干支
干支 | |||||
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1 甲子 |
2 乙丑 |
3 丙寅 |
4 丁卯 |
5 戊辰 |
6 己巳 |
7 庚午 |
8 辛未 |
9 壬申 |
10 癸酉 |
11 甲戌 |
12 乙亥 |
13 丙子 |
14 丁丑 |
15 戊寅 |
16 己卯 |
17 庚辰 |
18 辛巳 |
19 壬午 |
20 癸未 |
21 甲申 |
22 乙酉 |
23 丙戌 |
24 丁亥 |
25 戊子 |
26 己丑 |
27 庚寅 |
28 辛卯 |
29 壬辰 |
30 癸巳 |
31 甲午 |
32 乙未 |
33 丙申 |
34 丁酉 |
35 戊戌 |
36 己亥 |
37 庚子 |
38 辛丑 |
39 壬寅 |
40 癸卯 |
41 甲辰 |
42 乙巳 |
43 丙午 |
44 丁未 |
45 戊申 |
46 己酉 |
47 庚戌 |
48 辛亥 |
49 壬子 |
50 癸丑 |
51 甲寅 |
52 乙卯 |
53 丙辰 |
54 丁巳 |
55 戊午 |
56 己未 |
57 庚申 |
58 辛酉 |
59 壬戌 |
60 癸亥 |
十干 ・ 十二支 |
干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。
目次
概説
中国を初めとしてアジアの漢字文化圏において、年・月・日・時間や方位、角度、ことがらの順序を表すのにも用いられ、陰陽五行説とも結び付いて様々な卜占にも応用された。古くは十日十二辰、十母十二子とも呼称した。
起源は商(殷)代の中国に遡る。日・月・年のそれぞれに充てられ、60日(ほぼ2か月)、60か月(ほぼ太陰太陽暦5年)、60年などをあらわす。干は幹・肝と、支は枝・肢と同源であるという。日本、ベトナム、西はロシア、東欧などに伝わった。
日本で「干支(えと)」という場合、ね、うし、とら、う、たつ…の十二支のみを指す用法がよく見られるが、後述するように十干と十二支の組み合わせが「干支」であり、「えと」と言う読みも十干の兄(え)と弟(と)に由来するものであって、本来は誤りである。
10と12の最小公倍数は60なので、干支は60回で一周する。干支には、すべての組合せのうちの半数しかない。例えば、一覧01~60で5回ある「子」のうちに、「甲子」はあるが「乙子」はない。これは、10と12に共通の約数2があるので、干支の周期が積の120ではなく、最小公倍数の60になるからである。
種類
十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなり、十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類からなっており、これらを合わせて干支と呼ぶ。十干十二支は戦国時代に作られた陰陽五行説よりもはるかに古い起源をもつので、陰陽五行説による説明は後付けであって学問的な意味はない。また生命消長の循環過程とする説もあるが、これは干支を幹枝と解釈したため生じた植物の連想と、同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による後漢時代の解釈[1]である。鼠、牛、虎…の12の動物との関係がなぜ設定されているのかにも諸説があるが詳細は不明である。
十干
十干 | 日本語 | 中国語 | ベトナム語 | 本義[2] | ||
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音読み | 訓読み | 意味 | ||||
甲 | こう | きのえ | 木の兄 | jiǎ | giáp | 草木の芽生え、鱗芽のかいわれの象意 |
乙 | いつ、おつ | きのと | 木の弟 | yǐ | ất | 陽気のまだ伸びない、かがまっているところ |
丙 | へい | ひのえ | 火の兄 | bǐng | bính | 陽気の発揚 |
丁 | てい | ひのと | 火の弟 | dīng | đinh | 陽気の充溢 |
戊 | ぼ | つちのえ | 土の兄 | wù | mậu | “茂”に通じ、陽気による分化繁栄 |
己 | き | つちのと | 土の弟 | jǐ | kỷ | 紀に通じ、分散を防ぐ統制作用 |
庚 | こう | かのえ | 金の兄 | gēng | canh | 結実、形成、陰化の段階 |
辛 | しん | かのと | 金の弟 | xīn | tân | 陰による統制の強化 |
壬 | じん | みずのえ | 水の兄 | rén | nhâm | “妊”に通じ、陽気を下に姙む意 |
癸 | き | みずのと | 水の弟 | guǐ | quý | “揆”に同じく生命のない残物を清算して地ならしを行い、新たな生長を行う待機の状態 |
十二支
十二支 | 日本語 | 中国語 | ベトナム語 | 本義[3] | |
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音読み | 訓読み | ||||
子 | し | ね | zǐ | tý | “孳”で、陽気が色々に発現しようとする動き |
丑 | ちゅう | うし | chǒu | sửu | “紐”で、生命エネルギーの様々な結合 |
寅 | いん | とら | yín | dần | “演”で、形をとっての発生 |
卯 | ぼう | う | mǎo | mão/mẹo | 同音“冒”に通じ、開発の意 |
辰 | しん | たつ | chén | thìn | “震”、同音“申”に同じ、生の活動 |
巳 | し | み | sì | tỵ | “已”に通じ、陽盛の極、漸く陰に移ろうとする所 |
午 | ご | うま | wǔ | ngọ | “忤(さからう)”に通じ、上昇する陰と下退する陽との抵触 |
未 | び | ひつじ | wèi | mùi | “昧”で、陰気の支配 |
