて切れ味の鈍く短い刀しか持たなかった明の北方騎兵が、三~四尺の刀を持つ日本軍の歩兵に人馬の区別なく斬り倒されたとも記録している[74]。
明は歩兵の他に対女真用に整備された騎兵部隊(馬軍)を大規模に戦闘に投入したが、戦果は得られなかった。朝鮮は山が多く、騎兵の突撃に適した平地が少ない上、日本の火縄銃の長射程に対して騎兵部隊は不利であったためである。また、数万の軍馬を養うのに必要な草地も乏しく、度々馬疫が発生して多くの馬匹が斃れた。
慶長の役においては明水軍も参戦している。沙船・蒼船・号船といった名称が知られるが他にも船種は多く、実体は不明な点が多い。日本側の史料[75]に固定帆柱の航洋型ジャンク船ではないかと思われる明船の記述があるが、軍船としては不適と評されている。他に虎船という竜骨を持つ快速小型船が浅海部用に使用されたようである。
朝鮮軍
文禄の役の全期間の合計で、朝鮮は172,400人の正規軍を展開し、22,400人の非正規軍がこれを支援した。[76]
朝鮮にも火縄銃に似た火器があったが旧式のもので、火器は現代でいう「大砲」に分類されるものが中心となっていた。宗義智が1589年に使節として朝鮮を訪れた際に進物として火縄銃を贈ったが、朝鮮国王はそれを軍器寺(武器製造官署)に下げ渡したのみで[77]、李朝は開戦前にこの新兵器の潜在力を見抜くことが出来なかった。
朝鮮の歩兵は刀[78]、槍、弓矢などの武器を装備していた。主力武器は弓であったが、その最大射程は120メートル程度であり[79]、日本の弓の140メートル余よりも短かった[80]。しかも、兵士が弓を効果的に使いこなすためには、火縄銃よりも長く困難な訓練が必要であった。このほか、フロイス日本史には「テンプレート:ルビ(手榴弾のような兵器)」「鉄製の兜」「丈夫な皮製の防具」「銅製の小型砲」「矢をつめて発射するテンプレート:ルビ」などの記述が見える。朝鮮の騎兵は、対女真用に北方配備されており、乱戦用に殻竿と槍を装備して、遠距離戦用に弓矢を装備していた。朝鮮騎兵の戦闘としては、忠州の戦い・海汀倉の戦いがあるが、いずれも日本軍が勝利している。 朝鮮水軍は、高麗時代から対倭寇を目的に整備され、訓練も行われており、旧式ながら火砲を多く装備していたため、戦役前半から日本軍をよく迎撃した。朝鮮水軍は板屋船(戦船)という日本の安宅船に相当する大型船を用いた。有名ではあるが実体不明の亀船も、この板屋船を改造したものといわれる。他に補助艦船として中型の挟船、小型の鮑作船がある。朝鮮水軍は火器や弓を使っての遠戦指向だったが、朝鮮の火砲は射程が64m〜160mと短く[81]、朝鮮の艦隊が日本船からの火縄銃・弓矢などによる反撃の射程外から一方的に日本船を撃破できたわけではない。朝鮮水軍が兵数で圧倒的に有利であった閑山島海戦においても交戦距離は100mに満たない距離で戦われている[82]。また、朝鮮の火砲は、鉄弾、石弾を複数込めて散弾の形で使うこともあったが、基本的には火箭(火矢)を撃って敵船を焼き討ちすることを主眼としていた。
朝鮮の国防態勢
当時の朝鮮と明に対する主な軍事的脅威は、女真や北方騎馬民族、倭寇であった。女真は北の国境地帯で襲撃を繰り返し、倭寇は沿岸部や貿易船を襲撃して掠奪していた。倭寇に対抗するため、朝鮮は水軍を養成し、倭寇の基地のひとつであった対馬を攻撃した(応永の外寇)。また、女真に対しては、図們江に沿って防衛線を構築した。この間、朝鮮では比較的平和が保たれていたため、朝鮮軍は要塞と軍船に偏重した編成となっていた。高麗王朝の間に火薬が導入され、朝鮮では火砲が開発されており、これが海戦では大きな威力を発揮し、日本軍との海戦における朝鮮優位につながった。また、室町時代から戦国時代にかけての日本は内乱状態であったため、朝鮮側は倭寇を別とすれば、日本を大きな軍事的脅威とは見做していなかった。秀吉が日本を統一し、1588年の刀狩、海上賊船禁止令により倭寇は終息に向かったが、朝鮮側は秀吉の侵攻も倭寇による襲撃の延長線上程度にしか考えていなかった。
1583年、学者で名の高かった当時の兵曹判書(現在日本の防衛大臣に当たる)李珥は全国の兵力を100,000人に増員するよう朝廷に進言したが[83]、李珥は西人派であったため、当時の政権を握っていた東人派(柳成龍が領袖)はこの提案を却下。1588年には南部沿岸の20の島を武装する提案が地方長官から出されたが却下された。1589年に軍事訓練所が設置されるが、若すぎるか、老兵ばかりを採用し[84]、その他に冒険好きの貴族と、自由を求める奴婢階層がいるのみであった。1590年には釜山港湾の要塞化案も出されたが、却下された。日本の侵攻がますます現実味を帯びてきて、この問題について文官柳成龍が立場を変えた後も、政治的な権力争いのための論争が行われるばかりで、実際の軍備拡張は不十分だった。
また、柳成龍が「(将軍が)百人いても誰も兵の訓練方法を知らない」と嘆くほど、朝鮮の軍人は軍事的知識よりも社会的な人脈によって昇進が決定されていたといわれ、軍隊は組織が緩み、兵士はほとんど訓練されておらず、装備も貧弱で、普段は城壁などの建設工事に従事していた。官僚制の弊害も指摘される[85]。
一般的に朝鮮の城塞は山城で、山の周りに蛇のように城壁をめぐらせるものであった。城壁は貧弱で、(日本や西洋の城塞のような)塔や十字砲火の配置は用いられておらず、城壁の高さも低かった。戦時政策としては、住民全員が近隣の城へ避難する事とし、避難しなかった住民は敵に協力する者とみなすとされたが、多くの住民にとって城は遠すぎた。
両班私軍
戦争初期に郭再祐が私兵を徴募した。武装集団は一部の地方で労役や戦闘に参加した。 両班の私兵は主に朝鮮正規軍の敗残兵、常民出身、両班が所有する奴婢、李朝社会では賤民と見做されていた僧兵から構成された。
文禄の役の間、朝鮮半島の中では全羅道だけが侵攻を免れた地域として残されていた。各地で敗走した李氏朝鮮軍が全羅道へ集まり、10万を超える軍を擁していた為であり[86]、その後も敗残兵が全羅道へ集まる傾向は続いた。
郭再祐の挙兵は反乱とみなされ、朝鮮官軍との間で戦闘が起こっている。李氏朝鮮の民衆は、朝廷から課される築城などの土木工事、武器・兵糧の運搬などの労役[87]を厭った。李朝朝廷は郭再祐に対して官職を授ける措置をとり官軍の補助を認めたが、一方で李朝朝廷は郭再祐軍を巡察使等の指揮下において統制した。しかし、文禄の役後の休戦期間に郭再祐軍の漢城襲撃で、李朝朝廷はその危険性を認識し統制を強め、末期には官軍に組み入れられ独立した部隊ではなくなった。
戦後、所謂義兵は不遇であった[88]。
日朝交渉
明の征服を企図していた豊臣秀吉は、天正15年(1587年)の九州征伐で臣従させた対馬の領主・宗氏を通じて、「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導(征明嚮導)」を命じた。宗氏は元来、朝鮮との貿易に経済を依存していたため対応に苦慮し、家臣の柚谷康広を日本国王使に仕立て、要求の内容を改変して、新国王となった秀吉の日本統一を祝賀する通信使の派遣を李氏朝鮮側に要請したが、朝鮮側は、秀吉が日本国王の地位を簒奪したものとみなし、要請を拒絶した[89]。
1589年(天正17年)、秀吉命により、宗義智自らが博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇、博多豪商島井宗室とともに朝鮮へ渡り、重ねて通信使派遣を要請した。翌1590年(天正18年)11月、通信使として黄允吉と金誠一が派遣され、聚楽第で引見した。宗氏は通信使を、秀吉には服属使節だと偽って面会させ、穏便に済まそうとした。このため秀吉は、朝鮮は日本に服属したものだと思い、李氏朝鮮に明征服の先導をするよう命令した。だが明の冊封国であった李氏朝鮮にそのような意思は無く、命令は拒否された。このため秀吉は、明の前にまず朝鮮を征伐することを決めた。
一方、翌1591年(天正19年)3月、朝鮮に帰国した朝鮮通信使は秀吉のことを報告したが、報告内容は2つに分かれていた。西人派(正使の黄允吉)は戦争が近いことを警告したが、東人派(副使の金誠一)は「日本の侵略はあったとしても先の話」と否定。結局、政権派閥だった東人派が戦争の警告を無視し、対日本の戦争準備はほとんど行われなかった。この時、朝鮮通信使には日本人の柳川調信と景轍玄蘇が随行していたので、朝鮮側はそれとなく両者から日本の情勢を聞こうとした。すると玄蘇は「中国(明)は久しく日本との国交を断ち、朝貢を通じておりません。秀吉はこの事に心中、憤りと辱めを感じ、戦争を起こそうとしているのです。朝鮮がまず(この事を)奏聞して朝貢の道を開いてくれるならば、きっと何事もありますまい。そして、日本六十六州の民もまた、戦争の労苦を免れることができましょう」と言った。金誠一らはこれを責め諭したが、玄蘇は「昔、高麗が元の兵を先導して日本を攻撃したことがあります。日本がこの怨みを朝鮮に報いようとするのは当然のことです」と言った。玄蘇がますます道理に外れた言葉を言っていると思った金誠一らは、それ以上何も問わず、調信と玄蘇は帰国した[90]。
同年6月、宗義智が釜山を訪れ、「日本は大明と国交を通じたい。もし朝鮮がこの事のために(明に)奏聞してくれるならとても幸いであるが、もしそうでなければ、両国は平和の気運を失うことになるだろう。そうなれば一大事です。だから(自分はここに)来て告げるのです」と言った。しかし朝鮮の朝廷では当時、通信使を咎め、日本の使者の傲慢さ・無礼さを怒る議論が沸騰しており、義智にはなんの返事も与えなかった。義智は不満足ながらも去っていった。これ以降、日本との通信は途絶え、釜山浦の倭館に常時滞在していた日本人数十人もだんだんと帰国し、ほとんど無人となったため、朝鮮ではこの事を不審に思っていた。[91]
侵攻の決行と名護屋城築造
宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、名護屋城築造を九州の大名に命じた。フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した[92]名護屋には、全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記している[93]。唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった[94]。 テンプレート:Main
日本軍陣立て
秀吉は、文禄元年(1592年)3月13日付で軍令「高麗へ罷(まか)り渡る人数の事」を発表し、日本軍を9組に編成した陣立てを示した[95]。軍団の構成は以下の通り[95]。
- 一番隊
- 小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄(宇久純玄)ら計18700人
- 二番隊
- 加藤清正[96]、鍋島直茂、相良頼房ら計22800人
- 三番隊
- 黒田長政、大友吉統(大友義統)ら計11000人
- 四番隊
- 毛利吉成(森吉成)、島津義弘、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、島津忠豊ら計14000人
- 五番隊
- 福島正則、戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通之、来島通総ら計25000人
- 六番隊
- 小早川隆景、小早川秀包(毛利秀包)、立花統虎(立花宗茂)、高橋統増(立花直次)、筑紫広門、安国寺恵瓊ら15700人
- 七番隊
- 毛利輝元、兵30000人
- 八番隊
- 宇喜多秀家、兵10000人。対馬在陣。総大将。
- 九番隊
- 豊臣秀勝、長岡忠興(細川忠興)ら計11500人
- 船手衆(水軍)
- 九鬼嘉隆(志摩鳥羽)、堀内氏善(紀伊新宮)、杉若氏宗(紀伊田辺)、桑山重勝・桑山小伝次 (紀伊和歌山)、藤堂高虎(紀伊粉河)
- 脇坂安治(淡路洲本)、菅野正影(淡路岩屋)、加藤嘉明(淡路志知)
- 来島通之・来島通総(伊予来島)
文禄の役
1592(天正20)年1月、秀吉は小西行長と宗義智に、再度朝鮮に服属と唐入りへの協力の意思確認を行う事、もし朝鮮が従わないなら4月1日から「御退治あるべし」と命じた。しかし小西行長らが対馬に到着したのは3月12日で、23日になってようやく対馬の北端の豊崎に移動するなど、本人たちは朝鮮へは赴かず、実際の交渉にあたったのは景轍玄蘇であった[97]。
4月7日、景轍玄蘇が対馬へ帰還し、朝鮮側の拒絶の意志を日本に伝えた。小西らは侵攻準備を開始した。
4月12日、釜山に上陸した一番隊・小西軍は最後通牒を朝鮮側に渡すが、返事はなかった。翌13日、小西軍は釜山上への攻撃を開始した釜山鎮の戦い。
4月14日-15日、日本軍は東莱城に到着。日本軍は「戦うなら相手になろう、戦わなければ道を通せ」と書かれた木札を城内へ投げ入れたが、東莱府使・宋象賢は「死するは易し、道を通すは難し」と書かれた木札を投げ返した[98]。これをもって東莱城の戦いが開始され、2時間で東莱城は落城。東莱府使・宋象賢は戦死した。
4月24日、小西行長らが尚州の戦いで朝鮮軍の巡察使・李鎰を破る。
4月28日、一番隊・小西行長らが弾琴台の戦いで朝鮮軍の名将との誉れ高い三道都巡辺使・申砬を破る。申砬戦死。
日本軍は勝利を重ね、一番隊(小西行長、他)、二番隊(加藤清正、他)、三番隊(黒田長政、他)を先鋒に、三手に分かれて急進した。この時期、加藤清正の武将の1人沙也可(金忠善)が、朝鮮の風俗文物を慕い、秀吉の出兵に大義なしとして兵3000とともに慶尚兵使朴晋に帰付したという伝承が残っている[99]。
朝鮮首都・漢城制圧
5月3日、首都・漢城が陥落し、朝鮮国王は逃亡する[100]。なお、清正の秀吉への報告では「5月2日(当時の暦)に漢城に入った」とある。しかし朝鮮王朝実録と、一番隊松浦鎮信側の記録[101]では、「清正・行長とも5月3日に入城した」とあり、清正は先陣の手柄を得るため、1日早めて報告したと考えられる[102]。
加藤清正は、小西行長が計画通りに釜山で待機せずに進撃して手柄を取った事に対して怒りを表していた[103]。そこで鍋島直茂は和解案として、軍を二手に分けてそれぞれが別の道から漢城を目指す事として、漢城に早く着けそうな方の道を加藤清正ら二番隊が取る事を提案した。こうして一番隊と二番隊は5月8日に出発し、漢城まで競争となった。加藤清正は漢江を渡る短い道を選び、小西行長は上流へ向かって水量の少ない場所を渡る事とした。結局、船がないために二番隊が漢江で足止めされている間に、5月10日に小西行長の方が先に漢城に到着した。
一番隊が漢城に到着してみると、城門は堅く閉じられていたものの守備隊はいなかった。その先日に宣祖王は平壌へ逃れるために出発していたのである[104]。日本軍は城壁にあった小さな水門を壊して入り、内側から城門を開いた。結局、一番隊と同じ道を通って来た加藤ら二番隊は翌日に漢城に到着。その翌日に三番隊、四番隊が到着した。五番隊、六番隊、七番隊、八番隊が釜山へ上陸し、九番隊は予備として壱岐に駐留を続けた[104]。
漢城は既に一部(例えば、奴婢の記録を保存していた掌隷院や、武器庫など)が略奪・放火されており、住民もおらず放棄されていた[104]。漢江防衛の任に当たっていた金命元将軍は退却していたし[105]、王の家臣たちは王室の畜舎にいた家畜を盗んで、王よりも先に逃亡した[105]。村々で、王の一行は住民と出会ったが、住民たちは王が民を見捨てて逃げることを悲しみ、王を迎える礼法を守らなかった[105]。「宣祖実録」によると、このとき漢城の住民は朝鮮王を見限り、日本軍に協力する者が続出した[106]。ルイス・フロイスも、「(朝鮮人たちは)恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似でなにか必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた」と記録している[107] 。
景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮は、日本軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢(奴隷の一種)は身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った、とある[108]。
5月5日、小西行長と加藤清正は協議し、いったん城外に陣地を移し、城外に木札を立て、逃亡した朝鮮人の還住を計った[109]。
朝鮮側は、漢城の少し北を流れる臨津江を次なる防衛線とするため、臨津江南岸の一帯を焼き払って、日本軍が渡河の資材を得られないようにした。そして金命元将軍は川沿いに12,000人の兵を5箇所に分けて配置した[105]。
- 5月18日、金命元率いる朝鮮軍は開城を防衛すべく臨津江に防衛線を張るが、二番隊・加藤清正らが臨津江の戦いで朝鮮軍を撃破し、28日には臨津江を渡った。なお、戦いの前に小西行長が朝鮮側に書簡を送り、交渉を開始しようとしたが拒否されている。(この後、6月1日と6月11日にも書状を送っているが、いずれも拒否された)
- 5月29日、二番隊・加藤清正らが開城制圧。
日本軍が漢城へ進撃している間、全羅道長官李洸は軍を首都へ派遣して日本軍を食い止めようとしたが[110]、首都陥落との報に接し、退却した[110]。しかし、志願兵を集めたことにより軍隊は50,000人に上っていたため、李洸と民兵の指導者たちは目標を漢城奪還と定め、漢城から42km南方の水原に軍を進めた[110]。
- 6月4日、前衛1,900人が近郊の龍仁の城を奪取しようとしたが、脇坂安治指揮下の守備隊600人は、日本軍の援軍が到着した6月5日まで朝鮮軍との交戦を避けた[110]。日本軍は朝鮮軍に反撃して朝鮮軍を破り、朝鮮軍は武器を捨てて退却した(龍仁の戦い )[110]。
八道国割
開城陥落後、日本の諸将は漢城にて軍議を開き、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決めた。
- 平安道へ一番隊小西行長他、
- 咸鏡道へ二番隊加藤清正他、
- 黄海道へ三番隊黒田長政他、
- 江原道へ四番隊毛利吉成他、
- 忠清道へ五番隊福島正則他、
- 全羅道へ六番隊小早川隆景他、
- 慶尚道へ七番隊毛利輝元、
- 京畿道へ八番隊宇喜多秀家。
平安道と一番隊
小西行長が率いる一番隊が北進し、黄海道の平山、 瑞興、鳳山、黄州を占領し、さらに平安道に入って中和を占領した[111]。中和にて黒田長政率いる三番隊が一番隊と合流し、大同江の北岸にある平壌へ進軍した[111]。30,000人の日本軍に対して、李鎰や金命元らの率いる10,000人の朝鮮軍が平壌を守備していた。朝鮮軍の防戦準備によって、日本軍が使える船は全くなかった[112]。日本軍の進撃が平壌に迫ると宣祖は遼東との国境である北端の平安道・義州へと逃亡し、冊封に基づいて明に救援を要請した。
1592年7月22日(西暦)夜、朝鮮軍は密かに川を渡り日本軍宿営地を奇襲したが、他の日本軍部隊が駆け付けて朝鮮軍の背後から攻撃し、更に河を渡りつつあった朝鮮側の援軍を撃破した[113](大同江の戦い)。ここで、残っていた朝鮮軍部隊は平壌へ退却したが、日本軍は朝鮮軍の追撃を停止して、朝鮮軍がどのように川を渡って帰るかを観察した[113]。翌日、昨晩に朝鮮軍が退却する様子を観察した結果に基いて、日本軍は川の浅瀬を使って整然と部隊を対岸へ進め始めた。この状況を受けて、その夜に朝鮮軍は平壌を放棄した[114]。
