「ワールドプロレスリング」の版間の差分
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2014年8月23日 (土) 02:59時点における最新版
ワールドプロレスリング(World Pro Wrestling)は、1969年7月2日からNETテレビ(日本教育テレビ)⇒テレビ朝日および系列局で放送されているプロレス中継番組である。略称はワープロもしくはWPW。
1973年3月30日までは日本プロレス中継番組として、同年4月6日以降は新日本プロレス中継番組として放送されている。1987年3月までは生中継で放送されていたが、現在は録画中継番組となっている[1]。2007年10月からハイビジョン制作番組となっている。
新日本プロレス中継番組になってからは、2013年4月6日に新日本プロレス中継を開始してから40周年を迎えるなど、プロレス中継では最長寿番組でもある[2]。
目次
日本プロレス中継時代
放送開始 - NET独占放送へ
- これまで日本プロレス中継は日本テレビが『三菱ダイヤモンド・アワー・日本プロレス中継』として独占放送してきた。NETテレビ(現:テレビ朝日)も1969年5月13日に日本プロレス中継を開始することを発表した。開始にあたって、先行する日本テレビと放送協定が結ばれ、以下の試合は日本テレビの『日本プロレス中継』内の放送での独占中継とし、NETテレビでは放送してはならないことになった[3]。
- ジャイアント馬場や坂口征二の両選手に絡む試合
- インターナショナルヘビー級選手権試合
- インターナショナルタッグ選手権試合
- ワールドリーグ公式戦
- そこでNETテレビは、アントニオ猪木を番組上でのメインイベンターに抜擢し、猪木・大木金太郎・吉村道明の試合を中心に放送することになった。
- そして1969年7月2日から毎週水曜日21:00 - 21:56において『NETワールドプロレスリング』としてNETテレビにおける日本プロレス中継が開始された。開始当初からカラー放送であり、日本プロレス中継時代は一貫してNETの局名を冠していた。開始当初は録画中継であった。開始当日の新聞に掲載されたキャッチコピーは「NETプロレス中継開始!」「世界最強の男たち10チャンネルに登場!」であった。『NETワールドプロレスリング』第1回は1969年6月23日に大田区体育館で行われた猪木&吉村vsクルト・フォン・スタイガー&カール・フォン・スタイガーと大木vsエドワード・ペレスの録画中継。
- 1970年4月6日から毎週月曜日20:00 - 20:56に変更されると同時に生中継も開始された。またこれを境にして、坂口の試合とワールドリーグ公式戦はなし崩し的に放映することになった。これが引き金となり、日本プロレスは馬場派と猪木派に二分し、後に分裂の危機に立たされることとなり、1971年12月13日に猪木が追放処分となって看板を失い(猪木は1972年3月に新日本プロレスを創立)、そのためNETテレビは大木を新たなメインイベンターに起用して放送することになってしまった。
- NETテレビが1972年4月3日放送の新潟大会において『ジャイアント馬場初登場』と銘打ち馬場を出場させた(馬場&坂口vsディック・マードック&マイティ・ブルータス)ことから日本テレビ側が激怒し、日本テレビは同年5月15日の記者会見において同年5月12日放送分の東京体育館大会(「第14回ワールドリーグ戦決勝戦」などを放送)を以って『日本プロレス中継』を打ち切ることを正式発表したため(1972年5月19日以降は『日本プロレス選手権特集』として過去の名勝負集を同年7月14日まで放送)、日本プロレスの中継は日本テレビが打ち切りを発表した同年5月15日以降はNETが独占する形となり(独占中継初回は「第14回ワールドリーグ戦」石川県小松市体育館大会の録画中継)、同時にNETにおける馬場や坂口の試合中継なども無条件で放送されるようになった[3]。しかし、日本テレビは『日本プロレス中継』打ち切り後も極秘裏にNETに対する報復手段に近い形で馬場に接触し、新団体旗揚げなどを持ちかけるようになっていた。
「金8枠」進出 - 新日本プロレス中継への変更
- 1972年7月28日、日本テレビでの日本プロレス中継番組が完全に放映を終えた2週間後、同局の「金8枠」(毎週金曜日の20:00 - 20:54)の中継を引き継ぐ形で『NET日本プロレスリング中継』という中継枠が設けられた。当日の新聞に掲載されたキャッチコピーは「金曜よるの興奮プロレス中継!! 今晩8時から10チャンネルがおとどけします。」であり、なおかつ馬場と坂口の写真を掲載する事で今後の「金8枠」におけるプロレス中継はNETテレビで放送することをアピールした[3]。「金8枠」第1回は7月24日に後楽園ホールで開幕した「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」第4戦後楽園ホールからの生中継で、メインイベントは馬場VSキラー・ジョー・ノボのシングルマッチ。しかし、「金8枠」進出翌日の同年7月29日に、馬場が8月18日の宮城県石巻市中央広場大会で終了する「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」以って日本プロレスを退団する事を正式発表したため(馬場は同年9月に全日本プロレス旗揚げも発表し、同年10月7日から日本テレビにおいて『全日本プロレス中継』がスタート)、同年8月25日開幕の「第2次サマー・ビッグ・シリーズ」以降は坂口が新しい番組上でのメインイベンターとなった。なお馬場は、日本プロレス退団後はテレビ朝日の番組には長年出演しなかった。
- 1972年10月改編期まで暫くの間は旧来の『NETワールドプロレスリング』としての放送枠(当時は月曜20時台であった)と並行して放送、その間は日本プロレスの中継枠がゴールデン枠に2つ存在していた。ただし同年10月からは金曜20時の『NET日本プロレスリング中継』枠に一元化、月曜20時の『ワールドプロレスリング』は同年9月25日をもって一旦廃枠となる。しかし、馬場離脱後は本番組の視聴率や、日本プロレス自体の観客動員数も減少してしまい、これを受けてNETは同年12月頃から本番組打ち切りをちらつかせるようになる[4]。この時点ではNETは新日本プロレス中継への変更は明言していなかったものの、この時期からNETは馬場と日本テレビとの関係同様に、日本プロレス首脳陣や選手会長である大木に極秘裏で猪木や坂口に接触し、新日本プロレス中継開始に関する話し合いを持つようになっていた。
