耳塚

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耳塚(みみづか)は、文禄・慶長の役の朝鮮、明兵の戦死者のを弔ったである

京都市の耳塚

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京都にある耳塚(鼻塚)

京都市東山区豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。豊臣秀吉朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年1598年)のうち、慶長の役で戦功の証として討ち取った朝鮮明国[1]の耳や鼻をはなそぎし持ち帰ったものを葬った塚。([[[:テンプレート:座標URL]]34_59_29.15_N_135_46_13.14_E_region:JP-26&title=%E8%80%B3%E5%A1%9A 位置]


古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。昭和44年(1968年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定された。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。しかし林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようである。2万人分の耳と鼻が埋められている。

この塚は慶長2年(1597年)に築造され、同年9月28日施餓鬼供養が行われた。この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って相国寺住持西笑承兌が行った物で、京都五山の僧を集め盛大に行われたようである。

周囲の石柵は大正4年5月に歌舞伎役者をはじめとする当時の著名芸人達の寄付によって建立された物で、発起人は京都の侠客「伏見の勇山」と伝わる。なお塚前の焼香台・石段も彼の発起によって築造されたものである。

当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体のをとって検分したが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。これをしないのを打捨という。また、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養された。

一時、在日朝鮮人からの非難で観光地より外された。

耳塚修営供養碑

明治31(1898)年に耳塚とその周囲が整備された際に、耳塚に隣接して耳塚修営供養碑が建てられた。

福岡市香椎の耳塚

福岡市東区香椎(香椎宮脇)にも「耳塚」と呼ばれる塚が存在する。伝承では神功皇后による三韓征伐の際に作られた塚とされるが詳細は不明。

その他の耳塚

脚注

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関連項目

外部リンク

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  • 「老若・男女・僧俗の区別なく撫で斬りにせよ」との秀吉の上意により、非戦闘員まで含まれている。(藤木久志『天下統一と朝鮮侵略』講談社学術文庫、2005、p.442-p.445)