- 7月24日(西暦)、一番隊と三番隊は既に放棄されていた平壌へ入った[114]。
- 6月15日、一番隊・小西行長らが平壌を制圧する。
朝鮮へ派遣された諸将は八道国割を目標に要衝を制圧していったが、小西行長は当初は李氏朝鮮、後には明との和平交渉を模索して平壌で北進を停止した。
咸鏡道と二番隊
二番隊・加藤清正らは、安辺に到着し、そこから東海岸に沿って北へ進撃を開始した[115]。この間に占領した城の一つが咸興である。ここで二番隊の一部は防衛と民政に当たる事となった[116]。
- 7月17日-18日、二番隊の一部10,000人[112]は更に北進を続け、7月17日には韓克誠が率いる咸興道の北軍及び南軍と、城津(現在の金策)にて戦った[116]。朝鮮の騎兵部隊が騎射戦法により城津の平地で優位に立ち、日本軍は穀物倉庫を盾にしてこれを防いだ[116]。日本軍は倉庫にあった米俵を用いて障壁を作り、騎兵の突撃を火縄銃で撃退した。朝鮮軍が翌朝に再度の攻撃を掛けようと計画している間に、加藤清正は伏兵を潜ませて朝鮮軍を待ち受け、二番隊は沼地に面する部分を除いて完全に朝鮮軍を包囲し、撃破した[116](海汀倉の戦い)[117]。
逃げた朝鮮軍の兵士が他の守備隊に敗報を伝えたため、他の守備隊は日本軍を恐れるようになった。その事も手伝って日本軍は容易に吉州、明川、鏡城を占領した[116]。7月23日、二番隊は会寧に入り、そこで加藤清正は、既に地元住民らによって捕らえられていた二人の王子と咸鏡道観察使柳永立を受け取った[118]。
- 7月23日、朝鮮のニ王子を捕縛するために、9000の兵で北進していた加藤清正は、会寧で王子らを捕縛[119]。
咸鏡道では、以前から、中央から派遣された官僚と地元民(朝鮮人+女真族)との間がうまくいっておらず、しばしば争いが起こっていた。咸鏡道はまた左遷地・流刑地でもあり、左遷人・流刑人たちは中央に不満を抱く地元民と結びついた。さらに咸鏡道出身者は科挙に受かっても官職につけないという差別があり、咸鏡道は李氏朝鮮に不満を抱く者たちの温床になっていた。
転戦の後、日本軍は内政につとめた。清正は咸鏡道北部の地質の悪さと物産の少なさを見て、明川とそれ以北には寝返ってきた朝鮮人に管理させるなど、一部地域に朝鮮人の自治を認めた[120]。加藤清正は咸鏡道を「日本にては八丈が嶋、硫黄が嶋などの様なる流罪人の配所」と報告している[121]。その少し後、朝鮮軍の兵士の一団が無名の朝鮮の将軍の首を差し出し、更に韓克誠将軍も縄で縛って差し出した[116]。
江原道と四番隊
毛利吉成が率いる四番隊は7月に漢城を出発して東へ向かい、朝鮮半島東岸の城を安辺から三陟まで占領した[114]。その後、四番隊は内陸へ向かい、旌善、寧越、平昌を占領し、江原道の都であった原州に駐留した[114]。ここで毛利吉成は民政を行い、日本に準じた身分制度を導入し、更に国土調査を行った[114]。四番隊の大将の一人である島津義弘は梅北一揆のために遅れて江原道へ到着した。島津勢が春川を占領して江原道での作戦は終了した[115]。
- 9月15日、鏡城の戦い[122]。
- 10月6-10日、晋州城の戦い(第一次晋州城攻防戦)。日本軍は、釜山西方の制圧を画策して、晋州城の攻略を図る(細川忠興指揮の日本軍対金時敏指揮の朝鮮軍)が、朝鮮軍、防衛に成功[123]。
- 10月16日、咸興の戦い[124]。
- 11月15日、吉州長坪の戦い[125]。
全羅道と六番隊
小早川隆景率いる六番隊が、全羅道制圧の任に当たる事となり、六番隊は既に三番隊が通過していた日本軍の移動ルートを通って尚州へ行軍し、忠清道の錦山に達した。小早川隆景は、ここを守備して全羅道での作戦の出撃基地とすることにした[126]。
六番隊は、龍仁の戦いから退却した5万の兵を加えた各地からの敗残兵15万を擁して全羅道の守りを固めた権慄によって攻略を阻まれ、錦山において李朝軍を破るが、南下する明軍の攻撃に対応するため、7月中旬には主将の隆景が漢城へ向かった、その際に李朝軍は夜襲を掛けたが察知していた六番隊に準備万端で迎え撃たれ大敗を喫した。9月中旬には残っていた立花宗茂等も漢城へ向かった。
朝鮮水軍の動向
- 5月7日、海岸移動を行っていた日本輸送船団に対して李舜臣率いる朝鮮水軍91隻艦隊が攻撃、海戦を想定していなかった50隻の日本輸送船団は昼夜戦で15艘が撃破される(玉浦の戦い)。
- 5月8日、朝鮮水軍は赤珍浦にいる日本輸送船13隻を攻撃、日本船11隻は撃破される。
- 5月29日、李舜臣率いる朝鮮水軍が日本輸送船団を攻撃。泗川海戦[127]。
- 6月2日、唐浦の海戦[128]。
- 6月5日、第1次唐項浦海戦[129]。
- 6月7日、栗浦海戦[130]。
- 7月7日、海戦用の水軍や朝鮮沿岸を西進する作戦を持たなかった日本軍は、陸戦部隊や後方で輸送任務にあたっていた部隊から急遽水軍を編成して対抗した。しかし、脇坂安治の抜け駆けが主な原因となり日本水軍が敗北する安骨浦の戦い[131]。
長年の倭寇対策で船体破壊のための遠戦指向の朝鮮水軍に対して、船員制圧のための近戦指向の日本水軍では装備や戦術の差もあって、正面衝突の海戦をすると日本水軍が不利であった。7月7日の閑山島海戦で日本水軍が敗北すると日本軍は海戦の不利を悟って、出撃戦術から水陸共同防御戦術へ方針を変更した。そこで巨済島に城郭を建設し、そこに豊臣秀勝の軍勢を置き、日本水軍との連携を深めさせた。当時の船は航海力も未熟で、陸上への依存が強いため水陸共同防御戦術は有効に機能した。
- 9月1日、李舜臣率いる朝鮮水軍が、日本軍の輸送拠点である釜山浦の制圧を目指して日本軍に攻撃を仕掛け、朝鮮水軍は鹿島万戸・鄭運が戦死するなど損害を多く出して敗退した(釜山浦の戦い)[132]。この敗退を契機に以降、朝鮮水軍の出撃回数は激減し、朝鮮水軍のゲリラ活動は沈静化した。
明軍参戦
明軍の参戦を受けて、日本軍は、諸将の合議の結果、年内の進撃は平壌までで停止し、漢城の防備を固めることとなった。
他方、明朝廷は祖承訓の7月16日の平壌戦の敗北という事態に、沈惟敬を代表に立て、日本軍に講和を提案。以降、日本と明との間に交渉が持たれる事になる。
オランカイ侵攻
7月下旬から8月中旬までの期間、加藤清正は、「オランカイ(女真族)」[134]の戦力を試すために、豆満江を渡って満州に入り、近在の女真族の城を攻撃した[118]。現在の局子街付近であるという[135]。 それまで女真は度々国境を越えて朝鮮を襲撃していたため、咸鏡道の朝鮮人3,000人もこれに(加藤清正の軍勢8,000人に)加わった[118]。まもなく連合軍は城を陥落させ、国境付近に宿営したが、日本軍は女真からの報復攻撃に悩まされた[118]。依然優位には立っていたものの、撤退した[118]。二番隊は東へ向かい、鍾城、穏城、慶源、慶興を占領し、最後に豆満江の河口のソスポに達した[118]。この後、清正は秀吉に「オランカイから明に入るのは無理である」と秀吉に報告しており、ただ戦っただけではなく、明への進攻ルートを探す目的があったと思われる[136]。
この女真侵攻を受けて、女真族の長ヌルハチは明と朝鮮に支援を申し出た。しかしながら、両国ともこの申し出を断った。特に朝鮮は北方の「野蛮人」の助けを借りるのは不名誉な事だと考えたと言われている。
日本軍の軍評定
明軍の参戦を受け、朝鮮奉行である石田三成・増田長盛・大谷吉継、ならびに秀吉の上使・黒田孝高らは、漢城に諸将を呼び、軍評定を開いた[137]。
この評定で「今年中の唐入りの延期」「秀吉の朝鮮入りの中止」、この2つを秀吉に進言することが決まった。
黒田孝高は、漢城から北へ1日以内の距離に砦を築き、漢城の守備に力を注ぐことを提案。しかし小西行長は明軍の救援などありえないと主張し、平壌に戻ってしまった[138]。
なお、加藤清正はオランカイに行っていたため、この評定に参加できなかった。後に石田三成らは清正を訴えた際、理由の1つとしてこの件を挙げている[139]。
日本軍・明軍休戦
8月29日、沈惟敬と小西行長との間で50日間の休戦が約束された[142]。李氏朝鮮はこの休戦に反対したが、宗主国である明に押し切られた。他方、明の李如松はこの期間中に日本軍の殲滅作戦を進めている。
碧蹄館の戦い
名将軍として誉れ高い李如松の軍は総兵力4万3,000人で、李家の子飼の私兵によって構成されており、精鋭無比の軍として知られていた[93]。1592年(文禄元年)12月23日、鴨緑江を渡って朝鮮に入り、平壌に向かった。
翌文禄2年(1593年)正月、李将軍は、使いを平壌郊外の順安に派遣し、明朝廷が講和を許し、使者がやがて到着することを小西軍に伝えた。これに喜んだ小西は3日、竹内吉兵衛ら使者20名を順安に派遣。しかし竹内らは伏兵に生け捕りにされる。一部が突破に成功し小西に伝える。当時、平壌城には、ほか宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄ら配下15000兵ほどであった。
1月6日より戦闘が開始された。明軍は仏狼機(フランキ)砲、大将軍砲、霹靂砲などの火器の攻撃によって平壌城の外郭守備は破られ、小西軍は内城に籠った。しかし、日本軍の鉄砲火器が予想外の装備であったため、李将軍は無理攻めによる自軍の犠牲を考慮し、包囲の一部を解いて、小西軍の退却を促し、追撃戦とすることにした[93]。
1月7日夜、小西軍は脱出した。翌日、明軍は精騎3000人で追撃を開始、日本軍は360余が討たれた(異説あり[143])。このとき、黄州にいた大友義統は明軍襲来に際し、小西軍の収容もせずに退却するという失態を犯した(後改易)。小西軍は落胆したが、さらに退却を続け、龍泉山城に在陣する黒田長政に迎えられた[93]。会議では、ひとまず開城まで撤退し、漢城に集結することとした。漢城では石田三成らは篭城戦を、小早川隆景ら六番隊は前進迎撃戦争を唱えた。兵糧不足のため、大勢が迎撃戦を選んだ。