- 1973年に入ると、日本プロレスと新日本プロレスの合併話が持ち上がり、NETは日本プロレスに対して「猪木・新日本プロレスとの合併を認めなければ中継を打ち切る」と強硬姿勢に出るに至り、同年2月6日には合併記者会見を一旦は行った。しかし大木が同年2月16日に合併反対会見を行ったため合併交渉が白紙に戻り[5]、これにより合併賛成派だった坂口は1973年2月に木村聖裔(後の木村健悟)、小沢正志(後のキラー・カーン)、大城勤(後の大城大五郎)の3選手を連れて同年3月の「ダイナミック・シリーズ」終了を以って日本プロレスを脱退すること並びに新日本プロレスへの入団を決定した。NETも坂口に同調する形で、「ダイナミック・シリーズ」終了翌日である同年3月9日に、同年4月6日から新日本プロレス中継への変更並びに3月30日限りで『NET日本プロレスリング中継』を打ち切ることを決定した。これを受けて日本プロレスは25戦で予定していた次期シリーズ「アイアンクローシリーズ」を一旦キャンセルするとともに、NETも3月2日の横浜文化体育館大会(坂口VSジョニー・バレンタインのUNヘビー級選手権戦)を以って日本プロレス中継の生中継を終了し、日本プロレス中継終了まで同年3月3日に行われた近大記念会館大会(吉村道明引退興行)と同年3月8日に行われた「ダイナミック・シリーズ」最終戦である栃木県佐野市民会館大会の2大会の録画中継のみとする内容変更を実施した。
- 坂口の新日本プロレス移籍並びにNETの新日本プロレス中継への変更により、NETは予定通り1973年3月30日限りで3年7カ月続いた「NET日本プロレスリング中継」を終了した。最後の日本プロレス中継は、NETの新日本プロレス中継開始会見の前日である佐野大会で行われたバレンタインVS高千穂明久のUNヘビー級選手権戦の録画中継であった。これにより日本テレビ単独中継時代から19年1カ月続いた日本プロレスのテレビ中継は幕を下ろしたと同時に、終了同日には翌週4月6日から実況中継される新日本プロレス「ビッグファイトシリーズ」が大田区体育館で開幕した。
- なお本番組が新日本プロレス中継に変更されたためにテレビ中継とそれに伴う放映権料を完全に失い、なおかつ吉村が前述の通り3月3日に引退し、坂口が新日本プロレスへ移籍したために看板選手を失った日本プロレスは、大木や高千穂ら選手会が1973年4月も一旦キャンセルとなった「アイアンクローシリーズ」を全6戦で選手会主催興行として興行を強行したものの[6]、テレビ中継を持っている新日本プロレス・全日本プロレス・国際プロレスとの差は歴然とし、同年4月13日の開幕戦である大阪府立体育会館大会(大木vsフリッツ・フォン・エリックのインターナショナル・ヘビー級選手権など)が不入りに終わった事を受けて、翌4月14日に解散を決定し、同年4月20日群馬県吉井町大会を以って、新日本プロレス中継へ変更されてわずか3週で崩壊した。皮肉にも日本プロレス崩壊当日は新日本プロレスで猪木&坂口コンビが復活した日でもあった(後述)。日本プロレスの残党も崩壊の翌週である4月27日に日本テレビとの3年契約を結ばされた上で、全日本プロレスへ参戦した。このように、当時のプロレス団体はテレビ中継の有無で団体存続が左右されていた時代であった[7]。
新日本プロレス中継時代
放送開始 - 古舘の全盛期
- 1973年4月6日、新日本プロレスの中継番組として[8]、半年ぶりに『ワールドプロレスリング』のタイトルが復活した上で再スタートして放送開始。それまでの『NET日本プロレスリング中継』枠同様に「金8枠」に主に生放送され、猪木の試合が1年4カ月ぶりに全国ネットプロレス中継に復活したと同時に、旗揚げから経営難にあえいでいた新日本プロレスの経営も立て直すことが出来た。第1回は『NET日本プロレスリング中継』終了と同日に開幕した「ビッグファイトシリーズ」第5戦の栃木県宇都宮スポーツセンターからの生中継で、メインイベントは坂口vsプロフェッサー・バーン・ジール。当日猪木はセミファイナルに登場した(柴田勝久をパートナーにジャン・ウィルキンス&マヌエル・ソトと対戦)。テレビ中継開始と同時に、テレビのレギュラー放送が開始するまでという条件で参戦していた豊登は新日本を退団した。開始3週目である同年4月20日の蔵前国技館大会では、猪木の日本プロレス除名処分以来途絶えていた猪木&坂口のコンビが復活して試合が生中継された。タイガー・ジェット・シンが初来日した同年5月開幕の「ゴールデンファイトシリーズ」以降は、開幕戦から放送されるようになったと同時に、猪木vsシンの抗争がスタートする。
- 1976年2月6日の「格闘技世界一決定戦・猪木vsウィレム・ルスカ」の生中継で、最高視聴率34.6%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録する。さらに1979年4月に『全日本プロレス中継』が「土8枠」(土曜20時枠)から土曜17:30枠移動したのに伴い、全国ネットで生中継されるプロレス中継は1985年9月まで本番組のみとなる。
- 初代タイガーマスクが登場した1981年に全日本プロレスとの外人引き抜き戦争が勃発し、初期から支えてきたタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンの2大外人選手を相次いで失うが、翌1982 - 1983年は古舘伊知郎の過激な実況(当時テレビ朝日アナウンサーだった古舘にとっては「出世作」となる)、ハルク・ホーガンなどのWWF(現:WWE)選手の登場、長州力らのプロレスアナーキーこと「維新軍団」の反乱、殆どが実況生中継という要因によって視聴率も20%超えの絶頂期を迎える。
- 新日本プロレスの海外遠征に帯同しての現地からの中継や各シリーズの最終中継日に次期シリーズ来日レスラーの紹介(BGMとしてジェフ・ベックの『スター・サイクル(Star Cycle)』が流れる)など、現在では見られなくなった企画もあった。後者は当時、現在とは違って日本人VS外国人という図式がメインで、シリーズ毎に目新しい外国人選手の出場が多かったため。日本人同士の抗争がメインになって以降は、登場する外国人も殆ど変わらず、対戦カードの変更こそあれ総体的な陣容に特に変化が無い、日本人同士の対決に重きを置いたため、行われていない。