申 | しん | さる | shēn | thân | 陰気の支配 |
酉 | ゆう | とり | yǒu | dậu | 酒熟して気の漏れる象。陰気の熟する所 |
戌 | じゅつ | いぬ | xū | tuất | 同音“恤”であり、“滅”である。統一退蔵。 |
亥 | がい | い | hài | hợi | “核”で、生命の完全な収蔵含蓄 |
干支概略史
干支はすでに商(殷)代に現れており、殷墟出土の亀甲獣骨にたくさんの干支が日付を表すために用いられている。もともと干支は、60を周期とする紀日・番号・数字であった。殷代ではこれを「十日十二辰」と呼称していたようである。甲骨文には、干名だけで日を表すこともあり、祖王の名を「祖甲」「父丁」など、その人に関連する特定の干名で呼ぶ例があることから、十二支よりも十干の方がより基本的であったことが伺える(これについては、「殷#殷王の一覧」も併せて参照のこと)。
春秋戦国時代に、自然や世界の成り立ちを木・火・土・金・水から説明する五行思想が起こり、上を母、下を子に見立てて「十母十二子」と呼ぶようになった。更に、それを幹と枝に喩えて「十干十二支」と呼び、それを縮めて「干支」という表記が定まった時期は、後漢代からである。
月や年を表すために干支を用いるようになった時期は、殷代よりも後の時代に属する。月に関しては、殷代まで遡る可能性もあるが、広く普及したのは、戦国時代以降である。
年を表すには、古来、著しい事件や帝王の即位年を基準とすることが多かったが、戦国時代の中ごろになって木星(歳星)の天における位置によって年を指し示すことが考案された。後述のように、この方法がやがて発達し、当初は木星の位置により、次には十二支により、漢代には干支の組合せによって年を表す例が広く行われるようになった。
1日(24時間)を十二支に分けるようになった時期も漢代である。十二支に対して十二獣を充当することは秦代にも見られるが、文献における初出は後漢代からである。また、「外事には剛日を用い、内事には柔日を用いる」[4]とされたのも漢代であり、これは、戦国時代の陰陽家の影響を受けている。
方位への応用も、陰陽五行思想と結びついたことによって漢代に広がった。
ただし、全10巻中8巻が『四庫全書』にも収められている唐の時代に編纂された兵書である『神機制敵太白陰經』 [5](李筌編)のうち、巻四「戰具」や巻九「遁甲」において、夜半、鶏鳴といった十二時による時刻名とともに、この時刻の干支は云々と記載されているので、時刻を干支で呼ぶ習慣の定着には長い時を要し、唐の時代にはまだ古い記憶の名残があったと推測できる。
干支による紀日
干支によって日付を記述する干支紀日法は、すでに殷代の甲骨文に現れている。
西洋では1月を4分割して「週」(7日)というサイクルを編み出したが、古代中国では1月を3分割して「旬」(10日)というサイクルを考案し、十干という順序符号をつけた。甲骨文には「卜旬(ぼくじゅん)」があり、これは、ある特定の日(癸の日)から向こう10日間の吉凶を占ったものである[6]。10日、すなわち十干を3回繰り返すと1か月(30日)になるので、十干と十二支を組み合わせると、2か月(60日)周期で日付を記録することになる。
ある日を甲子とすると、第2日が乙丑、第3日が丙寅というように進んで第60日の癸亥へと進み、第61日に至ると再び甲子に還って日を記述していった。これは、3,000年以上経った今に至るまで、断絶することなく用いられている。また、干支紀日は『日本書紀』など東アジアの歴史書にも広く使用されている。
殷代においては、干支はもっぱら紀日法として用いられ、年に関しては1から始まる順序数(自然数)を使用しており、月に関しても順序数を基本としていた。ただし、月名を十二支で表記することはあったとされる。
現在のような順序数による紀日法がいつ始まったかはわかっていないが、現在のところ、山東省臨沂県(りんぎけん)から出土した銀雀山漢墓竹簡、および武帝7年(元光元年、紀元前134年)の暦譜竹簡の例が最古とされている。
中国でも日本でも暦はしばしば改定されているが、干支による紀日は古代から連綿と続いており、古い記録の日付を確定する際の有力な手がかりになる。
干支による紀月
月名を十二支で表現することは殷代にさかのぼる可能性がある。古くから中国では冬至を含む月を11月とする習わしがあり、この月を「子月」と呼び、以下12月を「丑月」、正月を「寅月」と呼んだ。
こうした呼び方は戦国時代からあったが、さらに月名に十干を加えることは唐代には行われており、その場合の配当は年の干名によって各月の干が割り当てられた。たとえば、寅月についていえば、甲や己の年は丙、乙や庚の年は戊、丙や辛の年は庚、丁や壬の年は壬、戊や癸の年は甲となる。つまり、干名が甲である年の寅月は「丙寅月」となる。詳細を、下表に示す。
月の十二支 | 節気の区切り | 中気 | 旧暦の月 | 新暦の月 | 甲・己年 | 乙・庚年 | 丙・辛年 | 丁・壬年 | 戊・癸年 |
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寅月 | 立春—啓蟄 | 雨水 | 正月 | 2月 | 丙寅月 | 戊寅月 | 庚寅月 | 壬寅月 | 甲寅月 |
卯月 | 啓蟄—清明 | 春分 | 二月 | 3月 | 丁卯月 | 己卯月 | 辛卯月 | 癸卯月 | 乙卯月 |
辰月 | 清明—立夏 | 穀雨 | 三月 | 4月 | 戊辰月 | 庚辰月 | 壬辰月 | 甲辰月 | 丙辰月 |
巳月 | 立夏—芒種 | 小満 | 四月 | 5月 | 己巳月 | 辛巳月 | 癸巳月 | 乙巳月 | 丁巳月 |
午月 | 芒種—小暑 | 夏至 | 五月 | 6月 | 庚午月 | 壬午月 | 甲午月 | 丙午月 | 戊午月 |
未月 | 小暑—立秋 | 大暑 | 六月 | 7月 | 辛未月 | 癸未月 | 乙未月 | 丁未月 | 己未月 |
申月 | 立秋—白露 | 処暑 | 七月 | 8月 | 壬申月 | 甲申月 | 丙申月 | 戊申月 | 庚申月 |