1月18日、明軍、開城入城。
1月25日、明軍と日本の斥候軍が接触。翌26日未明、立花宗茂隊2000兵が進軍開始した。午前6時より11時までの激戦を経て、通報を受けた宇喜多秀家が指揮する日本軍4万が漢城郊外の碧蹄館で迎撃、一大決戦となり日本軍が勝利した(碧蹄館の戦い)。明軍の総司令官・李如松はこの戦いで危うく討ち死に寸前まで追い込まれたが、平壌まで退却した。
2月12日、幸州の戦い。朝鮮軍は1日目の攻撃を撃退したものの、権慄は日本軍の攻撃を危惧して城を放棄し[93]、坡州まで退却した[144]。懲毖録によれば、権慄はこの戦闘後、日本兵の死体を集め、「肢体を裂いて林の木のあちこちに掛けさせ、その憤りをはらした」という[145]。
日本・明講和交渉
文禄2年(1593年)3月、漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれ、窮した日本軍は講和交渉を開始する[93]。これを受けて明軍も再び沈惟敬を派遣、小西・加藤の三者で会談を行い、4月に次の条件で合意した[146]。
- 日本軍は朝鮮王子とその従者を返還する
- 日本軍は釜山まで後退
- 明軍は開城まで後退
- 明から日本に使節を派遣する
明側では宋応昌・沈惟敬が共謀し、部下の謝用梓と徐一貫を皇帝からの勅使に偽装して日本に派遣することにした。一方、日本の秀吉には、この勅使は「侘び言」を伝える者だと報告されていた。
4月18日、合意条件に基づき、日本軍は漢城を出て、明の勅使・沈惟敬・朝鮮の二王子とともに釜山まで後退した。5月8日、小西行長と石田三成・増田長盛・大谷吉継の三奉行は明勅使とともに日本へ出発。
5月15日、明勅使は名護屋で秀吉と会見。秀吉は以下の7つの条件を提示した。
- 明の皇女を天皇の妃として送ること
- 勘合貿易を復活させること
- 日本と明、双方の大臣が誓紙をとりかわすこと
- 朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲し、他の四道および漢城を朝鮮に返還すること
- 朝鮮王子および家老を1、2名、日本に人質として差し出すこと
- 捕虜にした朝鮮王子2人は沈惟敬を通じて朝鮮に返還すること
- 朝鮮の重臣たちに、今後日本に背かないことを誓約させること
石田・小西らは、本国には書き直して報告すればよいと進言。6月28日に小西行長の家臣内藤如安を答礼使として北京へ派遣することとした。7月中旬、釜山に戻ってきた勅使に朝鮮の二王子が引き渡された。
一方、明へ向かった内藤如安は秀吉の「納款表」を持っていたが、明の宋応昌は秀吉の降伏を示す文書が必要だと主張。小西行長は「関白降表」を偽作して内藤に託し、内藤は翌1594年(文禄3年)の12月に北京に到着した。
第二次晋州城の戦いと戦線膠着
一方、この頃、秀吉も朝鮮南部の支配確保は必須として、晋州城攻略を命じる[93]。戦闘要員42491人の陣容であった、近隣には釜山からの輸送役や城の守備に当たる部隊が存在した。当初は漢城戦線を維持したまま日本本土からの新戦力を投入する計画であった。
日本軍は6月21日から29日に掛け僅か8日(戦闘開始から3日)で攻略する(第二次晋州城合戦)。6月には明軍も南下しており、李氏朝鮮軍は救援を要請したが「城を空にして、戦いを避けるのが良策」との返答を得た。日本軍は晋州城を攻略すると更に全羅道を窺い各地の城を攻略、明軍が進出すると戦線は膠着し休戦期に入った。
7月5日には求礼、7日には谷城へ進出し、明軍及び朝鮮軍を撃破した。しかし、南原の守りが堅いと見ると9日には晋州城へ撤退した。 以後、日本軍は恒久的な支配と在陣の為に朝鮮半島南部の各地に拠点となる城の築城を開始し、築城が始まると防衛力の弱い晋州城は無用とされ破却された。
交渉決裂と再出兵
秀吉は明降伏という報告を受け、明朝廷は日本降伏という報告を受けていた。これは日明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をした為である。
結局、日本の交渉担当者は「関白降表」という偽りの降伏文書を作成し、明側には秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」という条件のみであると伝えられた。「秀吉の降伏」を確認した明は朝議の結果「封は許すが貢は許さない」(明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない)と決め、秀吉に対し日本国王(順化王)の称号と金印を授けるため日本に使節を派遣した。文禄5年(1596年)9月、秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられていないのを知り激怒。使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定した。なお沈惟敬は帰国後、明政府によって処刑される[147]。
- 地震と改元
なお、同1596年9月1日(旧暦閏7月9日)、慶長伊予地震が発生。M 7.0、薬師寺本堂や仁王門、鶴岡八幡宮が倒壊。3日後の9月4日に慶長豊後地震が発生。M 7.0〜7.8、死者710人、地震と津波によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされる。
翌日の9月5日午前0時頃、慶長伏見地震(慶長伏見大地震)が発生[148]。M 7.0〜7.1で、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣、方広寺の大仏が倒壊。余震が翌年春まで続く[149]。これらの大きな地震が相次いだことで慶長に改元された(このため、地震は「慶長」を冠している)。
なお、この地震より以前、加藤清正が石田三成・小西行長らに訴えられて日本で謹慎していたが、清正は地震が起きた際に秀吉の元へ駆けつけて弁明を行い、謹慎を解かれ、慶長の役にも出陣することとなった。
慶長の役
和平交渉が決裂すると西国諸将に動員令が発せられ、慶長2年(1597年)進攻作戦が開始される。作戦目標は諸将に発せられた2月21日付朱印状によると、「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」というもので、作戦目標の達成後は仕置きの城(倭城)を築城し、在番の城主(主として九州の大名)を定めて、他の諸将は帰国するという計画が定められた。
九州・四国・中国勢を中心に編成された総勢14万人を超える軍勢は逐次対馬海峡を渡り釜山浦を経て任地へ向かった。
全羅道・忠清道掃討戦
李氏朝鮮王朝では釜山に集結中の日本軍を朝鮮水軍で攻撃するように命令したが、度重なる命令拒否のために三道水軍統制使の李舜臣は罷免され、後任に元均が任命された。
朝鮮水軍を引き継いだ元均も攻撃を渋ったが、ついに7月に出撃を行った。しかし攻撃は失敗し、帰路に巨済島沖の漆川梁で停泊していた。この情報を得た日本軍は水陸から攻撃する作戦を立て、7月16日海上からは藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明等の水軍が攻撃し、陸上からも島津義弘・小西行長等が攻撃した。この漆川梁海戦は日本軍の大勝となり朝鮮水軍の幹部指揮官、元均、李億祺、崔湖を戦死させ、軍船のほとんどを撃沈して壊滅的打撃を与えた。
海上から朝鮮水軍の勢力を一掃した日本軍は、翌8月、右軍と左軍(及び水軍)の二隊に別れ慶尚道から全羅道に向かって進撃を開始した。対する明・朝鮮軍は道境付近の黄石山城と南原城で守りを固めたが、日本の右軍は8月16日黄石山城を(黄石山城の戦い)、左軍及び上陸した水軍諸隊は8月12日から南原城を攻撃(南原城の戦い)、たちまち二城を陥落させ全州城に迫ると、ここを守る明軍は逃走し、8月19日無血占領する。南原と全州の陥落により明・朝鮮軍の全羅道方面における組織的防衛力は瓦解した。
日本の諸将は全州で軍議を行い、右軍、中軍、左軍、水軍に別れ諸将の進撃路と制圧する地方の分担を行い、守備担当を決め全羅道・忠清道を瞬く間に占領した。北上した日本軍に一時は漢城の放棄も考えた明軍であったが、結局南下しての抗戦を決意し、9月7日に先遣隊の明将・解生と黒田長政の部隊が忠清道と京畿道の道境付近の稷山で遭遇戦となり、毛利秀元が急駆救援して明軍を水原に後退させた[150](稷山の戦い)。
一方海上では、朝鮮水軍の残存艦隊を三道水軍統制使に返り咲いた李舜臣が率いて全羅右水営に拠っていた。李舜臣は、南原城から南下した後、再び乗船して西進していた日本水軍を、9月17日鳴梁海峡で迎え撃ち、これに痛打を与えると速やかに退却した。この鳴梁海戦の翌日、日本水軍は朝鮮水軍の去った全羅右水営を占領する。さらに、日本の陸軍により全羅道西岸が制圧されると朝鮮水軍は拠点を失い、李舜臣も全羅道北端まで後退し、日本水軍は全羅道西岸まで進出した。
稷山に日本軍が進出すると、明・朝鮮軍は漢江を主防衛線として守りを固めたが、漢城ではパニックとなり市民が逃亡を開始する事態に陥っていた。この時、朝鮮では漢城を維持できる状態になく、朝臣たちはわれ先に都を出て避難することを献策した[151]。
こうして日本軍は秀吉の作戦目標通り全羅道・忠清道を成敗し、さらに京畿道まで進出すると、慶尚道から全羅道の沿岸部へ撤収し、文禄の役の際に築かれた城郭群域の外縁部(東は蔚山から西は順天に至る範囲)に、計画通り新たな城郭群を築いて恒久領土化を目指した。城郭群の完成後は各城の在番軍以外は帰国する予定で、翌慶長3年(1598年)中は攻勢を行わない方針を立てていた。
蔚山戦役
