麻貴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
人物
イスラム教を信仰する回族出身。万暦20年(1592年)に寧夏で起きたボハイの乱の鎮圧で総兵官として活躍した。父は麻禄、兄は麻錦。
慶長の役(朝鮮遠征)でも総兵に任じられ、李氏朝鮮の救援に向かった。万暦25年(1597年)末より楊鎬と共に攻勢を取り、蔚山城の戦いに参加したが加藤清正の守る蔚山倭城を落とすことはできなかった。万暦26年(1598年)の攻勢でも東路軍を率いて忠州・安東・慶州を経て蔚山倭城を再度攻撃したが、前回攻撃の失敗から慎重に行動した結果、9月下旬に小競り合いが見られた程度に終わった[1]。 しかし、乱中雑録には 賊丸如雨。天兵被害。不知其數 とあり明軍にかなりの被害があったと記されている。
万暦38年(1610年)3月より万暦40年(1612年)4月まで遼東総兵官を務めた[2]。
一族
麻氏一族には将才に勝る人材が多く、家丁により構成された軍閥の強力さから李成梁一族と共に「東李西麻」と呼びならわされた。(以下、麻貴を中心に記述)
- 麻禄(麻貴の父。大同参将、宣府副総兵。)
出典
参考文献
- 「明史 巻238/列伝126」[1]