酉月 | 白露—寒露 | 秋分 | 八月 | 9月 | 癸酉月 | 乙酉月 | 丁酉月 | 己酉月 | 辛酉月 |
戌月 | 寒露—立冬 | 霜降 | 九月 | 10月 | 甲戌月 | 丙戌月 | 戊戌月 | 庚戌月 | 壬戌月 |
亥月 | 立冬—大雪 | 小雪 | 十月 | 11月 | 乙亥月 | 丁亥月 | 己亥月 | 辛亥月 | 癸亥月 |
子月 | 大雪—小寒 | 冬至 | 十一月 | 12月 | 丙子月 | 戊子月 | 庚子月 | 壬子月 | 甲子月 |
丑月 | 小寒—立春 | 大寒 | 十二月 | 1月 | 丁丑月 | 己丑月 | 辛丑月 | 癸丑月 | 乙丑月 |
干支による紀年
紀年法とは、年を記したり数えたりするための方法のことで、中国を中心とした漢字文化圏では年号紀元に基づく紀年法とともに、60年周期の干支による干支紀年法が併用されてきた。その起源は木星の観測と深い関わりがある。
歳星紀年法
中国の戦国時代に始まった。木星は約12年で天球上を一周し、十二次(天球を天の赤道帯に沿って西から東に12等分した12の区画)を1年に一次進む。そこで、木星は年を示す星であるとして「歳星」と呼び、木星の十二次における位置で年を記した。たとえば「歳在星紀(歳、星紀に在り)」は、木星が天球上の「星紀」という場所に存在する年という意味である。
太歳紀年法
太歳紀年法は、木星の鏡像である太歳の天球における位置に基づく紀年法である。
木星は天球上を十二次に沿って西から東に進むが、当時の人たちがよく使っていた十二辰(天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分した区画、十二支が配当された)に対しては、運行の方向と順序が逆であった。そこで、木星の円軌道に一本の直径を引き、その直径を境に木星と線対称の位置に存在する太歳という仮想の星を設定し、その十二辰における位置で年を記すようにしたものである。
中国の戦国時代には、この直径は寅の起点と申の起点とを結んで引かれ、たとえば、「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、その年は太歳が寅の位置に存在する年、つまり木星が丑の位置に存在する年のことである。その翌年は「太歳在卯」となり、太歳は卯、木星は子に位置する。
さらに、「太歳在寅」「太歳在卯」と記録する代わりに、太歳が位置する各「年」に名称を設けて使用することが行われた。
太歳の位置 | 寅 | 卯 | 辰 | 巳 | 午 | 未 | 申 | 酉 | 戌 | 亥 | 子 | 丑 |
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歳名 | 摂堤格 | 単閼 | 執徐 | 大荒落 | 敦牂 | 協洽 | 涒灘 | 作噩 | 閹茂 | 大淵献 | 困敦 | 赤奮若 |
セッテイカク | タンアツ | シュウジョ | ダイコウラク | トンショウ | キョウコウ | トンタン | サクガク | エンボウ | ダイエンケン | コントン | セキフンジャク |
漢代に入ると、『淮南子』天文訓に「淮南元年冬、天一在丙子」と記述されるように、十干と組み合わせた干支で太歳の位置が記述されるようになった。
太歳の位置 | 甲 | 乙 | 丙 | 丁 | 戊 | 己 | 庚 | 辛 | 壬 | 癸 |
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歳名 | 閼逢 | 旃蒙 | 柔兆 | 強圉 | 著雍 | 屠維 | 上章 | 重光 | 玄黓 | 昭陽 |
アッポウ | センモウ | ジュウチョウ | キョウギョ | チョヨウ | トイ | ジョウショウ | チョウコウ | ゲンヨク | ショウヨウ |
この十干(歳陽)と十二辰(歳陰)の歳名とを組み合わせ、例えば、ある年を閼逢摂堤格とすると、その翌年は旃蒙単閼、第3年は柔兆執徐…となり、第60年の昭陽赤奮若に至ると、再び閼逢摂堤格から始めるという60年周期の歳名とした。
ただし、木星の公転周期は正確には11.862年であるため、実際には1年に一次と少し進んでいることになり、約86年に一次(太歳は一辰)ずれることになる。これを「超辰」と呼ぶ。この超辰によるずれを解消するため、秦の顓頊暦では、太歳を設定するための直径を丑の起点と未の起点に引き、秦の始皇帝元年(紀元前246年)を木星が亥にあり、太歳が寅にある年とする新しい基準を設けた。
前漢の太初元年(紀元前104年)[7]の改暦(太初暦)では、超辰を行い、丙子を丁丑に改めた。後に三統暦の補正では超辰は114年に一次ずれると定義し、太初元年を再び丙子に戻し、太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌へ超辰するとした。これによって三統暦による太歳紀年と後の干支紀年は太始2年から見かけ上、同じになる。
干支紀年法
後漢の建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉歆の三統暦の超辰法に従うならば、庚戌を辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰を行わず、庚戌のまま紀年を続けた。さらに元和2年(西暦85年)の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された[8]。これ以後、木星を観測して、その位置で年を記録することはなくなった。この時から、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、絶えることなく現在まで続いている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である。