- これから戦う選手名(つまり対戦カード)のテロップが表示されるのは、この頃にはすでに導入されている。ただし、1982年辺りの視聴率がピークの頃は、古舘の実況に合わせる様に選手が花道を入場してくる際に“燃える闘魂”“人間山脈”“超人”“世界の荒鷲””SUPERロデオマシン””激怒 アニマル浜口”などといったレスラーの別名(ニックネーム)のテロップが場を盛り上げていた。また前述の「次期シリーズ参加外国人選手」の予告にも同様に、古舘の実況の文言がテロップで矢継ぎ早に表示された(例:「マット上、戦況は混沌としております。内乱・テロ・リボリューションと様々な断面を見せながら、過激なプロレスを超えたシュールな戦い模様であります」「燎原の火、逆巻く次期ブラディファイトシリーズにどうぞご期待下さい」「○○(西暦)年の掉尾を飾りますMSGタッグリーグの参加チームを覗いて見ましょう」「新日猪木砦に黄色信号。維新決起の大坂夏の陣」「世界各地域を勝ち抜いてきた列強がひしめき合う第○回IWGPの出場選手の紹介です」)。同時に放映ネット局のロールも流れていた。
- 金曜→月曜時代は原則生中継であったが[9]、放送が途中で終了した場合は翌週に放送終了後の試合を最初に録画中継で放送するという便宜を図っていた他、当時の新日本プロレスは放送前日の木曜にシリーズ最終戦を組むことが多かったため[10]、シリーズ最終戦もしくは最終戦直前に大会場で行われた試合は2〜3週に分割した録画中継(1週目はメインイベント、2週目以降はセミファイナル以前の試合)となることが多かった他、1週目を丸々メインイベントに割く事もあった。また、テレビ朝日は金曜にプロ野球中継を基本的に編成しなかったため、プロ野球中継の有無で放送時間が左右されていたゴールデンタイム時代の『全日本プロレス中継』とは異なり、放送時間が当日時差ネットに変更されたり、休止となる事は殆どなかった[11][12]。
- 生中継を行っていたころは、それが故のトラブルもあった。1982年3月26日に広島県立体育館で行われた「第5回MSGシリーズ」第21戦の生中継では、セミファイナルの藤波辰巳VSキラー・カーン戦が30分引き分けに終わったために放送尺がなくなり、メインイベントの猪木VSアンドレ・ザ・ジャイアント戦では、放送終了前にアンドレが勝利したことに不満を持った観客がリングに乱入するという騒ぎとなった[13]。
- 1983年以後、リングサイドの横断幕も、それまでの協賛スポンサー(開始当初はライオングループ、龍角散、カンロ飴→のちにライオングループ、佐藤製薬、陶陶酒→小松製作所(コマツ)・小松フォークリフト→三協アルミニウムなど)の広告だったのが、「10(ロゴ) ワールドプロレスリング」の番組ロゴのものに変更された[14]。スポンサー付マットは現在は復活している。
- 1984年から1985年にかけては維新軍団やスーパー・ストロング・マシン、前田日明などの日本人選手の大量離脱が相次ぎ、さらに新日本プロレスとWWFとの業務提携が終了したためマッチメイクに変化が生じる。1985年3月には全日本プロレスの外人引き抜きの報復としてブルーザー・ブロディを引き抜いたが、この時期から新日本所属選手の大量離脱並びに離脱選手の全日本参戦、新日本とWWFとの提携終了、テレビ朝日全体の不振も相まって視聴率は1985年10月にゴールデンタイムに復帰した『全日本プロレス中継』よりも下回るようになっていく。WWFとの業務提携終了以降の外国人出場選手は、シリーズ毎に主に大剛鉄之助ルートやビル・ワットルートでブッキングした目新しい外国人選手(スティーブ・ウィリアムスやハクソー・ジム・ドゥガンなど)の出場が多くなって行く傾向が強まると同時に、前田などのUWF勢の参戦による日本人対決もあって徐々にではあるが持ち直した。
- アンドレの特例での出場契約が終了した直後の1986年9月19日・9月26日の2週に渡って放送された「チャレンジ・スピリット'86」福岡スポーツセンター大会(9月19日は生中継で当日のメインイベントは藤波vsブロディ、9月26日は録画中継)を以って日本プロレス中継時代から14年2か月間続いた「金8枠」における放送が終了し、同時に日本テレビが「金8枠」にプロレス中継が進出した1958年9月から続いてきた「金8枠」におけるプロレス中継も、28年の歴史に幕を下ろした。
- 1986年10月13日から「月8枠」(月曜20:00-20:54)に移動し、14年ぶりに「月8枠」で放送されることになった。「月8枠」への移動と同時に海外武者修行から帰国した武藤敬司を大々的に売り出すなどマッチメイク面でテコ入れを図るが、「月8枠」移動後は「金8枠」と異なり休止が頻発していた。
- 1987年4月6日の90分スペシャルを以って古舘が番組を卒業し、「月8枠」における放送が終了したと同時にレギュラー放送における生中継も終了した。
「ギブUPまで待てない!!」へリニューアル - ゴールデン撤退
- 翌日の4月7日、火曜日の20:00からの放送に移行。同時にテコ入れとしてバラエティの要素を加えた『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』として番組を新装。「プロレス+バラエティ=面白すぎるスポーツ番組の登場!」といったコンセプトのもとに、山田邦子をメインパーソナリティとしたスタジオ収録のバラエティを中心にそれに試合中継を挟み込む構成とした。これに伴い、試合は全て録画中継となり、製作もスポーツ局からバラエティ部署に変更された。また当初は、試合会場とスタジオとを二元中継の形で結ぶこともあった。しかし初回から試合中の良い場面で「驚く山田の顔がアップになる」などの的外れな演出に、プロレスファンが猛反発。前週まで10%台あった視聴率が5%以下に落ちたともいわれている[15][16]。このバラエティー部分は後にスタジオでの選手へのインタビュー中心に変わり、末期には消滅した。この番組の中期、山田が一時帰国中の馳浩にインタビューした際「(試合中の怪我による)血って簡単に止まるものなんですか?」と聞いたのに対し、馳が「止まる訳ないだろ、つまんないこと聞くなよ!」と山田に向かって憤慨したエピソードがある。
- 1987年10月5日からは再び月曜日の20:00に復帰、「ワールドプロレスリング」のタイトルが復活したうえ番組も元の試合中継のスタイルに戻る。前番組の名残りかこの時オープニングテーマとして使われたのは自局のスポーツテーマではなく、CHAGE and ASKAの『狂想曲 〜ラプソディ〜』だった。