築城を急ぐ日本軍に対して、明軍と朝鮮軍は攻勢をかける。12月22日、完成直前の蔚山倭城(日本式城郭)を明・朝鮮連合軍5万6,900人が襲撃し、攻城戦を開始するが、急遽入城した加藤清正を始め日本軍の堅い防御の前に大きな損害を被り苦戦を強いられた。そのため明・朝鮮連合軍は強襲策を放棄し、包囲戦に切り替える。このとき蔚山城は未完成であり、食料準備も出来ていないままの籠城戦で日本軍は苦境に陥る。年が明けた翌慶長3年(1598年)1月になると蔚山城は飢餓により落城寸前まで追いつめられていた。しかし、1月3日毛利秀元等が率いる援軍が到着し、翌4日水陸から明・朝鮮連合軍を攻撃敗走させ2万人の損害を与えて勝利した(蔚山城の戦い)。戦いの後、宇喜多秀家など13人は、立地上突出している蔚山・順天・梁山の三城を援軍の困難さを理由として放棄する案を豊臣秀吉に上申しているが、これに小西行長、宗義智、加藤嘉明、立花宗茂等は反対し、秀吉はこの案を却下し上申者を叱責した。日本軍の各城郭では、城の増強工事、火器の増強、兵糧の備蓄が進められ強固な防衛体制が整えられていった。各城郭の防衛体制が整うと、九州衆が城の守備のため6万4千あまりの軍勢を朝鮮半島の在番として据え置き、7万の四国衆・中国衆と小早川秀秋は、予定通り順次帰国して翌年以降の再派遣に備えた。
三路の戦い
秀吉は翌慶長4年(1599年)に大軍を再派遣して攻勢を行う計画を発表していた。しかし豊臣秀吉は8月18日に死去。その後、五大老や五奉行を中心に撤退が決定され、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。もっとも、秀吉の死は秘匿され朝鮮に派遣されていた日本軍にも知らされなかった。
9月に入ると明・朝鮮連合軍は軍を三路に分かち、蔚山、泗川、順天へ総力を挙げた攻勢に出た。迎え撃つ日本軍は沿岸部に築いた城の堅固な守りに助けられ、第二次蔚山城の戦いでは、加藤清正が明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功。
泗川の戦いでは島津軍7000が数で大きく上回る明・朝鮮連合軍を迎撃。明軍で火薬の爆発事故や、島津軍の伏兵戦術などにより連合軍が混乱。島津軍が大勝した。
順天を守っていたのは小西行長であったが、日本軍最左翼に位置するため、新たに派遣された明水軍も加わり水陸からの激しい攻撃を受けるが防衛に成功し、先ず明・朝鮮陸軍が退却、続いて水軍も古今島まで退却した(順天城の戦い)。以後、明・朝鮮連合軍は順天倭城を遠巻きに監視するのみとなる。
この三城同時攻撃では、明・朝鮮連合軍が動員した総兵力は11万を超え、前役・後役を通じて最大規模に達していた。また兵糧や攻城具も十分に準備してのものであったが、全ての攻撃で敗退した。これにより、三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたという[152]。
戦争の終結
蔚山、泗川、順天への攻勢を退けた日本軍であったが、8月に秀吉が死去して以降、幼児の豊臣秀頼が後を継いだ豊臣政権では、大名間の権力をめぐる対立が顕在化し、政治情勢は不穏なものとなっており[153]、もはや対外戦争を続ける状況にはなかった。そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令された。
10月下旬、帰国命令を受領した小西行長は、明軍の陸将劉綎との交渉により無血撤退の約束を取り付け、人質を受領して撤退の準備に取り掛かっていた。ところが、古今島に退却していた明・朝鮮水軍は、日本軍撤退の動きを知ると、11月10日再び順天城の前洋に表れ海上封鎖を実施して海路撤退の妨害を行った。そこで小西行長は、明水軍の陳璘と交渉や買収で無血撤退の約束を取り付け、人質も受領するが、この頃日本側撤退の内情(秀吉の死)は明・朝鮮側も知るところとなり、実際には明・朝鮮水軍は後退せずに海上封鎖を継続した。
小西軍の脱出が阻まれていることが確認されると泗川から撤退してきた島津義弘、立花宗茂、高橋直次、寺沢広高、宗義智らの諸将は救援に向かうために水軍を編成して進撃した。島津義弘、立花宗茂らの救援軍が近づくのを知ると明・朝鮮水軍は順天の海上封鎖を解いて迎撃を行い、両軍は11月18日夜間、露梁海峡において衝突する。
この露梁海戦で島津水軍は苦戦したが、明・朝鮮も明水軍の副将、鄧子龍や朝鮮水軍の三道水軍統制使の李舜臣を含む複数の幹部が戦死した。明・朝鮮水軍が出撃したことによって順天の海上封鎖が解けたことを知った小西行長は、海戦海域を避けて海路脱出に成功した。
一方、東部方面の諸将は、これより先の11月15日ごろから各持城を徹し順調に釜山に向かっている。
11月23日加藤清正等が釜山を発し、24日毛利吉成等が釜山を発し、25日小西行長、島津義弘等が釜山を発す。こうして、日本の出征大名達は朝鮮を退去して日本へ帰国し、豊臣秀吉の画策した明遠征、朝鮮征服計画は成功に至らぬまま、秀吉の死によって終結した。
この戦争について『明史』は「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」と総評する[7]。
慶長4年(1599年)の再出兵計画
秀吉は慶長の役の開始の頃から数度の出兵を計画しており、蔚山戦役の後には6万4千余の将兵を朝鮮半島の在番として拠点となる城郭群に残し防備を固めさせる一方、7万余の将兵を本土に帰還させていた[154]。それは秀吉が慶長4年(1599年)にも大規模な軍事行動を計画していたためであった。日本軍の総司令官には石田三成や福島正則が任命されていた。その再出兵計画に向けて朝鮮半島の倭城に兵糧や玉薬などを諸将に備蓄するように命じていたが、計画実施前に秀吉が死去したため実施されることはなかった[155]。
戦役後の和平交渉
和平交渉は徳川家康によって委任を受けた対馬の宗氏と朝鮮当局の間で進められた。とはいえ、日本国内では「徳川家康が再出兵を計画し、対立している諸大名たちを朝鮮に送り込もうとしている」という不穏な噂が流れていた[156]。
日本は断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、朝鮮側に通信使の派遣を打診し、それを受けて朝鮮朝廷はまず日本の内情探索のため1604年に探賊使として惟政を対馬に派遣したが、征夷大将軍徳川家康は宗義智に命じて京まで呼び寄せ、翌1605年(慶長10年)上洛して伏見城で会見した。惟政は日本側の実権が徳川に移ったことと家康の和平の意向を確認し、その後朝鮮より正式な使節である回答兼刷還使が派遣されて和平が果たされたのは、1607年(慶長12年)二代将軍徳川秀忠に対してであった。
明は日本と国交を結ばないまま滅亡し、明に代わって中国を支配するようになった清は、すでに日本が鎖国を取ったため貿易は行うが、正式な国交を持とうとはしなかった(海禁も参照)。
影響
休戦を挟んで6年に及んだ戦争は、日本・明・朝鮮の三国に重大な影響を及ぼした。
日本国内情勢への影響
出兵前後に生じた影響
留守中の大名領地に太閤検地が行われ、豊臣政権の統治力と官僚的な集団が強化された。しかし戦後にはこの戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、家臣団が分裂したり内乱が勃発する大名も出るなど、かえって豊臣政権の基盤を危うくする結果となった。
一方で、諸大名中最大の石高を持ちながら、九州への出陣止まりで朝鮮へ出兵しなかった徳川家康が隠然たる力を持つようになった[157]。西国大名が出兵で疲弊した一方で、損耗を免れたことが徳川家康が後に天下を取る要因の一つとなった。
五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がってゆく。この官僚集団と家康の急成長は、豊臣政権存続を図る官僚集団(主に石田三成)と次期政権を狙う家康との対立に発展し、関ヶ原の戦い慶長5年(1600年)に至った。戦いに圧勝した家康は日本国内で不動の地位を得、慶長8年(1603年)に朝廷より征夷大将軍に任ぜられ徳川幕府を創設した。さらに家康は大坂の陣慶長19-20年(1614-1615年)で豊臣氏を滅亡させることで徳川氏による国内覇権を確立した。こうして泰平の江戸時代が始まる。
また、出兵に参加した大名たちによって連れてこられたり、大名と雇用関係を結んだりして自ら来日した朝鮮人から様々な技能が伝えられた。 朝鮮人儒学者との学問や書画文芸での交流、そして陶工が大陸式の磁器の製法、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化に新たな一面を加えた。その一方、多くの朝鮮人捕虜が戦役で失われた国内の労働力を補うために使役され、また奴隷として海外に売られたこともあった[158]。
開国後の大陸進出への影響
江戸時代末期・明治時代の開国により大陸情勢への関係が不可避なものとなると、当時の武将達が三韓征伐を想起したように、秀吉の朝鮮出兵も注目されるようになり、大陸進出は豊臣秀吉の遺志を継ぐ行いだと考えるものも多くなった。韓国併合が成った際、初代総督寺内正毅は「小早川、加藤、小西が世にあれば、今宵の月をいかにみるらむ(秀吉公の朝鮮征伐に参加された小早川・加藤・小西の諸将が今生きていれば、朝鮮を日本のものとしたこの夜の月をどのような気持ちでみられるだろうか)」と歌を詠み、外務部長だった小松緑はこれに返歌して、「太閤を地下より起こし見せばやな高麗(こま)やま高くのぼる日の丸(太閤殿下を蘇らせ見せ申し上げたいものだ、朝鮮の山々に高く翻る日の丸を)」と歌い、韓国併合が成ったことを喜んだ。
明への影響