民間では干支のうちの十二支の部分だけを用い、それに動物を配当した生肖紀年法が今も広く用いられている。なお、広開土王碑と12世紀成立の高麗朝による正史『三国史記』の干支に1年の違いがあるなど、時代や地域によっては必ずしも一定しないことも散見される。
生肖紀年法
テンプレート:Main 十二支と十二獣[9]がいつから結びつけられたのは不明であるが、1975年に湖北省雲夢睡虎地の秦代の墓から出土した竹簡には既に現在のように動物[10]が配当されている様子が伺われる。
後漢の王充が著した『論衡』物勢篇では、十二支を動物名で説明しており、これによって干支の本来の意味が失われ、様々な俗信を生んだ。ただし、日、月、時刻、方位などを干支で示す慣習が廃れた今日でもなお、干支紀年に限っては今なお民間で広く定着している要因ともなっている。日本の風習である年賀状[11]などにも動物の絵柄が好んで描かれているが、下表のとおり、配当される動物には国によって違いが見られる[12]。
各国の十二獣 | 子 | 丑 | 寅 | 卯 | 辰 | 巳 | 午 | 未 | 申 | 酉 | 戌 | 亥 |
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日本の十二獣 | 鼠 | 牛 | 虎 | 兎 | 竜 | 蛇 | 馬 | 羊 | 猿 | 鶏 | 犬 | 猪 |
中国の十二獣 | 鼠 | 牛 | 虎 | 兎 | 竜 | 蛇 | 馬 | 羊 | 猿 | 鶏 | 犬 | 豚 |
台湾の十二獣 | 鼠 | 牛 | 虎 | 兔 | 竜 | 蛇 | 馬 | 羊 | 猴 | 鶏 | 狗 | 猪[13] |
ベトナムの十二獣 | 鼠 | 水牛 | 虎 | 猫 | 竜 | 蛇 | 馬 | 山羊 | 猿 | 鶏 | 犬 | 豚 |
モンゴルの十二獣 | 鼠 | 牛 | 豹・虎 | 兎 | 竜 | 蛇 | 馬 | 羊 | 猿 | 鶏 | 犬 | 猪 |
ロシアの十二獣 | 鼠 | 牛 | 虎 | 兎・猫 | 竜 | 蛇 | 馬 | 羊・山羊 | 猿 | 鶏 | 犬 | 猪・豚 |
ベラルーシの十二獣 | 鼠 | 牛 | 虎 | 兎・猫 | 竜 | 蛇 | 馬 | 羊 | 猿 | 鶏 | 犬 | 豚 |
干支紀年と日本
干支紀年の日本への伝来時期はよく判っていない。日本に中国の暦本が百済を通じて渡来したのは欽明天皇15年(554年)[14]とされるが、実際には、それ以前にさかのぼる可能性が高い。
埼玉県行田市埼玉の埼玉古墳群の一つ、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵(わかたける)大王」を雄略天皇とする考えが主流であることから、「辛亥年」を471年とする説が有力である。ただし、これに対しては531年とする反論もある。
一方、和歌山県橋本市隅田の隅田八幡宮に所蔵されている人物画像鏡には、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿…」という銘文が鋳されており、この「癸未年」は、「男弟(おとど)王」が継体天皇と考えられることから、503年とする見方が有力である[15]。
陰陽五行説との連関
陰陽五行説と十干
陰陽五行説では、十干に対し、天運を表す木、火、土、金、水の五行にそれぞれ陰陽一対を配して表す。十干を訓読すると、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)となり、五行の性質が明解となる。語尾の「え」は陽や剛を意味し、「と」は陰や柔を意味しており、これで陰陽を表している。日本語における語源は、「え」が兄姉を意味し、「と」が弟妹を意味しており、「えと」の呼称はこれに由来している。
陰陽五行説と十二支
十二支にも五行が配される。四季に対応する五行は、春が木、夏が火、秋が金、冬は水であり、土は各季節の最後の月にあたり、季節の変わり目を表す。土用の丑の日は夏の最終月(土用)の丑の日という意味である。各季節に十二支を配すと、
となる。
陰陽五行説が起こったのは、中国の戦国時代であり、騶衍の五行思想に陰陽思想が結びついたものである。これが干支と結びついて干支五行説として天地間の森羅万象における根本原理であると考えられるようになった。
五行説と干支
テンプレート:Main 上記のように割り当てられた十干と十二支それぞれの五行は、その組合せによって吉凶を占うことができるとされる。代表的なものを下に掲げる。
- 「相生」…この関係は、天地陰陽の気が調和を保ち、万事が順調に進んで吉とされる。
- 木生火(木は火を生じる)
- 火生土(火は土を生じる)
- 土生金(土は金を生じる)
- 金生水(金は水を生じる)
- 水生木(水は木を生じる)
- 「相剋」…この関係は、天地の平衡が失われるため凶とされる。
- 木剋土(木は土を剋す)
- 土剋水(土は水を剋す)
- 水剋火(水は火を剋す)
- 火剋金(火は金を剋す)
- 金剋木(金は木を剋す)
- 「比和(相勝)」…この関係は、同気が重なるため、五行それぞれの性質を強め、良い場合はますます良く、悪い場合はますます悪くなるとされる。
時刻と方角
時刻
時刻については、現代の23時から翌1時までを子の刻とし、以下、丑、寅、…と続いて、11時から13時までを午の刻とした。現在、夜0時を「子夜」、昼12時を「正午」、正午より前を「午前」、正午より後を「午後」と称するのは、これに由来する。怪談などで用いられる「草木も眠る丑三ツどき」とは今日でいう午前2時半ごろのことである。
なお、日本で初めて中国伝来の暦日を遵用して、時刻に十二支を配し、子を真夜中としたのは推古天皇12年(604年、甲子の年)の正月のことであった[16]とされる。平安時代の延喜年間に編纂が始まり延長5年(927年)に完成した「延喜式」でも、宮中の諸門の開閉や日の出、日の入りの時刻について、「申四刻六分」のように十二支を用いて示している。
方位
十干は、五行説によって説明されるようになると五行が表す方位である五方と結び付けられた。さらに、後には十二支や、易における八卦を交えて細かい二十四方が用いられるようになった。