- 1988年4月よりかつて『ビッグスポーツ』を放送していた土曜日の16:00 - 16:54に移行。タイトルも「'88 (エイティエイト) ワールドプロレスリング」と改められたと同時に、日曜22時30分枠へ移動した『全日本プロレス中継』共々ゴールデンタイムを外されたため、ゴールデンタイムで放送されるレギュラー放送のプロレス中継は消滅した。チーフプロデューサーに「川口浩探検隊」シリーズを手掛けたプロデューサーを迎え、田中信夫による同番組を彷彿とさせるナレーションを冒頭に入れるというスタイルを導入するが、1989年1月から3たび「ワールドプロレスリング」に戻る。この時間帯はゴルフ中継が頻繁に放送され、しかもそちらの方が優先されたことから毎週の放送ができずにファンからは不評だった[17]。同時にローカルセールス枠での放送となった。
- 1993年4月から土曜の深夜時間帯に移動しほぼ毎週放送されるようになった。1994年4月に『全日本プロレス中継』が30分に短縮されたのに伴い、それ以降は本番組が唯一の1時間枠で放送される全国ネットのプロレス中継となった。1996年1月、2000年4月の東京ドーム大会は即日に特番で放送。猪木が引退した1998年の東京ドーム大会では、後日特番でゴールデンで放送された。
- 2001年4月、大阪ドーム大会(4月9日)の特番に突如としてタレントの乙葉が「ワールドプロレスリングイメージガール(番組イメージキャラクター)」なる肩書で登場、以後、2002年までの約1年にわたりビッグマッチの度にゲスト解説を務めた。この起用の狙いを番組プロデューサーは「プロレスを知らない彼女が出来たとしたら、貴方はどのようにしてプロレスに興味を持たせるかという一種のシミュレーションと考えてくれればいい」と当時語っていた。実際、乙葉本人はプロレスに関して全く知らず勉強もしていなかったようで「三沢さんって強い人だったんですね、知りませんでした」などの爆弾発言で物議を醸した。同様に2003年、無名時代の安めぐみをイメージキャラクターに起用したが数回登場した後に番組の縮小もあり「イメージキャラクター」そのものが事実上立ち消えとなった。これは、安がタレントとして売れて多忙になったのも一因と考えられている。以後は番組イメージキャラクターの設定はない。
放送時間短縮 - 現在
- 2004年4月には、放送時間が30分に短縮されたと同時に、1時間枠で放送される全国ネットのプロレス中継は消滅した。放送時間短縮後は、ジュニアヘビー級の試合がタイトルマッチとリーグ戦以外ほとんど放送されなくなり、「金8枠」時代のシリーズ最終戦や、最末期の『全日本プロレス中継』→『プロレスリング・ノア中継』(日本テレビ系)、末期の『TWWAプロレス中継』(TBS系)同様に分割放送となった上で1試合かせいぜい2試合しか放送しなくなった。時を同じくしてBS朝日では全カードを中継する『ワールドプロレスリング 完全版』がスタート。2005年4月からは地上波未放送試合をカバーする目的で『闘魂スーパーバトル』と題した60分のレギュラー番組にリニューアルしたが、これも2008年に終了。2008年4月からはスカパー!のテレ朝チャンネル1(2013年3月までテレ朝チャンネル)で再び新作の『-完全版』が放送されている他、2012年4月に『-完全版』の放送を開始したテレ朝チャンネル2(2013年3月まで朝日ニュースター)では月1回生放送も実施しており、「ワールドプロレスリングLIVE」として2012年5月27日放送の「BEST OF THE SUPER Jr.ⅩⅨ」開幕戦を第1弾に生中継を再開した(放送は不定期)。
- この放送時間の短縮は、「年6回の特番を放送するという新日本プロレスとの条件付き」とされた。しかし、2013年現在では東京ドーム大会などのビッグマッチはおける特別編成での放送は新春スペシャルとして一部系列局で深夜に放送されているのが現状である。かつてはゴールデンタイムでの特番や日曜夕方の生放送特番を年数回行っていたが、2002年5月の放送を最後にプライムタイムでの特番は放送されていない。またかつてはG1 CLIMAXの決勝戦を日曜夕方にて放送していたが、こちらも2003年が最後となっている[18]。
- 2009年3月を以って『プロレスリング・ノア中継』が終了したため、同年4月以降は地上波において全国中継されるプロレス中継では本番組が唯一の番組となった[19]。このように、地上波でのプロレス中継自体が減少している現在、毎年3月頃になると絶えず打ち切りの噂が広まるが実際に打ち切られておらず噂の範囲内にとどまっている。
- 新日本プロレスの中継がメインだが近年はプロレス団体の門戸が開いたことに対応し、他団体に乗り込む新日本プロレス所属選手の戦いぶりを映像素材を借りて放送することも多くなった。特にプロレスリング・ノアやビッグマウス・ラウドといった団体の試合も登場する。
- 最近は放送される殆どの大会をHD(ハイビジョン)で収録している。同じ映像素材を使用するBS朝日の『闘魂スーパーバトル』は番組開始当初からHDでの放送であったが、「ワールドプロレスリング」は2007年9月まで4:3SDでの放送であった。同年10月からHDでの放送がスタート。
- 2006年、藤波辰爾主宰の無我ワールド・プロレスリングというプロレス団体が発足。同団体の設立に際し、同年3月に藤波の個人芸能事務所「シーホース・コーポレーション」社が「ワールドプロレスリング」の商標登録申請をした(しかし結果は拒絶査定となっている)。
- 2007年12月よりテレ朝チャンネルにおいて過去の当番組の映像を再放送する「ワールドプロレスリング クラシックス」の放送が開始されたことに伴い、同じテレ朝チャンネルで放送される他の番組でも過去映像の使用が解禁された。これに伴い「上田ちゃんネル」など一部の番組で、過去の試合を振り返る企画がスタートしている。これとは別でスカイ・エースポーツプラスでも「ワールドプロレスリング 不滅の闘魂伝説」を以前から放送している。
- 実況担当アナウンサーに対する因縁や襲撃が多く(例:1999年頃の、真鍋由アナウンサーと大仁田厚の因縁。2011年4月の、飯塚高史による野上慎平アナウンサーへの襲撃)、2012年には、その2件を中心にアナウンサー受難映像をまとめた「ワールドプロレスリング 実況アナウンサー2大受難史 〜飯塚vs野上 大仁田vs真鍋〜」というDVDが発売された。
- 2012年2月29日現在、テレビ朝日は新日本プロレスの10.0%の株式を所有している。
主な実況アナウンサー
現在
テレビ朝日
ANN系列局
過去
テレビ朝日
- 吉岡晋也
- 舟橋慶一
- 山崎正
- 銅谷志朗
- 石橋幸治
- 三浦智和