朝鮮への援兵を、同時期に行われた寧夏のボハイの乱、播州(四川省)の楊応龍の乱の二つの反乱の鎮圧とあわせて、「万暦の三大征」と呼んでいる。『明史』王徳完伝によると「寧夏用兵(ボハイの乱)、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役(楊応龍の乱)二百余万」、『明史』陳増伝には「寧夏用兵(ボハイの乱),費帑金二百余萬。其冬。朝鮮用兵,首尾八年,費帑金七百余萬。二十七年,播州用兵(楊応龍の乱),又費帑金二三百萬」とあり、数字に違いはあるが、万暦の三大征の中でもこの戦役がボハイの乱と楊応龍の乱とは比較にならないほど財政上に大きな負担であったと認識されていたことが窺える。
これらの膨大な軍事費の支出及び戦死者[7]を出したことと皇帝万暦帝の奢侈は明の国力を悪化させ17世紀前半の女真の強大化に耐え切れないほどの、明の急速な弱体化の重要な原因となったと考えられている。
朝鮮半島への影響
戦場となった朝鮮半島では統治不全によって治安が悪化し、不平両班や被差別階級、困窮した農民、盗賊による反乱、蜂起、及び朝鮮軍によるその鎮圧、また朝鮮王朝内部の政争による粛清や処刑などが行われ、朝鮮社会の矛盾が噴出した[95]。
李氏朝鮮は極端に中央集権化が進み階級差別と過酷な搾取によって農民が毎年春には必ず飢える(「春窮」)ほどで、国土の開発も怠っていた。また、流通経済が未発達で民衆の生活は自給自足が基本であり銀などの貨幣による取引が成立せず朝鮮民衆とは物々交換などで食料の調達を行わなければならなかった。戦争が開始されると、朝鮮・明軍・日本軍が食料の現地調達を行った。食料不足と治安悪化のために農民が耕作を放棄することで流民となった。
明軍の兵糧供給は李氏朝鮮側が提供したため[159]、朝鮮政府は過酷な食料調達を行った。このため明軍の略奪と合わせて日本軍が侵攻していない平安道も荒廃して人口が激減している。また朝鮮軍より明軍に優先的に食料供給が行われたことから、朝鮮軍の戦意低下は少なからぬものがあった。朝鮮に駐屯した明軍による朝鮮民衆に対する無秩序な略奪なども横行し、朝鮮の民衆は日本を一番の侵略者としながらも、明軍も第二の侵略者であるとして憎んだ。
また日本軍の侵入がはじまると、特に身分差別に苦しんだ朝鮮の下層民衆は混乱に乗じて官庁や身分を示す書類の所蔵倉庫を焼き払った。また日本軍は義兵の抵抗に手を焼いたため、住民の虐殺や村の焼き討ちなどを行うこともあった。戦功の証明としてはなそぎも行われたが[160]、これは慶長の役以後の不穏民衆を一揆と認識して討伐した際の話であり、当初は日本の国内戦同様に非戦闘員である民衆は保護の対象であり殺戮は禁止されていた。
朝鮮軍に投降し捕えられた日本の将兵(降倭)は当初すぐに処刑されていたが、降倭を利用することを目的として1591年10月に降倭を勝手に殺す事を禁じる命令が出された。以後、降倭のうち砲術や剣術などの技能を有する者は訓練都監や軍器寺に配属され、降倭からの技能習得が図られた。これにより日本の火縄銃の技術が朝鮮に伝わることとなった。また特殊技能のない降倭は北方の国境警備兵や水軍の船の漕ぎ手とされた。降倭の中には朝鮮王朝に忠誠を誓って日本軍と戦うなどして、朝鮮姓を賜り優遇されて朝鮮に定着する者もいた。
戦役以後、朝鮮では日本に対する敵意が生まれ、平和な貿易関係を望む対馬の宗氏も朝鮮王朝に強く警戒され、日本使節の上京は禁じられ、貿易に訪れた日本人も釜山に設けられた倭館に行動を制限された。 一方、朝鮮の両班階層(支配層)の間では明の援軍のおかげにより朝鮮は滅亡を免れたのだという意識(「再造之恩」)が強調され、明への恩義を重視する思想が広まり、属国としての立場が強くなった。これは中国との間での朝鮮外交の針路に多大な影響を与えることとなった。
また、文化面でも朝鮮半島に多大な影響をもたらした。唐辛子が文禄・慶長の役の日本軍によって朝鮮半島にももたらされ、キムチ等の韓国・朝鮮料理の礎を築いた。また軍事面では、多くの火器の製造・運用技術が日本人から伝わり、刀剣類についても日本刀を原型とした倭刀等の派生武具が作られた。現在でも多くの城郭跡が朝鮮半島各地に残され日本人による統治の足跡を残している。文禄・慶長の役は現在の朝鮮半島国家(朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国)における反日感情の原点とされ反日教育でもまず最初に朝鮮出兵を教えられる事が多いという。
朝鮮と後金・清への服属
朝鮮と明が文禄・慶長の役によって国力を疲弊させると、女真族のヌルハチが台頭し、1616年までに明からの独立し、アイシン国(aisin gurun, 金国。後金)を建国した。1619年の明とアイシン国の戦争であるサルフの戦いで、金は明に勝利する。朝鮮は援軍を明に送っていたが、金に降伏し「朝鮮は戦う意志は無く、明の強制的な要請によって援軍を送った」と弁明した。ヌルハチはこれを許し、後金は朝鮮侵攻を行わなかった。しかしその後、朝鮮でクーデターが起き、反金・親明政策をとるようになる。1624年の仁祖に対する李适の反乱が起き、すぐ鎮圧されたが、後金に逃げ込んだ反逆者が朝鮮侵攻を進言、ホンタイジが1627年に朝鮮に侵攻する(丁卯胡乱)。後金軍が漢城に到達すると、仁祖は降伏し、後金を兄、朝鮮を弟とする兄弟国としての盟約、李氏朝鮮は王族を人質として差し出すことなどが合意された。しかし、朝鮮には反後金感情が強く残った。
1636年に後金が清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた際に朝鮮はこれを断り、清は12万の軍で朝鮮に侵入した(丙子胡乱)。朝鮮側は45日で降伏し、朝鮮は以後、清の属国となった。仁祖はホンタイジに対し三跪九叩頭の礼をし、清皇帝を公認する誓いをした(大清皇帝功徳碑)。清への服属は日本が日清戦争で清に勝利し、朝鮮が清の冊封体制から離脱する1895年まで続いた。
関連人物
- 日本側
- 戦いに参加した武将(名護屋城後詰など、陣立てにある人物は除く)
- その他
- 明側
- 文禄の役参戦主要武将
- 慶長の役参戦主要武将
- 朝鮮側
- 鄭希得、ジュリアおたあ、大添・小添、沙也可(金忠善)、鄭撥、金命元、惟政、休静、金応瑞、李桓福、李陽元、李英男、桂月香(伝説的な女スパイ)、許浚(王の主治医)、論介、李参平、鄭起龍、高敬命、趙憲、崔慶会、尹斗寿、尹根寿、李恒福、李德馨、陳武晟、韓濩、黄慎
主な戦い
- 1592年(文禄元年)
- 4月27日 忠州の戦い - 小西行長対申砬
- 5月18日 臨津江の戦い - 加藤清正対李陽元
- 6月5日 龍仁の戦い - 脇坂安治対李洸
- 7月7日 閑山島海戦 - 脇坂安治対李舜臣
- 7月8日 梨峙の戦い - 小早川隆景対権慄
- 7月9日 (第1次)錦山の戦い - 小早川隆景、立花宗茂対高敬命
- 7月16日 (第1次)平壌城の戦い - 小西行長、大友義統、黒田長政、立花宗茂対祖承訓、史儒
- 7月17日 海汀倉の戦い - 加藤清正対韓克諴
- 8月17日 (第2次)錦山の戦い - 立花宗茂、安国寺恵瓊対趙憲、霊圭
- 8月29日 釜山浦の戦い - 対李舜臣
- 10月4日(10日まで) (第一次)晋州城の戦い - 細川忠興、長谷川秀一対金時敏、郭再祐
- 1593年(文禄2年)
- 1597年(慶長2年)
- 1598年(慶長3年)
脚注
史料
- 日本側資料
- 小瀬甫庵『太閤記』(吉田豊訳『太閤記』1-4、教育社新書)
- 小西行長軍の従軍僧天荊の『西征日記』(『続々群書類従』所収)
- ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』
- 「普聞集」(鍋島直茂 の従軍僧是琢による記録[1])
- 『松浦法印征韓日記抄』[2]近代デジタルライブラリー所蔵
- 『松浦古事記』[3]
- 『宗氏家譜』
- 『宇都宮高麗帰陣物語』
- 『朝鮮記』(太田一吉の家臣大河内秀元著)
- 『朝鮮日々記』(臼杵城主太田一吉に仕える安養寺の医僧慶念の慶長の役従軍日記。大分県立図書館Q&A)
- 『清正高麗陣覚書』[4]
- 『朝鮮南大門合戦記』[5]
- 『朝鮮征伐記』[6]
- 『征韓偉勲録』[7]
- 『元親記』・『土佐物語』長宗我部元親に関する記録
- 『立花朝鮮記』(安田国継著)
- 朝鮮側資料
- 明側資料
- 明『神宗実録』
参考文献
- テンプレート:Citation
- テンプレート:Citation
- テンプレート:Citation
- 北島万次『朝鮮日々記・高麗日記-秀吉の朝鮮侵略とその歴史的告発-』 歴史学研究、歴史学研究会、1982年
- 捕虜志による秀吉朝鮮の役 内藤焦輔
- テンプレート:Citation
- 中野等『文禄・慶長の役』戦争の日本史16、吉川弘文館、2008年2月。
- 鄭 杜煕、李ギョンスン、金 文子、小幡倫裕編『壬辰戦争』明石書店 (2008)
- Rockstein, Edward D., Ph.D. Strategic And Operational Aspects of Japan's Invasions of Korea 1592-1598, 1993-6-18. Naval War College, Newport, R.I.
- Swope, Kenneth M. "Crouching Tigers, Secret Weapons: Military Technology Employed During the Sino-Japanese-Korean War, 1592-1598", The Journal of Military History pp. 69 (January 2005): pp. 11–42. (C) Society for Military History.
- Turnbull, Stephen. Samurai Invasion: Japan's Korean War 1592–98. London: Cassell & Co, 2002, ISBN 0-304-35948-3.