十二支では、東を卯、西を酉、南を午、北を子の方位としている。東西を結ぶ線(緯線とは厳密には異なる)を「卯酉線(ぼうゆうせん)」、南北を結ぶ線(経線に相当)を「子午線」、経度0度のロンドンのグリニッジ天文台を通る経線を「本初子午線」と呼ぶのは、これに由来する。
四隅については、北東・南東・南西・北西がそれぞれ「うしとら」[17]、「たつみ」[18]、「ひつじさる」、「いぬい」と呼ばれ、該当する八卦から、「艮(ごん)」、「巽(そん)」、「坤(こん)」、「乾(けん)」の字を充当している。指南の実物を見るかぎり、南を指すためのレンゲの形状の磁石を置いた板の模様は、六壬神課で使用する式盤の地盤の形状に酷似している。
なお、二十四方(下表参考)では、十干のうちの戊・己は用いられない。したがって、十干のうちの8、十二支の12、八卦のうちの4を合わせての24方位となる。
漢字 | 中国語 | 日本語(音) | 日本語(訓) | 角度 | 方位 | |
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1 | 子 | zǐ | し | ね | 0° | 北 |
2 | 癸 | guǐ | き | みずのと | 15° | 北北東微北 |
3 | 丑 | chǒu | ちゅう | うし | 30° | 北北東微東 |
4 | 艮 | gèn | ごん | うしとら | 45° | 北東 |
5 | 寅 | yín | いん | とら | 60° | 東北東微北 |
6 | 甲 | jiǎ | こう | きのえ | 75° | 東北東微東 |
7 | 卯 | mǎo | ぼう | う | 90° | 東 |
8 | 乙 | yǐ | いつ | きのと | 105° | 東南東微東 |
9 | 辰 | chén | しん | たつ | 120° | 東南東微南 |
10 | 巽 | xùn | そん | たつみ | 135° | 南東 |
11 | 巳 | sì | し | み | 150° | 南南東微東 |
12 | 丙 | bǐng | へい | ひのえ | 165° | 南南東微南 |
13 | 午 | wǔ | ご | うま | 180° | 南 |
14 | 丁 | dīng | てい | ひのと | 195° | 南南西微南 |
15 | 未 | wèi | み | ひつじ | 210° | 南南西微西 |
16 | 坤 | kūn | こん | ひつじさる | 225° | 南西 |
17 | 申 | shēn | しん | さる | 240° | 西南西微南 |
18 | 庚 | gēng | こう | かのえ | 255° | 西南西微西 |
19 | 酉 | yǒu | ゆう | とり | 270° | 西 |
20 | 辛 | xīn | しん | かのと | 285° | 西北西微西 |
21 | 戌 | xū | じゅつ | いぬ | 300° | 西北西微北 |
22 | 乾 | qián | けん | いぬい | 315° | 北西 |
23 | 亥 | hài | がい | い | 330° | 北北西微西 |
24 | 壬 | rén | じん | みずのえ | 345° | 北北西微北 |
十二支が方位と結合していくのは、漢代のことと考えられている。漢代には易の解釈学である「象数易」という学問が隆盛し、そこでは、易の卦や、それを構成する爻に、十二月、十二律(音律)、十二辰(支)、二十四節気、五行、方位などが配当され、極めて複雑な理論が編み出された。
なお、歳徳神の在する方向とされる恵方(えほう)は、その年の干名によって定められている。
干支にかかわる伝承や俗信
干支が十二獣や陰陽五行思想と結びついたことで、さまざまな伝承や俗信が生まれたが、日本に伝来すると日本固有のものとも習合して独自の俗信を生んでいった。中には、申(さる)の日は「去る」と通じるので結婚式を行わないなどというものもあった。
還暦
数え年の61歳は、生まれた年の干支に戻るので、「暦が還(かえ)った」という意味で「還暦(かんれき)」といい、歳をとる正月には、公私ともに正式に隠居して長寿の祝いをした(東洋にあっては誕生日の概念は乏しかった)。この年齢に達すると親族などが赤い頭巾やちゃんちゃんこを贈るのは、もう一度赤ちゃんに戻って「生まれ直す」という意味合いをこめている[19]。現在は、満60歳の誕生日や60周年に還暦の祝いをすることが多い。2周(120年)した場合は大還暦という。
中国では「花甲」、日本と同じように60年の長寿を祝い、無病息災を願う習慣が今も続いている。
辛酉革命、甲子革令
中国漢代緯書にみえる予言説(讖緯)である。中国よりもむしろ日本で信じられた。
辛酉は天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。日本では、平安時代に政治的変革が起るのを防ぐ目的で、三善清行の提唱によって、辛酉年の昌泰4年(901年)が「延喜」と改元された。それ以来、日本では慶応に至るまで、辛酉年と前年の庚申年の2年続きで改元が実施されたが、中国ではこのような例はない。
また、『日本書紀』では、神武天皇が即位したとする年を西暦紀元前660年の辛酉の年に充てている。これについて、明治時代の歴史学者那珂通世は、『緯書』にある鄭玄の注に、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉年には大革命が起こるとの記述があり、推古天皇9年(601年)がその年に充たることから、この1260年前にあたる西暦紀元前660年を即位年に充てたとの説を立てた。また、1320年(60年×22回=1320年)周期説を採用する学者もあり、その場合、辛酉の3年後に充たる甲子年が革令(甲子革令)の年であり、白村江の戦いの翌年の甲子年(西暦664年)が基点とされる。
