立花直次

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立花 直次(たちばな なおつぐ、1572年1月4日元亀3年12月1日) - 1617年8月20日元和3年7月19日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初名は高橋 統増(たかはし むねます)、宗一(むねかず)、重種(しげたね)、長行(ながゆき)、号は道白や道伯とも。官途は、主膳正、民部少輔。高橋鎮種(紹運)の次男で、立花宗茂の弟。幼名は千若丸。通称は弥七郎、少輔太郎。妻は筑紫広門の娘(母方の従兄弟にあたる)・加袮(養福院)[1]、子に立花種次立花種吉立花政俊立花忠茂立花種元がいる。三男の政俊は、種俊とも伝わり、家系図上の混同が見られる。

経歴

1572年(元亀3年)生まれる。はじめ、父・紹運や兄・統虎(のち宗茂)とともに大友氏に仕える。兄同様、主君・大友義統から偏諱を賜り統増を名乗る。統虎は後に立花道雪の養子となったため、統増が筑後高橋氏の嫡男となった。

1586年島津氏が大友領である筑前国へ侵攻した際、父は岩屋城、統増は宝満山城をそれぞれ守った。しかし、紹運は岩屋城の戦いにて自刃し、宝満山城でも同じく籠城していた筑紫氏家臣の動揺(筑紫広門は既に島津氏の捕虜となっていた)や、島津氏からの城兵の助命を含めた降伏勧告もあり、家臣の提案による「統増夫妻を立花城へ無事に送り届ける事」という追加条件によりこれを了承した。ところが統増が城を出ると、約束を違えた島津兵によって妻共々捕虜となり、宝満山城は開城することとなる。

同年の豊臣秀吉による九州征伐後は、兄とともに豊臣氏の家臣となり、筑後国に1万8000石の所領を与えられた。のち兄に従って、肥後国人一揆文禄・慶長の役などで功を挙げた。1600年関ヶ原の戦いで兄と共に西軍に与して、伏見城の戦い大津城の戦いなどに出陣する。戦後に改易されたものの、1614年から始まる大坂の陣では、徳川氏に与して功を挙げ、常陸国筑波郡内5000石の旗本となった。この時に家号を高橋より、立花に改めた。

1617年(元和3年)死去。法名は大通院殿玉峯道伯大居士。子の種次の代に5000石加増され、三池藩が成立した。

直次は武勇に優れ、文禄・慶長の役においては軍に囲まれた兄を血路を開いて救出しており、宗茂も武勇に長けた弟の存在を自慢に思っていたという。また、柳生宗矩の門弟となり「新陰治源流」を開祖した。

なお、末裔のひとりに麻生太郎内閣総理大臣(第92代)、自由民主党総裁(第23代))がいる。

先代:
高橋紹運
筑後高橋氏当主
高橋統増
次代:
断絶(立花に改姓)

脚注

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  1. 筑紫広門の子・岡掃部入道道甫は江戸時代で岡氏と改める、彼の姉・養福院と加袮は同一人物。