- 古舘伊知郎(詳細)
- 佐々木正洋(1979年4月 - 1980年3月)
- 保坂正紀
- 朝岡聡
- 藤井暁(1984年7月 - 1991年3月)
- 辻義就(現・辻よしなり)
- 田畑祐一(1991年4月 - 2000年3月)
- 真鍋由(1992年10月 - 2003年3月)
- 中丸徹
- 小松靖(2001年1月 - 2002年3月)
- 中村昭治
- 伊津野亮(レポーターとして参加。『'88〜』時代)
- 櫻井健介(2006年4月 - 2008年6月)
- 古澤琢(2001年10月 - 2012年6月[20])
- それ以外にも中川由美子(1983年4月3日)、雪野智世(1992年6月26日)など女性アナウンサーがレポーターとして参加した。
ANN系列局
主な解説者
現在
試合に出場しない選手をゲスト解説に迎えることがある。
過去
パーソナリティ、イメージキャラクター
ナレーター
- 堀秀行(『ギブUPまで待てない!!〜』時代)
- 屋良有作(同上)
- 玄田哲章(同上)
- 田中信夫(『'88〜』時代)
- 伊津野亮(同上)
- 中田譲治(2001年まで一部の生放送時、『ワールドプロレスリングアンソロジー』)
※深夜に移行後は、テレビ朝日のアナウンサーが担当する場合がある(過去に実況担当の田畑らが兼ねた例もあった)。
テーマ曲
オープニング
- ワールド・プロレス吹奏楽団『ワールドプロレスリングのテーマ』 ※行進曲風のもの。
- ANBオーケストラ『テレビ朝日スポーツ・テーマ』 ※モスクワオリンピック中継用に製作されたバージョン
上記2曲の演奏者は、共にレコードのクレジット上のもの。また上記のうち、下段の『テレビ朝日スポーツ・テーマ』は、完全な形でのソフト(音源)化が現在でも成されていない。
- 神津善行『テレビ朝日スポーツ・テーマ 朝日に栄光あれ』(1982年4月 - 1987年4月) - 本番組のオープニングで流したものは、他の競技の中継でのバージョンに若干アレンジを加えていた。
- 男闘呼組『夜を撃て』(1987年4月 - ?月)
- 久保田利伸『Olympicは火の車』(1987年?月 - 9月) - スタジオ収録中止に伴い男闘呼組が降板し、それに合わせてオープニング・エンディングも変更。同曲のインストゥルメンタル・バージョンを、エンディング後の提供読みのBGMに使用。その後1987年10月から、下記のとおりオープニング・エンディング共にテーマ曲が変更されたが、同上のインストゥルメンタル・バージョンは1987年10月以降もくの間、エンディング後の提供読みの際に引続き使用された。
- CHAGE and ASKA『狂想曲 〜ラプソディ〜』(1987年10月 - 1988年3月)
- エマーソン・レイク・アンド・パウエル『ザ・スコアー』(1989年1月 -今日に至るまで)[21]
- DAITA『Jet Black Soul』
エンディング
- 男闘呼組『Midnight Train』(1987年4月 - ?月)
- 久保田利伸『Missing』(1987年?月- 9月)
- ASKA『MY Mr.LONELY HEART』(1987年10月 - 1988年3月)
- MECO『MOONDANCER』(1988年4月 - 12月)
- DAH PROJECT『ターン・バック』(?年?月 - ?月)
- SIAM SHADE『GET OUT』
- 山嵐『ヤマアラシイズム』
- SEX MACHINEGUNS『世直しGOOD VIBRATION』
- UZI『Knock Out』
- 陰陽座『鳳翼天翔』
- 陰陽座『妖花忍法帖』
- NUMBER.42 『男達の道』(2012年1月-3月)
古舘伊知郎の功罪
ワールドプロレスリングで実況を担当したアナウンサーの多くは、テレビ朝日の中核をなすアナウンサーへと成長した。そのなかでも古舘伊知郎が実況を担当していた時期(レギュラーは1979年から1987年3月30日まで。その後、当時猪木の最後の試合になると噂された1988年8月8日の藤波vs猪木のIWGPヘビー級選手権、及び1998年4月4日の猪木引退試合を担当)は、新日本プロレスの隆盛と共に番組の視聴率も最高潮だった。プロレスを「闘いのワンダーランド」と形容するなど、豊富なボキャブラリーを総動員する手法で、数々の名実況を残した古舘はプロレス実況を卒業した後もフリーアナウンサーとしてF1中継の実況やバラエティ番組の司会として大活躍し、プロレス実況経験者アナウンサーしては最も成功した人物の一人になったと言える。
しかし、その影響はワールドプロレスリングの後任だけに留まらず各テレビ局(特に民放)のプロレス・格闘技中継の実況アナウンサー、ひいては他の一般的なスポーツ中継の実況アナウンサーにまで及び、常に古舘の実況と比較されるようになった。ワールドプロレスリングに関しては、視聴率の面で苦戦する要因となった。後任の辻義就や藤井暁は古舘と比べられることに悩み、古舘に直接相談したこともあったという。現在に於いても、プロレス・格闘技のみならず、他の一般的なスポーツ中継に於いてまで古舘のエピゴーネンとも呼べる(ある状況や選手個人に対しての過剰とも言えるキャッチフレーズや修飾語句などを連呼したり、場面を問わずに意味もなく絶叫するような)実況が散見され、そのことを批判したり揶揄したりする意見も多い。
ちなみに、1982年には局アナの立場でありながらタイガーマスクの応援歌として作られた『燃えろ!吠えろ!タイガーマスク』を歌っている。これはシングルレコード化されただけでなく、ボーカル入りのバージョンがそのまま、タイガーマスク自身の入場テーマ曲としても使われた。
ネット局と放送時間
現在のネット局
※2013年11月現在
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 放送曜日 および放送時間 |
放送日の遅れ |
---|---|---|---|---|
関東広域圏 | テレビ朝日(EX) | テレビ朝日系列 | 土曜 26:45 - 27:15 | 【制作局】 |
中京広域圏 | メ〜テレ(NBN)[22] | 土曜 26:50 - 27:20 | 5分遅れ | |
近畿広域圏 | 朝日放送(ABC) | 月曜 27:13 - 27:43[23] | 2日遅れ | |
鹿児島県 | 鹿児島放送(KKB) | 火曜 25:45 - 26:15 | 3日遅れ | |
岩手県 | 岩手朝日テレビ(IAT)[24] | 土曜 26:00 - 26:30 | 7日遅れ | |
