加藤光泰
加藤 光泰(かとう みつやす、天文6年(1537年) - 文禄2年8月29日(1593年9月24日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将、大名。斎藤氏、豊臣氏の家臣。加藤景泰の子。弟に光政。正室は一柳可遊の娘。子に貞泰、竹中重門室。養子に可遊の子で義兄弟にあたる光吉。
生涯
はじめ斎藤龍興に仕えていたが、斎藤氏が滅亡すると美濃衆として尾張国の織田氏家臣であった木下秀吉(後の豊臣秀吉)に仕える。元亀2年(1571年)、近江国坂田郡において浅井氏と戦い700貫となる。天正8年(1580年)の播磨国三木城攻めでは播磨国内に5,000石を与えられ、天正10年(1582年)に近江国周山城主。同海津城主を経て、高嶋城主となる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは犬山城代を務め、常に敵方との国境にあたる最前線を担った。
天正13年(1585年)には大垣城主2万石となり、同時に秀吉の蔵入地を預かったが、自身の給人地としたため、同年9月に国替えされ、豊臣秀長に預けられる。天正15年(1587年)には赦免され従五位下遠江守に叙任。近江国佐和山城番を務め、天正18年(1590年)の小田原征伐では駿府在番。大垣城主であった一柳直末が同合戦で戦死したため、羽柴秀勝の美濃国岐阜への国替えに伴い甲府24万石を与えられる。
甲斐国は関東8カ国を領する徳川家康との国境にあたり、光泰は入国すると国中、河内支配には嫡男・作十郎(貞泰)と実弟の光政、郡内地方には養子の光吉を任じ、文禄元年(1592年)までは寺社領の安堵や寄進、諸役免除などを集中的に行い、検地を行っている。この時期の検地は、秀吉の朝鮮出兵に備えて諸将に負担させる軍役の元となる御前帳徴収に応じたものであると考えられている。また、甲府城の築城を行う。
文禄の役では願い出て自ら出陣し(伊予大洲藩加藤家藩史『北藤録』)、陣中でも留守居役の光吉らと緊密な連絡を取り、領国経営の助言をしていたという。文禄2年(1593年)9月には帰国予定であったが、西生浦の陣中で発病、病死した。享年57。遺骸は国元へ送られ、山梨郡板垣村の甲斐善光寺に葬られた(後に大洲曹渓院へ移される)。法号は剛園宗勝曹渓院。
なお、文禄3年(1594年)1月には作十郎は美濃国黒野に国替えされる。甲斐は一時の国主不在期間を経て、浅野長政、幸長親子に与えられた。
毒殺説
『北藤録』に拠れば、光泰は朝鮮出陣中に石田三成と対立し、三成に誘われて宮部長房の陣で供応を受けた後に発病し、遺言書をしたためて急逝しており、三成による毒殺であるという。毒殺説には信憑性を認める研究(藤田達生「濃尾武士団と豊臣政権『大洲加藤文書』の世界」)がある一方で、朝鮮出兵においては病没している諸将も多く、光泰も負傷を示す文書もあるため慎重な検討が必要だとする指摘もある。同時代には毒殺説は信じられており、三成が家康打倒のために挙兵した関ヶ原の戦いにおいては、加藤貞泰は徳川方に属している。この戦いで貞泰は本領安堵、後に伊予国大洲藩初代藩主となった。
参考文献
- 高木昭作 「加藤光泰」『国史大辞典』、吉川弘文館。
- 『山梨県史』通史編3近世1
- 平山優 「加藤光泰の生涯」『山梨県史だより』14号。