戊戌の政変
戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん)とは、清において、光緒24年(1898年、戊戌年のおよそ100日間)に、西太后が、栄禄、袁世凱らとともに、武力をもって戊戌の変法を挫折させた、反変法の、いわばクーデターである。
孤立無援の変法派
戊戌の変法は光緒24年(1898)4月23日(新暦6月11日)より光緒帝の支持の下、康有為・梁啓超らによって推し進められた政治改革であるが、それがあまりに急激で全般的な改革であったために、改革に対し周囲から危惧・懸念の声が相次いだ。もともと改革は、それを実行するだけの財政的基盤に欠けた机上の空論的な性格を有し、それだけで批判を招きやすいものであったが、それ以上に批判の背後には、改革の進行によって手放さざるを得なくなる政治的主導権や既得権益に対する危機感があった。すなわち批判の急先鋒たる西太后や栄禄らの眼には、康有為らが導入を目指す憲法や議会制度は、自らの政治的フリーハンドに著しく掣肘を加えるものとして映じたであろうし、明治日本に倣った官庁の統廃合は官僚の頭数の整理でもあるため、官僚層の猛烈な反発を招くものであった。
また指導者であった康有為が、決して正統な経学とはいえない今文公羊学を改革の思想的バックボーンとしていたことも孤立を招いた一因である。今文公羊学は改革思想の基盤となりやすい経学ではあったが、康有為の思想はさらにそれを先鋭化させたものである。たとえば孔子は周公旦の作り上げた制度を正しく伝えたのではなく、むしろ政治改革者であり、六経に記述されたものは孔子が周公旦に仮託して創造した政治制度であるという主張(『孔子改制考』)や、黄金時代を三代とする尚古思想を批判し、拠乱世-升平世-太平世と順次発展していくとする発展史観(大同三世説)をとなえる主張等、どれも伝統的な考え方と一線どころか二線も三線も画す思想であったといえる。まさしく当時としては異端であり、「離経畔道」(経典から乖離し道に悖る)と誹られるのも無理からぬことであった。
さらに改革を志すグループが孤立化した原因として、変法の中心的存在であった康有為自身の性格も大きく作用したことも見逃せない。彼の自信に満ちあふれた態度は改革の断行にあたって光緒帝を変法側に引きつけるなどプラスにも働いたが、反面頑固に自らの変法路線をいささかも変えようとしなかったために周囲との融和を難しくし、いたずらに反対派を増やす原因ともなった。その端的な例が、当初変法に好意的であった両江総督劉坤一や湖広総督張之洞、孫家鼐の離反である。彼らは、康有為らの今文公羊学に眉を顰めながらも、それについては一旦棚上げして変法に賛同したのであるが、京師大学堂の教育内容や孔子紀年をめぐって次第に対立を深めていくようになる。対立の深化につれて、康有為一派との差別化を鮮明にする必要を感じたため、張之洞は中体西用的改革思想の集大成ともいえる『勧学篇』を急遽刊行し、その中で康有為たちを厳しく非難している。
変法開始冒頭に、光緒帝の家庭教師でもあり、且つ改革を背後から支えていた総署大臣翁同龢が、西太后によって無理矢理解職・引退させられていることからも明らかなように[1]、康有為たちはもとから政治的に劣勢であった。それに加えて、在京・地方の大官たちが変法から距離を置くようになれば、康有為たちと西太后ら一派との権力バランスが一気に崩れるのは火を見るより明らかであったといえよう。光緒24年の陰暦7月・8月の時点では、戊戌変法の破綻は誰の目にも時間の問題として捉えられていたのである。
変法派のクーデタ画策と失敗、そして弾圧