福島県 | 福島放送(KFB) | |||
山口県 | 山口朝日放送(yab) | |||
新潟県 | 新潟テレビ21(UX) | 土曜 26:05 - 26:35 | ||
福岡県 | 九州朝日放送(KBC) | 土曜 27:47 - 28:17 | ||
長野県 | 長野朝日放送(abn) | 日曜 25:10 - 25:40 | 8日遅れ | |
香川県・岡山県 | 瀬戸内海放送(KSB) | 日曜 25:15 - 25:45 | ||
秋田県 | 秋田朝日放送(AAB) | 日曜 26:10 - 26:40 | ||
長崎県 | 長崎文化放送(NCC) | 月曜 25:51 - 26:21 | 9日遅れ | |
沖縄県 | 琉球朝日放送(QAB) | 水曜 25:45 - 26:15 | 11日遅れ | |
熊本県 | 熊本朝日放送(KAB) | 水曜 26:15 - 26:45 | ||
広島県 | 広島ホームテレビ(HOME) | 木曜 26:21 - 26:51 | 12日遅れ | |
大分県 | 大分朝日放送(OAB) | 土曜 26:30 - 27:00 | 14日遅れ | |
青森県 | 青森朝日放送(ABA) | 土曜 25:40 - 26:10 | 21日遅れ | |
北海道 | 北海道テレビ(HTB) | 土曜 26:00 - 26:30 | ||
宮城県 | 東日本放送(KHB) | 土曜 26:20 - 26:50 | ||
愛媛県 | 愛媛朝日テレビ(eat) | 日曜 26:23 - 26:53 | 22日遅れ | |
静岡県 | 静岡朝日テレビ(SATV) | 土曜 26:20 - 26:50 | 28日遅れ | |
石川県 | 北陸朝日放送(HAB) | 土曜 25:45 - 26:15 | 35日遅れ | |
山形県 | 山形テレビ(YTS) | 日曜 25:28 - 25:58 | 36日遅れ |
過去のネット局
※系列は現在の系列。また、テレビ朝日系新局開局やネットチェンジ、電波相互乗り入れに伴う終了は○、現在のネット局から一時期放映権移行を受けて放送していた局は●、放送当時テレビ朝日系列局や他系列とのクロスネット局だった局は△とそれぞれ表記した。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
青森県 | 青森テレビ | TBS系列 | 月曜のみ1972年9月まで同時ネット[25] | △ |
青森放送 | 日本テレビ系列 | 1991年9月まで | ○△ | |
岩手県 | テレビ岩手 | 打ち切り時期不詳[26] | △ | |
IBC岩手放送 | TBS系列 | 1983年から、1996年3月打ち切り[27] | ○ | |
宮城県 | 東北放送 | 1970年9月まで | ||
ミヤギテレビ | 日本テレビ系列 | 1975年9月まで | ○△ | |
秋田県 | 秋田放送 | 1986年9月まで、1987年4月から1992年9月まで | ○ | |
秋田テレビ | フジテレビ系列 | 1986年10月から1987年3月まで同時ネット | △ | |
山形県 | 山形放送 | 日本テレビ系列 | 1985年4月から1993年3月まで | ●△ |
福島県 | 福島中央テレビ | 1981年9月まで | ○△ | |
山梨県 | テレビ山梨 | TBS系列 | 1976年4月から1977年3月まで | |
山梨放送 | 日本テレビ系列 | 1977年9月から1978年7月までと1978年10月から1979年4月まで 1983年2月に再開したが1988年4月打ち切り |
||
新潟県 | 新潟総合テレビ | フジテレビ系列 | 1983年9月まで | ○△ |
長野県 | 長野放送 | 1980年9月まで | ○ | |
テレビ信州 | 日本テレビ系列 | 1980年10月から1991年3月まで | ○△ | |
静岡県 | 静岡放送 | TBS系列 | 1970年10月から1978年6月まで[28] | ○ |
富山県 | 北日本放送 | 日本テレビ系列 | 1969年10月開始、打ち切り時期不詳 | |
石川県 | 石川テレビ | フジテレビ系列 | 1972年1月開始、北陸朝日放送開局以前に途中打ち切り[29] | ○ |
福井県 | 福井放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
1970年開始、打ち切り時期不詳 | |
中京広域圏 | 中京テレビ | 日本テレビ系列 | 1969年10月から1973年3月まで[30] | ●△ |
近畿広域圏 | 毎日放送 | TBS系列 | 1975年3月まで | ○△ |
島根県・鳥取県 | 山陰中央テレビ | フジテレビ系列 | [31] | |
岡山県 | 岡山放送 | 1979年3月まで 電波相互乗り入れで瀬戸内海放送へ一本化[32] |
○△ | |
広島県 | 中国放送 | TBS系列 | 1969年から1970年11月まで | ○ |
山口県 | テレビ山口 | 1970年4月から1978年9月まで[25] | ○△ | |
山口放送 | 日本テレビ系列 | 1978年10月から1993年9月まで | ||
徳島県 | 四国放送 | |||
愛媛県 | テレビ愛媛 | フジテレビ系列 | ||
高知県 | テレビ高知 | TBS系列 | ||
高知放送 | 日本テレビ系列 | [33] | ||
長崎県 | 長崎放送 | TBS系列 | 1990年3月まで | ○ |
熊本県 | テレビくまもと | フジテレビ系列 | 1989年9月まで | ○△ |
大分県 | 大分放送 | TBS系列 | 大分朝日放送の開局以前に途中打ち切り | ○ |
宮崎県 | テレビ宮崎 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
[34] | |
鹿児島県 | 鹿児島テレビ | フジテレビ系列 | 1982年9月まで | ○△ |
沖縄県 | 沖縄テレビ | 1992年3月打ち切り |
ネット局に関する備考
- 地方大会の中継の場合、各ネット局が「制作協力」としてクレジットされる場合がある。
- 現在は新春特番として深夜帯に年1回程特別番組が組まれることがあるが、レギュラー枠と異なり、同時ネット放送もしくは最大でも8日遅れネットとなるため、編成上の都合で未ネットとなる局もある。
- スポーツ中継や機器メンテナンスなどにより、ネット局によっては遅れ幅が縮小・拡大する場合がある。
