李如梅
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李如梅(り じょばい 生没年不詳)は、明末期の武将。李成梁の子、李如松・李如柏の弟。
文禄・慶長の役では1592年末から総兵である兄の李如松配下の参将として朝鮮に来援し、1593年1月6日より小西行長等の守る平壌城を攻撃してこれを奪回した。李如梅も撤退する日本軍を追って南下したが、続く2月26日の碧蹄館の戦いでは1000人を率いて参加したが日本軍に敗れて平壌まで撤退した。
講和交渉が決裂し、1597年に日本軍の全羅道侵攻で慶長の役が始まると、副総兵に昇進していた李如梅は年末より南下した経理楊鎬・総兵麻貴の指揮下で左協軍の大将として明軍1万3006人および李時言らの朝鮮軍を率いて他の二軍と共に蔚山倭城を攻めたが攻略できないまま日本の援軍に攻撃され大敗を喫して慶州まで撤退した(蔚山城の戦い)[1]。
秋の三倭城に対する攻撃作戦では中路軍を率いて泗川の島津義弘を攻撃する予定であったが、1598年6月、遼東総兵に就任していた李如松が侵入した女真討伐中に塞外で伏兵により討ち取られると、中路軍の後任を董一元に代え、如梅は急遽朝鮮より呼び戻されて兄の後任として遼東総兵を務めた。しかし、翌1599年には遼東総兵を解任されている。1613年には遼東総兵の麻貴の後任として楊鎬に推挙されたが両者癒着の批判を受けて実現しなかった[2]。
李如梅はサルフの戦いの直前に朝廷の者から日本兵と満州兵の強弱について聞かれて「倭兵は体躯倭少なれども、敏捷にして、鳥銃をよくす。ただし一人同志の戦いとなれば、倭兵三十人をもってしても、満兵一人に敵せざるなり」と回答している[3]。
脚注
参考文献
- 「明史 巻238/列伝126」[1]