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関連項目
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外部リンク
- テンプレート:Yahoo!百科事典
- テンプレート:Cite web - 多数のレポートあり。
- テンプレート:Cite web - 韓国・慶尚南道が作成した李舜臣のサイトの日本語版。
- テンプレート:Cite web - 文禄・慶長の役(壬辰倭乱)を専門にした韓国の歴史博物館のサイトの日本語版。
- テンプレート:Cite web
- ↑ 1709年初筆を1760年に模写
- ↑ ただし晋州城攻略は実施。
- ↑ 3.0 3.1 林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論社
- ↑ 両班では文官が上位のため、文官が軍事的地位にいた。このため下記の指揮官のなかには文官が入っている。
- ↑ 節「軍事力」参照
- ↑ 「完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ」より、ルイス・フロイスらが「百方手を尽くして」情報収集した結果、「もっとも信頼でき、かつ正確」だと判断した数字。死因については「敵によって殺された者はわずかであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである」と記している。
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。『明史・朝鮮伝』[8] 引用エラー: 無効な
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- ↑ 非戦闘員含む.「文禄・慶長の役」中野等、192頁
- ↑ 朝日新聞(2006年6月28日夕刊文化面)「『倭乱』と東アジア 韓国の国際シンポから 上」「新しい歴史像 日中激突16世紀最大の戦」の中で、ケネス・スオープ米ボールステート大準教授の「両者(日中)の激突は16世紀世界最大の戦争だった」との発言が紹介されている。
- ↑ ケネス・スオープ米ボールステート大準教授(中国軍事史)は、「日本と朝鮮の間の戦争だとの見方はやめるべきだ」として、「明(中国)を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦。これは日本と中国の戦争だ。秀吉軍の侵攻直前に明で内乱が起きたため、明はすぐに兵を送ることができなかったが、朝鮮の要請ではなく、自分の利益のために参戦した」「『明軍は弱い』というイメージは明を倒した清により作られたもので、当時は武器も優秀で精強だった。一方の秀吉軍は戦乱で鍛え上げられた世界最強の軍団。両者の激突は16世紀世界最大の戦争だった」と述べている(朝日新聞2006年6月28日夕刊文化面「『倭乱』と東アジア 韓国の国際シンポから 上」より)。
- ↑ ここでの高麗はコリアと同じ意味。
- ↑ 13.0 13.1 13.2 13.3 13.4 13.5 13.6 テンプレート:Harvnb
- ↑ 14.0 14.1 一瀬千恵子 文禄・慶長の役の伝承に関する研究 朝鮮軍記を中心として
- ↑ ただし李王朝を戦国大名と同列に見ていたと言うことはできる。そのことはこの戦役が起こった原因に通じるものがある。
- ↑ テンプレート:Harvnb
- ↑ 出兵とすると「秀吉の朝鮮侵略戦争」(世界史用語集、山川出版社)などとの説明が必要になるため、征伐が避けられるのとは逆の理由で回避される。ただ、これはかなり最近の話で、朝鮮出兵はまだかなり用いられている。
- ↑ 教科書の用語ではこの名称は使われていないが、日本史リブレットなどの副読本には登場。
- ↑ 滅亡に瀕したにもかかわらず、日本をあくまでも蛮族と捉え、蛮族が本朝に逆らった反乱であったという定義である。名称の上で倭寇の活動と秀吉による朝鮮征服を同列とする考えは、儀礼的関係を重視する朝鮮の特徴的な行動。
- ↑ 日本語読み;じんしんわらん、朝鮮語読み;イムジンウェラン(임진왜란)。
- ↑ 日本語読み;ていゆうわらん、朝鮮語読み;チョンユウェラン(정유왜란))。
- ↑ 日本語読み;ていゆうさいらん、朝鮮語読み; チョンユヂェラン(정유재란)。
- ↑ 日本語読み;じんしんそこくせんそう、朝鮮語読み;イムジンチョグクチョンジェン(임진조국전쟁)
- ↑ テンプレート:Citation
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 黄文雄 中国・韓国が死んでも教えない近現代史 p181
- ↑ 『懲毖録』によると景轍玄蘇も朝鮮との交渉において言及した。テンプレート:Harvnb。テンプレート:Harvnb
- ↑ 28.0 28.1 28.2 テンプレート:Harvnb
- ↑ 29.0 29.1 29.2 29.3 テンプレート:Citation
- ↑ これらは『高麗史』や『成宗実録』の記述に基づくものである。済州島の島民も倭寇に加わった(または倭寇と偽って海賊行為を働いていた)という説もあるが、韓国の研究者は高麗賤民や済州島海民の倭寇参加の事実に抵抗している。
- ↑ 倭寇と言うものの、高麗賤民もしくは済州島海民を主体とする集団であったという説が有力。(前期)倭寇の8~9割は朝鮮人であったという朝鮮人説には異説もあるが、いずれにしても日本側から出征した勢力はわかっておらず、前者でなければ正体不明。
- ↑ ただし、これについて日本側には外寇があったという記録がない。
- ↑ 李承晩による竹島の占領を除く場合。
- ↑ 中宗39-4壬辰
- ↑ 村井章介『中世倭人伝』岩波新書、1993年、218頁
- ↑ たとえば大石学「江戸の外交戦略」角川学芸出版、2009、李進熙『日本文化と朝鮮』日本放送出版協会、1980、上垣外 憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』講談社学術文庫ほか。
- ↑ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂, 2000年, 24頁
- ↑ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂, 2000年, 24頁。および村井章介『中世倭人伝』岩波新書、1993年、218頁
- ↑ 村井章介『中世倭人伝』岩波新書、1993年
- ↑ ルイス・フロイスは『日本史』第55章で「信長は、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して支那を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった」と記している
- ↑ 急成長を遂げて来た豊臣家は、発展し続ける事によって家臣の家禄を増やして忠誠心を維持していたため、更なる発展がない事は、豊臣家の天下の存続に係わる問題であった。
- ↑ 42.0 42.1 42.2 42.3 42.4 朝尾直弘「体系日本の歴史8 天下一統」小学館
- ↑ 岩沢愿彦(よしひこ)考証による日付確定。藤木久志 『織田・豊臣政権』 小学館、1975年=『天下統一と朝鮮侵略』講談社学術文庫、2005年
- ↑ Rockstein, Edward D., Ph.D. pp. 38
- ↑ 藤木久志 『織田・豊臣政権』 小学館、1975年=『天下統一と朝鮮侵略』講談社学術文庫、2005年
- ↑ 同書
- ↑ 47.0 47.1 清水紘一「博多基地化構想をめぐって -天正禁教令との関連を中心として-」(藤野保先生還暦記念会編 『近世日本の政治と外交』 雄山閣、1993年、ISBN 4639011954)
- ↑ 本願寺文書による
- ↑ Swope. 2005. pp. 21.
- ↑ 50.0 50.1 『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年
- ↑ 『異国往復書翰集 増訂異国日記抄』村上直次郎編、雄松堂、1966年
- ↑ 『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、43頁
- ↑ 佐藤信淵『宇内混同秘策』
- ↑ 秀吉側近の山中長俊の書状「組屋文書」による(『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、43頁)
- ↑ 『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、16頁
- ↑ 『異国往復書翰集 増訂異国日記抄』村上直次郎編、雄松堂、1966年
- ↑ Colin McEvedy and Richard Jones, 1978, "Atlas of World Population History," Facts on Fileによる推計。1500年の時点では日本1700万、李氏朝鮮は400万、明朝は1億1000万、満州は500万。なお鬼頭宏の推計では1600年の日本の人口は、1547万人。「人口から読む日本の歴史」講談社学術文庫, 2000年, 84頁。歴史上の推定地域人口を参照
- ↑ 歴史上の推定地域人口を参照
- ↑ いずれも漢城占領後に渡朝した。
- ↑ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂, 2000年
- ↑ 『慶長二年陣立書』に基づくが、兵站を担当した兵数不詳の寺沢正成を含まない。(『文禄・慶長の役』/中野等 192頁)
- ↑ 『文禄・慶長の役』/中野等 137頁
- ↑ 文禄の役における島津勢15437人のうち6565人 (43%) が人夫・水夫である。(『歴史群像シリーズ35 文禄・慶長の役』/学研 74頁)
- ↑ 『松浦古事記』巻之下(小瀬甫菴道喜撰)・六 名護屋御陣所の事[9]
- ↑ ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮 」中公文庫
- ↑ ノエル・ペリン前掲書
- ↑ 柳成龍は日本軍の火縄銃(朝鮮では鳥銃)を大きな脅威としている。
- ↑ 有効射程は口径や装薬量により異なるが概ね200m程度とされる。
- ↑ なお、他言語版に見られる日本水軍を強化するために秀吉がポルトガルのガレオン船を二隻雇って戦争に参加させようとしたとする逸話は、1586年にイエズス会準管区長ガスパル・コエリヨを大阪城で謁見した際の打診であり、九州征伐の頃のことであって、文禄の役開戦後の朝鮮水軍の活動を受けてのものではない。
- ↑ 「シナ軍の兵力について、多くの者は誇張しすぎているが、信用できる幾人かのキリシタンからの通信によると、少なくとも20万くらいはいた。しかもそれは同じく無数ともいえる朝鮮の軍勢を除いての数だということである」『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
- ↑ 「ところで彼らのテンプレート:ルビはどのようにして発射されるのか不可解である。というのは、無数に発砲した後も、そのための死傷者が一人も出なかったからである」 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
- ↑ ルイス・フロイスが1593年の平壌戦における明軍の装備に言及している。「(明の)兵士たちは身に適当な厚さの鋼鉄の鎧をまとい、同じく鋼鉄製の膝当てをつけていた。それらは馬上にあっても、足のあたりまで垂れ下がり」「従来発見されたものの中では最優秀を誇っていた日本軍の刀や槍をもってしても、なんら損傷を加え得なかった」「(日本軍の)刀や槍はたび重なる戦闘によって威力が鈍っており、他方シナ軍の武装はいとも堅固で、日本軍の刀を寄せ付けぬほどであった」 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