- 現在はANNフルネット24局のみでの放送となっており、福井放送・テレビ宮崎のクロスネット2局でもかつては放送されていたが、2局とも途中打ち切りとなっている。かつてはクロスネット局や他系列局でもネットしていた。クロスネット局や他系列局でも放送されていた頃は、ネット局によっては日本テレビ『日本プロレス中継』→『全日本プロレス中継』やTBS『TWWAプロレス中継』も放送していた局もあったため、1局のみでプロレス中継を行っていた地域もあった。
- 一方でANNフルネット局が所在しない地方大会の中継は現在は行っておらず、ANNフルネット局が所在しない地方大会の中継を行っていた頃はクロスネット局や日本テレビ系非マストバイ局で放送されていた地域で行われた大会の中継が中心で、TBS系列やフジテレビ系列局で放送されていた地域で行われた大会の中継は稀であった[9]。
- ゴールデンタイムで放送されていた当時は、ANNフルネット局でなおかつ同時ネット局が少なく(新日本時代の月曜20時台における同時ネット局はANNフルネット12局と当時フジテレビ系列とのクロスネット局だった秋田テレビの13局)、大半の地域は深夜帯など時差ネットでなおかつ録画放送で放送していた。
- なお1990年頃より、テレビ朝日系列においても他系列局(現在は他系列局ネット終了)同様に深夜帯など時差ネットに切り替えるようになった(例:1990年4月に、朝日放送と名古屋テレビが深夜帯に移動)。
一時期他局に移行していた地域
地域によっては、一時期他局へ放映権移行が行われ、ネットを開始した放送局に放映権が復帰した地域もあった(太字は一時期ネットした放送局、一時移行先の放送局の系列は当時の系列)。一時期放送していた局の内、山形放送と中京テレビの2局は本番組の中継協力に携わっていた他、『全日本プロレス中継』もネットしていた。
- 現在のネット局におけるケース
- 名古屋テレビ→中京テレビ→名古屋テレビ
- 山形テレビ→山形放送→山形テレビ
- 過去のネット局におけるケース
- 秋田放送→秋田テレビ→秋田放送
現在放送している関連番組
- ワールドプロレスリング完全版(テレ朝チャンネル1・2)
- 地上波ワールドプロレスリングの完全版として、主にPPV大会の全試合をノーカット放送する。
- ワールドプロレスリング クラシックス(テレ朝チャンネル1・2)
- 過去のワールドプロレスリングから名試合を厳選して放送。
- ワールドプロレスリングLIVE(テレ朝チャンネル2)
- 注目大会を生中継する。
- ワールドプロレスリング リターンズ(BS朝日)
- 毎週木曜日23:00-23:54に放送。地上波ワールドプロレスリングの1時間再編集版。おおむね数か月前の試合を放送。テレ朝チャンネル2でも再放送を行っている。
- ワールドプロレスリングNOTTV(NOTTV)
- 「ワールドプロレスリング完全版」を2時間に再編集して放送。
脚注
関連項目
- アメーバピグ - おでかけエリアの「テレビ朝日ランド」内にワールドプロレスリングを題材にした「プロレス広場」がある。
- 燃えろ!新日本プロレス - 集英社の分冊百科シリーズとして発行。ワールドプロレスリングのノーカット試合映像がDVDとして付属している。
外部リンク
- ワールドプロレスリング公式サイト
- ワールドプロレスリング完全版公式サイト
- ワールドプロレスリング クラシックス公式サイト
- ワールドプロレスリングLIVE公式サイト
- ワールドプロレスリング リターンズ公式サイト
- ワールドプロレスリングNOTTV公式サイト
- 俺たちのプロレスオフィシャルブログ「ワールドプロレスリング実況アナのブログ俺達のプロレス」
- DVDマガジン「燃えろ!新日本プロレス」公式サイト
- テンプレート:Twitter
テンプレート:前後番組 テンプレート:リダイレクトの所属カテゴリ
テンプレート:新日本プロレス- ↑ CS(衛星放送)の朝日ニュースター(2013年4月以降はテレ朝チャンネル2)では、『ワールドプロレスリングLIVE』として2012年5月から生中継を再開している(放送は不定期)。
- ↑ 日本テレビにおけるプロレス中継最長寿番組は『全日本プロレス中継』の27年9カ月。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 高木マニア堂東スポweb 2012年12月14日
- ↑ 東京スポーツ 2009年11月25付
- ↑ 東京スポーツ・2009年12月2日付 6面 『格斗半世紀』第83回
- ↑ 長谷川淳三社長はテレビ中継打ち切りと同時に興行活動を断念する意向を示したものの、大木ら選手会が選手会主催興行として興行を強行した。
- ↑ 国際プロレスも、1974年3月にTBSによる『TWWAプロレス中継』が打ち切られ、同年10月から東京12チャンネルに放映権が移行したものの、1981年3月ににおける試合中継(『国際プロレスアワー』)自体が打ち切られ、1981年8月に崩壊している。
- ↑ それまで新日本プロレスは、東京12チャンネルが特番扱いで、単発で録画中継していた。
- ↑ 9.0 9.1 当時の金曜日に行われる地方開催はANNフルネット局、他系列とのクロスネット局、日本テレビ系列非マストバイ局において放送されていた地域が多く、TBS系列やフジテレビ系列で放送されていた地域では金曜日に日程が組まれることは稀だった。極端な場合はANNフルネット局で行われた大会のみ金曜に日程が組まれることもあった。例として、「金8枠」終了直前のシリーズであった1986年の「バーニング・スピリット・イン・サマー」の地方開催における生中継の制作協力局は、名古屋テレビ(テレビ朝日系列)・テレビ信州(当時はテレビ朝日系列・日本テレビ系列)・秋田放送(日本テレビ系非マストバイ局)であった。
- ↑ 地方の小会場で最終戦が行われた場合は、例外で最終戦直前の都内や大阪・福岡などの大会場の試合を録画中継していた。
- ↑ 広島ホームテレビでは、時折本番組を深夜枠等での遅れネットとした上で広島東洋カープ戦中継を県域ローカルで放送することがあった。
- ↑ 例外として、1982年10月8日にプロ野球セ・リーグの優勝争いに関わる横浜大洋ホエールズ対読売ジャイアンツのナイター中継が組まれていたが、試合が雨天中止となったため、長州の造反劇を生放送で流すことができた。
- ↑ 田中ケロブログ「ケロぐ」2007年6月12日
