大垣城

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テンプレート:Infobox 大垣城(おおがきじょう)は、岐阜県大垣市郭町にあった平城麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれる。

概要

宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し本丸と二ノ丸のみであったという。氏家氏、伊藤氏によって改築が加えられたとされ、1613年(慶長18年)には石川忠親によって総堀が加えられ、松平忠良天守を改修した。その後1649年(慶安2年)に 戸田氏鉄によって明治に至る姿とされた。

戸田氏改修後は並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていた。本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げ、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられ、本丸に2つ、二ノ丸に1つ、三ノ丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれていた。

歴史

1500年明応9年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたともいわれ、1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれる[1]。この当時は、牛屋城と呼ばれていたとされている[2]

1544年(天文13年)に織田信秀により落城し、織田信辰が5年間城主を務める。その後、1549年(天文18年)、斎藤氏配下の竹越尚光が城主となる。 1559年(永禄2年) に氏家直元が城主となり、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備された。

近世

織田氏斎藤氏織田氏と支配権が移った後、1583年天正11年)に池田恒興が城主となり、1588年(天正16年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)の配下の一柳直末によって[2]若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、天守が築かれたとされる[3]

1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には、当時城主であった伊藤盛宗は西軍に属したため、石田三成らが入城して西軍の根拠地となる。その後、西軍本隊は関ヶ原に移動、城内には福原長堯らが守将となって残るが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城。そのときの逸話が『おあむ物語』として残っている。

江戸時代に入り、徳川家康譜代大名として石川康通を城主にし、その後1635年寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となった。

近現代

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外観改修前の復元天守
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改修後の復元天守

1873年(明治6年)に発布された廃城令により廃城となったが、天守など一部の建物は破却を免れ、1936年昭和11年)に天守等が国宝(旧国宝)に指定された。しかし1945年(昭和20年)7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失した。

天守は1959年(昭和34年)に、乾櫓は1967年(昭和42年)に鉄筋コンクリート構造で外観復元されたが、観光用に窓を大きくするなどの改変がなされた。2008年8月、市民検討委員会が大垣市に木造再建案を提言している[4][5]

2011年2月22日、屋根瓦の葺き替えと外壁改修工事が完了。この工事で戦後の再建時に改変された外観が史料を基に焼失前の外観に近くなるように改修された(工事最終完了は3月4日[6][7]

遺構

開発により多くの遺構は失われたが、本丸の石垣および水門川として外堀の一部が残る。

移築建造物としては、市内の民家に本丸乾門が、市内長松町の天理教本眞愛分教会に清水御門が残る。また、大野町西片の民家に、どこの門かは定かではないが城門が移築され現存する。

大垣公園

本丸、二ノ丸址は大垣公園として整備されている。1880年(明治13年) に旧本丸敷地に中学校が設置される計画があったが中止された後に公園として整備された。

復興天守には関ヶ原の合戦を石田三成・徳川家康両者のモノローグでリアルタイムに追ったムービー(各約30分)など様々な動画コンテンツを閲覧できる。火縄銃や槍、弓を実際に触ることができる展示コーナーもある。2000年(平成12年)に開催された、決戦関ヶ原大垣博では、テーマ館の一つとして使用された。入場料は100円である。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプテンプレート:Reflist

関連項目

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  • 平井聖監修『城 4東海』毎日新聞社 1996年
  • 2.0 2.1 全国城郭管理者協会監修『日本の城』碧水社 1997年
  • その際に旅の山伏人柱としたという。
  • 岐阜新聞
  • 大垣城再整備事業(PDF)
  • 大垣市公式サイト
  • 4年ぶり雄姿、大垣城改修完了-中日新聞