経学
経学(けいがく)は、旧中国(王朝時代の中国)において、儒教の聖典である経書の権威を是認し、その前提の下に経書に現れた聖王ないし聖人の発言趣旨を解読しようとする学問。経書の注釈、ないしそれに類する総合的論究を指す場合が一般的であるが、より広く経書の成立や学説の継承などについて研究する場合、さらに拡大しては古典世界の解明も含まれる場合がある。現在では、経学的権威を認めず、形態的に旧来の経学研究に類似する研究を行う場合も、経学の名で呼ばれる場合がある。
経学の歴史は3分される。第1は漢代を代表とするものであり、第2は宋代を代表とするものであり、第3は清朝を代表とするものである。ただ、第3の清朝経学は漢代経学と同一であるとする立場があり、これに従うと経学の歴史は漢代と宋代との2区分となる。概括すると、漢代経学は経書の字句解説を主とする訓詁学(後、漢代の訓詁に注釈を施す義疏学が発展し、それを総じて訓詁義疏学と呼ぶ場合もある)とされ、宋代経学は経典の趣旨(義理)を分析する義理学であるとされる。
経書の種類
儒学の聖書たる経書(経典ともいう)は、易・書・詩・礼・楽・春秋の6種類(六経)である。このうち、楽経は書物ではなく、楽譜であった。そのため後世には、書物として伝わった易・書・詩・礼・春秋の5種類(五経)が伝えられた。なお、易を頂点とする易・書・詩……という経書の配列方法は、漢代に決定されたものである。
各経書のテキストにも異同が多い。最も大きい異同は今文と古文との異同である。今文古文の相違は、秦の焚書によって失われた経書の継承にかかっている。即ち、焚書によって経書を失つた経学者は、口伝的方法によって経文とその解釈を継承した。彼等は、漢代の儒学復興時に、漢代に通用していた文字に書き写したが、それが今文である。一方、焚書の難を逃れるため、経書を隠したものがいた。それらの書物は、漢代の経学復興時に漸次発見された。その書物は先秦の文字で書かれてあるため古文と呼ばれた。このように、今文と古文との相違は、経書の伝承の問題に過ぎず、書物で伝わった古文の方が正確であったとされる。しかし今文・古文の背後に存在する政治的問題や、古文の読解過程やその発見時の偽作などの問題が交わり、経学史上に複雑な影を落とした。ただ現存するテキストは殆んどが古文の経書である。
- 易経
- 書経
- 詩経
- 三礼
- 現在、正式には礼経なる書物は存在しない。礼経に関連する書物に、『儀礼』『周礼』『礼記』の三書がある。この三書を「三礼」と総称する。この中、『儀礼』が礼経であると考えられるが、現在の『儀礼』には士礼しか含まれていないため、現存『儀礼』は完全な礼経の一部であるとする学説と、本来は士礼のみであったとする学説との論争が止まない。『儀礼』は士の行う礼儀作法を説いたものである。なお『儀礼』は今文である。
- 南北朝時代以後に支配的地位を占めたのが『礼記』である。『礼記』とは「礼」の「記」という意味である。この場合の「記」とは、注釈を意味する。即ち『礼記』は、本来礼経の注釈的書物であった。しかし漸次勢力を得、唐代の官選注釈書『五経正義』の礼部門に選ばれた。宋代以後はその地位も相対化されたが、明の『五経大全』の一つにも『礼記』が選ばれ、礼経の正統的地位を保持しつづけた。『礼記』は先秦の経学者によって書かれたと伝承される部分もあるが、殆んどは漢代の経学者の手になるものである。現行本『礼記』は、漢代の戴聖の手に成ったと云われている。
- 『周礼』は前漢末期に劉歆が発見した書物で、周の礼制を詳説したものである。しかし書物の成立や内容に不安な部分が多く、戦国時代に捏造された書物であるという説や、発見者劉歆の偽造したものであるという説が横行した。一方、礼の制度的側面を重視する『周礼』は、前漢末に革命を起こした王莽を始め、宋の王安石など、一部には熱烈な信奉者も生み出した。『周礼』は歴代王朝、常に賛否の分かれた書物であった。なお『周礼』は古文しか存在しない。
- 楽経
- 現在、楽経なる書物は存在しない。楽経は楽譜であったとする説や音楽理論書であったとする説、音楽そのものであったとする説がある。
- 春秋経
経学の歴史
漢代の経学
初期の儒学では、経書がその体裁を形成した時期であり、一経専修が基本であった。その後、後漢になって、数経兼修が主流となり、また、儒家思想の発展にともなって、研究や注釈の学が発展した。
清代の経学
清朝に発達した考証学は、宋代経学を覆し、漢代経学の復興を中心任務とするものであった。この立場に於いても明白に経学的権威を認め、その下に研究が行われた。またこの時期には音韻学が飛躍的発達し、経学研究に絶大な寄与をなすに至った。これらの成果によって、従来経書と信じられていたものに偽作の混入していたことを発見するなど、夥しい経学的成果が生まれた。
例えば従来真性な経典と信じられていた『尚書』の中に東晋時期の偽作(偽古文尚書)が含まれていると指摘したことなどはその一つである。これは既に元朝に指摘され、また明朝中頃にも指摘されていた事実ではあったが、何れも時代的問題から当時の学界に取り上げられなかった。しかし清朝経学では、このような経典の成立時期の分析が争点の一つとなり、また意味ある研究であるとされるに至ったのである。
日本における経学
日本においては、儒教の経典を解釈・研究する学問の意味に用いられ、経業・明経とも称された。日本では学令に定められた中国の注釈書などを参考にして訓詁を行うことを主としており、諸本を校合してテキストとすべき文章を確定させ、諸注を参考に訓点を施すことが行われた。中国ほど盛んではなかったものの、文中の訓詁や解釈について論議が行われることもあった。しかし、平安時代後期には経学は博士家の家学としてその学説を固守するようになり、わずかな訓点の違いを巡って博士家同士が対立することに終始するなど、学問としての実体は次第に形骸化していった。[1]
脚注
- ↑ 久木幸男「経学」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-04-031700-7)