甲子革命については、中国でも、後漢末に太平道の教祖張角は光和3年(180年)に「蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉(『後漢書』71巻 皇甫嵩朱鑈列傳 第61 皇甫嵩伝[20])」、蒼天(漢朝)已に死す 黄天(黄巾党)當に立つべし 歳は「甲子」に在り 天下大吉)とのスローガンを発しており、干支に基づく易姓革命を意識して光和7年(184年)という甲子の年に黄巾の乱を起こした史実がある。
庚申
テンプレート:Main 近代以前の日本では、庚申の日に広く庚申講が行われたが、これは道教の伝説に基づいている。
中国の言い伝えによれば、人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫がいて、いつもその人の悪事を監視している。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められるとされる。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この日には徹夜しなければならないとされた。これを「守庚申」という。また、中国では、庚申の日には、菜食するのがよいとも言われていた。
日本では、「庚申さま」として庚申の日そのものも神格化された。庚申の日の夜は村人が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これを庚申講という。庚申講を3年18回[21]続けた記念に建立されたのが庚申塔で、今も各地に残っている。
なお、日本には、庚申の晩に生まれた子は盗人になるという言い伝えもあった。
丙午
陰陽五行説によれば、丙も午もともに剛強なる陽であって火の性格をもち、中国ではその年は火災が多いなどといわれていた。
それが日本では、八百屋お七が丙午の年(1666年)生まれだという風説があった[22]ところから、丙午の年に生まれた女性は気性が激しく、夫の運勢を圧倒して連れ合いを短命にするという俗信に変化した[23]。これは男性中心主義の見方であり、迷信俗説に類するものであるが、日本では丙午年の出産が避けられて、新生児の数が他の干支の年よりも少なかった(最近では1966年。その反動もあり、翌年の丁未の年は新生児の数が例年よりも増える)。なお、同様に火の重なる丁巳(ひのとみ)は八専の一つである。
強の寅
五黄の寅参照。
干支と年中行事
干支は、二十四節気や雑節と結びついて、各地でさまざまな行事が行われている。
中国の漢代には、正月最初の子の日には皇帝が鋤で耕し、皇后が箒で蚕床をはらって、祖先神や蚕神をまつる行事があったといわれている。
この行事は、古代日本にも伝播しており、正倉院には使用した鋤と箒が現存している。正月初子(はつね)の日に、山野に出て若菜をつみ、若松をひいて長寿を願った行事が、『小右記』にも記された「子の日のお遊び」であり、平安時代の宮中の年中行事であった。
それ以外で著名なものとしては、次のものがある。
- 初午…2月最初の午の日に稲荷神社で祭礼が行われる。
- 端午の節句…5月の月初めの午(端午)の日に行われる年中行事。
- 土用の丑の日…土用[24](立秋前の18日間)の丑の日。風呂に入ったり、灸をしたり、「ウ」のつく食べ物[25]を食べるとよいとされた[26]。
- 亥の子…旧暦10月の亥の日に行う刈上げ行事。
- 酉の市…11月の酉の日の鷲神社で行われる祭礼の際、神社境内に立つ市。
- 子の日祭…ネズミが大黒天の使獣と考えられたところから、子の月(11月)の子の日に行われた。
- 丑紅…寒中に作った紅は質が良いとして丑の日に「丑紅(寒紅)」を売る行事。
- 戌の日…犬はお産が軽いとされることから、帯祝いなどにはこの日を選ぶ風習がある。
選日
天赦日
干支相生の日とされた天赦日は、「よろずよし」の大吉日と考えられてきた。春(立春から立夏前まで)は戊寅、夏(立夏から立秋前まで)は甲午、秋(立秋から立冬前まで)は戊申、冬(立冬から立春前まで)は甲子の日である。
三隣亡(さんりんぼう)
テンプレート:Main 選日のひとつ。1月・4月・7月・10月の亥の日、2月・5月・8月・11月の寅の日、3月・6月・9月・12月の午の日を三隣亡という。棟上げなど建築に関することの凶日とされる。
十方暮(じっぽうくれ)
テンプレート:Main 選日のひとつ。干支21番目の甲申の日から30番目の癸巳の日までの10日間を凶とした。
三伏(さんぶく)
テンプレート:Main 選日のひとつ。夏至以降3度目の庚の日(初伏)、4度目の庚の日(中伏)、立秋以後の最初の庚の日(末伏)を凶日とする。庚(かのえ)は「金の兄」で金の陽性であり、金は火に伏せられること(火剋金)から、火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする考えに由来している。
それ以外の選日
それ以外の選日に次のものがあり、いずれも干支が用いられる。
干支と占い
漢代には易の解釈学として象数易が流行し、そこでは、易の卦や、それを構成する爻に、十二月、十二支、二十四節気、五行、方位などが配当されて、複雑な理論が編み出された。
特に八卦と干支が結びついて占いに用いたものとして、納甲がある[27]。完成は前漢代の京房によるといわれており、三国時代の呉の虞翻らによって継承された。後には十二支も易に用いられるようになり、八卦の各爻に干支が当てはめられた。唐の李淳風は『周易元義』で八卦六位図を伝えている。
一方、納音は、干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用し、形容詞を付加して30に分類したものである。生まれ年の納音は、その人の運命を判断するのに用いられた[28]。 納音において凶日とされたのが五墓日であった。戊辰の日、壬辰の日、丙戌の日、辛丑の日、乙未の日がそれで、家作りは構わないが、動土・地固め・葬式・墓作り・播種・旅行・祈祷などは凶とされた。その名から、この日に葬式などを行うと、墓を5つ並べるといって忌むことがあった。