- ↑ 『懲毖録』柳成龍/平凡社・東洋文庫版187頁
- ↑ なお、フロイスには誇張癖があり(『フロイスの日本覚書』(松田 毅一、 E・ヨリッセン著)より、ヴァリニャーノのフロイス評)、彼は朝鮮には渡っていないので伝聞に基づいていること、また日本の大陸侵攻について「無謀な企て」と否定的に記していることに留意が必要。
- ↑ 『宇都宮高麗帰陣物語』
- ↑ 『朝鮮と日本の関係史』朴鐘鳴監修/明石書店 (2000) 192頁
- ↑ 『懲毖録』柳成龍/平凡社・東洋文庫版14頁
- ↑ ルイス・フロイスによると、日本は「それ(=火砲・矢)以外の武器、特に刀剣は短く、たいして役立たない」という事前情報を得ていた。『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第36章
- ↑ 朝鮮の同時代史料である懲毖録には「弓矢の技は百歩に過ぎないが、鳥銃はよく数百歩に及び、(中略)とても対抗できない」(東洋文庫版283頁)とある。(当時の朝鮮の歩は約118cm) また同書に、尚州での両軍の戦闘においては朝鮮の弓は実射程が100mに満たず(「矢は数十歩で墜ちて」東洋文庫版60頁)日本軍に届かず、開平地の戦闘では火縄銃にアウトレンジされ一方的に損害を被った事が記されている。
- ↑ ただし、朝鮮の「片箭(ピョンジョン)」という弓は遠距離用の短い矢を用いれば最大射程は450mに達するともいう。
- ↑ 天字銃筒 射程距離96m、地字銃筒 同64m、玄字銃筒 同160m 『壬辰戦乱史』/李烱錫
- ↑ 『懲毖録』東洋文庫版 140頁では「数十歩」と記録
- ↑ これは奴婢や特権階級の第二夫人以下に生まれた子息の徴兵も含む内容であった。
- ↑ 壮年男子は農耕やその他の経済活動に優先的に従事させる政策を採用したため
- ↑ 朝鮮軍の組織には重大な欠陥があった。外国からの侵攻を受けた場合でも、地方の軍隊は管轄区域外に、独自の判断で救援に向かう事は許されず、王から新たに任命された将軍が新規に編成した部隊を率いて来援するのを待たねばならなかった。更に、任命された将軍は遠方から着任するため、任地における自軍の戦力や地理をよく知らない場合が多く、兵も僅かな常備軍しかなかったため、戦争が始まってから徴兵された新兵が大部分を占め訓練不足であった。
- ↑ 『李朝実録』宣祖万歴20年5月6月
- ↑ 『壬辰倭乱と朝鮮民衆の戦い』/矢沢康祐
- ↑ 義兵を束ねる諸将が両班層(貴族階級)であるのに対して、兵士の大部分が奴婢、李朝においては賤民身分に貶められていた僧侶などであったが、命を賭して貢献したにも関わらずその望みは叶えられず、戦争が終わると再び農奴身分へと戻され、僧侶もまた賤民のままとされた。文禄・慶長の役で官職を授けられた将軍も、戦役後には党派間の政争に組み込まれ、その多くは権力者らの猜疑心や妬みからその地位を追われ、果ては流刑か死刑かの不遇な生涯を送ることになった。『秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争』金奉鉉/彩流社
- ↑ 国史大辞典、吉川弘文館
- ↑ 『懲毖録』より
- ↑ 東洋文庫『懲毖録』(訳・朴鐘鳴) 「九 壬申の倭乱が起こる」より
- ↑ 「その際はなはだ注目されるのは、その地は僻地であって、人が住むのには適しておらず、単に食料のみならず、事業を遂行する際のすべての必需品が欠けており、山が多く、しかも一方は沼地で、あらゆる人手を欠いた荒地であったことである。」 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉編Ⅱ』第35章より
- ↑ 93.0 93.1 93.2 93.3 93.4 93.5 93.6 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂, 2000年
- ↑ 笠谷和比古・黒田慶一同書36頁
- ↑ 95.0 95.1 95.2 中野等『文禄・慶長の役』吉川弘文館
- ↑ なお加藤清正隊編成は総兵力12,604人 内直臣2,814人(武士728人 鉄砲1,820人 弓256人 忍10人) その他陪臣・下僕・浪人衆9,790人 ※加藤清正隊は他の隊にはある長槍が無く代わりに鉄砲を多く装備していたテンプレート:要出典。
- ↑ 行長らの行動日程は「西征日記」、景轍玄蘇が交渉に当たったことについては中野等「文禄・慶長の役」参照。
- ↑ 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』吉川弘文館1995, 40頁
- ↑ 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』吉川弘文館1995, 41頁
- ↑ 国史大辞典、吉川弘文館
- ↑ 松浦鎮信の家臣・吉野甚五左衛門の従軍記録(吉野日記)
- ↑ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』北島万次
- ↑ 以下、歴史家のStephen Turnbullの記述による。Turnbull, Stephen, 2002
- ↑ 104.0 104.1 104.2 Turnbull, Stephen. 2002, p. 65-6.
- ↑ 105.0 105.1 105.2 105.3 Turnbull, Stephen. 2002, p. 67-8.
- ↑ 宣祖実録の「人心怨叛,與倭同心耳」(人心は怨み叛き、倭に同調するのみ)、「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」(我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要がある?」)で伺い知ることができる。『宣祖實録』二十五年(1592)五月壬戌
- ↑ 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ』
- ↑ 『宣祖修正實録』二十五年(1592)四月晦日
- ↑ 「西征日記」
- ↑ 110.0 110.1 110.2 110.3 110.4 Turnbull, Stephen. 2002, pp. 116-123.
- ↑ 111.0 111.1 Turnbull, Stephen. 2002, p. 72-3.
- ↑ 112.0 112.1 Turnbull, Stephen. 2002, p. 240.
- ↑ 113.0 113.1 Turnbull, Stephen. 2002, p. 73-4.
- ↑ 114.0 114.1 114.2 114.3 114.4 Turnbull, Stephen. 2002, p. 74-5.
- ↑ 115.0 115.1 Turnbull, Stephen. 2002, p. 75-6.
- ↑ 116.0 116.1 116.2 116.3 116.4 116.5 Turnbull, Stephen. 2002, p. 77-8.
- ↑ 国史大辞典、吉川弘文館
- ↑ 118.0 118.1 118.2 118.3 118.4 118.5 Turnbull, Stephen. 2002, p. 79-80.
- ↑ 岡本良知「豊臣秀吉」中公新書
- ↑ Turnbull, Stephen. 2002, p. 81-82.
- ↑ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』より
- ↑ 国史大辞典、吉川弘文館
- ↑ この戦闘は閑山島海戦(1592年7月、脇坂安治指揮の日本軍対李舜臣指揮の朝鮮軍)・幸州山城攻防戦(1593年2月、宇喜多秀家指揮の日本軍対権慄指揮の朝鮮軍)とあわせて韓国では「壬辰倭乱の三大捷」と呼ばれている。
- ↑ 国史大辞典、吉川弘文館
- ↑ 国史大辞典、吉川弘文館
- ↑ Turnbull, Stephen. 2002, pp. 110-5.
- ↑ [10]
- ↑ [11]
- ↑ [12]
- ↑ [13]
- ↑ 国史大辞典、吉川弘文館。[14]
- ↑ 李舜臣行録
- ↑ 国史大辞典、吉川弘文館
- ↑ 朝鮮人は女真族の事を「野蛮人」という意味をこめて「オランケ(兀良哈)」と呼んでいた。これが転じて日本人は女真族を「オランカイ」と呼んだ
- ↑ 岡本良知「豊臣秀吉」中公新書
- ↑ 清正の報告内容は「オランカイは朝鮮の倍ほどの広さで、これを通って明に入るにはモンゴルも通らねばならないので無理である」「オランカイは畑地ばかりで雑穀しかとれず、兵糧米が手に入る見込みはない」「オランカイには日本の守護のような統治者がおらず、伊賀者・甲賀者のように砦を構え、まるで一揆国のようである」というものである。『加藤清正 朝鮮侵略の実像』
- ↑ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』より
- ↑ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』より
- ↑ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』より
- ↑ 国史大辞典、吉川弘文館
- ↑ [15]
- ↑ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂, 2000年, 46頁
- ↑ 「我國無一人出撃、天兵又不追之、獨李時言尾其後不敢逼、伹斬飢病落後者六十餘級」(『懲毖録』。史料稿本による)、「敵は日本人たちを追跡して来なかった。話によると彼らの多くは負傷しており、継続した戦闘で疲労していたし、大軍が移動するのには時間を要した。ことにシナ軍の武器は、前にも述べたように非常に重く、逃亡する敵を追跡するにあたっては迅速、かつ容易に取り扱いかねたのもその理由であった」(『完訳フロイス日本史5』42章、本来の第3部53章)
- ↑ 中野2008, 104頁
- ↑ 中野2008, 104頁
- ↑ 『宣祖修正実録』宣祖26年4月条
- ↑ 笠谷和比古・黒田慶一同書, 121頁
- ↑ 寒川旭「秀吉と地震」
- ↑ 地震の年表 (日本)参照
- ↑ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部
- ↑ 『懲毖録』柳成龍
- ↑ 『宣祖実録十月十二日条』
- ↑ 豊臣秀吉の死後まもなく、徳川家康を敵対勢力に想定して、毛利輝元は増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家の四奉行と連携し、不測の事態に備えて上方方面に大軍を終結させるなど、軍事衝突さえ起こりかねない状況下にあった。光成準治『関ヶ原前夜』日本放送出版協会 (2009)
- ↑ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部393項
- ↑ 来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり『慶長三年三月十三日付朱印状(立花家文書)』 度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるベく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候『慶長三年五月二十二日付朱印状(鍋島家文書)』等
- ↑ 看羊録
- ↑ 秀吉が徳川家の所領増加を嫌ったためと言われる。(「逆説の日本史11」井沢元彦)
- ↑ 『朝鮮日々記を読む 真宗僧が見た秀吉の朝鮮侵略』 朝鮮日々記研究会編 法藏館 2000年
- ↑ 米、牛、豚などの他、朝鮮の女人も要求している
- ↑ その後しばらくの間朝鮮に鼻のない人間が多く見られたということが知られているが、はなそぎも1597年の慶長の役の頃が主体であるが、これまで戦争全般を通じた蛮行であるがごとく語られてきた。