戊午の密勅

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戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は、1858年9月14日安政5年8月8日)に孝明天皇水戸藩に勅書(勅諚)を下賜した事件である。「戊午」は下賜された安政5年の干支が戊午(つちのえ・うま)であったことに由来し、「密勅」は正式な手続(関白九条尚忠の裁可)を経ないままの下賜であったことによる。

密勅は関白九条尚忠の目を避け、8月7日深更、万里小路正房より水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門知信に下ったが、吉左衛門の持病が悪化していたため子の幸吉知明が代わりに受領、小瀬伝左衛門と変名し、東海道を潜行(副使の薩摩藩士・日下部伊三次中山道より下行)、16日深夜に水戸藩家老安島帯刀を介して水戸藩主徳川慶篤にもたらされた。これに先立ち、薩摩藩士西郷吉之助が安島へ水戸内勅の打診をしたところ、安島は藩状の混乱により遠慮の意向を示しており、京へ帰った西郷と入れ違いの勅諚拝受に安島は驚愕したという。幕府には10日に禁裏付の大久保一翁を通じて伝えられたが、江戸より水戸に先着することを図っての時期であった。水戸藩以外の御三家御三卿などには秘匿されていたが、写しは関白以外の摂家を通じて縁家の大名に送付された。

内容

  • 勅許なく日米修好通商条約安政五カ国条約)に調印したことへの呵責と、詳細な説明の要求。
  • 御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令。
  • 上記2つの内容を諸藩に廻達せよという副書。

以上の3つに要約することができる。将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府がないがしろろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅条の内容を秘匿し、大老井伊直弼による安政の大獄を起こす引き金となった。とりわけ、鵜飼吉左衛門から安島帯刀宛への書簡には、井伊暗殺の秘事(薩摩藩から兵200から300人が上京し、彦根城を落城させるというもので、伊地知正治からの伝聞とされる)が記されていたとされ(長野主膳から井伊へ宛てた手紙に記載があるのみ)、幕府にその内容が漏洩したことで安政の大獄ではより厳重な処分となったといわれる。

(勅諚全文)

先般墨夷假條約無餘儀無次第ニ而、於神奈川調印、使節へ被渡候儀、猶又委細間部下總守上京被及言上之趣候得共、先達而勅答諸大名衆儀被聞食度被仰出候詮茂無之、誠ニ以テ皇國重大ノ儀、調印之後言上、大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立、尤勅答之御次第ニ相背輕卒之取計、大樹公賢明之處、有司心得如何ト御不審被思召候。右様之次第ニ而者、蠻夷狄之儀者、暫差置方、今御國内之治亂如何ト更ニ深被悩叡慮候。何卒公武御實情ヲ被盡、御合體永久安全之様ニト、偏被思召候。三家或大老上京被仰出候處、水戸尾張兩家慎中之趣被聞食、且又其餘宗室之向ニモ同様御沙汰之由モ被聞食候。右者何等之罪状ニ候哉。難被計候得共、柳營羽翼之面々、當今外夷追々入津不容易之時節、既ニ人心之歸向ニモ可相拘旁被悩宸襟候。兼而三家以下諸大名衆議被聞食度被仰出候旨、全永世安全公武御合体ニ而、被安叡慮候様被思召候儀、外虜計之儀ニモ無之、内憂有之候而者、殊更深被悩宸襟候。彼是國家之大事ニ候間、大老閣老其他三家三卿家門列藩外様譜代共一同群議評定有之、誠忠之心ヲ以テ、得ト御正シ、國内治平、公武御合体、彌御長久之様、德川御家ヲ扶助有之内ヲ整、外夷之侮ヲ不受様ニト被思召候。早々可致商議勅諚之事。
安政五戊午年八月八日
近衞左大臣
鷹司右大臣
一條内大臣
三條前内大臣
二條大納言
※参考「戊午秘記」(東京大学史料編纂所データベース)、大森金五郎「大日本全史 下巻」(富山房、1922年発行)

水戸藩

もともと前藩主の斉昭が藩主に就任した時以来、水戸藩では斉昭に忠実な天狗党と幕府との関係を重視する諸生党の対立が激しかったが、密勅の対応を巡ってさらに確執を深めることとなった。密勅の返納に反対する藩士は城下を離れ、街道を封鎖して脱藩、後に井伊の襲撃を計画した。

関連項目