十二直
テンプレート:Main 十二直とは、暦注の一つであり、十二支とは別の12のサイクルを月に合わせて暦をつくり、その日の吉凶を占ったものである。中国では戦国時代に萌芽が見られ、秦と楚では異なる十二直を使用していた。現代まで伝わっているのは中国を統一した秦の十二直である。十二直は、建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉から構成される。
現代における干支占い
現代において干支占いは、血液型性格分類や占星術と比べてマイナーである。血液型や星座は個人のプロフィールによく記述されるが、干支は記載されないことが多い。そのせいもあって、干支は血液型や星座などと異なり疑似科学の扱いを受けないことが多い。心理学者でもあった増永篤彦によって行われた、生日の干支において干から支にひいた十二運とある種の性格分類に相関があるとする研究は、動物占いや動物占いの動物キャラクターを別のもので置き換えた様々な占いに無断で流用されている。
干支の求め方
年の干支
ある年を西暦(あるいは皇紀)で表した値を10で割った余り、すなわち一の位を求め、下表から十干を割り出す。
余り(一の位) | 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9</td></tr> |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
十干 | 庚 | 辛 | 壬 | 癸 | 甲 | 乙 | 丙 | 丁 | 戊 | 己 |
同様に、西暦(あるいは皇紀)で表した値を12で割った余りを求め、下表から十二支を割り出す。
余り | 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
十二支 | 申 | 酉 | 戌 | 亥 | 子 | 丑 | 寅 | 卯 | 辰 | 巳 | 午 | 未 |
この二つの組合せが、その年の干支である。すなわち、西暦と皇紀においては、10の倍数の年が庚、12の倍数の年が申、60の倍数の年が庚申となる。例えば、西暦2005年(皇紀2665年)は、2005(2665)を 10 で割った余りが 5 となり、12 で割った余りが 1 となるので、乙酉(きのととり・いつゆう)となる。
また、西暦で表した値から 4 を引いて 60 で割った余りに 1 を加えると、干支一覧の左端の数となる。例えば、西暦2005年は、2005から 4 を引くと2001で、2001を 60 で割った余りは 21、これに 1 を加えると 22 となり、乙酉が求められる。
現在の日本においては、太陽暦の年に対して干支を適用することが多いが、伝統的には節月(立春から翌年の立春の前日まで)を1つの干支として適用することも多く、一部の占いにおいては今日にも引き継がれている。また中国においては太陽太陰暦(農暦)に対して適用している。
月の干支
十二支は月と同じ12個なので、月の十二支は毎年同じになる。十干は10個なので、十二支と組み合わせると、太陽暦では5年(60か月)周期で月の同じ干支が繰り返されることになる。
西暦年の下1桁 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
0,5 | 戊寅 | 己卯 | 庚辰 | 辛巳 | 壬午 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 | 丙戌 | 丁亥 | 戊子 | 己丑 |
1,6 | 庚寅 | 辛卯 | 壬辰 | 癸巳 | 甲午 | 乙未 | 丙申 | 丁酉 | 戊戌 | 己亥 | 庚子 | 辛丑 |
2,7 | 壬寅 | 癸卯 | 甲辰 | 乙巳 | 丙午 | 丁未 | 戊申 | 己酉 | 庚戌 | 辛亥 | 壬子 | 癸丑 |
3,8 | 甲寅 | 乙卯 | 丙辰 | 丁巳 | 戊午 | 己未 | 庚申 | 辛酉 | 壬戌 | 癸亥 | 甲子 | 乙丑 |
4,9 | 丙寅 | 丁卯 | 戊辰 | 己巳 | 庚午 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 |
ここでいう月は、「暦月」(1日から翌月1日の前日まで)を適用する場合と「節月」(節気から次の節気の前日まで)を適用する場合とがある。
日の干支
ユリウス通日に49を加えて60で割った余りに1を加えると、上表の左端に示した数字となる。
干支一覧
「五行」は十干、十二支それぞれの五行をあらわす。なお、十干が「弟(と)」の場合だけ、十干と十二支の間に「の」を入れて読むのが慣例である。
干支カレンダー
西暦 | 和暦 | 十干 | 十二支 |
---|---|---|---|
2014年 | 平成26年 | 甲 [きのえ] | 午 [うま] |
2013年 | 平成25年 | 癸 [みずのと] | 巳 [み] |
脚注
- ↑ 『釈名』、『史記』暦書、『漢書』律暦志
- ↑ 参考文献:『中国的実在観の研究』(著:木村英一)、『中国上代陰陽五行思想の研究』(著:小林信明)、『宋代易学の研究』(著:今井宇三郎)
- ↑ 参考文献:『中国的実在観の研究』(著:木村英一)、『中国上代陰陽五行思想の研究』(著:小林信明)、『宋代易学の研究』(著:今井宇三郎)
- ↑ 用兵など外事には十干の奇数日、祭祀など内事には十干の偶数日を用いるのが良い、という意味。
- ↑ 一般に流布しているのは10巻本であるが、四庫全書には巻九、十を除いた8巻本が収録されている。
- ↑ 甲骨を用いた占いには、癸の日以後10日間の吉凶を判断する定期的な卜旬と、開戦・豊作・異常気象の終わりを祈願する不定期的な占いがあった。
- ↑ この年の紀年は、『呂氏春秋』、『前漢書』賈誼伝、『前漢書』翼奉伝、『史記』歴書では、それぞれ乙亥、丙子、丁丑、甲寅となっており、それぞれ流派の異なる紀年が混在していた。前漢末に劉歆によって整備が始まり、これが最終的に整理されて完全に統一されるのは後漢初期の元和2年(西暦85年)の改暦であった。