孤立した状況の中で、変法派はついに軍事力によって西太后や満州貴族を捕らえ、実権を握った上で改革を断行する案を作成した。しかし変法派は独自の兵力を持っていない。そこで新建陸軍の指揮官であり、変法にも早くから理解を示していた袁世凱(彼は一時康有為の政治団体である強学会に所属していた)にこの役割を担ってもらうことにした。8月3日(9月18日)譚嗣同が袁の私邸で説得を行い、袁も了承したかに見えた。ところが8月5日(9月20日)、袁は西太后の側近栄禄にこの情報をリークした。西太后のリアクションは早く、早くも翌日から変法派官僚の大粛清が行われた。康有為、梁啓超らはいち早く逃亡して日本に亡命した。しかし光緒帝は幽閉され、譚嗣同ら6人の官僚は8月13日(9月28日)、北京城内の菜市口で処刑された。譚嗣同は逃亡の勧めを断り、「改革の礎になる」と自ら捕らわれ処刑されたという。なお、処刑された主要な変法派6人(譚嗣同、林旭、楊鋭、劉光第、楊深秀、康広仁)を「戊戌六君子」と呼ぶことがある。
一般的には政変の直接の原因は袁世凱の密告とされるが、これに対しては疑義を挟む立場もある。そもそもこの内情を暴露したのが、梁啓超の『戊戌政変記』であるが、これは日本亡命後に明治政府を動かして光緒帝を救出し、あわよくば変法の再開を目論んだ著作であった。したがって政変の発生や同士の処刑といった目に見える事実の間隙に康有為たちに都合のいいフィクションを挟み込んだ可能性を拭いきれないからだ。
戊戌政変の新たな研究
2004年台湾雷家聖著『力挽狂瀾:戊戌政変新探』[2]によれば、戊戌変法の間、日本の前首相・伊藤博文が中国を訪問していた。伊藤が到着後、李提摩太(Timothy Richard)と共に「中、米、英、日の“合邦”」を康有為に提案した。それを受けて、変法派官吏の楊深秀は光緒皇帝に上奏し、「臣は請う:皇帝が決め、英米日の三ヵ国と固く結びつき、“合邦”という名の醜状を嫌う勿かれ」。[3]もう変法派官吏の宋伯魯も上奏し、「時代の情勢を良く知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び、四カ国の軍事、税務、外交の国家権限を司らせる」。[4]と発言したとの記述がある。
この政変がもたらしたもの
変法派勢力が、光緒帝の信頼を頼みに内部の根回しを怠ったまま拙速に改革を進めようとするあまり、保守勢力に押し潰されてしまったとの観はどうしてもぬぐえない。
しかし、康有為・梁啓超らからすれば、欧米諸勢力から侵食されつつある清朝・中国を救うためには、是が非でもこの改革を推し進めなければならないという強い認識があった。
ただしこの改革の無残な失敗と譚嗣同の壮絶な死は、日本に留学している若者たちに大きな心理的影響を与え、さらに翌年の義和団の乱で清朝が見せた醜態は、政権交代の必要を強く感じさせるに至った。こうした中、一方では梁啓超らの「保皇会」などのあくまで清朝を前面におしたてて中国を危機から救おうとする勢力が生まれた。しかし、反対に孫文・黄興・唐才常・宋教仁らは清朝が既に政権担当能力を失っているものとみなし、漢民族による新政権が必要であるの認識の下、革命運動に身を投じるのである。
注釈
- ↑ 翁同龢は光緒帝と衝突して解任されたという説もある。
- ↑ 雷家聖《力挽狂瀾:戊戌政變新探》,台北:萬卷樓,2004.雷家聖〈失落的真相-晚清戊戌變法時期的「合邦」論與戊戌政變的關係〉,《中國史研究》(韓國)第61輯,2009年8月。
- ↑ 楊深秀〈山東道監察御史楊深秀摺〉,《戊戌變法檔案史料》,北京中華書局,1959,p.15.「臣尤伏願我皇上早定大計,固結英、美、日本三國,勿嫌『合邦』之名之不美。」
- ↑ 宋伯魯〈掌山東道監察御史宋伯魯摺〉,《戊戌變法檔案史料》,北京中華書局,1959,p.170.「擬聯合中國、日本、美國及英國為合邦,共選通達時務、曉暢各國掌故者百人,專理四國兵政稅則及一切外交等事。」
主要参考文献
- 雷家聖『力挽狂瀾 戊戌政変新探』 萬卷樓(台湾)、2004、ISBN 957-739-507-4