- ↑ 日本プロレス中継の頃は、日本テレビの三菱ダイヤモンド・アワーの方式に同じく、メインイベントなどの前に行われた花束贈呈で、「試合に先立ちまして、(スポンサー社名)より、両選手・レフリーに花束の贈呈でございます…」と番組スポンサー協賛の読み上げが行われた。
- ↑ 「ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング」の第1回では、以下のような演出が行われた。
- クラッシャー・バンバン・ビガロ個人の、今でいう「煽りビデオ」を放映。ビル街のセットからビガロが顔を出して吼えるという、怪獣映画チックな作り。
- 試合前の猪木の控室に、レポーターとして笑福亭笑瓶が登場。一通りインタビューを行ったが、その後スタジオから山田が「今日ビガロにかける技を笑瓶さんにかけてください」と呼びかけ、猪木を唖然とさせる。
- 一方のビガロの控室では、藤井暁アナウンサーがビガロへのインタビューを試みたが、激高したビガロが、藤井のスーツの両袖部分を一気に引き裂き、さらに尻を蹴るという暴行を加えた。
- 前月(1987年3月)の試合で猪木との遺恨が出来たマサ斎藤が、突如スタジオに現われ、手錠を片手に猪木との再戦をアピール。「こんなんで試合出来るか!?」と言いつつ、なぎら健壱に手錠をかけてその場を去っていった。
- 会場での猪木の入場時に、花道はおろかエプロン下までスモークが焚かれる。
- ↑ 試合中継のパートの途中で、スタジオにいる山田邦子を始めとする出演者の表情が、(いわゆるワイプではなく)一瞬アップで断続的に挟み込まれる演出は、当時のプロレス雑誌の読者欄に「山田邦子のギブアップ顔は見たくない!」という投書が寄せられるほど不評だった。また『ギブUPまで-』の第2回では、試合中継パートが事前収録でありながら、メインイベントの試合中に「ここで放送時間がなくなってしまいました!」と突然途中でカットしてしまうという、本末転倒な演出が行われた。
- ↑ 土曜日の16:00 - 16:54という時間帯に移動したものの、移動から暫く後より、この時間帯を使って、不定期かつ単発という形でゴルフの各大会の中継が行われるようになり、さらにそれが度重なる状況になったため、その割を食う形で当番組が不規則な形で休止される機会が多くなった。当時の「週刊プロレス」誌には、読者コーナー「あぶない木曜日」にて、ゴルフ中継を渋い顔で見ているファンの絵に「鬼のテレ朝!冷血な10チャン!」という一文が添えられた投書が大きく取り上げられたり、また、やはり不規則な休止に不満を持っていたという、当時のリングアナウンサー・田中秀和が、地方大会のMCで「この次の土曜日は…ゴルフを見ていただきます」と口にしたという話が伝えられていた。
- ↑ 前述の年6回の特番に関しては番組解説者でもある安田拡了が発言したものであるが縮小以後はせいぜい年1回特番を放送する程であり、安田の創作である可能性も指摘されている。
- ↑ 「プロレスリング・ノア中継」の終了に伴い、ANNフルネット局がない地域では地上波の全国ネットのプロレス中継が視聴できなくなってしまった。
- ↑ 実際には、2012年7月1日に行われた『全日本プロレス&新日本プロレス創立40周年記念興行』での実況が最後の出演である。
- ↑ 大会の開場時にも使用されている。
- ↑ 22.0 22.1 番組開始(1969年7月) - 1969年10月初旬は、メ〜テレにて数日遅れのネットで放送されていた(土曜 22:30 - 23:30、同年7月12日 - 10月4日)。1969年10月8日から、中京テレビにてキー局と同時ネット。
- ↑ 2011年3月以前は日曜深夜に放送されていたが、編成の都合で放送時間が不定期に近かった。
- ↑ 2012年5月5日 - 8月11日まで『日食なつこのコトテン』が放送されたため、5分繰り下がった。
- ↑ 25.0 25.1 青森テレビ・テレビ山口開局後も「ナショナル劇場」(『水戸黄門』他)のネット受けが青森テレビのANN脱退・JNN正式加盟、テレビ山口のANN脱退まで青森放送・山口放送で継続されたため、青森テレビは月曜20時台の時代は同時ネットで、テレビ山口は金曜20時台の時代は3日遅れの月曜日20:00枠でそれぞれ放送された。
- ↑ 1970年代末期まではネット局に名前を確認できる。後年のIBCでのネット開始までは、岩手は当番組について長らく空白地区となった。
- ↑ 当初はテレビ岩手で放送されていたが、テレビ岩手のテレビ朝日系列脱退に伴う途中打ち切り後は放送空白期間となった。IBC岩手放送が1983年から深夜で時差ネット再開したが、岩手朝日テレビへのテレビ朝日系番組の移行準備のため、IBC岩手放送が放送していた他のテレビ朝日系番組と同様に1996年3月に途中打ち切り。
- ↑ これに先駆けて静岡放送では、1970年8月29日(土)15:00 - 15:56に「特別番組 『日本プロレス サマー・ビッグ・シリーズ』」が放映されている。同年8月24日(月)に静岡県・焼津スケートセンターで行われた大会より、アントニオ猪木、星野勘太郎組vsアブドーラ・ザ・ブッチャー、プリンス・ピューリン組及び、坂口征二vsカール・ハイジンガーを録画にて放送したもの。これはキー局において、同年8月24日(月)に生中継という形で放送された、当番組と同じ内容である(当時の新聞のテレビ番組表では、猪木のパートナーは大木金太郎となっているが、実際には星野とのタッグで出場した)。なお、土曜15:00 - 15:56という時間帯は、そのまま同年10月から、同局での当番組の枠として使用された。
- ↑ 石川テレビは、新日本プロレスの中継に移行した頃から時差ネットを行っていた。なお北陸放送は、石川テレビの打ち切りでネットの空白期間があった際、金沢市での試合の中継についてのみ、単発で放映した経験あり(当時の週刊プロレスに、そうした内容の情報が掲載)。
- ↑ 1969年7月 - 10月の名古屋テレビでは土曜22:30から。7月12日に開始、10月4日に終了。中京テレビでの開始は10月8日から。
- ↑ 一時期多かったテレビ朝日系列外のネット局のなかで、一番遅くに番組を打ち切った(=最後まで残った系列外のネット局だった)←2004年10月2日(土)深夜放映の「新三銃士・中邑vs柴田」を最後に、同局の番組表からは確認できないが、なぜか(終)マークは付いていなかった。
- ↑ 1979年3月までの放送エリアは岡山県のみ。
- ↑ RKCは1980年代中期に一時期、ネット局として名を連ねた。
- ↑ 日曜10:05 - 11:00