- ↑ この改暦は、中国における官暦の最初とされる。
- ↑ 十二獣がなぜ十二支と結びつけられたかには、西方バビロニアの天文学における黄道十二宮が各宮の多くを動物で表すことから、その影響を受けたのではないかとする見方がある。また、これが普及したのは農事暦を農民に教え、浸透させるための便法という説もある。
- ↑ ただし、シカが入りイヌがなく、配当も異なっているなど現代のものとは大きく異なる。
- ↑ 中国や韓国にも似た風習がある。
- ↑ 亥(中国や韓国などにおける猪(ブタ))が日本ではイノシシ、丑がベトナムではスイギュウなどとなっている。日本で「猪」がイノシシを表すようになったのは、生肖紀年が伝来した当時の日本では、豚の飼育が必ずしも一般的でなかったからと考えられている。
- ↑ 文字は『猪』であるが実際の動物としてはブタ
- ↑ 『日本書紀』巻第19。欽明天皇14年、暦博士を交代し暦本(こよみのためし)を送るようにとの勅を発し、翌年、固徳王保尊が暦博士として来日した記事が掲載される。巻第22には、推古天皇治下の602年に百済僧観勒が来日した記事もある。日本書紀には神武天皇以来の干支が記載されているが、『古事記』にはない。
- ↑ 銘中の「斯麻」は百済の武寧王と推測される。しかし、この「癸未年」に対しても443年との異論がある。
- ↑ 『日本書紀』推古天皇12年条。
- ↑ 艮(うしとら、北東)を鬼門とする考えは、とくに日本で深められた。鬼が牛のような角をもち、虎皮のパンツをはいて具象されるのも、「うしとら」からの連想である。なお、鬼退治のための動物が、桃太郎の伝説ではイヌ、サル、キジなのは、「うしとら」の反対方向が「ひつじさる」で、「ひつじ」の代わりに「とり」「いぬ」が入り、さらに「とり」が「きじ」に代わっていったのではないかという推測もある。
- ↑ 喜撰法師の「わがいほは 都の辰巳(たつみ) しかぞすむ 世を宇治山と 人はいふなり」の「たつみ」とは南東方向を示している。
- ↑ 飯倉(2003)。
- ↑ テンプレート:Cite wikisource
- ↑ 庚申の日は60日ごとなので、1年に6回ある。
- ↑ 実際は1668年生まれだった可能性が高い。
- ↑ 1810年『燕石雑志』に「丙午の女は必ず男を食えると世に伝えし」とある。
- ↑ 雑節に基づく暦。雑節とは二十四節気以外に設けられた季節の区切りのこと。本来は、土用は立春前、立夏前、立秋前、立冬前の年4回ある。
- ↑ 「ウ」のつく食べ物とは、丑(うし)からの連想と思われる。ウリや梅干し、ウナギなどであるが、ことにウナギは有名である。実際に牛を食べなかったのは、肉食が憚られる時代には無理だったこと、当時の牛は肉や乳を供するのではなく主として労働力に用いられていたからなどの説がある。
- ↑ 飯倉(2003)。
- ↑ 納甲という名前だが、実際の占いでは十二支を使用することがほとんどである。
- ↑ 荻原井泉水は生まれ年の納音「井泉水」を俳号としたものである。
関連項目
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参考文献
- 白川静『甲骨文の世界』平凡社〈平凡社東洋文庫〉1972年2月、ISBN 4-582-80204-4
- 日本歴史大辞典編集委員会編『日本歴史大辞典』河出書房新社、1979年11月
- 宇治谷孟『日本書紀(下) 全現代語訳』講談社〈講談社学術文庫〉1988年8月、ISBN 4-06-158834-6
- 武田幸男『朝鮮史』山川出版社、2000年8月、ISBN 4-634-41320-5
- 薮内清『中国の天文暦法』平凡社、1990年11月、ISBN 4-582-50502-3
- 藪内清『歴史はいつ始まったか―年代学入門』中央公論新社〈中公新書〉1980年1月、ISBN 4-12-100590-2
- 大西正男『十干十二支の成立の研究』大西先生論文発刊会、1975年
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- 中村清兄『宇宙動物園―干支のルーツを探る』法政大学出版局、1983年1月、ISBN 4-588-35205-9
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- 橋川禿『十二支神獣の信仰―十二支の民俗学』無聞舎、1975年
- 五十嵐謙吉『十二支の動物たち』八坂書房、1998年11月、ISBN 4-89694-424-0
- 諸橋轍次『十二支物語』大修館書店、1989年12月、ISBN 4-469-23049-9
- 南方熊楠『十二支考〈上〉』岩波書店〈岩波文庫〉1994年1月、ISBN 4-00-331391-7
- 南方熊楠『十二支考〈下〉』岩波書店〈岩波文庫〉1994年1月、ISBN 4-00-331392-5
- 大場磐雄『十二支(えと)と十二獣(どうぶつ)』北隆館、1996年10月、ISBN 4-8326-0390-6
- 柳宗玄『十二支のかたち』岩波書店、1995年2月、ISBN 4-00-260214-1
- 石上七鞘『十二支の民俗伝承』おうふう、2003年4月、ISBN 4-273-03272-4
- 吉野裕子『十二支―易・五行と日本の民俗』人文書院、1994年7月、ISBN 4-409-54046-7
- 飯倉晴武『日本人のしきたり』青春出版社〈青春新書〉2003年1月、ISBN 4-413-04046-5
- 安岡正篤『干支の活学―安岡正篤 人間学講話』プレジデント社、1989年11月、ISBN 4-8334-1357-4
- 陽史明『最新四柱推命理論 十干と生月「窮通宝鑑」』遊タイム出版、2006年12月、ISBN 4-86010-207-X
外部リンク
- 国立国会図書館「日本の暦」
- 暦入門
- 十干十二支 -- 干支(えと・かんし)
- 暦注計算(こよみのページ)